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----------2004年12月02日(木) 幸福なニーチェ
「従って<永遠回帰>を、<同一なもの>の回帰とすることは、どうしても避けねばならない。そんなことをすれば、価値転換の形態を誤認することになろうし、根本的な関係のうちに生じた変化を見誤ることになるだろう。なぜなら<同一なもの>は種々異なるもの以前にあらかじめ存在することはないからである(ニヒリズムのカテゴリーにおいては、そういうことがありうるのだが)。<同一なもの>が回帰するのではない。というのも回帰することとは、<同一なもの>の、すなわちもっぱら種々異なるもの、多数性、生成することについてのみそう言われる<同一なもの>のオリジナルな形態なのであるから。」(ジル・ドゥルーズ「ニーチェ」/ちくま学芸文庫)
幸福なニーチェ。円環は閉じられていない。生成。ドゥルーズの手にかかると何もかもが生成する。けれども私の円環はベルグソンの高笑いをはるか遠くに聞きながら閉塞し続ける。<同一なもの>が帰ってくる、<同一なところ>へ帰っていく、そうして<同一なこと>がまたはじまる、乾燥した空気、パソコンの羽音、無愛想な電話の声、不備だらけの書類、何も変わらない、変わっていない。
電波という糸で人々を縛りつけるためだけに。私たちは世界に網の目を張り巡らせる蜘蛛に似ている、紡錘機がパソコンに変わっただけのこと、いつまでも永遠に、何も生成することなくただ糸だけを紡ぎ続けるアリアドネ。
こうして世界はますます息苦しくなる。
だからケイタイはニヒリズムのカテゴリーに分類される。
ドゥルーズが窓から死体を投げ捨てたばっかりに。
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