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2005年09月23日(金)
祝日です。
厳密に言えばこの日記を書いている今現在、なぜ自分がほったらかしにされていたか、もう思い出せません。 しかし家に居たので、「義経」の溜め撮りを見ていました。
滝沢義経はどこまでも真っ直ぐな好漢義経のキャラで道理をおもんばかり、衆道者にさえ見えてしまうこれまた融通の利かない弁慶とともに、思惑ばかりの頼朝とどんどん溝を深めていきます。
愚直と言えば聞こえがいいが、ちょっと足りないんじゃないのかと思う真っ直ぐぶり。
兄が政治手腕のもうひとつの側面、取り入る部分に重きを置いて与えている試練に、真っ直ぐに愛情と履き違えて兄の憎悪を掻き立てているその姿が、自分に被って堪らなかったつばさでした。 脚本家だって傍で見てた訳ではないので、台詞ひとつ想像ですが、義経の人徳に恐れをなした北条正子が、それでも心を閉じた我が子可愛さに招聘するのを、実直に袖にする姿を見ていたらバカにしか見えない訳で。
いかに悲劇の人九郎とて、あの時代あんなにバカではないと思われる。
官位を返さないのも、兄の軍門に全面的に下りたくなかったのではないかと思うし、命を狙われても元服したあの時から、自分が宗家だと自負していたのではないかと思うし、掛川を越えなかったのも、あんなにお人よしで信じていたのではなく、何でおめーに頭下げにいかにゃならんのよと思っていたとしか思えない。 腰越の泣き落としだって自分の不遜を兄弟の情に摩り替えて安泰なポジションを取ろうとしたようにも思える。 奇襲を得意にするような武将が、本当にあんな怖い兄貴を無防備に慕っていたとは思えない。
でも、もしドラマの通りに裏目裏目に出てしまったなら、すっげー仲間みたいに見える。 己のバカを再現されているようで意味も無く辛かった。
おいら、うちの頼朝殿にはいつまでも理解してもらえないような気がするもんなあ。
あー、やだやだ。 ドラマはフィクションとは言え、義経の犬死まで話は進む訳で。
あー、やだやだ。
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