チフネの日記
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2012年08月09日(木) lost 悲劇編 42.越前リョーマ/跡部景吾

中傷メールを送ったのが忍足だと聞いても、怒りは生まれなかった。
むしろ自分はそんなに嫌われるような人間なのかと、気付かされただけだ。
ここにいるだけで、誰かを不快な気分にさせてしまう。
やっぱり日本に留まっているべきではない。早くアメリカに行った方がいいと強く思った。

「いいのかよ。忍足に文句の一つでも言ってやるべきだったんじゃねえのか」
跡部の言葉に、リョーマは顔を上げた。
そして軽く首を横に振った。

「別に、いい。
元々気にもしてなかった。誰が噂をばら撒いているかなんて、関係ないし」
「お前な……」
答えが気に入らないのか、跡部が舌打ちをする。
「そんなんでいいのかよ。あの噂のせいで知らない連中からも絡まれたり罵られたりしたんだぞ!」
「だから気にしてないtt」
「どうしたそんな平然としていられるんだ。
本当ならお前はそんな風に扱われていい奴じゃない。
追い越そうとしてくる連中を蹴散らして、だけど引っ張っていくような中心にいるべき存在なのに。
それが本来いるべき所だろうが!」
「何、言ってんの」

力なくリョーマは笑った。
跡部は今の自分の何を知っているのか。
無力でボール一つまともに打つことも出来ない。それが中心にいるべきだって?
笑ってしまう。

「俺はもうあんたの知ってる越前リョーマじゃない。
いるべき場所だなんて言われても困るっす」
「越前」
「話は終わったんでしょ。忍足さんのことは誰にも言うつもりはないから、安心していいよ。
俺の所為で揉め事なんて起こして欲しくない。
跡部さんが許すと言ったら、忍足さんはテニス部に戻るかもしれない。氷帝の為にもそうするべきだよ」
「越前!」

歩き出そうとしたリョーマの肩を、跡部がぐっと引き止めに掛かって来る。
振り解こうとしたその時、ぎゅっと後ろから抱き締められてしまう。

「……放してくれない?」
久し振りの抱擁に、カッと頬が赤くなるのがわかった。
記憶を取り戻してからどんなに跡部の腕の中に帰りたかったか。ずっとこうして欲しかった。
好きだって言ってくれたら不安も何もなく、たとえテニスが上手く出来なくても落ち込むことは無かっただろう。
跡部の側に居てくれたら、それだけ叶ったなら、どんなに中傷されても今もこの地で頑張っていこうと考えていたはずだ。

(だけど、もう)
リョーマは拘束している腕を渾身の力を込めて払った。

「跡部さん、もう止めよう」
跡部には別の人がいる。
こんなの裏切りでしかない。
流される前に離れるべきだ。しかし跡部はもう一度抱きついて来た。
「俺が悪いんだ!」
「……?」
「こんなことになったのも俺の所為だ。
記憶が戻ると信じていられなくて馬鹿やったから、お前を不幸にした。
悪いのは俺の方だ」
「何言ってんの?だって俺があんたを捨てたって」
たしかに跡部はそう言っていた。
記憶を失くした自分は男と付き合っていたことを認められずに、酷い形で跡部を傷付けたと。

「違うんだ。全部、嘘だっ」
泣きそうな声で跡部は言う。
リョーマの髪に顔を埋めて、懺悔のように過去のことを語り始める。
「お前に拒絶されてそれでも諦めることが出来なくて、待っていると決めていたのに……。
テニスなんてどうでもいいようなことを言われた所為で、頭に血が昇った。
俺にとってお前のテニスは特別なものだった。それまでの価値観をぶっ壊された、お前が俺の何かを変えたんだ。
だから辞めるなんて許せないって、嫌がるお前を無理矢理押さえつけて支配しようとしたんだ」

後の方は言葉にならなかった。
泣き声のような懺悔に、二年前の真実を知ってもリョーマは跡部が今も苦しんでいることを知った。

(やっぱり、全部俺の所為だ)
誰がなんと言おうと記憶喪失になるような失態を犯したのは自分だ。
その所為で跡部をや香澄を傷付け、テニス部にも迷惑を掛けた。
これ以上苦しめる人を増やしたくない。
だから今出来ることをしようと、跡部の腕からそっと抜け出す。

「謝らなくてもいいっすよ。俺もあんたを傷つけた。
お互い様、でしょ?」
「けど俺はジローに嘘をついてた。本当のことを伏せていた。
だからお前が色々言われるようになったんだ」
「いいから。過ぎたことはもう気にしていないっす。
もう俺なんかの為に苦しまないで欲しい。未来のことだけ考えていればいい」
「未来って、どういうことだ。俺はまだお前のことを」
「跡部さん」

それ以上言わせないように、リョーマは少し大きな声を出した。

「もう忘れよう。終わったことなんだから。
俺達は二年前に別れててる。そうっすよね?」
「お前は、どうしてそんな風に言うんだ」

諦めきれないというように、跡部は距離を詰めて来る。

「お前だって本当はまだ俺のこと好きなんだろ!
だからそんな風に言って身を引こうとしている。そのくらい、気付かないとでも思っているのか!?
わかっているのに、このまま離れるなんて出来るかよ!」
「跡部さんには、……待っている人がいるでしょ」

突き放すように言うと、さすがに跡部は口を閉じた。
「もうこれ以上、不幸になる人を増やしたくない。
だから、跡部さんはその人の所に帰って欲しい。
それが誰が見ても正しい道だと思うから」

反対されることも後ろ指差されることもなく祝福される相手がいるのなら、
そちらを選ぶべきだ。

リョーマは跡部に背を向ける。今度こそ、決別する為に。
「越前!」
名前を呼ばれても、振り返ったりはしない。
しかし跡部は尚も語りかけて来る。
「忘れられるのか?俺は結局忘れることなんて出来なかった。
あれから雨が降る度に虹を探してた!見付けたらお前に教えて、一緒に見たい。今だってそう思っている。
これから先だって!
その約束すら忘れるのか?」

問い掛けに答えず、リョーマは足を踏み出す。
振り向いたらいけない。ぐっと堪えて、そのまま歩く。

(約束、覚えていたんだ)

とっくに忘れられていると思っていた。
虹を見つけたら、一緒に見ようって約束してた。その場に一緒にいないのなら、駆けつけても二人で見ようと。出来るかどうかわからない約束だった。
記憶を取り戻してから一度も虹は見ていないけど、もし見付けたらきっと一番に跡部のことを思い浮かべていただろう。
自分だけが覚えていたんじゃないとわかって、嬉しくなる。

(もう、十分だ)
だからリョーマは嘘をつくことにした。
約束を覚えてくれた。それだけで幸せだと思ったから。
他の人の幸せを祈る為に、嘘をつく。

「忘れたよ、そんな約束」
最後まで顔を見ることなく、早足で跡部から離れた。












小さくなって行く背中を引き止めることは出来ない。
リョーマは嘘が下手だ。忘れたなんて出任せだとすぐに気付いた。
顔を見られたらばれてしまうからずっと背を向けていたのがいい証拠だ。
無理矢理にでも肩を掴んでこちらを向かせたら、もしかしたら観念して自分の気持ちを認めたかもしれない。
しかし跡部はそうしなかった。

『これ以上、不幸になる人を増やしたくない』

あれはリョーマの本心だった。
もしここで跡部がリョーマを選び共にいたいと行動したら、それはあかりを捨てることを意味する。
彼女は何も悪くない。
親が引き合わせた相手とはいえ、自分を好いてくれている。
これはあかりに対する裏切りだ。
リョーマはそれをわかっていた。
だからこそ跡部の気持ちを決して受け入れようとはしなかった。
無理に引き止めても、拒まれるだけだ。
あかりが泣くくらいなら、本心を殺す道を選んだのだ。

(それがお前の望みなんだな)
わかったと、跡部は力無く呟く。
もうこれ以上彼にしてやれることはない。関わることも許されない。
あかりをの不幸にしないでやってくれ。リョーマがそう望むのなら、自分はそうするまでだ。

(帰るか、俺も)

望んでいない日常へ。
リョーマのように一番の願いを押し殺して生きていく。
それが罰なのだと自分に言い聞かせる。
リョーマとは反対方向に歩き出し、フェンスの角を回ろうとした所で人影に気付く。
じっと立ち尽くしているので何だろうと目を見張ると、「景吾さん」と呼ばれた。

「あかり?」

そんなはず、彼女がここにいるわけがない。だってまだこちらから連絡をしていない。
大会で忙しい、ひと段落ついたら会おうと約束し、あかりはそれを守っているものだろうと思っていた。
だけどそこに立っているのは紛れもなくあかりだった。
いつからそこに立っていたのかはわからない。
汗で張り付いた前髪を気にすることなく、少しうつろな目でこちらを見ている。

「景吾さん。用事は終わりました?」
「あ、ああ。けどなんでここに」
「すみません。どうしても景吾さんに会いたくて、急でしたけど家へ寄ってしまいました。
今日はこちらに来られていると聞いて、少しでも会えたらと思って、それで……」

あかりは俯いた。小さな肩が震えている。
大勢の観客がいる中、必死で自分を探していたのだろう。
会いたい、それだけの為に。決して楽な作業じゃなかったはずだ。
でもあかりは諦めることなく、探し当てた。
見付けた時、不穏な空気を察して出て行くことすら出来なかったのだろう。
用が終わったら、声を掛けようと後をつけて来たのかもしれない。
そのまま帰っていたら、知らずに済んだのに。
跡部の本心を知ることもなく、あかりは幸せなままでいられたはずだ。

「すまない、俺は……」
あかりに知られた今、取り繕うものなどないと跡部は思った。
誤魔化した所で、余計傷付けるだけだ。
ここで終わりにしたほうが彼女の為にもなる。

だがあかりは顔を上げて、跡部の言葉を遮った。

「何も謝ることなんてありません。勝手について来た私が悪いんです」
「あかり……」
「もう用事は終わったのでしょう?私と一緒に帰りましょう」

一歩踏み出して、あかりは跡部のシャツをぎゅっと握り締めてきた。
先ほどのリョーマとのやり取りを見ていたはずだ。
心がリョーマに向いていると知った上で、何もなかったことにするのか。

「帰りましょう、景吾さん」

離さないとばかりにきつく握り締めるあかりの手を見て、何も答えることが出来なかった。
返事が無いのにも関わらず、あかりはシャツを引っ張ったまま歩き出そうとする。

まるで別方向へ行こうとした跡部を引き戻すかのようだ。
実際、そうしようとしたのだから何も言えない。

ジローの言う通りだった。
あかりに間違いは何も無いと胸を張って言えるわけがなかった。
気持ちはずっとリョーマに向かっている。多分、これからも。
わかっていたのにリョーマに近付いた。側にいたかった。

「今度、私の家へ遊びに来てくださいね。父も景吾さんが来ると知ったら、喜びます」

笑っているが、目はうつろなままだ。
そんなあかりに、目を逸らしたまま頷く。
何も無かったというようにあかりが振舞うのなら、付き合うしかない。
これ以上追い詰めたら、どうなるかわからない。そんな空気を感じ取った。

(俺の、所為だ)

彼女の笑顔を奪った、その罪を償っていかなければならない。

シャツを掴んでいた手が移動して、跡部の手を痛いくらい握ってくる。
この先も絶対に離さない、というあかりの決意を思い知らされた。


チフネ