チフネの日記
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2012年04月07日(土) |
lost 悲劇編 31.跡部景吾 |
朝から浮かない顔をしている跡部の元へ、ジローが「おはよう」と挨拶しながら寄って来た。
「訊くまでも無いと思うけど、昨日も駄目だったんだね」 「わかっているなら、言うな。返事するのも面倒くせえ」 溜息交じりでそう言うと、「本当にいつになったら思い出してくれるのかなあ」とジローは寂しそうな声を出した。
リョーマが記憶を失って、悲しんでいるのは跡部だけじゃない。 家族は勿論、青学の部員達や、関わって来た人々はどうしてという思いを抱いている。 ジローもその内の一人だ。 跡部とリョーマが付き合い始めたことを知った時、「俺にも紹介してー!」と真っ先に言い出した。 試合を見て、才能に驚き、そしてファンになったと屈託の無い笑顔でリョーマに懐いた。 馴れ馴れしい態度に気を悪くするんじゃないかと跡部はハラハラしたが、 意外ににもリョーマは飛びついて来たジローに苦笑しつつも、されるがままになっていた。 「菊丸先輩もこんな風にくっ付いてくるし、だからこの人のこともそこまで気にならないよ」 菊丸にいつも触れさせているのかとムカついたが、狭量なところを見せるのは格好悪いと思い黙っていた。 それからちょくちょくジローは「リョーマに会わせて」とデートにも引っ付いて来るようになり、 三人でテニスしたり食事をしたりするようになった。 多分、氷帝のメンバーの中でリョーマと一番親しくしていたのはジローだろう。 他の部員とも何度かテニスをしたが、跡部が焼きもちを焼くくらい二人の距離は近かった。 最も無邪気に纏わり付いて来るジローを、リョーマが上手く相手しているという図だったから、ライバルになるとかそういう心配はしていなかった。
記憶喪失になったと聞いて、ジローもリョーマの所へ直ぐに向かった。 「どうして忘れちゃったの」と涙を零すジローに、流石にリョーマも困った顔をしていた。 しかし時間が経過するにつれて、「忘れたもんはしょうがないでしょ」と頑な態度に変化していった。 そんなリョーマにジローはショックを受けて、それから訪問を控えるようになった。 誰かから邪険にされることに慣れていない分、辛かったのだろう。 跡部もそれ以降、無理に会わせようとはしなかった。
「いつかは思い出すだろ」 自分に言い聞かせるように言った跡部に、「でも、もしもだよ?」とジローは俯いたまま問い掛けを口にする。 「もしも、ずっとこのまま思い出さなかったら?跡部はどうするの。 今の跡部、見ていて辛そうだよ。俺、心配なんだ」
本気でそう言ってくれているのはわかる。 リョーマとも友達だったが、ジローはこの二年以上遅刻したり寝こけていた自分の面倒を見てくれた跡部を特別な存在だと思っている。 大切な友人だと認めてくれているジローに心配を掛けている。 それ程までに今の自分は酷い顔をしているのだろうか?
精一杯の虚勢を張って、「その時はまた俺様に惚れさせてみせる」と答える。 「俺様くらいのいい男に、あいつが靡かねえはずないだろ。 失った時間は取り戻せねえが、やり直しは出来る。もう一度最初から始めるのも、悪くない」 「そっか。そうだよね!」
跡部なら大丈夫!と笑うジローの脇を、跡部は当たり前だと肘で軽く小突く。
そうは言ったけど、本当は自信なんてない。 もう一度好きになってもらえる保証なんてどこにもない。 人の心を思い通りに動かすなんて、そんなこと出来ないからだ。
『じゃあ、俺の誕生日にはリクエストしたもの全部持って来てもらおうかな。 イヴの日に俺を独り占めしたいんでしょ?その位やって当然だよね』
生意気そうに笑うリョーマに、その位お安い御用だと返事した。 リョーマの誕生日を一緒に祝えるのなら、なんだって叶えてやりたいと思った。 それはまだ付き合い始めて間もない頃の会話だった。 誕生日はいつなのか聞いて、そして直ぐに予約を入れた、幸せだった頃の会話だ。 覚えているのは、跡部だけだ。 それでも特別な日を他の人と過ごして欲しくなくて、 「24日は一緒にいてくれないか」と口にした。
「24日?今月の?」」 「そうだ」
季節は冬になっていた。 12月に入っても、リョーマの記憶は戻らないままだった。 本人はもうこのままでいることを望み、学校にも普通に通っている。 以前と違うのもテニス部に所属していないということだ。 ど素人の自分がいても迷惑になるからというのが表向きの理由だったが、 今のリョーマはテニスをすることを苦痛に思っている。 周囲の期待に応えられない、失望ばかりさせている。それが嫌でテニスから逃げている。 もうラケットを握りたくないと訴えて来たんだと南次郎からも、そう聞いている。 跡部はそれでもまだ受け入れることが出来ずに、越前家に通っていた。 しかし会えない日の方が今は多くなっていた。 跡部を避けるようにして、リョーマの帰宅は毎日遅くなっている。 会っている相手は千石と、その友人達というのも知っていた。 ゲームやカラオケ、ボーリング等、千石はリョーマの気晴らしに付き合っている。 たまに女の子もナンパするんだよと聞かされた時はさすがに頭に血が昇って千石の胸倉を掴んでしまった。 しかし千石は「だってリョーマがしたいって言ったんだよ?俺ばっかり女の子と遊ぶのは不公平だって。だから声掛けただけなのに、何が悪いの。 あ、だけど面倒に巻き込まれないかどうか、ちゃんと見張っているよ。本当だって」と説明をした。
リョーマが女の子をナンパしたいと言った? デタラメぬかすなと怒鳴ったが、千石は平然としていた。 それが真実だというように、そしていつまで目を背けているんだという顔をしていた。 リョーマは変わっている。記憶を失くす前とは別人だと、跡部だけが認められないでいる。
だけど24日だけは千石じゃなく自分と一緒に過ごして欲しい。 そんな思いで誘いを口にした跡部に、「無理。予定入っているから」とリョーマはあっさり断った。 そしてまた携帯を取り出し、操作を始める。 帰れという無言の拒否の態度だ。
二人しか居ない家で、携帯のボタンを打つ音だけが聞こえる。 今日は南次郎も従姉も不在だ。 母親はいつものように仕事で帰って来るのは遅いと知っている。 たまたま千石がデートとかで、予定が合わなかったのだろう。 家に居たリョーマは跡部の訪問にまたかという顔はしたけど、 心配して様子を見に来ているのは知っているので、追い返すことはしないで部屋に通してくれた。 いつものリョーマの自室内で、向き合う形で座ってはいるが、会話はそれだけで終了してしまった。
リョーマの方ではこのまま跡部が帰ることを望んでいるのだろう。 だが跡部は引き下がらず「誰かと約束でもしているのか?」と食い下がった。 「まあ、そんなところ」 携帯を打ちながら、リョーマが答える。
付き合っていた頃も愛想などなく、会話が続かないこともしばしばあった。 だけどこんなあからさまに跡部を空気のように扱うことは一度も無かった。 最後に顔を見合わせて話をしたのはいつだっただろうと考える。 もう思い出せない。 笑顔だって忘れてしまった。
「千石と約束しているのか?あいつの仲間と一緒に過ごすのかよ」 リョーマと約束をする相手となると千石くらいしか思いつかない。 推測が当たったとしても、奴と二人きりということは考えにくい。千石ならそういうイベントは女子も何人か呼んで過ごすことになるだろう。 そんな連中よりも、自分の方を優先して欲しい。 忘れてしまっているとはいえ、先に約束したのはこっちだ。 じっとリョーマの横顔を見詰めると、 「何?俺が誰と約束しようが勝手でしょ」と言われる。
「あんたも別の相手を見付けたら?本当はもうわかっているんでしょ」 「何の話だ」 「俺の記憶はもう戻らないってこと。 そしてあんたと前の関係に戻ることもない。だって無理だよ。好きになれない。 以前の俺がどんなだったか、これっぽっちも覚えていないし、俺は普通に女の子が好きだよ」
リョーマの言葉が矢のように心に刺さり、傷付いていく。 認めまいとして、ずっと目を逸らし続けていた。 このままリョーマの元に通っても、何も変わらない、記憶は戻らない。好きになってもらうこともない。 わかっていたけど、本人から突きつけられるとかなり堪えるものがある。
「あんたならすぐに他にいい人見付けられるよ。噂で聞いたけど、かなりもてるんだって? いつまでも俺になんかに縛られていないで、別の人を」 「やめろ」 「え」 「代わりを見付けろなんて言うな。 俺にとってお前は、越前リョーマは、掛け替えの無い人だった。 他になんて目を向けられるわけないだろ!」
リョーマの手から携帯を叩き落し、ぎゅっと両手で握り締める。 他なんて考えられない位、リョーマのことが好きだった。 生意気で、口が悪くて、言うことなんて聞かなくて。 だけど決して諦めない強さを持っていて、懸命に強敵に立ち向かい、最後には必ず勝利を掴んでいた。 恐れ知らずで大胆な行動も、全部好きだった。 リョーマといると、自分はもっと成長していける気がしていた。 いつかは家を継がなければいけない、テニスを諦める日が来ると半ば受け入れた気持ちに、風穴を開けてくれた。 テニスを諦めることなんてない。困難が待ってても、望む道を歩んで行けばいい。 リョーマなら絶対に諦めないはずだ。 そんな風に自分の心を変えた人を、どうして忘れることが出来るのだろう。
しかし目の前にいるリョーマは、以前とは違っていた。
「悪いけど、俺達はもう会わない方がいいと思う。 今まで心配してここに通ってくれたことを考えると、ハッキリ言えなかったけど……。 俺はあんたが好きだった越前リョーマじゃないよ。もう、別の道を歩んでいるんだ。 テニスだって、もう二度とすることはない。 ラケットを持っても何も出来ないし、やりたいとも思わない」
その瞬間、跡部の中で何かが切れた。
「何して…!?」 リョーマの声が聞こえたが、構わず床に小さな体を押し倒す。 暴れる前に両手を封じ込め、足の間に体を割り込ませる。
「今言ったのは、嘘だよな?お前がテニスをやめるなんてあり得ないだろ。 俺を負かしておいて、勝ち逃げかよ。お前はそんな奴じゃない。 何度だって挑んでみろ、また負かしてやるって笑うはずだ。そうだろ。なあ、リョーマ」
やめろとか放せとか叫ぶリョーマを無視して、シャツを引き裂く。 こんなに抵抗するなんて、やっぱりこいつは偽物だ。 本物なら少し困った顔をしても、跡部を受け入れてくれる。 好きだと言うと、恥かしそうに目元を赤くする。 俺が知っているリョーマなら、そうして抱き締め返してくるはずだ。 じゃあ、ここにいるこいつは誰だ? リョーマの顔をした別人なのか。 だったら本物が戻ってくるように、いつもしていることをして思い出させてやるべきだろう。
付き合っている時に、リョーマに無体を働いたことは一度だって無かった。 嫌われたくない。傷付けたくない。 だからいつも一つ一つ確認しながら触れていた。嫌だと言ったら、すぐに手を引っ込めるつもりだった。 あまりに慎重な手つきに「女の子じゃないんだから」とリョーマは呆れながら笑っていた。 今、やっているのは全く反対の行動だ。 だけどそれに興奮している自分にも気付いていた。 お前がいつまでも素直にならないから、こんな目に合うんだ。 泣きながらやめてくれと訴えるリョーマを、そんな傲慢な気持ちで見下ろしていた。
結局、状況を理解して拘束していた手を解いたのは、何もかも終わってからのことだった。
「越前、大丈夫か?」
ぐったりと横たわったままのリョーマに、さすがにまずいと気付いた。 久し振りだったのに余裕も何もなく無理矢理捻じ込んだから、リョーマの負担は相当なものだったはずだ。起き上がれないのも仕方無い。 医者を呼ぶべきかと焦りながら肩に触れると、「触るな!」と手を払われる。 爪先が跡部の手の甲を引っかき、痛みが走った。
「あんた、最低だよ」
声は掠れていて、目元は涙で濡れている。 迫力のない姿だが、リョーマの目だけにははっきりとした跡部への憎しみが溢れていた。 それに怯み、手を引っ込めてしまう。
「出てって。そして二度と俺の前に姿を現すな。顔も見たくない」 「越前、」 「出てけよ!警察呼ばれたいの? あんた、異常だよ。思い通りにならないからってあんなことするわけ!? こんなの酷い……。嫌だって言ったのに」 「悪かった。お前の気持ちを踏みにじるような真似をして、すまなかったと思っている」 謝罪を口にしてもどうにもならないことはわかっていた。 それでも言わずにはいられなかった。 だが、リョーマの怒りは収まらない。 「謝ればそれで済むと思ってんの? もう、嫌だ……。あんたなんて大嫌いだ。 きっと以前の俺だって、仕方なく付き合っていたんじゃないの。 そうやってなんでも思い通りになると思ったら、大間違いだよ。 俺はあんたを絶対に許さない!」
殺気に満ちた目でそう言われ、もう取り返しのつかないと知った。 それ以上糾弾されるのが怖くて、荷物を持って急いでリョーマの部屋から出て行った。
それが、記憶を失くしたリョーマとの最後の会話になる。
自分の罪に怯え、責められることを恐れて、外に出ることさえ怖かったあの頃。 リョーマと会うのは、もう止めよう、諦めようと決めた。
「たしか、その頃だったよな。 ジロー、家に閉じこもったままの俺の所に来て、リョーマの所に行かないのかって訊いたのは。 あの時、自分のやった事を認めるのが怖くて、リョーマに拒絶されて傷付いたという嘘の理由を口にした。 自分が被害者だという風に装えば、もうリョーマのことは諦めればいい、行く必要はないとお前ならそう言ってくれると思っていた。 俺はそれに頷いて、いかにも可哀相な捨てられた恋人を演じていたんだ。 悪いのは、忘れてしまったリョーマじゃない。 先にあいつの信頼を裏切った、俺の方だ。 なのに罪と向き合うのが怖くて、俺は全部なかったことにしようとした。 あかりと付き合うことを決めたのも、リョーマを、あの一件を忘れる為だ。そうしてなんでも無かったようにして生きていこうと思ってた。 しかも記憶を取り戻したリョーマから会いたいと言われた時、 真っ先に思ったのはあの一件を覚えているかどうかだった。 記憶喪失だった間のことを忘れていたあいつを見て、俺はほっとした。もう責められずに済むってな。 最低だろ。 だから、ジロー。お前がリョーマを嫌うのは間違っている。 怒りを向けるのなら、俺の方だ。 俺はあいつにしたことへのせめてもの償いとして、助けてやりたいと思っている。 そんなエゴで動いているような奴だ」
全部聞き終えても、ジローは何も言わない。 顔色を失ったまま、目を伏せている。 今までずっと騙されていたことを知ったショックからか。 これで友情が終わったとしても仕方無いと、跡部は目線を外した。
チフネ
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