チフネの日記
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| 2010年03月05日(金) |
lost 悲劇編 5.跡部景吾 |
二年も前のことは、思い出したくもない。
自分はいつから弱い人間になったのだろうと、跡部は自問した。 少なくとも『彼』に会う前は、もっと割り切って振舞っていたはずだ。 去って行く者を追うほど、暇じゃない、と。 すぐに新しい恋人など見付かる。 そんな風に過ごしていたのに。
それが、どうだ。 二年前に恋人を失ったことを、今も冷静に受け止めることが出来ないでいる。
もしあんな事さえなければ、『彼』はまだ自分の隣に居てくれたのだろうか。 幸せな日々は続いていたのだろうか。 ありもしない想像をして、何度も何度も虚しくなった日々。 そんな絶望に帰りたいと、誰が思うだろうか。
あの日以来、跡部はすっかり変わってしまった。
事情を知らないものは、元から変わっていないと言うだろう。
しかしあの出来事が起こる前、跡部は良い意味での変化が訪れていた。 それまでは誰かを本気で好きになるなんて考えてもしなかった。 恋なんて勘違いだ、と鼻で笑うような性格だった。
しかしある少年に出会い、そして自分の思い通りに行かない恋に悩み、 何度も挫折しながらもようやく恋が成就した。 その幸せにより、跡部はそれまで考えなかった他人の気持ち、というものを考えるようになっていったのだ。 それも『彼』の影響が大きかった。
だが、『彼』は跡部の前から去って行った。 しかも最悪の結果だけが残った。
その時の跡部は自分の方こそ記憶喪失になればいい、 そうしたらこの苦しみから解放されると、そう願っていた。
『彼』に出会わなければ、こんな気持ちを抱かずに済んだ。 自分ばかりこんなに辛い目に合わせて、去って行った『彼』のことを今も恨んでもいる。
好きだけれど、憎い。 それが跡部の中にある『彼』への気持ちだ。
だから二度と『彼』と接触するのは止めようと決めていた。 近付いて、また傷つけ合って絶望する。 そんな思いは、一度でいい。 再び心を壊されたら、もう耐えられない。 前回以上の酷いことになるのは、想像出来る。
もうこのまま、『彼』のことは思い出にして行こう。
気持ちの整理が一区切りした頃、跡部はある女性との交際を決心した。
「あの、景吾さん?…どうかしましたか?」
名前を呼ばれて、跡部は顔を上げた。 『彼』のことを考えて沈黙したのを、退屈していると捉えたらしい。 不安そうに見上げている彼女に、完璧な笑顔を見せる。
付き合っている彼女を不安にさせてはいけない。 そう思って、言い訳の言葉を口にする。
「申し訳ありません。少し、考え事をしていました」 「まあ。心配事でもあるのでしょうか?」
小首を傾げて尋ねる姿に、わざとらしさは無い。 純粋に親身になってくれている。 彼女は疑うということを、全く知らないのだ。 そんな所も惹かれた理由の一つだった。 純粋に、ただひたすら自分を愛してくれる。 決して裏切ったりしない。
今の跡部にとって、裏切りは何よりも恐ろしいものだ。 しかし彼女はそんなことをしないと、信じることが出来る。 昔の自分なら「世間知らずが」と、切り捨てていただろう……。
「心配事というほどでもありません。今度の大会のことで、少し調節しなければならないことがあって。 それだけです」 「景吾さんは部長ですから、大変でしょう。 私で力になれることがあったら、何でも言って下さいね。微力ながらお手伝い致します」 「そうですね。お願います」 「任せてください」
にこにこと微笑む彼女は、本当に跡部の為に何かしたいと考えているのだろう。 その純粋さが、とても眩しく映る。 寄せられる好意に、ほっとさせられる。
「ありがとうございます」 跡部は感謝の言葉を口にした。
彼女のことを大事にしてやりたい。
(俺も、決して裏切らない……。あいつのようにはならない)
呪文のように心の中で繰り返す。
彼女と一緒に過ごしていれば、いつか完全に『彼』のことを忘れられるはずだ。 傷は癒えないままでも、封印することは出来るだろう。
(二年前のあの日、俺と『リョーマ』の道は完全に分かれたからな……)
思い出の中にいるリョーマは、まだ小さい12歳のままだ。 今は身長も伸びて、大きくなっているはず。 きっとどこかで擦れ違っても、気付かない。
その位、自分の中で存在が薄れてしまえばいい。 いつかは名前も思い出さなくなる位になってしまいたい。
彼女を送っていた後、跡部は所有するスポーツクラブに立ち寄り、 トレーニングに励んでから帰宅した。 もうすぐ関東大会だ。部活の練習の他にもこなさなければ試合を勝ち抜いて行くことは出来ない。 上に行くのはそんなに簡単じゃないと、嫌というほどわかっているつもりだ。
車が家に到着する前に、彼女からのメールが来たので開くと、 今日は会えて嬉しかったということと、大会への応援メッセージが綴られている。 跡部の体調を気遣うことも、忘れない。
嬉しく思いながら、跡部もお礼の言葉をメールで返す。 次の約束の予定を聞くことも忘れない。
まるで世間一般の男女のようだ、と最初は恥ずかしく思ったが、 今では全く普通にやり取りしている。
これでいいんだ、と跡部は呟く。 似合わないかもしれないけど、こんな普通な付き合いでいい。 これで幸せになろう、と彼女からのメールをもう一度眺めて自分に言い聞かせた。
開かれた玄関から中へ入ると、使用人達がずらっと並んで迎えてくれる。 その内の一人が「景吾様」と遠慮がちに声を掛けて来た。 この春に雇った女性だ。名前は忘れたが、顔は覚えている。 伝言でもあるのか?と顔を向けると、 「景吾様がお留守の間に、訪ねて来た人がいました」と言った。
「約束も無いようでしたのでお通しはしませんでしたが、 また来ると仰っていました」 「誰だ?氷帝の部員か?」
中等部からの付き合いのある部員は、この女性を雇った後からでも遊びに来ているから覚えているはずだ。 それ以外の部員だろうか? しかしそれなら練習時にでも言えばいいことだ。 首を捻る跡部に、使用人は先を続けた。
「それが名前しか言わなかったので、わかりません。 越前リョーマと、名乗っていました」 「越前!?」
思わず跡部は大声を出した。 使用人の女性はその反応に驚き、後ろへ一歩引いてしまう。
それを見て、跡部は我に返った。 今度は少し冷静に声を出す。
「本当に、越前リョーマと名乗ったのか?」 「ええ。間違いありません。お知り合いの方でしょうか」 「……ああ。本人ならな」
しかし跡部にはリョーマが訪ねて来たとは、到底信じられる話では無かった。
『二度と俺の前に姿を見せるな。あんたの顔を、一生見たくもない!』
はっきりとそう宣言された日のことを、忘れたことはない。
例えリョーマがこの先何か困ることがあっても、 自分にだけは助けを求めることは無いだろう。
それが、今何故接触しようと思ったのか。
本人ではなく、別の者が名前を語って接触して来た可能性も否めない。 しかし、何の為に……? 考えても答えは出て来ない。
「どういたしましょうか?」 跡部は少し考えて、ここにいる使用人全員に聞こえるように言った。 「今度そいつが来たら、客間に通してくれ。そしてすぐに俺に連絡しろ。 一応、話だけは聞いておきたいからな」 「は、はい」
跡部の剣幕に呑まれたように、女性は何度も首を縦に振る。 それに構うことなく、自室へと向かう。
混乱している気持ちを落ち着かせる為に、じっくり考えてみる必要がありそうだ。
リョーマを名乗る人物は果たして誰なのか。 会ってみなければわからない。 しかし本人だったら?
蓋をしていた気持ちが、揺れるのがわかる。 しかし彼女の顔を思い浮かべて、跡部は首を振った。
(今頃、なんだよ……。 二年前なら素直に喜んでいただろうが、あの時とは違っているんだ)
お互い、離れ過ぎていた。
もう二人が幸せだった日々は取り戻すことは出来ない。
チフネ

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