チフネの日記
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2007年10月31日(水) ここにはいないけれど

電話ってすごい。

どうせ帰って来るんだから、それまで連絡を取らなくてもいいと思っていた。
だけど久し振りに聞く部長の声に、妙に安心するのと嬉しいって気持ちがぐるぐると回って行く。
帰宅してからご飯を食べて、速攻風呂に入り、後は寝るだけって状態で電話を掛けた。
他に邪魔を入らせない為だ。
部長はすぐ出てくれて、それからずっと話し続けている。かなり長い時間だ。

けど、ほとんど喋っていたのは俺の方。
普段なら、絶対そんなことはしない。
元々会話は必要最低限位。
でも今日はなんだかどうでもいいことも口に出して、この電話を続けようとしている。

多分、東京と九州とでこんな離れた距離を埋める為に、
何か言わないとって気になっているんだと思う。
昨日の立海の切原との野試合の件から始まって、
今はどうでもいいことばかり話している。
部長はお喋りな俺に戸惑う素振りをしていたが、すぐに慣れて相槌を打ったり、
返答をしたり、話を広げたりしてくれた。

多分、俺のテンションに合わせてくれているのだろう。
普段の部長は俺と同じで無口な方だ。
でも無理してでも話を続けてくれようとして、俺に付き合ってくれている。
距離を感じないようにと、途切れそうになるとまた新たな話題を出して、
少しでもこの時間を長引くよう、お互い必死になっていた。

けれど、終わりは必ずやって来る。

「越前、そろそろ眠らなくて大丈夫か?」
「えっと……」
明日の試合のことを考えたら、もう眠った方がいいだろう。
でおせっかく楽しく会話をしているのに、
水を差すのも悪いと思ったから、気付かない振りをしていた。

そう言われると、急に眠たくなって来た。
だけど、この居心地の良い時間を手放したくない。
どうしようか、と携帯片手に眉を寄せる。
部長もわざわざ思い出させるようなこと言わなくたっていいのに。
滅多に無いようなだらだらとした心地良い会話のキャッチボール。
部長はもっと続けたいと思わないのだろうか。
一気に夢から覚めるようなことを言うなんて。

むっと黙ったまま一人で不貞腐れていると、
「俺もそろそろ消灯の時間だからな」
ぼそっと部長が呟く。
「えっ、そうなの?」
「ああ。部屋に戻らないとまずいだろうな。勿論部屋では携帯は禁止だ」
「……」

部長の言葉にさっきの嫌な気持ちが引っ込んで行く。
そうか。俺と違ってこの人は好き勝手な時間に起きたり寝たり出来ない環境にいるってことを思い出した。
携帯で話が出来るのも決められた時間の間でしか出来ない。
そう考えると、改めて部長には早く戻って来て欲しいと思う。
長電話しても起こられない。毎日、すぐ会える距離にいる。
そんな当たり前のことがとてもありがたいんだって、気付かされた。

部長が帰って来ないと、何も始まらない。
電話で距離を埋めようとしたものの、やっぱり無理みたいだ。
なんだか挫折を味わった気分になる。

「じゃあ、もう切るから」
眠たいのと、部長の為に電話を切らなくちゃいけないのが悲しくて、ついぞんざいな声が出た。
「そんなつまらなそうに言うな」
こちらの気持ちに気付いたのか、優しい声で部長は言った。
「俺も出来ればもっと話をしていたい。このまま切りたくない。
しかし明日は大事な試合があるとわかっていて、我侭を通すわけにもいかんだろ。
わかってくれ、越前」
「……うん」
「お前が勝つことを信じている。
明日はベストな状態で試合に臨むんだ。いいな?」
そんな風に言われたら、「はい」としか答えられない。

部長が信じてくれているのに、これ以上会話を引き延ばして明日に響くようなことなんて。
出来るはずが無いじゃないか。

「越前」
「何すか」
「明日の結果報告を楽しみにしているぞ」
「それって、また電話してもいいってこと?」
「当たり前だ」
電話の向こう側で部長が笑った気がした。
「俺だって、お前の声が聞きたい」
「そ、…そうなんだ。じゃあ、連絡するよ」
「ああ。待っている」
「うん」

言葉を交わしていく内に、また気持ちが気持ちが穏やかになっていくのを感じた。
おやすみ。
最後にそう言い合ってから電話を切る。

簡単に終わったけれど、寂しくない。
明日また、声が聞けるから。

なんだか幸せな気分でベッドに横になったら、ものの数秒で眠りに落ちた。

そして朝までぐっすり寝て、起きたら妙に気分がすっきりしてた。
こんなの始めてだ。
いつもならもっと眠っていたいと、ぐずぐずとベッドの中で目を閉じたままなのに。
なんだかこのまま起きられそうだ。

布団から出て、大きく伸びをする。
そしてカーテンを開けた。
朝日が部屋に差込み、周囲を明るく照らす。
良い天気だ。これなら試合は天気に左右されることなく最後までやれるだろう。
よし、と気合を入れてさっさと着替える。
それから一階に降りて冷たい水で顔を洗う。

「お、リョーマ。今日は早いじゃねえか」
「親父……」
髭をぼりぼりかきながら、親父が廊下を歩いて来た。
「さすがのお前の決勝前で緊張してるのか?よく眠れなくって早起きしたんだろ」
「違うよ、その逆」
「逆?」
「そ。むしろ絶好調。今日も勝つよ」
「はあー。試合前からそんなこと言って、後で泣いても知らないぞ」
「するか」
舌を出して、親父を無視して廊下を歩いて行く。
「あら、リョーマ。今日は早いのね」
「うん。もうご飯出来てる?」
「出来ているわよ。ご飯の量は?」
「いっぱい」
母さんは微笑んで、お茶碗にたくさんのご飯を盛ってくれた。
珍しく和食だ。焼き魚と卵焼きと味噌汁と漬物。
ほかほかとしたご飯の湯気を見て、それだけでなんか嬉しくなった。
和食は好きだ。
パン派の母さんは滅多に朝からご飯を作らないけれど、
多分、試合前だから俺の好きなものを出してくれたんだと思う。
言葉には出さないけれど、励まされれている気になった。

「ごちそうさま」
満足行くまで食べて、手を合わせる。
そして「もう行くから」と立ち上がった。
「いってらっしゃい」
「うん」

母さんに見送られて、玄関から外へ出る。
むわっと暑い空気に一気に晒されて、目を細めた。
午後からはかなり暑くなりそうだ。
試合での出番の時には、どの位になっているか考えたくも無い。

そうしてぶらぶらと歩いてバス停へ行き、大した遅れもしないでやって来たバスに乗って会場へ到着すると、
予定していた集合時間よりもかなり余裕ある状態で到着した。
「越前、どうしたんだ…一体」
一番に来ていたらしい大石先輩に真面目に聞かれて、
「ちょっと、目が覚めたんで」と苦笑しつつ答える。
仕方無いか。
いつもギリギリ、というか遅刻寸前ばかりだから、驚くのも無理も無い。
後からやって来た部員達が俺を見る度、
「遅刻した!?」と焦るのも……受け入れよう。
「越前が時間前に来るなんて、こりゃ雨が降るかもなあ」
桃先輩が俺の頭をぐりぐりと拳で撫で来るのを、左手で振り払う。
「降らないっすよ。降水確率ゼロ%だって予報で言っていたし」
「お前、そんなもの見る余裕まであったのかよ。本気でどうしたんだ」
「どうもしないって」

失礼なことを言う桃先輩に、ふいっと横を向く。
するとずっとやり取りを見ていたらしい不二先輩を目が合った。
「越前。今朝はなんだか調子良さそうだね」
「ええ。まあ…」
まずい人に話し掛けられた。
笑顔の不二先輩を見た桃先輩は、すぐにこの場から離れて行ってしまう。
絡まれたらたまらないってことらしいが、俺も一緒に連れて行けよ…。
視線を泳がせると、更に近付いて来てしまう。

「一体、手塚とはどんなことを話したのかな。僕にだけ詳しく話してごらん」
ひそっと手で壁を作って言う。
周囲に聞こえないよう気を使ってくれているらしいが、それよりも放って欲しいものだ。
「別に大したことなんて、喋ってないっす」
「またまたあ。嘘は駄目だよ?」
「本当っす。どうでもいいことばかり話していて、重要なことは別に何も」
「その割には嬉しそうな顔しているよね」
「してない」
「自分ではわからないだけだよ。今日の君、無敵って顔しているもの」
「はあ」
「その調子で試合も頑張ってね。青学の関東大会優勝が掛かっているんだから」
ぽん、と俺の肩を叩いて、不二先輩は皆の輪の中へと戻って行ってしまう。
一応、試合前だから詮索は止めてくれたってことか?

言われなくても、俺は勝つよ、と呟く。

部長に今日のことを報告する為にも負けるわけにはいかない。
でもたしかに不二先輩に言われたように、なんだか昨日より調子はいい。
これも電話効果なんだろうか。





試合は、2勝2敗で両校一歩も譲らず、
とうとうS1の出番が回ってきた。



相手は常勝・立海で、全国区レベルの選手の中でも更に頂点に近い存在だとしても。
コートの中で俺は何度でも立ち上がった。
苦しめられて、追い詰められて、ピンチも一度や二度じゃ済まない。
気を抜いたら、すぐにやられてしまう。
そんな張り詰めた場面がずっと続いたけれど、不思議ともう駄目だって思うことは無い。

だってここにはいないけれど、
部長はこの同じ空の下で、俺達の勝利を祈ってくれている。頑張れって、励ましてくれている。

だからどんなに圧倒的な力を見せ付けられても諦めるわけにはいかないって、
俺は必死でボールを追い掛け続けた。

無我夢中になって続けているうちに、いつの間にか形勢は少しずつ逆転して行った。
王者に追い付き、追い越す。その瞬間が見えて来た。

そして最後の一球が決まったと同時に、俺はコートに倒れ込んだ。

(勝ったよ、部長……。俺達の手で関東大会を勝ち抜いた)

今すぐにでも電話したい。この勝利を伝えたい。
コートに横になった状態で上を見上げる。
太陽の光が眩しい位、地上を照らしている。
部長もこの空を見ているのだろうか。俺と同じものが、見えている?
そんなことを考えている間も無く、「おチビ、やったねー!」と皆がコートに入って来た。
「優勝だぞ、越前。関東大会優勝だぞおお!!」
「胴上げしろ、胴上げ。ほれ、おチビ、おチビ!」
「ちょっと、待っ……」
「すげえよ、越前。本当に勝っちまいやがった!」
騒ぎ始める人々に、報告はもうちょっと後になりそうだと高く抱え上げられながら溜息をついた……。






その日の夕方。
優勝騒ぎから解放されてから、すぐ家に帰った。
ベッドに腰掛けてから、部長に電話をする為に携帯を手に取る。

「もしもし、部長?」
「越前か」
部長はすぐ出て来れた。
多分、俺が電話するのを待っててくれたんだろう。
そのことに、嬉しく思う。
「あの、遅くなったけど無事優勝したっす」
「そうか。おめでとう。よく頑張ったな、越前」
「うん……」

おそらく大石先輩辺りから、優勝のことはもう聞いているはずだ。
それでも俺の言葉に真摯におめでとうと言ってくれるのが嬉しくて、
頬が緩んでしまう。

ああ、駄目だ。
会えない分、部長にちょっと嬉しい言葉を掛けられた位で舞い上がってしまう。
前はこんなんじゃなかったはずなのに。
ちょっと落ち着こう、と携帯から離れて軽く深呼吸する。

「越前?どうした?」
「あ、ううん。なんでもないっす」
慌ててまた耳に携帯をくっ付ける。
「そういえば俺と対戦した、真田さん、だっけ。
すっごく強くてかなり苦戦したっす。部長の言う通り、全国にはまだまだ強い人がいるんだよね。
俺ももっと頑張ろうって気になったっす」
「お前でもそう思うようになったのか」
「なるっすよ。誰にだって負けるのはごめんだからね。
あっ、でも俺は今でも部長以上に強い人はいないって、そう思っているから」
「そうか……」
「部長?」

少し沈んだ声のように聞こえた。
なんだろう。変なこと言ったっけ、と首を傾げる。
瞬きしていると、「少し、いいか」と部長から話を切り出してきた。
「これから当分連絡を取るつもりはない。
電話をするのも今日が最後だ」
「え、なんで…?迷惑だった?」
「違う。そういうことじゃない」
間髪置かずに否定される。そして説明が続いた。
「治療に専念する為だ。一日でも早くそちらに戻りたい。
お前達は今日頑張って、青学を優勝に導いてくれた。今度は俺の番だ」
「部長……」

嫌だって、言いたかった。もっと話をしたい。
電話だと、普段以上に会話が出来るから。
部長と、くだらない話でもいいから会話をしたかった。
でも電話の向こうにいる部長が苦しんでいるように思えて、言う通りにしようという気になった。
部長は俺のことを励ましてくれた。信じてくれた。
今度は、俺も同じように力を分けてあげたい。そうするべきなんだ。


「わかった。待っているっす。
部長がこっちに戻るの信じているから。それまで電話も掛けないし、メールもしない。
ここで会える日が一日でも早くなるのを待っているから」
「ありがとう、越前」
「でも!」
俺は口調を強くして言った。
「あんまり遅くなると、返事するって言った件をまた保留にするからね」
「それは、困るな」
「でしょ?だから、頑張って。後、俺の様子を不二先輩に聞くのも禁止ね。
俺のことなんて考えなくていいから、治療に専念して下さい。わかった?」
「専念はするが……無理なことを言うな。お前を考えない日なんて、一日だってないぞ。
毎朝、遅刻していないか、心配している」
「そっちの心配っすか!?」
かなり不本意だった。
俺のこと考えているって、遅刻の件かよ。
普段の行いの所為だけれど、そんなのってあるか。

むっと黙ると、「冗談だ」と部長が笑った。
「毎日考えているのは本当だけどな。内容は秘密にしておこう」
「はあ……。別に教えてくれなくてもいいっすから」

今のだけで、十分心臓に悪い。
何が、冗談だ、と眉を寄せる。
俺だって、部長のことを考えない日は一日だって無いよ。
衝撃の告白を受けた日から、毎日考えている。
だけど電話越しに教えるのは癪だから、今は秘密にしておくことにした。

戻って来たら、伝えることは沢山あった方がいいだろう。


「じゃあ、またね。部長。治療、頑張って」
「ああ。お前の方も練習、頑張れ」

合図と同時に、電話を切った。

これで次に部長と会話が出来るのは、顔を合わせた時だけになる。
治療って、どの位掛かるんだろう。

早く終わらないかなと、ごろんとベッドに横になる。

部長がテニスをしている所が見たい。
話をしたい。顔が見たい。
そして今ここにある俺の気落ちを伝えたい。
色んなものが今にも溢れそうで、両手で頬をぎゅっと押さえた。

部長に最初に会ったら、何を言おうか。
迷うところだ。
あれこれ考えているうちにわけがわからなくなって、疲れてしまって目を閉じる。

それから母さんがご飯だと起こしに来るまでの間、ぐっすり眠ってしまっていた。


チフネ