チフネの日記
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| 2004年11月03日(水) |
盲目の王子様 93 リョーマ |
聞こえてきた足音に、リョーマは自然と口元を綻ばせた。 静かな病室にいると、外に響く足音が気になってしまう。 病室に入って来る看護士さんを音でリョーマは聞き分けている。 しかしこの音は、病院のスタッフのものじゃない。 もう何度も聞き分けた、あの人の音だ。
ノックしたのと同時に「どうぞ」とリョーマは声を掛けた。 まだ検温は終わっていないので、先程の看護士が「あら、戻ってきたの?」と声を上げる。 「長時間のお見舞いは控えてね、って説明があったと思うけど。 まだ用があるのかしら」 「すみません。でも後少しだけ、こいつと話をさせて下さい」 多分頭を下げているだろう跡部さんに申し訳なく思いながら、 リョーマは看護士に向かってお願いをする。
「俺からもお願いします。もう少しだけ……従姉も出て行っちゃって不安なんで、もうちょっと戻って来るまでお願いします」 わざと心細そうな声を出すと、看護士は態度を変えた。 「しょうがないわね。本当に少しだけだからね」 「ありがとうございます」 「越前君が疲れたら、すぐ退出はして下さいね」 「わかりました」
そう言って、看護士はドアの外へ出て行った。 ふう、と跡部が溜息をつく。
「なんかすっかり目を付けられてる感じだな。居心地悪いったら」 「騒いだり時間外に来たりするから、覚えられちゃったんだよ。来るだけで警戒されてるのかよ」 「マジかよ!じゃあ、昨日ここに来たのがばれてるってことか?」 「うん」 「……大丈夫か?叱られたりしなかったか?」
心配そうな声を出して、左頬に跡部の手が触れて来る。 「平気。注意されたけど手術前で話し相手が欲しかったって訴えたら、しょうがないって許してくれた。」 「そうか……悪かったな、結局迷惑掛けて」 「ううん。無理矢理匿って、引き止めるような真似をした俺が悪い。 跡部さんが気に病むこと無いよ」 「いや、そもそも俺が押し掛けたりしなきゃ良かったんだ」 どこか後悔を滲ませる声に、リョーマはむっとしたように答える。
「なんで?俺は嬉しかったよ。だから何を言われようとも、平気」 「そこまで言ってくれるのならいいけど、やっぱり今度からは時間守って来るようにする。 ここを紹介してくれた監督にも迷惑掛かるだろうしな」 そうしよう、と跡部が呟く。
「でも無理しなくてもいいから。これからもっと忙しくなるだろうから、大会を優先してよ」 本当は跡部が来てくれないと寂しいのだが、 わざとリョーマは突き放すように言った。 決勝と、全国大会を控えて時間がどれだけあっても足りないか、容易に想像出来る。 そっちに使って欲しいという意味を込めたのだけれど、 跡部は頬に触れていた手を離して、ぴんと指で額を軽く突いて来た。 「バカ。無理なんてしてねえよ。 それに大会ばっかり考えて、お前に会いに来ない方がよっぽど無理してるって俺は思うぜ。 そっちこそ思ってもないこと口にすんな」 「……」
見透かされてるなと思って、リョーマは小さく俯いた。 どうにもこの人相手だと、本音を隠すことすら出来なくなってしまう。
「時間外になった時は、今度こそこっそり忍び込むスキルを見につけておくとするか」 冗談交じりに言う跡部に、リョーマはくすっと笑った。 「ここまで辿り着いたら、また匿ってあげるよ。じっとして息殺してやり過ごさなきゃいけないけど」 「ああ。頼むな」
真面目に言われて、また笑ってしまう。
正直な所、どうにかしようと慌てていたとはいえ、跡部と同じベッドに入ってしばらく体を密着させていたなんて、今考えても信じられない。 よく声が裏返ったりしなかったよな、と自分でも感心する位だ。 いつもより早い鼓動を、跡部に気付かれていないだろうか。気付いても、黙っていてくれているのかもしれない。 思い出しただけで、顔が赤くなってくる。
誤魔化すように、リョーマはわざと声を出した。
「今日はそんなに時間無いから駄目だろうけど、試合のこと詳しく聞かせてよ。 跡部さんや手塚さんがどんな風に打ち合ったか、聞きたい」 「ああ。お前が満足するまで、些細なことだって全部聞かせてやる。 楽しみにしてな」 「うん」
頷くと、また跡部の手が顔に触れてくる。 頬を伝わって、包帯を巻いている部分に押し当てられるのがわかった。
「痛むか?」 「ううん。大袈裟に巻いてあるだけで、平気だって。 包帯が取れるまでは時間が掛かるけど、後は結果待ちだけ。 それだけだから」 「それだけって……本当は緊張しているんじゃないのか?」
相変わらず思考を読むような言葉に、リョーマは困ったように口を窄める。
「まあね。実は駄目でした、なんて言われたらさすがに凹むかも」 「おい」 咎めるような言い方に、冗談だよ、と言って笑う。 そして、話を続けた。 「でも今は、ここまで来れただけでいいやって気持ちになってる。 もう何があっても、受け入れられるかもしれない。 ほとんど諦めていたのも同然だったのに、自分以外の人に支えられてここにいる。 それだけでも、感謝しなきゃいけないんだ」 「どういう意味だよ」
困惑している跡部に、リョーマはそっと口を開く。 多分、抱えてたこの気持ちを伝えるのは跡部が最初で、きっと最後になるのだろう。
「こうなる前、向こうでテニスやったって言ったよね」 「ああ」 「すごく楽しくて、毎日上を目指して、頑張ることさえ苦にならなくて。 ずっとそんな日が続くって信じてたんだ」
コートの中が、リョーマにとって全てだった。 他に世界を知らない。 テニスさえあれば、それで良かった。
なのに、視力を奪われ。 生き甲斐ともいえるテニスも出来なくなって、落ち込む所じゃなかった。 絶望と悲しみと、どうして自分がという怒りと。 それでも家族には心配掛けまいとなんでも無いよう振舞って。 そうしてゆっくりと心は沈んで行ってしまったんだと思う。
「テニスが出来ないと知られた途端、無責任な連中に色々言われたりして、 もうコートに戻りたくないとさえ思った。 でもやっぱりラケットに触れたい、ボールを打ちたいっていう気持ちもあって。 変になりそうだった」
榊が尋ねて来たのは、そんな時だった。
「うるさい場所から離れて、日本で静かに復帰の道を探してみないかと言ってくれた。 俺の目も必ず治るって。 おかしいよね。本人は諦めてるのに、自分以外の人が信じているのって。 でも……不思議とその声に賭けてみようと思ったんだ」
勿論、自分をよく知っている土地が騒がしくなった所為もある。 外出すれば、ひそひそと囁かれ、落ち着くことすら出来やしない。 自分がテニスをしていたことを誰も知らない場所に行きたい。そう思ったのも事実だ。
「本当は日本に来ても、手術して治る見込みなんて無いんじゃないかって疑っていた。 怖かったんだ。 やって駄目だったら、今度こそラケットを握ることは叶わない。 だから信じるのが怖かった。信じて裏切られて、ハイそうですかって受け入れられる程俺は強くなかったんだ」
自分は強い人間だと、そう思っていた。 父親に負けても、何度だって立ち向かっていける。決して諦めたりしない。 それはテニス以外でも、同じことで。 何に対しても屈したりしないと挑んでいた。 だから強いと勘違いしてたんだ。 本当は弱い部分だって、持っていたのに。
「でも、俺以外の人達が皆手術の成功を信じているんだよ? 家族も、榊先生も、ジローや侑士や、手塚さん、そして跡部さんも……。 逃げ出すことなんて、出来きないよ。 皆の気持ちを分けてもらって、俺は手術に踏み切ることが出来た。 感謝してる。すごく」 「越前」
手を伸ばして、包帯に触れてる跡部の手を掴む。 リョーマよりずっと大きな手は暖かく、心を落ち着かせてくれる。
「こんな弱音言ったの、初めてなんだ。 どうしてくれんの。あんたといると、隠しているはずの言葉が出て来る。 そういうの、困るんだけど」 「別に、どうもしないだろ」
あっさりと、跡部が返事をする。
「前にも言っただろ。 お前が辛いのなら、一緒に悩んでその気持ちを楽にしてやりたいって。 俺の前ではもっと言いたいこと言えばいい。全部受け止めてやるから、困ること無いだろうが」 「……だから、そういう言い方が困るんだって」
どうして、と言う跡部にリョーマは首を軽く振る。 そして触れていた手に力を軽く込めて、声を出す。
「前に約束したこと、覚えてる? 退院したら言いたいことがあるって」 「ああ、覚えてる」 「待っててよ。その時、多分一番困らせるようなこと言ってやるから」
ちょっと不敵に笑って告げると、一瞬間が開く。 多分、驚いているのだろう。 見えないけど、なんとなくリョーマはそう思った。
そして、 「ああ。待ってる」 言われると同時に、包帯越しに軽く何か触れた。 「今の?」 「早く治るように、おまじないだ。 俺の方もお前を困らせるような言葉を用意しておく。 びっくりするなよ」 低く笑う跡部に、リョーマもすぐに笑って返す。 「上等。跡部さんがどんな事言うか、楽しみにしておくよ」 「それほどのものじゃねえけどな……」
ふう、と跡部が溜息をつくのと同時に、 「リョーマさん、入りますよ」と外から声が響く。 話に夢中になっていたおかげで気付かなかったが、菜々子の声だ。 戻ってきたらしい。
「じゃあ、今日の所は帰る。また怖い人達に怒られそうだからな」 「うん」 「またな、越前」
跡部が立ち上がって、そしてドアを開ける。 「あら、跡部さん。リョーマさんに付いていてくれたんですか?」 「はい、でも時間なので帰ります。今日は大勢で押し掛けてすみません」 「いえいえ、また来て下さいね」
菜々子と跡部のやり取りを聞きながら、リョーマはさっき触れたものについて考える。
(跡部さんの唇だった気がするんだけど……まさかね)
そんなはずは無いと思いつつも、他に思い当たらない。 瞬間を想像して、一瞬で体温が上昇するのがわかる。
検温が済んだ後で良かった、とリョーマは胸を撫で下ろした。
病室を後にして、跡部は廊下をゆっくり歩いて行く。
(結局、何も言えなかった)
握り締められたリョーマの手から揺ぎ無い決意を感じて、 そんな時に告白するのもどうかと躊躇われた。
(俺もバカだな。けど、次のチャンスは無駄にしない……絶対に)
退院して、リョーマの目が開いたその時こそ。 言いたかったこと全部ぶちまけて、あいつの驚く顔を見るんだ。
チフネ

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