朝の寒さがそのまま日中もあまり気温が上がらず冬の名残を感じる。
そうかと思えばやはり春で優しい陽射しが降り注いでいた。
今朝は玄関のシクラメンに10個の蕾が見えており驚く。
まるで奇跡のような花である。
蕾は明日には開き凄い生命力であった。
庭先の雪柳は少しずつ散り始めておりせつない。
4月になれば花期が終り剪定が必要らしい。
ただ枝を落とせば良いのだろうか。よく分からない。
ネットで検索すれば画像があり見よう見まねでやってみようと思う。
そうすればまた来年の早春にたくさんの花が咲くことだろう。

朝食時に夫が「久しぶりに一風に行くか」と云ってくれ嬉しかった。
すっかり出不精になり却下されてばかりだったので
しばらくは行くこともないだろうと諦めていたのだった。
11時の開店に合わせて西へと車を走らず。
わずか20分程だがプチドライブも楽しくてならない。
あちらこちらに白木蓮の花が咲いており心が和む。
辺りはもういちめんの春であった。
いつもの「ラーメンセット」を注文したが
おしゃべりをすると夫に叱られるので静かに待つ。
「わあ美味しそう」それさえも禁句であった。
写真を撮るのもNGで「みっともないことをするな」と叱られる。
それも価値観の違いであろうがもうすっかり慣れてしまった。
最近小食になっている夫には量が多過ぎたようで
ふうふう云いながら食べている姿は愉快でもある。
大食漢の私でもさすがにお腹がいっぱいになった。
しかし美味しい物を食べると何とも幸せである。
帰宅するなり炬燵に潜り込みお昼寝体制に入った。
何とそのまま4時まで寝てしまい我ながら呆れるばかり。
半日を無駄にしてしまったが不思議と充実感があった。
まるで寝ることが生きることのように思えてならない。
赤子なら「寝る子は育つ」が私も育っているようだった。
寝ている間に愉快な夢を見ていた。
内容は直ぐに忘れてしまったが喜劇のような夢だったのだろう。
目覚めは爽快で心が浮き立つように清々しくてならない。
大相撲の春場所が始まり夫はテレビに釘付けであった。
何の趣味も楽しみもない人である。
生きている事だけが「仕事」だと口癖のように云う。
そんな夫にとって大相撲は最大の楽しみなのだった。
お風呂もカラスの行水となり時間を惜しむ程である。
夕食時、珍しくあやちゃんとめいちゃんが台所に居て
玉子焼きや炒飯を作っていた。
姉妹が肩を並べる姿を見ることは滅多になく微笑ましくてならない。
娘も気づいているようだがあやちゃんが随分と明るくなった。
私達祖父母との会話も増えて来てほっと嬉しく思っている。
この春には中学2年生となるが学校に拘らないことだ。
好きなように自由に日々を送れたらそれが一番に思う。
出口のないトンネルなど在りはしない。
終わらない冬もないのと同じである。
トンネルを出ると「いちめんの春」が待っているだろう。
※以下今朝の詩
老木
お花をあげましょ桃の花
その木は神社の片隅で もう随分とながいこと 春を告げて来たのだが
病だろうか 枝は朽ち折れ まるで老婆のようである
しがみついても咲かねばならぬ
やわらかな陽射しが降り注ぎ 春を匂わすそよ風が吹き始める
もう蕾を生むことは出来まい 諦めかけたその時であった 枝先にむくむくと命が宿る
最後の春かもしれない その蕾のなんと健気なことか
しがみついても咲かねばならぬ
桃色のいのちであるならば 空色の未来だってあるだろう
老木は空を仰いでいた 里はもういちめんの春である
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