みみずのたはごと

2007年03月27日(火)  昭和が消えていく…。

植木等さんの訃報にふと、そんなことを思いました。
とりあえず生きた時間としては昭和と平成、トントンどころか平成のほうが長くなりましたけれども。
でも自分は「昭和の子」だなあと縷々思います。考え方やものの見方が昭和的。
新聞読み始めたのが小学校2年だったからねえ。世間と自分とを対比させる定規は、やはりその頃に基礎ができたと思うし、何より「天皇陛下」という呼称でまず思い浮かべるのは、昭和天皇だ。
たった7日間で昭和64年が終わり、昭和という長い時代に幕が下りた時の不思議な感覚は、今でも憶えてます。テレビも新聞も大喪の礼尽くしで、恐ろしく退屈でした。(笑)
私はお笑いには詳しくないですが、昭和の笑いと現代の笑いとの最大の違いは、「自分を笑う」か「他人を笑う」かではないかという気がしています。自らを進んで物笑いの種にする、道化じみた笑いには、他人を傷つける要素がない。チャップリンのコメディなどにも通じる精神ですが。私は、そんな優しい笑いが好きです。

月曜日は仕事上がりに、就活中でお忙しい織方さんを、「息抜きも大事ですよ」と悪魔の囁きで誘い出して銀座デートでした。(社会人の風上にも置けない)
明治新聞人のファンなら見逃せない「尾張町一丁目の四辻」(ようするに銀座四丁目交差点)と交詢社ビルを回って、アイリッシュパブでお夕食。久々のパブミールだったので幸せでした。(英国の食事はマズイと巷で評判ですが、葛生さんはその英国の食事が大好きであります…)(正確にはイングランドとスコットランドとアイルランドでは微妙にパブミールも違うんだけど、そのへんはどれでもいい)(エールとサイダーとウイスキーがあればそれでいい…!)(…)
大野さんや田中さんの逸話を色々お伺いしました。当然の如く圭介話も吹っかけました。(お前…)
滝川18歳ショックを(まだ)引き摺ってたので、「若造滝川捏造ストーリー」でやけに盛り上がり、続いて「当時の距離と時間の感覚をリアルに再現しようとすると大変」という創作技に関する話から、伊庭歳で遠距離恋愛ネタに発展。携帯がまだない時代なので、伝令が行き来するたびに特定の私信がこっそり行き交うんだよとか。当人たちはバレてないと思ってるけど、周りはとっくに知ってるんだとか。YスHサさんが書いてくれないかなあとか(伏せてない)、御当人の預かり知らぬところで話題にしてました(ごめんなさーい)。
慶喜さんの言動に一貫性を見出せないのは我々が庶民だからで、殿様理論ではアレは問題ないんじゃね?みたいな結論にも至りました。
ええと分家の件、改めて考えてみたら、親子が一緒に任官しないのは主家に金がないという現実的な理由があったわけで。だから別に「一緒に任官しちゃいけない」というわけではなかったんじゃないかと。分家の理由は違うっぽいですねー>私信

閑話休題。
ずーっと以前(2月)にしのさんから回していただいたバトンに答えてみました。相変わらず函館山の裏から攻めかけて下さる御仁です(意表を突くの意)
 →「10cm江藤バトン」(本当にもうねえ何の罰ゲーム!?)

●メッセージ返信
3/22 2:44 I潮様
 ご教示有難うございますー!/ 復古記を確認してみたところ、官軍から江川さんに「管内の地図と戸籍を提出せよ」との命が2月3日に出て、江川さんがそれらを手ずから藤沢の総督府に届けたのが同21日でした。圭介は1月28日に江戸城で歩兵頭に任ぜられ、2月28日に江戸城で歩兵奉行の昇進辞令を直接受けているので(藤岡屋日記)、小田原に行ったのはその間でしょうね。/ 小田原は江戸から20里、普通に考えて所要2日。小田原⇔韮山は箱根越えをするのでしょうか…韮山の手前の伏見(清水町)までで9里(小田原と往復すると18里)。伏見→藤沢が17里。21日に藤沢宿の総督府に出頭するためには、江川さんは少なくとも19日朝までには韮山を出立していたことになります。圭介の使者と途中ですれ違ってたりして…(切ない) にしても、藤原まで官軍が出張ってきている状態で、小田原まで行ったんですね、圭介…。/ 最近、何はなくとも歩兵隊や圭介に事象を結びつける癖が出てきました。幸せです。(…)


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葛生冴 [MAIL] [HOMEPAGE]