…貿易商だったとゆー曽祖父の祥月命日です(爆) 彼の娘である祖母と同居してるので、子どもの頃から艶っぽさより墓参のイメージが…。中学に上がったら、チョコを貰う日になりました(私が)。女子校万歳。 ――今の職場には中学の先輩がいまして(当時は知らなかったけど)、チョコの差し入れを頂戴しましたvv え、私? 帰宅時にパパ上と兄貴にとの名目で自分の食べたいチョコを買って帰りましたが、何か。(…)
英国ではバレンタインデーは、別に恋人の日でも何でもありませんでした。「Your loved one(あなたの愛する人)」に日頃の感謝を篭めて贈物をする日、で、相手は家族でも友人でも同性でも構わない。お互いにカードとちょっとした心付を贈り合う、といったかんじでした。 …ちょーしゅー5もプレゼントしあってるとよいと思うよ!(妄想)
で、そんな日に亡くなった曽祖父。明治の男です。 生まれは信州なんですが、若くして渡米を志し身一つで上京、辞書を片手にホテルのロビーに待機しては、欧米人を見るや「ガイドをしてやる」と押しかけて、それで英語を勉強したとかしないとか。 念願の渡米にあたっては、許婚(うちの曽祖母)に「向こうで一旗上げて、必ず迎えに来るから待っていろ」と告げて出てったらしい。それで律儀に25歳まで待つ曽祖母も、当時の婚期を考えると凄い。…彼女をよく知る母君に言わせると、「信州の田舎で燻ってる男に嫁ぐより、海外に出た男の妻になったほうが恰好いいと思ったみたいだけどね。あの人もプライド高いから」だそうですが…。 そんな曽祖母は、アメリカで事業に成功し土地も屋敷も手に入れた曽祖父から「すぐに来い」との手紙がくると、迷わず横浜から船に乗ったそうです。この思い切り、やはり明治人ですな。 そんなわけで彼らの長女(我が家の祖母)は、ニューヨーク生まれだったりするのです。 子どもの教育は日本でということで、祖母が3歳の時に帰国。その後は曽祖父のみ日米を行ったり来たりしていたそうです。やがて戦争の足音が聞こえると、土地は処分し、事業を友人に託して完全帰国。ただ、それらの財産は空襲で家と一緒に綺麗さっぱり焼けちまいました。アメリカの事業も、友人が失敗して結局潰れてしまったそうな。結局、一代限りの夢だったということで。orz ずいぶん開明的な人だったようで、大正生まれの祖母を筆頭に女ばかり6人姉妹全て大学に行かせ、夕食には自ら台所に立ってアメリカ仕込みのローストビーフを作ったり、フェミニストで曽祖母はとっても大事にされてたらしい。(この影響か、我が家はその後代々女系が強い家です…) 挙句がバレンタインデーに死去。我が家ではダンディの代名詞になってます。 ああ、その時代にワープしたい。惚れるぜ…!(いや実の曽祖父なんですが)
なんだか酷い風邪を引き込んでます。視界がぐらんぐらんするよう。
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