| 2006年01月13日(金) |
大遅刻年賀SSまたの名を寒中見舞い。 |
仕事に追われていたのも事実ですが、ご無沙汰の主たる理由は標題のよーなものを作成していたためです。(…。) 七草を食べていたらネタが降ってきまして。本当は7日中(松の内)にあげたかったんですが、仕事の関係で仕上げなきゃならない書類があって間に合わず、時期的に非常にマヌケなことに。 …いいさ、旧暦ならまだ12月中だもん。(開き直り) てなわけで、年賀寒中見舞いSS。陰暦の松の内(今年は2月4日)まで晒しておきます。←公開終了しました。
そういや、↑を書くために情報整理してて思ったんですが、浅田が箱館病院に入院してたのって、いつからいつまでなんでしょうか…。 というのは、現存する史料の表書きに、1969年に浅田が「函館の病院に於いて、重傷の療治中に」複写したという但し書きがあるそうなのですが(他人様の調査結果に依存)、大川の『奥州南口戦争記』によれば、峠下の戦いでの浅田の傷は「軽傷」ってなってるんですよ。10月末の軽傷で年明けまで入院って、妙じゃありません? 大川は軽傷だと思ったけど実は重傷だったとか、峠下での怪我は軽傷だったんだけど会津での怪我が化膿したとか、そんなんかしら。峠下での戦闘に参加してるってことは、会津の怪我は一見では治ったかんじだったとみていいんだよね? 化膿傷の治療ってどのくらい長くなるものなのか…。或いは、峠下の怪我は一旦治って退院したあと、例えば11日の決戦で大怪我して入院して、そのまま謹慎中に写した、とか。でも春の戦闘で怪我したんなら、誰かがどこかに書き残しててもいいような気もするんだよなァ。(想像の翼にも限界が…;;) ――とゆー葛藤を抱えつつ、↑では一応、後遺症が残りつつも怪我は治って退院できるって展開にしてみました。敢えて茨道を突き進んでみる無駄な勇気を発揮。 ときどき、ふと我にかえります。何を必死こいて140年前の人間の足跡を追っかけてるんだろう、と…。(でも楽しいんだよう!><)
|