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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2009年10月20日(火) 行動を変えることから 元々は弱小球団ヤクルトスワローズのファンだったのです。特に関根潤三のヌルい采配が好きでした。1989年の神宮最終戦では、クラブハウス前の通路に陣取って「野村監督反対!」を叫んでいた一人です(強くなったら面白くないと思ったから)。
が、強くなったらなったで面白く、スワローズのファン以上に野村克也監督のファンになってしまいました。なので、1998年彼が三顧の礼をもって阪神の監督に迎えられると、僕もタイガースファンに鞍替えしてしまいます(阪神では星野優勝の下ごしらえしかできなかったのが残念)。野村監督が楽天イーグルスの監督に就任すると同時に、僕がこの球団のファンになったのは当然です。
彼が選手に野球を教えるのに使う「野村ノート」には、こんな一節があるとテレビでやっていました。(行動が変わればバージョンから少し変化しています)。
『考え方が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。
運命が変われば、人生が変わる。』
考え方を変えるが人生を変えることにつながっていく、という話です。
アル中さんたちも、酒でダメになってしまった人生を変えるために、飲酒という習慣を変えよう(断酒)とします。習慣を変えるためには、考え方を変える。つまり、断酒というのは心の問題だと思うわけです。これは間違ってはいません。
間違ってはいないのですが、なぜ多くのアル中さんが習慣を変えること(断酒)に失敗するのでしょう?
それは考え方を変えることは、実は簡単なことではないからです。変えたいという意欲があっても簡単にはなりません。ではどうすればいいか?
「考え方が変わらないのなら、行動(習慣)を変えるしかない」
これが昔からの知恵です。飲んでいる行動を、ミーティングなり例会に行く行動に置き換えろ、というわけです。行動が変われば、それが考え方に波及し、さらにそれが例会以外の日常生活の行動に波及し、やがて人生そのものが変わっていく仕組みです。
自分の人生が良い方に変わっていないのなら、それは家にいる時間が長すぎる、というわけ。
たとえ日本一になっても野村監督は今年で解雇が決まっているそうです。ファンとして残された試合を楽しむほかありません。
2009年10月18日(日) 効力感 辛い体験をすれば、同じことは繰り返すまいと思うものです。
けれど、これは必ずしも真とは限りません。酒で失敗したアル中さんや、パチンコで有り金をすったギャンブラーは何を思うか? 「次はもっとうまくやろう」であって、酒やギャンブルをやめようとは思いません。
それは「苦しみが足りなからだ」という意見があります。
実際そうである場合も多いのですが、これも必ずしも真とは限りません。
厳罰化で飲酒運転は減りましたが、ゼロになったわけではありません。覚醒剤も同じです。失うものがどんなに大きくても、渇望に囚われた人は依存の対象を手放したがりません。共依存の奥さんがダンナの飲酒を手伝わなくなれば、飲み続ける苦しみは増していきます。けれどダンナは酒をやめません。
これは人が変化するためには、苦しみ(懲罰)だけでは不十分で、別のファクターが必要ということを示しています。「回復しないのは底付きが浅すぎるからだ」という理屈を振り回す人は、他のファクターに気づいていません。その人の説に従えば、極限まで行き着かなければ回復できないことになってしまいます。けれど、あまり失わないうちから真剣に回復を求める人もいます。それはなぜでしょう?
現状維持のデメリットがどんなに大きくても「自分は変われない」と思っている人の選択肢は一つしかありません(現状維持)。
酒をやめる気がなさそうなアル中さんでも、実は自分で何度か酒をやめよう(減らそう)と試した経験があるのが普通です。でもコントロール喪失がこの病気の特徴ですから、節酒や断酒に失敗します。すると、酒をやめられないことを体験から学んでしまいます。
問題があることは分かっている(飲み続けるのは辛い)、けれど変化もできない(酒をやめるのに失敗する)。この板挟みの状態を、人はどうやって打破しようとするか?
それが否認です。自分の酒は大したことがない、女房が大げさに騒いでいるだけだ、と思い直せば、(自分の中で)問題は消失します。問題がなければやめる必要もありません。こうしてディレンマは解消されます。
否認という防衛機制はいろんな形を取ります。
「自助グループに通っても仕方ない。どうせ飲むときは飲むんだから、最後は自分だよ」とか「自分は神を信じられない」とか、あるいは「ステップは酒をやめた後に人格を磨くためにするんだ」とか。
否認を打ち破るために必要なのは「効力感」です。それは「自分もやればできる」という感覚です。不信に陥っている人が効力感を得るのは簡単なことではありませんが、例えば実際に酒をやめている人の姿を見れば、自分にもやめられるという意識が芽生えます。
「真剣にやる気があれば、この友人のようになれるかもしれない。ぼくもなれるだろうか。もちろんだ!」(AA, p.19)
AAの創始者ビル・Wは、友人エビーの回復した姿を見て「自分もやればできる」という効力感を得ました。もしエビーが飲んだくれの残念な姿だったら、ビルも酒をやめようステップをやろうと思わなかったでしょう。
人の回復の手助けをするためには、まず自分が回復していなければならない。当たり前のことなのですが、そのことが分かっていない人も大勢自助グループにいます。回復していない奴に「底付きが足りない」と言われれば、お前にだけは言われたくないと思うでしょう。回復した人は人間的にすばらしい、とは言いませんが、必ず何らかの魅力を発揮しています。
奥さんが共依存行動をやめても、ダンナが酒をやめないのは、断酒会に行かないから、という理屈も分かってもらえたでしょうか。
とはいえ、否認にも至っていない(まだ自分の問題に気づいてもいない)人がいるのも確かで、もう少し苦しんでもらうしか無い場合も多々あります。苦しみと効力感がセットで揃わなければ、人は変わる準備が整わないのです。
11月7日のイベントに行く予定にしております。
2009年10月17日(土) 非定型うつ病について追加(その2) 日本ではメランコリー型のうつ病も非定型うつ病も区別されない、それはなぜかという話で、非定型に効果のある薬が使えないので区別する必要がないという理由を挙げました。
もう一つの理由は診断基準にあると思います。
メランコリー型・非定型という名前は、DSMに載っているのですが、どちらも「大うつ病」というくくりの中にあります。DSMは病気の原因よりも症状を重視します。原因を探るのは難しい、けれどマニュアルに基づいて症状を観察すれば、客観的基準で診断が下せる、これがアメリカ人の考える合理性なんでしょう。その結果、原因が違っていても抑うつ症状が出ていればうつ病と診断されることになりました。(とはいえ、メランコリー型と非定型の間には、かなり症状の違いがありますが)。
神経症という大きな概念があります。外部のストレス因子で具合が悪くなっているという考え方です。アル中旦那の飲酒(断酒後のドライドランク)のせいで奥さんの具合が悪くなっているのなら、ストレス因子=旦那です。旦那が2〜3ヶ月入院で留守の間は奥さんが元気になるなら、どんぴしゃです。
DSMには神経症という概念がありませんので、この場合なら「適応障害」という病名でしょうかね。(飲んでいようがやめていようが)アル中の配偶者に適応障害のひとは多いはずですが、実際は「うつ」という病名をもらっている人が多いのじゃないでしょうか。こういう人がうつの治療をしても良くならないのは不思議でもなんでもありません。それが離婚の段取りがついたらとたんに改善したりします。
神経症は(診断の)ゴミ箱と言われたことがありました。うつや統合失調や依存症などの鮮やかな症状があるなら診断も簡単ですが、なんだかハッキリしない患者にも病名は与えねばなりません。そんな時に神経症は便利だったというわけです。
その便利なゴミ箱がなくなってしまうと、代わりのゴミ箱が必要になります。それがうつ病だったというわけでしょう。昔だったら神経症と言われた人たちが、今はうつ病と言われ(当然三環系が効かないので)SSRI/SNRIを処方されている。発達障害やら器質性の人も混じっているでしょう。
そんなゴミ箱状態のうつ病の中で、ことさらにメランコリー型・非定型の違いを取り上げて別の病気に仕立てる必要がない、というのが現場の精神科医の意見なのだと思います。
最近ネットや新聞で「非定型うつ病」が取り上げられ目立ってきていますが、実は昔ながらの?非定型の人は少ないのじゃないかと思います。うつ病ではない、つまりメランコリー型でも非定型でもない人たち。それは前述の適応障害や不安障害、気分変調症(軽度の抑うつが長く続く)であったり、林先生の擬態うつ病や、kyupin先生の器質性障害なのでしょう。そういうのをひっくるめて「非定型」と呼ぶから、さらに話はややこしくなります。
遷延性うつ病で苦労していた(いる)身としては、「それはうつじゃねーだろ」と内心ツッコミたくなる場面は多々あります。ましてやその人や家族が酒を飲んでいたとなれば、真っ先に疑うのはアルコールの影響です。
2009年10月16日(金) 非定型うつ病について追加(その1) 非定型うつ病について以前に書きました。
7/23, 7/24, 7/25, 7/27
これを書いたときは、僕は非定型うつ病を「最近登場してきたうつ病の新ジャンル」と捉えていたのですが、それは誤りでした。非定型うつ病は実は古くから知られた病気で、しかもうつ病とは異なる病気です。
しかし現在の日本では、従来型のうつ病も非定型うつ病も区別はされていません。それはなぜか、ということを中心に、もう一度非定型うつ病について書いてみたいと思います。
元ネタはこちらで、ほかに薬について調べた情報を元に書いています。
DSMでは従来から日本でうつ病と呼んできたものを「メランコリー型」。非定型は「非定型」と呼んでいます(つまりメランコリー型が定型という意味)。
非定型うつ病はMAO阻害剤という薬が効きます。これは第一世代、つまり一番古い抗うつ薬です。
脳の中ではセロトニンやアドレナリン、ドーパミンなどの神経伝達物質(モノアミン)が活躍しています。使用済みの伝達物質はモノアミン酸化酵素(MAO)によって代謝され再利用されます。脳がうつになるのは、モノアミンの調整がうまくいかず、量が少なくなりすぎるからだと考えられています(アミン仮説)。
そこでこのMAOの働きを阻害して、伝達物質が代謝されないようにするのが「MAO阻害剤」です。そして非定型うつ病は、このMAO阻害剤が(ほかの薬や電気けいれん療法よりも)良く効く病気として、すでに1958年に紹介されました。
非定型うつ病がうつ病と似ているが違う病気とされる理由は、ひとつには前に書いたように症状が違うこと。もうひとつは、今回書いたように違う薬が効くことです。違う薬が効くから違う病気、という理屈は乱暴すぎる気がしますが、ある薬が良く効くのであれば、その薬にあった病気の仕組みがあると考えられるわけです。
MAO阻害剤は、元は結核の薬として開発され、やがてうつ病に使われるようになりました。しかし、副作用が強くて使いづらい薬だったために、どちらにも使われなくなり、現在はパーキンソン病の治療にのみ使われています(アメリカでは現在でもうつの治療にも使っている)。
というわけで、日本ではMAO阻害剤をうつの治療に使っていません。非定型うつ病をこの薬で治療した経験のある医者もいないわけです。メランコリー型も非定型も区別せずにほかの薬で治療を行っています。であれば、治療する上で別の病気として区別する必要はないわけです。
しかしメランコリー型が三環系抗うつ薬に良く反応するのに対し、非定型は薬が効かずに遷延化しやすいとされ、適切な治療を受けられていない非定型の人も多いのじゃないか、というのが個人的な考えです。
MAO阻害剤にはAタイプとBタイプがあり、うつに効くのはAタイプなのに、日本ではBタイプのセルギリンしか販売されていません(非定型にMAO阻害剤が効かないという話はここらへんが原因かも)。だから、無理に医者に頼んで処方してもらっても無駄ということでしょう。
しかし薬も進歩するもので、海外ではMAO阻害剤を改良した「可逆的モノアミン酵素タイプA阻害薬(RIMA)」という薬が使われています。
(この話続きます)。
2009年10月14日(水) 一人が苦手 僕の勤め先は、もともと12人が所属する事務所でした(内2人は本社に転属中)。今年の春までに5人辞めていきました。理由は独立起業・転職・非正規切り。
今年春に不景気のあおりをくらって事務所が閉鎖になり、残った5人は在宅勤務になりました。僕もその一人です。機材を自宅に持って帰り、会社との連絡は支給された携帯電話とメール。ほかの社員に会うのは月に一回の本社での会議のみです。
たまに客先で同僚と会うことはあっても、普段は一人で仕事をしています。もともと一人が得意な人なら良いのでしょうが、皆がそうとも限りません。見落としがちなことですが、「人付き合いが苦手」=「一人が得意」とは限らないのです。
一人が得意な同僚もいます。彼は長年付き合った恋人と別れてしまい「週末デートしなくてすむのは楽でいいよ」と言いながら、仕事もプライベートもマイペースで楽しんでいます。
僕は一人は苦手です。人付き合いは苦手ですが、一人はもっと苦手なのです。人間関係に疲れて一人になりたいと思うことはしばしばですが、一人でいるとどんどんマイナス思考になって苦しくなります。一匹で飼っていると、淋しくて死んじゃうウサギみたいなものかもしれません。
明日は本社で会議です。同じ在宅勤務の同僚が辞めることになり、彼の仕事の引き継ぎが必要になりました。
その彼はもとより在宅勤務が希望でした。仕事は自宅でできる種類でしたから、実現の可能性は十分あったのですが、彼自身が「自分だけ在宅になると、周囲にどう思われるか気になる」と言って、希望を叶えずにきました。それがこの春から会社の都合で皆が一斉に在宅勤務です。彼にとって、誰にはばかることなく大手を振って在宅ができるわけですから、願ったり叶ったりだろうと皆が思っていました。
けれど彼は半年でうつを再発させ、仕事が続行不能になって自ら退職を申し出たのです。皆がそれを知り、思いとどまってもらおうと画策を始めた頃には、すでに社長の裁可が降りた後でした。
彼は一流大学を出て、一流企業?に勤めていたものの、うつを発症して退職した過去があります。その後、僕が酒をやめて勤めていたたった数人の会社に、彼が就職してきました。実は高校の同学年だったのですが、僕は彼のことをまったく憶えていませんでした。同じうつ病どうし、あっちが休んだりこっちが休んだりの時期もありました。
彼は人と一緒にやるのは苦手だと言っていましたが、だから一人が得意とは限りません。彼の退職の話を聞いたとき、在宅になり一人にならなかったら、彼も持ちこたえたろうに残念だと思いました。
僕もうつで辛い時期がありました。特に土日と休んだ後は、月曜日に仕事に行くの大変でした。けれど、当時は月曜のAAミーティングの責任を負っていたので、辛かろうともミーティング会場を開けて、司会をしなくてはなりません。僕が逃げ出せばグループは自然消滅しかねない状況でした。
その逃げ出せない状況が、僕にはとても良かったのでしょう。月曜に仕事を休んでAAにだけ行くと、何を言われるかわかりません。なので、調子が悪かろうと無理無理月曜の朝は仕事に行きました。ぐったり疲れてもさらにミーティング。そうして人と接しているのが、僕のうつにはプラスになりました。
月曜が祝日(つまり3連休)の時は、その会場は休みになります。すると僕は仕事もAAも休めて楽でいいのですが、その後決まって調子を崩すのです。人間関係のストレスでうつになっているはずが、人間関係がないとさらにうつが悪くなるのです。それは僕が「一人が苦手」を意味するのでしょう。
本当にうつが悪くて飯も食えない文字も読めない状況なら、無理に人と接するのはいけないのでしょうが、少し良くなってきたら人と一緒に何かしないとうつは良くならない、というのが僕の信念です。
辞めていく彼にもAAみたいな場所があれば良かったのに、と思ったりします。
僕の業界では独立起業する人は珍しくありません。それできちんと食っていける人には自己管理がきちんとできる人たちです。自分をたるませすぎず、締め上げすぎず、ちょうどよいペースで仕事ができる人たちです。つまりそれは組織の中で仕事をする能力と同じです。会社の中で仕事ができる人は、独立して会社を興しても仕事ができる・・・考えてみれば当たり前の話ですね。
2009年10月13日(火) 本人の望む以上には良くならない 人は望む状態と現状とのギャップを埋めようと行動します。
逆に言えば、現状が理想に近ければ、特に行動を起こす動機が発生しません。
前にアルコールで入院した病院に、ある患者さんがいました。
その人は酒の問題もあるのですが、すでに入院が年単位になっているので、アルコールの治療プログラムには入っていませんでした。主な病気は分裂です。が、そちらもかなり寛解していて退院に支障はなさそうでした。でも退院しない(できない)のです。
話を聞いてみると、奥さんと娘さんが「戻ってきてほしくない」という希望で、彼もそれを受けれいたのです。だから彼が退院するとすれば一人暮らししかありません。それは彼の希望ではなく(一人暮らしをいったん始めると家族との同居がさらに難しくなる)、入院し続けたいとすれば、あまり病気が良くなると彼は困ってしまいます。
そんなわけで、彼の病気は良くなりきらないのでした。
「精神の病は本人の望む以上には良くならない」
まるで上昇を拒むガラスの天井があるかのように、本人の願望が治癒を拒むことがあるのです。僕はアルコールをやめてもうつがなかなか改善しなかったときに、「治ることを望んでいない」と言われてずいぶん腹がたったものですが、実際その通りなのです。
病気が治ることは良いことばかりとは限りません。それによって失うこともあります。
例えば依存症が良くなるためには、酒を失わざるを得ません。精神安定剤で、気分が落ち着いてほんのりうっとりするのが好きだとすれば、病気が治ればその薬はもう飲めなくなります(それでも飲めば依存症)。病気だからと免除されていたいろいろなことも再開しなくてはなりません。
良くなろうと思わない依存症の人は、自助グループに行きません(それで周期的に再飲酒する)。他の病気でも、良くなるために医者や治療法や薬をイジってみる気にならなければ、悪い状態が維持されます。
治ることで得るものと失うものを天秤にかけ、治らないことを選択する人がいるのは不思議ではありません。損得勘定ができないのではなく、健康になりたい人とは価値観が違っているだけのことなのです。
2009年10月11日(日) 器質と気質 てんかんの人は統合失調症になりません(実際には少数なるけどこの際それは無視)。これはてんかんの人の脳と、統合失調の人の脳が違うことを示しています。
脳の違いによって、どんな精神病になるかも違ってきます。
病気になる前の性格(気質)にも違いがあって当然で、クレッチマーの分裂気質・循環気質・粘着気質という分類も、脳(器質)の違いが性格(気質)の違いに反映されていると考えてもいいかもしれません。
うつ病の人と、統合失調の人では、当然気質も違ってきます。それはリアルに接していても、ネットを介してでもわかります(つまり気質は演じることができない?) 本人は「うつ」だと言っていても、なんか違うなぁと思うことがあります。
以前に掲示板で「うつ病と統合失調症の比較」というページを紹介しましたが、あれは当を得ていると思います。
うつの人は、良心的というかあまりにも気遣いする感じで、会って別れたあとで「電車には間に合いましたか」とか「雨には降られませんでしたか」というこちらを心配するメールをもらったりします(それより自分のこと優先しろよ)。印象としては「いっぱいいっぱい」な感じで、そんなに頑張らなくてもいいのに思ってしまいます。わりと人間関係は豊富。
統合失調(分裂気質)の人は、気は遣うんだけどそれが「人のため」ではなく、自分がどう思われているか気にしちゃうタイプ。取り越し苦労が多くて、結果的に消極的。ひとりで行動するのが好きで、社交は嫌い。
分裂の人の印象は「固さ」と言う言葉で表現される思考の硬直化。どうして「盗聴されてる」って結論になっちゃうの? という感じで違う考え方ができません。そこまで極端でなくても、ちまちま節約してるのにドバーっと金を使っちゃうとかね。大きなことにこだわるならわかるんだけど、細かいことにこだわる。ひとりを好むのも、この「固さ」ゆえだと思います。
分裂気質の脳を持った人も、うつ症状になり得ます。そんな時に医者はうつの病名を与えます。でも伝統的なうつ病とはメカニズムが違うので、休んでも良くなるとは限りません。もし統合失調の陰性症状だと診断しても告知するとは限らないし、処方を聞いてみると抗精神病薬を飲んでいたりします(それが効くならうつじゃないだろ)。
なぜか世の中には「統合失調よりうつのほうがまし」という風潮(偏見)があるせいで、自分はうつ(あるいは躁うつ)だと思いたい人が増えています。それで不適切な治療をして良くならないのは不幸なことです。自分ではうつだと思っている人に、抗精神病薬を出して良くしちゃう医者は腕利きなのかも。
話は少し変わって、1年前の読売新聞に統合失調だと誤診されたシリーズをやっていました。ボーダーや広汎性発達障害なのに医者が間違えたという話でした。統合失調じゃない人に抗精神病薬を飲ませると副作用が強く出て、それが幻聴(陽性症状)、無気力(陰性症状)という統合失調の症状と似ていたりするので、話はややこしくなります。
それと最近は内因性の病気(伝統的うつ病や統合失調)が減っているという説もあります。代わりに増えているのが広汎性発達障害。なんでそれが増えたのか、食事の変化か、IT化のせいか、晩婚晩産化か。それで大人になった人たちが、うつや統合失調にカテゴライズされているという説です。
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