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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2004年06月06日(日) 中古車購入 「先月の統計」 が無事更新されてほっとしています。ひと月に1回しか動かないプログラムの検証は難しいのです。
妻が車を買い換えることになりました。彼女の乗る昭和62年製のランサーは、すでにエアコンが動かなくなって撤去されています(修理部品がないから)。走行6万キロだというのに、クラッチ板の交換も経験済みです。9月に車検になるので、そろそろ次の車を探そうと言うわけです。
そんなわけで、この土日はあっちのディーラーに行ったり、こっちのディーラーに行ったりしていました。試乗をし、見積もりをもらうだけでも最低2時間はかかります。ターゲットは軽乗用車からいわゆるコンパクトカーです。
ホンダのフィットは後部座席のシートも良く出来ていて、CVTもこなれていてよかったです。ダイハツのムーブ、スズキのワゴンR、ともに車内空間を欲張りすぎで車重・車高が増えダルな感じでした。スバルにいったついでにインプレッサの一番安い車種(1.5L FF)に試乗してみました。値段以外は特に不満なし。トヨタのヴィッツも日産のマーチも乗りたかったけれど時間切れでした。
最終的に彼女が選んだのは、スバルのプレオの中古。車検未経験、1万8千キロのを税・諸費用・現有車の廃車代こみで70万円まで値切ったところで商談成立・・・のはずだったのですが、確認のためにおやじさん(僕の義父)に電話したところ、いきなり「ダメ」と言われて事態は混乱しました。
「軽自動車の中古ならOK」ということだったのに、なぜストップがかかったのかは知りませんが、帰宅後の話し合いには僕は参加しませんでした。婿養子は親子の問題には立ち入らないのが賢明です。おやじさんは、自分の車の古を乗って欲しがっていたようですが、そのメーカー最近いろいろと問題あるのと、妻は生まれて初めて自分で選んだ車に「ダメ」を出されてだいぶ怒っていたみたいです。
父親にとって娘とは、たとえ娘が何歳になろうとも、可愛いものであるらしいです(なんとなくそれは分かる)。それに男は女の涙に弱いです。
ちなみに車の費用は、妻が独身のときに形成した財産が使われるので、僕はノータッチです。契約は水曜日、支払いは今月いっぱい。9月の納車までディーラーに預かっていてもらうというわがままぶりであります。
2004年06月04日(金) 佐世保の事件で考えたこと 佐世保の小学校6年生の殺人事件で、ネット掲示板の書き込み が契機になったと聞いて、恐れていたことが現実になったと思いました。
1985年に初めて「モデム」というものを買って電話線とパソコンにつなぎ、パソコン通信というものを始めました。モデムは十万円近くしたと記憶しています。パソコン通信というのは現在のインターネットと違って、それほど匿名性がなく、プロフィールを公開している人も多い上に、ネットニュース(掲示板)やメールの送り元がわからなくても、通信業者はその人の住所氏名は最低限把握しているものでした。
それでも、ニュース上で議論が始まると、それは熱く熱く盛り上がるのでありました。きっかけはたわいのないことで、お互いに揚げ足取りが始まり、重箱の隅をつつくような議論が延々と続きます。時には数十人が巻き込まれて、ニュースグループが乱暴な言葉で溢れ返ることもあります。
顔の見えないメディアなので、相手の表情を見て「言い過ぎ」「やりすぎ」の自分の行為に気付くことができません。相手が(自分も)どんなに傷ついていようが、そんなことはお構いなしで、ノーガードの打ち合いが続きます。
こうなると怒りの感情に支配されてしまい、何日も、時には何週間も、どうやって「勝利を得るか」に思考がとらわれてしまいます。会ったこともない相手に(いや会ったことがあったとしても)、深い憎しみと憎悪を燃やし続けます。
インターネット普及の時代になって、相手の身元を知るのがずいぶんと面倒になりました(難しくはなっていないけど手間がかかるようになりました)。匿名性が増したと言ってもいいかもしれません。それをいいことに、トラブルの種を作る人も増えてきました。
十数年をネット上で過ごして、無駄なエネルギーをたくさん使って、僕は多少なりともフレームをよけて歩くのがうまくなってきたと自覚していました。
けれども、携帯電話やPCのメールで相手を追い詰めて、互いに傷を作ることも珍しくありません。とくに相手をある程度知っている場合にそうです。その点ではまったく人間的成長というものがありません。
それでも、そのせいでより相手のことが理解できて、関係が深みを増すことだってあります。だから、相手を傷つけないように極端に臆病になったり神経質になることもないかなと思っています。ですが、それは僕が(一応は仮にも)大人であるから、背負っているものや体面もあるからであります。
まだまだ身体も心も成長期にある子供たちに、(一見匿名性があるように見える)インターネットという道具を使わせたら、いつかは憎悪が燃え上がって何かの事件がおきるに違いないと思っていたのです。これからも傷害事件ぐらいはいくつでも起きるのじゃないかと思っています。
ネットに規制はかけられませんから、子供にパソコンなどを買い与える時期は、親が責任もって悩まないといけないと思っています。
ネットに毒が巣食っているのではなく、ネットが抱えているのは人間の本性です。
2004年06月03日(木) 免許センターに呼ばれました 車を運転する男性のほとんどが「自分は運転は平均より上手なほうだ」と思っているという統計があります。僕もごたぶんにはもれないわけですが・・・。
車内で一番運転が上手なのはAさん。さすがに何台も廃車にしただけあって、限界を心得ています。ただ助手席に乗っていても酔う事は必至です。まあ、普段はそんなに飛ばさない人です。
一番若いB君は、高速道路はいつも数十キロオーバー。でもなぜか、助手席にいても、後部座席でも疲れません。でもさすがにこの速度だと彼自身が二時間で体力の限界。車間距離が短い人なので、追突事故2回。
今は去ったC君は、唯一の対人事故歴保持者。横断歩道を歩いている老人をはねてしまいました。雨の日なのにヘッドライトを点灯していなかったので、車が来ているのを見落とされたみたいです。でも点灯していなかったのが悪いということで、多数決で「へたっぴ」に決定しました。
故郷にUターンしてきてハンドルを握るようになったDさん。速度は遅いけど、一番安心できる人です。
僕は、こちらで就職することを決めた30才のときに、教習所に通いました。毎日酒臭くて、教官に「お前みたいなヤツには(飲酒運転で事故をおこすだろうから)、絶対免許はやりたくないんだがなぁ。こちとら商売だから、しかたないな」と嫌味を言われながら卒業しました。
初心者マークが取れるころにAAにつながり、車も免許もあったおかげでミーティングに通えました。運命とは不思議であります。
あれ以来10年。事故歴1(被追突事故)、違反歴2(免許証不携帯・速度超過)。可もなく不可もなくといったところでしょうか。免許更新のお知らせがやってきました(つまり誕生日が来るってことです)。
廃車を作ってまで腕を磨こうとも思いません。
ちなみに僕の車は禁煙です。
うつの自己評価をしてみました。
前回 はZung式で69点、ベック式では34点。
今回は、Zung式で53点、ベック式で21点でした。だいぶ改善しています。
2004年06月02日(水) Seeks to control the uncontrollable 大坪家の書庫 のオーナーが書かれている文章の中には、含蓄に富んだ名言がたくさん引用されています。
孫引きなるのを恐れずに引くと、「危機ではなく、幻想の終わりに過ぎない」という言葉が好きです。
現在危機に陥ったのではなく、いままで安全だと思っていたのが幻想だったのだと。
アル中になってしまったのではなく、とっくの昔になっていたのに、自分は違うと信じていた、とか。いよいよミーティングに通わないと酒が止まらなくなってしまったのではなく、いままで自分の力でやめられると信じていたのが間違いだった、とか。
BOX-916の請求額が倍でびっくりしたのだが、実は先月分を払ってなかったのであった(ちょっと違うか)。
ボーナスが出ないという危機ではなくて、いままでひょっとしたらという期待が幻想だった、とか。
今日は昨日と同じような日であり、明日も多分そうは変わらない・・・と思っていても、ある日突然の変化が訪れます。でもそれは少なくとも「突然」じゃなくて、そんなことは起きないという幻想を持っていただけの話です。
AAが永遠に続いていくという感覚も幻想です。僕はいくつかのグループが消滅するのを見てきました。それはそのグループにハイヤー・パワーがいなかったからでしょうか?
翻訳をしていたら、Seeks to control the uncontrollable という文章にあたりました。
コントロールできないものへの制御を捜し求める。
無意識のうちにコントロールしようと懸命の努力をしていた自分です。いや、コントロールできていると信じたかっただけなのかもしれません。コントロールしているという意識すらしていませんでした。
僕は主導権を手放しました。
心は充足されていますが、どこかにぽっかり穴が空いた気分です。その穴には自我という名前がついているのかもしれませんし、違う名前がついているのかもしれません。
人はいつまでも同じではありません。くよくよしないで、今日の風に吹かれなさいと歌われていることであるし。
2004年06月01日(火) 底入れ模様 仕事柄半田付けはするほうです。
もっとも製造ラインに入ったことはないので、へたっぴです。
おっちょこちょいなので、よく半田ごてを指に当ててしまいます。
「あちぃ」というより「いてぇ」という感じがするのです。
でも、他の人のように水ぶくれになっちゃったりは、あんまりしません。
「火傷には強いほうじゃないか」
という妙な自信があったりします。
昨夜の火傷も、「念のため」医者に行ったら、「きれいじゃないのさ。初期治療が良かったね」と言われて、さすがに何もしないわけにもいかないので、潮紅を取る塗り薬を塗り、包帯を右腕に巻かれてしまいました。
きっと神様は、僕を火傷に強く作ってくれたのでしょう。
たっぷりと皮膚科で待たされたおかげで、だいぶ遅くの出社となりました。
昨日休んだので、仕事関係者にはメールを出しておきました。現場の技術者は、「お大事に」とか「ゆっくり養生してください」とか返事をくれました。営業の人は、今朝も一時間おきに「まだか?」と電話をくれていたようです。
プレッシャーの中で作るExcelシートは間違いが多いです。
うつのときに働き過ぎないように、遅く出社しても定時退社。そのままミーティングへ。
途中で食事をしないので、コーラのペットボトルを買っていきました。適度にカロリーがあって、空腹をごまかしてくれるので助かります。
それにしても、昼間の仕事を持つ人々は、職場からミーティング場へ移動する間に食事するのでしょうか? 僕は空腹に耐えられない人間なので、コンビニでおにぎりを買ったり、はなまるうどん で100円のかけうどんを食べていたりします。
何も食べずにミーティングに出る人は、おなかすかないのかなぁ。メンバーシップサーベイで聞いてほしいものであります。
うつは上り坂に入ったようです。景気で言うと「底入れした模様」といったところでしょうか。
Yahoo のディレクトリ に登録されました。
2004年05月31日(月) 心の痛み・体の痛み 昨晩、偶然かかってきた電話にうつのことを相談すると、スピリチュアルな回復を目指すにしても、とりあえずは医者のサポートは欠かせないのではないか、という提案をもらいました。
また3時間しか眠れず、早期覚醒してしまい、早朝から社長の自宅に電話して、今日はいろいろとやらなくてはいけない仕事もあるけれど、どうか休ませて欲しいとお願いしました。社長も、病気で倒れて、服薬が欠かせないようになってから、なんとなく寛容です。
医者に行き、症状を伝え、どの症状をどうして欲しいのか相談しました。ゴールデンウィーク明けに自ら望んで切ったミラドールが復活しました(倍量)。夜のレスリンも倍量になりました。心の中の悲しみと不安感を取って欲しいと3回お願いしましたが、「あなたはアル中だから安定剤はだめ」とまっとうな答えをもらいました。最初の頃はともかく、今はまったく出してもらっていないです。
「ということは、処方してもらった薬が効くまでの期間は、この悲しみと不安に耐え続けろということですね」とたずねると、医者は「そうです」と簡潔に答えました。
月曜に昼間にヒマがある人に相談の電話をしました。とても助かりました。
「あなたは迷える一匹の子羊を救った羊飼いです」と伝えると、その人は自分がクリスチャンだと答えました。最近、クリスチャンの人に導きを得ることが多いです。これは単なる偶然なのでしょうか。それとも今まで僕が彼らの声に耳を傾けなかっただけでしょうか。
「あなたがいままでAAに使ってきた100の力を30にして、残りの70は他のことに使いなさい」
自己犠牲は美しいときもあるが、自分がそれに酔っているときは、こっけいでしかありません。
僕はAA以外のことにも生きがいを感じることに負い目や罪悪感を持っていました。でも、生きがいはたくさんあるに越したことはありません。
僕はラウンドアップで、いろいろなことに気づいてしまいました。気づきたくなかったことまで気づいてしまいました。でももう、それは知らなかったことには戻せません。
夕方からAAミーティング。苦しいときには、誰の言葉も心に入ってきます(逆に言うと苦しくないときは、人の話に好き嫌いがあるわけです)。みんな大好きだよ、と言いたくなりました。
ミーティング後のちょっとしたアクシデントで右腕を火傷してしまいました。ちょっと皮がむけたところがあるだけで、あとは真っ赤になっているだけです。水で冷やすと痛くないんですが、右腕の回復はちょっと焦っちゃいます。
2004年05月30日(日) 考えて、考えて、考えた 来年の9月に福岡で、日本AAの30周年を祝う記念集会があります。それは関東も含めた全国評議会で決めたことです。現地の実行委員会では、それに近い時期のローカルイベントの開催を慎んで欲しいという要請を全国に出しました。
関東(甲信越)では、春秋にラウンドアップ(RU)という数百人規模のイベントを行っています。過去に周年記念集会が行われたときには、重なるRUは中止になっていたそうです。だから、来年の秋の関東のRUはやめたほうがいいという意見が出ていて、僕も役割上その意見に賛成でしたし、それが正しいことだと確信していました。
一方、やっぱり来年の秋もRUはやりたいという意見も根強くあります。そういう人たちの理由は、福岡まで行くにはお金がかかるから貧しい人は行けないし、まして生活保護の人々はどうなんだという話でした。でも、僕はそれだったら一回ぐらい我慢したっていいじゃないかと思っていたのです。それになんとなく建前っぽい感じがします。
今回の茨城のRUに参加したのは、どうしてそんなにRUが必要とされているのだろう? という理由が知りたかったからです。
ラウンドアップでは、ミーティングやワークショップが開かれています。でも規律に縛られないAAでは、それ以外のことをやっている人もたくさんいます。ただロビーに集まってしゃべっている人、ハイキングに行く人、ソフトボールをやる人、麻雀をやる人、ラッフルをやっている人・・・。僕は特定の誰かと一緒にいるのではなく、いろんな場所をうろつきまわりました。
初日のオープニングでは、九州から来た集会実行委員が「関東は九州に恨みでもあんのかよ」と訴えて大うけしていたそうです。
答えは最終日の「さよならセレモニー」の中にありました。各種のプログラムから一人ずつ、それに参加した人が感想を短くしゃべりました。ソフトボールの人の話はとても率直でした。「俺はソフトボールをやりにRUに来ている。ソフトボールのないRUには参加しないよ。みんなでソフトやるのがいいんだ」
もちろんミーティングに何かを見つけたと言う人もいました。でも、そんな人ばかりじゃありません。ずっと麻雀ばかりやっていた人もいました。ラッフルの運営にかかりきりの人もいました。仲間に囲まれて延々おしゃべりを楽しんでいた人もいました。
僕は一人に30周年集会についてどう思うか尋ねてみました。
「行くとしても、お義理の気持ちが強いと思う」
委員会では聞けない正直な話がここにありました。
家に帰って、疲れたので布団に横になって考えました。なかなかまとまらなかった考えが、急に一つにまとまりました。30周年集会にはソフトボールはたぶんないでしょう。麻雀もラッフルも、24時間仲間としゃべる部屋もないでしょう(一ヶ所に集中して宿泊しないから)。
彼らの求めているものは、来年のその日の福岡には用意されていないのです。彼らは30周年という「晴れがましさ」を求めているのとは違うのでしょう。彼らが必要としているものを奪うのは間違っているような気がしてきました。
だから僕はもう、来年秋のRU開催には反対しません。でも、30周年の晴れがましさは福岡に譲ってやって欲しいです。AAが始まったのは東京ですから、関東も30周年かもしれませんが、その「晴れがましさ」は彼らに譲ってやって欲しい。そうじゃないと、一生懸命やってる九州の人々があまりにかわいそうです。それを求める人は九州まで行けるでしょう。できるだけ日付は福岡とずらして、(30周年と言わず)普段どおりのラウンドアップをやるのが一番だと思いました。
正しいかどうかわかりませんが、僕の意見は変わりました。今回ラウンドアップに行って良かったと思っています。
実際にどうするのかは、今後委員会の人々が決めていくでしょう。
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