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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年07月07日(水) 掲示板のつづき abstinence とは何なのかを考えています。
アルコールの場合には完全断酒です。
ギャンブルの場合も、GAのハンドブックを見ると、賭け事はすべてやめるとあります。
その閾は、ゼロのところにあって、皆に共通です。
で、以前に雑記で書きましたが、完全にゼロにはできないものもあります。
食べ物、買い物、共依存、感情。
こちらでは、閾はゼロじゃなくて、しかも人によって違っているはずだと書きました。
性依存のグループでも、皆に同じ基準を当てはめているわけではないようです(これはちょっと不確か)。
しかし、その閾の向こう側に行けばスリップになることは、アルコールの場合も、共依存の場合も同じはずです。
だから「共依存の場合にはプログラムをやっていても細かなスリップの繰り返しになる」というのはコンセプトとして間違っていると思うのです。その状態はやはり abstinence ではありません。
閾が決まるまでには、試行錯誤による細かなぶり返しが避けられないと思います。
食べ物の人の話では、過食おう吐を発生させないフードプランができあがるまでには、何度か失敗も必要なのだそうです。感情や共依存の場合も同じではないでしょうか(つまり、細かな感情的・関わりのスリップを繰り返して、行動の安全域が定まっていく)。
こうして考えると、共依存の場合に、まず見捨てるがごとくに、大きく距離をとるところから始めるのは間違っていないと思います。とはいえ、同じ家に住んでいてまったく関わらないのは、買い物を一切やめることで買い物依存を止めているのと同じように不自然なことですから、徐々に健康な関わりを取り戻していくということじゃないでしょうか。
しかし、関わりを戻していく途中には、以前の不健康なパターンが顔を出して、こまかなぶり返しを伴うものでしょう。それは、食べ物依存の人が失敗をしながら安全なフードプランを確立していくように、共依存の人も行動の安全域が定まっていくものでしょう。
そして、そうしたフードプランや行動の安全域が定まった後は、アルコールやギャンブルの人と同じように、そこから一切の逸脱を避けるのが abstinence ということでいいのではないか、と考えています。
ともあれ、共依存の問題というのは、他者の存在を脇に置いて、共依存者本人だけで決まるものです。隣でアル中が飲み続けようがやめようが、問題は共依存者の中にあるわけです。酒をやめる・薬をやめるために役に立つ行動ができる、できないってのは、共依存であるかどうかとは無関係だと思うのです。
(昨日の雑記で「共依存の概念が変わっちゃう」と書いたのも、単なる僕の揶揄で、本人の治療にデメリットがある家族の行動が共依存だという文脈で講演が行われていたわけではありません。念のため)
それともう一つ感じたことは、損得勘定による誘導がいいことなのかどうか。
被虐待の子供の面倒を見ている人が、問題行動(例えば子供の万引き)をやめさせるのに、万引きがどんなに迷惑なのか倫理観や道徳に訴えても効果が薄いため、万引きすると大人に怒られるからとか、大人になるとそれで刑務所に入れられるから、と「万引きしたら損だから」と教えた方が効果が高いという話がありました。DV夫のグループ療法にしても、薬物依存の新しい治療法にしても、同じです。
自分が人にかける迷惑とか、あるいは自分の健康、そんないろいろなことをおもんぱかって行動を変える・・・そういうふうに導くには手間も金もかかりすぎるのでしょう。だからこそ、「おもんぱかる」ことを期待せず、なんだか即物的な損得勘定で誘導する。
そのことにちょっと虚しさを感じてしまったのです(それがあの揶揄に形を変えて現れたのでしょう)。
禁煙が1年間続いたら報奨金を出す方法に批判があるのだとか。その気持ちが分かります。
とはいえ、それに虚しさを感じてしまうのは、自分が駆け出し(何の?)である証拠であるかもしれません。あるいは素人である証拠かも。
2010年07月06日(火) 新しい依存症治療 最近休みの日となれば研修や公開講座に行っている気がするのですが、土曜も依存症の公開講座に行ってきました。前半は薬物(アルコール含む)依存症の新しい治療法について、後半はギャンブル依存症の話でした。
実はその前にAAのイベントに参加しいて、遅れて参加したので始まりから1時間ぐらいは聞き逃してしまいました。(だが、そこはたぶん依存症とは何かという話をしていたと思われるのでいいや)。講師は国立精神・神経センターの臨床家の先生です。新しい治療法というのは、必ずしも abstinence (アルコールで言えば禁酒・断酒)を目指すのではなく、moderate (アルコールならば適正飲酒)もありというものでした。
アメリカでは abstinence base ばかりではなく、moderate base の治療も増えてきていると聞いたことがあります(例えば自助グループならMM)。なぜ断酒・断薬を目指すのではなく、節酒(節薬?)なのかというと、断酒を強調すると治療の拒否・中断を招いてしまうからです。未治療のまま放置して病気を悪化させるより、拒絶を取り除いて治療に巻き込んだ方が良いという考え方です。
「節酒」と聞くとAAの人間として反発を感じてしまうのですが、聞いてみればこれは治療と言うよりは「医者が行う治療への導入(介入)技法」です。つまり治療の入り口戦略。ここから治療に入って、急性期治療を経て、慢性期治療へと進む。AAは一生をスパンとした究極の慢性期治療(再発防止)であって、この先生の話とは分野がまるで違うのだ、と思い至った後は心落ち着いて話を聞くことができました。
覚醒剤やアルコールの害を強調するばかりではなく、それにメリットもあることも気づかせる。これは動機付け面接(MI)の技法です。飲み続けるメリット・デメリット、やめるメリット・デメリット、これを表にして書き出してもらい、意志決定を促していきます。
治療の場に来たことをとにかく褒める、褒める、褒める。例え前の晩に覚醒剤をやっていて尿検査に反応が出てもとがめない。これによって、「また覚醒剤やっていることがバレるからもう診察には行かない」という気持ちを避けさせます。・・この話を聞いていて、昨年信田さよ子先生のDV加害者のグループ療法の話を思い出しました。自分の加害行為を自覚していなくても、反省していなくても、ともかく治療の場に来たことを褒め続ける。共通するのは、早く結果を出すのを目的としていることです。
従来の手法はとかく直面化を大事にしました。自分のやっている行為(酒、薬、ギャンブル、加害)の無意味さ、破壊性に気がついて、反省を促し、それによって行動を変えさせる方法でした。しかしこれには時間がかかります。最近の手法は、自覚や反省よりも「変わることのメリット」を強調して、それに吸い寄せている感じです。
家族の対応についても話がありました。家族に対して「本人を手放して」という対応から一転して、積極的に治療や再発防止に関わるべきとなっています。いくら「手放して」も酒や薬でトラブルを起こしていれば入院させるなどの手間を家族がかけねばなりません。本人にとって見れば家族に関わってもらえるわけです(寂しくない)。ところが酒や薬をやめたとたん家族はそれぞれの生活に戻っていってしまいます。すると本人は放置されて寂しいので、再飲酒してトラブルを起こします。こうして再飲酒のメリットを学習してしまいます(子供と一緒だ)。
そこで、やめていることがハッキリしているときは、家族が本人にご褒美をあげる。ご褒美といっても、やめるたびにディズニーランドのホテルに泊まっていたのではお金がいくらあっても足りないので、繰り返し実現可能な些細なことです。例えば本人が寂しくないように好きなテレビを一緒に見てあげるとか、好きな料理を作ってあげるとか。
逆に飲んでいることが明らかなときには、親切はしない。といっても、明らかな懲罰ではなく、例えば駅まで車で送っていたのを取りやめるとか、お金が足りなくても追加のこづかいは絶対あげないとか。
(こうなると共依存の概念も変わっちゃうのかも。本人の治療にデメリットのある家族の行為は共依存で、治療にメリットがあれば協力行為なのか?)
・・・そんな話を聞いていて思い出したのは、以前に発達障害児(含む被虐待)のケアの本に書いてあった、「良いことをしたら褒める、悪いことをしたら無視」という対応の基本です。発達障害児は(児に限らず大人も)障害を乗り越える動機や方向付けがハッキリしている訳じゃありません。そこでメリット・デメリットによって誘導する、ということになっちゃうのでしょう。それは、薬や酒をやめたい動機が薄い依存症者や、自覚のないDV男にも当てはまるというわけです。ようするに子供扱いか(犬猫のしつけだったりして)。
類似点は他にもあります。例えばシール。子供のケアの場合には、決まった日課をこなせたらシールをあげます。シールがたまると映画やおもちゃのご褒美がもらえる仕組みです。これをトークンエコノミーと呼びます。アルコールや薬物の治療でも、診察に来たらシールをもらえ、それがたまると何らかのご褒美がもらえるトークンエコノミーを採用しているのだとか。
(AAミーティングに行くとハンコがもらえ、ハンコがたまると福祉事務所から来月お金が支給される・・てのは違うのか)
こんなふうに、発達障害児(者)のケア、DV男のセラピー、薬物依存症の治療導入、の三つで同じ技法が使われているということに気がつきました。倫理に訴えたり、道徳を教えるのではなく、利益によって誘導するのは、ちょっと虚しい気もしますが、方法を選んでいられないほど現場は切迫しているということなのでしょう。
座長の先生は「いろんな方法が増えることは良いことです」とまとめていました。
ただ、講師の先生が moderate base の治療をする根拠として、コカインやヘロインの使用者には適正使用者(軽症例)もいるエビデンスがあると強調していましたが、実際話に出てくるアルコールや薬物の話は断酒・断薬が必要な重症の話ばっかりだったので、そこがごっちゃになっていたところが気にかかりました。
2010年07月05日(月) 大阪とコロンバイン トラウマを扱った講座の話をもう少ししてみます。
池田小事件を覚えているでしょうか。
大阪の附属小学校に刃物を持った男が侵入し、児童を殺傷、8人が死亡、15人が重軽傷という大事件で、メディアにも連日大きく取り上げられました。講師の先生は、この事件のときに被害があった小学校の子供たちや、その親のメンタルケアをするために派遣されており、その経験を話されていました。
被害者の親たちは、非常に怒っているわけです。犯人だけでなく、事件を防げなかったという理由で学校・警察・社会全体に対して激しい怒りを抱いています。人間は傷つけられるからこそ、怒る(恨む)わけですが、ではその傷をどうやってケアしたらよいかを考えねばなりません。
調べてみると、アメリカでも似たような事件が起きています。コロラド州でコロンバイン高校銃乱射事件というのがありました。いじめを受けていた高校生二人が学校で銃を乱射、死亡12人・重軽傷24人という大事件です。当然そちらの親たちも、激しく傷ついて怒ったわけです。
しかるに事件から1年後、事件のあった図書館を取り壊すのか、それともメモリアルホールとして残すのか、学校と親を交えて話し合いが行われました。その記録を読むと、親たちは感情的にならずに、実に冷静に話し合いをしているのだそうです。しかし、池田小の現場にいると、とても1年や2年でそんな落ち着いた状況になるとは思えない、この日米の違いは何なのか、アメリカの親たちはどうやって傷を乗り越えられたのか、それを調べたのだそうです。
コロンバインの親たちは、この事件は私たちに与えられた mission であると考えたのだそうです。つまり事件や子供の死は神から与えられた試練であり、(その意味は人智を越えているのでわからないものの)試練を乗り越えることが自分の人生の目的・目標であるという理解に至ったというわけです。だからそれに負けてしまっては、生きる意味が失われてしまいます。
その親たちが、特に信心深いとか、宗教に熱心というわけではなかったのですが、いざ人生の危機が訪れたときに、最終的に頼りになったのは心の奥底にあった根源的な信仰でした。
日本人は非宗教的な国民だと言われます。しかし、日本人がもともとそうだったわけではありません。第二次世界大戦では、宗教が戦争に協力をしました。宗教ばかりではなく、政党も新聞も戦争協力をした時代だったのですから、宗教ばかりを責められません。しかし、戦後日本が戦争を否定するときに、戦争に協力した宗教も捨て去ろうとしたわけです。
無宗教化、総中流化、単一民族化によって(実際にはそのどれも実現していないのですが)日本には理想的な市場が誕生し、それが戦後の経済復興を助けたのは言うまでもありません。得たものも大きかったものの、その過程で失ったものも少なくないはずです。危機のときに人生に生きる意味を与える根源的な信仰心もその一つだったのではないかと思います。怪しげな宗教に引っかかってしまう人が少なくないことも、それを裏付ける事実です(つまり人には信仰心が必要なのだという)。
アルコール依存というのも、人生のなかでは大きな危機です。なぜ自分が(他の人はならない)この病気になったのかという悩みを持つ人は少なくなりません。しかし、それをミッションと捉え、乗り越えることが神が与えた試練であり、人生の目的であるとする人の生き方は力強いものになります。
人間の心の奥底にある信仰心は、危機に働いて人を助けてくれる、人間の健康の一要素です。
なぜこんな話を書いたかというと、虐待による複雑性PTSDは、この心の奥底にある健康な信仰心を破壊してしまうのです。危機にも意味があり、それを乗り越えることに生きる意味がある、と信じられなくなってしまいます。しかし、そうした健康を失ってしまった日本人に、それを説明することは骨が折れるのである、という話です。
(神戸の連続児童殺傷事件と取り違えて記述しており、指摘を受けて訂正しました。ありがとうございました)。
2010年06月29日(火) 注意獲得行動再考 子供の虐待死に関する研修会に行った話は書きましたが、また別の日に子供のトラウマのケアをしている専門家の話を聞きました。
虐待を受けた子供のトラウマがテーマでしたが、基本は子供も大人も変わりありません。大人であれば会話が可能ですが、幼児の場合はそういうわけにもいかないので、人形を使ったプレイセラピーになるのですが、使われる技法は大人子供共通です。
しかしここではトラウマケアの技法は脇に置いておいて、別の話をしてしまいます。
障害児あるいは被虐待児の問題行動の一つに「注意獲得行動」があります。(被虐待も広い意味では障害と捉えていいでしょうけど)。
例えば、一対一で相手をしているときには比較的おとなしい子供が、集団に混ぜると大声を出したり、暴れたりします。これは大人の注目を得るための行動です。相手の注目や関心を引くために、わざとトラブルを起こしてみせる(悪いことをする)わけです。
例えば御飯のときにみそ汁をわざとこぼします。すると周りの人がこぼれたみそ汁を拭いてくれたり、服が汚れなかったか、体調が悪くないか心配してくれます。これにより自分が無視されず、ケアされると分かって安心するわけです。
また大人に対して、相手の気分を害するような言動、神経を逆なでする言動を繰り返すこともあります。これも悪いことをして関心を引く「注意獲得行動」の一つです。
これはコミュニケーション能力の貧弱さを示しています。(発達障害の場合には、自己制御能力の不足もあるでしょうけど)。良いことをして注目を引けばいいのに、悪いことでしかそれができません。被虐待児の特徴の一つです。
良いことをすれば親が褒めてくれ、悪いことをすれば叱られる、というのであれば、子供は良いことで注目を獲得しようとします。しかし、良いことをしても悪いことをしても、どちらでも親の気分次第で叱られ、ひっぱたかれるという被虐待の環境では、良いことをすれば褒められると学習できません。そこで、(悪いことをやったほうが結果の確実性が高いですから)悪いことで注意を獲得しようとします。
せっかく子供が学校で賞状をもらったり、良い成績を取ってきても、親がそれを褒めず、逆に「そんなものは社会に出たら役に立たない。世の中は金だ」と言ったらどうでしょう。子供は無力感を感じるだけです。これも虐待と言えるでしょう。
先ほど、子供も大人も基本は変わらないと書きましたが、注意獲得行動は大人でも見られます。大人だから成長してきた過程でそれなりの社会性を身につけているものの、いざ誰かの注意・関心を引こうとしたときに、相手の嫌がる行動や迷惑をかけることでしか、それができない人もいるわけです。そういう人は、子供の頃の被虐待がケアされないままなのでしょう。(最近は小学一年生に注意獲得行動が増えているのだそうです)。
アル中さんにも被虐待児が大きくなった人が多いので、断酒板にはふつーに問題行動が見られます。それが継続的・反復的に相手を非難する分かりやすい注意獲得行動であることもあります。しかし、そこまでハッキリとしておらず、その場に居合わせた人の気分をなんとなく苛立たせる行動ということもあります。その場にふさわしい話題で混ざるより、場違いなことを言って雰囲気をかき回した方が確実に関心が集まるからです。
注意獲得行動は、相手の優しい態度を引き出すばかりが目的ではありません。行動の結果、親から殴られ、先生に叱られ、他の誰かとけんかになったとしても、無視されるよりはずっと「ケアされている」実感を得ることができます。しかし、その相手をする大人にとって見れば、クソ生意気なかわいげのない子供と映ります。(アル中さんたちのかわいげのなさも、ここらへんに原因があるのでしょう)。
注意獲得行動にどう対処すればいいのか。それは学校の先生向けの本にも書いてありますが、基本は無視・放置です(安全に配慮した上で)。というのも、悪いことをして関心を集めるという行動を、叱ったり・責めたりするのは、相手の目的に沿った反応であり、悪い行動パターンを助長してしまうからです。もし関わるのならば、悪いことではなく良いことをして人の気を引くように指導することです。時間が取れれば一対一でじっくり相手をすることも必要でしょう(スポンサーシップ)。
「家路」は依存症の治療は自助グループで、というコンセプトでやっているサイトです。そのコンセプトに疑問を持ち、節酒ができるのでは、断酒にグループは不要では、という話を「ぶどう」の掲示板ですることは、ちっともかまわないことです。しかしなかには、人の話を混ぜっ返すことで相手をしてもらうことが目的になってしまう人もいます。以前は、そういう人に対してもなるべく丁寧に相手をしていました。
しかし、どうもこれは「注意獲得行動を助長しているだけなのでは」と気がついてきたわけです。そういう場合には投稿の自粛を頼むのですが、それで行動パターンが変えられるだけの能力がないからこそ注意獲得行動を起こす相手は、自制ができません。結果として、書き込み禁止、アクセス禁止にせざるを得なくなってしまいます。
掲示板、あるいはリアルなグループのなかで、「この人なんでこんなひどいことをする(言う)のだろう」とか「なんでこんなに人を苛立たせるのだろう」と理解に苦しむ場面に出会ったとき、「これは注意獲得行動ではないか」という視点で見ることは大切です。迷惑を被ったり、傷つけられたりするのは良い気分ではありませんが、相手の目的はこちらの気分を害することではなく注意・関心をひくことであると理解できれば、自分が相手にしているのが大人ではなく、虐待されケアを必要とする子供である構図が見えてくるかも知れません。
2010年06月28日(月) 日本には日本のAA? localize(ローカライズ)という言葉があります。
病気をある地方に制限すること。宮崎県で口蹄疫を封じ込めようとしているのもローカライゼーションです。
一方、工業製品やサービスをその地方向けに合わせることもローカライゼーションです。日本の自動車メーカーであるトヨタは右ハンドルの車を作るのが基本ですが、同じ車でもアメリカ輸出用には左ハンドルで作ります。外国の車を日本に輸入する場合でも、本国仕様とはタイヤやサスペンションの設定を変えることで、混雑して速度の遅い日本の交通事情に合わせます(仕向け地仕様という)。
このように、その場所に合わせたものを提供することは必要です。
「AAだって日本人向けの(ローカライズした)AAがあってもいいだろう」、いやそうあるべきだ、と考える人もいます。例えば、12ステップに出てくる神という言葉は、宗教文化が根付いている欧米ならともかく、神を捨て去った(という設定の)日本人には邪魔である、という人もいます。
もしアルコール依存症が日本の風土病で、他の国の依存症と違っているのなら、違うやり方でもいいでしょう。けれど、アルコール依存症という病気は世界共通です。アメリカ人のアル中も、ロシア人のアル中も、中国人のアル中も、そして日本人のアル中も、おんなじアル中です。そして、AAの12のステップも、12の伝統も、世界共通です。日本のAAも世界と同じであればいいのです。
「日本には日本のAAがあっていいはずだ」と言っている人たちが、AAにローカライズが必要だ主張するのなら、わからなくもありません。「世界のやり方を日本に押しつけないでくれ」という主張ならば、理解できなくもありません。けれど、そう言っている人が実は関東の人で、関東のやり方を日本全国に押しつけようとしていたりします。(たとえばサービス機構の構成を関東と同じにするべきだと主張する)。
もし押しつけが良くないというのなら、関西には(関東と違う)AAがあっても良いし、名古屋には名古屋のAAがあっていいはずなのですが、こういう人に言わせると、関東と違うやり方があってはいけないらしく、「あそこのAAはおかしい」となり、その理由が「やり方が関東と違うから」なのです。
おそらく「日本には日本のAAがあっていい」と主張する人たちは、自分のやり方が日本中で(いやそれどころか世界中で)通用して欲しいのでしょう。自分を中心に世界を回したい、という主張には耳を傾けるべきものがありません。
自分たちが世界と違うやり方をするのを認めて欲しいのならば、日本の中で自分たちとは違うやり方をすることも認めなければ、話がおかしくなります。
2010年06月27日(日) 12ステップの治療成績 疫学的調査のアブストラクトを見ていると、AAは断酒にほとんど効果がない、とあったります。
「そりゃそうだろうな」と思うのです。
例えばProject MATCHでは、12週間のアルコール依存症治療の後、3ヶ月ごとに12ヶ月間追跡調査を行い、飲酒パターンに変化があったかどうか調べています。そして、認知行動療法・動機付け療法・12ステップ療法(ただしこれはAAそのものではない)のどれが有効か比べようとしたものです。結果、12ステップ療法が優れていると言える有意差は出ませんでした。
12ステップに治療効果がないと言われれば、AAメンバーはメゲるかもしれませんが、そんなに気にしたことはありません。
以前、こちらの県内でも古参のAAメンバーがこんなことを言っていました。
「病院にメッセージに行くだろう? 話をした患者の中で、退院後にAAに来るのは10人に一人さ。せっかく来た連中も、次々途中で来なくなって、残るのは10人に一人。結局助かるのは100人に一人いるかいないかだよ」
実感としてそんなものでしょう。
けれど、来なくなった人の中には、失敗を体験し「無力」を自覚して戻ってくる人もいます。そもそもAAに来なかった人も、次回の退院時にはAAに来るってこともあります。現在AAにいるメンバーのなかでも、AAの存在を知って一直線にAAに来て回復したという人は珍しい存在です。AAに来るまでさんざん回り道をして、AAに来た後もまだ回り道をして、最後にようやく助かるのが普通です。
AAは一生というスパンで結果を出すようにデザインされたプログラムであり、1年間で多くの断酒者を生み出す仕組みにはなっていません。そのかわり回復が成し遂げられれば、その後もそれが維持されると期待できます。一方、精神病院への入院治療は短期間に多くの断酒を達成させますが、その後の維持については期待薄です。
様々な治療方法を比較することは必要ですが、個々の治療法の特性を無視して条件を設定すれば、意味のある結果が出ないことだってあるわけです。
実は認知行動療法にしても、動機付け療法にしても、依存症の治療成績は惨憺たるものです(だから12ステップ療法と差が出ない)。断酒の意欲があるかどうかに関わらず短期間で断酒を達成させ、しかもそれを一生維持させる・・・そんな夢みたいな治療法があればいいのですが、残念ながらまだできていないわけです。
2010年06月24日(木) 回復=掃除片づけ スポンシーの持ちネタのような気もしますが、スポンサーの特権で使っちゃえ。
ビッグブックでは回復を家の掃除にたとえています。家=自分、掃除=回復です。
いままで掃除をしてこなかった家は、とても汚れて散らかっています(いわゆる汚部屋状態)。自分の心の中も、不要なものを溜め込んで掃除をしていないのでぐちゃぐちゃになっているわけです。そこで「エイヤッ!」と大掃除をするのが、ステップ4と5です。汚部屋を掃除するのは一大事業です。
要るもの・要らないものを分別し、不要品は捨て、必要なものは整理整頓してしまっておきます。すると部屋はさっぱり住みやすくなり、それは心の中の掃除も同じです。
しかし人が生活している家ではゴミが発生するし埃も溜まります。一度きれいになった部屋も次第に散らかってきます。同じように人の心の中も次第に汚れてくるものです。だから一度大掃除をするだけでなく、その後も日常の掃除を続けていくのがステップ10です。
人は生まれながらに掃除のやり方を知っているわけではないので、人生のどこかでそれを教わらなければなりません。その教師役はたいてい親です。掃除のやり方を苦もなく覚えてしまう人もいて、こういう人は自分が親から掃除をやり方を習ったと意識してすらいないものです。
しかし何らかの事情で親から掃除のやり方を教わらなかった人もいます。たとえばそもそも親が掃除のできない人だったとか、親子のコミュニケーションに障害があったとかね。さらには親の代わりに教えてくれる人に恵まれないとなると、大人になって汚部屋の持ち主になってしまうわけ。それは心の掃除についても同じことです。
そこで(心の)掃除の仕方を学べなかった人のために、それを教える手順が12ステップだ、とも言えます。もちろん教え方は12ステップだけじゃないので、回復には別の手段もあり得るのですが、ここでは12ステップの話を続けます。
ステップ4・5をやるためには、スポンサーを自分の汚れた家の中に招き入れねばなりません。要るもの・要らないものを分けてもらい、不要品の処分の仕方や、必要なものの整理整頓のやりかたを教えてもらいます。自分の外面だけを見せて棚卸しをしても意味がありません。
人は羞恥心を持っているので、散らかった部屋は人に見せたくないと思うものです。せめて自分で少し掃除片づけをしてからスポンサーを招きたいと思うのですが、そもそも掃除する能力があればこんなゴミ屋敷にはなっていないわけで、いったん先延ばし戦法を採用すると、どこまでも先延ばしを続けなければなりません。これが「ステップ4・5の先延ばし」です。
要る・要らないの分別も、不要品の処分も、「エイヤッ」と思い切ってやることが大切です。というのも、掃除ってのは一生続ける作業ですから、エネルギーをつぎ込みすぎて掃除をするたびに疲れ果てていたのでは、他のことができなくなってしまいます。経済の持続可能な成長・・じゃないんだけど、持続可能な回復のやり方じゃないと困るわけ。
不要品のなかには思い入れの強いものもあるでしょうが、そこは政治家の事業仕分けじゃないですが、バッサバッサと仕分けしないといけません。それでも端から見ていれば、あんな仕分けじゃ生ぬるいよなぁ〜、と思われちゃうのも事業仕分けと同じです。
2010年06月19日(土) タバコそのものがストレスの元 ロイターのオンライン版を読んでいたら、こんな記事を見つけました。
禁煙で慢性ストレスが軽減する可能性=英研究
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-15870620100617 (魚拓)
タバコを吸うことが「ストレスの解消になる」と信じている人は少なくありません。
それにはおそらく一抹の真実が含まれているのでしょう。
喫煙者の9割以上はニコチン依存の診断基準(IDC-10のF17)を満たすそうです。タバコ吸いは立派な薬物依存者で、依存というのは何かしらメリットがあるからこそ対象に依存するものです。アルコール依存の人だって、最初は酒によるメリット(ストレス解消とか)が大きかったはずです。それが依存症という病気が進行するにつれ、デメリットのほうが大きくなっちゃって、やめざるを得なくなったわけです。
タバコを吸う人も、タバコによるストレス解消効果より、吸うこと自体のストレスが大きいらしく、やめた方が2割ほどストレスが減る、という研究成果です。
元ネタがAddiction誌だというので、プレスリリースに出てないかと見にいったのですが、残念ながらオンラインには出ていませんでした。そのかわり、こんな記事をみつけました。
Smoking cessation treatments work and are safe for people with severe mental illness
http://www.addictionjournal.org/viewpressrelease.asp?pr=125 (魚拓)
深刻な精神病の人への禁煙治療は有効かつ安全、という話です。
SMI=深刻な精神病(例えば統合失調症)の人は、タバコを吸う人が通常より2〜3倍多く、それが多くの健康被害をもたらし、死亡率の高さ(3倍)につながっているのだそうです。
統合失調症で荒廃が進んで長年入院している人など、タバコしか楽しみがない人もいます。医者はそういう人を禁煙させることに後ろ向きで、禁煙によるストレスで精神の状態が悪化することを心配していました。
こちらの研究では、そういう人にも禁煙治療(薬物療法・行動療法)が有効であること、また精神病を悪化させない(安全である)という結果が出ています。
荒廃した統合失調の人の寿命は25年短いのだそうです。それは統合失調そのものの影響よりも、タバコの影響のほうが大きいのではないか、というコメントがついています。
アルコール依存症の人の平均寿命は52才だそうです。これは日本人男性の平均寿命より25年は短く、おそらくその主因はアルコールそのものでしょう。しかしアル中にはタバコを吸う人が多い(AAのイベントは煙い)ことを考えても、タバコによる影響も無視できないはずです。きっと疫学的に調査すれば寄与危険度の数字が出ることでしょう。
アメリカでは酒をやめたアル中の死因も研究されていて、そのナンバーワンはタバコになっています。AAメンバーでも、もっと長生きしてメッセージを伝え続けて欲しいと思う人がガンで死んでいくのは残念なことです。
僕が酒をやめた人にタバコもやめることを勧めています。もちろん、酒とタバコ同時にじゃなくて、より深刻な酒のほうを優先し、それが安定してからタバコですけど。それが薬物依存だからというより、
せっかく酒をやめたのに、タバコで死んだのじゃつまらない
からです。
それに、「女性はタバコを吸っていると、明らかに早く老ける」からでもあります。
2010年06月18日(金) 問題の分かち合いばかりでは 6月3日の雑記「その概念を他の依存に拡張する」で、
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100603
「問題」と「解決方法」の二つに分けました。
人それぞれ抱えている問題は違います。アルコールだったり、ギャンブルだったり。薬物だったり。共依存だったり。はてはACだったり。問題が違えば、ミーティングでそれを分かち合っても、共感できないことだってあります。
僕はアルコールの人なので、ギャンブルへの衝動がコントロールできないこととか、覚醒剤をやってセックスするといかに気持ちいいかとか、食べて吐いたときのちょっとスッとする感じとか、(頭では理解できても)体験的に知っているわけじゃありません。
けれど、問題は違っていても、解決方法(12のステップ)は共通です。
「私たち一人一人にとっての偉大な事実は、私たちが共通の解決方法を見つけたということにある」(p.27)
だからミーティングでは、問題ばかりでなく解決方法も分かち合う必要があります。どうやってその問題を解決したかという「経験」を分かち合うことで、将来へ向かう「力」や「希望」が生まれてくるからです。
逆に言うと、問題ばかりが分かち合われているミーティングには「希望」がありません。表面的に明るくても、裏にはいつまでも問題に屈服され続ける惨めさが潜んでいます。過去アディクションがひどかった頃にあんなことやこんなことをした、と笑いに転化して話すのは、一見楽しく明るい分かち合いに見えるのですが、それだけでは実は解決のない暗い暗い希望のないミーティングになってしまうのです。
依存の症状が止まっても、それだけで問題が消え去るわけではありません。日常生活の中で、問題はいくらでも発生してきます。人間や金銭への不満や不安にさらされ続けるのが人生なのですから。もちろん、人間にとってそうした心の中の問題を口に出すことは大切なことです。けれど、ミーティングは問題を分かち合う場所ではなく、むしろ、それをどうやって乗り越えたか(解決)を分かち合う場所です。
けれど、そうした解決の示されない(暗い希望のない)ミーティング会場でも、人はそこに何らかの心地好さを感じます。悩んでいる人は孤立しがちなので、悩んでいるのは自分一人だと思っています。けれど、ミーティングに行けば同じ問題、同じ悩みを抱えた人が他にもいることがわかり、その中に混じって「ちょっとホッとする」のです。
また悩んでいる人は孤立しがちなので、(酒やギャンブルが止まっていても)心の中を打ち明ける相手がいない(か少ない)のがふつうです。ところがミーティングに来れば、みんな黙って自分の話を聞いてくれますから、先週のミーティングから今日までこんなことがあったとか、会社や家でこんな目にあった、という話をして、それで「ちょっとスッとする」のです。
こんなふうに、問題ばかりが分かち合われるミーティングでも癒し(リリーフ)は与えられます。けれど、その癒しの効果は一時的なものに過ぎず、問題は解決されないまま残ります。せっかくミーティングにつながっても、そのことに失望して去ってしまう人もいます。あるいは、一時的な癒しを延々求め続ける人たちもいます。
ある人がミーティングに毎日通って酒をやめていました。回復優先で仕事はしていませんでした。三年経って仕事についたら、忙しくてミーティングに行けず、精神的に調子を崩して再飲酒、仕事もクビになってしまいました。この人に対して「ミーティングから離れるから再飲酒するのだ」と言って済ませていいものでしょうか。
一時的な癒ししか与えないミーティングに毎日通って、それによって断酒を続け、そこから離れたら酒を飲んでしまう・・忙しくてミーティングに行けない状況に、ただ流されてしまうだけの人を作る。これでは回復とは言えません。この人に、またミーティングに通えばいいよ、というのは、螺旋をもう一回転させるだけ、良くて問題の先延ばし、悪ければ「人殺しの論理」です。
だから、ミーティングでは問題だけでなく、解決(ステップ)の話をしなければなりません。ステップの話というのはどうしても堅苦しい雰囲気になりがちなのですが、でもそれが実は明るくて希望のある会場なのです。
けれど、それだと解決を経ていない、ステップをやっていない人はミーティングでの分かち合いに参加できなくなってしまいます。ステップをやっていないビギナーは、問題を分かち合えばいいし、それで「ホッとする」でも「スッとする」でもしてくれればいい。一時的な癒しでも何でも使って、ともかく酒やギャンブルをやめ続けることが大切です。なぜなら、酒に酔いながら、薬でラリリながらステップをやるわけにはいきません。ステップをやるまでの猶予期間です。
ビギナーには、問題だけを分かち合う自由が許されている。
のです。問題だけを分かち合っている人がビギナー(何年飲んでいなくても)、解決(ステップ)の経験を話せるようになればビギナー卒業、ということです。
問題だけしか分かち合われていないミーティング会場は結構たくさんあります。それが与える一時的な癒しが自助グループの効果のすべてだと思っている人もいます。けれど、それは誤解です。自助グループの真の実力はそんなものではありません。見くびってもらっちゃ困るってわけ。
2010年06月17日(木) 希少種 厚生労働省の行った患者調査(2008年)によれば、精神病(精神および行動の傷害)で治療を受けた総患者数は281万5千人。(ちなみに統合失調症が約80万、気分障害(うつ病など)が約104万)。
一方、アルコール依存症で治療を受けている総患者数は1万6,700人(患者調査2005)。
ということは、精神科医が診る患者のなかで、アルコール依存症の人は1.67万/281.5万=0.59%です。
KASTを基準にアルコール依存症の有病率を推定すると男性7.4%、女性1.5%。これだと450万人が依存症。IDC-10を基準にした場合は男性1.9%、女性0.1%。82万人がアルコール依存症です。決して依存症の人が少ないわけじゃありませんが、医者にいく人が少ないのです。
つまり、アルコール依存症の受診率はとても低いため、「精神科の現場ではアルコール依存症の人は珍しい」。168人の患者のうち1人だけなのです。
さらに、うつ病も併発している、しかもそのうつ病が難治性で何年も治療している、となると、そんな患者を複数抱えている先生って、どれぐらいいるんでしょう(きっとすごく珍しい、という意味)。
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