無責任賛歌
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2006年02月04日(土) 筑紫は国のまほろば/映画『ギミー・ヘブン』

 『ウルトラマンマックス』第32話「エリー破壊指令」宇宙工作員ケルス登場。
 最終回も近いマックス、シリーズ締めくくりを感じさせるエピソードが散見するようになってきたけど、今回のがアンドロイド・エリーをフィーチャーするラスト・エピソードになるのかな。私はかなりこのキャラクターを気に入っていたので(ヘアースタイルを除いて)、名残り惜しい。「そんなに女の子が好きか」とどこぞから声が飛んで来そうだが、私ゃ男なんだから女の子が好きなのは当たり前である。男の子を好きだったら、まあそれはそれで今は何でも自由な時代だから後ろ指差されるようなことでもないのだが、一応、私はノーマルなんである。もちろん女の子だけに限定されるわけでもなくて、熟女だってドンと来いだ。実際にドンと来てくれることなどないのだが。
なかなかマックスの話にならんな(笑)。

 宇宙工作員ケルス(小田井涼平)のプログラム侵入によってコントロールされ、UDF破壊のためのミサイル発射誘導装置にされてしまったエリー(満島ひかり)。エリーはダッシュアルファで逃亡し、ベースタイタンも強制閉鎖されてしまった。ダッシュドゥカでエリーを追ったコバ(小川信行)だったが、ケルスに対峙した彼にUDFの非情な命令が下る。「エリーを破壊せよ」……!

 第7話で登場した宇宙工作員ケサムの同僚(笑)による再地球侵略計画編。ケルスがケサムの名前を出されて、「あんなやつと一緒にするな」と自分の方が上であることを強調するのは、死神博士と地獄大使の関係のような、魔王デカンダと流星鉄仮面のような。譬えが古くて悪いねえ(笑)。イマドキこれをやられると、途端にドラマが安っぽくなるので、やめて欲しいんだけど。どうも『マックス』はエピソードごとの出来のムラが激しくて、今回はちょっとマイナス面の方が目立つ。
 DASHの機能が殆どエリーに一任されていたために、機能不全に陥ってしまったのは。まあそれだけエリーが優秀だってことだし、ドラマの展開上、仕方がないことではあるのだが、それにしてもこれまでにもしょっちゅう宇宙人に侵入されたり、電波妨害を受けたりと、防衛機関としてはなんか弱すぎる印象が強くて、いくらなんでもちょっとどうかなと思うのである。ココは「ペットロボット」って設定なんだけど、ホントにただのペットでまるで役立たずなのか?
 ケルスはケルスで、簡単にDASHにアジトを強襲されてしまうし、最後の手段がエリーを人質に取るというチンピラヤクザなみのやり口で、これでどうして「ケサムより上」と威張れるんだか。
 だいたい、ケサム編の続編なら、フィーチャーすべきはケサムと「いい仲」になりかけたミズキ隊員(長谷部瞳)であるべきで、前編とのつながりが、ミズキがちらっとフラッシュバックでケサムを思い出すだけってのは、何のための続編なんだ、と首を傾げざるを得ない。つまりはこのエピソード、コバとエリー、ケサムとミズキ、そしてトリのケルス対マックスと、ドラマが分裂しちゃってて、整理が付いていないのである。つかさー、この話、「もう予算がないから、以前使った着ぐるみリフォームして、ついでにエリー活躍編にできない?」って注文で作られたんじゃないかって気がするぞ。いくつもの要求をこなすためにツギハギになっちゃったって印象が強いのである。
 まあ、現在の円谷プロの実力を考えると、毎回秀作ばかりというわけにいかないのも分かるんだけれど、これがエリーのラスト・エピソードだと思うとねえ(死ぬわけではない)、ラストの笑顔がやっぱり素敵だっただけにねえ、もったいなくってねえ。
 で、いよいよ来週はバルタン星人登場、飯島敏弘脚本監督作品だ。飯島監督は一端現役を退いたあと、復帰した後は作るものことごとくアマアマな作品ばかりなんで、そんなに期待しちゃいないんだが、飯島さん以外にバルタンを任せるわけにもいかないしねえ。まだ最終回じゃないから、シメじゃないだけいいと考えるべきかね。


 昼食の後、運動療法を兼ねて近所の板付遺跡を散策。
 立春の日に古代のまほろばに思いを馳せるというのも何となく意義があるような別にどうでもいいような(笑)。弥生式土器の最古のものが発見された遺跡として知られ、それはおよそ紀元前900年。讖緯説(しんいせつ)に基づく神武天皇即位よりもはるか太古に博多の民は筑紫平野のあちこちに集落を作っていたのであって、庶民の歴史は天皇家より古いのである。そもそも人間の伝統はどこかの家一つを過剰に持ち上げずとも創世のころより連綿と続いているのだ(またこれも誤解を受けたらいかんから書いとくけど、別に天皇家をないがしろにしていいと言いたいわけじゃなくて、ウヨクやサヨクのように過剰反応する既知外と一緒にするなと言いたいだけだ)。
 それはさておき、休日とは言え、地元に古代史や考古学に興味がある人間がそんなにたくさんいるとは思わず、資料館もどうせ無人だろうと高を括って入ってみたら、確かに客は私一人だったのだが、観覧者の記帳記録を見ると、今日だけでもう十人ほどが来ていたのだった。しかも博多区民だけでなく、東区あたりからもやって来ている。意外に人気があるんだなあとビックリする。
 受付にいた館員さんも、ちょうどヒマだったのか、私がそう広くもない館内を見て回るのに一緒に付いてきて、展示物についていちいち解説をしてくれる。
 「これは、弥生人の足あとです。実際に残されていたものを石膏でかたどったんですよ。床にあるのもそうです」
 なるほど、床には24、5センチほどの足あとがふらふらと出口に向かって塗られている。
 「親指が随分、外に向かって離れてますね?」
 「ああ、それは田んぼの中で踏ん張っているからですよ。昔ははだしで、履物はなかったんです」
 なるほど、展示物を見ても当時の衣服は再現されていても履物はない。靴や下駄はなくても草履みたいなものはあったかもしれないが、少なくとも野良仕事で使うことはないだろう。現代人の発想だと、どうしても藁靴くらいは履いてたんじゃないかと思ってしまうところだ。
 村の側溝を掘り返したその地層を壁に貼り付けているのを見ていると、館員さんがまた近づいてきて、「ここに青銅器がありますよ」と、土の中の出っ張りを握ってみせた。展示物が剥がれるんじゃないかと心配するほどだったのだが、館員さんは気にもしないで、勝手に解説を始めてしまう。
 「弥生時代にはまだ青銅器はありませんからね、これはその時代には側溝はもう埋められて、ゴミ捨て場になっていたということなんですよ」
 つまりこの村が存在した期間も、土器の材料の科学的分析やそんなことからほぼ確定できるということである。その青銅器は何の道具だろうなどとちょっと疑問に思いはしたのだが、ヘタに質問などをしてしまうと解説攻めに遭いそうだったので(笑)、適当なところで資料館は引き上げて、遺跡の方に回る。
 発掘された広い敷地は公園のようになっていて、近所の人たちにとってはちょうどいい散歩コースだ。村の周囲がぐるりとかなり深い側溝になっているのは、用水のためもあるが外的からの防衛のためもあるのだろう。土手は切り立っていて足場はかなり悪く、ちょっとバランスを崩したら、側溝の下まで転げ落ちてしまいそうである。打ち所が悪ければ大怪我をしそうな感じだ。私には多少高所恐怖症の気があって、ベランダの手すりから下を見下ろすとクラッとなることもしばしばなのだが、不思議なことにその上に立ってもあまり怖いという感じがしない。高いと言っても、空中に放り出されるわけではなく、転がり落ちて行くイメージガ想定できるからだろう。本当に転がり落ちたりはしないよう、充分気をつけて、携帯で写真を撮る。あとでミクシィにアップするためである。こちらの日記は写真をアップできないのがネックだね(できるのかもしれないがやり方が分からない)。
 村の中には、竪穴式住居が二十戸ほど再現されている。いくつかの家の中には実際に入ってみることもできる。中は正直、とても広いとは言えない円形の空間で、せいぜい四畳半程度しかなく、真ん中に穴が掘ってあって囲炉裏のようになっているので、脇で寝ようと思ったら、膝を曲げて横になって寝るしかない。しかしそれも弥生人の生活の様子が想像せられて、こういうのが好きな人にとってはたまらない魅力だろう。しばらく中で木の株の椅子に座ってのんびりしてみたが、外はかなり寒かったのだが、中はだんだん暖かいように感じられてきた。茅葺の屋根には今朝の雪がまだ残っていたが、中までその冷気が染みこんでくることはない。雪や暴風程度では吹き飛ばされないほどの頑丈さはありそうだった。子豚もこれなら狼から身を守れそうである。
 運動のために来たのに、骨休めに来た感じになってしまった(苦笑)。でもまあ、いかにも立春らしくていいかなとも思う。


 夜、シネ・リーブル博多駅で映画『ギミー・ヘブン』を見る。

 ある大企業の会長が、自宅の豪邸で殺害された。現場には奇妙な文様の血痕が残されていたが、それが何を意味しているのか、捜査員の誰にも理解することはできなかった。その家の養女・麻里(宮��あおい)は幼いころに両親をなくし、施設で育てられていたのだが、これまでに三度、富豪の養女に貰われ、受け入れ先の親がみな謎の死を遂げるという奇妙な符号を見せていた。しかし、どの事件においても犯人は挙がっており、麻里が嫌疑を受けろことはなかった。
 自分が感じたり見たりしたものが他人と違う感覚を伴って脳にインプットされてしまう「共感覚」の持ち主、葉山新介(江口洋介)は、相棒の野原貴史(安藤政信)と組んで、インターネット上で盗撮サイトを運営していたが、ある日、ある女の一室に仕掛けていたカメラに異変が生じているのを発見する。女は失踪し、そのベッドにはあの「文様」と同じものがマーキングされていたのだ。それはかつて人々を自殺や殺人に駆り立てた伝説のネット犯罪者「ピカソ」が残していたマークだった。
 新介と貴史は女を探す過程で、河川敷の排水溝で倒れている少女を発見する。それは殺人事件の直後に失踪していた麻里だった……。
 
 先に断っておくが、この映画は基本的に観客をかなり限定してしまう映画である。いや、実際は別に限定はしていないのだが、昨今は映画の見方に関して素養のない人間がゴマンと増えてしまっているので、「この描写はなぜ存在しているのか」、また逆に「この描写はなぜ存在しないのか」がまるで分からなくなつているのだ。特にこれは、「本格ミステリー映画」である。ネットの感想などを見てみると、この映画に批判的な意見を述べている人間は、軒並みこれがミステリーだということに気付いていない。
 「全然怖くない」なんて意見はホラー映画と勘違いをしているし、「これこれこういう描写がないから分かりづらい」なんてのは、それを描くとトリックがバレるからわざと隠しているのである。あまりにも馬鹿意見ばかりに出会うので、ああ、日本にミステリーは全く根付いていないのだなあとまたまた悲しい気分にさせられてしまった。
 『名探偵コナン』のようなミステリーとして見れば箸にも棒にも掛からない作品が人気を呼ぶのも所詮はキャラ人気でしかないし、横溝正史の原作小説の中では出来の悪い方の『犬神家の一族』や『八つ墓村』の方が映像化の頻度数が高いのはムード優先でミステリーとしての完成度など二の次にしているからだし、本格ミステリーの歴代ベストテンに選出されるような傑作が殆ど映像化されていないのも、結局は「そんなものを作っても一般の観客には何が何だか分からない」からである。
 これも何度も例えに出していることだが、八百屋に行って「肉が売ってない」と腹を立てるのはまさしくお門違いというものである。『ギミー・ヘブン』への批判も殆どが的外れであって、ではこの映画をどのように鑑賞するのがマットウであるか、ということが問題になるのだが、これを説明するためにはトリックから何から内容を全てネタバラシしなければならないので、それは不可能なのである(ネットで堂々とネタバラシしてるやつも、そのへんの素養がないやつばかりだから、微妙にネタをバラし損なっているのが笑える)。
 でもそれをしたからと言って、もともとミステリーの素養がない人間には何を言っているのか、そもそもそれがどうして問題になるのかはチンプンカンプンであろうし、ミステリーが「分かっている」人には言わずもがなである。つまり書くこと自体に意味がないのだ。
 だもんで、結局言えることは、「ミステリファンならぜひ見なさい」ということだけである。隔靴掻痒を感じているのはあなたより私の方なんだから文句は言わないように。
 でもよー、何が馬鹿かって、この映画を配給してる松竹やらアートポートが一番の糞馬鹿でね、パンフレットのあちこちで(それこそイントロダクションで!)、犯人とトリックをバラしまくってるんだよ。パンフ先に読んでこの映画を見た客は、そりゃ何が面白いんだか分からないだろうよ。私には事前にパンフは読まない習慣があったからよかったけどね。

2005年02月04日(金) 『魔女の宅急便』実写化?(゚o゚)/映画『レイ』
2004年02月04日(水) 入院日記3/またヘンな夢を見た
2003年02月04日(火) 予想通りに世の中が動くって味気ないね/DVD『パパ・センプリチータ』/『名探偵コナン 10+PLUS SDB』(青山剛昌)
2002年02月04日(月) チョコレート一本勝負/『何だかんだと』(ナンシー関)ほか
2001年02月04日(日) HOME,SWEET HOME/『犬の気持ちは、わからない』(押井守)


2006年01月23日(月) 騙されたわけじゃないでしょ/映画『探偵事務所5” 5ナンバーで呼ばれる探偵達の物語』

 今晩のニュースはもう、ホリエモンの逮捕で持ちきりである。
 親父が「また株が下がる」と嘆いてそうだなあ。だから株なんて個人レベルで真剣にやるやつが馬鹿だってんだ。母の生前からそのことは散々言ってきたのに、忠告を無視するからこうなる。もともとはお人好しで世間知らずな親父やお袋が、なぜかトチ狂っちゃったと言うか、妙に色気を出して一攫千金を夢見たりするから、足元を掬われるのだよ。
 テレビじゃ、株の暴落のせいでで自己破産しなきゃならないと嘆いている個人投資家の映像とかも流してたけれど、同情する気が少しも起こらない。討論番組じゃ、システムが悪いのかホリエモンが悪いのか、とかなんとか、「識者」のみなさんが言い合っていたけれど、一番悪いのは人間の「欲」そのものじゃないかと私は思う。
 谷崎の『刺青』じゃないが、人は「愚か」という「徳」を忘れてしまっているのだ。
 実際、自分が馬鹿だと自覚していれば、あまり欲を掻こうって気にもなれないものだ。シロウトに毛が生えた程度の知識しかない未熟者が、海千山千揃いの株の世界に飛び込んでいけば、あえなく騙されてしまうだろうなんてことくらい、見当が付きそうなものなのだが、これがなぜかできない。ヘタに自分をリコウだと勘違いしているから、「自分なら上手く立ちまわれる」なんて思い上がっちゃうのだね。
 株はバクチなのである。バクチだから、勝つやつもいれば負けるやつも必ずいる。そして勝つやつよりも負けるやつの方が圧倒的に多いのだ。あんたもあんたもただの馬鹿なんだから、負ける方が自然なの。自分だけが勝てるなんて思ってんじゃねえって。
 しかし、選挙でホリエモンに投票した連中、今、どんな気分でいるだろうね。裏切られたとか思ってるかね。けれどもそれがそもそも大間違いなので、人間の本当の腹なんて、見抜けるはずがない。誰かが誰かを信用するということは、もう理屈なんか関係なくて、親鸞がかつて法然を無条件で信じたように、「騙されても構わない」と思うくらいの覚悟が必要なのだ。あとになって「騙されたあ」なんて騒いでるやつはそもそも人を信じる資格がないのだ。
 人を信じることもやはり一つの賭けである。そして、賭けに負けたんだから、そこは潔く、損を受け入れるしかないでしょうに。それがイヤなら最初から他人を信じちゃいけないんだって。
 私はホリエモンがどうなろうと構わないし、彼に騙された馬鹿どもにだって同情は一切しない。マネーゲームに狂奔した連中が、これからももっと馬鹿な醜態を晒す様子を見て、大笑いしてやろうと思うばかりである。

 それにしても、今回のシナリオを書いたのはいったい誰なんだろうね。いや、裏で政府が暗躍して小島社長の証人喚問から世間の目を逸らさせるために特大ニュースを仕立て上げたとかいうトンデモ陰謀説は置いといて、経済界に多大な波紋を呼ぶと分かっていながら、あえてこのシナリオを描いた人物が誰か、ということである。もちろん順当に考えればそれは今回の逮捕劇を「演出」した東京地検特捜部の中の誰かってことになるんだろうけれど、ライブドア内にアンチ・ホリエモンな一派がいて、そいつらが地検に情報を事前にリークしたんじゃないかという気もするのである。
 まあ、これも適当な憶測に過ぎないので、本気にしないように。


 2月10日から中国で上映される予定だった映画『SAYURI』が、突然上映中止となった。理由がちゃんちゃら可笑しくて、ヒロインの芸者役を中国人の章子怡(チャン・ツィイー)が演じているのが、「中国人に旧日本軍の従軍慰安婦問題を思い起こさせ、反日感情の悪化につながることが懸念される」というのである。
 芸者は慰安婦じゃねえっ!
 もうなんつーかね、芸者と慰安婦の区別もつかない馬鹿どもがさ、反日反日ってお題目みたいに唱えてるのを聞いてるとね、やっぱりこいつら相手に熱くなるだけ時間の無駄だという気にしかなんねえのよ。
 私ゃどっちかというとさ、日中戦争を侵略戦争ではなかったと言い張る糞タレな連中に加担したくはないから、明らかに中国の言い分におかしいところがあっても、あえて糾弾するような発言は控えてきてるんだが、ここまで馬鹿だと、やっぱりあいつらは歴史を事実に即して捉えようなんて意識は本当はなくて、反日のための反日、手段のために目的がある糞どもばかりなんだなと思わざるを得なくなる。
 京都の芸者さんたちはこの明らかな差別的な措置に対しては激烈に抗議しても構わないと思うな。実際には「中国人の馬鹿相手に怒るのも恥ずかしおす」ってな感じでほっとくんだろうけど。そもそも『SAYURI』自体が芸者を馬鹿にしている映画だし、まあ、あんなもんのために要らざるコブシを振り上げたってしょうがないやな。


 仕事帰りにシネ・リーブル博多駅でしげと待ち合わせ。
 一緒に映画を見るつもりだったのだが、財布を家に忘れてきたことを思い出した。時計を見ると、まだ上映まで40分ある。しげにメールを入れると、「もう家出たよ」。家から博多駅までは車で15分くらいのものだ。何もそんなに早く出なくても、と思ったが、それがせっかちというより神経過敏なしげの習性なのだから仕方がない。
 すぐに取りに帰ってもらうが、じきに今度はしげから直接電話があった。
 「財布見つからんよ!」
 「パソコンの机の前にないか?」
 「ない」
 「ないはずはないよ。下に落ちてるか、隣の棚のあたりにないか?」
 「ない!」
 これもしげのいつもの習性なのだが、目の前にあるものでも「もしかしたら見つからないのではないか」と思い込むと、それが本当に見えなくなるのである。だから「ない」なんてことはありえないと念を押して言った。
 「あるよ、絶対。よく探せ」
 「でも、ないもん」
 「あるって!」
 「ない、ない……、あ、あった!」
 どうやら見えなかったものが見えるようになったらしい。
 「どこにあった?」
 「隣の棚んとこ」
 やっぱり目の前にあったものを見つけられなかったのである。これも一種の病気だと思うのだが、治療法はないものなのかね。関口君は別に診療を受けていたような形跡はなかったが。


 映画は、『探偵事務所5” 5ナンバーで呼ばれる探偵達の物語』。 
 シリーズ化を目論んだ第一作で、と言ってもこれまでに林海象監督が作ってきた『夢見るように眠りたい』や『濱マイク』シリーズともリンクしているという、ちょっと変わったムードの探偵物語である。更には主役の探偵591・小林芳雄(成宮寛貴)は、あの『少年探偵団』の小林少年の孫なのだ!

 創立60年の歴史を持つ探偵事務所5”。そこに所属する探偵たちはすべて5で始まる3ケタのコードネームで呼ばれる。事件の依頼があれば、その事件に最もふさわしい探偵が選ばれ、調査に乗り出す。しかし新米探偵591には実績がないためにひたすら待機状態が続いている。ひょんなことから会長・500・宍戸錠(宍戸錠)の娘、宍戸瞳(貫地谷しほり)と知り合い、彼女の親友が失踪したことを知った彼は、その義侠心から事件の解明に乗り出すことを決意する。

 事件はあるが本格ミステリーというわけではなく、謎はあるが論理的に解決されるのではなく、ハードボイルドほどに探偵たちはストイックでもない。まだ半村良の『下町探偵局』に近い雰囲気か。けれども登場する探偵たちは、みな黒のソフトに黒のスーツ、黒のネクタイという、MIBみたいなスタイルを制服にしている。そんなんじゃ一発で探偵だってバレるじゃん、なんて突っ込みはこの映画にはしちゃいけない。いみじくも探偵オフィスの壁に『多羅尾伴内』のポスターが貼られていたことからも分かる通り、これは「スタイリッシュだけれども人情厚き探偵たちの、愛と冒険の物語」である。

 探偵522(宮迫博之)が言う。
 「探偵にとって一番必要なことは何だか分かるか? 依頼者を家族と思えるかどうかだ」
 本当の探偵が、こんな意識で仕事をしているのかどうかは知らない。けれども、そういう気持ちで調査に当たってほしい。これはそういう「夢の探偵」たちを望む人たちのために紡ぎ上げられたファンタジーなのである。
 
 物語は、第1話『私立探偵591 〜楽園〜』と、第2話『私立探偵522 〜失楽園〜』に分かれている。
 しかしこの2話は前編・後編の役割を果たしており、1話で591が探索したカイン美容外科が2話にも登場し、メインの探偵が522にバトンタッチされ、前半で提示された「闇の整形」の実態が、後半で暴かれる、という趣向になっている。なんとなく映画を見ているというよりは、テレビシリーズの1話・2話を連続して見せられたような印象で、ちょっとスケール感がなく、これが効を奏しているかどうかは微妙なところだ。
 登場する探偵たち、犯人たちのキャラクターも悪く言えばステロタイプなのだが、何より物語が「探偵たちへの愛」に満ちているので、その陳腐さも悪印象を与えることはない。特に濱マイクの瓜二つの弟(?)とかいう内偵モリヤマ(永瀬正敏)の活躍ぶりは楽しい。
 けれどこれがヒットしてシリーズ化されるかどうかは難しいんじゃないかねえ。なんたって地味だから(苦笑)。

2005年01月23日(日) 時事ネタまでは手が回りません/映画『レイクサイドマーダーケース』ほか
2003年01月23日(木) アニメの実写企画って……/『ロケットマン』4巻(加藤元浩)/『はじめてわかる国語』(清水義範)ほか
2002年01月23日(水) 風邪まで引いちゃったよ、どうすりゃいいんだ/『西洋骨董洋菓子店』1〜3巻(よしながふみ)ほか
2001年01月23日(火) ハードな日/『時の果てのフェブラリー』(山本弘)


2006年01月22日(日) 愛想尽かしの言葉がダメなお前に似合いさ/『仮面ライダー響鬼』最終之巻/『ウミショー』1巻(はっとりみつる)

 『仮面ライダー響鬼』最終之巻「明日なる夢」。
 ついに終わったなあ。多分この最終回についても何だかんだとイチャモン付けるオタクどもはいるんだろうが、もう好きにしたまえ、という感じ。30話のときにはまさにてんやわんやの大騒ぎだったけれど、そこまでにはもうならんだろう。フツーの人は熱くなってるオタクのアホウさ加減に疲れちゃってるって。
 まあ時々はこういうドタバタがないことには、オタクがどれだけアホウかってことを世間は認知しないし、本人たちも自省するってことがないから、侃々諤々喧々囂々の論争が起こること自体は悪いこっちゃないのである(だから森永卓郎あたりがオタクをおだて上げて持ち上げるのがよくないの)。
 『響鬼』の公式ページに、細川茂樹さんのインタビューが掲載されているが、最終回の脚本もどうしようもなくて(つか、間に合わなかったんだと)、現場でスタッフ・キャストが相談して改定していったそうだ。以前、この日記でも「脚本はかなり現場で手直しされてるんじゃないか」と推測していたんだけど、それがキャストの証言で裏付けられはしたな。
 細川さんの発言をそのまま引用するが、改定前の井上敏樹の脚本は、「あれは忘れた方がいいですよ、ホント(笑)。(中略)話になんないんですよ、申し訳ないけど(笑)。」ということだそうである。なんだかねえ(笑)。
 公式ページにこんな記述が載ることも珍しいが、見方を変えればこれが東映のほんのささやかな自浄努力って言えるかもしれない。あ、ここの主催はテレビ朝日の方か。じゃあテレビ局にも東映に対して怒っているスタッフがいるってことなのかな(笑)。
細川さんは、更にここまで仰っている。
 「「仮面ライダー響鬼」というか、『仮面ライダー』自体がもっとメジャーになる方法をいくつか見つけましたね。(中略)いくつもありますよ。それをするかしないか、でもっと変わりますね、多分。僕はプロデューサーでもなければ、ディレクターでもないのであえてそんなおこがましいことは公には言えないですけど、やっていてもっともっとできると思ったなぁ」
 端的に言ってしまえば、制作サイドの意識の中に、「仮面ライダー」という肩書きにおんぶに抱っこな部分から抜け出せていない部分がまだまだあるということだろう。
 プロデューサー交代、脚本家交代というトラブルはあったが、結果的にこの最終回は、崖を這い登るシーンや夕日のラストシーンなど、大石真司脚本の一之巻『響く鬼』、二十九之巻『輝く少年』を受け継ぐ形で完結した。多分、その部分は元の井上敏樹脚本にはなかったのだろう。そのような「改定」を施したのは、キャストも監督他スタッフも、井上敏樹脚本に飽きたらなかったということの何よりの証左である。「もう三十話以降は見ません」「DVDの不買運動をしよう」などとヒステリックな反応をしていたファンは、そういった現場の人々の努力を見ようともしていなかったことになる。
 もうはるか昔、それこそ最初の『仮面ライダー』で、藤岡弘、の本郷猛が、突然いなくなり、佐々木剛の一文字隼人が2号ライダーとして登場した時だって、当初、ファンは拒絶反応を示したものだった。藤岡さんの怪我が原因とは言え、見ている子供たちにとってはそんな裏事情はあまり忖度されるものではない。ネットなど影も形もない時代ではあったが、あの交代劇は私の通っていた小学校でもクラス中を騒然とさせた。恐らく疑問の声の大きさは全国規模だったのではないだろうか。
 けれども、「変身」ブームと、後の1号ライダーの復帰によって、不満の声は吹き飛んでいった。「ダブルライダー」という設定は当初のライダーの孤独な戦いを否定するものではあったが、それこそ『スカルマン』のような狭い世界で展開される危険すらはらんでいた物語の世界観を一気に拡大させた功績は決して無視できるものではない。あの交代劇がなければ、後のライダーシリーズは生まれなかった可能性だってあるのである。
 終わりよければではないが、「残されたスタッフの努力によって、危機を乗り越えていった」という点では、初代ライダーと今回の件とは、事情がよく似ている。私は今でも、わずか13話の初期ライダーのみが面白いと思ってはいるが、だからと言って、それ以降のライダーを全否定するような偏狭さを持ち合わせてはいない。けれども、今の特撮オタク連中は、あまりにも自説に拘り、自ら視野を狭くしている嫌いがあるのではないか。昔だったらそんな我田引水なやつはクラスに一人いるかいないかだから、結局は沈黙するしかなかったのだが、今はそんな「少数派」でもネットで繋がってしまえるから、「自分は正しい!」と思い込んで「付け上がる」傾向が強い。マイノリティーだって自分の意見を言っていけないわけはないのだが、状況判断の冷静にできない連中がつるむと、「パニック」を引き起こすことすらあるから、それが怖いのである。
 それとも今回は、東映に殴りこみに行くやつがいなかっただけ、よかったと考えた方がいいのかね(笑)。
 『響鬼』最終回は、高寺プロデューサー、大石真司脚本に対する現場のスタッフ・キャストからのオマージュであった。私はもうそれでよしと考えるものであるが、それでもダメと仰る方々を納得ないし満足させるには、もう一度お二人に戻ってきていただいて、スペシャル版を一本か二本、作ってもらわなければいけないかもしれないが、ヒートアップした連中が「それでも満足できなかったら」今度は何をやらかすのだろうか。オタクや腐女子の言動に苦言を呈する向きが世間に多いのも、彼ら彼女らが実際に「危険」だからである。オタクはエリートでもなければファンでもない。自分たちは決して一般のファンから愛される存在などではないという自覚を持てよな。
 次回作『仮面ライダーカブト』は、予告編を見る限り、劇場版を除けば久方ぶりに「フィルム撮り」に戻るライダーになりそうである。以前、平成ライダーシリーズの開幕時に、「ビデオ撮りでないと今の子供たちは見てくれない」とプロデューサーが発言していたが、やはり特撮ドラマの画面の質感と華やかさは、リアルからファンタジーまで、光と影の濃淡を使った様々な表現を駆使し得るフィルム撮りでこそ出せるものだ。マジメな話、ビデオ画像に反発して平成シリーズはあまり熱心に見る気が起こらなかったって思っていた「映像派」は多いと思う。
 これが、「少し予算が使えるようになったから、フィルムにしてみようか」という軽い発想なのか、映画並のスケールを画面に持たせたいという発想なのかは分からないが、脚本が『響鬼』の後半、三十八之巻『破れる音撃』、三十九之巻『始まる君』の名エピソードを産んだ米村正二さんだから、期待はしたいと思う。


 しげは今日も朝寝して、家事もしなければ買い物にも出かけない。昨日、散々叱られて、「明日はちゃんとするから」と言ったのもやっぱり嘘だった。
 昼時になってようやく起き出して、「ご飯作ろうか?」と言ってきたので、料理本は読んだのか、また昨日と同じことを聞いたら、やっぱり読んでいなかった。夕べ、私に叱られたあと、台所に引っ込んでいたようだったので、少しは反省していたのかと思っていたら、それもやっぱりただのポーズだったのである。ポーズだけで人を騙せると思っているあたり、人を馬鹿にするにもほどがあるというものだ。どうにも業腹だったので、さすがに癇癪を起こしてまたしげを追い出した。
 「自分の住む家は自分で捜せ! 働き口も見つけてこい! 見つけるまで帰ってくるな!」
 初めてこの日記を読まれる方には、いきなり追い出すなんてなんてヒドイ夫だ、と思われるだろうが、しげが家事をサボリまくって私に締め出されるのはこれが初めてではないのだ。日頃から自活できるように仕事を見つけろということはもう何百回も言ってあるし、そうしなければ別居もありうるぞということも結婚当初から覚悟させていた。それでもしげは疲れれば欲求のままに寝るし食うし、家事はほったらかしでマトモに動かないから、太ってまた疲れやすくなって寝るし食うしを繰り返すという、最悪の悪循環にすぐ陥ってしまうのである。金を取り上げて買い食いできないようにして追い出さないと、こいつは際限なく太るばかりなのだ。こちらも体力に限界が来ているので、いつまでも「待ち」の姿勢ではいられないのである。
 結局、夜になってしげを家に入れはしたが、たいして反省できた様子はない。相変わらず何をどうすればよいか、自分の頭で考えようとはしない。家計簿をきちんと付けること、とりあえずほったらかし状態だった洗面所を掃除することなどを命じて、様子を見る。
 落書きみたいな明日の買い物予定表と、汚れが殆ど落ちていない洗面所の仕上がりを見て、私はタメイキをついたが、これまで散々家事をサボってきていたしげの、これが限界なのだろう。しげを追い出さなければ、私は今度は胃潰瘍で入院するんじゃないかという気がしてくる。


 昨日買ったDVD『劇場版 仮面ライダーヒビキと7人の戦鬼』を見る。
 テレビ版との整合性のなさを云々するキモオタの批判がどれだけ視野が狭いかを、こうして再見してみると実感する。劇場版の時にも気になった、戦国時代における最終決戦が描かれない不満はあるものの、二つの時代が交錯しながら描かれる作劇、これはなかなかよくできている。
 テレビシリーズではヒビキに付き従うばかりだった明日夢くんが、戦国時代では兄をヒビキに殺されたと勘違いして反発する描写など、のほほんとして見える栩原楽人くん(『逆境ナイン』でもそんな感じだったもんなあ)の情熱的な一面も見られて面白い。このあたりの設定は初代『仮面ライダー』の本郷猛に父親を殺されたと思い込む緑川ルリ子との関係をイメージしてるんだろうね。そのことを考えれば、ヒビキがあえて明日夢の誤解を解こうとしない理由も何となく見当はつく。本郷猛もヒビキも「大人」なのだ。いったん心の中で作り上げられた誤解は、本人が言い訳をしても信じてもらえないことを知っているのだ。そして、自分に向けられる恨みが、本人の生きる気力にも繋がっているとすれば、それをあえて打ち消すこともできないことを知っている……ってな描写を分かりやすい形で入れておけば、もうちょっとこの映画の評価もよくなっていたんじゃないかと思う。
 でもやっぱり、サムライルックのヒビキさんはかっこいいわ。「映画はヒロインで見る」私が珍しく男目当てで映画を見に行ったのだから、我ながらどうしちゃったんだろうと思ってしまうが、別にアチラ方面に鞍替えしたわけではないのでそれこそ勘違いはしないように(笑)。


 マンガ、はっとりみつる『ケンコー全裸系水泳部 ウミショー』1巻(講談社)。
 いかにも元気ハツラツな表紙の水着美少女の絵柄だけで衝動買い。こういうときは当たり外れが激しいのだが、まあ、やや外れってとこかな(笑)。
 沖縄から神奈川まで、「イカダの家」に乗ってやってきた転校生が、その天真爛漫な性格から学園に大騒動を巻き起こす……って、よくある設定と言うか、脇キャラ含めてこれも所詮は「主人公の回りにいろんなタイプの女の子がいっぱい」っていうハーレムものなんだよね(笑)。となると、他作品との差別化を計るためには、キャラクターになんか工夫がほしいところなんだけれども、これがもうちょっと、ってところなのである。
 いくら天然系だとは言え、ヒロインがやたら人前で裸になるってのはどうかねえ。あれだけスッポンポンになりまくっていながら「気に入った人の前以外だとハダカ恥ずかしい」なんて、説得力のカケラもない。天然系なら、そんなことも言わないんじゃないのかなあ。
 個人的には、お嬢サマなんだけれど、異性のことについて興味津々な静岡サンが好みなんだけれど「静岡サン萌え〜」なんて言ってるやつも世間にゃゴマンといるんだろうなと思うと、同類と思われるのが釈然としなくて、いまいち乗り切れない。もっともこれはマンガの責任じゃないが。2巻以降を買うかどうかは思案中である。

2005年01月22日(土) だから日記書いてる時間なんてないんだってば/DVD『下妻物語 スペシャル・エディション』ほか
2003年01月22日(水) 役者が名前を出すということ/DVD『You Are The Top 〜今宵の君〜』/『一番湯のカナタ』3巻(完結/椎名高志)ほか
2002年01月22日(火) 探偵小説の終焉/渡辺啓助『亡霊の情熱』/『サトラレ』1巻(佐藤マコト)
2001年01月22日(月) 月曜の朝は仕事に行きたくないのよ/『キノの旅3』(時雨沢恵一)


2006年01月21日(土) 楽しかったり腹立ったり/映画『マザー・テレサ』/『まなびや三人吉三』3巻(山田南平)

 『ウルトラマンマックス』第30話「勇気を胸に」進化怪獣ラゴラスエヴォ登場。
 ショーンが怪獣攻撃の新兵器開発に悩むあたりは、『ウルトラマン』第37話「小さな英雄」で、イデが「ウルトラマンがいれば科学特捜隊は必要ないのではないか?」と疑問を呈したエピソードを彷彿とさせる。今回はそれにカイトの「ウルトラマンマックスはなぜ自分を選んだのか?」という疑問も同時に投げかけられることで、ドラマがより重層的になっている。
 答えはやっぱり「我々地球人が勇気を出して自らこの星を守らなければならないのだ」ということになってしまうのだが、十年一日で深みがないと批判的に受け取るか、これは普遍的な真実であると好意的に解釈するか、賛否は分かれそうな気がする。でも特撮ドラマを安易に現実社会に比定して考えるのは危険な面もあるからねえ。敵が怪獣や宇宙人なら単純明快な正義を振りかざしたって構わないけれど、現実の人間の敵はやっぱり人間なんだからね。
 「守るべき者を守るために戦う」というスローガンは「専守防衛」を標榜する戦後民主主義の下では戦う口実としては実に「座りのいい」発言なので、特撮、アニメを含めてフィクション世界ではイヤになるほど繰り返されてきたわけだが、まあ現実の戦争はそんなキレイゴトではすまない規模にまで拡大してしまっている。だから、そういった視点で見るなら、確かに『マックス』は「所詮は子供だまし」と言われてしまいかねないのだが、こういうジュブナイルは「生きるための基本姿勢」だけを示すことができればそれでよいと思うんだけど、どうだろうかね。
 この世界の怪獣がどこからやってくるのか分からないけれども、仮に前話の通り、「人間の怪獣を想像する力が怪獣を生み出している」ということであるなら、「怪獣を想像しやすい性格の人間を事前に狩り出せ」という、『デビルマン』の悪魔特捜隊みたいな発想の方が「現実的」と見なされかねないのだ。


 朝から、天神のソラリアプラザ2に一人で映画『マザー・テレサ』を見に行く。
 しげも誘ったのだが、「興味ない」ということなので、もう無理には誘わない。布団にくるまったまま朝寝をしているしげに「行ってくる」と声をかけると、「いつごろ帰ってくる?」と寝ぼけ声で聞き返されるが無視する。いちいちしげを気遣うのにも私はもう疲れてしまっている。しげがただ聞いてるだけで、それまでに食事の準備をするとかそんなことを考えているわけではないということも分かっているのだ。
 心を入れ替えて家事もする、と言っていたのに、また朝寝をしていることからも、所詮こいつはマトモな生き方ができる人間ではないということが分かる。声を聞くだけでも腹が立ってくるので、ほったらかしてさっさと出ていく
 天神まで出ても、ソラリアプラザには本屋がないし、上映される映画も他のシネコンで見られるものばかりなので、滅多に足は踏み入れないのだが、三つの映画館のうち2だけは「二番館」なので、見損なっていた映画をたまに見に行くことがある。
 これも若い人には説明が必要だが、「二番館」とは、封切り映画を、時期を置いて再映する映画館のことで、「名画座」という言い方もしていた。かつては全国のあちこちにあったのだが、レンタルビデオ屋や衛星放送の普及とともに殆ど潰れてしまっている。福岡に唯一残っているのがこのソラリアシネマ2である。観客もだいたい、私のような客や、安いからいっぺん見てるけどもう一度見ようかという客が多い。

 『マザー・テレサ』自体は、映画としては全体的に静かな印象で、そんなに大きなドラマがあるわけではない。カルカッタの貧困地域で慈善活動を続けたマザー・テレサの実際の「苦労」は多分フツーの人間には計り知れないものがあるのだろうが、何しろ2時間の映画であるから、妨害があったりスキャンダルにまみれたりしても、すぐに救済の手が現れたり、誤解が解けたりするのである。 
 勘違いされては困るのだが、私はマザー・テレサの業績がたいしたことがないと言いたいわけではない。映画の上ではたいした苦労をしていないように「見えてしまう」という事実を指摘したいのである。
 もっともこれはどの伝記映画にでもつきまとう問題であるので、追求するのは多少酷かとは思う。けれども、この弊を排するために、従来の伝記映画ではその人物のごく一時期のみを切り取る形でドラマとしての「重み」を増すなど、演出上の工夫を施すものである。残念ながらこの映画にはそういう工夫に乏しい点がまま見受けられる。
 例えば、「平和の村」建設資金が足りなくて、マザー・テレサはある病院長から献金を受けるのだが、こいつがまたいかにも胡散臭い悪人面で、こんなやつに騙されてしまうとは、いくら善人だと言っても、マサー・テレサもその周囲の人々も、みんなただの馬鹿ではないのかという気がしてくるのである。人物造形が『Ns‘あおい』レベルじゃ困るなあ。もちろん、本物の献金者はもっと「したたかな」人物だったのだろう。キャラクターを際立たせることは実在の人物を扱う上では細心の注意を必要とするのだ。
 それでもこの映画に退屈を覚えないのは、やはりオリビア・ハッセーの入魂の演技があったればこそである。クリスチャンという立場を越えて、ヒンズー教徒もイスラム教徒も救おうとするその姿勢、一歩間違えばこれも嘘臭くなりかねない行為を、ハッセーは極めて抑制された演技で表現する。彼女はほとんど笑わない。トラブルが次から次へと彼女を見舞うためでもあるが、病院の患者たちに接する場合でも、彼女の表情は極めて固い。では彼女から優しさとか慈愛というものを感じないかと言えば、そんなことはなく、それは何よりその瞳にこそ湛えられているのだ。
 ホスピスを設立する許可を得るために、マザー・テレサがバチカンから来た神父に向かって「神が私にお命じになったのです。神のペンとなれと」と伝える場面がある。神は本当にマザー・テレサに語りかけたのか、それともこれも方便と割り切ってあえて嘘を付いたのか、真実は分からない。しかし映画は神の降臨を具体的に描くことはしないし、何よりハッセーの演技がどちらの解釈も「拒絶」している。彼女が演じてみせたのは、あくまでマザー・テレサの「強い意志」なのだ。
 だから彼女からは「純粋まっすぐくん」や「カルト宗教家」の持つどこか「逝っちゃってる」歪んだ瞳の輝きもないし、偽善的な態度も見られない。マザー・テレサを演じる上で、これは最大級に重要なことではないだろうか。


 帰りに博多駅で駅弁を買う。昨日、駅弁を食べ損なったので、リベンジである。
 目立つところに何軒もあるのに、どうしてしげは弁当屋を見つけられなかったのだろうと訝しく思ったが、駅弁屋の看板を見て、ああそうか、と得心した。博多駅の駅弁屋、どこも「驛辨當」と旧字体で書いてあるのだ。これじゃ探すのに苦労するのも分からないではない。
 この漢字の字体改定はやはり戦後GHQの指導の下になされているのだから、アメリカの作った憲法はイカンとか、今のゆとり教育はおかしいとかほざいている連中は、新字体を排して旧字体に戻せ、という運動も当然しなければ筋は通らないのだが、そんな話は全然聞かないよねえ。丸谷才一を見習ったらどうだ。
 弁当は穴子めしと恵比寿弁当。しげに事前に連絡を入れて「弁当は要るか?」と聞いたら、「要る」と即答。やっぱり昼飯の用意を何もしていなかったのである。
 そのあと、「GAMERS」と「紀伊国屋」でマンガの新刊を物色して帰る。


 夕方、しげが買い物に行くと言うので、便乗してヤマダ電器に寄ってもらう。
 DVD『仮面ライダー響鬼』の6巻と劇場版、及びDVD-RWを40本購入。ついでに『機動戦士Zガンダム�供[�人たち』を予約注文。
 博多駅の紀伊国屋は、仕事帰りに寄れるので便利はいいのだが、如何せん割引率が10%、ヤマダは20%である。ネット注文も、サイトによっては25%引きなんてのもあるから、だんだん紀伊国屋でDVDを買う率が低くなってきた。天神ベストのLIMBにはもう殆ど行くことがない。同じ博多駅近くでもヨドバシという強敵がいるのだから、紀伊国屋、いったん廃止したポイントカードを復活させるくらいの措置を取らないとサービス競争に負けちゃうと思う。顔馴染みになってるから、少し頑張ってもらいたいんだが。

 そのあとマルキョウで買い物をするが、しげは出来合いの惣菜ばかりを買っていて、料理のための具材を一向に買おうとしない。それで「おまえはいったいいつになったら食事を作る気になるのか?」と口論になる。私にだけならともかく、今は父の食事もしげはパックに入れて店まで持っていっているのである。野菜中心に買っているとは言え、出来合いのものは味付けが濃いものばかりで、カロリーがオーバーするのは目に見えているのだ。もちろんそのことは事前にしげにも言っているのに、わざと無視しているのである。人を舐めるのも大概にしろ、と怒りではらわたが煮えくり返りそうになる。
 入院中に糖尿病食の調理の本を何冊も買って渡していたのだが、問い詰めてみると、しげはろくに目も通していないことが分かった。私ももう若くはない。気力、体力は年々衰えている。入院の回数も年取るごとに頻繁になって来ているので、食事にこんな手抜きをされるようなら、もうしげとは一緒に暮らせない。
 もう何度もしげには別居を通告しているのだが、そのたびにしげは泣いて謝って、「真面目に働くし家事もするから」と口にする。そしてその直後、もう約束を破って家事をサボる。どうしてそんな嘘をつくのか問い詰めても黙って答えない。今日もまた同じ展開になって、私は疲れ果ててもう怒鳴るのをやめた。誰かこいつを引き取ってくれるやつがいれば熨斗つけて渡してやるのだが、こいつの正体はこの日記でも縷々書き連ねているし、ひと目見れば「こいつはダメ人間だ」と分かってしまうので知り合い連中は誰も相手にはしないだろう。
 昨年、北九州のヨシヒト嬢の御宅にお邪魔していたときに、しげは彼女のお母さんから、私に感謝しなきゃいけないよ、と噛んで含むように言い聞かされていたのだが、その意味も、しげにはチンプンカンプンなのだろう。ストレスから私が早死にするのは間近いかもしれない。
 本当なら今晩はしげと一緒に父の店にも行って、そのあと映画でも見ようかと話をしていたのだが、ぶち壊しになった。たかが料理を作るだけのことがどうしてできないのか、私には分からない。

 しげは今日も一応は父の店に片付けを手伝いに行った。感心なようだが、私に追い出されたくないためのパフォーマンスに過ぎないのは先刻承知である。案の定、帰宅しても明日の料理の準備は何もしようとしない。
 しげから「父ちゃんから貰った」と言って渡されたのは、また一戸建ての売り屋の広告チラシである。父もボケが進行しているし、この三人が普通に同居できるとは私には思えないのだが、なんかまだ父は「仲良し家族」というユメを見ているのだ。「結局は血だよ」とか言ってるんだが、しげとは何の血の繋がりもないし、以前は「お前のヨメは心がズルイな」と怒っていたのに、そこんとこも何かもうボケてて勘違いするようになっているのだろう。
 なんでこう、私の周りにはファンタジーな人とかピュアな人ばかりがタムロするのかねえ(タメイキ)。
 「お前がそうなんだろう」と突っ込みたい御仁もおられるかもしれないが、「そういうお前が」式の幼稚な反論しかできない糞馬鹿を相手にするほどヒマでもないので、そういう連中は自分のヘソ噛んで死んでてください。
 ココロが荒んでるのである。


 夜、『エンタの神様』を漫然と見る。
 しかしコントをやるやつが少なくなって、どいつもこいつも「あるあるネタ」の発展系だけでやっていこうってのが多すぎて鼻に付く。その中でオリエンタルラジオが頭一つ抜きん出たのは、やっぱりあのキレのいい動きにあるのは間違いのないところだろう。単にトロイだけなのに何か勘違いされて受けているだいたひかると比べると、そのセンスのよさは段違いにレベルが上なのである。ネタが既に「武勇伝」とは何の関係もなくなって締まっているのがちょっと気になるところだが。
 恐ろしいくらいに間が悪くてつまらないアンガールズが「天然」というあの雰囲気だけで受けているというのは、客の質もここまで落ち
たかと嘆息するしかない。


 マンガ、山田南平『まなびや三人吉三』3巻(白泉社)。
 美術室の心霊現象を解決する依頼を受けた怪盗三人吉三。和尚吉三こと○○○○(一巻を読んでいない人のために、特に名を秘す)はどういうわけか、この事件の解決を三代目お嬢吉三こと八百屋七々子(通称「やぁや」)一人に任せようとする。調査の過程でやぁやは、美術部員の吉田桜が、かつて自宅の家事で従兄が彼女を助けるために死んでいたことを知る……。
 依頼者の桜の真意が「心理現象の真相を暴いて」ではなくて、「幽霊に会わせて」であったと判明したあたりから、さあ、この実現できるはずもない依頼にどう結末を付けるつもりかなと思っていたら、最後でちょっと「インチキ」をしたので、いささか苦笑。
 本格ミステリジャないんだから、これくらいは文句を付けることではないのだけれど、大仰に「幽霊騒動がトリックなら、吉田の依頼は果たせない」なんてセリフが出てくるものだから、これにどう合理的な結末をつけるのだろうかとちょっと期待をしすぎてしまったのである。今回はライバルの弁天小僧&南郷力丸もいまいち暗躍し損なっているし、ちょっとばかし物足りなかった。
 それにしても三代目お嬢吉三に変身した時のやぁやは、ちんちくりんな本体(笑)と違って、エロ可愛くて(ちょっと流行語を使ってみました)ええわ。まなびやから外に出て、もっと広い舞台でその「怪盗」ぶりを見てみたいものだけれど、そうなると中身がタイトルから外れちゃうし、難しいかもね。

2005年01月21日(金) やっと週末/映画『ネバーランド』ほか
2003年01月21日(火) 「アニメ」ってだけで通じるアメリカ人、どれだけいるんだ/『モーツァルトは子守唄を歌わない』4巻(完結/森雅裕・有栖川るい)ほか
2002年01月21日(月) 妻の寝相と丈夫な膀胱/『夜と星の向こう』(今市子)ほか
2001年01月21日(日) 日曜の夜は出たくないのに/『トガリ』(夏目義徳)1巻ほか


2006年01月20日(金) 北九州くらいまでなら遠くない/舞台『イッセー尾形のとまらない生活2006in小倉』

 本日は北九州芸術劇場で『イッセー尾形のとまらない生活2006in小倉』の公演日。前回の博多とはまたネタが違うということなので楽しみである。

 定時に退社していては開演時間ギリギリになってしまうので、少し早引けして、小倉行きの快速に乗り込む。事故に遭わない限り、開場一時間前には会場に到着する予定だ。
 既に博多駅から乗り込んでいるしげから「後ろから二両目にいるよ」とメールを貰っていたので、探してみると、ちょっと込み加減の車両の中ほどで、隣の席に弁当が入っていると思しいビニールの袋を置いて心配そうな顔をしているしげを見つけた。私がちゃんと乗り込んだかどうかドキドキしていたようである。
 食事は駅弁で済ませようと事前に話していたので、ビニール袋を指して 「駅弁買ったの?」と聞いたら、「どこで売ってるか分からなかったから、普通の買ってきた」と差し出したのを見ると、確かにコンビニで売ってる幕の内弁当である。おかずの焼き魚なんか、切り身でもかなり塩っ辛いことが分かりきっているので、これを食べるだけでカロリーオーバーしそうである。
仕方なく、卵焼きとか、いくつかおかずをしげにあげて、おかずを少なめにして食べる。駅弁が見つからなかったのもおかしな話で、博多駅のコンコースには駅弁屋がもうあちこちにあるのだ。いったいどこに目を付けていたものか。

 公演中に居眠りしては申し訳ないので、電車の中でひと寝入り、一時間ほどで西小倉に着く。芸術劇場のあるリバーウォークまでは徒歩五分ほど。予定通りの到着だったので、まだ時間がある。この時間を利用して、同じくリバーウォーク内にある北九州美術館別館を覗こうと思っていたのだが、生憎、明日からの「岡元太郎展」の準備のため、休館だった。仕方なく、同じ階のギャラリーで、「うずめ劇場」十周年展や「山海塾」ポスター展を見て時間を潰す。「うずめ」展は過去のパンフレットも置いてあって、下村嬢が出演していた『黄金の壷』のパンフも置いてあった。セリフが殆どない役だったが、それだけにボロが出なくて(失礼)、演出のピーター・ゲスナー氏、役者の使い方はうまいなと思った記憶がある。ホントに「うずめ」は脚本と演出はいつもいいんだけど、役者がねえ。

 開場時間になったので、芸術劇場の中に入ると、『フツーの人々』ワークショップでご一緒した女性の方お二人から声をかけられる。私の視力はもうかなり落ちていて、こちらからは人の顔の判別がつかないので、こんなふうに声をかけていただけると嬉しい。Oさんとは先日の博多公演の時にもお会いしているので、「しょっちゅう会いますよね」と笑い会う。「もうこの面子だけで食事会でもしましょうか」なんて話もするが、確かに時間の余裕があって体調がよければ食事などもご一緒したいところなのだが、如何せん、退院して間がないのに、今、馬鹿食いするわけにはいかないのだ。病気をするととどうしても付き合いの範囲が狭くなってしまうので、せっかくのチャンスもフイにしてしまい、不義理を重ねることになる。そこんところをしげがカバーしてくれると助かるのだが、こいつはいつまで経っても役立たずなままだ。
 今日も、久しぶりにお会いできたのに、しげはやっぱり愛想がなくて、ろくな会話もしようとしない。「人にはきちんと挨拶をして会話もする」という約束もしていたのだが、また反故にされた。いい加減でしげのウソは聞きたくもない。十年以上経っても少しも自分のわがままな性格を改めようとしないのだから、しげと一緒に行動するのは、最近、本当に億劫だ。
 チケット受付で森田オフィススタッフのポチオさんと挨拶。「今日は森田は来てないんですよ」とのこと。森田雄三さんにお会いできなかったのは残念だけれど、風邪を召されているそうだから仕方がない。本当にお体は大事にされてほしいものである。

 公演は全部で九つのスケッチ。これがすべてキャラクターが被っていないのだから、素晴らしい。

 1.「庭にて」
 「ガーデニング、ガーデニング、ヤッホー、ヤッホー」と歌っている太った息子。いつまでも出かけようとしない母親と、ちょっとボケてるんじゃないかという父親とのやり取り。電気屋がやってきて、衛星放送のアンテナを付けようとするが、隠していた「下半分だけの甲冑」を覗き見られてしまい慌てる。父親が賭けで負けて、上半分だけ取られてしまっていたのだ。
 賭けに買った方もどうして上半分だけ取って行ったか考えると可笑しい。イッセーさんが太って見せるためにクッションの入ったセーターを着ているのだが、着替えた途端に急に痩せるので、それでまた会場に笑いが起きる。

 2.「美容室」
 銀髪のお婆ちゃんが美容室に飛び込みで入ってくる。店員に名前を聞いて「神宮司さん、あなたいいわね」「林さんって言うの? 林さんって人、私三人も知ってるわ。私の周りを林さんで固めてどうする気?」などとからかったり、「爪くらい自分で切るわよ!」と怒ったりストールを自慢したり、傍若無人。最後は椅子に座ったまま居眠り。 
 客待の椅子を勧められるのをマイムで演じるが、当然椅子は存在しないので座れない。どうするのかと思っていたら、「今は座りたくない気分なの」と笑って言ったのに受けた。寝ているだけの演技でも、引きこまれてしまうのはなぜなんだろう。

 3.「コンビニ店員」
 マコチャンという店員が、同僚とお喋り。自分の姉が結婚相手から探偵に調査されていると知って、向かいのampmにいる不審な男が探偵なのではないかと疑う。
 イッセーさんが若い女の子の格好をしているだけでちょっと怖い。最前列の人には迫力だろうなあ(笑)。喋り言葉がイマドキなので、「超」とか「マジ」とか言っているのだが、最近の渋谷のコギャル(死語)は「マジ」は使わないで「ガチ」を使うと『言語』の二月号に書いてあった。マジ?

 4.「ピザ屋」
 ヤンキーなピザ屋が、ある会社に注文のピザを届けに来て、「山田さんいらっしゃいませんかぁ!」と怒鳴るのだが、肝心の山田は席を外している。ピザを本人に渡さない限り帰れないとピザ屋がごねるので、回りにたくさんの社員が集まってきて、ひとしきり応酬するが、やがて社員は「馬鹿は相手にするな」と離れていく。かえって興奮し始めるピザ屋。
 ガタイのある社員に「ビザを置いていけ」と迫られて、ピザ屋が「これはピザじゃないッスよ、蛍光灯ッスよ」というのが私の笑いのツボにはまって大爆笑。蛍光灯も配達してくれる電気屋があると便利だよなあと思ったりする。

 5.「欲張り」
 交通整理の爺さん、かなり要領が悪く、旗をうまく振れない。離れたところにいる同僚の指示もよく分からなくて、しょっちゅう対向車を御見合いさせてしまう。「ああ、救急車と霊柩車がごっつんこ」。最後は嫌気がさしたのか、持っていた旗を投げ捨てて、「自分リストラ!」。
 一番短いスケッチだけれども、キャラクターが爺さんでボケているのにテンポがよく、笑いの連続。イッセーさんには爺さんがよく似合うと言ったら失礼か。でも、九本のスケッチの中でこれが一番私の好みだった。

 6.「ヒトミちゃん掃除婦」
 ヒトミちゃんは掃除婦だけれども、仕事を始めた途端に「おトキさん」という幕末の霊に取り憑かれて、足が動かなくなったと言ってサボる。けれど同僚たちが一休みしてカステラを食べ始めたら、「おトキさんがカステラに興味があるんですって」と言って仲間のところににじり寄っていく。
 イッセーさんの足芸が堪能できる一本。上半身と下半身が別のモノに操られているという演技が絶品。これはまさしく世界に通用する芸である。でも私は「おトキさん」の「明治維新の直前の江戸時代最後の日に死んじゃったから、未練が残っているのね」というディテールの細かさが往年の村上源治郎先生を想起させて面白かった。

 7.「ボクシング」
 ボクシング場のガードマン室に、先日のタイトル戦でリングに乱入した男が訪ねてくる。男はそこのガードマンに取り押さえられたのだが、ちょっとネジが緩んでいるその男、そのときのガードマンに憧れて、彼と一緒に先日のタイトル戦のテレビ中継をガードマンと一緒に見ようと思ってやってきたのだった。けれども、そのトラブル部分は放送ではカットされていた。
 男がガードマンをやたらおだてるの見てるとねえ、こんなやついるよなあ、苛められたやつが、苛めたやつに逆に卑屈になって媚びるやつ、そういうやつを現実に何人も知っているので、何だかちょっと気分が悪い。スケッチそのものは可笑しいのだけれども。

 8.「大家族(ハローワーク篇)」
 シリーズでこれも長く続いてます。いや、この子沢山のお父さんが出てくると、思わず「待ってました!」と拍手をしたくなるね。
 お父さんは現場監督からハローワークに行かされる。要するに転職を勧められたのだが、お父さんは「ハローワークに就職するのだ」と勘違い。事情が分かっても、「やりたい仕事」を「自分のなりたい夢」と更に勘違いして「船乗りになって世界の海を渡りたい」などと言い出す。お父さんを心配した子供たちがやって来ると、お父さんは「こいつらにも仕事を」と勝手に将来の職業を決め始める。
 説明の必要のない「お父さん」の大暴走シリーズ。係の人の困った顔が見えるようだ(笑)。

 9.「フレデリック」
 フレデリックという名前の死んだ犬を埋葬するウクレレ弾きの爺さん。犬との思い出を語りながら、歌を何曲も歌う。そのたびに「フレデリック! 生き返ったか」と声をかけるが、すべて爺さんの一人芝居。
 フレデリックは仙台まで飼い主を追いかけて行った忠犬らしい。愛情があるようなないような、つれないような態度を爺さんは取ってるんだけれど、本当はやっぱりフレデリックのことが好きなんだろう。「奇跡は2度は起こらんよ」と確認するように何度も繰り返すのが可笑しくも物悲しい。
 だから最後に爺さんが「フレデリック!」と叫んだあと、あの犬は生き返ったのだと信じたいのである。

 芝居が終わったあと、イッセーさんのサイン会に並ぶ。
 ワークショップの時にはこちらは緊張しまくりでサインを頂く心の余裕もなかったので、これが実は初めてである。ご著書、DVD、トートバックにサイン、妻とのツーショットも撮らせて頂いた。あとで妻から「あんたは一緒に撮ってもらわなくてよかったの?」と言われたが、それは完全に失念していた。やっぱりまだ緊張しているのである。
 ほんの少しだけイッセーさんとお喋りもできたのだが、映画『太陽』、やはり公開の目途が立たないそうである。こういう状況がある限りは、私はやはり世間の右寄りの言質に組する気にはなれない。中国も韓国もいい加減で日本に難癖付けるのはやめろ。かえって日本国内のナショナリストどもを増やすことになるだけだ。
 帰りにもう一度、ワークショップのみなさんや森田さんの奥様とお喋り。というか奥様とちゃんと会話できたのはこれが初めてだ。森田さんのお子さんたちが、しげの「ファンなのよ」と仰るので、それはやっぱり太ってるから面白かったのだろうかと笑う。「あの時は一番太ってましたから」といつもなら黙りこくってモジモジするだけのしげも、珍しく応答する。奥様が気さくに話されるので、しげも話しやすかったのだろう。
 「これでもこいつはあの時から15キロ痩せたんですよ」と私が言うと、奥様は「ダメよ、痩せちゃ。世の中が痩せた美男美女ばかりになったら面白くないでしょ?」と仰る。ありがたい言葉である。
 名残惜しかったが、電車の時間があるので辞去。次のワークショップは10月だそうだ。その時はぜひ参加させてほしいとお願いして後ろ髪を引かれながら引き上げる。

2005年01月20日(木) 類友な話/ドラマ『富豪刑事』第二回ほか
2003年01月20日(月) 貴乃花引退/『探偵学園Q』8巻(天樹征丸・さとうふみや)/『魔法遣いに大切なこと』1巻(山田典枝・よしづきくみち)ほか
2002年01月20日(日) それでもアニメだけは見る/DVD『名探偵ポワロ エンドハウスの怪事件』/『フルーツバスケット』3・4巻(高屋奈月)ほか
2001年01月20日(土) 英雄、果つる島/映画『アヴァロン』ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)