無責任賛歌
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| 2005年10月28日(金) |
16万ヒット♪/『キノの旅�宗 �the Beautiful World―』(時雨沢恵一) |
この日記もついに16万ヒットです。 1万ヒットごとに「なんか豪華プレゼントを用意しますよ」と掲示板で告知しているのですが、全然応募がありません(笑)。通りすがりさんが踏んでる可能性も高いし、常連さんでも「別にほしくもないし、住所を教えなきゃなんないのがイヤ」と仰る方もおられるでしょう。だからまあ仕方がないかなあと半分諦めているのですが、こういう零細サイトには「キリ番ゲット」くらいしかさしたるイベントがありませんので、今後も一応続けようとは思います。 知り合いなら、何か欲しいものの希望を聞く、という手もあります。でもあまり高いものは無理ですので、お手柔らかに(笑)。
2005年度の文化勲章受章者に女優の森光子さんが、文化功労者にはリハビリ中の長嶋茂雄さんが選ばれたというニュース。おめでたい、というよりは「まだもらってなかったのか」という印象の方が強い。森さんなんか、85歳の現在まで『放浪記』の舞台を務めてこられたからいいようなものの、もし亡くなられていたら、文化勲章の歴史に残る禍根になっていたところだったと思う。本当なら記録を達成していた十年前には叙勲してておかしくはなかったよね。つか国民栄誉賞だって差し上げて構うまいと思うのだが、役者に対する日本人の見る目はまだまだ低すぎるからなあ。 森さんは来年はまた博多座に『おもろい女』の公演に来てくださる予定なので、これはもう絶対に見に行かなきゃならんと思っているのだが、果たしてチケットが入手できるかどうか分からないのである。博多座は15人以上の団体なら、予約期間以前でも優先的にチケットが取れるのだが、誰か「一緒に行ってもいいよ」って仲間がいないものかね? つか、そういう呼びかけをFPAPあたりがやってくれると嬉しいんだけれど、ぽんプラザとつるんでるとそういうことはしにくいかなあ。 かと言って、この日記上で呼びかけたって、まず15人も人が集まるわきゃないのである。毎日、100人から200人の方が覗きにきて下さっているようで、それはもちろん嬉しいことなのだけれど、その内訳として、マンガ好き、アニメ好きの方はまあまあいらっしゃるようであるが、それに比べて、演劇好きの方は殆どいらっしゃらないような感じなのだ。つまりさ、アクセス解析で「何のキーワードで辿りついたか」を確認すると、舞台のタイトルや作者名とかで検索かけてきてる人が殆どいないんだよね。「ヌード」とかはやたらと多いんだが(とか書いたらやっぱり「ヌード」で検索してくるやつが増えるんだろうなあ)。ネットの繋がりって、なかなかうまくいかないもんだなあというのはいろんな出来事を経験した上での述懐。
勲章で思い出したが、先日、伯父が何かの勲章をもらうことになった。 沈金師を辞めた後、いくつかの仕事に就いて、それから地域の監察士を20年か30年、勤め上げたのだが、それで表彰されることになったのだそうな。 ところが伯父はこれを辞退してしまったのだ。 理由が「東京まで行くのが面倒臭いから」。そんなの信じられない、と仰る方もおられるかもしれないが、実話である。父などは「貰っときゃいいのに、天皇陛下に会えるんだから」と言ってしきりにもったいながっていたが、博多の人間は(特に職人は)、基本的に名利とか名誉とかそういうものに殆ど執着がないのである。父が「もったいない」というのも「勲章」についてではなくて、「天皇陛下に会える機会」を反故にしたことがもったいないと思っているのである(しかもそれは父が天皇礼賛者だからではなくて、単に「有名人好き」なレベルでものを言っているに過ぎない)。 そんな機会はまずあり得ないが、もしも私が「勲章をもらえる」のならば、一応もらいはすると思う。ただそれは「タダで東京に行けるから」でね(旅費と宿泊費くらい出してくれるよねえ?)。合間に友達に会えたり、芝居が見られるならそっちメインで行くわな。 それに「勲章は食えないし金に換金できない」もんな(笑)。名利は求めないが金利はちょっとほしいのである。
JRのダイヤ変更のおかげで、『ケロロ軍曹』も見られるようになった。 今日は2本ともケロロVS夏美もの。 『623 僕のラジオに出ない? であります』は、ムツミのラジオの1日アシスタントになろうと、二人がオーディションを受けるのだけれど、最終的に勝ったのは……というお話。ムツミの正体はまあ、「彼」なんだから、勝つのがあいつだったのはまあ当然だね。 『ケロロVS夏美 1/6ガチンコバトル! であります』。ケロロプラモと夏美プラモの対決、原作では省略されていたのをしっかりやってくれたのが嬉しい。 細かく感想を書いていくとまた膨大になるので、このへんでカンベンして(誰に向かって謝ってるのか)。
あと、『ドラえもん』に『クレヨンしんちゃん』はいつもの定番。 『クレしん』は、普通は二本立てだけれども、今週に限って、しんちゃんと藤井隆共演の『マシューが来たゾ』がラストにオマケでくっつく。サブタイトルどおり、藤井隆は日本のジョニー・カーソン「マシュー南」として登場。でも二人のかけあいは全然面白くないのであった。 マシュー「今度ゴールデンに進出するから、ゴールデンの先輩のしんちゃんに挨拶にきたのよー」 しんのすけ「ゴールデンと言えばこれだぞ〜!(パンツを脱ぐ)」 マシュー「ゴールデン!」 しんのすけ「ゴールデン!」 こうしてゴールデンの雄叫びは地球上に響き渡るのであった。 ……ってよう、せっかく藤井隆を呼んだんだから、何か芸させろよ。『クレしん』は映画版もそうだけど、特別ゲストのシーンはイザムと言い、コサキンと言い、なぜかあまり面白くないものが多いのだった。丹波さんくらいかな、まあ面白かったのは。
時雨沢恵一『キノの旅�宗 �the Beautiful World―』(電撃文庫)。 アラビア数字に疎い方に説明しておくと、「�宗廚蓮孱后廚任后幣弌法B�1巻を買ったころにはこんなに人気が出るとは思わなかった。電撃文庫系のライトノヴェルを全て読んでるわけじゃないが、ここまで読んでて飽きが来ないというのもたいしたもんだと思う。基本的にいつまでも続けられる終わりのない物語だから、無理に大きな物語なんか描かないで、このままずっと「ちょっと棘のある」寓話をずっと書き続けていってほしいと思う。 前巻は久しぶりにキノたちとシズ様たちが再会したエピソードがあったが、今回はまた別々の旅。シズ様と忠犬・陸には、新しく「静かなる爆弾娘(笑)」ティーが加わった。この「爆弾娘」が比喩でないところが、オタク的には「萌えポイント」であろう(最近、「萌え」概念も何となくつかめてきた気がする)。けれどもシズ様は全くフラグを立てようって気配がない。「むかしの話」のエピソードでは、ある国の王子からティーが求婚されるのだが、シズ様はティーの幸せを思って、「悪い話じゃないと思う」とうっかり言ってしまう。当然、ティーは怒って無言でシズ様をドツクのであるが、もちろんシズ様は、なぜ自分が殴られなければならないのか(しかもグーで)、皆目見当が付かないのである。 でも恋愛シミュレーションゲームなら、一度は鈍感なところを見せておいた方が、ターゲットがプレーヤーの方に目を向ける(つまりはプレーヤーに惚れている)ことを自覚するきっかけになるから、これはこれでよいのである。ティーは絶対イイオンナになるぞ。そのうち絶対ドレスアップして、シズ様が「ティーってこんなにきれいだったのか」って驚くシチュエーションが出てくるに違いない♪ 総じて寓話的な(しかもシニカルで殺伐とした)要素の強いシリーズだけれども、こういうラブコメ的というか、小噺的なエピソードが時折、緩衝材として差し挟まれているところが、このシリーズを単調・マンネリになることから回避させていることになっていると思う。 主人公のキノの話に触れなかったが、「自然保護の国」で、腐って倒れた巨樹について、その国の人たちに何一つ「真実」を教えずに去っていく「傍観者」ぶりは、いかにもキノである。キノはもちろん、冷酷でそうするのではなく、「旅人」である自身の分限を守っているに過ぎない。「愚かさ」もまた、その国の人間たちが引き受けるべき責務であるという視点が揺らがずに持続している点に惜しみない拍手を送りたいと思う。
2002年10月28日(月) また上京……?(゚゚)/DVD『刑事コロンボ 魔術師の幻想』/『スパイラル 推理の絆』1〜3巻(城平京・水野英多)ほか 2001年10月28日(日) 至福の休日/アニメ『サイボーグ009』第3回『閃光の暗殺者』/『碁娘伝』(諸星大二郎)ほか 2000年10月28日(土) AIQってボランティアだったのね/CGアニメ『バグズ・ライフ』
| 2005年10月27日(木) |
肉体年齢はどうしようもないげど/アニメ『蟲師』第一話「緑の座」 |
深夜アニメ『蟲師』第一話「緑の座」。 某テレビ雑誌には放送するって書いてなかったから、てっきり福岡じゃやらないのかと思ってたよ。つか、東京より5日遅れての放送なんで見損なうところだったんだな。番組表を新聞でチェックしてよかった。
人里離れた山奥の屋敷に隠棲する、左手で筆描きした「絵」をすべて具象化させてしまう特殊な能力を持つ少年・五百蔵(いおろい)しんら(三瓶由布子)。両親をなくし、祖母の手で育てられた彼は、最近その祖母もなくして、天涯孤独の身になっていた。しかし、彼の周囲には絶えずあるものの「気配」があり、普通の人には見えない「何物か」が見えていた。しんらを訪ねてきた、白髪の青年・ギンコ(中野裕斗)は、それを「蟲」と呼んだ。動物でも植物でもない、微生物や菌類とも違う、もっと命の原生体に近い「もの」。そして彼もまた「蟲」を見ることのできる人間であった。ギンコは、しんらの家に、少女の形を取った「蟲」が住まっていることに気付く。ギンコは彼女(伊瀬茉莉也)に声をかける。「お前の名前は廉子(れんず)だろう」……。
製作会社がアートランドってなってるけど、これってあの『超時空要塞マクロス』『メガゾーン23』『銀河英雄伝説』の? 正直、作画的にはあまり期待できるアニメスタジオとは言いがたいのだが(『マクロス』だって、テレビ版の方は、作画がしょっちゅうボロボロだった)、総作画監督が『おジャ魔女どれみ』シリーズの馬越嘉彦であったおかげか、非常に安定した作画である。演出の長濱博史は、これが監督デビューということだが、これまでにも『少女革命ウテナ』のコンセプトデザインなどを手がけている。今回の演出も「堅実」という言葉がぴったりと来るような印象だった。 というわけで、「はてな日記」(最近ではこっちの方が完全にオモテ日記になっちゃったね)の方では絶賛したのだが、実は私はその出来栄えに全然満足していない。「ああ、やっぱりこうなっちゃったか」という予測の範囲内、もっと厳しい言い方をしてしまえば、「想像力が何ら喚起されない」ことに失望すら覚えたのである。 ただし、ご注意して頂きたいのは、私はアニメ『蟲師』が駄作だなんて言うつもりは全くない。客観的に見れば、テレビアニメでこれだけのクォリティを保っている作品は稀有と言ってもいいくらいなのだ。ネットの感想を拾っていっても絶賛の嵐で、何だかもう、ちょっとでも貶したら、熱狂的なファンからカミソリが送りつけられるんじゃないかと心配になるくらい、みんなが誉めちぎっている。 では何が不満なのかというと、要するに「原作にハマッちゃった痛いオタクほど、映像化されたもののちょっとしたイメージの違い、瑕瑾にすら過剰に反応するビョーキ」に罹ってるってだけのことなので、普通の『蟲師』ファンなら、無視してる(シャレではない)点に過剰反応しているだけなのだ。だからまあ、これから書くことは、ある程度の根拠がありはするんだが、多分に主観的なことは自分でも分かっていてあえて書くことなので、あまり真剣に捉えられると困るのである。いつもの駄文だと思って読み飛ばしていただいて構わないんで、逆に私の文章に過剰反応しないで頂きたい。
つまり何が不満かって言うと、原作の極めて淡くぼんやりとしたペンタッチ、諸星大二郎風の幻想的な味わいが、アニメやCGのハッキリした描線や動きによって殺されてしまってるってことなんだね。原作の絵は絵としては決してうまくはない。部分的には描き殴りのように乱暴な線も多々見られ、人物の描き分けも不十分で、「荒削り」と言えばまだ聞こえはいいが、要するに「下手」と言った方が妥当な絵であるのだ。 しかしその「下手な絵」の線が持つ読者への想像喚起力にはすさまじいものがある。暗闇の底に流れる「蟲たちの川」、私が原作を読んだ時に圧倒されたのが、「天の川とは全く違うぼやけた光の群れの、蠢くような流れ」であったのだ。それはまさしく根源的な「生物」としての「生々しさ」と、逆に極めて静謐かつ清浄な「透明感」との、相反する要素が不思議に融合している、何とも言えない「モノ」の気配が漂っていたことにであった。 ハッキリ言っちゃえば、どんなに作画監督の腕が一流であっても、それがセルアニメやCGである以上は、到底表現し得るものではない。「蟲」の生物感、浮遊感を表現するには、アニメは「きれい過ぎる」のである。 なんつーかね、空中に浮遊してる蟲だけどさ、あいつらなんであんなに「遠くにあるものも近くにあるものも全てきれいにピントが合っていて、完全に調整された速度とベクトルを持って動いている」んだよ。機械かお前らは。つまり生命感が全く感じられないのである。空飛んでるブヨだって、もっとフラフラと頼りなげに飛んでいるんだが、「CG蟲」にはそれがない。ただキレイなだけである。「生命感」というか、「暖かさ」がなければ、人間はそういうものに簡単に感情移入できるものではない。だからしんらの、「蟲が見えることが嬉しかった」という述懐に説得力が生じていないのである。 もっと悲しかったのが、まるで映画『蛍川』のような、CGでございって感じの「蟲の川」だ。そりゃ点々の一個一個を手描きしてたらアニメーターが死ぬのは分かってるんだけど、あんなに規則的に動く蟲の群れなんて、あってたまるか。私にはあんなのは蟲じゃないとしか思えないのだが、あのアニメを絶賛してる連中、モノ見る目が麻痺してるんとちゃうかいな。 も一つ、声優さんの演技についてなんだけれど、これもイマドキの癖のあるアニメ声じゃなくて、できるだけ自然な、かなり押さえ目の演技はしちゃいるんだけど、やはり昔の空気というか、その時代らしさと言うか、そんなものを感じさせるほどには至っていないんだよね。「廉子」を「レンズ」って発音していいのか? それともこの名前は蟲を見る「虫眼鏡」って意味か? 細かいアクセントにまで気が配られてないんだよね。
いろいろゴタクを並べはしたが、これは要求としては殆ど「ないものねだり」に近い、ということを付け加えておかねばならない。 だってテレビアニメ製作の予算と時間で、CG使わないで「蟲」を表現できるわきゃないし、演技に関しては私の要求するレベルに達してる声優なんて日本にゃいない。ベテランの声優にだってみんな悪いクセが付いているのである。現在のテレビアニメとしては最高水準にあると思われる作品に対して、私は難癖を付けているのだ。 もちろんそれは「もっと向上のしようがあるんじゃないのか、日本のテレビアニメはこれが限界なのかよ」という不満には違いないのだが、フツーにアニメを楽しむ分には特に遜色のある作品ではない。自分自身、難儀な性格をしているなあと思うのだが、気になった点について、「それはそれでいいんじゃない?」とナアナアな物言いができないのだ。
今までに何度も日記に書いたことがあるが、小説と映画、マンガとアニメは、表現するもののベクトルが全く違う。マンガによって喚起されたイメージと、アニメのそれがズレていたって、それは当然なのである。 なのに、私があえて「原作のイメージに届いていない」と主張しているのは、「原作を見事に映像化している」と言って絶賛している巷のファンが、まるでアタマを働かせていないことに慨嘆しているからだ。彼ら彼女らは、メディアの違いについて何一つ基礎教養を持っていない。静止している「絵」が観客に喚起するイメージはまず「動き」である。それと逆にアニメには既に「動き」があり、それが喚起するものは「そのように動くものの意志」である。当然、そこにズレが生じないはずはないのだが、例えばギンコの演技に、テレビの視聴者たちは少しもそういった「ズレ」を感じなかったのだろうか? 私には、彼ら彼女らが、「絵がよく動いている」事実のみに目をくらまされているだけで、その動かし方が本当にそのキャラクターの、引いては作品の「精神」を表現するのにふさわしいものであったかどうかという点にまで立ち至って考えてはいないようにしか思えないのである。
しかしこんな文句ばかり書き連ねていると、「はてな日記」の方がオモテ日記で、こちらは完全に「ウラ日記」って感じになってくるな(笑)。でもこれは「タテマエとホンネ」という仕分けではなくて、視点を換えて見たものにすぎず、全く正反対に見えてもどちらも私自身の意見であることに違いはないことは明記しておきたいと思う。 だから安心して来週も『蟲師』を見ようね♪
先日購入した使い捨てのコンタクトレンズを初めて装着してみる。 見え具合はどうかというと、確かにちょっと遠くまではより見えるようにはなってはいるのだが、乱視までは矯正できていない感じで、焦点を合わせようとしてもどうしても「ちらつき」がある。メガネの時には画像がもともとぼやけていたから、その「ちらつき」も気にはならなかったのだが、見えるようになったことで自分が見えないことが自覚できるようになったという皮肉な結果である。 手元はやはり老眼が進んでいるのだろう、少し手元から離さないと文字も読めない、ふと気が付いて、裸眼、メガネ、コンタクトと、それぞれでどれくらい「近づけたら」モノが見えなくなるか、老眼の度合いを確認してみたのだが、概ね裸眼では5〜6センチ、メガネだと10〜12センチ、コンタクトだと15〜16センチより近くなると、もう見えない。読書の場合はコンタクトだとかなり手が疲れそうな気配である。もっと離れると今度はモノが小さくなって細部が分からないということになってしまうので、実際にモノがハッキリ見える範囲はかなり狭いということに気がついた。 まさかこんなに老眼が進行していたとは思わなかったので、正直ショックなのだが、これもまあ運命というものなのである。「40で目が潰れるかも」と言われたこともあるから、まだ持っているほうだよな、とマエムキに考えたいと思うが、となるとやっぱり目の見えるうちに本やら映画やら見ておきたいなあと目を酷使する方向にしか発想は向かないのである。
昨日のMRIの結果、しげが聞き損ねていたので、今日は見舞いに行く。 父の表情が何ともよくない。いつも思うことだが、隠し事ができない性格と言うか、察してもらいたいからバレバレの演技をしてしまう性格と言うか、聞く前からMRIの結果がよくなかったことがすぐそれと知れてしまう。 だからと言って、聞かないわけにはいかないから、「どげんやった? MRI」と聞くと、「悪かった。右の動脈硬化がもう50%くらいあるげな」と言って首を指差してみせた。「俺は左の方が悪かとやろうと思いよったとばってん、右やったけんね。左なら血が脳に回った後やから、何とかならんかなあと思うとったったい。それが右やけん……」。 何だか明日にでも死ぬか寝たきりになるかという勢いであるが、ここで「何とかなるよ」と言ったところで気休めとしか受け取らないことは分かりきっているので、「動けんごとなったらなったでしょうがないやん。運命やけん。みんないつかはそうなるっちゃけん」。 父も「70やけんな。糖尿になってから30年、よう持てたと思わないかんとやろうな」と腕を組む。 そのあとはまた姉の悪口になるのだが(苦笑)、「話はせんといかんと思いようとばってんがな。姉ちゃんは『げってん』やけんな」と思い切り博多弁が出る。ふとしげに「意味分かるか?」と聞くが、広島生まれのしげにはやはり全然分からない。と言ってもこれも他県人にはなかなか説明することが難しい言葉なのだが、ヘンクツとか意地っ張りとかヒネクレモノという意味で、言い方としてはかなりキツイのである。しかしキツイけれども博多の人間はちょっとしたことでも相手をこう非難することがよくあるので、腹蔵がないとも言える。自分が言われると怒るが、他人には平気でこういうことを言うという困った性格の人間は博多には多いが、父はその典型と言ってもいい。 退院後は姉と一席設けるつもりらしいが、波乱は避けられないような感じである。
読む本がなくなったというので、いったん病院の外に出でジュンク堂へ。 『銭形平次捕物控』数冊ほか、自分用の本も買い込む。しおり型の籤をくれたので、中を覗いてみると、それぞれがトランプのカードの体裁になっていて、ワンペアごとに「景品」が貰えるということであった。何がもらえるかと思っていたら、これが何と『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』上・下巻セット。だぶついてることがよく分かった(笑)。
帰宅して、『熟年離婚』第3話。確かに渡哲也は傲慢だが、家族のことを真剣に考えている。単に愛情のベクトルがズレているだけだ。ついに松坂慶子は家を出てしまうのだが、それも「勢い」という印象が強い。世間知らずなくせにワガママだけは通そうとする妻の方が夫よりもバカの度合いで言えばはるかに高く思えるんだけど、このドラマもやっぱり「バカには勝てない」って話になっちゃうわけかねえ。
2002年10月27日(日) そりゃテレビは全部宣伝でしょ/DVD『ほしのこえ』/DVD『100%の女の子』/DVD『刑事コロンボ 仮面の男』ほか 2001年10月27日(土) どこまで行くのかな、クラリス……天神まで行きました(-_-;)/DVD『STACY』ほか 2000年10月27日(金) 頼むから一日12時間も寝るのは止めて/映画『少年』ほか
| 2005年10月26日(水) |
別に皇室ビイキじゃないんだけどさ/ドラマ『相棒』第3話「黒衣の花嫁」 |
昨25日、小泉首相の私的諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」で、皇位継承の資格者を女性皇族に拡大することで意見が一致した。これに基づいて来年の通常国会で皇室典範が改正されることはまず確実で、もう長いこと紛糾していた皇位継承問題も、女性天皇、女系天皇が容認されることで解決する見込みである。 まあこれもねえ、政治がらみの話になっちゃうからあまり突っ込んだこと言うと既知外連中が噛みついてくるんで、できるだけ「易しく」書いとこうと思うんだけど、この件について「充分な議論がなされてきてない」と主張する連中の言は殆どデタラメなんで(だいたい、どんなに議論されて結論がとっくに出ていても、こう言って話を蒸し返す負け惜しみの強い馬鹿は必ずいるものだ)、うっかりマトモに聞いたりしてたら振り回されることになるよ。女性天皇の問題はそれこそ昭和天皇の若いころから、識者の間で何十年も議論され続けてきてる「天皇家存続」に関わる大問題だったのだが、そんなことも最近の若い連中は知らずに偉そうにモノを言うのだから困ったもんなんである。 だってなあ、もう議論自体はとうの昔に終わっていて、いつかは女性天皇も容認するしかないのは運命であって、けれどもこれまでは「奇跡的に男性、男系相続が続いていた」から、あえて皇室典範をいじくらずにすんでいただけなのだ、ということは馬鹿以外はみんな熟知してることなんだよね。けれど、なぜか未だに難癖付けてくるやつが後を絶たないんだよなあ。 皇位継承順において、長子相続を優先するか男系相続を優先するかでまだ意見が分かれてるんだけど、これが未だに「ダンケイ、ダンケイ」と鬱陶しいくらいにうるさい連中のことも一応考慮してやらなきゃならないと、仕方なく議題に乗せているだけにすぎないことに、「男系相続派」の馬鹿どもは気が付いていないのである。 男系相続だと、いったん即位した女性天皇があとで生まれた弟に譲位を迫られるような事態にもなりかねない。しかもその時点で結婚していたら、夫ともどもいきなり皇族から排除される可能性もある。昨日、天皇で、翌日は平民って、「男系相続」に拘るとそういうことも起こりうるんだよ? そうなったら大問題になることは「目に見えている」から、馬鹿以外は誰も男系相続を主張してないわけだ。長子相続が一番妥当で混乱はないってことは火を見るよりも明らかなのに、その理屈がどうして「男系相続派」の連中には分からんのかね? 私には未だに男性天皇、男系天皇にこだわる人々の意図がよく分からないのだが、現在の天皇家に、「女性以外に跡を継げる人間がいなくなっている」事実をどう考えているのか、聞いてみたいよね。でも多分、「何も考えてない」か「天皇家が途絶えた方が面白いと考えている」かのどっちかだろうから、何も答えられないんじゃないかな。 実際、私が会話したことのある「男系相続派」の人で、ある人は、もう頭がすっからかんになっていて、考える力を完全になくしておられました。「いーや、雅子さまはきっと男の子をお生みになる!」とご主張なされるのですが、もちろん、その目はあさっての方角を向いておられたのでございます(笑)。あるいは、例のホモオタさんですが、「私には未来が見えます。天皇家は次の代で途絶えます」と嬉々として予言しておられました。でもって「自分は天皇家の血筋である」とも主張されてましたから、あわよくば自分が天皇になれるから、「今の」天皇家の血統が絶えればいい、と、内心、期待していたようなんですね。熊沢天皇か、あんたは。「男系相続派」の人たちは例外なくこんなんばっかです。 言うまでもなく、男系天皇が何とかここまで存続し得たのは、天皇家においてのみ「一夫多妻制」が許されてきていたからである。誰もが知っている通り、大正天皇の生母は明治天皇の皇后である昭憲皇太后ではなく、柳原愛子妃であった。昭和天皇もまた香淳皇后との間になかなか皇太子が生まれなかった時期に、側室を持つことを勧められたという経験を持っている(香淳皇后を愛していた昭和天皇はこれをきっぱりと断った)。 男性天皇、男系天皇に拘るならば、この「側室制」も復活させなければならなくなるのだが、天皇が日本人の「象徴」としての意味を持つ以上は、そのような「特別扱い」は許されるはずもない。本当は「国民に隠れて子供作らせちゃえば」とか「男系相続派」の人たちは思ってんだろうけれど、天皇の人格よりも伝統(それも自分たちの妄想の産物でしかない)の方が大事と考えてる既知外どもには、いくら「あんたら狂ってるよ」と言っても通じないんだろうなあ。 男系にこだわる人は「養子論」まで持ち出してきているが、つまり「血が途絶えても男系相続が望ましい」と言っているわけである。「男系相続にこだわる」ってそういう意味なんだよ? だったら「誰が天皇になったって構わない」と言ってるのと同じじゃないか。ホモオタさんにも可能性があるというのは困ったことに「男系相続」に拘る場合、何万分の一かの可能性としてはあったりするのだ。ああ、恐ろしい。 実際、そこに拘って、天皇家はこれまでに何度も「断絶」しているのである。最も有名なのは26代継体天皇で、いったん途絶えた皇統を、「15代応神天皇の五世の孫」という触れ込みで、どこぞから連れて来ているのだが、そんなのは何の根拠もないのである。およそ150年前の天皇の子孫って、そんなの、戸籍もない時代にどうやって調べたよ(笑)。 そのように、天皇家が「万世一系」なんてのが大ウソだってのは、マトモな歴史学者なら先刻ご承知だから、逆に言えば、この言葉を使っているだけで、そいつが歴史の捏造に気付いてないか、あるいは捏造と知っててあえて加担してる詐欺師かのどっちかだってのはすぐに分かる仕組みになっているのである。でも、若い人たちの中にはそんな基礎知識もない馬鹿が多くなってるから、すぐに騙されてしまうのである。 雅子さまに男子誕生を望めない可能性が高まっている現在、女性天皇、女系天皇を容認せざるを得ないのは、血統の存続の観点から言って不可避な選択である。「血なんて途絶えたっていいじゃん」という自由が許されない家に嫁いだ上は、「男の子」を要求されることは仕方がないことではあったろうが、かと言って誰ぞの思惑通りに男の子が生まれるはずもない。こればっかりは誰にもどうにもならない運命である。雅子さまにこれ以上、実体のない「伝統」とやらのプレッシャーを与えることが国民としてのあるべき姿かどうか、「男系相続派」の馬鹿どもは、ちったあ考えてもらいたいものだよ。あんたらに「人の心」ってものはあるのかい? 一つ、注を付け加えておかねばならないことだが、「男系相続派」がイデオロギーに凝り固まっているのと同様に、逆に「女性天皇派」にもイデオロギーの観点からそれを主張する連中が巷に溢れている。つまり、戦後民主主義に毒されて、「男女平等」の観点から女性天皇を、と声高に叫ぶやからがやたらいるのだ。阿呆だなあと思うのは、「平等」の観点で言うなら、「長子相続」だって、平等じゃないってことになることに気が付いてない点である。継承資格のある女性全員にジャンケンでもさせなきゃ「平等」にはならんと思うが。結局、「平等思想」に基づいたそれも、「天皇」の概念をサヨク的思想に引き寄せた我田引水、牽強付会の説でしかないということになる。 私はそういう観点で「女性天皇」を推奨しているわけではない。これはそんなイデオロギーに基づいてなされてはならないものだ。天皇を日本人の、あるいは国体の「象徴」として考えるのなら、その「存続の義務」に関してだけは皇族のみなさん個々人の意志がどうあろうと、男性女性を問わず優先されねばならない、というだけのことである。 女性天皇は所詮、男性天皇の急死に伴った場つなぎ的なものに過ぎなかったのだからダメだ、という意見も昔からずっと言われていることではあるが、これも既に何度も反論されていることで、全ての女性天皇がそうだったわけではない。推古天皇は明らかに実権を持って即位しているし、神功皇后もいくつかの歴史書では「天皇」扱いされている。男系に拘りたい人々は、たとえ天皇家の血統が絶えようとも、かつての伝統とやらを捏造したいもののようだが、それがいかに本末転倒なモノイイであるかは、よっぽどの馬鹿でない限り、すぐに気が付くことであろう。こんなイデオロギーに取り憑かれて現実を見る目を無くしてしまっている連中は、実は反天皇制のアカ野郎じゃないかとも思うのだが(笑)、ま、自分たちの意見が逆に天皇家を危うくしかねないという事実も理解できてないだけのことなんだろうね。 問題は、愛子さまが女性天皇になったとして、その婿殿下になろうって奇特な男が出てくるかどうかということだが、紀子さま雅子さまだって、結婚を決意するには紆余曲折があったのである。天皇家の存続は、女性、女系天皇を容認したからと言って全てが解決することにはならない。大昔のコトバではあるが、立派な「ご学友」を同時に育成してくことでしか対応はできないんじゃないかねえ。
千葉ロッテマリーンズVS阪神タイガースの日本シリーズ、結果は4タテで千葉ロッテマリーンズの圧勝。3度目31年ぶりの優勝、と聞いて、あれ? と思ったことが二つ。 一つは、3度目って、2度目じゃないの? 確か昔、金田正一監督の時に「初優勝」って言ってたような……、とかすかな記憶が残っていたからなんだが、これは「毎日」時代を含んでのことだった。 「毎日オリオンズ → 大毎オリオンズ → 東京オリオンズ → ロッテオリオンズ → 千葉ロッテマリーンズ」という変遷だけれど、私の記憶は「ロッテオリオンズ」から始まっているので、それ以前のことは「歴史」としてしか認識していないのである。永田“ラッパ”雅一さんがオーナーだった時代もあったんだよなあ。もし永田さんが球団を売却しないでそのまま持ち続けて、徳間から角川にオーナーが移っていたら、今頃、球団名は「角川なんとか」になっていたのだろうか。で、徳間時代の球団名が「大映トトロズ」で、今だったら「角川フェニックス」とか「角川イージス」とか「角川スピリッツ」(←「妖怪」ね)になってたのかなあ、とか妄想してみる。全部戦わずに負けそうだけど(笑)。 もう一つは、前回の優勝からもう31年も経ったんだなあという時の流れの早さである。1974年、あの時の私ははっきりとロッテを応援していて、それはなぜかと言うと、巨人が10連覇を逃して長嶋茂雄が現役引退し、セ・リーグを制した中日ドラゴンズに対する反感から、「元巨人」のカネやん率いるロッテが雪辱を果たしてくれることを期待していたのである。あのころは私もまだ野球好きの巨人好きだったんだよなあ。 長嶋と王の引退で野球に興味がなくなってしまってもう久しく、今回の日本シリーズではどっちが勝とうと応援する気にはならなくなっていたのだが、やっぱり4タテってのは、ちょっと阪神を待たせすぎたせいだよなあ、と思う。ソフトバンクホークスとのプレーオフの時も思ったが、公式戦から日本シリーズの時まで、片方のチームが異様に待たされる状況はよくないよ。 でもって、もう一つの「あれ?」はというと、やっぱり「もう31年も経っちまったのかい」、ということ(笑)。ホント、ついこないだまで20代だったような気がしてたんだけどなあ。
今日は父の見舞いには行かず素直に帰宅。『愛のエプロン』が紅白スペシャルだから見逃したくなかったのね(笑)。 男軍団と女軍団の対決で、大竹まことさんが出演することは先週の予告から分かってたんで、てっきり「作る方」だと思い込んでいたのだが、食べる方であった。「男の手料理」本も出されているくらいだから、当然、味にはうるさい。つか、いくら最高級品のズワイガニを使ってるからと言って、堀越のりの料理を食べさせるというのは拷問ではないのかな。このムスメは、インリンとタメ張ってる驚異の料理ベタ&学習能力ゼロムスメなんだから。案の定、「お前は番組来るな!」と怒鳴られていたよ(笑)。 田嶋陽子の料理もたいしたことなかったんだけれど、こういうところで生活能力の低さを露呈してしまうと、フェミニズムもやっぱり自分の無能を覆い隠すための言い訳に過ぎないって気がしてしまうのだよね。それこそ男だろうと女だろうと、「食えるものを作って食う」は生活の基本でしょうが。 最高に美味い、店を開けと絶賛されたのが杉本彩の料理だったのだが、色気と食い気と両方で迫られたら男はたまらんだろう(笑)。いや、色気だけの人ではないのだよと言いたいわけで、その点でいろいろ誤解を受けることの多い人だけれども、役者としてもこの人はもちっと評価されて然るべきだと思うんだけどね。
ドラマ『相棒』第3話「黒衣の花嫁」。 サブタイトルの元ネタはウィリアム・アイリッシュ……じゃなかった、コーネル・ウールリッチだね。「ブラック・ウールリッチ」だから。って、何のことだか分からない基礎教養のないエセミステリファンは去れ。ジャンヌ・モロー賛江。 こういうサブタイトルを付けられると、この「黒衣の花嫁」に当たる人物が実はムニャムニャなのではないかとつい想像してしまうが、そこまで芸のないことを『相棒』のスタッフはしない。しないけれども、じゃあ、もっと面白くしてくれてるかというと、そうでもないのが今回のエピソードの弱いところ。遠野凪子をわざわざゲストに呼んどきながら、ほとんど出番がないって、そりゃないよってなものであるが、真犯人の設定も新味がないし、犯行の動機が解明される手順は、もっと精密に行われなければミステリーとして成立し得ない。それができなかったのは「一時間枠」という制約のせいだろうけれども、だったら最初から遠野凪子に関する部分はカットして、真犯人のアリバイ崩しと動機探しだけに物語を絞ってた方がよかったと思うのである。でなけりゃ全く逆に、遠野凪子メインにドラマを仕立て直すとかね。 『古畑任三郎』がトリックに弱点があっても「一時間枠」で見られるものになっていたのは、倒叙形式を取っていたために物語を「古畑対犯人」の対決ものとしてシンプルに仕立てられ、本格ものの場合の「犯人探し」の要素を省略することができていたからである。前半は犯人捜し、後半は犯人との対決プラス動機探しなんてのをたった一時間でやろうなんて「詰め込み」ミステリー、土台、成功するわきゃないのである。 だからまあ、「物的証拠はこれから見つけます」で幕切れにしなきゃならなかったり、冷静な右京さんをあえて怒らせてむりやりドラマチックに仕立てようとしたりと、姑息な手段ばかりが目立つことになってしまうのである。 なんかこの「冷静な探偵が怒る」ってパターンも、いつから始まったのかね。うまく成功している例というのをあまり思いつかないんだけれども。『古畑』や『機動警察パトレイバー2』は明らかに『刑事コロンボ』の影響下にあるんだけれども、遡ってくと、ドストエフスキー『罪と罰』のポルフィーリー判事にまで辿りつきそうだ。けれど、これをやれるのは犯人がよっぽどヒドいやつじゃないと無意味で、今回も「どうしてこの程度の犯人相手に右京さんともあろう人がそこまで激昂しなきゃならないの?」と不自然に感じられてしまうのである。こういうネタでやるんなら2時間枠の時にやろうよ、ねえ。 それからゲストの一人、坂田聡(さかた・ただし)さんだが、『ケータイ刑事 銭形舞/シベリア超特急殺人事件』の時も似たような印象の役を演じていらっしゃった。慌て者風なキャラクターで結構好きな役者さんなのだが、もうちょっと幅広い役を演じてくれないかなと、ちょっと気になった。
『蟲師』の感想は深夜アニメで翌日になるのでまた明日(笑)。
2002年10月26日(土) 確信犯だったのか柳美里/DVD『ビリイ★ザ★キッドの新しい夜明け』/『新暗行御史』第四巻(尹仁完・梁慶一)ほか 2001年10月26日(金) それは愛ゆえの殺人か/『孤島の姫君』(今市子)ほか 2000年10月26日(木) さすがに櫃まぶしは英語字幕になかった/映画『ラヂオの時間』ほか
| 2005年10月25日(火) |
どんな夢を見た?/『奇談(キダン)』(諸星大二郎・行川渉) |
映画の話題を二つ。 夏目漱石『夢十夜』を原作とした映画『ユメ十夜』が撮影中である。 見る前からあまり文句を付けるのはよくないことだと承知してはいるのだが、タイトルが一部カタカナになっているのはちょいといただけない。字面のバランスというか、座りがどうにもよくないように思えるのだが、このあたりはセンスの違いってことなのかなあ。 まあそれは些細な問題なのだが、『夢十夜』の映画化、と聞いて、「えええ?」と驚いた人はかなりいると思う。「できるのそれ?」と。 夏目漱石の全小説の中でも、本作を最高傑作と推す人は少なくない。漱石は『猫』や『坊ちゃん』や『三四郎』や『こころ』や『明暗』だけの人ではないぞ、ということで、特に幻想小説、怪奇小説のファンにとっては『夢十夜』は内田百�里痢慳重據戮覆匹畔造鵑如▲丱ぅ屮襪里茲Δ砲覆辰討い襦�お読みになっていない方もそうはいないと思うが、『夢十夜』ほど、活字の持つ想像喚起力を発揮している小説も滅多にない。だからこそ「映像化不可能」な部分は多く、それを映画化しようというのだから、これはかなり無謀な企画ではあるのだ。 しかし、これまで本作が全く映像化されたことがないというのも、日本映画の不毛を象徴しているようなものである。安っぽいCG映像でお茶を濁されちゃうんじゃないかとか、不安はあるのだが、ともかくもそのチャレンジ精神は賞賛しても構うまいとは思う。 一夜ずつ10分という、オムニバス映画の形式を取るので、十夜をそれぞれ別の監督で撮影するそうだが(共同監督もあるので11人とか)、今のところ発表されているのは「第一夜」の実相寺昭雄監督のみ。主演は松尾スズキと小泉今日子である。役者はそう悪くはない。 「第一夜」は、「百年待って下さい」と言い残して死んだ女の墓に、男が星のかけらを供える話である。未読の方もそうはおられまいから、ラストの文章をそのまま引用する。
〉すると石の下から斜(はす)に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂(いただき)に、心持首を傾(かたぶ)けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁(はなびら)を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹(こた)えるほど匂った。そこへ遥(はるか)の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁(はなびら)に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。 〉「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
視覚的だから、映像化は簡単だろう、というのは短絡的な思考である。活字の喚起するイメージと、映像が喚起するイメージはベクトルが全く違う。映像で茎を伸ばして花を咲かせても、それを観客が「すらりと」「ふっくらと」と受け取るとは限らない。ましてや「骨に徹えるほど匂った」様子など、映像演出と役者の演技でどれだけ表現できるものか、まず無理だろうというのが常識的な判断というものである。 そしてこれはもう、絶対映像化不可能なのが「百年はもう来ていたんだな」という男の述懐である。セリフでこれを役者に言わせてしまったら、雰囲気はもうぶち壊しである。ナレーションを入れるのではただの解説にしかならない。「百年経った」という事実は、役者が「演技力」で観客に伝える以外にないのだが、さて、その実力が松尾スズキにあるかどうか。 いや、そもそも「幻想の住人」たちに実体を与えること自体、原作のイメージをどうしたって損なってしまうものである。ミーハーなオタクや腐女子がすぐに騒ぐ「イメージが原作と違う!」というのは、言ったって仕方がないことではあるけれども、「原作を完全に映像化することなど不可能だ」という点では紛れもない事実ではあるのだ。 文学は基本的に映像化できるものではない。映像化できないからこそ、文章で表現しているのである。それをあえて映像化しようとするなら、正攻法な映像演出は全く役に立たない。ならばどうするか。それにはウラワザというか、脇から攻めるような「搦め手」を考えるしかない。実相寺監督は、果たしてこのことに気付いているのだろうか。『姑獲鳥の夏』ではまさにその「搦め手」を駆使してみせてくれたから、期待はしたいのだけれど、漱石は一筋縄で行く相手ではない。以前、実相寺監督が泉鏡花の『沼夫人』を映像化した時には(『青い沼の女』)、役者(特に主演の山本陽子)の演技が安っぽくて目も当てられないシロモノになっちゃってたからねえ。期待半分、不安半分ってところだねえ。 それにしても実相寺監督は、ここんとこ、『姑獲鳥』と言い、『乱歩地獄』と言い、映像化が難しい作品にばかりに挑んでいる。失敗する可能性の方が高いというのは分かりきっているのに、この意欲、気概はいったい何なんだろう。単に何も考えていないだけかもしれないが、こういう挑戦は若手の監督さんこそやるべきことじゃないのだろうか(その意味では『バトルロワイヤル2』の深作健太監督や、『CASSHERN』の紀里谷和明監督などは、作品の出来とは別に評価してやらなきゃならない面はちゃんとあると思う)。
もう一つの映画の話題は、諸星大二郎の『妖怪ハンター/生命の木』の映画化である『奇談 キダン』の続報である。 行川渉によるノヴェライズを読んでみると、30ページほどの短編を長編にするために登場人物を増やし、主人公にまつわるサイドエピソードも付け加えたりしているのだが、概ね原作通りの展開になっている。ただ、「おらと一緒にぱらいそさ行くだ」のセリフが「おらと一緒にぱらいそさ行くんだ」になっていたのは誤植だと信じたいが。 公式サイトもいつの間にか出来ていて、阿部寛扮する稗田礼二郎のルックスも紹介されているのだが、さすがに原作通りの長髪は無理ではあったが、全身黒服なのは前作『妖怪ハンター ヒルコ』の時の白服・沢田研二よりも原作のイメージに近くなっている。黒ぶちメガネも悪くないアイテムである。 しかしそれよりも脇のキャストが凄くて、スチールを見る限りでは、「重太」は神戸浩で、「三じゅわんさま」が白木みのるである。ナイスキャストっつーか、本人そのものじゃないかと言うか、こんなにインパクトのあるキャストは空前絶後だろう(笑)。これだけでもこの映画が「異端映画」になることは約束されたようなものである。 あとのキャストは、神父が清水紘治だとは分かるのだが、殆どが何役をやるのか不明。でも公開日も近いし、そのへんは見てのお楽しみということで。土屋嘉男さんや堀内正美さんと、特撮ファンにもお馴染みのキャストを揃えてくれているのが嬉しい。「超星神グランセイザー」のちすんちゃんを第二のヒロインに持ってきてるのも特撮ファン動員を狙ってのことだろう。 肝心の「善次」を誰が演じるのかが公式サイトを見てもよく分からないのだが、これはシークレット・キャストなのか、それともCG映像にでもする気なのか(笑)。まず間違いなく駄作になることだけはないと思われるので、ジャパン・ホラー映画にいい加減飽きてきたお方も、諸星大二郎の世界に浸ることで渇を癒していただけたらどうだろうか。でも「珍品」になる可能性もあるので、見て腹が立っても怒らないでね(笑)。
いつものように父を見舞いに行ったら、会うなり、「根上淳が亡くなったなあ」と「おおごと」のように呟いた。
俳優・根上淳、24日、脳梗塞で死去、享年82。 もう20年以上も糖尿病に苦しみ、最初の脳梗塞を起こしたのも8年前、それから「まだらぼけ」も起こして、夫人のペギー葉山さんもかなりご苦労なされていたとのことである。
ちょうど、父の病状とも重なるので、父が不安になるのは分かる。まだらぼけとまではいかないにしても、父の記憶の混濁はこの数年、かなりひどくなってきているのだ。これももしかしたら動脈硬化かがあちこちで進行しているせいかもしれない。 けれど、父にかけるべき適切な慰めの言葉があるかといえば、そんなものはないのである。
帰宅して、ネット検索してみると、追悼を述べていた日記やブログの8割が「『帰ってきたウルトラマン』の伊吹竜隊長の……」と記述していた。ほかは一部が『稲妻』に触れている程度。 もちろんそれは間違いではないのだが、根上さんは特撮だけの人ではない。伊吹隊長を演じた時、既に役者としてのキャリアは充分以上に積んでおられた方だ。根上さんが隊長を演じた当時、まだ子供だった私ですら、「特撮ドラマに出演する人は決まり切っていると思っていたのに、ほかの畑からキャスティングされることもあるんだ」と思ったくらいである(実際には初期ウルトラシリーズの隊長役は、ベテラン役者の方を使うことが多かったのだが)。そういう人が亡くなったときに、「特撮番組だけ」で語られてしまうというのはどう考えたらいいのだろう。日本での映画やドラマのファンの意識の低さを表していると糾弾することも今更詮無いことで、ただ悲しみが弥増すだけである。 一般的なイメージは『連想ゲーム』の方が強いはずなのだが、それに触れている人すら少ない。もちろん『連想ゲーム』のみで語られることも根上さんにとっては嬉しいことではあるまいが、根上さんのようなベテラン役者ですら、こんなに「忘れられている」ことを思うと、役者っていったい何なんだろうな、としみじみと思うことである。特撮ファンに覚えられていただけでもよしと考えるべきなんだろうか。
初期『ウルトラ』シリーズの隊長さんたちも、大半が鬼籍に入られてしまった。時代が移り行くのが運命とは言え、過去の記憶を共有する人はどんどん少なくなる。私よりも年下の人の方が、人口で占める割合が増えようかという年になってしまっているのだ。若い人からうるさがられようが、小言幸兵衛になってしまうのも自然、無理ないことだよなあと思ってしまうのである。
『1リットルの涙』『鬼嫁日記』『タモリのジャポニカロゴス』と続けて見る。 感想全部書いてるとツライので、『1リットルの涙』についてだけね(笑)。 第3回にして、亜也はついに自分が「脊髄小脳変性症」であることに気付く。「どうして病気は私を選んだの?」という彼女のセリフを聞くと、まるで自分がその言葉を聞かされている医師になったような気分にさせられてしまう。そして、答えようもない現実に打ちひしがれて、気がついたらくやし涙を流してしまっているのだ。 実は毎回見ながら私はこのドラマで泣いてしまっているのだが(笑)、同時にこんな演出過多なドラマで泣く自分にも腹が立つというか、やや嫌気がさしているのである。『セカチュー』や『いまあい』で泣いてるバカオンナどもを笑えやしない。 なぜこういうドラマで泣くことが恥ずかしいかというと、例えば難病のヒロインが沢尻エリカのような超美少女じゃなかったら、果たして泣けていたろうか、というミもフタもない偏見が自分にあることを自覚せざるをえないからだ。これが、主演が泉ピン子だったら私はまず泣かない。また、ヒロインが優しく意志も強く、病気に立ち向かおうとする健気な子でなかったら、やっぱり私は泣いていなかっただろうと思う。これが守銭奴で性格の歪んだ因業ババアが「何であたしだけがこんな目に」とか言おうものなら、天罰が下ったんだとしか思うまい。 要するに、「美しく健気な美少女」が難病にかかっているから私は同情しているだけなのである。病気に苦しむ人全般に対して気遣う気持ちなんてない。しかしこれは私だけの感覚ではないのではなかろうか。相手の美醜、境遇、人種などに関わらず博愛精神を抱けるようなマザー・テレサのような人間が、そうそう巷に溢れているとは思えない。ドラマに感動する大半の視聴者は、「アイドルやスターの純愛ドラマ」を疑似体験して感動しているだけなのである。難病と闘う人の心の気高さなどに感動しているのではない。 もちろん、製作者側だってそんな一般人のエゴイスティックな同情心は先刻ご承知だろう。大半の視聴者が、ドラマを見たからと言って別に難病者に対する理解なんて示しはしないと分かった上で、営々とキレイゴトのドラマを作っていく。その視聴者を「乗せていく」心理誘導の過程は、「ヤラセ」番組と本質的に少しの変わりもないもので、「まず視聴率ありき」の姿勢は苦々しい限りだが、みな、それにまんまと乗せられてしまっていることが悲しいのである。。私もまたその愚かな大衆の一人に過ぎない。 そう自覚していながら、やっぱり沢尻エリカと薬師丸ひろ子の今後に注目している業の深い自分がここにいる。いや、だって沢尻エリカ、『パッチギ』のころの三倍は美しくなってんだもの。ちょっとこれは見入っちゃいますよ。うん。
2002年10月25日(金) 巨とか貧とか実はさほど気にしてない。ホントよ/『敬虔な幼子』(エドワード・ゴーリー)/ドラマ『時をかける少女』(内田有紀版)ほか 2001年10月25日(木) わが名はロドリゲス/映画『眠狂四郎人肌蜘蛛』『旗本退屈男 江戸城罷り通る』ほか 2000年10月25日(水) 今日は三度も昼寝した。やっぱ体変だわ/『冬の教室』(大塚英志)ほか
| 2005年10月24日(月) |
子役が大成するには/『諸怪志異(四)燕見鬼』(諸星大二郎) |
終戦60年スペシャルドラマとして制作された日本テレビ系列の『火垂るの墓』(2005年11月1日(火)21:00〜 23:55)、正直、見るかどうか悩んでいたのだけれども、キャスト表を見て、これはぜひとも見ねばならない、と決心した。いえいえ、松嶋菜々子目当てではありません(笑)。 野坂昭如の原作小説や、高畑勲監督のアニメ版をご覧になった方ならばお分かりいただけると思うが、この物語のキモは二人の兄妹の「子役」の演技如何にかかっていると言っていい。ただ、名子役というのもそうそういるわけではないので、学芸会的な演技でお茶を濁されるんじゃないかなあという心配が子供を主役にしたドラマでは常にあるのだ。 ところが、節子役が先日『ウルトラマンマックス』「第三番惑星の奇跡」でそれこそ奇跡のような名演を見せてくれた佐々木麻緒ちゃんだと知って、年甲斐もなく興奮してしまった。いえ、ヘンな意味ではありません(笑)。1999年6月1日生まれというから、まだ6歳、それであれだけ感情を抑制した演技ができていたとは驚異の才能だが、もしかしたら今度の『火垂るの墓』の演技次第では、日本のダコタ・ファニングになれると踏んでもいいんじゃないかと思っているのである。 一応はタイトルロールの松嶋菜々子、ナメてかかってふやけた演技をしようものなら、麻緒ちゃんに「食われる」んじゃないかと思うが、私としてはぜひ麻緒ちゃんに「食って」ほしいと思う。いやさ、日本の社会ってのは子役に厳しいからね。ちょっと芽のある子役だと、仕事の上でもライバルから足を引っ張られるし、私生活でも親の過保護とか学校でのイジメとかストーカー被害に遭うとかで、せっかくの才能が潰されてしまうことが往々にしてある。杉田かおるにしろ安達祐実にしろ、そんな目にあってなお、しぶとく(笑)生き残ってきたのだ。麻緒ちゃんにもたとえ大人の社会のドロドロに巻き込まれようと、それを弾き飛ばすくらいの「逆境に負けない心」を持ってほしいのだ。 6歳の子供にそういう「図太さ」を要求するのは酷かもしれないが、そうでなければ海千山千、魑魅魍魎が跳梁跋扈する芸能界で、決して生き残れはしない。「逆境すらも己の糧とする」という姿勢は、たとえ子役であろうと、「役者」である以上は身につけなければならない必須条件なのである。 今回のドラマ出演をきっかけに、麻緒ちゃんにはぜひ何かの映画に出てほしい。日本の子役出身者は、なぜか「映画」では今ひとつ代表作を残せない感じがあるんだが、これも「子役は大成しない」というジンクスの原因の一つになっている。だから、もう五本も十本も映画に出ている神木隆之介君の後を、ぜひ追っていってほしいのである。 ほい、そこのロリコン中年のオタクおじさんよ、少しばかり自分の欲望を抑制して、見た目の可愛さだけではない「役者」としての女の子を見る目を養ってみたらいかがかね。
週明けで何か新しい検査結果でも出たかと、病院に父の見舞い。 しげとの待ち合わせはいつもどおり博多駅でだが、紀伊国屋に寄って取り置きしてもらっておいたDVD『エマ』の3巻と4巻を買うので手間取り、時間に遅れる。と言ってもせいぜい2、3分なのだが、「遅い〜!」としげは頬をふくらませる。 こんなふうにしげの機嫌が悪いのはたいてい空腹なせいなので、見舞いの前に食事に誘う。「何が食べたい?」と聞くと、開口一番、「豚カツ」。 「じゃあ、天神コアの上でいいか? そこなら福家書店にも寄って行けるし」 実を言うと、「いいか」と聞いてはいるが、そこ以外に天神に豚カツ屋があるかどうかよく知らないのである。最近は博多駅より南側の方が活動テリトリーが広くなってきているので、天神方面はすっかり地理不案内になりつつあるのだ。 福家書店に入ると、カウンター横に、あさりよしとおさんの特集コーナーができている。見ると、今度の日曜日にサイン会が開かれるとか。『るくるく』5巻の発売記念だそうで、こりゃもう『元祖宇宙家族カールビンソン』以来のファンとしては、万難を排してでも参加せざるべけんや、である。 整理券を発行してもらうと、200名限定なのに番号はまだ52番。ちょっと「えー?」って感じである。福岡のオタクどもはいったい何をしてるんだと少しばかり憤りを感じたが、考えてみればあさり作品がオタクマンガの先陣を切って突っ走ってたころって、もう10年、いや、20年近く前なんである。今の若いオタクには『カールビンソン』がかつてはアニメ化されるくらい人気があったことや、『エヴァンゲリオン』の第三使徒サキエルほか、いくつかのキャラクターをデザインしたこととか、そういう基礎知識もないんだろう。 まだ整理券の発行期間は5日ほど残っているので、もうちょっと数は増えると思うけれども、あさりさんのサイン会が百人足らずというのはちと寂しい。ファンの人でまだこのサイン会の存在に気付いてなかった人は、ぜひ今度の日曜に福家書店まで足を運んでいただきたいと思う。 まだ買い損なっているマンガの新刊を数冊購入して、七階のトンカツ屋で食事、その後、病院へ向かう。
今日は昼間、小倉の親戚が父の見舞いに来たそうだ。 例の借金まみれの親戚で、申し出を断ったり、ほかにも細かいことで何やかやとトラブルがあったので、少し疎遠になっていたようなのだが、どこかから父の入院を聞きつけて、駆けつけてきたものらしい。 「親戚が病気になっても、こっちは気付かんままのことが多いとに、こっちの病気はすぐ親戚に知れ渡るんやね」 「そうたい。仕事しよって休んどったら、すぐに『店に出とらんけど、どげんしたとね?』って言われっしまうけんなあ」 「見舞いには何か持ってきたとね。酒?」(この親戚は父の糖尿を知っていてもあえて酒を土産に持ってくることが多いのである) 「今度はさすがに持ってこんやった(笑)。ばってん、来る見舞いがみんなおんなじことば言うったい。『もうこれで酒ば飲めんごとなったな』げな。俺はお母さんが亡くなる前もやめるときはちゃんと酒はやめとうとに」(もちろん母が亡くなってからの父はしこたま飲んでいるのである) 「僕は何も言わんよ。『やめろ』って言っても、こっそり隠れて飲むのはいくらでもできるっちゃけんね。お父さんが自分で『やめる』って思わな、どうもならんやん」 「飲んでも飲まんでも、まあ、俺もあと十年やな」 「そこまで行ってやっと平均寿命やない」 父が本気で断酒するつもりがあるのか、どこまで信用していいかは分からないのだけれども、病院に自分から来たということはやっぱりもちっと長生きしておきたいという気持ちはあるのだろう。自重してもらえるならありがたい。たとえこちらがいい年をした大人になっていようと、いざというときに「たかれる」親がいないというのは寂しいものであるから(笑)。
帰りにコンビニに寄って、『週刊文春』を立ち読み。 小林信彦の『本音を申せば』、「『下妻物語2』をなぜ作らないのだ」とか「長澤まさみはいい!」とか、昭和7年生まれとは思えないような若い発言の連打。基本的な意見としては私も賛成なのだけれど、『下妻2』を作ろうってほどの力が今の日本映画界にはないし、長澤まさみをちゃんと女優として育てられるだけの監督がどれだけいるのかってことを考えると、先行きには不安要素の方が多い。 小林さんは金子修介に期待してるようだけれども、その金子作品に長澤まさみが出演していたことを覚えている人がどれだけいるだろう。『ガメラ』の評価が高いために錯覚されているけれども、実際には金子作品五本のうち四本半くらいは駄作か珍作だ。金子作品がきっかけでブレイクした女優さんや美少女って、そんなにはいないと思うのだが。巷間言われてるほどには金子修介が女の子を魅せるのが上手い監督だとは思えないのである。
帰宅して、昨夜録画しておいたNHKBS2の舞台中継、劇団ダンダンブエノ公演の『礎』を見る。東京まで公演を見に行って、最前列で堪能した芝居だが、私たち夫婦が映っていたかどうかは暗くてよく確認できず。つか、見てる間に芝居に引きこまれてしまっていたので、自分が映ってたかどうかなんて気にしなくなるのである。 円形の舞台だから、生で見た時には役者さんがこちらに背中を向けている時には当然、顔の表情は見えない。テレビだとそれをカメラが追ってくれているので、テレビの方がお得のようだが、舞台はやはり一人一人の芝居が舞台全体の空気を作っているものである。切り取られた画面だけではその空気はどうしても伝わらない。たとえ背中を向けていても、セリフを喋っていなくても、その人がそこにいる、それを見ている私たちがいる、その「空気」を味わうことこそが、舞台の醍醐味なのだ。 でなきゃ、誰が東京まで往復の旅費だってバカにならないのに毎年毎年、芝居を見に行くのか、ということなのである。テレビは所詮、舞台の疑似体験に過ぎない。 それなら、テレビで舞台を見ることは無意味なことなのかというと、それも断言はできない。舞台が一期一会のものであることは事実なのだが、視聴者に「テレビに映っていない部分」までも想像し好奇心を抱く心がありさえすれば、舞台の本質が奈辺にあるかを理解することはできるからである。逆に言えば、テレビの舞台中継は漫然と流し見するだけではその魅力の十分の一も伝わりはしないものである。 テレビ中継の意味は、もっと即物的に言ってしまえば、舞台を見るのにはどうしてもかなり高額なお金がかかるから、せめてテレビででも見られればってことの方が重要であるだろう。 若い人はね、すぐに「お金がないから舞台を見にいけない」って言い訳するけどね、テレビ中継が毎週あるのにそれすらもチェックしない人がたくさんいるからねそんなのがウソだってことはすぐにバレるの。つか芝居好きって言うんなら、そんな見え透いたウソついてんじゃねえよ。私が腹が立つのはね、本当は芝居を好きでもないやつ、芝居をやる気がないやつが、そのくせあの芝居はどうの、この芝居はどうのと、批評にもなってない独りよがりな感想を居丈高に一席ぶちやがったりするからだ。 まあ、NHKBSもWOWOWもシアターチャンネルも、全然見られない地上波オンリーのど貧乏な環境にあるから仕方ないんですって言うやつもいるけど、そんなやつに限ってゲーセンにだけはしょっちゅう行ってムダ金ばっかり使ってやがるんだわ。まったく、簀巻きにして那珂川に叩きこんでやりたいよ、マジで。
マンガ、影崎由那『かりん』7巻(角川書店)。 アニメ放映直前発売の7巻だけれど、ここで一応第一部完、といった雰囲気。果林と雨水君の誤解も解けたし、雨水君の「不幸」も一応、なくなったし。アニメはここいらあたりまでを目途に映像化する予定なのかな。小説版も合間に挟めば、充分半年から1年は放送できるだろう。いいもん作ってくれると嬉しいけど、製作のJ. C. STAFF、作品によって作りにムラがあるからなあ。 しっかしまー、あれっすねー、ついに果林が雨水君の血を吸い……じゃなかった、逆に血を送り込んじゃったわけだけど、このあたりのシーンはもう、描写としてはまんま「初体験」っすねえ(笑)。 果林、心臓はどっくんどっくん鳴ってるし、顔は紅潮して涙流してるし、何より震えて痙攣しながら吐息を漏らしてる様子がもう、何というかひたすらエロい。いや、もともと「吸血」は性行為のアナロジーなわけだから、「増血」もまたそれっぽいのは正しいのであるが、作者がそこまで考えてこのマンガを描いているかどうかは知らない。 でも未だにどうして果林だけが「増血鬼」という吸血鬼一族の中の「異端」であるのか、その謎はまだ解かれない。そこがハッキリしないと、へたすりゃ物語全体がアイデア倒れにもなりかねないので、次巻以降、それがちゃんとドラマに絡んだ形で説明されることを期待したい。
マンガ、諸星大二郎『諸怪志異(四)燕見鬼』(双葉社)。 掲載誌であった「漫画アクション」の路線変更および休刊で、連載が途切れてしまっていたシリーズが描き下ろしつきで完結……しなかったけど、続きの5巻は完全描き下ろしで出してくれるのかな? 前巻から小さかった見鬼の阿鬼ちゃんも、立派な美少年・燕青眸に成長した。タイトルの「燕見鬼」は青眸の通称である。 予言書『推背図』を五行先生から託された見鬼。青溪県にそれを渡すべき人物がいると言われ、江南に向かう途中で、かねてから「推背図」を狙っていた仇道人、十四娘といった盗賊たちとの攻防を繰り広げる。幾度かの戦いの末、傷ついた見鬼は、ついに「推背図」を奪われてしまう……。 初期の短編シリーズだったころの、それこそ『聊斎志異』を意識していたころの作品が好きだったので、続きものになってしまった今のシリーズは、正直いまいちであるのだが、一度完結させたものを復活させると、どうしてもかつての味わいが失われてしまうのは仕方がないことなのかもしれない。呂太公の娘・小玉の、気丈な活躍ぶりなんかはカッコイイのだけれど、日常の中に潜む「怪を志す」面白さは消えてしまつているのである。 初期の味わいを残した短編が巻末に二作、収録されてはいるが、これも昔日の勢いはない。それでもつまらないというわけではなく、水準に達しているのはさすが諸星さんなのだが、できれば以前のような「中国版 妖怪ハンター」の路線を復活させてほしいと思うのだが。
2002年10月24日(木) 多分、心の壁を作ってるのは私の方なのだろうが/『空前絶後のオタク座談会3 メバエ』(岡田斗司夫・山本弘)ほか 2001年10月24日(水) こぉのー、むねのとぉきーめきぃー/『彼氏彼女の事情』12巻(津田雅美)ほか 2000年10月24日(火) 年取ったシワをCGで消すってのは無理?/ドラマ『ウルトラセブン・地球より永遠に』ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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