無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年05月20日(金) 井筒監督は「拉致はなかった」なんて言っちゃいないよって話/映画『真夜中の弥次さん喜多さん』

 「朝鮮新報」の取材に応じて、映画監督の井筒和幸氏がした発言が、ネット上で波紋を呼んでいるようである(「ようである」と柔らかな表現にしているのは当然「2ちゃんねる」あたりでの論議がかまびすしいらしいのだが、ウィルスが怖いんで覗きに行ってないためである。キーワード検索するといろいろ引っかかりはするので、「いろいろ言い合ってんだろうな」とだいたいの想像はできるのだ)。『パッチギ!』で日本人高校生と在日朝鮮人の少女の恋愛を描いたことが取材のきっかけになったのだろうが、確かにその発言を取り上げてみると、一瞬、「何だこれは?」と目を丸くする人もいるだろうことは分かる。
 曰く、「(日本人は)拉致問題をきっかけに『ある日、平和な日本から人が北に連れ去られた』という物語を作り上げた」。
 これに激怒した人たちは、当然、「拉致問題は『物語』じゃない、『事実』だ!」と文句をつけているようである。実際、私が巡回している日記でも同様のことが書かれてあって、「蓮池さん夫婦や地村さん夫婦や曽我さんは幻想なのか?」とか「まだ拉致問題は解決していないのに、この発言は人間としてどうだろうか」「拉致被害者の家族は井筒監督に直接抗議せよ!」と、かなりの激昂ぶりである。
 もちろん、井筒監督が本当に「北朝鮮は拉致などはしていない。全ては日本の捏造だ」と言ってるのであれば、その怒りは当然のことであると言える。しかし、当該の記事を実際に読んでみると、ちょっとその解釈はおかしい、ということに気がつくのだ。

 念のために「朝鮮日報」から直接引用してみる。

> 「英国人はアイルランド問題について関心が高く、いつも熱く語り合っている。ところが、日本人は政府も含めて、朝鮮問題について長い間全然意識もせずにいた。当然、朝鮮を植民地にして、分断の根本原因を作ったことにも目を背けてきた。なのに拉致問題をきっかけに『ある日、平和な日本から人が北に連れ去られた』という物語を作り上げ、日々それを塗り替え、あげくに国交交渉どころか、経済制裁論にまでエスカレートさせてしまった」

 まず注意しなければならないのは、これが北朝鮮の記者によるインタビューの要約で、恐らくはかなり「自分たち寄りのニュアンスで」まとめられた言葉だろう、ということだ。だから、さらりと流して読んでしまったのでは、井筒監督の意図がどこにあったのかに気づかないまま、「朝鮮日報」に簡単に「誘導」されてしまうことになる。それを回避するためには、要約・省略はされていても、微妙な部分に「削りそこなった」部分があるものなので、それを丹念に見ていく必要があるのだ。

 「日本人は政府も含めて、朝鮮問題について長い間全然意識もせずにいた」という言葉一つにしてみても、かなり政治的に我田引水的な意味合いが込められていることはアノ国のあり方を見れば見当はつく。朝鮮問題についてウカツなことが言えないのはこういうところで、そりゃあ、私だって年がら年中朝鮮問題を考えているわけではないが、つい「そっち方面には無関心でねえ」などと言おうものなら、「朝鮮問題にカブレている」人(必ずしも在日朝鮮人ではない)からは、「だからアンタはダメなんだ! 歴史を何も知らないし、加害者意識に欠けている!」なんて罵倒されてしまうことになる。「関心はない」とは言ったが、「知識がない」とは私ゃ言ってないんだが、もう「過去の歴史に学ばない日本人」のレッテルを張られてしまうのである。馬鹿馬鹿しい話だが、イデオロギーに凝り固まった手合いはやたらいるのだ。「無関心」を責められたら、「お前、メシ食ってるときやクソしてるときも朝鮮問題について考えてるのか」とか「今の私にはオゾンホールによる環境破壊のほうが切実な問題です」と言って煙に巻いてあげよう。

 それはさておき、井筒監督は果たして本当に「拉致なんてしてない」と思っているのだろうか。そこまで言いきれるだけの何か確かな根拠があって主張しているのだろうか。金正日自身すら認めている事実なのに、それを覆す根拠などそうあるとは思えない。井筒監督の発言、額面通りに受け取るにはどうにも疑問がある。
 そう思ってよく読んでみると、「拉致問題をきっかけに」とある通り、井筒監督は決して拉致を「幻想」などとは言っていないことに気がつくのだ。「物語」と井筒監督が言っているのは、「朝鮮問題について長い間全然意識もせずにいた」「朝鮮を植民地にして、分断の根本原因を作ったことにも目を背けてきた」という言葉との関連から考えても、「平和な日本」の部分なのであって、日本が過去に戦争を経験したことすら忘れ去ってしまっている現状を指して批判しているのだ。そう考えないと、本文全体のつじつまが合わなくなる。
 ここで、「いや、俺はちゃんと忘れてないぞ」と反論したって無意味である。井筒監督が批判しているのは「忘れている人たち」であって、「忘れていないあなた」ではないのだ。

 「分断の原因」については私も井筒監督に反論したいとは思うが、ここで「悪いのは米ソの冷戦構造だろう」と反論するのはやはり「日本の責任回避だ」と突っ込まれることになる。「そもそも日本が植民地支配をしなければ米ソに付け込まれることはなかった」という恨みが北朝鮮・韓国の双方に長年に渡ってある反日感情の根拠になっているので、そこから理解して反論をしなければ、これも火に油を注ぐことにしかならない。「逆恨みも恨み」なので、ただ突っぱねれば終わりになるわけではないのだ。
 確かに、井筒監督は北朝鮮に対して同情的だとは思うが(知り合いに北朝鮮人が多いらしい)、これを「拉致自体を物語としたがっている」と読み取るのは無理がある。そう読みたがっている人は、井筒監督に対しての先入観というか偏見が先にあって、何としても井筒監督を「北朝鮮の広告塔」呼ばわりがしたくて無理やり読んでいるのであろう。我田引水というか「捏造」という点では、朝鮮日報を笑えるものではない。

 『パッチギ!』という映画自体、私はあまり政治的に読み解きたくはないのだが(単純に『ロミオとジュリエット』的青春ものとして面白く出来ていた)、以前も書いたとおり、批判の矛先は“日本人にだけ向けられたものではない”。「迫害されている在日朝鮮人」という被害者意識を逆手にとって日本人を責めたてる在日の老人たちの卑怯さに対してもちゃんと目を向けているのである。朝鮮日報のインタビューがどれほどの長さのものだったかは分からないが、仮にそういうことを井筒監督が語ったとしても、当然、カットされているであろう。そもそもインタビュー記事が監督の生の声であると判断すること自体、メディアの本質というものが分かっていない。

 しかし、これも誤解を招かないように念のために書いておかなければならないのだが(まあ、誤解したい人は何言ったってわざと誤解するものではあるが)、私は井筒監督の思想に全面的に賛同しているわけではない。在日の問題はデリケートであるだけに、その扱い方が大雑把に過ぎるのはちょっとどうかとは思っているのだ。「北朝鮮のスポークスマン」のように勘違いされても仕方がない「ウカツさ」は確かにあって、逆にだからこそ「あんなウカツな人を広告塔にしてどうする」と、「広告塔説」を否定する根拠になっているのである。
 あのね、井筒監督の発言を聞いてりゃさ、あの人がそんなに「難しいこと」が考えられる人ではなくって、極めて庶民的な感情から映画を作り、発言していることは察しがつくってもんじゃないのよ。嫌われると分かっててプロが映画評を好き放題言ってるのは馬鹿な証拠だ(笑)。一番「ウカツ」なのは、朝鮮日報の取材に応じちゃったことだろうが、これも「断る理由がない」とか、素直過ぎる理由で受けちゃったんだろうなあと思うのである。

 井筒監督が思想的なところから外れている人だという根拠は、記事中のこんな文章にも表れている。

>「人の苦しみに寄り添う芸術とは? 教条主義やウソではない、ピカソのゲルニカのように厳しい現実の中から生まれるものでなくてはならないと井筒監督は考えている」

 このあたりの発言がかなり「要約」されているのは、恐らくは朝鮮日報について「都合の悪いこと」が書かれていたからだろう。「教条主義」というのが何を指しているのかが曖昧になっているが、これが井筒監督の出身地である「大阪の教育」という現場を考慮に入れてみれば、典型的な戦後民主主義教育、サヨク教育であることは容易に察しがつく。サヨク批判の部分はぼかさざるを得ないのだ(全くカットしてしまっては、井筒監督からクレームが来るだろうから、「紙面の関係で要約」という姑息な手段を取るのである)。
 ピカソの『ゲルニカ』を引用しているのもその推測を補強するもので、井筒監督の世代なら、当然、1988年に起きたいわゆる「ゲルニカ事件」のことも知っているだろう。福岡市立長尾小学校の卒業式で生徒たちが壇上に『ゲルニカ』を掲示しようとしたのを校長によって日の丸に差し替えられ(『ゲルニカ』の絵自体は式場後方に貼られたそうで問題はないと思うのだが)、それを卒業生の女子の一人が式の真っ最中に突然立ち上がって抗議し始め、また、女子の発言を制止しようとした校長を教員の一人が恫喝し、戒告処分を受けたという事件である。その教員というのがまたコチコチのサヨク教師だったものだから、この女子が「洗脳」されていたことは想像に難くないのである。
 だが、『ゲルニカ』はそもそもそんなひ弱な思想のサヨクに利用されるような芸術作品ではない。ピカソがナチスドイツによるゲルニカの町の空爆の悲劇を、わずか20日あまりの製作期間で一気に描いたのは、もっと根源的な、戦争という人間の業を描かないではいられなかったからである。井筒監督が「人の苦しみに寄り添う芸術」として『ゲルニカ』を自身の映画の根本にあるものと引用している以上、それは単純な「サヨク」芸術の範疇に留まるものではないのだ。

 まあ、右寄りのみなさんもさ、井筒監督が「言ってもいないこと」に難癖付けるんじゃなくて(繰り返すけど、「拉致なんてない」とも「拉致られても当然だ」とも言っちゃいないよ)、言ってることに対してちゃんと文句を付けようね。でないと「ただの馬鹿」と見なされるのは自分たちのほうになるよ。仮に井筒監督自身が在日朝鮮人で拉致に関連してたとしても(そうは思えないが)、『パッチギ!』は決して北朝鮮を正当化するような映画にはなってなかったので、素直に誉めたいと思う。……なんかこんなふうに書くと『パッチギ!』がよっぽど気に入ったのかと思われそうだけど、「面白さレベル」で行けば実は「まあ普通」なんだが(笑)。


 今日はしげとは博多駅で待ち合わせ。
 ヤマダ電器でDVDを買って、「しーじゃっく」で回転寿司。
 そのあと、今日で最終日の映画『真夜中の弥次さん喜多さん』を見に行くつもりだったのだが、しげの体調があまりよくない。今日の昼間、ラクーンドッグさんたちと「エコロジーな缶詰ワールド」の次回公演の打ち合わせをしていて、かなり疲労したそうである。「寝不足だしきついんだよ」と言うが、私だって毎日のようにしげの「スリーピング・バイオレンス」の被害に遭っているので、3時間くらいしか寝ていないのだ。でも無理強いしたってしようがないし、必ずしも評判のいい映画でもないから(笑)、私一人で行くことにする。
 しげの話によれば、ラクーンドッグさんも『弥次喜多』は見たがっていたそうで、「今度みんなで一緒に見に行こう」とか相談していたとか。それなら、最終日であることを教えて差し上げれば、一緒に見に行けるかとも思ったのだが、しげに連絡を付けさせてみると都合が悪くて無理とのこと。残念だったが、ドッグさんも見たい映画のスケジュールをとんと調べていないというのは呑気なことである。つか、そういう「習慣」がない人みたいね。血液型O型かなあ(笑)。
 しげが捨てられた子犬のような目で「どうしても一人で行くと?」とグスグス鼻をすすりながら私を見るものだから、私のココロの中でも「どうする? アイフル?」と声がしたが、もちろん袖を振り払うように見捨ててキャナルシティへ。

 最終日で楽に座れるかと思っていたのだが、結構お客さんが入っている。ざっと百人ほどか。しかも女性が連れ立って、というパターンが多い。しりあがり寿の原作マンガのファンか、監督の宮藤官九郎のファンか、主演の長瀬智也・中村七之助のファンか、と考えると、圧倒的に三番目なんだろうなあと、一番目の私はちょっと場違いなところに来てしまったような気にならないでもない。洋服売り場に迷い込んだ斑目(『げんしけん』)みたいなもんか。
 ちょうど後ろに並んだ女性陣が、これが何でここまで受けるんだってくらいに映画の間中、笑い続けでうるさい。いや、笑っちゃいけないわけではないのだが、明らかに「笑いの沸点」が低いのだ。弥次さんも喜多さんも、江戸時代人だからバイクに乗るのはおかしいと寺島進の白バイ岡引に注意を受けるとか、スキップしようとしてもスキップはできないとか、その程度でけたたましく笑うのだ。まあ古田新太が追いはぎにあった惨めな姿で「清水次郎長です」ってのや、中村勘九郎のアーサー王に研ナオコの脱衣婆といったキャスティングの妙、この世で死んだ人間の魂は老若男女問わず「荒川良々」になるってギャグには私もちょっと笑ったが(CGによる「荒川良々軍団大暴走」およびエンドクレジットのダンスは必見である)。
 そういう環境で見たもんで、反作用的に映画の印象はあまりよくない。確かに「弥次さんが、ヤク中の喜多さんを回復させるためにお伊勢参りに連れて行く」という原作のコンセプトは守られているけれども、しりあがり寿のあの“崩れた絵柄”から滲み出る独特の倦怠感、ほのぼのとしているようで何だか切ない味わいは生身の人間に演じられるものではない。主役の二人がマンガチックな演技を無理して演じているものだから、旅の途中途中の展開がやたらもたついて感じられてしまうのである。露天風呂で、弥次さんが喜多さんのタ○ブクロを引っ張って噛り付く、なんてギャグ、マンガならヒトコマでパッと描けちゃうものを延々実写でやったって退屈するだけだ。いったん原作を「忘れて」映画を見るべきだったと、見終わってから後悔した。
 全体として、ややぼやけた印象ではあるが、江戸時代と現代、現世とあの世、現実と空想とが混交する中で、「弥次さんだけがおれのリアルだ!」と叫ぶ喜多さんの叫びは切なく響く。その「リアル」だって幻想に過ぎないということはもラストシーンで再び「伊勢」に向かって疾走するイージーライダーの二人のその先が、『幕末太陽伝』の左平次が駆け去っていったのと同じく、どこにも続かない無明の世界だからである。
 あと、役者さんでこの人はいいなあと思ったのは意外にも弥次さんの妻・お初を演じる小池栄子だった。『義経』での巴もそうだが、目鼻立ちがくっきりしているのがそもそも役者としてかなり有利なのだが、その表情をどう生かせばいいかをよく知っているなあ、という印象なのだ。弥次さんと喜多さんの関係を知って、「米を磨ぎます」と真夜中に延々と米を磨ぎ続ける怖さ。包丁で刺されて死んでいく表情の苦しさ、悲しさ。自分を殺した弥次さんを許すときの慈母のような表情。充分演技賞ものだと思うのだが、グラビアアイドルだってことで批評家からは色眼鏡で見られちゃうんだろうなあということも予測がつくので、それがまた悲しいのである。

2004年05月20日(木) 職場に14時間もいたくないわい(ーー;)。
2003年05月20日(火) すっ飛ばし日記/親を崇める子供たち
2002年05月20日(月) もっとギャグを!/『蛇神さまといっしょ』2巻(桑田乃梨子)ほか
2001年05月20日(日) 念の入った話/DVD『NHK少年ドラマシリーズ なぞの転校生�機戮曚�


2005年05月19日(木) 寝たい眠たい眠りたい/『アタックNo.1』第六話

 なんか寝不足がかなり酷くなってる。いや、これは地震のPTSDではなくて、原因はまたまたしげである。最近、しげの「ドメスティック・バイオレンス」、いや、「ドメスティック・スリーピング・バイオレンス」が酷いのだ。
 ともかく夜中にいきなり寝言を言ったかと思うと、隣に寝ている私をいきなり殴ってくる。今朝も午前2時ごろに「どうせ『欽ちゃんの仮装大賞』に出るっちゃろ!?」と叫んで、パンチで鼻を殴られた。もちろん、その直後にしげはイビキをかきだす。横じゃたまらんと下にさがると足でカニバサミをされて首を締められる。起きてるときに文句を言っても「眠ってるんだから知らんよ」と言われる。ホントか? ホントに寝てるのか!?
 おかげで職場のイネムリも酷くなってきていて、まずいんだけど。会議中にどうもイビキかいたらしくてよ。周囲の笑い声で起きちまったよ。
 誰か私に安眠をください。 
 

 昨日の日記で書こうと思ってたけど疲れて寝て書けなかったテレビ番組の話。
 『確立10000000分の1!? 世にも不思議な超偶然事件簿!! あれは奇跡? 奇跡じゃないってば!! 世界の奇跡を藤井隆が暴きます』と、タイトル写すだけでいやになるほど長い。番組自体は世界で起こった「奇跡的な事件」が、本当に「奇跡」と呼ぶに値するものなのかどうかを専門家の意見を聞いたり実験したりして検証しようというもの。別に藤井隆自身が何かするわけではない。唐沢俊一さんもチラッと出てたがたいしたコメントはなし。つか編集でかなりカットされてるんだろう。
 「奇跡」と言っても、キリスト教国家における「神の奇跡(「奇蹟」と書く場合も多い)」って感覚は日本人には殆どなかろうから、「めったにない出来事」くらいの意味合いでしか使われてないんじゃないか。事故で命が助かっても「奇跡」と簡単に使われちゃうくらいである。私も頭蓋骨骨折の事故で意識不明の重態に陥ったが、「奇跡」的に生還したことがあるが、これだって「運がよかった」「偶然だろう」と言われてもその通りなんで、「いいえ奇跡です」なんて強弁するつもりは毛頭ない。
 番組内で伊東四朗も「私と君が出会ったのがそもそも奇跡」となんか恋人を口説く定番な台詞を藤井隆に向かって言ってたが(笑)、つまりは「奇跡」と「偶然」の違いなんてその言葉に込められた「思い」以外には実質的な差異はないのだ。「ただの偶然」だと分かっちゃいても、危機的な状況から身内が生還したりすれば「奇跡」と呼びたくなるのは人情というものだろう。
 だから「奇跡じゃないってば」というアプローチの仕方にはどこか粋じゃないっつーか、野暮っつーか、別にどっちだっていいものをムキになって否定しようとする神経症的なニュアンスがあるっつーか、番組製作者の性格の悪さがそこはかとなく感じられてちーとばかしやな印象なのである。まあ泡沫番組にいちいち目くじら立てるのだって粋じゃないけどな。
 しかしこういう番組が成立してしまっている、というのは、逆に「奇跡」の概念が若い人たちの間では我々の世代よりも過剰な形で捉えられ、それこそ「信仰」的なものにまで昇華させられているせいもあるかもしれない、という気もしてくる。なんかオカルティックなものを無条件で信じて力説するヒトも決して少なくはないから、いっぺん神秘的な思考に偏りがちな人たちに対してはハッキリと「幽霊もUFOもUMAも永久機関も神様もいないんだよ」って否定してあげといたほうがいいんじゃないか。その意味ではこういう番組のほうが検証なき『ふしぎだがほんとうだ』みたいな『奇跡アンビリーバボー』よりは面白い。欠陥は多々あるけど。
 番組で取り上げられてる事件は、オーストラリアで起きたカンガルーの人命救助や、海に落とした指輪がタラの腹の中から見つかった出来事、別れ別れになった恋人が50年ぶりに再開したりとか、このへんは「奇跡」といってもそうたいしたことはない。
 けれど、第2次大戦中に5500メートルの高さからパラシュートなしで落下し、ほぼ無傷で生還したイギリス空軍パイロットのエピソードなどは確かに「めったにない」程度の出来事ではなく、こりゃ人々が「奇跡」と驚いたのも納得できはする。もっとも銃撃を受けて墜落している飛行機の中から脱出したとしてもそれが「5500メートル」の高さだったとどうして分かったのか、実際にはもうちょっと低空で飛び降りたんじゃないかって疑問はあるけど。それが確率的に起こりうるのかどうか検証することもさることながら、「その話が本当かどうか」って検証を先にしたほうがいいんじゃないかという気がするんだけどね。「奇跡」を躍起になって否定しようとすると、超自然現象を全て「プラズマ」のせいにしたがる某教授みたいにかえっておかしな事になりかねないと思うんだけどね。
 

 開催中のカンヌ映画祭で、北野武監督の新作『TAKESHIS’』のポスターが話題を呼んでいる。タイトル内容ともに未定で、主演、監督がたけしであることしか分からないが、それでも既にフランス、英国、イタリア、ロシアなど欧州各国のオファーが相次いでおり、 映像を見ないと買わない欧米のバイヤーたちの常識からすると極めて異例なのだそうな。そこまで「TAKESHI」の名前を信頼していいのかって思うけど、実際のところは「ある程度のヒットを見込める作品にはツバつけとけ」って程度のもんではないのかな。
 一説には北野監督の次回作は『座頭市2』とのウワサもまことしやかに流れてはいるが、現在、たけしが髪を金髪にしているところからも信憑性がないわけでもない。観客に北野武のどんな映画が見たいか、と問えば大半は『座頭市2』と答えるだろう。でもそういう「守り」の姿勢に北野武が入るものかどうか、いや、入っちゃったらかえってつまんなくなるんじゃないか、ともかくこれまで「タイトルだけ先行していて公開まで情報が抑制されている」作品が必ずしも出来がいいものばかりとは限らない、というジンクスを考えると、過剰な期待は禁物かなって思うのである。なんかいつのまにか「巨匠」扱いされてるけど、映画の出来不出来は結構激しいと思うんだけどなあ。


 今日も残業で、帰宅は八時過ぎ。何とか仕事を切り上げたのは『アタックNo.1』第六話を見るためである。
 前回からの「富士見学院存続の危機編」が一区切りで、これで取り澄ました校長役の小林幸子も見ずにすむかと思うとようやくホッとできるかな。世の中にはもっと面白いドラマやアニメも放映してるんじゃないか、落語好きなら『タイガー&ドラゴン』のほうをもっと重点的に見るべきじゃないかとか、だんだん見るのが苦痛になってきているけれども、なんとか半分まで付き合ったし、いよいよ来週からインターハイだから。
 40年近く前のマンガを現代に蘇らせるったって、どうせキャラクター名以外はオリジナルでやらなきゃ通用するものでもなし、と思っていたのに、鬼コーチと化した本郷の「富士見学院のメンバーに自信をつけさせるために、実業団と練習試合をさせて、わざと負けてもらう」っていう作戦は何なんだろうね。「手加減する」程度ならまだしも、そんな依頼、本物の実業団だったら、ふざけんなって怒るぞ。なのに、事の真相を知ったこずえ以下の富士見の連中、出ていこうとする本郷に向かって「本郷コーチ、私たちが間違ってました!」って涙を流して謝っちゃうんだから、もうこの古臭さというかくだらなさは何なんだろうと思う。
 こうなると猪野熊監督には実はやっぱりバレーボールの未来のためを考えていた、なんて道義的な人間としてオチをつけるのではなくて、極めて個人的な、自分の欲望を満たすだけに選手たちを苛める悪辣なサド野郎でいてほしいと思ってしまうんだけど、むずかしいかなあ。

2004年05月19日(水) 鬱陶しい雨の日の、鬱陶しい話。
2003年05月19日(月) すっ飛ばし日記/あるものが見えない女
2002年05月19日(日) 今日は一日寝て本・ビデオ……っていつもや/『Sink』1巻(いがらしみきお)ほか
2001年05月19日(土) 地上の星々/『狼には気をつけて』2巻(遠藤淑子)


2005年05月18日(水) ネットに一杯のオカマ/『竹熊漫談 ゴルゴ13はいつ終わるのか?』(竹熊健太郎)

 ネカマ、というコトバを初めて聞いたのは何年前だったか、コトバもそうだがイヤラシイことをする人種はいるもんだと、やっぱりネットは「魔窟」かなと警戒心を新たにしたものだった。当たり前と言えば当たり前かもしれないが、ネットオカマはいても、ネットオナベの話は余り聞かない。ちなみに「ネカマ」でGoogle検索してみたらヒットしたのは91000件で、「ネナベ」は7000件だった。
 男と女のどっちがスケベかというのは、不毛な論議ではあるけれども、こういう数字を見るとやぱり男の方がスケベなんかな、とは思う。男が女のふりをするのはまあ、相手を騙してからかってやろう、という動機が大きいだろうが、女が男のふりをするのは女だということで好奇な目で見られたくない、という心理が働いてる場合のほうが大きいみたいだしね。
 私も役者のハシクレではあるので、演技として「女になること」に抵抗感はないのだが(前回の芝居を見て気分悪くなったヒトはすみません)、正体を隠してネットで他人を騙す気にはなれない。映画『ポケット一杯の幸福』ではないが、もしも万が一、実際に相手と出会うことにでもなったらどうするんだろう、女装でもするのか、とか余計な心配をするからである。
 ……とか日ごろから思っていたら、まさにそんな事件が(笑)。
出会い系サイトで知り合った群馬県桐生市の会社員(46)から現金約6万円をひったくったとして、無職星野賢政容疑者(24)と、無職少年(16)が群馬県警桐生署に逮捕された。
 2人は去る2月26日夕方、伊勢崎市宮子町のゲームセンターの駐車場に会社員を呼び出して、“女装した少年”が援助交際の値段交渉を装って会社員の車内に入って、現金入りの財布をひったくったという。
 よく男とばれなかったものだと思うが、もともと犯人の少年は細身で身長も低く、髪も長髪で金色に染めた上に付け毛もしていて、紺のミニスカートにグレーのカーディガン姿でアイシャドーやマニキュアまでする念の入れ方だったそうだ。16歳でもガタイのデカイやつだとなかなか騙せるものでもなかろうから、よっぽど「おんなおんな」していたのだろう。実際、会社員はその姿を目にしても全く男だとは気がつかず、みごとに騙されたそうだ。
 でもこの事件の場合は、ネカマを演じていたのも、初めから窃盗目的だったんじゃないかって気がするね。もしかして日常的に女装シュミがあったか、星野容疑者とカラダの関係もあったのかもしれないが、ともかくあるとき、少年の「女っぽさ」が「利用できる」ことに、本人か星野容疑者が気づいたんだろう。「天啓」でも受けたように感じたのかもしれない(笑)。
 でも、それだけの「素材」であるのなら、合法的に利用する手段もあったんではないかと思うのである。ネカマでエンコーでひったくりなんてしみったれたことしなくても、それこそ「役者」になれば引っ張りだこだろう。女装の似合う少年とか、ホントにいたら需要多いんだぞ。映画『覇王別姫』とか見て参考にすればよかったのに。……いやまあ、うちの劇団も役者不足には悩まされているので、「もったいない」とか思っちゃったんで。

 そう言えばうちのメンバーでネカマ経験があると言えば某君であるが(特に名を秘す)、日記で「彼女ができねえ」とかしょっちゅうボヤいている。いや、ネカマやった時点で「彼女」云々なんて言ったって共感は得られないと思うぞ(笑)。


 黒澤明監督・三船敏郎主演の映画『用心棒』とその続編『椿三十郎』のリメイク権を、角川春樹事務所(注・角川書店ではない)が入手したって。
 黒澤監督作のリメイクって、海外では昔からやたら行われてきたけれども、日本じゃ何だかタブーになってるような感じで、数えるほどしか例がなかった。そのへん、角川春樹社長も歯がゆく思ってたんじゃないかな。もともと『天と地と』なんかも明らかに黒澤時代劇に対抗する意識が濃厚だったし。ちょうど『酔いどれ天使』や『生きる』のハリウッド・リメイクが決まったとこだから、もう我慢できねえって感じで、3億円の契約金を黒澤プロに払ったってんだから豪気なもんじゃある。もっとも、黒澤リメイクで成功した例ってのもそう多くはないんで(『荒野の七人』くらいのものか?)、正直、先行き不安な企画だ。
 一番の不安材料ってのがそもそも「角川春樹事務所製作」ってとこじゃないか。まさか監督角川春樹自身か? もしそうだったら、どんな駄作ができあがることか、想像するだに恐ろしい。
 それでも『七人の侍』のリメイクよりは(『SAMURAI7』のつまんなさ、あれ何なんだろうね)まだリメイクのしがいがあるのが『用心棒』かもしれない、とは思う。黒澤明の代表作の一つに挙げられてはいるけれども、公開当時から「荒唐無稽過ぎる」という批判もある(佐藤忠男や田山力哉は特に『用心棒』を嫌っていた)。役者の力、演出の力であまり気づかれないが、脚本上の欠陥もある。
 私が一番弱いなと思うのは、主人公の三十郎の行動の動機に今一つ説得力がないという点だ。何しろ三十郎は最初から馬目の宿の人々を救うつもりでヤクザたちの抗争を煽っているのである。旅から旅の風来坊で、宿場とは縁もゆかりもない三十郎が、ヤクザに入門しようって若造を見かけて、酒場の親爺から愚痴を聞かされただけで、どうしてそんなお節介極まりない気持ちになったのか、どうも腑に落ちない。「三十郎がそういう性格だから」と納得するしかないわけで、この問題は黒澤明自身も気になりはしたらしく、逆手を取った形で続編の『椿三十郎』のストーリー上の重要なモチーフにすらなるのである。なんたって、若侍たちに協力する動機が「てめえらのやることは見ちゃいられねえ」だけである。若侍たち自身が「縁もゆかりもないのだから」と三十郎を信じられなくなっても無理からぬ話である。
 お前、実は公儀隠密なんじゃねえか(笑)という皮肉の一つも言ってみたくなるが、どうやら同様の思いをしていたのが岡本喜八で、シリーズを受け継いだ『座頭市と用心棒』では、用心棒を本当に公儀隠密にしてしまった。シリーズ最終作の稲垣浩監督『待ち伏せ』でも似たような「役目」を負わされている。そういう「縛り」は三十郎というキャラクターをかえってつまらなくしてしまうが、物語の不合理を正すことを優先するか、主人公の奔放な魅力を優先するか、どちらを取るかの判断は難しいところである。
 『用心棒』の原作とされている、ダシール・ハメットの『赤い収穫』では、この問題はもともとクリアーされている。主人公はコンチネンタル探偵社のオプ(調査員)だからだ。依頼を受けてポイズンヴィルに派遣され、そこで自分の依頼人が消されたことを知る。コケにされ、そのまま手ぶらで帰るのが業腹だったオプは、街のボスの一人である依頼人の父親に取り入り、街で起きる事件の数々を「解決」していくのだ。ここで重要なのは、映画の三十郎と違って、コンチネンタル・オプは抗争するボスたちをハメるための仕掛けを殆ど弄していない、という点である。もともといつ殺しあいが起きてもおかしくない状況で、実際に「暗殺」が横行しており、証拠がなくてお互いに動けなかったものを、オプは独自の調査で証拠を集めていくだけなのだ(たまにハッタリも使うが)。つまり別にオプがいなくても、ボスたちの抗争は勝手に起きて勝手に収束していたことは明らかで、オプのやったことはその崩壊のスピードを速めることに過ぎず、その目的も「コケにされた復讐」と「上前を撥ねる」ことにあった。三十郎が持っていた天然の正義感などは全くないのである。その意味で『赤い収穫』を『用心棒』の原作とするのには私としては大いに異を唱えたいところだ(小説からの明らかな台詞の流用があるので、黒澤明なり脚本家の菊島隆三なりが『赤い収穫』を読んでいたことは間違いないのだが)。
 『用心棒』のリメイクに関して一番難しいだろうと思うのは、製作当時の昭和36年ですら、「風来坊の正義感」に違和感を持った人々がいたというのに、更に即物的な人々が増えた現代、三十郎のようなキャラクターが受け入れられるものだろうか、という疑問である。新たな「原作小説」は既に福井晴敏に依頼されているということだが、そういった問題点にはいささか無頓着な人のように思えるので、果たしてヒットを見込める作品に仕上げられるかどうか、これも不安材料のように思えてならない。
 もっと単純に、「誰に三船敏郎の代わりが務まるのか」という疑問を抱く人も多いだろう。時代劇の主役で殺陣ができる役者と言えば、真田広之、役所広司、渡辺謙くらいしかいなくなってしまったが、その誰が演じても違和感は付きまとう。リメイク企画そのものが、安易ではあるのだが、リメイクの要となる役者が不足している日本映画の弱体化の方こそ本来は批判されてしかるべきではなかろうか。
 それにしても黒澤プロも自分とこで映画化しようとしないでよく簡単に映画化権を売っちゃったもんだが、もしかして新作『鬼』(これも黒澤明原案である)の資金繰りに詰まったとか、そういうこっちゃないだろうな。こちらも監督黒澤久雄ということで不安材料ありまくりどころの話ではないのだが。


 福岡西方沖地震のせいで、うちのマンションの壁にもあちこちヒビが入っている。
 うちの部屋には目立った被害はないのだが、どこぞでは漏水も起こっていたとのことで、マンホールの付近ではコバエが涌いていて、ちょうどすぐ近くに駐車しているしげの車などはコバエの被害をモロに浴びていた。
 いい加減で早く修繕してくれないものかとしげはブツブツ言ってたが、ようやく管理会社から「マンホール周辺を補修しますので、いったん車を移動させてください」と通達が来たのが二、三日前のこと。その知らせは私が受け取っていて、日時は今日だよと、しげにも伝えておいたのだが、しげは何を勘違いしたのか、それが来月のことだと思い込んでいた。地震からかなり日が経っていて、これ以上修理を遅らせられるはずもないのに、何でそう思ったのかは不可解だが、イカレアタマのしげのことだから理解しようったって無理である。字を読み違える、見えないものが見える、見えるものが見えないというのはしょっちゅうで、お前は関口か榎木津か、ってなもんである。
 管理会社の連絡で慌てて車を移動させたそうだが、「あそこのうちは大事な通知をきちんと見てないやつらだ」とか思われたんだろうなあ。私はちゃんと見て、しげにも伝えといたんだぞ! しげの馬鹿なのは今更だが、こっちまで同類と思われるのはちょっと心外に感じないでもない。しげとつるんでいると小さなことでも巻き添え食らうこと多いのよ。


 竹熊健太郎『竹熊漫談 ゴルゴ13はいつ終わるのか?』(イースト・プレス)。
 タイトルの『ゴルゴ13』とか『美味しんぼ』『ガラスの仮面』がいつどういう形で終わるのか、という竹熊さんの「憶測」は正直な話、読んでて全然つまらない。
 『サルまん』式のマンガの物語パターンを当てはめていけばこれはこうなってこう落ちて、という予測は何通りでも想像できるのだが、「その予測に従いたくないから」、これらのマンガは未だに完結しない(できない)のである。大風呂敷を広げたら簡単にはたためなくて、手塚治虫や石ノ森章太郎に未完作品が多いのも、結局は「読者の予想を裏切るほどの素晴らしい結末」を思いつけなかったからだ、ということだ。『ゴルゴ』はもう確実にさいとう・たかをの死で未完に終わると思うけどね(実際の作家は別人だから続けるという手もあるが、もう打ち切った方が賢明だろう)。
 マンガ好き同士のヨタ話で「あの話のオチはきっとこうなるぞ」と予測しあうのは楽しいが、それを本にしたって、突っ込みあえないから、「へえ、あんたはそう思ってるんだ。よかったね」で終わってしまうのである。更に言えばこの竹熊さんの予測自体が底が浅くて膝を叩くほどのものではないのが致命的だと言える。この本読んで「俺はもっと面白い結末考え付けるぞ」と思った読者は多かろう。
 それよりも、後半の「自分のハナシ」や「オタクのハナシ」のほうが格段に面白い。70年代、80年代のオタク創世記に青春を過ごしてきた人間は数多いが、彼らがみな一様に『ヤマト』にはまり、『ガンダム』にハマッていたわけではない。アニメが好きでも『ヤマト』を見ていなければ、『ガンダム』に燃えていなければオタクにあらず、アニメブームの本質も見えていないようなモノイイをする人は多いが、果たしてそんなに簡単に言ってしまっていいものかどうか。確かに当時の『アニメージュ』の表紙を飾っていたのは『ヤマト』『ガンダム』が圧倒的に多かったのだが、この両作が視聴率的には惨敗していたのは周知の事実である。
 竹熊さんは、“『ガンダム』にハマらなかった”オタクである。私生活でアニメにはまれる状態でなかったことも原因ではあるが、大塚康生ファンである立場からなら、たとえ『ガンダム』を見る余裕があったとしても、とても本気でハマれはしなかったろう。しかしそれが結果的に竹熊さんのアニメを見る視点を客観的かつ分析的なものにした。
 「素直にアニメを楽しむ人たち=オタク顕教」
 「アニメを政治的に擁護する人たち=オタク密教」
 という分析は、一見単純で、そんなに簡単に人を二分化して見ちゃっていいものかどうか、という疑問も抱かせるものなのだが、実際にアニメオタクの連中をナマで見ていると、この図式にピタッと納まっちゃうやつが多いのである。例えば『アルプスの少女ハイジ』を見ていたやつは「オタク顕教徒」で、裏の『ヤマト』を見てたやつは明らかに「オタク密教徒」だろう。作品の完成度という点で見るならば、『ヤマト』には「ほころび」がありすぎる。素直にアニメを見るなら、『ハイジ』に軍配が上がったのは当然の結果なのだが、それでも『ヤマト』を支持する「運動」が、現在のオタクシーンの母体を作ったのだ。
 では、「ハイジ」ファンだった人たちはオタクではないのか。そんなことはない。顕教と密教のどちらが本道か、などという論議は不毛である。その両輪があってこそ、アニメの総体は語ることが可能なのだ。『ヤマト』『ガンダム』と続くアニメのエポックとなった作品のいかにも「密教」な流れがアニメブームを牽引してきた事実を竹熊さんも否定してはいない。しかし、「アニメ密教」の人々が、アニメを「裏読み」ばかりし、しかもそれが「ドグマ」(独断・教義)に陥ってしまいがちであること、これは通ぶったオタクが自戒の念をもって認識すべきことではないだろうか。すなわち、面白いものを面白い、つまんないものをつまんないと密教オタクは素直に言えなくなってしまっているのである。
 考えてみたら、私も『ヤマト』『ガンダム』にそれほどハマらず、密教オタクが毛嫌いした『エヴァ』にはハマッたという点で、竹熊さんと共通している部分がある。言っちゃなんだが、「アニメと特撮」だけを見て、それで全てを語れる気になっている密教オタクとは、会話していてもその視野の狭さに閉口させられることが多いのだ(これは私の視野が広いと言いたいわけではなくて、相手の視野が非常識なくらいに狭すぎるのである)。言い古された言葉ではあるが、オタクはやっぱりほかのメディアに触れるなり日常を大切にするなり、そういうアタリマエなことを心がけたほうがいいと思うよ。

2004年05月18日(火) トンガリさん、更にトンガる! ……とほほ(T.T)。
2003年05月18日(日) すっ飛ばし日記/やっぱリ肉食う女
2002年05月18日(土) 世界の中心で馬鹿と叫んだ女/『彼氏彼女の事情』13巻(津田雅美)ほか
2001年05月18日(金) 増えるワカメのごとく……/『鬼切丸』20巻(楠桂)


2005年05月17日(火) 今日もまた石野眞子/『おねがい☆ティーチャー』1〜8話

 石野真子の余韻に浸りつつ一日を過ごす(笑)。
 いや、別に意図してそうしてるわけじゃなくて、頭の中で自然と「石野真子メドレー」が流れて来ちゃうのよ。『デカレンジャー』のスワン役くらいでしか石野真子を知らない若い世代には、何でそんなに石野真子が、と思われるかもしれないけれども、70年代半ばの山口百恵・桜田淳子・森昌子の「花の○○(←「中二」から「高三」まで学年が入る)トリオ」の時代から、80年代には入り、松田聖子・中森明菜を中心に、アイドル全盛時代を迎えるちょうど間隙にあたる時期に、石野真子は殆ど唯一と言ってもいいくらい、青少年の人気を集めていたのだ。
 ここが大事なとこなのだが、まだ当時「オタク」という言葉はなかったが、オタク的傾向の強いやつほど、石野真子にハマッていたのである。ライバル視されていた大場久美子は歌がダメでどっちかと言うとドラマ『コメットさん』人気の方が高かったが、それも子供が中心でだったし、榊原郁恵はヒット曲では石野真子に拮抗していたが、より大衆的で、バラドル的な売られ方をされていた。その点、石野真子は、単に可愛かっただけではなく、高橋三千綱原作の『九月の空』という正統派アイドルとしての主演映画もあったし(滅多にテレビでも再放送されないんだよなあ。日本映画専門チャンネルにリクエストしたろか)、何より繰り出す曲の数々が今聞いても何じゃこりゃあ? と言いたくなるくらいマトモではなかった。
 「のんのんののー、のんのんののー、のんのんののー、のんのんののー、今日はー、わたーしのー、失ー恋記念日ーですー♪」って、『失恋記念日』の歌い出しなんか、今でも何を言っているのか全然意味が分からない。最初聞いたときには何をウワゴト言い出したのだ石野真子は、と目の前がクラクラしたものだった。昨日歌ってくれた『ハートで勝負』も、サビの部分は「フラッシュ! まぶしいあなたならー、私をーどうぞー、ご自由にー」である。お前の彼氏はハゲか。でもって自由にしてって言ってても石野真子はきっと自分が自由勝手気ままにふるまうに決まっているのだ。ともかく石野真子くらい現実味というものから遠いキャラはかつてなかったし、カラオケで男が石野真子の歌を歌うと、これはもう気が狂ってるようにしか聞こえないのである。
 デビュー曲『狼なんかこわくない』のタイトルはもちろんディズニーのパクリであるが、この時点で石野真子の「ファンタジー」なキャラクターであることに注目していたプロダクションは慧眼だったと言えるだろう。そう、なぜ石野真子がオタク的青少年に人気があったか、彼女は当時の「リアル二次元キャラ」であったのだ。
 「石野真子はいい!」という台詞は、70年代末期、絶大な人気を誇っていたギャグマンガ、江口寿史の『すすめ!! パイレーツ』で使われてたギャグである。そして、彼のマンガには、石野真子を模したキャラクターが「あはははははは!」と、あの脳天から突き抜けるようなけたたましい笑い声とともにしばしば登場した。江口寿史はリアル二次元キャラを自作のマンガの中に「逆輸入」してキャラとして立たせることが絶妙にうまく、それだけ石野真子がもともとマンガチックだったと言えるのである(薬師丸ひろ子をとんでもない悪辣なキャラに仕立てたときにはのけぞっちまった)。
 考えてみれば昔から私は普通にかわいかったり美人なだけのアイドルには興味を惹かれなくて、何か一つでも現実との「違和感」のあるキャラクターに魅力を感じていたようだ。もちろんリアルな演技をする女優さんの価値を認めないわけではないのだが、オタクというものは大なり小なり現実との「違和感」の中で自分自身の居場所を見つけられずに右往左往しているものである。どこか現実になじめない、SFチックと言ってもいいようなキャラクターに共感を覚えるのは、悪く言えば現実逃避ということになるんだろうけれども、まあ、コンサート追っかけて学校や仕事サボるほどのことまではしなかったし、日常に支障は来たしてないと思うから(多分)、いいんじゃないですか(自分で自分を勝手に許すな)。
 今の私の悩みは、ベストアルバムのCDは買うとして、今度博多にも来る石野眞子コンサートに行くかどうかである。40過ぎて今更アイドルかよって言うやつもいるだろうが、私ゃ石野真子より一つ年下なんだからね。


 今日は七時半から町内会に出席の予定だったのだが、仕事が押してて残業しないといけないことが事前に分かっていたので、しげに出席を頼んでおいた。頼んではいたけれども、こういう会合はコミュニケーション不全のしげが一番嫌うところである。もしかしたらサボってないかと仕事の合間にメールを入れたが返事がない。
 不安に思いながらも八時近くになってようやく仕事がひと段落着いて、電話を入れると、やっぱりしげは愚図って「行きたくない」と家に引きこもっていた。「ばかやろう、早く行け」と脅して、電車に飛び乗った。
 会場の公民館に着いたときにはもう九時になっていたが、まだ会議は終わっていなかった。慌てて駆け込んで、それでしげが来てなかったら間が抜けてるよなあとは思ったけれども、しげ、何とか自分を鼓舞して出席していたのでホッとする。全く、ちゃんと動けるのなら最初からぐずぐず言わずに動いてほしいものである。いちいちこっちに気を使わせないでほしいもんだ。
 あとで会合の様子を聞いたら、しげ、憤慨して「どうして十分で終わる会議を一時間半もかけてやるんだよう!」と叫ぶ。テキパキとコトを片付けなきゃなんない会社の会議とかに比べたら、そりゃ、爺ちゃん婆ちゃんばっかりの町内会なんて、そんなもんだろう。
 「でもあの会長、見て思い出したよ。店に来て、こっちが案内するまで絶対に動こうとしなかったいやな客だ!」
 まあ、同じ町内なんだから、どこかですれ違ってたっておかしかないんだが、いやなすれ違い方をしているものである。また場合によってはしげに会合に出てもらわなきゃなんないこともあるかもしれないのに、これでまた愚図られそうで、今から気が重いのである。


 食料が尽きてたので、マルショクで買い物。「安くて腹の太るもの」を頼んだら、しげ、ラーメンをたっぷり買いこんできた。だもんで、遅くなった夕食はラーメン。
 夜も遅くはなっていたが、ともかく一日になにか一つは本を読むなり映画を見るなりしないではいられないので、CSチャンネルNECOで録画しておいたアニメシリーズ『おねがい*ティーチャー』を一話から八話まで見る。三年前にWOWOWで放映されてたやつだけど、そのときには飛び飛びにしか見てなかったので、今度は一挙にまとめて。
 これもまあ、タイトルから推して知る通り、思いっきり「萌えアニメ」で、ヒロイン・風見みずほが、宇宙人と地球人のハーフの、メガネの、巨乳グラマーの、そんでもって学校の先生で、主人公の男子高校生草薙桂とひょんなことから夫婦になってしまうという、設定だけ聞きゃ「ふざけるな」と言いたくなりはするのだが、これが黒田洋介脚本なおかげで、意外にもかなり「見られる」ものになっているのである。
 確かにみずほ先生のキャラクターはかなり「天然」で、対する桂くんはストイック、二人の仲が進展しそうでしないのはシチュエーション・コメディの定番でありすぎるし(邪魔もしょっちゅう入る)、みずほ先生の声がまた井上喜久子と来ればこりゃどうしても『ああっ女神さまっ』のパクリ企画のように見られても仕方がないっちゃ仕方がないのだが、少なくともあかほりさとる脚本作品のように、腐れオタクに迎合するだけのアニメにはなっていない。
 先生と生徒のカンケイ、ということになると当然、学校から問題視されることになるが、詰問する校長の前で堂々と「僕たちは夫婦です」と言い切る桂くんの勇気、これが物語を転がすために必要な台詞に過ぎないとしても、そこにやっぱり少しは世間の偏見とかレッテルとか、そういうものをぶっ飛ばしてやりたいという脚本家の気概を感じるのである。腐っても黒田洋介、と言ったところだろうか。
 定番のシチュエーション・コメディなのに、いや、定番だからこそ、そこに「萌えアニメのもう一つ先にあるもの」が作れないか、とスタッフが頑張ってるんじゃないか、と、『おねがい』シリーズにはちょっと注目しているのである。作画も、キャラクターの細かい仕草になかなか凝っているのである。

 ところがこれ見てるとしげが段々イライラして来るんだねえ。やっぱりワンパターンってのが気に入らないのと、みずほ先生がやたらと「最優先事項よ」って繰り返すものだから、いい加減「うるさい」のだそうな。確かに毎週一話見るならともかく、八話連続で「最優先事項よ」「最優先事項よ」「最優先事項よ」「最優先事項よ」「最優先事項よ」「最優先事項よ」「最優先事項よ」「最優先事項よ」って聞かされたらうるさいわな。
 なんかまたヘンなアニメにはまってるな、と思われる向きもあろうが、まあ概ね冷静に見てるので、「みずほセンセイ萌え〜♪」とかは間違っても言い出しません(笑)。

2004年05月17日(月) トンガリさん、切れる!
2003年05月17日(土) すっ飛ばし日記/時計だけ見る女
2002年05月17日(金) 追悼、柳家小さん/映画『モンスターズ・インク』/『カスミ伝△』2巻(唐沢なをき)ほか
2001年05月17日(木) 少しまじめな話/『コミックバンチ』創刊号ほか


2005年05月16日(月) 世界で一番の石野真子!/舞台『Shuffle(シャッフル)』

 昨日の日記の訂正。つか追加説明。『仮面ライダー響鬼』のヒビキたち鬼の本名、もう番組中に出てたんですね。複数の方から指摘を頂いたのですが、結構番組丹念に見てたつもりだけど、ちーとも気が付きませんでした。
 響鬼→日高仁志
 威吹鬼→和泉伊織
 裁鬼→佐伯 栄
 弾鬼→段田大輔
 これに轟鬼の戸田山登己蔵が加わるわけか。全員イニシャルが一致してるってのはちょっと出来過ぎ。鬼になるにはそういう「コトダマ」が必要ってな条件でもあるのかね? けどそうなると斬鬼が初め「今日からお前が斬鬼だ」って戸田山に言ったのは冗談だったのか、とか、天美あきらは将来イニシャルAの男と結婚しないと鬼になれないのかとか、疑問がいろいろ湧いてくるんだけど。いやまあちょっとした脚本家の遊びなんだろうけどね。だからこれで安達明日夢が即、鬼になる資格あり、と断定するのはまだ早かろうと思うのである。
 こんなふうに日記を書いてすぐに反応があるというのは嬉しいことなのだけれど、こうなると更新遅らせられないなあと、ちょっと責任を感じてしまう。「無責任賛歌」なのに(笑)。

 「腐女子批判」については劇団メンバーから文句が出るんじゃないかと内心ビクビクものだったのだけれど、まあこれまでにも何度も似たようなこと書いてるんで見逃してもらえたようである(笑)。だいたい、いくら批判されようが、「好きなもんは好き」でビクともしないんだから、ちょっとくらい罵倒したって構わねえだろ。今やマイノリティなのはオールドタイプの我々なのだ。
 お気に入りの日記さんで、「『SEED』が受けてるのは女子だけじゃないのでは」というご指摘もあったが、もちろん「男のファンがいない」なんて一言も書いちゃいない。『アニメージュ』の読者の大半が小・中学生の女子に移っちゃってるのは編集部も認めている事実であって、そのためにグランプリの票に偏りが生じていることを指摘しているだけなのに、なんか勘違いしているのである、
 総じて私の日記を読んで批判する人って、例外なく文章を読もうとしてないので、説明も反論もしようがなくて困るのだな。


 また監禁事件ですと。
 もう詳述する気も起こらないが、今度は奈良での事件。またもや出会い系サイトで知り合った女子高生(17歳)を誘い出して、手錠を掛けるなどして22日間自宅で監禁した露天商手伝いの川本隆之容疑者(29歳)(新聞によっては「鄭隆之」とある。こっちが本名なんだろう)が逮捕された。逃げ出して交番に駆け込んだ女子高生を追いかけて、自分も交番に駆け込んで逮捕されたっていうんだから、まったくもって真性の阿呆。
 もう犯人の幼児性とか短絡思考とか既知外ぶりとか親の監督不行き届きとか、それはもういくらでも言えるんだけれども、女の子の方にもねえ、いい加減で「出会い系サイトにやって来る男に対して夢を求めるの、やめようよ」って言いたいよ。そもそも「出会い系」に来てる時点で、身の回りの女性にまるで相手にされてないか、逆に食いまくってるかのどっちかだってこと、前提として知っとかなきゃ。
 男はさあ、「出会い系」に来る女なんて、世間知らずの馬鹿女か、インランな痴女のどっちかだから、どんなに蹂躙したってかまわないと思ってるんだよ。罪悪感ないやつのところにノコノコ出かけて行くな。「脅されたから仕方なく」なんて言い訳にもならんわ。引っ掛ける方も引っ掛かる方も阿呆で、どっちもどっちと判断されたら、世間の風潮は「勝手に監禁でも何でもされとけ」ってな具合に「馬鹿な女の方が悪い」って方向に傾きかねないぞ。


 夜、福岡市民会館で、パルコ・プロデュースの舞台『Shuffle』。
 筋の説明とか芝居の批評とか、そういうの全部抜きにして、まず、これだけは言わせてくれ。
 石野真子はいい!!!!!!!
 ……ハイ、すっきりしました。

 後藤ひろひと作・演出による、本人曰く、「『Midsummer Carol ガマ王子vsザリガニ魔人』に続く『ブレイン・トラブル・シリーズ』第二弾」なんだそうな。でも前作とはうって変わって、お涙頂戴なんかクソクラエのナンセンス・コメディに仕上がっている。
 主人公の刑事・乾利貴(伊原剛志)は、墜落事故で認知障碍を起こして目の前の相手が別人に見えてしまうようになる(相貌失認と言うそうな)。例えばAさんがBさんに、BさんがCさんに、CさんがDさんに、DさんがEさんに見えてしまうのである。せっかく怪盗団の正体を目撃したのに、果たして乾は事件を解決できるのか? 迫り来る怪盗団の魔の手にも彼は気が付くことができない……というスジ。
 この、「別の人間に見える」っての、似たようなネタを前にどこかで見たか聞いたかしたような気がするんだけど、思い出せないんだなあ。「視覚と聴覚が入れ替えられる」ってのは『虎よ!虎よ!』のネタだったけど、それじゃなくてもっとストレートに似てる作品があった気がしてならないんだけど。多分、吾妻ひでおのマンガかなんかだ。
 面白いのはもちろん乾の目の前の人物が全く「噛みあわない」言動をするシーンなのだが、そこにたどり着くまでの展開が少々もたつく。怪盗団チップス三人組(風花舞・山内圭哉・松谷賢示)の登場シーンなど、恐らくはわざとアドリブで場つなぎをさせてるようなのだが、これがあまり面白くない。繰り返しのギャグがしつこすぎて、笑えないのだ(でもほかの地方の公演では面白かったのかもしれないが)。
 けれど、警察医の賽野目(鹿内孝)から、相貌失認であることを知らされてから、物語はどんどん転がり始める。上司の剣女史(平田敦子)が同僚の梶野(三上市朗)に見えてしまい、鼻をつまんでどやされるくらいは序の口で、チビ・メガネ・ブス・博多の田舎者(笑)と三拍子揃った警備員の三つ葉幸子(奥菜恵)が、20年来の大ファンである石野真子に見えてしまうに至っては、実態と外見のギャップに引き裂かれて乾は身もだえする。
 それにしても、アイドルは星の数ほどあれど、石野真子に白羽の矢を立てた後藤ひろひとさんのセンスの良さよ! うん、これは「今のアイドル」には絶対こなせない役だ。それどころか、かつての同年代のアイドルたち、大場久美子や榊原郁恵にもムリな役だ。彼女たちでは庶民的に過ぎる。どこか現実との距離を感じさせるあのキャンディー・ボイス、彼氏を狼だの首領(ドン)だのジュリー(沢田研二)だのに見立てる“いったい君はナニモノだ”という石野真子だからこそ、「幻想ヒロイン」が演じられるのである。今のアイドルでギリギリ石野真子に近いスタンスで売られているのは小倉優子かとも思うが、石野真子はあんなただの馬鹿ではない。石野真子の前に石野真子はなく、石野真子の後に石野真子はないのである。後藤さん、あんたはエライ!(←小松政夫風)
 石野真子の話ばかりしてもなんなので、ほかの役者さんについて。タイトルロールの乾“シャッフル”刑事を演じる伊原剛志、石野真子の皮をかぶった(アイドル衣装がまだ似合う脅威!)奥菜“ドブス”恵を前にして「近づきたいけど近づきたくなくてでも近づきたいような」ってクネクネする演技、がやたら可笑しい。長身の伊原さんが演じているだけに、『オズの魔法使』のカカシを彷彿とさせるのである。しかも、乾の脳内シャッフル、“一度だけではない”のだ。奥菜恵は博多弁を喋っているのだが(長浜ラーメンの兄ちゃんに特訓受けたそうである)、これが石野真子の口に“移って”流暢に流れて来ると、もうかわいらしいったらないのよ! 奥菜恵ももちろんかわいいんだけど、石野真子はもっと……いかん、また石野真子に話が戻ってしまった(笑)。
 今回、「美女ヒロイン」が、奥菜恵、風花舞、澤田郁子、そして石野真子と四人もいるのだが、この四人に揃いも揃って「チンピラ情報屋」を演じさせるセンスというのがすばらしく楽しい悪ふざけである。さらには、申し訳ないが美女の系列からは外れてしまう(失礼)平田敦子は、もう絶品としかいいようのない「山内圭哉のマネ」を披露してくれる。……って、平田敦子と山内圭哉を知らないとこれがどれだけものすごいか、コトバじゃ全然わかんないねえ(超オデブな女性がつるっぱげの関西ヤクザを演じていると思ってください)。
 女優陣はそれぞれ実に個性的なのだが、やはり三つ葉幸子を演じている奥菜恵が「新境地」と言ってもいい、いかにも後藤ひろひと脚本らしい「変身ヒロイン」を演じている。
 奥菜恵はこれまで『弟切草』と言い『呪音』と言い、誰が演じても構わないような役どころばかりで損をしていたと思うが、伊原剛志との見た目40センチは慎重差があるんじゃないかというコントラスト、そのチビっぷり(多分150センチそこそこだ)が際立って、まるで「地下鉄のザジ」のように溌剌でかわいらしく見える。しかもそのかわいらしさは「ブスメイク」ゆえなのだ。もちろん物語の途中でブスメイクを落として素顔の「美女」になるシーンはあるのだが、後藤ひろひとの慧眼は、この子は「ブスにした方がかわいい」という点に気づいたことである。整った美人って、かえってキャラとしては立てにくいんだよね。美女になるのは一瞬で、ホントにほぼ全編、ブスメイクのままってのが素晴らしい。
 そして、やっぱり最後に言わせてほしい「幻想ヒロイン石野真子」を演じた石野真子。もう最強である。ラストはついに「生石野真子」として『ハートで勝負』を熱唱。青春の若き日、朝目覚めれば真子のことを思い、昼飯を食いながら真子のことを慕い、夜の夢に真子を見ることを願い毎日を過ごしていたころの憧れが再び胸に込み上げてくる。……そうだよ、隣の女房そっちのけで手拍子打ってたの、俺だよ。もちろん石野真子のたどってきた人生のアレやコレやを思いながら泣いてたともさ、悪いか(向かいの県立美術館ではちょうど長渕剛展やってやがった。けっ)。
 けれど、芝居がはねて出口に向かう客は一様に「石野真子がよかった」「すごいね石野真子」「やったね石野真子」と「真子が」「真子が」と、みんなミコになったかのように(←古くて分かりにくいギャグ)石野真子をたたえていたのである。そうだよ、『BIG BIZ』がシナトラを称えるための舞台だったとすれば、これは石野真子至上主義を高らかに宣言した舞台なのだ。ちょっとくらいダレ場があったって、真子がその全てをカバーして余りある感激と興奮と陶酔とを味合わせてくれたのだ。これほどの至福、これほどの福音、またとあろうか。
 DVD絶対に出せよ、パルコ。

2004年05月16日(日) 「替え歌」の方しか知らないってこと、あるよな。
2003年05月16日(金) すっ飛ばし日記/魔界な男たち
2002年05月16日(木) で・じゃ・ぶぅ/DVD『アードマン・コレクション』
2001年05月16日(水) 鳥頭の女/『文鳥様と私』2巻(今市子)



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藤原敬之(ふじわら・けいし)