無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年05月22日(土) 関係者にしか意味が分らない文章ですみません。

 お昼から、知り合いの劇団の公演があるので、某所まで出かける。何度か日記に書いちゃいるが、ある事情から、芝居の内容とか書くことができない。従って、見た感想とかも内容に触れたような具体的なことは書けない。せっかくの舞台公演なのに、宣伝も充分にできないというのはちょっともったいないと思うので、次回の公演からはそのあたりの「問題点」をクリアーにしてもらいたいものだ。
 芝居そのものは、コヤの形状や広さが必ずしもその芝居のそれと合っているとは言い難い面があったので、ちょっと見ていて「苦しそう」であった。役者の演技がかなりコヤの狭さのせいで制約を受けているのである。
 例えば、走る演技一つ取ってみても、「ブレーキ」がかかっているのが見ていてハッキリ分かってしまうのだ。ヒロインが、すがろうとする相手を振りほどいて走り去ろうとするときに、「たたら」を踏んでしまっちゃ、それが会場自体に問題があるせいだとわかっちゃいても、ちょっと苦笑してしまう。袖の奥がもっと広ければ、こういう点には気がねすることなく走りこめる。本当ならもっとのびのびと演技できるはずだし、更にはそんなふうに「ブレーキのかかる演技」を強いられる方が、役者の疲労度は高いのである。二時間十分の長丁場、役者がだんだんと疲れて行く様子を見るのはちょっとつらい。
 でもこれは劇団の予算的な面での制約もあったのだろうから、同情することであって、文句や批判ではない。こういう会場の問題も、次回から考慮してもらいたいなあという要望のようなものである。
 役者さんたちの演技自体は、最初あまり噛み合っているようには見えなかった「間」の取り方が、後半にいくほどよくなっていた。いくつか、そこのセリフは解釈が違うんじゃないかなあ、と思える部分はあったが、出演者がそれぞれのキャラクターを「立てる」ことに成功しているので、さほど引っかかりはしなかった。特に、ワキのヤンキーの兄ちゃんを演じた人が、バカになったりカッコつけしてみたり、実にいい味を出していた。

 見終わって、上に書いたようなことを簡単にアンケートに書く。
 手伝い人に出張っていたしげや、見に来ていた鴉丸嬢、其ノ他君たちに挨拶をして帰宅。

 ここんとこしげと時間が合わないので、買い物に一緒に行くこともできない。夕食は家の近所のラーメン屋で済ます。
 ちょうど、北朝鮮での小泉首相の記者会見をテレビでやっていたが、地村さん、蓮池さんとこのご家族5人は日本に帰る、曽我ひとみさんの夫ジェンキンスさんと子供たちは本人たちの意志で居残り、前回の訪朝で死んだとされていた拉致被害者については再調査を“これから”行なう、北朝鮮へのコメ支援は25万トン、というまあそんなところかな、という結末。
 日本が今ひとつ強く出られてない感は否めず、「腰砕け」の非難がある程度出ることは必至だろう。ただ、事態が後退しているわけでもないところが微妙なところである。再調査を行なって、横田めぐみさんほかの安否が「やっぱり死亡」ということになったら、その報告までもまだ疑い続けることになるのだろうか。ああいう杜撰な国では、そもそも資料そのものに信頼性がない。横田さんのご両親ほか、拉致被害者の家族会のみなさんに安息の日が訪れることは相当遠くなりそうな気がする。

 夜、10時を過ぎてしげは帰宅。今日も疲れていたらしく、即寝。そのあと私はDVD『ハガレン』4巻などを見て、寝る。

2003年05月22日(木) すっ飛ばし日記/本な男
2002年05月22日(水) 風邪引き第一日目/『クレヨンしんちゃん映画大全』(品川四郎編)/『ビートのディシプリン SIDE1』(上遠野浩平)ほか
2001年05月22日(火) 我々は夢と同じものでできている/『MY SWEET ANIME 私のお気に入りアニメ』


2004年05月21日(金) 『イノセンス』カンヌ上映。

 今日はしげが知り合いの劇団のお手伝いで一日いない。
 解放されたような、ちょっと寂しいような。おっと、「ちょっと」だけじゃ、しげの機嫌が悪くなりそうなので「すごく」と言っとこう、一応(^_^;)。

 銀行に寄ったりと私用がいろいろとあったので、仕事を半ドンで終えて、博多駅まで出る。
 銀行でお金を卸して、郵便局で振り込み。これは七月にある『イット・ランズ・イン・ザ・ファミリー』のチケットを買うため。コメディ作家、レイ・クーニーの代表作、『パパ・アイ・ラヴ・ユー』の改題(というか、原題に戻したもの)、再演。キャストは上川隆也・羽田美智子・濱田マリ・綾田俊樹。舞台役者としてはどんなものなのかよく知らないが、ともかくクーニーの芝居をいっぺんこの目で見てみたかったというのが動機である。……考えてみたら、ニール・サイモンだって、台本で読むかテレビで見てるばかりで、ナマの舞台を見たことってないのである。仮にも芝居の台本書いてる人間が年に10本程度しか芝居を見にいってないってのは恥ずかしい限りなのだが、先立つものと相談したら、これが精一杯なのである。

 そのあとキャナルシティまで歩いていって、AMCで今日が最終日の『フォーチュン・クッキー』を見る。2週間で打ち切りというのはちょっと早い気がするが、オリジナルの『フリーキー・フライデー』は輸入すらされなかった(テレビ放映のみ)から、見られただけまだマシか。客は私の他にカップルがひと組だけ。なんだか二人きりの空間を邪魔したみたいでちょっと心苦しい。映画は母と娘の入れ替わりものだが、オリジナル版よりずっと脚本が練られていて、現代的になっているのがミソ。

 もう一本、夜、映画を見る予定なので、本屋を2、3軒、回ったりして時間をつぶす。
 紀伊國屋で予約しておいたDVDを購入。買おう買おうと思ってなかなか手が出ないでいた講談社の「ミステリーランド」シリーズをまとめて買う。有栖川有栖、小野不由美、島田荘司、高田崇史、竹本健治、西澤保彦、森博嗣といった当代第1線のミステリ作家達が、少年向けにミステリーを執筆していくもの。まさに江戸川乱歩の少年探偵シリーズ再び、という企画で、青少年の活字離れ云々に対して、出版社が具体的な対応策を考えている嬉しい例である。……できれば角川あたりが、昔の文庫版ジュブナイルシリーズを復活させてくれたらもっと嬉しいんだけどねえ。

 夜、シネ・リーブル博多駅で5周年記念「怪奇幻想文学秘宝館」シリーズの最終回『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』を見る。前に見てるやつではあるが、こういうサベツ問題にひっかかってるせいで、ビデオソフト化が見込めない映画は、上映の機会があるたびに見ておきたいのである。「知ってる人は知ってる」映画だから、100人ほどしか入らない会場が満席どころかパイプ椅子の増設に立見まで出る大盛況。私と同じく、必ずしも初見の人ばかりではないのだろう、随所にある爆笑シーンにも、場内、それほど笑いは起こらない。
 私はといえば、確かに最初見た時にはその驚きの「作り」に呆気に取られたのだが、二度目となるとかえって石井監督の乱歩に対する思いの方が胸を打って、とても笑って見てなどいられない。つか、また泣いてるし。なんだかもう、涙腺がゆるみっぱなしなのである。

 映画が終わって、バスがもうなくなっていたので、しげに連絡を入れて迎えに来てもらう。一日歩きっぱなしで、さすがに家まで1時間半かけて歩いて帰る気にはならなかった。しげも一日お手伝いで疲れ切っていたのだろう。
 「『理由』を見て寝る」と言って、DVDをかけて見始めたのだが、数分もしないうちにイビキをかき始めた。昨日一昨日もこんな調子だったし、しげが『理由』を見られるのはいつの日になるのだろうか。
 今日買ってきたDVD『丹下左膳余話 百万両の壷』と『キル・ビルvol.1』を続けて見る。『百万両』は、GHQによってカットされていた立ち回りのシーン20秒が復活した、今のところの最長版。見てみりゃ分かるが、なんでこの程度のシーンがカットされたのかわけが解らない。ともかく「刀を抜いたらダメ」ってことだったんだろう、としか言いようがない。この程度の描写を残酷だと認定し、またこういうのを見せなければ日本人を善導できるなんて思いこんで占領政策を行なってきたアメリカという国がいかに小児的で歪んだ国か。けどアメリカ国内でそれを批判してるのがマイケル・ムーアのようなまたコドモだっていうのが、なんかもう、ナントカとナントカの絡み合いみたいで、ウンザリなんである。


 昨日、カンヌ映画祭で、押井守監督の『イノセンス』がコンペティション上映。でも日本のテレビ局はキムタクがどうのばかり報道してて、こっちの方には見向きもしてないなあ(そちらはそちらで、彼にばかりスポットが浴びていて、出演している映画『2046』の紹介もおざなりだ。どんな筋で、誰が監督で、共演者は誰か、あなたはご存知ですか?)。……タランティーノ審査委員長、世間の評判に流されないで、しっかりたのんまっせ。
 読売新聞が『イノセンス』について、「近未来の日本を舞台にしたSFアニメで、この日の上映には、押井守監督も出席。上映終了とともに立ち上がった観客から大きな拍手を送られ、『理解してもらえるか不安だったが、かなりいい反応でほっとしている』と笑顔で語った」と紹介しているけれども、どの程度のものだったんだろうか。カンヌの審査は必ずしもスタンディング・オベーションには左右されないけれども、「大きな拍手」と「拍手鳴り止まず」とではニュアンスがかなり違うからなあ。
 情報があまりに少ないので、カンヌ映画祭の公式ページまで覗いてみたが(ネットの一番ありがたいことは、海外の情報まで即座に散策できることである)、ありましたありました。作品解説と、押井監督のインタビュー記事が。
 一応、全文を紹介するけれども、全部を翻訳するのはしんどいので、押井監督のインタビュー部分だけに留めます。

> Competition: "Innocence" by Mamoru Oshii
In addition to Shrek 2 that screened early in the Festival, the second animated feature in competition is presented today, Innocence by Mamoru Oshii. The Japanese director spent nine years making this follow-up to his cult hit Ghost in the Shell. The characters are the same but the political tone has given way to a philosophical one, a hymn to life. Furthermore, the technical rendering is much more formal, mixing 2D, 3D and computer graphics.

 簡単に要約すると、「『攻殻機動隊』の続編だけれども、内容はより哲学的になっていて、2D、3D、コンピューター・グラフィックスが混じってる」ってとこですかね。ここはただの作品解説。

> It is the year 2032 and the line between humans and machines has been blurred almost beyond distinction. Humans have forgotten that they are human and those that are left coexist with cyborgs (human spirits inhabiting entirely mechanized bodies). Batou is one of them. His body is artificial: the only remnants left of his humanity are traces of his brain ・and the memories of a woman called The Major. He is investigating a murder case involving malfunctioning androids that went berserk.

 ストーリー紹介。
 「人間は自分たちが人間であったことを忘れてしまっていた」というあたりが、欧米人にはどんな風に受け止められるか、というのが気になるね。アシモフの『アンドリュー(なんたらかんた)』(『バイセンテニエルマン』)も結局『ピノキオ』だったし、人間とロボットとの確執を描いても、結局は「人間様が上」な感覚から欧米人は脱却できないのである。人間が人間であろうとすることなんて、夢を見ているようなものだって発想で一貫して映画を作ってきた押井監督の思想は、結構反発を食らうような心配もあるのだけれど。
 ……今まで注意してなかったけど、バトーの綴りって、“Batou”だったんだね。もしかして漢字で「馬頭」って当てるのか? しかし「草薙」に「馬頭」と来ると、どうしても諸星大二郎の『暗黒神話』を連想しちゃうねえ。そのあたりのアナロジーについてはあまり深く考えたことはなかったんだけれども、士郎正宗はそういう「遊び」も想定してたんだろうか。

> Mamoru Oshii on his intentions: "This movie does not hold the view that the world revolves around the human race. Instead it concludes that all forms of life ・humans, animals and robots ・are equal. In this day and age when everything is uncertain, we should all think about what to value in life and how to coexist with others."

訳:製作意図について
 押井守「この映画は、世界は人類を中心に回ってるという見方で作られてはいません。むしろ生命の形は人間も動物もロボットも同じだと結論付けています。今日、あらゆるものが不確かな時代にあって、ぼくらはみんな、命の価値がなんであるのか、どうやって他者と共存していくのかを考えなきゃならないんです」

 これもまた実にストレートな発言で、欧米人の神経をかなり逆撫でしたんじゃないかと思うけれど、ブーイングとか失笑はなかったのだろうか(^_^;)。でもまあ、科学的にも生命と非生命との境界線は曖昧であったりするし(それは「生」と「死」の間に厳密な境界線がないことも意味している)、仮に「精神」あるいは「思考」が非生命体に対する生命の優位性を証明するものだという考えに基づいたとしても、オソロシイくらいに単純な思考しかできない人間も世の中には掃いて捨てるほどいるから、あまり威張らないほうがいいような気もするのである。
 なんにせよ、「クローン禁止」とか言ってる時点で、欧米人はこれ以上ないくらいに「思いあがって」「思考停止」してしまっているんである。で、そいつらと「共存」しなきゃならないのが日本の頭の痛いところなんだよなあ。まったく、「馬鹿には勝てん」のだ。
 なんにせよ、こういう挑戦的な発言をカマシてくれるあたり、押井監督、パルムドールが取れるかどうかなんて気にしてないみたいだなあ(内心はどうか知らんが)。

> Press Conference: "Innocence"
For the official presentation of the competition animated feature Innocence, Japanese director/writer Mamoru Oshii, composer Kenji Kawai and producer Mitsuhisa Ishikawa answered questions from the press. Highlights.

 記者会見の様子。
 公式サイトには、中央にヒゲ面長髪の押井監督、向かって右にやはりヒゲ面の石川光久プロデューサー、左隣にパッキンの川井憲次さんが座っていらした。掲載されていたのは押井監督のコメントだけだったけれども、あとのお二人がどんなことを喋ったかも気になるところである。

> Mamoru Oshii on the origins of the film: "When Production I.G first proposed the project to me, I thought about it for two weeks. I didn't make Innocence as a sequel to Ghost in the Shell. In fact I had a dozen ideas, linked to my views on life, my philosophy, that I wanted to include in this film. [...] I attacked Innocence as a technical challenge; I wanted to go beyond typical animation limits, answer personal questions and at the same time appeal to filmgoers."

訳:映画の成り立ちについて
 押井守「プロダクションI.G.が、最初、ぼくのところに企画を持ってきた時に、二週間考えました。『イノセンス』を『攻殻機動隊』の続編として作るのはやめようと。実際にぼくは、ぼくの人生観や哲学、この映画に込めたかったことに関連した12のアイデアを思いついてました。……ぼくは『イノセンス』で技術的な面で挑戦をしましたが、それは型通りのアニメーションの限界を越えて、自分個人の疑問にも答えて、同時に映画ファン達にも訴えたかったことです」

 よくネットでは前作『攻殻機動隊』を見ていないと分らない、という批評が横行していたけれども、そりゃあ、草薙素子がどういう存在であるのかとか、1作目を見ていれば「わかる」のだけれども、だからと言って、『イノセンス』を見ただけではわけが分らない、ということにはならない。それを言い出すなら、欧米の文化を知らない我々には海外の映画は「一切分からない」し、東京の人間には大阪人や九州人の感覚が「絶対に理解不能」だし、個人の考えていることは他人には「ほんのひとカケラも見当がつかない」のである。もちろん、そういう次元での「理解不徹底」は常に存在していることは確かなのだけれども、それを持ち出していい場合と、不必要な場合とがある。
 「1作目を見ていないと『理解不能である』」という言い方は、映画について語ること自体を拒絶している。1作目を見ていないからこそ、「何かが伝わる」こともあるのだ。こういうモノイイをする人というのは、たいてい情報に振り回されているだけか、知的スノビズムに陥っているだけだから、あまり相手にしないほうが無難なのである。……『エヴァンゲリオン』のブームの時に、やたらいたタイプの痛いオタクさんですがな(^_^;)。

> Mamoru Oshii on his narrative intentions: “for Innocence, I had a bigger budget than for Ghost in the Shell. I also had more time to prepare it. Yet despite the economic leeway, abundant details and orientations, it was still important to tell an intimate story. [...] Personally, I adore the quotes in the film. It was a real pleasure for me. The budget and work that went into it contributed to the high quality of imagery. The images had to be up to par, as rich as the visuals.”

訳:「『イノセンス』では、『攻殻機動隊』の時よりもずっと大きな予算が組まれました。準備のための時間もたっぷりありました。けれど、経済的な余裕があるにも関わらず、ディテールや方向付けが膨大になったのは、物語の本質を語るにはそれがやはり重要だったからです。……個人的にぼくは、映画に引用を持ちこむことが大好きです。それがぼくにとっての一番の楽しみなんですね。それに費やした予算と仕事は、映像をハイ・クォリティなものにすることに寄与しています。イメージは基準に達するものでなければならなかったし、映像も同様です」

> Mamoru Oshii on Godard: “This desire to include quotes by other authors came from Godard. The text is very important for a film, that I learned from him. It gives a certain richness to cinema because the visual is not all there is. Thanks to Godard, the spectator can concoct his own interpretation. [...] The image associated to the text corresponds to a unifying act that aims at renewing cinema, that lets it take on new dimensions.”

訳:「やたら他の作家さんの引用をしたがるのは、ゴダールの手法です。お手本となるものは映画にはたいへん大事で、ぼくは彼からそのことを学びました。映像がそこに介在していないからこそ、映画にある豊かさが生まれます。ゴダールのおかげで、観客は自分自身の解釈を模索できるんです。……映画を活性化させたくて、新しい表現を切り開こうとする試みを統一的にやろうとすると、お手本によってイメージを作りあげることは、ちょうど具合がいいんですね」

> Mamoru Oshii on animation: "I think that Hollywood is relying more and more on 3D imaging like that of Shrek. The strength behind Japanese animation is based in the designers' pencil. Even if he mixes 2D, 3D, and computer graphics, the foundation is still 2D. Only doing 3D does not interest me."

訳:「ハリウッドは『シュレック』のようにますます3D映像に依存していくと思います。日本のアニメーションを支えている強さというのは、アニメーターたちのエンピツに基盤があるんです。たとえ2Dや3D、コンピューターグラフィックスが混在していても、そのおおもとはまだ2Dなんです。3D映像を作ることだけはぼくには興味がありません」

 『シュレック2』なんぞと比較されてたまるか、ってな感じにも聞こえちゃうなあ(^_^;)。
 日本で喋ってたことと内容的に重なってる部分も多いので、今更な部分もあるけれども、どこへ行っても押井守が押井守であることは嬉しいことだ。

2003年05月21日(水) すっ飛ばし日記/モンティ・パイソンな女
2002年05月21日(火) ハコの中の失楽/『KATSU!』3巻(あだち充)/『アリソン』(時雨沢恵一)ほか
2001年05月21日(月) アニメな『ヒカ碁』/『臨機応答・変問自在』(森博嗣)ほか


2004年05月20日(木) 職場に14時間もいたくないわい(ーー;)。

 しげは今日と明日、知り合いのお芝居のお手伝い。わけあって、宣伝ができないことはこないだも書いたが(だから劇団のホームページのほうでも、芝居のタイトルとか詳しいことは絶対書いちゃダメだよ、みんな)、バイトも合間にあるわけで、寝る間も殆どない状態である。だもんで、とても職場への送り迎えを頼める状態ではない。
 仕方なく今朝はバスで職場へ。始発に乗っても8時にしか到着しないのだが、今日は出勤は遅出で構わないので(普段は7時半出勤である)、ゆっくりと職場へ。

 今日もまたいろいろ事件はあったのだが、何しろ残業が9時すぎまで、帰宅は10時近くになっちまったので、詳しく書いてたら、時間がかかって寝る時間がなくなってしまう(^_^;)。簡単にヒトコトでまとめちゃうと、「今日のトンガリさんは、誰がどんなに声をかけても、一切口を開かず、返事をしませんでした」。
 ……いいよなあ、こんなんでも給料もらえるんだから。

 帰りはバスが殆どなかったので、同僚に車で家の近所にまで送ってもらう。帰宅して10時過ぎ、しげから電話がある。「すぐ帰るから、一緒に買い物にいこうよ」ということだったのでずっと待っていたのだが、午前1時を回っても全然帰ってこない。痺れを切らせて連絡を入れたら、バイト先に寄って、そこで仕事を手伝っていたと言う。……予定が変わったんなら、なんで連絡を入れないか。事故にでも会ったかと私が心配するような事態をコイツは全く想定していないのだ。
 腹を立てて、DVD『飢餓海峡』(内田吐夢監督版)見ながら寝る。


 ここのところまた好きな人たちが立て続けに亡くなっているけれども、先月の鷺沢萠さんのときほどのショックではないのは、高見沢潤子さんにしろ三橋達也さんにしろ金田一春彦さんにしろ、充分御高齢で、大往生だよなあ、と諦めがつくからでもある。もちろんもっともっと、百歳過ぎるまで長生きして活躍してほしかったという欲はあるのだけれども(きんさんぎんさんかい)。
 俳優のトニー・ランドール氏が、17日、長期入院していたニューヨーク市内の大学病院で死去。享年84。昨年、心臓のバイパス手術を受けた後に肺炎を患って入院治療を続けていたが、3日前に容体が急変し、就寝中に死去したと言う。
 ニール・サイモン原作のテレビ、『おかしなカップル』は比較的新しいドラマなので(と言っても1970〜75年だが)、覚えている人も多いだろう。お互い女房に愛想をつかされた男どうしが同居して巻き起こすドタバタ騒動。もとになった映画『おかしな二人』ではジャック・レモン(フェリックス)とウォルター・マッソー(オスカー)が演じたこのコンビを、テレビシリーズ版では、トニー・ランドールとジャック・クラッグマン(『十二人の怒れる男』!)が演じていた。
 トニー・ランドールの声を吹替えていたのは、小松政夫さん(後に近石真介さんに代わる)。小松さんはこの番組が再放送されたとき、解説にゲスト出演して、「(フェリックスは)おかまじゃないんだけれどもおかまっぽいところがおもしろかったんだよねえ」と仰っていた。でも時代が時代だけにまだハッキリとは出せなかったけれども、ニール・サイモンがゲイのカップルを念頭において脚本を書いていたのはまず間違いない。それぞれに別居している女房がいる、というのは、もちろんカモフラージュだ。
 フェリックスは、口から先に生まれたようなお喋りで、つまらない世間話が大好き、やたら細かいところに気がつく神経質なところはあるけれども、根は優しい世話女房タイプ。短気でガンコなオスカーが癇癪を起こすたびにヒステリーで応酬するが、なんだかんだあって結局は仲直り、というのが基本コンセプトだった。男と女ならばごく普通のホームコメディになるところを男二人でやったところがミソだったわけである。映画版も名作だったが、個人的にはランドール&クラッグマンのコンビのほうが好みだった。映画は一発勝負だから背景設定の説明に手間取るところがあるが、シリーズの強みは二回目以降の説明が一切必要なく、すぐにドラマに入っていける点にある。そのおかげで、二人の丁々発止は、実にテンポよく展開されていた。それにこういう「女房」役には、ランドールのような細身の方が似合うのである。
 トニー・ランドールはメイキャップの名人でもあって、それがいかんなく発揮されたのが『ラオ博士の七つの顔』だったが、もう一つ、日本未公開でまだ見たことがないランドールの主演作が、アガサ・クリスティーの『ABC殺人事件』である。なんと細身のランドールが口ひげを生やし、名探偵エルキュール・ポアロを演じているのである。原作のイメージとはほど遠く、もしかしたらミス・キャストなのかもしれないが、実際に見られるものなら見てみたいものなのである。どこかで輸入してもらえないものかなあ。

2003年05月20日(火) すっ飛ばし日記/親を崇める子供たち
2002年05月20日(月) もっとギャグを!/『蛇神さまといっしょ』2巻(桑田乃梨子)ほか
2001年05月20日(日) 念の入った話/DVD『NHK少年ドラマシリーズ なぞの転校生�機戮曚�


2004年05月19日(水) 鬱陶しい雨の日の、鬱陶しい話。

 今日も終日雨。散歩というか、運動療法ができないので困る。いや、ホント、運動しないとテキメンに体重が増えちゃうのよ。

 昨日、私にヘコまされてシュンとしていたトンガリさんだが、あれくらいでメゲるような御仁では元よりない。その程度ですむなら、私ももっと気がラクになってるんである(-_-;)。
 上司がどうしてもトンガリさんに直接確認しなければならない要件が、2、3件あったので、まあ、呼ばれるだろうとは思っていたけれども、「付き添い」で(^_^;)、一緒に会いに行く。
 予想はしていたが、上司に対してはトンガリさん、毛の先ほどの遠慮もせず、ケンもホロロである。愛想がないどころの話ではない。最初から「何しに来やがったコイツは」という目つきで上司を見るだけならともかく、上司が口を開いて二言三言、言ったかと思うと、「そんなことは私のする仕事じゃありません」と、何のかんのとヘリクツをこねて仕事を回避しようとするのだ。
 まあ、そうなるだろうということはこちらも予測していたから、簡単には逃げられないように、理論武装はしてきている。けれど、ただ単に理屈でヘコましても、昨日のようにヒステリーを起こされるだけである。「これはつまりこういうことなんですよねえ?」とあくまでトンガリさんに質問を繰り返し、トンガリさん自身が自分で自分のクビを締めて行くように誘導して行く。結局トンガリさん、自縄自縛に陥って、渋々、「会議を通していたただけるのなら」と言って納得する。でもその会議にアンタが出ようとせんのだろうが、と喉の先まで怒声が出かかったが、そこでまたこじれると話が進展しないので、ニコニコ作り笑いで「よろしくお願いします」と頭を下げて辞去する。
 あとで何人かの同僚から「ご苦労様です」と労われたが、こういうやりがいのない苦労は、ホントはご免被りたいのだ。

 ここんとこ、特にトンガリさんの切れっぷりが激しいので、ついに支社長に内情を直訴する。というよりは、支社長だって状況は知ってるはずなのに、どうしてこうも仕事サボリまくりのトンガリさんを放置しておくのか、不思議で仕方がなかったので、ちょいとカマをかけてみたのだ。
 支社長、「いや、その件はいろんな人から聞いてるんだけどね」と、やっぱり実情は知ってることをポロリと漏らす。けれど、「それについては本人とよく相談しておくから」と、どうも歯切れの悪い返事。なんだかねえ、邪推したくはないんだけど、支社長、トンガリさんにウラで弱み握られてるんじゃないかという気がしてならない。


 昨年上演された“ミュージカル”『そして誰もいなくなった』が、再演の運びとか。しかも今度は福岡公演もある! まだ来年2月の話なので、全く鬼が笑っちゃうのだが、ことによると東京まで行かなきゃならないかと覚悟しかけていたので、こちらで見られるというのは嬉しい。来年まではなんとしても生きていなきゃなあ。
 キャストは殆ど前回公演と変わらないが、うえだ“服部半平”峻さんが新キャストでミスター・ロジャース役で出演されるようだ。これも楽しみである。
 公式サイトは以下の通り。

 http://www.soshite.jp/


 国語学者の金田一春彦先生が、本日、クモ膜下出血のため死去。享年91。
 ブンガクブ出身で、多分一般の人たちに比べればそのご著書に触れる機会も多かったと思われる身にしてみれば、金田一先生はどうしても「先生」という敬称をつけて呼ぶことしかできない。
 保守的なのが普通の言語学者の中にあって、「言葉は時代とともに変遷する」ことをより肯定的に捉え、「ら抜き言葉」も「可能の助動詞」として許容していた。実は夏目漱石にも「ら抜き言葉」があることを指摘されていたのも金田一先生の著書で知った。私は必ずしもその主張に諸手を挙げて賛同を示したいとは思わなかったが(「ら抜き言葉」は便利ではあっても必要なわけではないと思うからである)、金田一先生の柔軟な思考には尊敬の念を抱いていた。
 金田一先生に関して、私が好きなエピソードが二つある。
 一つは「石川啄木」に関するエピソードで、ご承知の通り春彦先生の御父君、金田一京助氏は啄木の親友だった。しかし放埓な啄木は遊蕩に金を使い果たしては京助氏のところに借金を申しこみにやって来る。これを京助氏は同郷のよしみで絶対に拒まない。けれどあまりに遠慮のない啄木の借金ぶりに、幼少のころの春彦先生は、てっきり自分の父親の方が「取り立てられている」と勘違いしていたそうだ。こんな御父君の優しい人柄が、そのまま春彦先生の人柄にも伝わっているように思う。
 もう一つ、春彦先生の優しさを表すエピソードが、あの「金田一耕助」の生みの親である横溝正史にまつわる話である。やはり御父君からその探偵の名前を勝手に拝借していたことをずっと気に病んでいた正史氏は、京助氏の生前、機会はあったにもかかわらず、一度も京助氏と会おうとしなかった。そのことを聞いた春彦先生は、人伝に正史氏に「いえ、あなたのご著書のおかげで、私の名前がちゃんと“キンダイチ”と呼んでいただけるようになりましたから」と感謝したというのである。
 実はこのエピソードは御父君の京助氏のものだ、という説もあるのだが(何しろ、正史自身がエッセイで「京助」説と「春彦」説の両方を披露しているのである)、どちらでもかまわないように思う。金田一耕助の飄々とした人物造形には、親子揃って、金田一先生の人柄もいささかは影響しているように思うから。
 数年前、機会があって、金田一先生にもお会いできるはずだったが、既に体調を崩されて叶わなかった。返す返すも残念でならない。

2003年05月19日(月) すっ飛ばし日記/あるものが見えない女
2002年05月19日(日) 今日は一日寝て本・ビデオ……っていつもや/『Sink』1巻(いがらしみきお)ほか
2001年05月19日(土) 地上の星々/『狼には気をつけて』2巻(遠藤淑子)


2004年05月18日(火) トンガリさん、更にトンガる! ……とほほ(T.T)。

 しげ、夕べは(というより今朝は)、帰宅がえらく遅かったらしい。
 朝、いつものように車で職場まで送ってもらおうと思っていたのだが、「薬が効いててヤバイ」と言うので、タクシーで行くことにする。
 ところが、拾ったタクシーの運ちゃんが、エライけばいおばちゃんであった。髪はトグロウンコのように盛り上がって簪が2、3本、グサグサ刺さっている。耳からはキンキラキンのリングが二重になってぶら下がって、車がカーブするたびにチャリンチャリン音を立てている。それはともかく、たまらなかったのは、車の中に充満していた安香水のツンと来る匂いだった。今時のタクシーの運ちゃんは、客のことを気遣って、男だって煙草を吸わなくなっているというのに、密閉空間でこんなにキッツイ香水をつけるとはいったいどういう了見なのか。会社はこんなの何の問題もないと考えているのか。それともこのおばちゃん、異様にワキガが臭いので、それをゴマカすために香水つけてるのか。
 でも、運転そのものは普通だった。


 昨日、トンガリさんをかなりトンガラせちゃったので、今日はどうなることかと思っていたが、いろいろと「暗躍」されていたようである。
 同僚の一人が私を急に呼びとめて、「トンガリさんのことですけれども」(←もちろん、実際にこんな呼び方はしていないのだが、便宜上、「トンガリさん」のままで通す)と声をかけてきた。
 「トンガリさんがどうしましたか?」
 「先ほど、私に声をかけてきまして、××の件について、『自分が正しい』ことを証明してくれ、と仰るんですよ」
 「それで、どう御返事されたんですか?」
 「証明するも何も、××の件については、私は全く知らないことですから」
 そうなのである。昨日もトンガリさんは、この同僚のことを挙げて、「自分が正しい」ことを主張していたのだが、この方は××の件には一切関わっていないので、何を証明することもできないことは最初からわかっていたのだ。
 しかも昨日、トンガリさんはこの同僚の名前が思いだせなくて、「ほら、○○部のあの人」なんて言い方をしていたのである。同僚の名前も思い出せなくなっているくらい脳がイカレてきているのに、どうして自分が絶対正しいと断言できるのだろう。いや、イカレてるから思いこめるのか。
 ともかく、何の関係のない人まで巻き添えにするようでは、さすがにこのまま放置しておくというわけにはいかない。本人が「間違っている」ことを何としても認識してもらわなければならない。意を決して、資料をかき集めて、トンガリさんに談判に行く。まあそれから書き記したくもない丁々発止のやりとりがありはしたのだが、そこんとこはもう書くのもツライから省く。
 私の説得に不満そうな表情のトンガリさんではあったが、今日、散々「味方」を探してあちこち走り回って、誰も自分の相手をしてくれないことを実感したのだろう。「私が正しいはずなのに」と愚痴を呟きながらも、最後には資料の訂正を渋々認めた。
 けれど、これでトンガリさんが懲りたとは思えない。これまでにも自分のミスを他人のせいだと濡れ衣を着せてきたことは多々あるのだ。どうせ今回の件もじきに自分の中で脳内変換して、都合よく事実を捻じ曲げて記憶するのに決まっている。似たような諍いはこれまでもあったし、多分これからも続くのであろう。
 ……家族がいないらしいからなあ。病院に連れてってくれる人も身近にいないわけだ。できれば自分から自分の異常に気がついて、病院に行ってくれると助かるんだけれども。


 帰りはしげが迎えに来てくれる。まあ、朝送れなかったお詫びみたいなもんだけれども。
 しげは職場のメニューを元になにやらパソコンで作らなければならないものがあるといことで、仕事を持ち返っている。その間、私はパソコンが使えないので、DVD‐Rの整理など。晩飯はもう書いても仕方がないが、やっぱりうどんである。一応ちょっとだけ違うことを書けば、上に乗せたのは、コロッケではなくてメンチカツだった。たいした差はないか。
 テレビで漫然と『ぴったんこカンカン』を見ていたが、ゲストは泉ピン子。この人も妙に持ち上げられるようになる前は好きだったんだがなあ。橋田ドラマに出るようになってから、転落していったと思う。
 若いころの方がやっぱりずっと芝居も上手かったし、美人だったよなあ、と思うのである。「美人」ってのは人柄なんだからね。


 カンヌ国際映画祭で初上映されたマイケル・ムーア監督の新作映画『華氏911』に、あの三馬鹿のイラク人質事件の映像が使われていたとか。例の、脅迫に使われたナイフを突きつけられ脅されているテープである。
 ところが、どういう文脈で使われていたのか、その肝心なことをニュースは説明してくれていない。だからこの事実を知らされても「ふーん」としか言いようがない。「何のためのニュースなのか」よく分からないのである。
 単純に「三馬鹿の映像が使われたことが珍しい」というだけの意味なのか、そうでなければもうちょっと具体的に説明があつて然るべきである。この、「ともかく三馬鹿」な報道の仕方はいい加減でやめないかな。批判するなら批判するで、報道する方にもちゃんとした「文脈」が必要だと思うんだけれどもねえ。


 気がつくのが遅れたのだが、評論家小林秀雄の妹さんで、『のらくろ』のマンガ家田河水泡の奥さん、高見沢潤子さんが、12日、老衰のため、横浜の老人ホームで亡くなられていた。享年99。小林秀雄も田河水泡も、わりと長生きな方だったが、99歳で老衰というのは充分人生をまっとうなされたのだろう。お兄さんやご主人について書かれた随筆くらいしか読んだことはないが、このお三方の悠揚たる人柄が伝わってくる、優しい味わいのものであった。戦時中、『のらくろ』が時勢に合わぬとの理由で(戦争マンガなのに)連載が打ち切られた時の田河さんの落胆ぶりを書く時も、同情を誘うような筆致ではなく淡々と書いていらっしゃった。こういう文が書ける人が随分少なくなったものだと思う。

2003年05月18日(日) すっ飛ばし日記/やっぱリ肉食う女
2002年05月18日(土) 世界の中心で馬鹿と叫んだ女/『彼氏彼女の事情』13巻(津田雅美)ほか
2001年05月18日(金) 増えるワカメのごとく……/『鬼切丸』20巻(楠桂)



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藤原敬之(ふじわら・けいし)