無責任賛歌
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| 2003年07月19日(土) |
水害という名の人災/DVD『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX/笑い男編』 |
なんかまた、トンデモ物件っぽいものがお台場に(^o^)。 『ONE PIECE ワンピース』に登場する海賊船「ゴーイングメリー号」が実物のクルージング船として「フジテレビ開局45周年記念イベント・お台場冒険王」の一環としてお披露目。 お台場ってのもグータロウ君ご一家に案内してもらって、こりゃまた一風変わったヘンなものが生まれたものだなあ、と感嘆したことだった。私が感じた違和感ってのは、これはいったい「街」なんだろうか、ということである。 昭和30年代生まれにはギリギリ戦前の名残的感覚が残っていて、「街」ってのはやっぱり一つの生活感のある共同体として認識されているのである。だから我々は、『オトナ帝国』の夕日町に涙するし、宮崎駿のエコ趣味にもキレイゴトを感じつつ共感を抱く部分がやっぱりあるのである。「街」は日常の具現であり、生活と地続きの場、「ハレ」と「ケ」で言えば当然「ケ」としてそこにあるものだった。 今時の若い人にはちょっとわかんない感覚だろうけどね、休日に家族でデパートに行くなんて些細なことでも、我々にとってはすごいイベントだったのですよ。昔はデパートの屋上にたいていミニ遊園地があった。観覧車が回り、小さなジェットコースターも狭苦しい面積の中、レールを畳みこむように備えつけられていた。どんなに小さくともそれはやっぱり毎日の生活では味わえない「ハレ」の場だったのである。映画を見に行くのだって、子供のころは春休み、夏休み、冬休みだけのイベントだった。 割合で行けば、「ケ」の部分が10で「ハレ」の部分が1、今から30年くらいまでは、日本中の家庭の生活感覚はみんなそんなものだったろう。 今や我々の生活の中にはこの「ハレ」の部分が随分食いこんできている。今日は街に出て買いものだ! とウキウキすることもない(多少はウキウキするんだろうが、かつての比ではない)。逆に、日常生活に「ハレ」の部分が含まれていないと、かえって落ちつかないような、「毎日が日曜日」的感覚を欲しつづけているような、底無しの欲求すら感じられる。普段の生活が退屈だと神経に異常を来たし、堪えられなくなってしまうのだ。言ってみれば「ハレ中毒」、あるいは「ハレ依存症」である。 お台場のレトロ商店街を案内してもらいながら、そこで売っている昔懐かしい物に目を引きつけられながらも、これはやはり『オトナ帝国』に出てくる「夕日町」ではないなあ、と思ったのは、そこにはやっぱり「生活感」がなかったからである。店はあっても、そこに暮らしている人々がいない。遊んでいる子供たちがいない。路地裏もなければ、ゴミ箱のフタの上で寝ている猫もいない。ああそう、やっぱり「匂い」がないのだ。けれど今の若い人たちは、自分が日々を送る部屋の中からも「匂い」を極力排除していってはいないか。 「ゴーイングメリー号」というのもまあ、ヘンテコな船である。あんなのがたとえばそのへんの博多湾あたりに浮いてたら失笑ものなんだが、お台場のような「年中ハレの場」にあるならば、いかにも似合っていよう。似合っているだけに、私には何だかすごく「遠い」ものに感じるんだが、さて、毎日が「ハレ」でなきゃ気がすまない子供たちにはすごく魅力的なんだろう。 こういうところに集まってる女の子たちに、「ねえねえ、『ワンピース』のレアものフィギュアがウチにあるんだけど、見に来ない?」とか言って誘ったらホイホイ付いて来ちゃうんだろうか。 例の監禁されてた女の子たちも、毎日を日曜日にしたがってた感覚の子たちじゃないかって気がしてならないんだけれど。
9時に起床。 しげと殆ど同時に目覚めたのだが、外を見たしげが突然「大変なことになっとるよ!」と私を促す。 マンションのベランダから下を覗くと、なるほど、大変なことになっている。 川は流れるマンションの下〜♪ なんて五木ひろしの替歌なんて歌ってる場合ではないのだ。 下の駐車場の車が、とれもみんな泥水の中に半分ほど漬かっている。うわあ、また御笠川が決壊したな。確かに夕べの雷雨は凄かったが、まさかこんなになってるとは、予想もしなかった。今年の梅雨、やっぱ半端じゃないわ。4年前の「悪夢はふたたび」と言うべきか。 なんて特撮番組のタイトルをモジってる場合ではないのだ。 ウチがこの分じゃ、4年前に死人も出た一番被害のでかかった姉の店がどうなってるか分らない。 果たして電話線が繋がってるかどうかの不安もあったが、ともかく店に電話を入れてみる。電話口に出たのは姉ではなく父。 「そっちはどう? 大丈夫ね?」 「大丈夫じゃない!」 いや、いきなり怒られても。やっぱり4年前同様、床上浸水。泥水が一気に流れこんできたそうだ。 ともかく片付けの手伝いに行くことを伝えたが、水が引かないことには車が出せない。テレビではバスも地下鉄運休とのこと。あとはタクシーでも拾っていくしかないが、もう一度外の様子を見ると、どうやら水自体は引いているような様子である。少し待てば車にも乗っていけそうだ(と言うか、その前に車が動くかどうかを確認しないといけない)。
駐車場に降りて、車のドアを開けた途端に泥水がザバー。シートまで見事にぐっちょり濡れている。これはすぐに掛けつけられないと、しげに頼んで少し遅れる旨、店に電話をさせる。慌ててたので携帯を持たずに出て来てしまっていたのだ。 ともかく水を出さねばと、雑巾で拭きとって行くが、どこかに水溜まりができているのか、拭いても拭いても水が流れてくる。下に置いておいた傘もゴミ箱もファブリーズもみんな水浸しである。 一番悲しかったのは、しげに貸してた長山靖生の『偽史冒険世界──カルト本の百年』をしげがシートの下に落としたまま、コロッと忘れていたことだ。ともかくしげは本を大事にすることをしないが(結婚する前、私がプレゼントした本を質屋に売っぱらってたこともある)、それを見つけてもやっぱり「ごめん」の一言もないのである。 幸いなことにエンジンは何とか動いた。でもブレーキをかけたりすると、どこかから「ぐもっ」なんて音がする。いきなり爆発したりしないだろうな(-_-;)。 車を近くのガソリンスタンドで洗車してもらって、姉の店に急ぐ。 しげ、スタンドで待っている間、しきりに劇団のみんなと連絡を取り合っている。よしひと嬢はJRが動かなくてこちらに向かえずに困っているらしい。ラクーンさんも会社が水浸しとかで来られない旨。他のメンバーも軒並み遅刻とのこと。 「どうせみんな遅れてるんだから、お前も遅れたっていいだろう。店の片付け手伝えよ」 返事がない。聞こえない振りをしているか、どう返事しようか考えているうちに何を質問されたか忘れてしまったのだろう。 「練習終わったら店に来るのか?」と聞いたら、「よしひと姉様を迎えに行かないと」と言う。 どういう理屈だか分らない。今は普段の状態ではないのだ。身内が被害にあってるってのに、どうして芝居の練習(真剣にやってるならともかく、所詮は遊び感覚なんだから腹が立つのである)を優先できるのか。 店の前まで来ると、しげ、いかにも素っ気無い声で「ここで落とせばいいやろ」と言う。どうやら本気で片付けを手伝う気はないようなので、もう無視して降りる。
11時を回っていたので、もう水は引いているが、店の壁に水が来た跡が残っている。床からほぼ30センチ。前回が50センチほどだったから、前よりはマシというところだが、それこそ五十歩百歩である。 水が引いたと言っても、床に近い戸棚の中は依然泥だらけ、店の奥の部屋はまだ泥水が1センチほど残っている。こりゃそう簡単に掃除できるものではないというのが一目でわかる。 着くなり、父から「しげさんは?」と聞かれた。「そのうち来ると思うけど」と誤魔化したが来ねえだろうな、多分(実際来なかった)。 4年前の洪水では、店の椅子が水に漬かって電機系統がダメになり、全て買い換えということになってしまった。そのときは店に姉しかいなかったから仕方がないのだが、今回は父が孤軍奮闘。洪水の危険があると見るや、朝一番に店に駆け付けて、あのバカ重い椅子を一人で持ち上げてブロックの上に乗せて、流れこんでくる水から守ったのである。70歳近いってのに、腰は大丈夫だったのか(^_^;)。 でも結局は、ブロックの高さ以上に水が入りこんできて、椅子が一台、スイッチを押さないのに勝手に高くなったり低くなったりするようになってしまった。椅子を守りきれなかった父の悔しがることったらないけれど、何を言っても仕方がないことではある。文句をつけるなら、こうなることが分っていて洪水対策を遅々として進めていなかった福岡市の行政の責任なのは火を見るよりも明らかなのだけれど、じゃあこれで心を入れ替えて護岸工事を進めるかというと、それはちょっと望み薄なのである。 氾濫した御笠川って、河口付近が結構蛇行してるんだよね。これが流れを堰き止めてる原因にもなっている。で、昭和の遺物の埋立地が更に水の流れを抑えちゃってるんで、その手前のあたり、ちょうど博多駅近辺の土地が低くなってるあたりが一番の被害を受けることになるのだ。 要するに川の流れを真っ直ぐにして、埋立地をとっぱらっちまえば川の氾濫防げるんだけれど、それをしない市の言い分は、「河口を広げるための下流の土地買収がうまくいかない」。 当たり前だ。下流には寺やら老舗の商家や学校やら、先祖代々そこにいるって人も結構いるのである。中流の護岸工事で水はけをかえって悪くしといて、そのツケを下流の人たちに何とかさせようってコスイ魂胆の市政に誰が応じるものか。
姉の話によれば伯父もさっきまで来ていたそうだが、もう帰ったとのこと。水が引いて、あとは道具の掃除などだけになったので、人出は要らんと見たのだろう。でも、店の外はヘドロが道路一面に広がっている。これをなんとかしないことには人が通れない。というより、そんなの無視して通ってる車がヘドロを撥ね散らしてくれるのだ。 側溝が詰まっているので、まずはデッキブラシでゴシゴシこすって水が通るようにする。ホースで水を撒いて、ヘドロを溶かす(そのままでは重くて動かない)。ブラシでヘドロを側溝まで押しやって、穴に押しこむ。これの繰り返し。 店の前だけを流しても仕方がないので、隣やまたその隣の店の前まで掃除しなけりゃならない。結局、店の内外含めてなんとか片付いたのは午後の3時過ぎ。 その間、引っ切り無しに店には電話がかかってくる。ほとんど全部「店は開いとるとな?」というお客さんからの問い合わせなのだが、だんだん姉の機嫌が悪くなってくる。「店、開けられるわけなかろうもん!」。店の心配じゃなくて、自分が散髪できるかの心配だから、姉がイライラするのも分るが、今時の客なんてのはそんなものである。博多の人間も「客だから威張っていいんだ」と思いこんでる糞野郎ばかりになっちゃったんだなあ。
帰り際、片付けのお礼というほどでもないが、水に漬かって売りに出せなくなったシャンプーとリンス、入浴剤をもらう。なんで床屋で入浴剤まであるのかヘンだったが、シャンプー・リンスとセットになってるらしい。 フタはしっかり締まってたので、中に異常はないが、まあ今更お客さんに出せはしないから仕方がないね。
3時を回った頃、「博多座」までタクシーで直行。 もともと今日は朝から博多座に並んで、森光子の『放浪記』の公演チケットを買う予定だったのだが、この水害のせいで、すっかり遅れてしまった。ギリギリ整理券の配布に間に合うが、番号が776番(800番で今日の分は打ち切りである)。実際に券が買えるのは2時間後ということなので、その間に食事や買い物を済ますことにする。 食事は中洲の「一蘭」で、久しぶりのラーメン。辛いだけでとんと美味くない店だが、七月限定で縮れ麺を出していたので食べてみる。辛さは注文できるので抑えめに。縮れ麺はスープが絡むので、辛口だとちとキツイのだ。細麺だと糸食ってるような気にしかなれないものが、これは美味い。限定品にせず定番にしてくれればいいのだが。 それでもこの店の、両隣の仕切りと暖簾で職人さんの顔が見えないのは落ちつかない。しげは相手と顔を合わさないでいられるこの店などの方が安心できるようだが、私は逆である。別にヒトとヒトの触れ合いがどうのってんじゃなくてさ、姿が見えないと、ドンブリに指突っ込まれたりされててもわかんないじゃないの。まあそんなことはしてないだろうけど。 チケットが買えたのはもう七時を回ったころ。いい席は取れなかったが、これも水害のせいだ。でもって対策取ってなかった福岡市のせいだ。えいくそ、税金返せ。
夜、練習が終わったしげ、よしひと嬢を連れて帰って来るが、濡れてしまった車のシートやらなんやらを風呂場にぶち込んでいて、しかも水害のせいか風呂場の電気がつかない。 なんとか車のエンジンは動くようなので、近所のスーパー銭湯、「月の湯」まで3人で行く。 家族向けに縁日が出ていて、金魚掬いなんかやってるけど、銭湯の建物の中でそんなの出されても場所が狭くなるだけである。いつもならこんなシチュエーションならば、よしひと嬢の湯上り姿を鑑賞してハナの下を伸ばしているところだが(おい)、とても今日はそんな余裕はない。食事はしないというしげとよしひと嬢と別れて、一人先に食堂で海鮮定食を食べる。まあスーパー銭湯の食堂だから、味はもうそこそこ以下である。 風呂自体はサウナに入るだけで疲れそうなので、ジャグジーでカラダを解きほぐしたらさっさと上がる。食事に時間がかかったのか、二人はもう風呂から上がってソフトクリームを食べていた。見てみると黒ゴマソフトとかいうヘンなものである。スーパー銭湯もいろいろキッチュなものがいっぱいだ。
帰宅して、DVD『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の「笑い男編」最初の3話『視覚素子は笑う/マネキドリは謡う/模倣者は踊る』をよしひと嬢に見せる。 このDVDシリーズの感想も書き忘れてたけど、キャラクターデザインにやや不服はあるものの(原作通りでいいじゃんかよ。プロダクションIGに作画できないわきゃないんだが)、近年のテレビシリーズの中で出色の出来であることに間違いはない。
6年前に起こった企業テロ「笑い男」事件。特A級のハッカーによって脅迫された企業は数知れないが、警察は未だに事件の片鱗すら掴むことができないでいた。 そんな時に起きた特捜班の山口の死。彼はかつての同期・トグサに死の直前、連絡を取っていた。山口の死の真相を追って調査を開始したトグサは、彼ら特捜班全員に視覚素子「インターセプター」(人間の目自体をカメラ化させてるものらしい)が仕掛けられていたことをつきとめる。警察内部の不正使用。それを告発しようとした直前に彼は消されたのだ。 公安が動いていると知った警察は、トカゲの尻尾切りのように、特捜部部長の更迭が発表する。ところがその記者会見席上で、突然義脳をハッキングされた刑事本部長が、自らを「笑い男」と称して、警視総監暗殺を予告し始めた……。
原作の『攻殻』はともかくウンチクだらけの書きこみを読むだけで疲れてしまう。だもんで2巻は買っただけでまだ読み通せてないんだけど、草薙素子は1巻でネットに沈んじゃったから、このアニメ版は「それ以前」という設定なんだろう。となれば完全なアニメオリジナルなのか。それにしては随分と「濃い」ドラマが展開されている。特に名は明かされてはいないが、押井守も一枚噛んでるんじゃないか。「笑い男」の設定なんて、いかにも押井守好みだし、特にコンピューターウィルスに犯されたわけでもないのに笑い男の模倣者たちが続出するクライマックスは、何か科学そのものを嘲笑するような底意地の悪さが感じられて、これも押井守っぽい。 何より、押井守ファンサイトの『野良犬の塒』で、毎回『攻殻機動隊SAC』の情報が「押井守はこの作品に関与してないはずなのに」提供されているのである。何しろあの人は「丸輪零」さんだからなあ(^o^)。ウラで何やってるか知れたものではないのである。 まだこの三部作では「笑い男」の正体は明かされないのだが、今DVDで買ってる分には「30分間、ネットで『笑い男』の正体を討論し合うだけ」という恐ろしいエピソードも含まれていて、このシリーズがアニメの極北を目指しているのではないか(^o^)という気さえ起こさせるのである。「リクツこねてるだけでアニメとしてどうか」というご意見もあろうが、「アニメはこんなもんだ」という決めつけは初めからアニメの可能性を狭めているだけだ。 こんな「挑戦的」なアニメを見てワクワクしなきゃ、人生損だよ(^o^)。未見の方はぜひ御覧になっていただきたいのである。
2002年07月19日(金) 踊る大脂肪/映画『MIB�供戞拭悒錺ぅ蛭如”�雲児たち』3・4・5巻(みなもと太郎)ほか 2001年07月19日(木) 天ブラサンライズ/『吼えろペン』1巻(島本和彦)/DVD『サウスパーク無修正映画版』ほか
| 2003年07月18日(金) |
「よろしかったでしょうか」の謎/映画『ソラリス』/『ウエスト・ウイング』(エドワード・ゴーリー) |
いやはや、どうせなんかまたセンセーショナルな事件が起きたらアッと言う間に過去のものになっちゃうだろうと思ってた12歳誘拐殺人事件、ホントにそうなっちゃったね。 昨17日、13日から行方不明になっていた小学校6年生の女の子4人組が無事保護された。 「近所の体育館に行く」「スーパーに行ってくる」、親を騙して出かけてった女の子たちの行く先は、実は渋谷の某マンション。「部屋の掃除」のバイトをするつもりが、待ち構えていた男は女の子たちにいきなり手錠を掛けてこう呟いた。 「ここに来た意味が分かっているな」 まあ、それから何がどうなったかはよくわからないのだが(^o^)、昨日の昼、女の子の一人が逃げ出して、階下の花屋に飛び込んで助けを求めたことから事件は発覚。警察官が到着して、件の部屋に踏み込むと、残された3人は手錠姿のまま泣きじゃくっており、別室では、4人を連れ込んだ男・デートクラブ兼ブルセラショップ「プチエンジェル」の経営者・吉里弘太郎(29)が自殺していた。
報道では捜査の輪が狭まったので覚悟の自殺をしたんじゃないかということだったが、逆じゃないかね。これまでにも何度もナニで捕まってるし、ウラで暴力団とのトラブルもあったんじゃないかということだから、自殺する前に最後のイイ思いをしたい、と考えたんじゃないか。三日間、きっと心行くまで楽しんだんだろう。 皮肉めいた書き方をしてるからおわかりだろうが、私は今回の事件に関して、被害者の女の子たちに一片の同情もしてはいない。つか、腹立ってるよ。またぞろ「親の躾が悪い」論を口にしてる「識者」がいるけどよ、「親に嘘ついて出た」ってことは、正直に「渋谷でバイトする」と言ったら止められるとわかってたってことだろ? 「知らない人についてくな」とか、親は躾、ちゃんとしてるんだよ。 犯人が悪いのは当然だけど、親をだまくらかしてさ、こんな見え透いた罠に引っかかる馬鹿女はナニされても文句言えねーよ。自業自得じゃん? 小学六年生相手にそこまで言うのは手厳し過ぎるんじゃないかと非難されそうだけど、こないだの12歳の事件では、「12歳だからって容赦するな」って意見が圧倒的に多くはなかったかねえ。12歳だってオトナ扱いすべきだってんなら、今回の事件でもオトナと同等の分別や判断力をあの女の子たちに求めるべきだろう。イマドキの12歳なんて、カラダは充分オトナだ。心だけがオトナでなくていいなんて言い訳が通用するか。 周囲の口さがない連中はきっと、あの子たちの経験したアレソレについてヒソヒソとウワサするだろうけどさ、そういうものを撥ね返すだけの根性を、これから先、あの子たちは身に付けらけるのかね? 回りのオトナがカワイソカワイソと女の子たちを「囲いこみ」でもしようものなら、かえって誰かに依存することでしか自分を守れないオトナになる危険だってあると思うが。 コドモはいつもいつも守ってやりさえすればいいとは限らんのである。イッパツやられないと自分たちがどれだけ馬鹿だったか分らんこともあるし、オトナとして遇してやることも必要だと思うよ。 これも念のために言っとくけど、犯人擁護する気で女の子たちの悪口言ってるんじゃないんだから、そこんとこワザと曲解しないよーに。
『言語』8月号に、「世相語」としてついに「よろしかったでしょうか」が登場。ついにこの言葉も関東に進出したと見える。 ファーストフードやファミリーレストランのマニュアルにそう言うように書いてある、とのことだが、さてホントなんだろうか。しげもバイト先のマニュアルにそんな言葉遣いは書いてない、と言うし、本当にマニュアルがあるのなら、全国一斉、同時期に使われてもおかしくないはずだ。タイムラグが存在しているのはおかしい。 4年前に「よろしかったでしょうか」を検索にかけたら殆どヒットしなかった。今は4千件以上のヒットがある。そのルーツとして、「北海道の居酒屋チェーン」を挙げていたサイトもあったが、それでは東京をすっ飛ばして先に九州に伝播した理由が解らない。 「大手ハンバーガーチェーンの各店の店長がアルバイトに客の注文をしっかり確認するよう指導し、『ご注文は××でよろしかったでしょうか』という接客敬語を口伝えで教えている」などと説明しているところもあるが、マニュアルもないのになぜそんな言葉遣いを徹底させられたのか、これも納得の行く説明にはならない。。マニュアルがなく、「『よろしかったでしょうか』は使わないように」と指導されているはずのしげの店でも、しげ以外の店員さんはこの「よろしかったでしょうか」を使いまくっているのである。 学校の英語教師の能力不足のせいだとする説もある。英語などでは、過去形や仮定法を使うことでていねいな言い回しになるという表現があるのだが、バカな英語教師は、仮定法過去だろうがていねいな依頼の文だろうが、動詞が過去形になっていればなんでもかんでも額面通りに過去形で訳してしまうのだとか。つまり、“Would you mind opening the window ?”(窓を開けていただけませんか?)という英文を、「窓を開けてもよろしかったでしょうか?」と訳し、それを聞いていた生徒が、日本語でもそうした直訳的な表現をし始めたのではないか、ということなのだが、それだとこの表現がなぜ日常会話では使われず、ファミレスなどを中心に広がっているのかを説明できない。 何かの意識の変革がどこかで行われて、それが人々の心を捉えて伝播していったに違いないのである。その意識の変革とは何か。 客が違和感を感じるのはこの語句の過去形の部分だけである。なぜウェイトレスが過去形を使うかと言えば、それは客の注文を自己確認しているためである。そしてそれをそのまま客に投げ渡してしまっているのである。「今の注文で間違いなかったかな」という自分の心の中での確認と、「以上でよろしいでしょうか」と客の確認を求める行為とが、合体してしまったことで起きている失敗なのだ。ギャグマンがによくある「心の中で思っていることをつい口に出してしまった」と同じなわけだ。自我肥大が起きると、意識のコントロールができなくなり、思っていることをブツブツ口にし始める神経症があるが、それと同じことなのだ。 何気なく聞きのがしてる人も多いかもしれないけれど、お客さん。アナタすごく気持ち悪いことされてるんですよ。
私がこの言葉を耳障りに感じ出したのは3、4年前である。その当時、東京でそんな言葉遣いしてる店員やウェイトレスがいるのかどうか、グータロウ君に聞いてみたが「全然聞かない」とのことであった。ネットで問いかけてみたこともあったが、そのとき寄せられた回答では、「東北の方では使われている」であった(北海道や東北地方の一部では、前提のあるなしにかかわらず「はい、××でした」のように「タ」形を用いることで丁寧さ(あるいは婉曲)を現す方言があるとのこと)。 東北と九州で同時期に発生した言葉が、じわじわと東京のほうに伝わっていったというのだろうか。方言周圏論にも逆行している。さっきは「日常会話では使われない」と書いたが、徐々に普段の会話でもこの表現を使い始めている人間も老若に関わらず生まれ始めているのである。全くいったい何がどうなっているというのだろう。
夕方から土砂降り。 仕事帰りに、たまには贅沢に食事をしようと、「牛肉のサトウ」で食事。どれくらい贅沢かと言うと、二人で食事をするとお札が一枚吹っ飛んじゃうのである。なんたって松坂牛だから。 味は満足だったが、ここのウェイトレスさんもやっぱり注文取ったあと、「よろしかったでしょうか」と聞く。一瞬で興醒めしてしまうが、妙なことにそのあと「サラダバーなどはよろしいでしょうか」と聞く時にはちゃんと現在形になっているのである。過去形と現在形がチャンポンになっているというのは、もしかしたらやはりマニュアルに何か記載でもあるのか。 だんだん、「よろしかったでしょうか?」と聞かれたら「よろしくないです」と返事してやりたいヒネクレた気分になってくるのである。 ともかくコトここに至っては、声を大にして言いたい。 てめえの思いこみを客にぶつけるんじゃねえ。凸(-~~- )
しげはそのまま仕事へ。 私は今日が公開最終日なので、AMCキャナルシティ13まで一人で『ソラリス』を見に行く。
人類が遥かな宇宙にまで進出した未来。 心理学者のクリス・ケルヴィン(ジョージ・クルーニー)は、妻レイア(ナターシャ・マケルホーン)を亡くし、孤独な生活を送っている。 そこに突然、彼に「惑星ソラリスの調査」を依頼する男が現れる。男はソラリスの開発会社からやってきたのだが、既にソラリス調査のための宇宙ステーションに派遣されていたチームのリーダーでクリスの友人、ジバリアン(ウルリッヒ・トゥクール)からの通信ビデオをクリスに見せる。 「助けに来てくれ」。何の事情説明もせず、それだけを求めるジバリアンの姿を見て、クリスは調査を引きうける。 宇宙ステーション「プロメテウス」には、二人の男女がいた。科学者のスノー(ジェレミー・ディヴィス)とゴードン(ヴィオラ・ディヴィス)。ジバリアンは自殺していた。船内にはあちこちに血痕が点々と残っていた。 残された二人は自室に引きこもり、この船で何が起こったのか、容易に語ろうとはしない。 「アンタにもアレが起きたら分るさ」。嘯くスノー。 「アレとはなんだ?」 「“お客さん”(ヴィジター)だよ」 どこかから、子供が走り回る足音が聞こえてくる。宇宙船の中に、なぜ子供が? その夜、クリスは悪夢にうなされる。その悪夢の彼方に映る人影。目を覚ましたクリスの前には、“お客さん”が微笑を浮かべて立っていた……。
スタニスワフ・レムの傑作SF(人によってはこれを世界SF小説のベストワンに挙げる人もいる)『ソラリスの陽のもとに』をアンドレイ・タルコフスキーが映画化(『惑星ソラリス』)したのは1972年。日本公開はもちっと遅れて1977年。私はこれを劇場で見てもうぶちのめされた。 もちろんそれまでにもテレビでは『ミステリーゾーン』や『宇宙大作戦』『謎の円盤UFO』『プリズナー�癸供戮曚�、数多くのSFドラマを見ていたし、ウェルズ、ヴェルヌなどのSF小説の古典からそろそろブラッドベリやブラウンに移行しつつ、星さん小松さん筒井さんと言った日本のSF作家の作品も片っ端から読んでた時期なので、SF的発想に自分では「慣れていた」つもりだったのだが、それが奢り高ぶりというものであった。これで私は完全にSFに「かぶれ」てしまうことになる。原作本も私の「無人島に1冊だけ本を持っていくとしたら」の候補の1冊となった。 私が『スターウォーズ』にハマらなかったのは、『惑星ソラリス』を見たあとでは、あんなのはガジェットをちりばめただけのもので、中身はただのお伽話、まるでSFとは思えなかった、ということもある。実際、本気で「SF」してる作品は、単に小道具だけではなく、その物語もコンセプトも含めてSFしてるものなのである。 だから『アルマゲドン』なんて物語自体はSFでもなんでもないんだから、アレをSF映画として云々したって無意味なんだってば(-_-;)。 そういう事情があるので、今回のスティーヴン・ソダーバーグ監督、ジョージ・クルーニー主演によるリメイクには正直、不安を隠しきれなかった。タルコフスキー版を超えられるとは到底思えなかったからだ。 結論から言えば、私はこれはこれで充分に満足した。 同じ設定、同じストーリー展開でありながら、映像が安易に旧作の追従にも反発にもなっていない。確かに旧作を彷彿とさせるシーンも多々見られるが(例えば冒頭、ジョージ・クルーニーが降る雨を見続けている様子は、『惑星ソラリス』でドナータス・バニオニスが川を見つめているシーンとシチュエーションとしては同質である)、それはソダーバーグ監督自身の原作へのアプローチとして改めて映像化されたもので、不自然さがない。 カットバックが乱雑に繰り返される(普通は現実のシーンと回想のシーンは交互に入れ代わるものだが、時には回想が連続する)ことによって、現実と回想との境界線が曖昧になっていく。観客は何度か混乱に陥るが、それがラストシーンの伏線となって、実に効果を上げている。「映像の文法」が「主題」とこれだけ密接に係わり合い、効果を上げている例はめったにない。それを見抜けなきゃ、「オマエは映画を見る目がない」と言われたって仕方ないよ。 脚本・撮影・編集・監督と一人四役をこなしたソダーバーグ監督、旧作の呪縛に捕われずにきちんと自分の映画を作っている。旧作とどちらが上かを語ること自体ヤボに思えるくらいだ。 ジョージ・クルーニーも、あまり私はこの人の演技を買ってはいなかったのだが、感情の抑制されたいい演技をしている。 これ以上の批評はどうしてもラストに触れるしかないのだが、友人から「絶対書くな」と言われているので、残念ながら省略(^o^)。前作とは違った結末のつけ方をどう評価するかで賛否が分れるところだろうが、私は可である。 タルコフスキーに強い影響を受けた日本の某映画監督の某作品とソックリになっちゃったのは、これも同族進化というやつだろうか(^o^)。
エドワード・ゴーリー『ウエスト・ウイング』(河出書房新社・1050円)。 1963年製作、ゴーリー氏は38歳、これが14作目の絵本になる。この年には代表作の一つ、『ギャシュリークラムのちびっ子たち』ほか、5冊の絵本を出版しており、最も油の乗り切った時期の作品と言えるだろう。 いつもの翻訳者、柴田元幸氏の名前がないがそれはそのはず、これは純然たる「絵本」で、文章はついていない。説明を排除して、物語は読者の想像に任せるという方式なのだけれど、何しろ作者がゴーリー氏なものだから、これがもう怖い怖い。子供が普通の絵本と間違って買っちゃったら、悪夢にうなされそうだ。もっともそれはゴーリーの他の絵本についてもそうなんだけどね。
原タイトルの“The West Wing”は「西棟」の意味。もっともみなさんご承知の通り、ホワイトハウスの別名も「ウェスト・ウィング」であるから(そういうタイトルのドラマもあったね)、そのあたりのニュアンスも含めているのかどうか。この西棟で起こった出来事を象徴的な30枚の絵にしたものが本書。絵本と言うより、「西棟」をテーマにした絵画集と言ったほうが妥当かも。
〔表紙〕 黒雲の漂う空を背景に、切り石で出来た西棟の一部が描かれる。整然と並ぶ窓はいずれも暗く、中は見えないが、左下の窓だけはなぜか石で固められている。 〔見返し〕右下に小さく、しゃれこうべを種のように撒く蝶ネクタイの少年。 〔扉絵〕 「西棟」と表札のかかった入口に入って行く人物。中は暗く、人物の姿も足元しか見えず、あとは影に隠れている。 1、カーペットの敷かれた床。カーペットの模様は一つ一つが人の顔のようにも見える。そしてどこかに伸びている階段。 2、扉を開けて部屋に入って来る女。福は黒く喪服のようでもある。 3、誰もいない部屋、窓の下に靴が三つ、落ちている。 4、扉が開いている。廊下を挟んで、その向こうの部屋の扉も開いている。 5、壁にかかった絵。黒雲に覆われた空の下、森の向こうに丘があり、道が伸びている。丘の上には墓石が小さく一つ。 6、椅子に座り、杖をついて瞑想する禿頭の老人。シルクハットが床に置かれている。 7、壁に建てかけられた梯子。 8、床に置かれた荷物。 9、水差しを盆に載せて運ぶメイド。 10、部屋に置かれた姿見。扉が映り、誰かが裾だけ見せている。 11、水没している廊下。 12、手すりの前で、髭を生やした全裸の男が背中を向けている。 13、宙を舞う2枚の布。 14、部屋に置かれた彫像。 15、床に倒れている男。 16、階段と窓。窓は塗りこめられている。 17、部屋に落ちている一枚の紙片。窓からそれを覗きこんでいる白い影。 18、廊下の陰から覗いている四本の棒。椅子が倒れているのだ。 19、廊下を歩く全身包帯のミイラ。 20、床に置かれた丸太。 21、人の形をした壁の染み。それは宙に浮いているようにも見える。 22、ひび割れた床。 23、天井のフックからぶら下がっている黒い「人形」。内臓のようにも見える。 24、床に置かれた唐草模様の壷。高さはドアほどもある。 25、扉が開いている。廊下を挟んで、その向こうの部屋の扉は閉ざされている。 26、床を四つ足で歩く、小さく奇妙な生き物。蜥蜴のようだが顔は鳥のよう、体にはセビレと縞模様がある。 27、テーブルに置かれた石。なぜか石の表面は一部が切り取られたように白い。ゴーリーが白い絵の具で塗り潰しているのである。 28、床に座って向こうを向いている少女。 29、壁紙が3ヶ所、破られている。 30、宙に浮かぶ蝋燭。 〔裏表紙〕広い空の下、左下に小さく西棟。窓が一つ、塗り固められている。
さっき「怖い怖い」と書いたけれども、17の白い影や、19のミイラのように、直截的で怖いというよりはおかしみを感じてしまう絵もある。26の小動物は『うろんな客』にも通じるゴーリーワールドのマスコットの一匹で、かわいらしいくらいだ。12の裸の男など「ナニしたあとかよお前」と突っ込みたくなる(^_^;)。 こうして見ていくと、折り返しに「とほうもなく怖い作品」と惹句が書かれているのが、「ホントにそうかあ?」と疑いたくもなる。ゴーリー氏、案外ワザとやってるのではないか。 ホラーとコメディは紙一重だが、あえて滑稽の部分に足を半歩踏み入れてコントラストを取り、他の絵の恐怖を弥増す効果を狙っているように思う。 4と25が対照的に描かれているのも上手い。総じて、思わせぶりになりすぎない程度の、絶妙なバランスの絵が多い。中でも私が一番好きなのが18の椅子の絵だ。これなんか額に入れて部屋に飾ったら、たとえどんなにハートウォームな雰囲気の部屋でも、それだけで一気にダークなムードに包まれること請け合いである。まあやるやつぁあまりいないだろうが。 ゴーリー氏がこの世に残した作品は120冊。日本に翻訳されているのはまだその膨大な作品群の一部に過ぎない。これらの本がもっと売れに売れて、次の作品を読めるまでの間隔が縮まってくれると嬉しいのだが。
2002年07月18日(木) 芸能界の宿便/『名探偵コナン』38巻(青山剛昌)ほか 2001年07月18日(水) 夏到来! ……って暑いだけだって/『夢の温度』(南Q太)ほか
| 2003年07月17日(木) |
本能に逆らえないやつっているのな/『なんてっ探偵▽アイドル』13巻(北崎拓) |
しげがまた具合が悪いというので、タクシーで出勤。 ラジオから流れてきたニュースが「痴漢えん罪被害者ネットワーク」の代表・長崎満が、地下鉄車内でOLの下半身をカメラ付きの携帯電話で盗撮したとして、現行犯逮捕されたというもの(関係ないけど、「冤罪」くらい漢字で書こうよ)。 この人、『日本の論点2003』にも「痴漢冤罪はなぜ起きるか」の項で、「こうして私は痴漢の犯人にされた――『疑わしきは罰する』司法の恐怖」というタイトルの文章を発表している。こういう事件が起こったあとでモノを言うのも何なんだが、以前読んだときから「この人ホントに冤罪なんかいな?」と疑いを抱きたくなるような文章を書いていたのだ。 現物が本の山の中に沈んでいるので正確に引用はできないが、まあ「わ〜た〜し〜は〜潔白だ〜、や〜ってな〜い〜♪」に繋がる胡散臭さが感じられるものなんですね。自分はやってないという主張、逮捕されたときの状況や警察の理不尽さは語るけれど、身の潔白を証明しようという姿勢、その論拠を示す記述が殆どないのである。「相手が悪いから自分が正しい」ということにはならんのだが。 文体もどうもネチッこいし、言っちゃ悪いが、掲載されてるお写真を見てもどこか腺病質で目がイッちゃってて、いかにもソレっぽい。そんな決めつけしていいのか(^_^;)。 いや、人間ってどうしても見た目で判断されちゃうものだから、気を付けないといけないってことが言いたいだけです。疑わしきはホントに罰せられがちなんですから(なんか経験があるのか)。 「こーゆー人って疑われる素因があるんだよなあ」とか思ってたのだが、今度は完全な現行犯逮捕である。もう言い逃れができないと言うか、前回の「冤罪」も実は冤罪じゃなかったのでは、という疑問は誰しも感じるであろう(ラジオでもパーソナリティーがそんなこと言っていた。つか、実は証拠が有力で有罪が確定しているのである)。 本人は「酒に酔っていて覚えていない」と話してるそうだけど、その場にいた男性二人に取り押さえられたときに、盗撮に使ったカメラ付き携帯電話を壊し、画像も消去したとか。酔ってようが酔っていまいが、こうも明白に証拠隠滅図ろうとしてちゃ、さすがに彼の言い訳をマトモに聞こうって人間はおるまい。 「痴漢えん罪被害者ネットワーク」に参加している人たちの全員が「疑わしい」人だとは思わない。その殆どは本当に潔白な人たちなのだろう。けれど、「そういう冤罪被害者の人たちに混じれば、自分の痴漢行為をカモフラージュできる」と考えるモノホンの痴漢がいてもおかしくはないのだ。木は森に隠せというヤツか(森に擬せられる方はとんだ迷惑である)。 こういう組織って、「入会審査」とかしないのかね。してなさそうだけれど、裁判までして争ってれば、本当にやってないんだろうってつい信じちゃうのも分らないではない。でも、今回の件がこの会の活動に支障をきたすような事態にならなきゃいいがなあとは思う。だって、「痴漢にあったフリをして男性から小遣いせびり取る」馬鹿女だっているんだから。
それはそれとして、この事件でもう一つ特筆すべきなのは、カメラ付き携帯の多用な使用方についてであろう(^o^)。 これまでにも盗撮してた連中は小型カメラをカバンに仕込むなど、涙ぐましい努力をしていたのだが、カメラ付き携帯というのは、実に盗撮をしやすくしたようだ。不自然な姿勢を取らなくても、別のモノを撮っているフリをしてパッと誰かを撮るとか、それくらいのことは可能になっちゃったのである。 何か便利なものが発明されるたびに、それがもたらす弊害が云々されるが、この発明はその手軽さからほかにもいろんな「誘惑」を誘発しそうな気がする。私も最近、カメラ付き携帯に買い換えたい気分になってるんだよねえ、道端歩いてて、トマソンだのVOW物件やトンデモ物件だの見つけたらつい撮っておきたくなるもの。でも、うっかりヤバイもの撮っちゃってトラブル、とかいう事態にもなりかねない。 いや、女の子盗み撮りとかそんなことはしませんよ。しませんけどね、偶然映りこんじゃって疑われたらどうするんですか(^_^;)。
晩飯は博多駅バスセンター8階の「ぎおん亭」で牛タン定食。 ここのウェイトレスさん、注文を取るとき、例の過去形での「よろしかったでしょうか」という間違いをせずに、普通に「以上でよろしいでしょうか」と言った。最近はレストランに入るたびに苦々しく思っていたのだが、それだけで気分がよくなった。 朗らかな気分で「すみません、お水をお願いします」と言ったら、「おひや?」と聞き返される。一瞬こちらも口篭って、「お水です」ともう一度繰り返したら、また「おひや」と確認される。いや、「おひや」でも悪くないんだが、それは商売用語だから、基本的に店の人間は使えても、客は使えないのである。「お勘定」とは言えても「お愛想」と言えないのと同じだ。再確認されても困るのである。 よくそのウェイトレスさんの様子を観察してみると、どうやら日本人ではないようだった。珍しく日本語がちゃんとしてると思ったのは勘違いだったか。なんだかちょっと浮かれた分、興醒めの度合いも大きくなってしまった。
マンガ、北崎拓『なんてっ探偵▽アイドル』13巻(小学館/ヤングサンデーコミックス・530円)。 今回はアレですねー、「女だらけの水泳大会」とか「TVジョッキー」とか、、70〜80年代テイストのえっちバラエティのノリが楽しかったですねー。梨奈ちゃんやかおりんはべとべとになっちゃうし〜、サービスのシャワーシーンはあるし〜、アキラちゃんの半チチはモロ見せするよりウハウハしちゃうし〜、ミステリーマンガとしての設定なんてどっかに行っちゃってるし〜、なァ〜んにも考えないで読めますね〜、もう、私も脳がトシちゃん状態、あは、あは、あはははは〜(゜∇、°)。 ……ホント、私ゃなんでまだこんなの買ってんだろ(-_-;)。 バーチャルアイドル話のトリックは、「それやっちゃダメだよ〜」ってネタだったけど、まあそれはいつものことかなー。
2002年07月17日(水) それさえも平穏な日々/『脱ゴーマニズム宣言』(上杉聰)/『潜水艦スーパー99』(松本零士)ほか 2001年07月17日(火) 何年ぶりかの酒の味/『水木しげる貸本漫画傑作選 悪魔くん』上下巻
| 2003年07月16日(水) |
トリビアン・トレビアン!/『濃爆おたく大統領』1巻(徳光康之)/『壁際の名言』(唐沢俊一) |
そのうち『世界仰天ニュース』あたりに取り上げられそうなニュース。 今月10日のこと、場所は遠くイスラエル、ガリラヤ湖近郊の村。 自宅で楽しそうに「フン、フン、フ〜ン」とか鼻歌唄いながらお掃除していたA子さん(32)、突然1匹のゴキブリがバタバタバタッ!と飛んできて、口の中に入ってしまった。 ゴキブリは食道あたりウゾウゾウゾと動き回る。A子さん、思わず悲鳴を上げるけど、喉にゴキブリが詰まってるので「グェ〜! グェ〜!!」とヘンな声にしかならない。パニックに陥ったA子さん、頭に血が上って、そばにあったフォークに手を伸ばし、口の中に突っ込んだ。何とかゴキブリを引きずり出そうとしたんだろうけど、ものごと焦るといいこたない。勢いでそのままフォークもゴックン! あわれA子さんはそのまま病院送り。 緊急手術は成功して、フォークは取り出せてA子さんも無事だったのだけれど、はてさて全く、アンビリーバボーな出来事というのはホントに日々生み出されているものである。事件の原因のゴキブリさんは、もう消化されてたんだとか(^o^)。 この事件について、殺虫剤会社の「フマキラー」に取材したところによると(よく思いついた記者がいたな)、日本でも、子どもが誤ってチャバネゴキブリを飲み込んだりする例が数年に1度報告されるそうだ。 「ゴキブリを飲みこんだ場合、病院に行くのがベストですが、生命力の強いゴキブリは、入ってすぐの食道ぐらいなら動き回れるでしょうが、しばらくすれば窒息死します」とか。 案外、そう慌てなくても大丈夫、ということなのかね。なんか胃の中で毒撒き散らしてそうなイメージあるんだけど。 私も昔、自転車に乗ってて、「何かが」口の中に飛び込んできたことがあって、飲みこんじゃったんだけど、アレは何だったのだろう。ここで「アレは実はUFOでした」とか「思いこめれば」、私もトンデモ本が書けるんだがなあ(^o^)。
毎回、隔靴掻痒の『トリビアの泉』、もう録画するのはやめた(してたのか)。 三木さんも唐沢さんも関わってるからなあ、と思ってたけど、やっぱ見ててツライわ。多分お二人とも今の番組の作り方には満足してないんじゃないかなあ。ま、勝手な憶測だけど。 「童謡『ももたろう』の中で、彼は鬼に容赦しない」なんて、何がどう面白いんだか。唄の途中の「おもしろい おもしろい のこらず鬼を せめふせて 分捕物を えんやらや」の部分が残酷だとでも言いたいのだろうか。もともと鬼退治の話なんだから、ももたろうが鬼を容赦しちゃおかしいでしょう。これは話そのものに難癖をつけてるのと同じである。「かぐや姫は実は月の住人だった」なんてのでトリビアになるか(実は「月の向こう」に行くので、月人ではないのだが)。 番組では、最初は可愛いマンガ風だった背景のイラストを、ここでいきなりリアルな責め絵みたいな絵柄に切り返るのだが、これはもう演出ではなく「ヤラセ」だ。……投稿ネタ、こんなのが選考を通過してるってことは、よっぽどどうしようもないネタしか集まってないのかなあ。
ちょうど今、『ズームイン!! SUPER』の「ヤラセ」問題が話題になっている。数日前、番組内で羽鳥慎一アナが「ヤラセがありました、すみません」と謝っていて、何のことやら、と思っていたら、なんと福岡放送の仕業であった(^o^)。 問題となったのは、「ズームアイ」の中で、「赤ひげ先生奮闘記」と題して、ホームレスの健康相談をタダでしてあげてる福岡市のお医者さんを紹介したものである。あるホームレスの男性が、両親への音信不通を詫びた手紙を書いて、それを親戚に渡すシーンを撮る際に、本当は手紙の受け取り拒否されていたのだけれど、スタッフが自分の知り合いに頼んで、親戚のフリをして撮影したとのこと。 ドキュメンタリーとバラエティを比較して「ヤラセ」を語るのも乱暴には違いないのだが、番組の作り手の「いい加減さ」というのは共通してる気がする。よく「番組作りに熱心なあまり、つい暴走してしまった」みたいな言い訳を聞かされることがあるが、「熱心さ」ってのはそんなものじゃないだろう。番組が作れるかどうかっていう「焦り」はあったと思うけれども。 必ずしも視聴率のことを想定してはいなかったとしても、画面を埋めるインパクトのある絵がほしい、と考えていたとは思うのである。 「ももたろうの歌詞は別に何の変哲もないものである」 この時点で、「そのネタをボツにする」選択を選ぶこともできたはずなのに、「なんとかネタとして笑えるものにしよう」「残酷な絵を入れて、ももたろうの残虐さを演出しよう」という方向に向かったのと、 「本当はホームレスの男性は両親に許されていない」 それならば、「現実には人間関係が簡単に修復できるものでもない」という事実を冷静に報道することもできたはずなのに、「なんとか誰も傷つかないみんなが幸せになれる話にしよう」「手紙を親戚の人がちゃんと受け取った絵を入れてハッピーエンドを演出しよう」とヤラセに走っちゃったのは、ディレクターの心理構造としては全く同じである。 前者が特に責められず、後者が強い非難を浴びるのはなぜか。 そりゃ、バラエティとニュースの違いだろう、というのはその通りなのだが、よく考えてみれば、『トリビアの泉』にそんな「ヤラセ」を誰かが求めているのかと言えば、実は誰も求めちゃいないだろう、とも言えるのだ。 実のところ、「トリビア」で紹介されているネタ自体は、もともとそれほどおもしろいものでもない場合が圧倒的に多い。それを面白くするためにある程度の演出が必要なのも理解はできる。けれど視聴者は、「つまらないものをおもしろく見せろ」なんて思っているわけではないのだ。日常、普通に生活している中でなんとなく見逃しているものの中に「へぇ」と感心するような事実が隠されていること、それを発見する面白さをこそ「演出」してほしいのだ。 『トリビアの泉』は、その演出の方向を明らかに間違えているのである。
それにしても「ももたろう」の歌詞が「トリビア」になると考えた投稿者がいたってことが私には不思議だ。もう「ももたろう」の歌詞なんてみんな知らなくなっちゃったってことなのかね? もしかしたら、本当にあれが「残酷だ」とか考えちゃった幼稚園の先生がいたりして、後半を歌わせないようにしてるとかいう事実があるんだろうか? いや、ヘタをすると「ももたろう」の話自体、今の若い人は聞いたことがないのかも。 そのうち、『赤ずきん』を改作して最後に助かるようにしちゃったように、「残酷じゃないバージョン」の日本昔話もいろいろ作られちゃうのかもね。 「鬼を退治しないで説教するだけの『桃太郎』」 「お爺さんにならずにもとの世界にタイムスリップする『浦島太郎』」 「月に帰らずにお爺さんお婆さんと幸せに暮らす『かぐや姫』」 「実は鶴だったことがバレても更に機を織り続ける『鶴の恩返し』」 「撒いた灰の不思議な力で、いったん死んだポチも蘇える『花咲か爺さん』」 「大きいつづらにも実は宝物がいっぱいだった『舌切り雀』」 「小さなままでもボクは立派な人間さ! と大きくならない『一寸法師』」 「猿が柿をちゃんとカニに分けてやる『猿蟹合戦』」 「本当は青鬼も優しいやつだったことがわかって、みんなで仲良く暮らす『泣いた赤おに』」 「傷が浅くて命が助かる『ごんぎつね』」 最後の二作は昔話じゃなくて創作童話だけどまあいいか。 なんか冗談みたいだけど、実際、「お婆さんもお爺さんに食われず、タヌキもおぼれかけたけど助けられて謝る『かちかち山』」ってのはあるから、油断はできないのである。
唐沢俊一『壁際の名言』(海拓舎・1365円)。 オビに「フジTV『トリビアの泉』のスーパーバイザー」と唐沢さんには珍しく自己宣伝。 「もう、並の名言では癒されないあなたに贈る特盛名言!」ともある。裏モノとしての唐沢さんが、古今東西の有名・無名人の、非道徳かつ自由洒脱でココロ晴ればれとする名言珍言を集めたものだ。
偉人の名言・箴言・警句・格言というものは、たいていの場合、それを引用する人間の我田引水的な解釈によって成り立っている(←これもなんか名言っぽいな)。 例えばひと昔前の学校の先生だったら、たいてい引用していた宮澤賢治の「雨ニモマケズ風ニモマケズ」だけれども、「世の中一にも辛抱、二にも辛抱」と言ったニュアンスで語られたこの賢治のメモ(詩作ではないのだ)のラストが、「サウイフモノニ私ハナリタイ」で終わってることを知ったときには私ゃのけぞったものだ。これ、人生に挫折した賢治がメモ帳に書き綴った泣き言なんである。 まあ、他にもこの手の「実はこうだった」って名言のウラばなしはオトナになるにつれていくらでも判明していって、ゲーテの「もっと光を」は「部屋が暗いから明るくしてくれ」って意味だったとか、板垣退助は「板垣死すとも自由は死せず」なんて言ってなくてアレは記者の創作だったとか、枚挙に暇がない。 もしかしたら、「名言を残した偉人はいない」(おお、また名言っぽい)んじゃないかとまで勘繰りたくなるくらいである。 もっとも、この手の名言に頼りたくなる心情は随分多くの人にあるらしくて、油断をしてると、このトシになっても誰かからふいに「継続は力なりだよ」とか声を賭けられたりしてしまうのである。「名言の罠はどこにでも転がっている」。 私もたまに人から「あなたのモットーはなんですか」とか聞かれたりするのだが、そういうときはたいてい、四文字熟語でもあまり学校で教えてはいなさそうなものを選んで答えたりする。「綜芸綜智」とか「濯纓濯足」とか。「一陽来復」ってのもよく言ってたけど、桑田乃梨子さんのマンガ『一陽来福』(「福」に注意ね)で有名になっちゃったのであまり言わなくなった。でもって、意味は教えない(まあ、四文字熟語って見た目は堅苦しそうで名言っぽいんですが中身はたいしてないものも多いんですよ)。なにげなく人から聞いた知識なんて、すぐに忘れるものである。コトバを自分のものにしたいと本気で思うなら、自分で調べて使うしかない。使う気もないのに質問してくるやつに懇切丁寧に教えてやるほど私は親切ではない。 だいたい、この「あなたのモットーはなんですか?」と聞く人の神経がよく分らないのだ。アンタは人生の曲がり角に立つごとに箴言を必要とするほど、しょっちゅう苦悩しているのかと。なんだか不幸ぶりっこしてるように思えて、いけすかないのである。
ことほどさように「名言」などというものは胡散臭く、役に立つのか立たないのかわからぬ鵺のような存在である。「急がば回れ」&「善は急げ」などのように、急ぐのか急がないのかどっちだよ、と我々をかえって混乱に陥れるような格言もある。出自はいかにも立派であるのに、その中身は正体不明ないかがわしさに満ちた、妄言に近いものも多い。 そんなのに比べると『壁際の名言』に集められている「名言」は、出自からしてもともといかがわしい。
巻頭の「私を見なさい。無一文から身を起こして、独力で今の極端な貧乏にまでなった男だ」のセリフを言ったのは、グルーチョ・マルクスである(正確には次のようなセリフ。“Three years ago I came to Florida without a nickel in my pocket. Now I've got a nickel in my pocket.”「三年前、私は無一文でフロリダにやってきた。今、私のポケットには一文ある」映画『ココナッツ』ミスター・ハマーのセリフより。唐沢さんのケアレスミスだが、引用元はちゃんと明記しておいてもらいたいものである)。 実に「応用」の効くセリフで、M君事件があってオタクが世間から極端に嫌われていたころに、「私も昔はしがないオタクだったけどね、努力して素敵なオタクになれたよ」と言って、女の子に引かれまくったものである。人に嫌われるとわかりきってるジョークを飛ばすものではないな(^_^;)。 まあ、今のような使い方はイマイチだが、「貧乏人」「オタク」の部分を一般的にマイナスイメージで捉えられているものに置き換えて使用すると、実に皮肉の効いた警句になるのだ。 試しに「おかま」とか「犯罪者」「泥棒」「性倒錯者」「○チ○○」などを入れて使ってみたらよろしい。仮に自分の何かについてコンプレックスがあったとして、それが一気に雲散霧消することは請合いですよ。「昔はボクもただのフツーのキ○○○でしたけどね。今や正真正銘の立派な○○○イになれました」。……やっぱり引かれちゃうか。ま、こういうのは本人だけ気分がよけりゃいのである。
私はこのセリフにも更に元ネタがあると昔から思っているのだが、それはドストエフスキーの『罪と罰』中で、マルメラードフが語る「貧乏は罪悪ではない。しかし一文無しの貧乏は罪悪だ」というものである。要するに、たとえ一円でも十円でもポケットにあれば、それはその人が人間として生きてきた証しなのである。堂々と威張って構わないのだ。 考えて御覧なさい、あの文無しなのが当り前のグルーチョが、一文でもおカネを持っているということがどれだけ素敵なことであるか。こんなセリフを功なり名を遂げたお偉いさんが口にしたところで、一般的にはただのイヤミとしか受け取られず、「でも銀行にはザクザクおカネがあるんでしょ」と冷ややかな目で見られかねない。世の中には、貧乏人、卑怯者、うそつき、変態、詐欺師、ペテン師、極悪人でないと説得力を持たないセリフというものも存在しているのである。 我々の大半は凡人である。というより、今までの人生を完璧に美しく過ごしてきたなんて人間はそうそういないだろう。大小の差はあるにしても、誰もがスネにキズを持って生きている、それが世間というものである。 俗人たる我々にとって、お偉いさん方の名言は、「はいはい、お説ごもっともで」と頷くしかない。それに比べて、凡人以下の人々の言葉は、我々にどれほど深く優しく響いてくることか。これまでの名言集に登場して来た偉人たちは雲の上人であったが、ここにいる人たちはまさしく我々の同朋なのである。
収得した方法がきれいか汚いかに関わりなく、グルーチョのポケットの中の一文は、百億の財産にも増して光り輝いているに違いない。 私の財布の中にも、たまに30円とか3円しか入ってないことがあるが、不思議なもので、給料日直後で五百万円ほど(嘘)入ってるときよりも随分清々しい気がするものである(少しは貯金しろよ)。
本書のコンセプトは基本的に大好きなのだが、やや文章が雑なのと、ケアレスミスや誤植が多いのがちょっと気になるところだ。「徳川夢声」がやたら「徳川“無”声」と誤植されてるのは困りものだし、あまりきちんと調べてないなあ、と思われる記述も多い。 「カマトト」という言葉について、「カマボコって、オトトかしら?」とPCL(のちの東宝)のある女優が語ったのが語源、とあるが、これは俗説である。『日本国語大辞典』(小学館)には、既に江戸時代末期に、この言葉があることが次のように示されている。 「近世末に上方の遊里で用い始めた語。※人情穴探意の裡外(1864頃)三『年に似合ずかまととばかり云ふ妾さん』」 他にもツッコミどころがやたらあるんだけれど、字数がオーバーしちゃうんでやめとく。まあ、こういう細かいところは誰か親切な人が唐沢さんにご注進するでしょ(^o^)。
こういうヒネクレた名言、ということになると、アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』やバーナード・ショーあたりのセリフが真っ先に浮かぶのだが、そういった有名どころをあえて外して、唐沢さんが実際に見聞した知人や名もなき人々の迷言も収録しているところが本書の幅を広げている成因だと思う。 ただ、リリー・フランキーの『誰も知らない名言集』ほどのインパクトに欠けるのが残念だが。
ついでだから、私も二つ三つ、人生にすごく役だつ名言集を。 �.愁�ラテス「結婚しなさい。良い妻を得れば幸福になれるし、悪妻をめとれば哲学者になれるからね」。 結婚している男性で、この言葉に思わず「ウンウン」と頷く御仁は多かろう。と言うか、頷けぬ夫は、まだ結婚の実態を知らないのである。私の「結婚前からの」座右の銘の一つ。私がどれほどの覚悟をしてしげと結婚したかご理解いただけようか。 ��夏目漱石「目の前に饅頭がありゃどうしても手が出る。手を出すほうも悪いが、手の届くとこに置く方も悪いよ」。 漱石は胃弱だったので、饅頭なんかは厳禁だったのである。私も糖尿でいろいろ控えにゃならんのだが、生前の母も妻も、平気で私にカロリーの高いものを食わせるのである。いくら言っても聞かないので私は諦めました。ちなみに漱石は49歳で死んでます。あと9年か(T∇T)。 ��アリストテレス「(ある男に「どうして私たちは同じ女でも美しい女となら時間を忘れて長く一緒にいられるのでしょうか」と聞かれて)君はあきめくらかね」。 似たようなことをアインシュタインも言ってるが、こちらのほうが強烈。フェミニズムが哲学ではない真実と、哲学が理屈ではない事実を一度に証明してくれるこれぞ名言(^o^)。この言葉の前には、全ての恋愛論はクズとなる。もう今時は柴門ふみを読んでるやつもいないと思うが、あれはちょっと困りものでしたね。 (出典はいずれも『世界史こぼれ話』シリーズ(三浦一郎)より)
何度か書いたことがあるかも知れないが、しげの放ったメイ言で一番インパクトが強かったのは、何の前フリも脈絡もなく、唐突に発せられた次のセリフであった。 「アフリカ人とインド人とどっちが好き?」 その瞬間、私が悟ったのは、「ああ、人間って、無理して他人と会話したりコミュニケーション取ろうなんて悩まなくていいんだ。だって、結局人間は、決して心の底から理解しあえることなんてないんだから」ということであった。 私はすばらしい妻を得たものである。
マンガ、徳光康之『濃爆おたく大統領』1巻(講談社/マガジンZKC・570円)。 しげから散々「ねえ、それ面白い?」と冷ややかな目で見られているが、まあ同病相憐れむでつい読んじゃうんですよ。 でもネタはそう悪くないと思うんだよねえ。ネックなのは絵なんだな、ということが今巻を読んでしみじみと思った。つまり「オタク萌え萌えマンガ」は、それ自体も「オタク萌え萌え」マンガでなければ成立しないのである。これがとことんヘタで萌えねーんだわ、徳光さんの絵。 前の『おたく先生』の場合は主にメカ話が中心だったから欠点が目立たなかったのだが、美少女系の話になってからはもういけない。「1/1管理人さんフィギュア」とか出てくるんだけど、これが全然可愛くないのである。ああ、なんか絵を描き始めの中学生が一所懸命美少女の絵を描こうとしてるような。熱心なのはわかるけど、いくら「トレビアーン!」とか言われても見ててツライだけなんだなあ。 本人もそれ自覚してるのか、『サクラ大戦』ネタでは一部の絵を漫画板を担当している政一九に描かせている(カバーを外した表紙にも注目)。確かに効果はあるけど、ズルだよそれ。自分が絵を練習して、ペン先も変えようよ。 でも2巻も出たら買うと思います(^_^;)。
訂正。グルーチョのセリフの出典は『いんちき商売』であることが唐沢俊一さんの『裏モノ日記』2003年8月22日に書かれてました。ちゃんと調べろよオレ(-_-;)。
>「look at me,I’ve worked myself up from nothing to a state of extreme poverty」
2002年07月16日(火) 乱れる話いろいろ/『ぴたテン』1・2巻(コゲどんぼ)/『桃色サバス』1巻(中津賢也) 2001年07月16日(月) 私のマスコミ嫌いも根が深い/『雪が降る』(藤原伊織)/『新ゴーマニズム宣言』(小林よしのり)ほか
| 2003年07月15日(火) |
それはそれなんだってば/『プラネットガーディアン』1〜3巻(高坂りと)/『サトラレ』4巻(佐藤マコト) |
追い山(山笠最終日)だけど、今年も長雨のせいで、山笠廻りができなかったなあ。結局、見られたのは博多駅前のやつだけ。 『金色のガッシュ』はそれはそれは悲惨な出来でございました。いやもう等身違うし、どの人形も顔が殴り描きでぜんっぜん似てねー。あれは元絵が落描きなみだという皮肉のつもりかね。 写真はこちら↓。 http://www.rakuten.co.jp/meigetsudo/423266/423242/ ガッシュの隣にいるの、誰だよ(-_-;)。 福岡にいると学会員、写真に収めてと学会で発表すりゃいいと思うんだが、クレームが怖いのかな?(^_^;)
俳優、坂口祐三郎さんが、13日、脳幹出血のため死去。享年61。
テレビシリーズで主役を張っていながら、その後、私たちの前からほぼ完全に消えていってしまう役者さんたちがいる。 『隠密剣士』『月光仮面』の大瀬康一さんなどはその典型的な例で、昭和30年代を代表するテレビシリーズ2本に主演していながら、その後は散発的にドラマにゲスト出演したあと、隠退してしまった(現在は杉並区で貸しビルのオーナーをされているそうである)。 こういう場合、たいていは「ヒット作の役のイメージが強過ぎて、仕事が来なくなった」と説明される場合が多い。それを嫌って、それまでとは全く違う役柄、例えば悪役や汚れ役に挑戦したり、舞台にその活動の場を移す方も大勢いらっしゃる。『ウルトラマン』の黒部進さんや『キャプテンウルトラ』の中田博久さんは、ひところは時代劇の悪役ばかりされていた。
坂口祐三郎さんも、『仮面の忍者赤影』のあと、ブラウン管から全くと言っていいほど姿を消してしまっていた。 たまに『水戸黄門』に水戸綱条(黄門の養子)役で顔を見せたり(これも柳生博さんに代変わりした)、『人造人間キカイダー』にゲスト出演してゴールドウルフ(原作のゴールデンバットに当たる)を演じたりしていたが、さて、どれだけの人がそれを坂口さんだと認識していたろう。 坂口さん自身もよくインタビューや著書などで、「赤影のイメージが強く、仕事が来なくなった」旨の談話を語っているのだが、果たして本当にそうだろうか。私はそれを随分長いこと疑っているのである。 というのも、『赤影』の場合、坂口さんは殆どその素顔を仮面に隠して晒していない。第1部「金目教編」で、傀儡甚内に「忍法顔盗み」で素顔を移されたときにチラッと素顔を見せたくらいで、ほとんど一年間、仮面をつけっぱなしであった。これでどうして「イメージが固定する」と言えるだろうか? 大学の頃、片岡孝夫(片岡仁左衛門)のファンだという女の子がいて、「私、片岡さんは『赤影』の頃からファンなんだ」と言い出したことがある。はて、片岡孝夫が『赤影』に出演してたっけか、と私は首を捻ったのだが、その子が更に「何言ってんの! 主役じゃない! 一度だけ素顔を見せた時の美しさったらなかったわ!」と怒鳴ったので、「……『赤影』の主役は片岡さんじゃないよ、坂口祐三郎さんって人だよ」と言ったら、「えええ! うそ! 顔、同じじゃない!」と驚いていた。 そのころ片岡孝夫はテレビの『眠狂四郎無頼控』に出演していて、吊り目にメイクしていたから、まあ坂口さんに似ていると言えなくもなかったが、やはり別人である。まあ、彼女の場合は特殊であるだろうが、坂口さんの顔がそんなに世間に浸透していたとはとても思えないのである。
『赤影』のテレビ放映が1967年4月から68年3月まで。その直後に坂口さんは芸名を「坂口徹」に変更している。1969年7月公開の坂口さん唯一の主演映画、『飛び出す冒険映画 赤影』のクレジットは「坂口徹」だ。「赤影」のイメージを払拭する意図だとしても、翌年とはいささか早い。本当に全く仕事が来なかったというのは事実なのだろう。けれど私はそれは「赤影」出演とは何の関係もないと考えている。 つまりは坂口さんのマスクが美しすぎたのだ。テレビドラマの、それも子供番組の主演がキャリアに全くと言っていいほど影響しない、というよりは映画スターに比べて明らかに差別されていた時代のことである。別のドラマにすぐ主演、と仕事が続くものでもなく、かと言って別の番組にゲスト出演しても、あの美しさでは主役より目立ってしまう。番組製作者たちはあえて坂口さんを使うことを避けたのではないか。もっとキツイ言い方をすれば、あの当時のスタッフたちの中に、坂口さんの美しさに「嫉妬」していた人も結構いたのではなかろうか。
「役者が育たなくなった」と言われて久しい。現在、舞台や小劇場出身の役者が重宝されるようになってきているのは、つまりは映画界やテレビ界に役者を育てるシステムがなくなっているからである。それは実は坂口さんが『赤影』で活躍していた30年以上前から続いていた。 坂口さんは『飛び出す赤影』のあと、更に「坂口徹郎」に改名して、この時代が長い。熱心なファンは、「坂口徹郎」にも愛着があるかもしれないが、恐らく坂口さんにとっては長い逡巡の時代であったことだろう。 そして近年、坂口さんは『赤影』のころの「坂口祐三郎」に戻した。晩年、「日本芸能教育センター」の講師を務め、俳優養成に力を注いでいたのは、自らが干されてきた経験が影響しているように思える。 しげは、某所で芝居の練習中に、二度ほど坂口さんとすれ違っているそうである。一度は坂口さんかなと思ってじっと見つめてしまい、目が合っちゃったとか。ああ、なんてうらやましい。
山本弘さんの「SF秘密基地」には、最近殆ど書きこんでいない。 もともと殆どROM専だったのだが、一時期、荒らしが横行し、それに反応してレスを付け続ける定連さんたちのあまりのアタマの悪さに、私はすっかり閉口してしまった。書きこみの文章を読めば「こりゃ荒らしだな」とすぐ気がつきそうなものなのに、まるで見抜けぬ人が何十人もいたのである。そのあたりのバカっぷりは、いくつかのサイトで始終笑われているのだが、定連さんはどこ吹く風だ。 山本さんが設定した「掲示板のテーマから逸脱した内容を書いてはならない」とか、「ありふれた内容のスレッドは立てない」などのルールも、記憶している人は殆どいないようだ。 知識はあるが常識はない(その知識にしても偏狭なものが多い)人たちのダラダラとした会話を見続けるのも苦痛なだけなので、最近はたまにちょっと覗くだけになってしまっていた。
それが、昨日覗いてみたときに、「トンデモ映画」をダラダラと書き綴っているスレッドで、山本さんの次のような書きこみを見つけたのである。
> 大林監督には他にもトンデモ映画がいろいろありますよ。『ブラックジャック/瞳の中の訪問者』『金田一耕助の冒険』『少年ケニヤ』『漂流教室』……。 > どれもこれも、シリアスなシーンをギャグにしてしまうなど、原作のイメージをぶち壊しまくり、一部には原作を嘲笑しているように見える描写まであって、不快感さえ覚えます。僕が原作者だったら絶対怒るぞ。
> 印象に残ってるのは、『金田一耕助の冒険』の一場面。 > 原作者の横溝正史氏のところに角川春樹社長(当時)がやって来て、「今回の原作料です」といってケースを開けると、中には札束がぎっしり。 > そもそも出版社の社長みずから現ナマを持ってくるなんてありえないんだけど、なんか原作者に対する悪意が感じられてなりません。 > この映画に関しては、評価する人もいるんですけど、僕個人としては、いくらなんでも、他人の創ったキャラクターにこんなことを言わせる監督なんて許せません。 ↓ http://www.fukushi3.org/~yokomizo/bouken.html
『ブラック・ジャック』が手塚治虫の気に入らなかったらしい、ということは伝え聞いているが、『金田一耕助の冒険』については横溝正史は特に不快感を抱いてはいなかったはずだ。映画化に関して基本的に一切注文はつけない、というのが横溝正史のスタンスで、片岡千恵蔵が洋服を着て金田一耕助を演じても、『本陣殺人事件』や『八つ墓村』が現代に時代を移して映像化されても、「あ、そう」ですましてきた経緯がある。「原作に沿ってほしい」気持ちがなかったわけではあるまい。そうエッセイに書いていたこともある。しかし、小説を全てそのまま映像に移すことは不可能であるし、逆に何の映画的アレンジのない映像化はたいてい失敗作になる。横溝正史はそのことを熟知していた作家であった。 更に言えば、当時、まだドラッグに狂ってはいなかった(^o^)角川春樹は晩年の横溝正史を実の父のごとく仰いでいたし、横溝正史も、「やんちゃ」なこの若社長のバイタリティに好ましいものを感じていた。でなければ、社会派推理小説の台頭にくじけて、一端は筆を断っていた老作家が、矢継ぎ早に四長編(『仮面舞踏会』『迷路荘の惨劇』『病院坂の首縊りの家』『悪霊島』)を書き上げ、更には自作の映画化作品に4本も出演までしてしまうことがありえるだろうか(『犬神家の一族』『悪魔が来りて笛を吹く』『金田一耕助の冒険』『病院坂の首縊りの家』)。 実際、山本さんが紹介しているサイトも覗いてみたが、「当時の角川映画の評価をそのまま採り入れた、自己批評」と、好意的かつ的確な批評が書かれていた。そう見るのが妥当であろう。 まあ、あの映画が随分「乱暴な」映画であることは否めない。そこを許容できない人にとっては、「なんじゃこりゃ?」と感じるのも当然なのだが、山本さんは、激昂のあまり、当該のサイトもよく読んでおらず、事実誤認をしているのではないか、と思ったので、本当に久しぶりに書きこみをしてみることにした。 7月14日付で私がつけたレスが以下の内容である。
> 単純なご記憶違いだとは思いますが、このあと、こんな展開があります。 > 横溝正史氏が札束をペラペラとめくると、ホンモノのおカネは一番上の一枚だけで中身は全部白紙。正史氏は「中身は薄いねえ」。頭を抱える角川春樹に向かって、追い討ちをかけるように「私はこんな映画にだけは出たくなかった」(『悪魔が来りて笛を吹く』について横溝正史が「このような恐ろしい物語だけは書きたくなかった」と語ってCMにも使われたセリフのモジリ)。コケる角川春樹。 > つまり、当時散々「カネだけかけて映画の出来はどうしょうもない」と批判されてた角川映画に対する皮肉であるわけで、横溝氏に対する悪意は大林監督の意図にはないと思います。
> (「他人の創ったキャラクターにこんなことを言わせる」ことについて)多分このあたりは大林監督よりもダイアローグライターのつかこうへいの趣味が出てるのだと思います。『熱海殺人事件』のくわえ煙草伝兵衛のセリフに共通するものがありますから。
> けれど、実のところ、「探偵ってのはね、一つの事件に対して、怒りや憤りを持っちゃいけないもんなんですよ。一つの殺人から、どう広がっていくだろう、そしてこの殺人がもう一つの殺人を生むんじゃないかしら、そう考えることが楽しいんですよね。」と似たようなことを原作の金田一も頻繁に語ってはいます。 > 殺人が起きるたびにワクワクし、またワクワクしてしまう自分に対して自己嫌悪を抱いて事件後失踪する、そんな行為を金田一は繰り返しています。そのあたりの「事実」を元にして、一つの「探偵論」「金田一耕助論」として語らせたのがあのセリフですから、好き嫌いは別として一つの「批評」として認めてもよいのではないでしょうか。
これについて、今日、再び山本さんからついたレスが以下のもの。
> 記憶違いではありません。そのシーンも記憶しています。 > たとえ中身が紙だろうと、「金が欲しくてこんな映画を作ることを承諾した」かのように見せるって、ひどいんじゃないでしょうか。
> 『ねらわれた学園』でも、ラスト近くで眉村卓氏が、(いかにも映画の内容を嫌がっているかのように)机をどんどん叩くシーンがありましたっけ。 > 僕はそういうのも含めて嫌なんです。 > 「ほら、原作者もこの映画を嫌がってますよ」 > と観客に示して自虐的な笑いをとってるわけだけど、これって原作者に対してすごく失礼でしょ? 自分は原作者に嫌がられるような映画を作っていると自覚していて、なおかつスクリーンでそれをアピールしてるんだもの。
> そもそも、原作者ってのは映画の内容にはほとんど口出しできないものです。映画化権を売ったが最後、どんな映画になるか、監督を信頼しておまかせするしかない。 > たとえ心の中で「こんな映画は最低だ」と思っていても、おおっぴらにはそんなことは言えないし、作り笑顔を浮かべて映画の宣伝にも協力しなくちゃいけない。 > そんな原作者の弱い立場をさらに踏みにじっていると、僕には思えるのです。
> もちろん、これは主観の問題なんで、どっちが正しいとは言えません。たぶん藤原さんと僕の感じ方の違いは、作家かそうでないかに起因すると思います。 > 自分の作品が映像化された場合のことを考えると、シリアスな話をギャグにされたり、主人公に「殺人が好きなんです」とか「次はあんたを犯人に仕立て上げる」なんて言わされたりしたら、はらわたが煮えくりかえると思います。それを想像すると、とても嫌な気分になるのです。 > どうも大林氏という人、原作というのは原作者からの預かりものだと思ってないんじゃないか、映画化権を手に入れた以上、どんなにめちゃくちゃにしてもかまわないと思ってるんじゃないか――そんな気がするんですよね。 > まあ、大林氏にかぎったことじゃないけど。 > しかも、改変して原作より面白くなるならまだしも、かたっぱしからコケてますからね(^^;)。『時かけ』や『転校生』って、数少ない成功例なんですよね。
正直な話、随分トンチンカンなレスだとは思ったが、何かレスがついても反論する気はなかった。もともと、「記憶違いではないか」の事実確認のための質問であって、「原作を改変することはどこまで許されるか?」ということを山本さんに聞きたいわけではなかったからである。 この手の議論はもう若いころに散々し尽くしてきて、私にとっては今更であるし(そうなんだよなあ、あそこの掲示板って、私が10代、20代のころに散々してたことを未だに繰り替えしてるんだよなあ。若いころよっぽど他人と会話したことない人間が集まってるんだろうねえ)、それはレスの流れの趣旨にも反する。 こういう場合、更に山本さんに絡んで、愚にもつかない言葉を垂れ流してるのがあそこの定連さんたちなんである。それが結果的にあの板を荒らすことになる。私は別にそんなアホなマネをするつもりはないので、またさっさと退散することにした。ルールにも「平行線になった議論は切り上げる」とある。 山本さんが「これは主観の問題なんで、どっちが正しいとは言えません」と語っている時点で、論題は消滅しているのである。話を続ける意味はない。……と言いながら、「主観の違い」ってのには賛同するけれど、ホントは「作家かそうでないか」は原因じゃないんだけどね、と余計なヒトコト(^_^;)。 『アルマゲドン』論争だって、適当なところで切り上げるアタマを定連さんたちが持ってたらよかったんだけどねえ。
マンガ、高坂りと『プラネットガーディアン』1〜3巻(エニックス/ガンガンコミックス・各410円)。 オビの「キュート&毒注意な絵ですが、ブラックなギャグマンガです!!」という惹句に引かれて購入。 でもそんなに毒が強いってほどでもなかった。魔女っ子ものの変形なのだけれど、そのアレンジが今一つ効果を上げていないのがネック。 凶悪な宇宙犯罪者たち「アルゴル」が宇宙監獄を脱走し、地球に向かったのを知った監視者の「メルカバー」のピロスケは、ごく普通の小学生の女の子、如月古雪(きさらぎこゆき)に、地球を守るための「ガーディアン」の力を与える。ところがピロスケのとんだ手違いで、「アルゴル」がやってきたのは5年後だった。受験勉強に忙しい古雪は、魔法少女になる夢など、とっくの昔に捨てている。けれど魔女っ子オタクの兄・樹(いつき)にむりやり引きずりまわされ、アルゴルとの戦いに駆り出される毎日。第2のガーディアン、ヒロインぶりっこの早乙女リリカ(本名・山田良子)や、邪悪な意志に捉えられダーク化した第3のガーディアン、桐島雫(きりしましずく)たちと、ひと騒動を繰り広げながらもなんとかアルゴルたちを撃退していくが……。 異星人の襲来が時期遅れだった、という設定がややおもしろいものの、キャラクター設定も展開もまあ、どこかで見たような、という印象が強い。もっとも、魔女っ子モノなんだから、ヘンに捻った設定されても逆につまんなくなりかねないうとは言える。でも、いい加減こういうのは見飽きちゃいるので、ちょっとくらいは意外性がほしいところである。
マンガ、佐藤マコト『サトラレ』4巻(講談社/イブニングKC・540円)。 今まで指摘し忘れてたような気もするが、この作品は「SF」である。 考えてみたら「サトラレ」=「口に出さずとも、自分の考えが周囲の人に『悟られ』てしまう不思議な能力の持ち主」なんてのは現実には存在しないんだから、「もしもそういう人たちがいたら、この世界はどのような変容を見せるだろうか?」という発想で構築された世界観は、立派なSF設定なんである。 けどそれも4巻まで続くと、随分「ほころび」が生まれてきてしまっている。 サトラレである西山幸夫と結婚した小松洋子、二人の間には光という女の子が生まれるが、その子もまたサトラレであった。お互いの思念波で相手がサトラレだと伝え合ってはならないと、普段は父親を単身赴任させて二人が会える機会を制限し、再会するときにだけ、親には子の、子には親の、普通の人間の身代わりを立てることにする。 ……ムリだよ(^_^;)。親子ってそんなに簡単に騙せるものだろうかって疑問がまずあるけれども、仮に騙せたとして、その子が成長したときに、「二人のお父さん」がいることを納得させられるとは思えない。これから先、5巻、6巻と続けていくなら、作者の佐藤さん、そのあたりの不自然さをどうクリアしていくつもりだろうか。 好きになった女の子とも、自分の汚い心を見られるくらいなら会いたくない、と島暮らしを続ける木村浩くんのパターンの方がリアルだけれども、でもこの場合、浩くんは隠棲したっきりになっちゃうから、新たな展開って生まれそうにないんだよなあ。こちらもこれから先、どうドラマにしていくつもりなんだろう。
2002年07月15日(月) 開高健よりは痩せてると思う/『新ゴーマニズム宣言 テロリアンナイト』11巻(小林よしのり) 2001年07月15日(日) 演劇は愛だ! ……ってホント?/『バトルホーク』(永井豪・石川賢)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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