無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年07月18日(水) 夏到来! ……って暑いだけだって/『夢の温度』(南Q太)ほか

 昨日までの天気と一転して、今日はピーカン。
 つい昨日まで、また大水が出て川が氾濫するんじゃないかと心配していたのがウソのようだ。マンションのエレベーターの壁には、まだ「冠水の恐れがあるのでご注意下さい」というビラが貼られたまま剥がされていないが、この上天気ではいかにもマヌケだ。
 いや、上天気どころの話じゃないぞ。
 玄関を開けるなり、ブワッと熱風が押し寄せてきて、なんだなんだと驚く間もなく飛び込んでくる、耳を劈くほどのアブラゼミの大音声。
 ……季節の変わり目ってのは、もう少しなだらかに移って行くものじゃないのか。こんなに解りやすい夏の到来も珍しいなあ。

 しかし今年も鳴いてるのはジワジワジワジワ、アブラゼミばかりだ。子供の頃聞いていたミンミンゼミの鳴き声は、福岡の町中ではとんと聞かなくなってしまった。
 でも「セミの鳴き声は?」と聞かれれば、やはり「ミンミン」と答えてしまう。子供のころに習った「せみのうた」(さとう・よしみ作詞/中田喜直作曲)でも、全く何の説明もなく、セミの鳴き声は「ミンミン」に限定されていた。
 歌の出だしは「せみ せみ せみ せみ せ みんみーん」で、まるで「せ『み』」だから「みーん」と鳴くのだとでも言いたげだ。
 ……ただのシャレじゃん。でも、これ、ちゃんと語源説の一つとしてあるのよ。方言によっては「せーみ」とか「せび」「せんみ」「しみ」「すーみ」と呼ぶ地方もあるようだから、説得力ないわけではないのだね。
 ほかにも「セミ」の語源は、音読みの「セン」が訛ったものとする説があるが、この「セン」ってのは「震える」という意味なので、昔の中国人は、セミが腹を振動させて音を響かせていることをちゃんと知っていたのだ。おお、意外と科学的。
 さて、中国でも「セミ」といえばミンミンゼミを指すのだろうか。そのへんは実はよく知らない。
 ミンミンゼミは水のキレイなところにしか住めないということだから、明らかにその棲息区域は年々狭められているのである。もう何十年かしたら、すっかりアブラゼミに駆逐されてしまっているかもしれない。


 第125回直木賞に、藤田宜永(「よしなが」って読むんだ。……今まで「せんすい」って読んでたわ。うーむ)『愛の領分』が受賞。
 小池真理子さんと揃って、夫婦受賞ってのもお初だとか。でも実は私は、お二人の作品、全く読んでいない(小池さんのホラーにはちょっと興味があって何冊か買ってるんだけど、積ん読ならぬ埋もれ読になっている)。
 読んでない人の話をなぜわざわざ日記で取り上げるかというと、この二人が強烈な猫マニアだからなのだね。
 『文藝 別冊総特集 作家と猫』という雑誌で、自分たち夫婦がいかに猫が好きか、ってことを対談してたんだけど、まあ、ペット雑誌ならばともかくも、文芸雑誌でいったいどういう読者を想定しているのかわからぬままに、陽気に「猫話」に興ずることが出来ることに半ば呆れつつ、「これも猫の魔力か」と納得もしたのだ。
 普通、作家同士の結婚って、数年で破綻するものなのだが(←偏見だけど実例多し)、この二人、妻の方が先に直木賞を受賞し、しかも収入も妻の方が多いという、離婚にはもってこいの条件があるにもかかわらず(だから偏見だってば)、未だにおしどり夫婦で有名である。
 で、どうやらその秘訣(?)は「猫」にあるようなのだね。お二人がもし猫を飼っていなかったら、夫婦円満でいられたかどうか。いささか妄想は入っているけど、これ、意外と「文学的主題」ではないかと個人的に思っているのだね。

 そういう名称で呼んでいいかどうか分らないが、世には「猫文学」というものが存在する。
 エドガー・ポー『黒猫』は、猫文学の最高峰の一つだと思うが、あれは一言で言うと、ゴシックホラーと言うよりは、「猫好きの妻と猫嫌いの夫の悲劇」である。ハインライン『夏への扉』が『黒猫』にインスパイアされているという説を私は勝手に唱えているのだが、そういった骨組みで両者を比較してみると、結構通じるものがあるんじゃないかと思うの。
 面白いことに、男と女の間に「猫」が介在した場合、文学上そこには「悲劇か喜劇か」の両極端しか描かれないのだ。普通の「猫小説」と言うものは余りない。
 猫に見入られる、魅せられる、そう言ってもいいと思うが、猫に何か人間以上の神秘性を見出している結果が、そのような小説群を生み出しているのは間違いない。
 『吾輩は猫である』の猫は批評家であるし、『三毛猫ホームズ』の猫は探偵だ。これらは喜劇だが、悲劇に目を向けると、それこそ具体例は枚挙に暇がない。日本は特に「化け猫」が『南総里見八犬傅』を始めとして、妖怪モノの定番になっている。
 それは、猫の仕草、猫の瞳の変化、それらに我々が人間の無意識を投影し、象徴させてきた結果である。猫の瞳は、我々の心の奥を覗き見る。我々は猫の前で決して心を隠していることは出来ない。猫は「サトルの化け物」であり、また全てを見通す「神」でもある。
 だから我々は猫に対しては、心をゆだねるか、拒絶するかの二つの手段しか取り得ない。「悲劇か喜劇か」の原因はそこにあるのだ。

 科学が一応、我々の周囲から「不思議」を取り払ってしまったことは、昔のような単純な虚構を我々が生み出せなくなっているということでもある。
 私たちの周りには、人を化かすキツネもタヌキもいない。
 猫は、唯一今も残っている、実在する「妖怪」なのである。

 で、今度のウチのお芝居、「猫」話なわけです。しかも典型的な。
 この話に繋げるために今まで前振りしてたのでした。宣伝でどうもすみません。具体的な内容を書かずにお客さんに興味を持ってもらうって、大変なんスから、ほんとにもう。


 休憩するヒマもなく仕事が続く。
 こういうときゃテキトーに手を抜きゃいいんだろうけど(「手を抜く」という言葉、私ゃ別に悪い意味で使っちゃいない)、かえってハイテンションで仕事しちまうのはなぜだ。自暴自棄か。

 晩飯を作る元気も外食する気力もなかったので、コンビニ弁当を買って帰る。
 しげが喜んで私の分まで食おうとする。
 昼間、買い物して米だけでも炊いてくれてれば、私ゃオカズ作るだけですむのになあ。その程度の家事すらしないやつなのだ、こいつは。
 テレビで、幼児虐待して殺した夫婦のニュースを見ていると、「妻は家事を全くせず、家の中は汚く劣悪な環境にあった」とか言ってる。実際、ウチに子供がいたら、この部屋に住ませるだけで虐待行為になるのだということはよく分る。
 ……せめて毎日ゴミだけでも捨てろよ。


 ようやく今週の『少年ジャンプ』をコンビニで立ち読み(困った客だ)。
 『ヒカルの碁』、ついに佐為が消えてしまった。
 余りにも見事な消え方で、これは単に「ヒカルのそばからいなくなった」とか、「どこか別のところに行った」なんて中途半端なものではない。「虎次郎が佐為のために、佐為がヒカルのためにあったように、ヒカルもまた誰かのために生きるのだろう」……これは、明らかに「死」のイメージである。
 だとすれば、これは『ヒカルの碁』にとって、一つの正念場だ。
 ジャンプマンガのセオリーに則れば、佐為はこのまま消えたりはしない。ロビンマスクが、紫龍だったか誰だったかが(『星矢』は熱心に読んでなかったから覚えてないわ)、ピッコロがいとも簡単に復活したように、佐為も何らかの形で復活する。
 でも、たとえ佐為が幽霊であったとしても、『ヒカ碁』はあくまで現実の物語だ。物語のテンションを落とすまいとするなら、決して佐為を復活させてはならない。そういうところに、作者はこの物語を追い込んでしまったのだ。
 佐為がいなくなって、それで物語が続けられるのか、という意見もあろう。
 しかし、最重要人物がいなくなってもなおドラマとしてのレベルを落とさずに更に長期連載を続けたマンガがこれまでにもあった。
 ちばてつやの『あしたのジョー』、あだち充の『タッチ』。
 この二作は、はっきり、ライバルがいなくなったところから新たなドラマが始まっている。
 決して楽な道ではない。人気キャラに寄っかかっていれば、とりあえずの人気は取れて、連載を続けることはできるからだ。しかし、どんなにファンがついていようと、『キン肉マン』や『聖闘士星矢』や『ドラゴンボール』を傑作と呼ぶことはできない。それは、マンガファンとしての良心の問題でもある。
 作者にその良心があるならば、更に『ヒカ碁』が長期連載を試みるのならば、これからのドラマこそが、本当の『ヒカルの碁』の始まりとなるだろう。それは、ヒカルにとっても、作者にとっても、茨の道であろうことは想像に難くない。アホな編集なら「佐為はいつ再登場するんですかあ? そろそろ出さないと人気落ちちゃいますよう」などと言い出しかねないからだ。
 でも、そんなアホな要求に屈する作者たちではあるまい。そう信じられるのは、今までの、ある意味ジャンプのセオリーを崩しつつ、ここまできたという実績ゆえだ。
 ……正直言って、原作のほったさんが、こんなところにまでドラマを追いこむとは思ってもいなかった。……まだまだ私の見方は甘かったのだなあ。
 世のマンガファンよ、端倪すべし。


 マンガ、南Q太『夢の温度[夏祭り]』。
 前々から読んでみようかどうしようかと気になってた南Q太。
 先日読んだ『20世紀少女マンガ天国』で、「かわいい女の子が激しくセックスするマンガ」とミもフタもないことを書かれていたので、かえって面白いんじゃないかとまとめて作品集を買い込んでみたのだ。
 こういう「賭け」に近い衝動買い、言ってみれば私の「カン」なのだが、結構このカン、外れない。
 うん、アタリでした。今まで読まずにすませていたのがもったいなかったなあ。これはイイよ、ほんとに。

 とりあえず、「かわいい絵でやりまくり」という印象は本作にはなかった(^.^; )。
 南Q太の絵は、明らかに江口寿史の流れの上にある。ヨシモトヨシトモやガロ系の漫画家もちょこちょこ入っているようだが、均質な線で描かれる人物、ハイライトの少ない目、引き結んだ口を表す下唇の線などは特徴的だし、主要キャラ以外の人間をこれでもかというほどにブサイクに描くあたりの差別性も江口風だ。おかげで、その絵だけで主人公たちのセックスが純愛に見えてしまう効果がある。実際、ドラマ的にもある意味純愛ではあるんだけど。

 28歳までずっと処女のままの教師、町子。周りの独身男はダサイというよりは汚らしく気持ちの悪いヤツばかり。少し頭がコワレかけている母親からまで結婚を迫られて、本当になにげなく、町子は教え子のアキと関係を持つ。
 「淋しくて誰でもよかったのかも」
 そう呟く町子だったが、ここまでは、従来のマンガにもよくあるように、「赤い糸」で結ばれた相手を求めるオトメの陥りやすい罪悪感。これからあと、それこそありきたりのマンガなら「本当の恋人はこの人だわ」と思いこもうとするか「私の運命の人は他にいるわ」と旅に出るかするものだが(笑)、本作は違った。
 ムズカシイことを考えることはやめて、ただヤルよーになるのだ。おいおい(=^_^=) 。

 でも、そんなもんでもいいよな。男と女の仲って。

 差別的かもしれないが、顔がよければ男と女の壁なんて結構、乗り越えられる、ということでもある。外見だけじゃ駄目、なんて言うから話がコムズカシクなるんであって、顔だけでいいじゃん、ということになれば拘りはグッと減ったりもするのだ。
 進歩的と呼ばれるような女性が、どんなに「誰でもよかった」に対して、拒否感、罪悪感を抱こうと、事実は男と女は「誰でもいいから」相手を選んでいるのである。
 逆に、相手を「誰でもよくない人」「唯一の人」なんて認識したりすると、男と女の不幸は始まってしまうのだ。
 モラルとか思いこみを捨てたところからしか恋愛は始まらない。大島渚の『愛のコリーダ』がただただセックス描写のみが続くにもかかわらず、世間の通念とは違って堂々たる純愛映画になっていたように、セックスはそれだけで愛となるのだ。

 それで今、ちょっと思いついたミニ小説。

 何となく振り向いたぼくと彼女の声がはもった。
 「ねえ、しよ」
 プッ、と噴き出して笑ったあと、ぼくたちは二回、セックスした。

 ……たった三行だけど、ちゃんと小説になってるなあ。うーむ、セックス恐るべし。
 

 マンガ、臼井儀人『クレヨンしんちゃん ファミリー編』。
 コンビニ用の雑誌マンガ。
 単行本、持ってるのにわざわざ買ったのは、プレゼント付き、と書いてあったからだったが、よく読んでみると「抽選で500名」だった。
 クソ、表紙に騙されたぜ。
 でも同じテーマの作品ばかり集めると、ルーティーンギャグの変遷もわかって面白かったけど。「『しんちゃん』を読んだことない」って人にはまずこの雑誌を読ませるというのも手かも。



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