無責任賛歌
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| 2003年07月14日(月) |
「心ある」ということ/『GUNSLINGER GIRL』1・2巻(相田裕)ほか |
「WEBアニメスタイル」に、11日付で、「クオリティは誰のため」と題して、小黒裕一郎さんの以下のエッセイが掲載されている。
> 先日、知人の脚本家に「TVアニメの数は増えた増えたと言われるけれど、不思議とクオリティは落ちないな。むしろ上がっているんじゃないか。どうしてだ?」と訊かれた。言われてみれば不思議な話で、確かに10年前、20年前のアニメと比べれば、画が綺麗になってきている気はする。どこの現場も人手が足りないと言っているのにクオリティは上がっているのか。一瞬、僕も納得してしまったけれど、実はそうではない。アニメーションとして全体のクオリティが上がったわけではないのだよね。正確には、キャラクターの画が整うようになったのである。昔は各話毎にキャラクターの画が違うのが当たり前だったけれど、最近はそういったバラツキが減っている。話の中でも担当アニメーターによる、作画の凸凹が無くなってきているはずだ。全体にキャラクターの画が統一されているので、クオリティが上がったように見える。 で、キャラクターの画を整える事に労力が注がれて、他の部分は弱くなっているというわけだ。最近、TVアニメで「おっ」と驚く作画や表現を目にする事が減ったのは、そのためでもあるのだろう。芝居は最低限何をやっているかが分かればいいや、とか、そういう感じになっている現場も多いのではないか。余計な事をやっているヒマはないよ、てな感じなのだろう。いや、勿論、それは全然余計な事ではないのだ(厳密に言うと、キャラクターの画以外の部分が弱くなっている理由はそれだけではない。表現の画一化等の理由もあるのだが、それはまた別の話題)。 各話のキャラクターを統一させる、という事はビデオメーカーが制作現場に望んでいる事でもある。前に制作会社のPDから、ビデオメーカーが各話の画の統一をするように言われて、それができるシフト(総作画監督が全話全カットのレイアウトに手を入れる等)を組んでいるという話を聞いた。それが商品としてのセールスポイントなのだ。ビデオメーカーでもユーザーでも「クオリティ=キャラクターの画の統一」と思っている人が多いのだろう。 この傾向が続くのが厭だと思う、心あるアニメファンは「それだけじゃつまらないぞ」と声を大にして主張するべきだ。
こういう作品批判を含むエッセイの場合、プロである小黒さんの、これからもそれらの作品に関わるスタッフと付き合っていかねばならない立場を考えれば、具体的な作品名を出せない事情もわかりはするのだが、その分、批評性は薄まってしまう。 全てのテレビアニメ作品が「キャラクターの画を整える事に労力が注がれて、他の部分は弱くなっている」のではない以上(例えば『プリンセスチュチュ』で毎回猫先生の身もだえの表現を変えて作画し続けたスタッフの努力とか)、「弱い」作品のいくつかを挙げた方がいいに決まっている。 「心あるアニメファンは」という呼びかけ方はなんだか「オタクエリート主義」を彷彿とさせてちょっと乗りにくいのだが(もうオタクをエキスパートのように語って地位向上を図るのもかえってオタクのためになるまい)、単純に「そんなアニメじゃDVDになっても買わねえぞ」と文句つけるくらいのことは、ファンなら「自由に」語っていいのではないか。
私も最近はあまりテレビアニメをチェックできていないのだが、例として『明日のナージャ』のデザイン、表情のつけ方が「どれみもどき」になっているのが気になった。細田守演出以外の回は「芝居は最低限何をやっているかが分かればいいや、とか、そういう感じになっている」と言われても仕方がないような回も散見する。CG、デジタル処理を施すなら、単に画面奥への動きを表すのにラクだから使ってる、と感じさせるような表現は避けてほしい、とも思う。 『アトム』はキャラクターの表情や演技には毎回感心させられるのだが、シバリがあるせいか脚本に一つ芯が通っていない。なにもアニメ後進国のアメリカに迎合しなくてもいいと思うんだが。『デジキャラット』に至っては論外である。 ああ、『らいむいろ戦記譚』はひどかった。あかほり系など、ゲームと連動したアニメは総じてヒドイし、『ハッピーレッスンアドバンス』などの「男の子一人に美少女いっぱい」パターンのものには「新しいモノ」が殆ど見出せない。ああいうものに萌え萌えなファンはアニメの何を見ているのかとも思うのだが、ナニが見られればそれだけでいいのかもしれない。 ああ、こういう美少女系大量生産に先鞭付けたの、KSSだったよな。元凶は『女神』か。確かにアレはキレイだったけれど、よく見ると「止め絵」の演出で見せるテクニックが上手いんだった。当時はハイ・クォリティアニメとか言ってたけど、実はそう見せかけてただけってことか。
……なんだか一気にテキを増やしちゃったような気もするが、そのテキさんは本当に作品のミカタなのだろうか。 よく、「作ってる人だって頑張ってるんだから、簡単に批判するものじゃない」とか、「腹が立つなら見なきゃいい」とのたまう方がいらっしゃるが、作品は誰にでも「開かれているもの」であることをご存知ないようだ。言論を封殺され、批判を閉ざされた作品に未来はない。クロサワもミヤザキも批判されなかったことはないのである。作品を誉めるのは簡単だが(手塚治虫を「ヒューマニズム」だけで語るとか、ディズニーを「夢と冒険とファンタジー」で語るとか)、貶すのには技術がいる。誉めるのに根拠は要らないが、批判には客観性が不可欠なのである。 ファンが作品に対して、ナントカセミナーみたいな内輪ボメするような態度で接したって、端から見れば気色悪いだけなんだよ。
なんだかなあ、なニュースが一つ。 先日、アメリカのコミック出版社マーベル・エンタープライジズが、月刊誌『X-Statix』に連載予定の『Di Another Day』の中に、超人的な能力を持つミュータントの集団の一員として、イギリスの故ダイアナ元皇太子妃をモデルにしたスーパーヒーローを登場させると発表した。けれど10日になって、結局その計画を取り止めた。 この計画が伝えられた時点で、イギリス王室は「元妃の名声とその悲劇的な死を金もうけに利用しようとするもの」だと強い不快感を示していたとか。でも王室だけじゃなくて、同様のクレームが一般からも相当数寄せられたんじゃないかと思う。世の中には「やっちゃいけないこと」があると思いこんでる人って多いし。 批判なんて来ないだろう、なんて甘いことをマーベルが考えていたとしたら、ひどくお粗末な話だ。「別にからかってるわけじゃなくて、スーパーヒーロー(「ヒロイン」と言わないのはやっぱり人権関係なのかな)だからいいじゃん」、なんて発想だったら、ホントに馬鹿だよ。相手、王室なんだけどねえ。唯我独尊な人たちにとっちゃ、ヒーローだろうがミュータントだろうが、「格下」にしか見えないことなんて解りきってるじゃん。 でも不謹慎なものが好きな私としては、これがもし実現してたら、いったいどんなものになったか、ちと見てみたかったのだが。更に不謹慎なことを言ってしまえば、商業ラインじゃムリとしても、同人誌かなんかで、日本の皇室の方々をキャラクターにしたヒーローものとか、誰か書かんかね。もちろんそのあとどういう運命がその人に見舞うかは知ったこっちゃないが(^o^)。
来年公開予定の庵野秀明監督作品、実写版映画『キューティーハニー』のハニー役、佐藤江梨子のコスチュームが昨13日に初めてのお披露目。 まあ、あのタヌキ顔のどこがハニーだとは確かに思うが、マンガの実写版なんて、どんなにイメージに近い役者を集めたって、絶対どこかがイビツになってしまうものなのである。『キャッツ・アイ』なんて、キャストだけならもうドンピシャで内田有紀、稲森いずみ、藤原紀香なんだけどねえ。もっともあまりの悪評に私ゃまだ見てないんだけど。 今まで永井豪の映像化作品で「これはいい!」と本気で思えた作品なんて数えるほどしかない。飯田馬之助監督の『デビルマン/妖鳥シレーヌ編』『CBキャラ永井豪ワールド』くらいのものか。永井豪作品の破天荒なまでのスケールの大きさは、それをテレビや映画のフレームの中に収めようとすること自体、不可能なことなのかもしれないと思ってしまう。 しかし庵野監督は、ハニー役に誰も予想もしなかった「サトエリ」という超変化球・エビぞりハイジャンプ大回転分身魔球なみを持って来た。これはもう完全に狂っている。島耕作にトシちゃんというのは大馬鹿だが、ハニーにサトエリというのは狂気だ。これはもしかしてもしかするかも。 今度の映画、原作のパンサークローとの戦いという基本コンセプトだけ残して、ほかの設定は殆ど無視してオリジナルでいくもののようだ。ハニーの職業は派遣OL、ということだが、披露された寺田克也デザインのコスチューム、青いワンピースに白いラインが入ってるだけで、印象はコミケの安いコスプレねーちゃんなんだが、それがかえっていいんじゃないか。変身後のキューティーハニーのケバさと好コントラストである。 なんでもコスプレは「30種類以上ある」とかで、「日本映画最多のコスプレ」だとか(^o^)。そりゃ、そんなアホなことやろうって映画人が今までいなかったんだから日本最多に決まっている。庵野監督、これは明らかに初めから「B級・C級テイスト・馬鹿映画」を狙っている。いや、更に意表を突いて、急転直下、あのデザインなのに超マジメな映画を作ってしまうか。ともかくどんな出来になるかこれだけ予想のつかない映画も珍しい。「何やってんだ庵野」と思う人もおられようが、少なくとも無難な映画にはなりそうもない。期待していいんじゃないか。
テレビ『子連れ狼』の第2話「一刀危機一髪!! 獣たちに監禁された男と女!!」を見る。 若山富三郎主演の映画版の第一作『子貸し腕貸しつかまつる』の原作ともなったシリーズ中屈指の傑作『鳥に翼 獣に牙』を元にしているが、原作の暗いムードが随分爽やかな印象に変わってしまっていて、面白くはない。 温泉場に監禁された一刀(北大路欣也)が、「とびっちょ(無宿人)」たちに枕さがしのおりん(大沢逸美)とナニしろと嗾けられるシチュエーションがなくなっている。代わりに「三べん回ってワンと言え」って……。なんかえらく優しい悪人さんたちだこと。昔の萬屋錦之介版テレビでもしっかりナニはしてたのだから、コードに引っかかることはないと思うのだが。テレビはどんどん腑抜けて行くのだなあ。 原作にない、侍の三沢市之進(ひかる一平)とその妻・雪乃(寺田千穂)の設定は黒澤明の『羅生門』、金沢武弘と真砂からの換骨奪胎。これもよくあるアレンジで新味がない。寺田千穂の涼やかな美人ぶりは印象に残ったけれども。
続いて『TVのチカラ』。 行方不明の娘さんを、お母さんが霊能力者、超能力者に探してもらう様子をドキュメント……なんだけど、これがヤラセ番組でないとしたら、テレビスタッフも酷なことをしてるものだ。 ノーリョクシャとか言ってる連中、「男に連れ去られた」とか「湖が見える」とか「もう死んでる」とか、ふざけたことばかり言ってるのである。失踪事件とくれば「自分で消えた」か「誰かに連れ去られた」か、どっちかしかないじゃん。長いこと姿を見せなければ、死んでる可能性が高い。場所はたいてい山の中とか湖だ。連中の言ってることって、「いかにもありそうな」可能性を並べたててるだけだ。つーか、クロワゼットも同じこと言ってたよ。 親にしてみればワラをも掴もうって心情だから、「生きてる」「死んでる」(イタズラっぽい自称「本人」からの電話まであった)って状況に一喜一憂してるんだけど、番組スタッフはあのノーリョクシャたちを本気で信じてるのか? 信じてやってるとすれば、その姿勢はオウムと同質のものだし、信じてなければ親の気持ちにつけこんだ詐欺行為だ。 昔からこの手の番組、忘れたころに作られてるけど、局は「いくらなんでもこれはマズいだろ」って気がつかないのだろうか。ただのバカならまだ救いがあると言えなくもないけど、なんだかそうじゃないような匂いがして、イケスカナイのである。番組タイトルの「チカラ」がカタカナなのも胡散臭いよなあ。
マンガ、相田裕『GUNSLINGER GIRL』1・2巻(メディアワークス/電撃コミックス・578円)。 オビの「アニメ化決定!」の文字に釣られて購入。 ああ、これももっと早くに読んでいたかったなあ! 人に本気で奨められる作品なんて、実のところそう多くはないのだけれど、これはいいぞ! 表紙を見ると、美少女が銃を持っていて、その絵はいわゆるアニメ絵である。となると、もう腐るほどある「美少女が武器持ってドンパチやる」ありふれた作品のように見えてしまうのだけれど、これが全然違うのだ。少なくとも宮崎駿に叱られる可能性は絶対にない(^o^)。
「少女に与えられたのは、大きな銃と小さな幸せ。『義体』と呼ばれる機械の体、薬による洗脳。居場所を求め銃を手にした、少女たちの物語が幕を開ける……。」(オビより)
舞台はイタリア。「公益法人社会福祉公社」という名前の組織に、5人の少女たちが所属していた。 ヘンリエッタ、リコ、トリエラ、クラエス、アンジェリカ。 彼女たちにはみな一様にここに来るまでの記憶がない。そして彼女たちのここでの仕事は、政府のための「汚れた仕事」、つまり「暗殺」であった。 「公社」は、身寄りがなく、居場所を失った障害者の少女たちに「義体」を与える。パートナーとなる「フラテッロ(兄弟)」は彼女たちの指導官としての役目を果たす。彼女たちは薬によって、人間としての感情を無くし、殺すことを躊躇わず、パートナーに愛情を注ぐように「条件づけ」を施されていた。 だから、彼女たちの「感情」も作られたもののはずだった。いや、たとえ作られたものであっても、それが「心」でないことがあるだろうか。 「もしも誰かを好きで好きでしょうがなくなって、それでも永遠に満たされないとわかってしまったら」。 答えの出ない疑問を、少女たちはその身を血の衣装に纏いつつ、自らに問いかけ続ける……。
いきなり『寄生獣』の話にリンクさせてしまうが、あの作品で一番おもしろかったのは、寄生生物の思考に影響されて、新一の心から「感情」が一時期失われていくところであった。 「新一」という「人間」が消えたわけではない。しかし、彼の心から感情が失われ、涙を流せぬ自分になっていることに気づいたとき、彼自身もまた自分が人間でありえるのか、悩むことになった。自らの心が「不完全」なゆえに悩むのである。 しかし、「完全な心」などというものはありえるのだろうか? 我々は実のところ、「不完全な心」を重荷のように抱えて右往左往しているだけの存在ではないのだろうか。 『鉄腕アトム』が、『人造人間キカイダー』が問いかけてきた疑問を、『寄生獣』は途中で放り投げた。けれど、この『GUNSLINGER GIRL』は、その問題に正面から挑んでいるように見える。 「壊れたカラダ」を「修繕」してもらった代償として、「不完全な心」を植えつけられた少女たち。だから彼女たちの感情表現はいつも「イビツ」だ。ある者はストレートにその愛情をパートナーにぶつける。ある者はパートナーの「道具」に徹する。ある者は拗ねる。ある者はパートナーを思うあまり、「最後」の方法を取る。 彼女たちは自分がどうイビツなのか、認識する力がない。だからその思いはとめどなく深化し、彼女たちの心そのものを押しつぶしていく。彼女たちよりは恐らくより「完全に近い」心を持っているパートナーたちは、それゆえに悩む。しかし答えが出るわけではない。結局、洗脳されたわけでもないパートナーたちも「完全な心」などは持っていないことが示される。そして、それは私たち読者も同じことなのである。 彼女たちが、自らの運命をどこに置くことになるのかは、結局誰にもわからない。私たちは彼女たちの運命の流れ着く先を、ただ呆然と見続けることしかできないのである。
2002年07月14日(日) 劇団始動……か?/『電人ザボーガー』1・2巻(一峰大二)/『カムナガラ』4巻(やまむらはじめ)ほか 2001年07月14日(土) シナリオ完成!/『クレヨンしんちゃん』30巻(臼井儀人)ほか
| 2003年07月13日(日) |
虚構に生きる人々/DVD『プリンセスチュチュ 雛の章』/『Go West!』1巻(矢上裕)ほか |
また訃報。 俳優・小松方正さんが11日に、糖尿病による敗血症のため死去。享年76。 同じ糖尿だし、なんだか身につまされてしまうのだが、つい、76まで生きられたら充分かも、なんて不謹慎なことも思ってしまう。でも四十そこそこで足切ったりしてる人も見てるしなあ。最近は私も長いことキーボード打ったりしてると指先が痺れたりするようになったんだけど、どこまで持つかな。 晩年の小松さんの、闘病中であることが明らかなやつれ具合を見ていると(ベッドで管だらけになっている様子が写真週刊誌に載っていたこともあった)、壮年期はあんなにアブラギッシュだった人もこうなってしまうのかと、そぞろ物悲しい気分にさせられたものだった。 往年のテレビ番組、『キイ・ハンター』とか『アイフル大作戦』『バーディ大作戦』とかのアクションものにゲストで出るときには、たいてい野際陽子や大川栄子に絡んでくるスケベ親父とか、怪しい外国人の役とかを演じてて、私の心の中ではすっかり「スケベな悪役=小松方正」という図式ができあがっていたのだった。も一つ、映画『ハレンチ学園』で荒木又五郎(丸ゴシ先生)を演じてたこともその印象を強めてる原因かもしれない。 もっとも小松さんの代表作を『ハレンチ学園』にしちゃ申し訳ないのだけれども。
長崎の駿ちゃん誘拐殺人事件の関連記事。 福島市立福島第三中学で、社会科の30代の男性教諭が、犯人の少年と称してインターネット上に掲載された顔写真を印刷して、公民の授業中に生徒に回覧していた。 その教師の釈明というのが、「新聞は少年を匿名としているのに、ネット上では人権侵害が日常的に行われていることを知らせようとした」ってなもんである。 これを聞いて多分、誰もがどうにも理解に苦しんだろうと思うのだが、「人権侵害の証拠をそのまま回覧したらそれも人権侵害になるじゃん」ということ。ご当人も、「軽率な行動で自ら人権侵害に当たるようなことをしてしまった」と反省しているとか。 あまりにアホなんで、もしかしたらこの人、本当は「加害者の人権なんか守ってやる必要があるか。みんな犯人がどんなやつなのか知りたがってるんだから、俺が教えてやる」とかなんとか考えて回覧したところ、意外に強く突っ込まれちゃって、慌てて「人権侵害の一例で」と言って誤魔化したんではないか、と穿った見方もしたくなる。
私自身は、犯人の写真や名前を公表しても無意味だ、と考える立場の人間なのだが、「犯人晒せ」と主張する人々の心情を興味本意だとかヒステリーだとか言って排撃するつもりもない。加害者の顔など知りたくもない、と仰る方は、日頃よっぽど人を信用して生きているのであろう。世間の大多数の人々はそこまでノーテンキではない。 「12歳の少年」とだけ聞けば、どうしても一般化された「かわいらしい中学生」のイメージが先行してしまう。実像はどうなのか、自らのイメージとの差異を確認し、修正を試みたいと思う心情は、当然起きてしかるべきなのだ。「生きる」という行為の途上では、自らの拠って立つところを常に確認しておかなければ、次々に襲いかかって来る不安に押しつぶされてしまいかねない。ただ「12歳の少年」というだけなら、我々の日常に掃いて捨てるほど見かける存在ではないか? 隣にいるその子が急に犯罪者に変貌するのなら、日々の生活に恐怖を住まわせてなお恬淡として構える覚悟を強いられているに等しい。それに耐えられる人間ばかりで世の中ができあがっているわけではないのだ。 犯人はどんなやつなのか、本当に12歳なのか、12歳と言ってもよっぽど特殊なところがあったのではないか、肉体的にも精神的にも何かケツラクしたところがあったのではないか、親の育て方が悪かったのではないか、少なくとも私のこの子はあの12歳少年とは別の安全な存在である、などなど、犯人を差別化することでなんとか自己の安定を図ろうとするのも無理からぬところなのである。ちょうどM君事件が起きたときに、大多数のオタクが「Mはオタクではない」と自らとの間に境界線を引いたように。 けれど、それは結局は欺瞞なのである。子供は天使ではない。私が「顔を公表しても無意味」というのはその点にあるので、どんなに当該少年と、「私の子」との差異を比較したところで、その子が加害者になることはない、という証拠にはならないのである。危険を含まぬ子供などいない。 「子供を作ること自体が恐怖」。 それは昔から変わらぬ現実だったと思うのだが。「物語」の中に生きてるのは今のオトナたちのほうだよねえ。
アニメ『金色のガッシュベル!!』第14話「おてんばティオとアイドル恵」。 話はもうアレなんだけど、声優さん誰かなと思って見てみたら、恵の声、前田愛でやんの。急に声優づいてきたなあ。まだまだ「前田愛だ」と言われなければそうと気がつかないくらい目立たないのだけれど、成長期なせいか、ちょっと太ってきているから、顔出しをしばらく避けるというのも手かもしれない。
アニメ『鉄腕アトム』第14話『ミクロの大冒険』。 フーラー博士の登場、ミニアトムの活躍、という点は原作「コウモリ伯爵(原題/ミイラ伯爵)」からの拝借だが、ストーリー自体は全くの別モノ。吸血鬼ペダン博士は登場しないし、フーラー博士は「ミニミニ博士」と名前を変更されている。“Fooler”じゃ、グローバルスタンダードにそぐわなかったんですかね。 ウランの体内に入るという話は、非アトム作品の『吸血魔団』を原作としている。手塚ファンならよく知ってる事実であるが、この原作は旧モノクロシリーズの『鉄腕アトム』で『細菌部隊』としてアレンジされ、アメリカでも放映された。これをパクッて映画にしたのが『ミクロの決死圏』。だから今回のアニメ化は「原作を取り返した」格好になる。 もしもアメリカの半可通なSFファンがこの回を見て「『ミクロの決死圏』のパクリだ!」とか言い出したら、「どっちが」と言い返せて面白いのだが。
そろそろ買ったまま見てないDVDを見ねばなるまいと、『プリンセスチュチュ 雛の章』を最終回まで一気に見る。半日がかりだ。 おおお、あれがああしてこうなったか。 ついに復活する大鴉。 心のカケラを取り戻したと思われていた王子・みゅうとだったが、そのカケラはクレールの手によって、大鴉の血に浸されていた。 大鴉の化身と化していくみゅうと。ドロッセルマイヤーの書いた「物語」のために、決して王子を守ることができない騎士と、決してその恋が報われることのないプリンセスの運命を与えられているふぁきあとあひる。 運命を変える手段を懸命に模索する二人の前に現れた少年、あおとあは意外な秘密をふぁきあに告げ、運命の歯車を変えさせまいと、かつてドロッセルマイヤーの腕を切り落とした「図書の者たち」が暗躍し始める。 そして自らの出自を知らされたるうは、「プリンセス」になることができないおのが運命に絶望する。 第一部『卵の章』にも増してシリアスなストーリー展開なのだけれど、決して印象は暗くない。それはもう、愛の求道者・猫先生の捨て身のギャグ(^o^)によるところも大きいけれど、近頃のアニメには珍しく「運命に立ち向かう」キャラクターたちを本気で描いてるからだろう。 そして全編を彩るクラシック曲の数々。『展覧会の絵』『真夏の夜の夢』『動物の謝肉祭』などなど……。もちろん、最終回、ラストを飾る曲は『白鳥の湖』。「感動」というのはこういう作品に与えてこそふさわしい評価だ。 果たしてあひるは王子を救うことができるのか? 見るのを楽しみにしてる友人がいるので、ラストは書かないけど、最近の宮崎駿アニメよりよっぽど泣ける(つか、宮崎アニメで泣いたことはないんだが)。もう滂沱よ(ToT)。 これはこの話で終わるとしても、ドロッセルマイヤー・シリーズとして続けることは可能だな。何年か後に「またそれは別のお話」として続けてくれると嬉しいんだけど。
マンガ、矢上裕『Go West!』1巻(メディアワークス/電撃コミックス・578円)。 「オタクならこういうのは当然読んでるでしょう」と言われることも多いのだが、すみません、私まだ『エルフを狩るモノたち』、読んだことないんです。アニメはチラッと見たことあるんだけど。だから全てのアニメ、特撮、ドラマ、映画、小説、マンガを読むことなんて不可能だってば。 でも、以前から矢上さんに興味はあったので、「1巻」ということもあって購入。こういう衝動買いに近いものは当たり外れが大きいのだが、その結果はと言うと……いやあ、久々の大ヒット。 ここは西部、と言っても、現実の開拓時代とはちょっと違った、パラレルワールド風の世界。 行方不明の両親を求めて、裸一貫、新大陸へと渡った18歳の元気少女・ナオミ。まずは西へ進むために必要な道具や、「馬」を探し始める。彼女が偶然出会ったのがガメラ(出るんだよ、なぜか)……じゃなくて、西に向かって一直線にしか進まない暴れ馬・レッド・バレット。誰も乗せないはずのレッドはなぜかナオミを気に入ってしまい、むりやり背中に乗せて一路西を目指す。 しかしまだまだナオミには足りないものがある。それは身を守ってくれる用心棒。荒くれだらけの西部では、いかにナオミに度胸があっても一人ではとても生きていけない。一直線に突っ走るレッドが辿り付いた街には、二人の男がいた。怪しいアフロヘヤーのお尋ね者の黒人と、彼を狙う賞金稼ぎの白人ガンマン。ところが二人はナオミを見た途端に涙を流して叫んだ……。 ……と、ここから先はぜひマンガを読んで確かめてもらいたいので隠しておこう。いやあ、この手のムリヤリギャグは私は大好きだ。絵も上手いけど、コマワリが抜群で、ギャグの「間」を作っているのだね。これはもうオススメの一冊なんである。
2002年07月13日(土) 病院への長い道/『エンジェル・ハート』4巻(北条司)ほか 2001年07月13日(金) ふ、ふ、ふ、ふ○こせんせぇぇぇぇぇ!/『悪魔が来りて笛を吹く』(横溝正史・野上龍雄・影丸穣也)ほか
| 2003年07月12日(土) |
AIQ(オタク・アミーゴス・in・九州)始末/DVD『ノストラダムスの大予言』 |
福岡市中央区で、26歳の女性をめぐって、74歳の老人が71歳の老人をナイフでメッタ刺しにしたという事件。 某新聞の記事が、まんま面白いので、ちょっと引用してみる。
> 26歳女性をめぐり、74歳男が同じアパートに住む71歳男性をナイフでメッタ刺しにしたとして殺人未遂容疑で福岡県警に逮捕された。ざっと半世紀年下の女性との色恋ざたで刃傷沙汰を起こしたり、メッタ刺しにされても命に別条はなかったり…事の善しあしなどは別として、70代とは思えない元気さ強さを見せつけた。
「半世紀年下」「メッタ刺しにされても命に別条ナシ」「事の善しあしは別として」「元気さ強さを見せつけた」とか、やたら誉めてませんか(^_^;)。 なんだか「やったぜ70代!」ってエールを送ってるみたいで、最初から「事件を笑おう」という姿勢があらわになってるねえ。 テレビの報道はまだ普通の事件扱いしてたんだけど、さすがサ○○○(^o^)。 > 2人合わせて145歳。色恋をめぐる刃傷沙汰に年齢は関係ない!? 逮捕されたのは福岡市中央区の山口林容疑者(74)。
合わせてどーする(^_^;)。きんさんぎんさんかい。
> 福岡・中央署の調べだと、独り暮らしの山口容疑者は11日午後8時前、同じアパートにやはり独り暮らしの無職、田中実夫さん(71)の部屋に押しかけ、手に握り締めたサバイバルナイフを田中さんめがけて突き出した。田中さんが倒れ込んだ後も刺し続け、傷は胸や腹、首の十数カ所に及ぶ。
ナイフとはサバイバルナイフでしたか。 一昔前はこういうのはデバ包丁と相場が決まってたんだけれど、26歳と付き合うだけあって、こんなところにも気の若さが(ちゃうって)。 けど「手に握り締めた」って描写の仕方にも、「老人力」(意味違うけど)を演出しようとする執筆者の心意気が感じられる。
> その後1時間余りして山口容疑者は「部屋にけが人がいる」と119番通報。この間、田中さんは自室に倒れたままで、救急隊が駆け付けたときには本人も周囲も血まみれ。それでも意識が残っていた田中さんは救急車で運ばれながら「山口に刺された…」とうわ言を発していたという。
えーっと、「1時間」後にって、それまでずっと刺し続けてたってこと? それとも何度か刺したあと休憩したのかな? 二人は何か会話をしたんだろうか。 そのこととも関係するんだろうけど、「119通報」したっていうのがまたよく分らないね。殺すつもりが急に恐ろしくなって助けようとしたんだろうか? それとも刺しても刺してもなかなか死なないので、根負けしたのかな? 案外、ただ単にボケてただけだったりして(^o^)。 > 一方、現場アパートにいた山口容疑者は、同署員が事情を聴いたところ「自分が刺した」とあっさり認めたという。 > 調べなどによると、今回の刃傷沙汰の原因は26歳の女性。山口容疑者はこの女性と交際していたが、2人の関係に田中さんが何らかの形で関与したらしい。このため激高した山口容疑者が凶行に及んだ。同署ではこの女性からも「三角関係」の有無を含めて詳しく事情を聴く方針だ。
何がきっかけで付き合い始めたのかを知りたいな。 こういうのはたいてい『金髪の草原』みたいにホームヘルパーさんとってのが多いんだろうけど、元気のいいお爺ちゃんみたいだから、「出会い系サイト」の可能性もアリだな。 「田中さんが何らかの形で関与」なんて書き方をしてるところを見ると、どう関与したかはもう分かっているのだろう。隠さないでちゃんと教えてほしいものだ。こうなるともう「合コンで知りあった」とか言われても驚かないぞ。
> 田中さんは十数カ所の刺傷に出血性ショックも加わり重傷だが、幸い命に別条はないという。
重症でも「命に別条がない」ってのがやっぱりすごい。 刺されてる間、全く抵抗はしなかったんだろうか?
> 厚労省によると、昨年の日本人平均寿命は女性85.23歳、男性は78.32歳と過去最高を更新。「いかに元気に老後を過ごすか」が長寿時代の課題になっているが、山口容疑者は元気過剰。一方、田中さんは強靭な体力で一命を取り留めた。
いきなり平均寿命を引き合いに出してくるのもヘンだけど、この二人が「いかに老後を過ごすか」の課題として恋のさやあてを仕出かしたような決めつけ方もいい味。上原謙対上原謙(^o^)。
> 捜査関係者は「70代男性が50くらい女性と交際というのは聞いたことあるけど、20代とは…」とア然としていた。
川田順の「老いらくの恋」は60代と40代だったな。 けど、70代と20代の関係ってのも結構あるんじゃないかな、「ア然とする」ほどのことじゃないと思うが。 「老後の性」って、日本文学のテーマの一つだったりもするしね。川端康成の『山の音』とか、谷崎潤一郎の『鍵』『風癲老人日記』。 1972年にガス自殺した川端康成の少女との恋愛は、臼井吉見の『事故のてんまつ』にすっぱ抜かれたけど、まあ若い頃から少女趣味だった人だし、まるで意外性がなかったね。……てことは私、九歳の頃にはもう『伊豆の踊子』読んでたのか。ビックリ。
午前中、眼科で再び目を見てもらう。 治療後の経過、とりあえず裂孔は広がらずに収まっているとのこと。相変わらず紐はぶらさがってるし、光が時折目の下を流れてるんだが。 次の検査はまた2週間後。
夕方7時から、エロの冒険者さんの事務所で、AIQの精算会。 AIQはこれで一旦解散して、次回があるとすればまた再結集ということになるが、さて来年があるかどうかは正直なところ分からない。オタクアミーゴスのお三方も、それぞれの拠って立つところが随分ズレてきているのは最近の活動を見ていれば見当がつく。 唐沢俊一さんもいつぞや日記に書いていたが、「ネタを紹介する形」でのオタクアミーゴスの活動はひと区切りついてしまっているのである。
「地方発信の文化がもっとあっていいのではないか」と唐沢さんは仰っていたが、福岡・博多は、戦後は東京追従型の文化を築くことで復興を果たした経緯がある。だいたい「オタアミを福岡で」というのも東京文化の移入だ。これまで五回、オタアミを開催してきて、お客さんに「ネタの提供を」と呼び掛けてきたが、福岡の観客からは全くと言っていいほど反応がなかった。福岡のオタクは薄いと言われても仕方がない。 みんな、よそからのカリモノだけでも、充分に楽しいのだ。福岡では、今や独自の文化を発信して客を寄せることは殆ど不可能なくらいに伝統が断絶してしまっている。私がしょっちゅう「博多は」「博多は」と口角泡を飛ばして言ってるのは、実のところ『大鏡』が貴族文化の終焉をひたすら懐かしんで「昔はよかったなあ」と愚痴っていたのと同じく、ただの老人の繰り言でしかないのである。 「そんなことはない、博多にだって新しい文化は生まれている」と主張する人たちもいるかもしれないが、私にはとてもそうは感じられない。例えば福岡には、地元劇団が東京に匹敵するほどに数あると思われるが、博多を舞台にし、博多弁で演じられている芝居はほんの一部だ。確かに今の若い人たちは博多弁を使わなくなってきているが、でも共通語に完全に転化してしまっているわけではない。なぜ自分たちの言葉で物語を語ろうとせず、共通語もどきの芝居ばかりを作り続けているのか。それが「新しい文化」と言えるのか。博多座の公演だって、殆どが東京の舞台の巡回である。 「山笠」や「放生会」、「博多にわか」なんかをネタにして「オタアミ」と絡めることが果たして可能だろうか。仮にそれを実行したとして、既に「終わっている」ことがハッキリしているモノをネタにして、果たして面白いものになるかどうか(70代以上の生粋の博多人は、伝統行事のほとんどが商店街のお祭りに成り果てているとしか思っていない)。 博多出身の著名人とオタアミのみなさんとを絡めてトークショーという手も考えられなくもないが、ゲストを招聘しての公演は、シロウトのボランティアで構成されているAIQでは手に余るだろう。小林よしのりとかタモリ、小松政夫さんなんかと絡められたら面白いとは思うんだけれど、それは私がまだ「昔の」博多人だからであって、「今の」博多人には恐らく殆ど魅力のあるキャスティングではあるまい。よっぽどコンセプトを練らないと、失敗は目に見えている。 エロの冒険者さんも、恐らくは「地方発信」というコンセプトは考えてはいまい。これから先、何かイベントを企画するとすれば、オタアミのお三方の志向が福岡にないのに、いったい何をするのかということを問いなおさねばならないのだが、さて、果たして今後そういう機会が得られるものかどうか。仮にその機会があったとしても、相当の覚悟と実行が伴わないと、中途で頓挫しかねない。 事務所に到着するなり、しげが例のアロハルックを集まっていたみなさんに見せびらかす。「チンピラやくざ風にしてみました♪」と笑っているが私は穴があったら入りたい気分だ。しおやさんは「いっそのことペアルックにしたら」と笑っておられたが、私はまだ人生捨ててるわけではない(-_-;)。 「おもしろいじゃん」としおやさんは仰るが、こういうのはペアルックの二人がイチャイチャベタベタしてるのを誰かが脇目で見て「ケッ」と言うシチュエーションがあってこそ面白いんである。しおやさんはその「ケッ」という役を誰に振ろうというのであろうか。全員が「ケッ」と言ったら笑う人間がいないのであるが。
エロさんに長らく借りていた輸入DVD『ノストラダムスの大予言(パッケージタイトル“Last Days of Planet Earth”、劇場公開時は“Catastrophe 1999: The Prophecies of Nostradamus ”)』をお返しする。 これを見た感想も日記に書き忘れていた。エロさんとこのDVDデッキではなぜか作動しなかったということであるが、ウチでは全く問題なく再生できたので随分前に見てはいたのである。 地球滅亡後、ミュータント化した人類を描いたのが問題になって、国内では再上映不可、ソフト化もされていないのだが、一度だけテレビ放映はされている。人権問題に関しては日本以上に敏感な海外ではこうしてDVDが出ているのに、日本ではなぜか禁止というのもおかしな話である。今見返してみても、何をどう問題にしたいのか意図が分からない。 映画そのものはテレビサイズに編集されたものらしく(元はシネスコのはずだが、スタンダードで収録されている)、シーン入れ替えも激しく、音楽も新しく入れ直したもの、以前見たものと相当印象が違っている。由美かおるのヌードもオリジナルにはあったはずだが、カットされている(これだけで魅力は半減であろう)。もともとヘンな映画ではあったが、なんだかますますワケの分らない印象。レナード・マーティンの「ムービー&ビデオガイド」では最低評価で、「製作してんのナショナル・エンクワイラー誌ではないか(アメリカの『東スポ』である)」とまで酷評されているが、さもありなん。でもこういう珍品は人間がいかにアホかという証明としても、きちんと後生に残すべきだと思うがなあ。 丹波哲郎の英語吹き替えの声が『OO7は二度死ぬ』のときと似てるように思うが、もしかしたら同一人物だろうか。丹波さん本人が喋ってるようにも聞こえるくらいで、つまりは演技過剰なのである。
初め、近所のしゃぶしゃぶの店に場所を移して宴会、という予定だったのだが、なんと当該の店が潰れてしまったとのこと。急遽オタアミの打ち入りにも使った「赤鳥」に会場を変更。車2台に分かれて移動する。 車の中でしおやさん、「最近殺伐とした事件が多いですねえ、もっと楽しく笑える事件はないですかねえ」と仰る。笑おうと思えばどんな殺伐とした事件だって笑い飛ばせるのだから、笑い難いのは事件を事件としてしか捉えられない世相の方だろう。12歳の事件だってホントは笑っちゃいたいんだけどねえ。
会場に着いてみると、山笠の長法被を着た武内さんが先に来て待っておられた。ああ、武内さん、山笠を舁(か)いて(=担ぐ)たのか。ウチも親父の代までは舁いてたのだが、だんだん職人をオミットするような雰囲気になってきたので、私は一度も経験がない。そのあたりも博多人としては淋しいことである。
乾杯してあとはいつも通りみんなすぐに酔っぱらう。 「今日を楽しみにして来ました」というぴんでんさん、最初から飛ばしまくり。いきなり「やっぱり次の『ゴジラ』の略称は『ヅラゴジ』ですよ! いや、『ゴヅラ』のほうがいいかな」と、どうにもツッコミの入れようがないことを言い出す。 要するに今度の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』に吉岡美穂が出演していて、彼女がアデランスのCMに出ているから、というのがネーミングの理由なんだが、こんなアホなの、定着されてたまるか。まあほっといても誰も使わないと思うけど、まかり間違ってファンが使い始めたりしたら、世も末である。 ぴんでんさん本人はとても面白いのだが、ギャグセンスは決定的にない。ツクリに走らず、自然体の面白さを見せていただいた方がずっと楽しいのだが、つまらぬプライドがジャマをして、開き直りきれないのが惜しい。 みなさんの反応も鈍かったせいか、ぴんでんさん、どんどん絡み酒になり始める。私に「なんでホームページ更新しないんですか! 寝る時間削っても書けよう!」とか「外食ばっかりして自殺願望あるでしょ!」とか。 果ては、「私とエロの兄貴、ホモダチになると思います?」とか聞いてくるのである。酔っぱらってるなあ。そんなことを言うものだから、しげが隣でクスクス笑い始める。どうやら具体的なイメージを思い浮かべたものらしい。浮かべるなよ。 なんだか様子がオカシイ、まるでこれでは、宴席ではひどい絡み上戸であったという太宰治のようだと思ったので、何かツライことでもあったのかと、ふとそう聞いてみたら、ホントにツライことがあったのであった(~_~;)。いやもう、何と言ってよいやら。
ぴんでんさん関係では書けないネタが多いのだけれど、一応解禁していいと許可を頂いた件を一つ。 ぴんでんさんは実は見合いマニアなのであるが、先日も(と言っても随分前だが)、ある女性とお見合いをなされた。美人でオタクに偏見もなく、二人ともなかなかいい雰囲気になって、デートも数度繰り返したある日のこと、当の女性がぴんでんさんにこう呟いた。 「……今晩……、ぴんでんさんのお部屋にお邪魔して、いいかしら」 こういうセリフを一生に一度は聞いてみたいと思わぬ男はいないであろう。私もまだ両手両足で数えるほどしか聞いたことがない(嘘)。 ぴんでんさんはもちろん、否やもない。普段から部屋の整理整頓には心がけているから、いつ何時、何があっても、準備は万端なのだ(何のだ)。頬を少年のように紅潮させ、ジョージ・チャキリスのように小躍りしながら、件の女性を自室へと招き入れた。 「さあ、ここがボクの部屋だよ!」 しかし、ぴんでんさんは忘れていたのである。部屋の中にたった一つ、あまりにそれが自然にそこにあるために、かえって盲点となっていたモノのことを。 部屋に入るなり、彼女は言った。 「あれ、なあに?」 ぴんでんさんの微笑みが、そのまま固まった。 彼女が指し示した指の先にあったもの、それは『スペクトルマン』のDVD−BOXであった。そう、『スペクトルマン』の頭部をそのまま実寸大で象ったというアレである。 「いや、その、これは、スペ、スペ、スペルマ、いや違う、スペクトルマンと言う……」 うら若き彼女は『スペクトルマン』の存在を知らなかった。「わあ、どんなの? 見た〜い!」。もはやぴんでんさんの取るべき態度は一つしか残されていなかった。『スペクトルマン』がいかにアツいドラマであるか、鷺巣富雄が乗り移ったかのごとく(まだ死んでない)とうとうと語りつつ、二人で夜通し『スペクトルマン』を鑑賞したのである。 後日、彼女は母親にこう聞いた。 「ねえ、ママ、『スペクトルマン』って知ってる?」 彼女の母は答えた。 「ああ、あの、『弱いウルトラマン』ね」 見合いの結果がどうなったかは、誰も知らない。
そのあともオタク話、延々と。 「『ウルトラマンレオ』の最終回に杉田かおるは出ていたか?」とか。ZUBATさんが「冨永みーなが出てたのは覚えてるけど」と腕を組む。みんな昔のことでハッキリ思い出せない。私も出てたような気がするがそう聞かれると、何だか自信がなくなる(あとで確認してみたらしっかりレギュラーで出ていた)。 「『帰ってきたウルトラマン』のウルトラ五つの誓いなんかはみんな言えるけど、シリーズ後半になるとみんな忘れるんですよ」とぴんでんさん。私はその五つの誓いももう忘れてるのである。全然ウルトラっぽくなかったという感覚だけは残ってるが(これもあとで確認したらこんなんである。「ひとつ、腹ぺこのまま学校へ行かぬこと。ひとつ、天気のいい日に布団を干すこと。ひとつ、道を歩くときには車に気をつけること。ひとつ、他人の力を頼りにしないこと。ひとつ、土の上を裸足で走りまわって遊ぶこと」。全部破ってるわ、私)。 しおやさんが「ダイソーで『巨人獣』や『つらいぜ! ボクちゃん』を売ってるんですよ!」という話には殆ど誰もついてこれない。わあ、みんなほんの何歳か年下なだけなのに、こういうのが分らない世代なのか。少女マンガを語ろうと思ったら、高橋亮子は避けて通れないと思うのだが。あの「遅刻しそうになって彼とゴッツンコ」「男の子っぽい女の子」「さわやかな先生への憧れ」「年下の彼の、彼女へのコンプレックス」など、少女マンガの典型・究極形が詰めこまれてるのが『つらいぜ!ボクちゃん』なのである。これ読んで泣けない男の子は、一生、女の子の気持ちは分らないと言っても過言ではなかろう。 アンジェリーナさんが今日も「誰か私のほかに『アステカイザー』のDVD買った人いませんか!?」と手を挙げて叫ぶが、いくら永井豪ファンの私でも、ちょっとアレはなあ。『ハレンチ学園』BOXも『マジンガー・ザ・ムービー』BOXも『ドロロンえん魔くん』も諦めたというのに(だから買いだしたらキリがないのである)。いや、永井豪作品って、マンガになっても実写になってもイマイチなものが多いんだよね。
でも今日、一番印象に残ったのは、エロさんが唐沢俊一さんから聞いたという、「自営業じゃないとオタクはやってられないよねえ」という言葉であった。日記の更新も、仕事帰りにまとまったものを書こうと思ったら、確かに時間が足りな過ぎる。本を読んだり、映画を見たりしたらもう12時である。それから日記なんて書けるか。更新が遅れるのも仕方がないのだ。
食事のことを書き忘れるところであった。 前回食べそこなっていた鶏のトサカ、今日は食べることが出来たが、コリコリとプニプニのコンビネーションがなんとも美味しい。 プニプニの部分はゼラチンで、良質のコラーゲンがたんと含まれているらしい。ここんとこがもちっと多いとより美味しく感じただろうな。
また際限なく話が続きそうなところで、お開き。 エロさんが心の底から楽しげに「みなさんに出会えて幸せです。また何かやるときにはよろしくお願いします」と挨拶。 私の場合、実質、目が効かなくなっているし、もしも声をかけて頂いたとしてもお役に立てるかどうか分からぬのであるが、しげもコミでよければ参加したいところなのである。 そのころまでにもっともっとオタクの輪が広がっているといいのだが。
2002年07月12日(金) ある事件の記憶/DVD『アベノ橋魔法☆商店街』vol.1/『奇妙な論理�機Ν供戞複諭Ε�ードナー)ほか 2001年07月12日(木) 怨念がおんねん(古)/『平成十三年度版 九州怨念地図』ほか
| 2003年07月11日(金) |
だからそれはラクな意見なんだってば/映画『バトル・ロワイアル�供…炭臆痢淵譽�イエム)』 |
鴻池祥肇(こうのいけ・よしただ)防災担当相が、今日午前の記者会見で、長崎市の駿ちゃん誘拐殺人事件について「嘆き悲しむ(被害者の)家族だけでなく、犯罪者の親も(テレビなどで)映すべきだ。親を市中引き回しの上、打ち首にすればいい」と発言。 政治家の問題発言も多々あれど、これ、戦後一、二を争う「迷言」ではなかろうかね。 加害者が12歳だったってことで、刑事責任を問われない、だったら誰がこの事件の責任を取るのか、ってことで、怒り心頭に発したのだろう、と好意的に解釈してあげられなくもないが、それにしても「市中引き回しの上、打ち首」という、アナクロと言うか自我肥大な表現が笑いを誘わずにはいられない。飲み屋でクダ巻いてるオッサンとレベルが変わらんがな。 「打ち首」云々を一つの比喩として受け取ってあげたとしても、「加害者の親を公共の場に引きずり出せ」という主張はマトモな論理ではない。親を出して謝罪させて、そのあとはどうするの? 実際に犯罪者を育てた罰として収監でもさせるの? 名前も住所も晒されたら、もう今住んでるとこにはいられなくなるよねえ(既にそうなっている可能性もある。2ちゃんで晒されてるらしいし)。それどころかリンチに遭って殺される危険だってある。リンチを推奨する気か、このオッサン。 不用意というより、自分が何を喋ってるのか、その客観的な意味を認識する能力自体、著しく欠けているのだ。昨日の日記にも書いたことだけど、こういうヒトは、自分の身内から犯罪者が出る可能性ってのを全く考えてないんだろうねえ。自分のコドモ(がいたとしたら)が犯罪起こしたら、自分で自分を引きまわすんかな、この人は。 このオッサンの意見に拍手喝采してる子持ちの人、自分の子供が事件起こしても、ちゃんと自分が「打ち首」になる覚悟をした上でモノを言おうね。
けど、こういうアホウが「青少年育成推進本部」の副本部長を務めているとなるとあまり笑ってもいられなくなる。短絡的な思考の人間は、たいてい短絡的な「取締り」に走るものだ。「少年法改正」程度で収まりゃいいけど、「親子関係の監察」とか言って、家庭の躾にまで行政が関与してくるようなことになったらどうするのよ。 つーか、「そういうこと」を主張してる連中、既に現実にいるんだからね。いわゆる「隣組」の復活を目論んでるやつらだよ。 有事三法案の成立に関連して、自民党の部会で、「小学校単位の新しい『隣組』制度をつくるべきだ」って意見が出てるんだよね。なんかねー、「とんとんとんからりっと隣組♪」なんて歌もあるから、コトバだけを聞いたらこの「隣組」ってすごく牧歌的な印象あるけど、実際はこれ、戦時中に住民相互監視のために大政翼賛会の下部組織として作られたものなんだよねー。非国民や不穏分子は隣組さんがちゃんと特高に密告してくれるのだよ、ありがたい話だ。 親子の絆や、隣近所の人間的な結び付きが薄くなってるのを憂えるのはわかる。今回の事件も、もしかしたらそういうところに原因があるのかもしれない(ともかく、事件の概要すらわからぬ時点で「親出てこい」とか言ってること自体、大バカなのは明らかなのだが)。 けど、人と人とが付き合ってく中で自然発生的に生まれた相互協力組織ならばともかく、それを「政治」で何とかしてもらおう、とか親たちが考えたとしたら、それこそただの「責任放棄」ではないの。 子供がだよ、自分の親やご近所の人たちや学校の教師が、自分のことを「国に命じられたから仕方なく見てるだけ」なんだって思っちゃったら、感謝とか尊敬の念を抱くようになると思うかね。 「親がダメだから行政で何とか」という発想は、状況を客観視できないばかりか、逆に悪化させるタネすらそこに埋めこんでるのだ。
どんなにキヨラカな環境に育っても、どんなに親が教育熱心だったとしても、子供が変態に生まれついたらそれで終わりだよねえ。そんなのもともと、誰かに責任を問える問題ではないよ。政治や教育で生得の変態が更生できるの? それは医者の仕事なんじゃないの? 事件自体は悲しむべきことなんだけれど、所詮これは社会が肥大すれば変態の一人や二人は生まれるっていう「確率」の問題でしかない。事前に察知して犯罪の芽を摘むなんて不可能に近いし(子供全員に定期的に変態度チェックでもするか? 確実な査定方法なんて存在しないよ)、「コイツは将来必ず犯罪を犯す」なんて理由で収監できるはずもなかろう。日本をまた警察国家にしたいのかい。 今できることなんてねえ、まあ少年法改正の論議をしたきゃしてもいいけど、結局は事件起こした変態を収容できる病院の数を増やせ、くらいのことしか言えないわな。病院の数が少ないから、いったん収容した変態をまた野放しにしなきゃならなくなるんじゃん。そのための資金を加害者の親から出させろっていうんならまだ納得はできるんだけどね。
で、件の鴻池氏、小泉首相にも「不適切な表現だ」と指摘されて、「(打ち首などの表現は)これから使わないようにする」と釈明したそうだけど、じゃあ次からは「遠島だ」とでも言い換えるのかねえ(^o^)。 だってこのヒト、まだ「勧善懲悪の思想が戦後日本に欠けている。日本中の親が自覚するために、担任教師や親も全部出てくるべきだ」とか言ってんだわ。「あの少年は“善悪の区別がつかない”から犯罪を起こした」とか思ってんだよ。あのね、たいていの「悪い人」ってのはね、それが社会的には悪いことだとわかっててもやっちゃうものなの。厳しいルールが犯罪の抑止力に全くならないとは言わないけれど、いくら厳しくしても、悪いことする人間が生まれるのが世の中ってものなの。気休めとコトナカレの法律で国民を縛っても、結局取り締まられ、「悪い人」に仕立てられて迷惑する人の大半はごくフツーの人なんだよ。 いったいアンタは世の中の何を見てこれまで生きてきたの? 政治家の汚職も「善悪の区別がついてない」から起きるんだろうねえ、この人の脳内では。
瀬戸内寂聴もなんか「昔はこんな少年の凶悪犯罪はなかった」とか嘘八百並べてるなあ。世間知らずが堂々とモノ言える世の中にしちゃってることのほうがよっぽど青少年育成の弊害になってるんじゃないかね。
『ビックリマン』シリーズのヤマト王子&ヤマト神帝、『北斗の拳』のリン、『忍たま乱太郎』の喜三太などを演じられていた青二プロ所属の声優、鈴木富子さんが、7月7日、急性心不全のため死去。享年47。 年齢を隠すことの多い声優さんは、亡くなって初めて「そんな年だったのか」と思うことが多いが、鈴木さんの場合は「そんなに若かったのか」。 フィルモグラフィーを見てると、結構見てたアニメも多いんだけれど、これと言って特筆すべき作品は見当たらない。前記の代表作も、「鈴木さんでなければ」というものでもない。けれど、ケレン味がなくても、堅実な演技でワキを固める役者さんもまた作品には必要なわけで、そういった中堅の役者さんの層が薄いことが最近の映画やアニメをつまらなくしている原因の一つであることも事実である。きっと「これから」の人だったんだろうに。 『劇場版ポケットモンスター アドバンスジェネレーション 七夜の願い星 ジラーチ』のジラーチ役が遺作となる。
今日もまた篠突く雨の中、夕方からワーナーマイカル福岡東まで、映画を見に行く。 途中、初めて「博多屋台村」に立ち寄って食事。 まあ随分と狭い空間の中に、ラーメン屋だのカレー屋だの居酒屋だの、出店を詰め込んだものだ。通り道が人がすれ違う程度の幅しかない。ちょっとお客が立てこんだだけで、これはすごく混雑するのではないか。夏場なんかはムシムシしそうである。 しげに「どこの店がいい?」と聞くが、「どこでもいい」と反応が鈍い。さっきまではどんなところが興味津々だったのに、いざ来てみると予想と違っていて幻滅したらしい。 「イヤなら、ほかで食事するか?」と言うと、「いいよ、ここで」と投げやりな返事。いかにもイヤそうな顔はするくせに、自分の意見をちゃんと明示はしないのが相変わらず卑怯。心底イヤなら「ほかで食べよう」とハッキリ言えばいいのに。あるいはちょっとくらい不満があってもせっかく来たんだから、「じゃあこの店に入ろう」と言うくらいの心遣いはあってもいいと思うのだが。 と言うことも何度も言ってるのにこいつはホントに記憶力がない。私に迷惑かけるだけならばともかく、誰に対してもこの調子だから困るのである。食に関してワガママなおかげで、ずいぶん周囲にも気を遣ってもらってるのだが、いくらそうしてもらっても、本人がまるで気がついていないから、遣うほうも遣いがいがないこと夥しいのである。 とりあえず、一軒の店を選んで食事。卵焼きに焼きそばを頼んで、二人で分ける。こういう屋台の常として、やや割高感があるが(昔の「安い」が売りものの屋台と違って、今の博多の屋台は妙に名物化したせいか、ちょっとしたレストラン並に高い)、味はまあ、悪くはない。 店を出たあと、何が気に入らなかったのかを聞いてみる。 「だって、外から丸見えやん。通りがかりの人が『へへ、こいつあんなもの食ってやがるぜ』とか思ってたらイヤやん」 思うか馬鹿。そういうのを被害妄想と言うのだ。 つーか、自分自身がレストランとかで食事してる人をそんなふうに見てるってことじゃないか。なんて陰険なやつ。 それに、そんなに人に見られるのがイヤなら、ちゃんと食材買って家で料理作ればいいじゃないか。やっぱり生き方間違えてるのである。
何の映画を見るかははっきり決めてはいなかったのだが、ワーナーに着いてみると、一番早い時間の映画が『バトル・ロワイアル�供…炭臆痢淵譽�イエム)』だったのでこれを見る。 深作欣二の遺作と言っても、彼自身はリハーサルだけで燃え尽きてしまい、実際にメガホンを取って撮影したのは前田愛が父親の描いた絵を見る部屋のシーンだけである。実質的にはあとを継いだ深作健太監督の第1回監督作、と言ったほうが妥当だろう。
前作のラストで生き残った七原秋也(藤原竜也)は、今や首都崩壊テロを起こした反BR組織・ワイルド7のリーダーとなっていた。 彼を屠るためにBR法は改正され、問題児ばかりが集められた鹿之砦中学校3年B組の生徒たちが、七原秋也の立て籠もる戦艦島に攻め込むように強制される。かつて七原秋也に付けられていたものと同じ時限爆破装置付きの首輪を嵌められて。 銃が配られ、生徒たちは上陸作戦を開始する。しかしワイルド7の銃弾は次々と彼らを倒して行く。それは、まさしく「戦争」だった。
「ワイルド7」ってネーミングはちゃんと望月三起也に許可取ったんかとか、老いたレジスタンスの三村真樹雄(千葉真一)と七原秋也の別れのシーン。こ、これ、まんま『さよなら銀河鉄道999』の冒頭シーンではないの、とか、そんなところが真っ先に気になってしまうが、まあ文句のつけどころは腐るほどある映画である。 だいたいタイトルに偽りありで、既に話は「バトルロイヤル」ではない。ただの「戦争映画」である。 前作同様、今回も「あと○○人」のテロップが表示されるが、あれは「殺し合い」だったからこそ「次は誰がなぜ死なねばならないのか」、という死の不条理を象徴する効果があったのである。それぞれに持たされていた武器だって、前作では千差万別だったのに今回はみな一律に銃を持たされている。これではキャラクターの描き分けもなされぬままで、生徒がどんどこ殺されてっても悲壮感一つ生まれない。 前作とちょっと設定を変えて、出席番号一番同士の男女がペアになってて、片方が死ぬともう片方の首輪も連鎖して爆発して死ぬのだけれど、これも映画をとっとこ進行させるための「人減らし」にしか見えないのだ。前作では早めに死ぬキャラだってよく描かれてて結構目立ってたのだが、今回は殆どの生徒がただ死ぬだけで記憶に残らない。健太監督、キャラクターを描くことを放棄しちゃったんではないか。 今回の主役、青井拓馬(忍成修吾)が感情移入のしにくいキャラクターであるのも弱い。感情的ですぐにキレるために母親(三田佳子)にも見捨てられてるという設定だが、ホントにすぐ切れて絶叫ばかりしてるので、最初コイツが主役とは気づかず、すぐ死ぬんじゃないかと思ってたくらいだ。キレやすいやつだけど、実は雨の日に濡れそぼっている捨て猫を拾って助けてるとか(^o^)、優しいとこ見せる描写でも入れとかなきゃ、客は乗れないてば。浅倉なお(酒井彩名)がどうしてこんなのが好きなのかもよくわからない、つまり主役級のキャラについてすら、描写不足が目立つのである。 監督の眼はどちらかというともう一人の主役、キタノシオリ(前田愛)の方に注がれ過ぎていたのではないか。彼女がバトル・ロワイアルに参加したのは、父親を殺した七原秋也への復讐のためではない。父親の残した絵の中に女神のように描かれていた少女が、自分ではなく中川典子(前田亜季)であったこと。生前の父親を「オジサン」と呼んで嫌っていながら、実は自分も父親に拒絶されていたことを知ったとき、父親の心を捉えた中川典子とはどんな少女だったのか、彼女はそれを知らないではいられなくなった。 キタノは確かに実の娘を拒絶した。しかし、キタノが最期に「人を本気で憎むことがどういうことなのか考えろ」とメッセージを送ったのも娘であった。その二律背反ゆえに、シオリはただの嫉妬でも復讐でもなく、七原に接触せざるを得なくなるのである。 この描写は実に面白いのだが、でもどっこい、演じる前田愛の演技力が今一つなのがねえ(-_-;)。それと前田愛、ちょっと顔が丸くなり過ぎてるんじゃないか。こっちも前田亜季に演じさせたかったような。 桜井サキ(加藤夏希)の弟とのエピソードも、教師RIKI(竹内力)が妹を秋也のテロで失っている設定も、ムダに話を混乱させているばかりである。筋がストレートで一気に話を展開させているようでいて、実は途中途中で退屈な描写が多いのである。
じゃあ、つまんなかったかというと、見てる間は実に面白かったんだよねえ、この映画。なぜって、これ、徹底的な「反米映画」になってたのよ。そんなん、ここ10年くらいエンタテインメント映画の中では殆どなかったんとちゃうか(『ちんちろまい』の中で武田鉄矢が「アメリカとも一度戦争して勝つ!」と酔っ払って言ってたけど)。 教師RIKIが黒板に「これまでアメリカに空爆された国」を列挙するシーン、七原秋也が電波ジャックして世界中のテロリストたちに檄を送るシーン、この二つのシーンがシンクロして、アメリカが「正義」という自国のアイデンティティを維持するためだけに戦争をし続けていることを重層的に描き、実は大人も子供も、戦うべき真の相手が米帝国主義であることを明示する。そして七原は例のアメリカを敵とする国でレジスタンスを続けるのだ。 単純過ぎるほどに単純な論理だし、その主張に異議を唱えたくなる人もいるだろう。「テロリズムを肯定する気か」とかなんとか。でもそれがこの映画のまさしく主張なんだから、恋愛映画を見て「なんで恋愛をテーマにするんだ、オレは恋愛が嫌いだ」と文句つけるのと同じことで、それは全くの筋違いというものである。 だいたい、アメリカべったりの主張だって単純なことに違いはないのだ。ここまで堂々と「アメリカにテロしかけて何が悪い」と言い切られては、むしろその単純さゆえに「映画としては」これを評価しないわけにはいかない。映画を映画として楽しむやり方を知らない人間はまた激怒したりするんだろうけどね。
2002年07月11日(木) 灰色の巨人/『サトラレ』3巻(佐藤マコト)ほか 2001年07月11日(水) 変と変を集めてもっと変にしましょ/『コミックマスターJ』7巻(田畑由秋・余湖裕輝)
| 2003年07月10日(木) |
たいして過激なことは書いてない/『トリビアの泉 へぇの本』第�機Ν挟�/『ああっ女神さまっ』26巻(藤島康介) |
またもや日記の更新が遅れ気味なので、例の長崎市の児童誘拐殺人事件について、掲示板の方に感想を書く。あとになって感想が変化したときのためなんだが、実のところあとで書いてもたいした変化はない。 というのも私は、事件そのものには殆ど関心がなくて、「世間がその事件をどう受けとめたか」という「時代の感覚」のほうに視線が動いてしまうからだ。事件は「現場」なんかで起こってるんじゃない、「時代」と「世間」がデッチアゲてんだ(^○^)。 だもんで、書いた内容、事件の悲惨さがどうの、ということには一切触れてない。おかげで掲示板に書き殴った内容だけだと、説明不足な点もあるので、事件自体の概容をもう一度長崎県警の報告からおさらいする。
昨7月9日に補導された少年は、7月1日午後7時20分頃、長崎市の家電店で種元駿ちゃん(4歳)を誘拐。路面電車などを乗り継いで、約4キロ南の駐車場ビルに移動した。そして9時15分頃、同ビル屋上で駿ちゃんを全裸にして突き落とし、殺害。 取調べに対して少年は素直に応じ、「たまたま店にいた子どもに声を掛けたらついてきた。顔見知りではなく、全く知らない子どもだった。いたずら目的で駿ちゃんを連れ出し、騒がれるなどしたため困って投げ落とした」などと答えている。 少年が13歳以下のため、県警は児童福祉法に基づいて長崎中央児童相談所に通告、相談所はまた「審判に委ねるのが適当」と判断、本日の午後、事件を長崎家裁に送致した。 家裁は2週間の「観護措置」を決定し、少年は、裁判官から非行事実などの確認を受けて長崎少年鑑別所に収容された。
報道メディアは既に「第2の“酒鬼薔薇事件”」という呼称も使っているし、既にネットでは少年の本名と顔写真と称するもの(複数確認したから間違いも当然ある)も出回っている。
で、以下が掲示板に私が書いた内容。
> 天皇崩御なみの特大記事で報道されてる例の12歳の事件だけど、正直な話、騒ぎ過ぎなんじゃないのか。今日になってようやく動機がイタズラ目的だった由、判明しつつあるけれども、昨日一昨日なんか、状況も殆ど分らないうちから、新聞もテレビも「12歳の犯行!」って大見出しでさ、やたら煽情的だったよねえ。ホントになぜなの? > だいたい「12歳」って年齢だけでショックを受けるのって、あまりにも世間知らずだと思うがな。そのへんのガキンチョ見てみなよ。12歳ならもう充分、オトナ相手にしたって人殺す意志くらい持ってるよ(体格は関係なし)。マスコミ、本当に「まさか12歳だったとは」とか思ってる? 昔、14歳の犯行が起こった時には結構「いずれ小学生の犯罪も」って警鐘鳴らしてた人いくらでもいたぞ。犯罪に年齢制限はないってこと、とっくの昔に理解してたはずじゃないのか。 > なんだかねえ、今更ながら驚いて見せるのは、これまで何を報道すべきかってことをわざと見過ごしてきたマスコミの責任回避にしか私には見えないんだけどねえ。
> もちろんそれは、庶民だって同じこと。テレビのインタビューに答えてさ、「まさか12歳だったとは」なんて驚いてみせてるおばちゃんたちがいるけど、本気なんですかねえ、あれ。身近にいる子供たちが犯罪者になる可能性から目を逸らしてるから「ショックを受けたふり」ができるんじゃない? で、これから先、似たような事件が起こったってさ、どうせまた同じように「ショックを受けたふり」をし続けるんだよな、きっと。 > 自分たちのやってることの意味、分かってる? > それって結局、「子供のことなんて私は考えたくもありません」って言ってることなんだよ。多分、自分の子供のことも含めてね。
> ともかく、情報が不充分な段階から騒いでるのは、事実を解明しようという意図よりも、この事件をどんな物語に仕立てあげようかという意志の方が勝っているからだ。それもどうせキャスターたちが訳知り顔に語るのは、いい加減百万回くらい聞き飽きてる三文小説なみの陳腐なドラマなんだよね。 > 「なぜこのような事件が起きたのでしょうか」「加害者の少年にはどんな過去があったのでしょうか」「周囲の大人たちはどうして少年の心のキズに気付かなかったのでしょうか」かとかなんとか。これでもし、少年がイタズラに走った原因がマンガとかの影響、なんて話が出てきたら、また責任転嫁したがる連中が騒ぎ出すのも目に見えてるよな。 > まあ、マスコミが勝手に騒ぐのは構わないけれど、それに乗せられてまたぞろ少年法の改正がどうのこうのと言い出す連中(賛成派反対派とも)が跋扈しはじめるのが見ていてうだんしい(←博多弁。鬱陶しい、うざったい、いやらしい、めんどくさいの意)のである。被害者の親まで「改正を」とか言い出してるしな。いやはや、マスコミのマインドコントロールもすっかり世間に浸透しちゃってるよ。
> 「なぜこんな犯罪が起こったか」なんてこと、議論する必要ないんだよ。「そこに犯罪者がいたからだ」。それだけ。動機だって、わざわざ原因を過去に辿る必要なんてない。「あるとき変態性に目覚めた」それだけじゃん。そういう資質が本人にあったってだけで、親や環境の影響が全くなかったとは言わないが、少なくとも全責任を負わせることじゃないって。 > 「ただの変態が子供にイタズラしてそのあと殺した」それだけの事件じゃん。何をみんなよってたかって喜んではしゃぎまくってるんだ。 > 私ゃこの状況のほうがよっぽど気色悪いよ。
これ読んでエライこと書くなあ、と思う人もいるかもしれないが、まだ表現を抑えてはいるのである。 あえてねー、もちっとアブナいことを書いちゃうとさー、こーゆー10代の変態やら犯罪者やらが出るのを怖がってさー、少年法とか改正して取り締まろうとか思ったらさー、キリがなくなるよー、「BR法」を本気で考えなきゃならないくらいにねー。 ああいう「10代」を取り締まろうと思ったらさー、結局「収容施設の強化」ってことにしかならないんだよねー。でもそんなもん、現実に「設置」できると思うー? 「人権派」でなくってもさー、「犯罪に走りかねない10代」が「別に特殊な存在でもなんでもなく」って、「自分のムスコやムスメもそうなるかもしれない」ってことに気づいたらさあ、みんなやっぱ「少年法は守ろう」って180度逆なこと言いだしちゃうと思うけどねー。 でもそんなことに「気づかない」あるいは「気づきたくもない」人間ばかりだということを証明しちゃってるんだよな、ここ数日の報道は。 つまり、自分が「犯罪者の親になる」可能性をまるで考えないバカ(こんなとこにも「ウチの子に限って」の論理が働いてるんである)か、あえて現実から目を逸らしてる卑怯者か、そのどっちかしかいない世の中になっちまった、ということだ。 自分はそのどちらでもない、と言えるならこう自問自答してごらんな。「自分の子供がもし犯罪に走ったら、その子供を殺して自分も死ねるか」ってな(勘違いしないでほしいが、「そうしろ」と言ってるのではない。これは「覚悟」の問題である)。 じゃあ、お前はどうなんだって、アホなツッコミ入れてくるバカもいるかもしれんが、ウチは子供作ってません(^o^)。アンタ、自分の子供のために自分の人生棒に降りたかねーや。既に「何の覚悟もない」女房を持ってる時点で半死人状態に陥ってるってのに、何でそんな自殺行為をせにゃならんかね。 もっとも、世間に「想像力」がなくなってるからこそ、ポコポコ際限なくガキ作る親もゴマンといるわけで、それでなんとか日本の人口も保たれているとも言えるかな(^o^)。
晩飯は博多駅バスセンターの上、お好み焼きの「ふきや」でブタ玉焼き。 ここはマヨネーズかけ放題なのだが、隣席でOLっぽい女性三人が、マヨネーズをかけ過ぎたらしく、「余っちゃった、どうしよう」とか言っている。 それだけなら聞き流すところだったが、次のセリフでつい耳を欹ててしまった。 「アメンボの足に付けるかあ?」 いやあ、マンガみたいだがホントにお好み焼きが喉につかえたね。 これ、昨日の『トリビアの泉』の「アメンボも溺れる」ってネタなんである。 アメンボの足の先には、毛がたくさん生えていて、その足先から油を出してそれを塗りつけている。それが、洗剤等で取れてしまうと溺れてしまうというもの(生活廃水のせいで実際に溺れ死ぬアメンボも多いらしい)。 アメンボが水面を泳いで(と言うのか?)いる水槽の中に石鹸水を入れると、なるほど溺れる(ひでえな)。で、救出したアメンボの足にマヨネーズを塗るとまた泳げるようになるのである。 こんなところで『トリビア』ファンに出会うとは……と思っていたら。 「でもその実験、小学校でやったよー」 「結構知ってること多いしねー」 「『へぇ』っての少ないよねー」 「どうでもいい知識が面白いって言えばそうかもしれないけど、なんかねー」 OLさんにはあまりウケてないらしいな、あの番組。実際つまんないのは事実なんだが。 老荘思想に基づけば、「知」なんてものは全てトリビアなんで、その点においては「相対性理論」と「トグロウンコの作り方」とは等価値であると言える。つーか、そういう視点がないと、「トリビア」を面白く見せることなんてできないと思うんだが、あの番組に欠けてるのはスタッフがみんな本気で「トリビア」を面白がっちゃいないってことなんだよな。 アシモフの言葉を巻頭言風に引用したり、学者や関係者への取材が電波少年風だったり、スタッフが「面白がってる」んじゃなくて「ふざけてる」のが見えるのがともかくイタイのだ。
と言いつつ、その『へぇ』の本を2冊買っちゃったんだけど(^_^;)。 フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉 へぇの本』第�機Ν挟�(講談社・各1000円)。 深夜放送分を2冊にまとめたもの。カラー写真もふんだんだし、番組見ながら「たったこれだけ?」って感じてた印象がが随分緩和されている。ただ価格が高いね。 まあ、もうちょっとその辺は突っ込めよ、という甘さはどのトリビアにもあるんだけれど。 「『ルパン三世』の銭形警部の名前は幸一である」ってトリビアも知ってる人にはすぐ突っ込まれちゃうよな。 あれはもともと原作者のモンキー・パンチが「銭形平次の子孫だから」ということで「平一」と書いてたのを誤植されて「幸一」になったもの。その後、原作で改めて「平太郎」と名付け直されたけれど、最初のアニメ版及び劇場版第一作では無視されて「平次」になってしまった。「幸一」の設定が復活したのはテレビ版第2シリーズで。 ついでに「ルパン三世のファーストネームは?」ってのもよく言われてるけれど、「三世」と言ってる以上は「アルセーヌ」ってことになるんだろうけれど、モーリス・ルブランの原作ではアルセーヌの父ちゃんも泥棒なんだよな。 となるとルパン三世は本当は四世じゃないとオカシイはずなんだが、一世の父ちゃんは「テオフラスト(テオファリスト)」って名前なんで、一応断絶してると考えるべきか。でも原作に登場するルパン二世はジャンって名前で(ママはクラリス・デチーグ!)、泥棒ではないのだよなあ。まあ。原作との整合性考えたってしょうがないんだが(『ルパン三世』の原作には、そのあたりをファンに指摘されたのか、「実はルパンはアルセーヌ・ルパンの孫じゃないかも」なんてエピソードまである)。
マンガ、藤島康介『ああっ女神さまっ』26巻(講談社/アフタヌーンKC・490円)。 オビによると、「単行本累計1700万部突破!」だそうな。 ちなみに『ワンピース』は24巻までで、6600万部、『バガボンド』は16巻までて3170万部。他のデータ挙げてもいいけど、まあ超ヒットとまでは行かないのである。いや、あえて貶めるつもりしないけれど、オビに書くほどのもんかって気はしちゃってね。 話はもう何がどうなってるのかよくわかんないです。えーっと、「天使食い」が暴走して、ヒルドとマーラーが逃げて、女神たちが協力して天使食いを封印してってことでいいのかな? なんか盛りあがんないんだよなあ。 作者がもうマンガとしてのコマワリができなくなってて、イラストの羅列になってるから読みにくいったらありゃしない。よかったら「これまでのあらすじ」を付けてくれませんかね、マジで。 あと『包丁人味平』のパロはつまんないです。
2002年07月10日(水) 憑かれた女/『新宿少年探偵団』(太田忠司・こやま基夫)ほか 2001年07月10日(火) 踊れば痩せるか/『ちょびっツ』2巻(CLAMP)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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