無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年05月20日(火) すっ飛ばし日記/親を崇める子供たち

 一日楽な仕事。これが毎日だと嬉しいんだけどまあムリかな。

 アニメ『キノの旅』、「コロシアム」前編。
 ついにこれが来たか。折り返し点だから、持ってくるよな。陸の声が大塚芳忠さんだったのでちょっと笑っちゃったけど。いや、ミラウー・キャオのイメージが強いもので。

 『言語』6月号のエッセイで、言語人類学者の井上京子さんが、学生たちの修士論文の冒頭で、指導教員らへの謝辞に並べて、「両親に感謝申し上げます」と書かれたものが1996年以降に増えた、ということを書かれている。
 大学の卒論になんで親への謝辞を書くのかも疑問だが、なにより他者に対して語る場合、身内に敬語は使わないという「常識」が崩れていることに驚く。
 そこに挙げられている親への敬語の例は、他にも、「大学まで進学させていただいたうえに」「私を見守ってくださった両親」「勉学の機会を与えてくださいました両親」「この放蕩息子の面倒を見てくださった」「毎月の仕送りを絶やさず送って下さった」「四年間大学を卒業させていただいた」と、私の感覚からすれば、「お前ら百姓か」と言いたくなるくらい、親に対して卑下しまくっているのである。
 しかし、言語学をかじったことのあるかたなら、「ポライトネス理論」はご存知であろう。敬語は他人との心的距離を表している、というアレだ。即ち、「敬語を使っている」時点で、親は本人にとって、「他人」のカテゴリーの中に押しやられてしまっているのである。決して、本気で尊敬され愛されているわけではない。
 で、この「1996年以来」という記述が、私にはどうにも気にかかってならないのである。その前年、1995年がどんな年であったか。
 阪神大震災。地下鉄サリン事件。それもそうだが、ハッキリ言ってしまおう。1995年から1996年は、『新世紀エヴァンゲリオン』の年である。まあ、あのアニメを語る言葉は未だに錯綜し続けている感があるが、単純に、「思春期」の少年たちが主人公の碇シンジに感情移入した場合、一番「敵」として認識されるキャラは誰であるかを考えてみよう。答えはもちろん父親である碇ゲンドウということになる。愛しても愛されてもいない父親に「誉められたいから」とすり寄っていくシンジ君の気持ち悪さは、岸田秀じゃないが、レイプされたってのに意外と気持ちよかったもんだから、そのレイプした相手に媚を売り始める女のようであるが、この卒論で親に感謝してる連中の言葉にもそういう気持ち悪さが見え隠れしてないか。
 考えてみたら、私の親は、滅多なことで私を誉めたことはない。私は私で親の悪口ばかりを人前で言っている。内輪誉めのみっともなさってものは、肌身に染みて感じていたのである。別に我々親子が特殊だったわけではなくて、それは昔はホントにフツーだったのである。
 それがこうも崩れているというのは、やっぱりみんな、ふと気づいてしまったからではないか。親と子に、もともと絆なんてものはなかったんだと。
 「進学させてもらったり」「仕送りしてもらったり」「温かく見守ってくださったり」、それは親の愛情なのか? 自分の気持ちを「感謝の言葉」として表し、確認せねばならないということは、それくらい、親子を結ぶ糸は細く、ほつれてしまっているということなのではないか?
 切れた糸を懸命に手繰り寄せようとする哀れな努力を学生たちが始めたのは、やっぱりあのトラウマ刺激アニメの影響があるんじゃないかと思うんだけど、これも私の妄想かなあ。

2002年05月20日(月) もっとギャグを!/『蛇神さまといっしょ』2巻(桑田乃梨子)ほか
2001年05月20日(日) 念の入った話/DVD『NHK少年ドラマシリーズ なぞの転校生�機戮曚�


2003年05月19日(月) すっ飛ばし日記/あるものが見えない女

 休日明けの仕事は結構辛いのだが、今年は比較的金曜のうちに準備ができるのでまあ、楽になった方である。

 今日は居残りせずに定時に退社、寄り道もせずに帰宅。しげも仕事が休みだったようで、ゆっくりする。
 壁のかけ時計が止まっていたので、電池を交換しようと椅子の上に乗る。
 しげに、「引き出しから電池取って」と言うが、しげ、見つけられず。
 「ないよ? 電池」
 「ないはずないよ、前にあったし」
 「でもないもん!」
 「……オレが探したらあると思うぞ?」
 で、実際に捜したらあったのである。しかも引き出しのすぐ手前に。
 いつもの展開だよなあ。
 しげ本人もすごく不思議がるのだが、「ないと思いこむと、目の前にあるものが見えない」ということは現実にあるのだ。某小説の某トリック、決して荒唐無稽ではないんだよねえ。

2002年05月19日(日) 今日は一日寝て本・ビデオ……っていつもや/『Sink』1巻(いがらしみきお)ほか
2001年05月19日(土) 地上の星々/『狼には気をつけて』2巻(遠藤淑子)


2003年05月18日(日) すっ飛ばし日記/やっぱリ肉食う女

 鉄腕アトム第7話『アトム対アトラス』。
 人間の心を取り戻してアトラスは退場。して見るとラム博士の性格はアトラスに習合されたと解釈すべきかな。原作みたいに爆発したわけじゃないから、復活もありえるかも。
 掲示板には以下のように書きこみ。

> 前後編のわりにはちょっとあっさりした終わり方になっちゃったなあ。
> まあアトラスってそんなに深みのあるキャラじゃないから仕方ないか。愛されたがってただけの子供だしな。
> しかし天馬博士がトビオを捨てた理由が気にかかるね。未だに「ロボットの進化」なんてことをアトムに吹き込むくらいなら、なぜ記憶を消してシステムダウンまでさせちゃったんだろう。原作通り「背が伸びなかった」程度のことじゃない感じだね。
> それにしてもお茶の水博士も、いくら長官を引き継いだからって、もしかして科学省破壊の原因だったかもしれないアトムを勝手に起動させようとしたんだから、なかなかのおヒトだね。
> やっぱりこの両博士の行く末が気にかかるのである。……物語のセオリーから行けば、どっちかが最終回近くで死なないといけないんだがなあ。


 日曜なんでひたすら日記書き。
 しげが「久しく焼肉食ってない」というので、麦野のウエストまで遠征して焼肉を食う。もちろんしげはひと皿三人前分くらいを二人前半くらい食って、「腹が苦しい」と言うのである。当たり前だ。

2002年05月18日(土) 世界の中心で馬鹿と叫んだ女/『彼氏彼女の事情』13巻(津田雅美)ほか
2001年05月18日(金) 増えるワカメのごとく……/『鬼切丸』20巻(楠桂)


2003年05月17日(土) すっ飛ばし日記/時計だけ見る女

 夜、ワーナーマイカル福岡東で『Xメン2』を見る。
 その前にサティの中をしばらく冷やかし。
 しげが父の日に親父に枕をかってあげたいという。なんだかよくわからないが、新製品で頭の乗せごこちが一味違うそうだ。だけど値段が1万円。ちと思案どころである。
 映画が始まる前に腹ごしらえをしておこうと、寄ったトンカツ屋のトンカツが油っこくて、コロモは固くて口ん中に刺さりそうで、ひたすら不味い。
 しかも、食うのに時間をかけすぎて、映画が始まる時間になってしまった。
 いや、悪いのはしげなのである。
 しげがポケットから携帯を取り出して、時間を見ていたから、私はてっきり映画の始まりの時間を確認していると思っていたのだ。
 「なんで時間が近いって教えてくれんやったん!」
 「え? オレ、時間見てただけだよ? 確認するのはアンタの仕事やん!」
 「時間確認してれば、始まりの時間を見てくれてるもんだって思うやろ!」
 「なんでオレを信頼するんね!」
 それを言うか、こいつ(-_-;)。
 まあ、ギリギリ映画には間に合ったからいいけどさ。

 『Xメン2』はまあ、いかにもなパート2モノでしたね。可もなく不可もなく。前作のミュータントの悲劇性は薄れて(マグニートーのナチスの収容所にいた云々の描写ももう描かれないし)、ホントに「エスパー同士の戦い」ってことだけが全面に出た感じね。ストライカーがなんでそこまでミュータントを憎むかも説明不足って印象。演じてるブライアン・コックスは『刑事グラハム』でのレクター博士役の人だけれど、あの時より随分太った。一瞬、同一人物とは気付きませなんだ。
 それにしてももう、ミュータントたちを出し過ぎである。ある程度活躍させる人物を絞ろうってことだろうけれど、サイクロップスは最初に敵の手に落ちて、ラスト近くになるまで再登場して来ないし、ストームやローグ、アイスマン、パイロと言った連中は彩りみたいな扱い。メインはやっぱりウルヴァリンとジーン・グレイの関係、プロフェッサーX、マグニートー、ストライカーの三つ巴の関係に絞られる。
 でも、プロフェッサーXって、今回とことん無能なのね。操られていたとは言え、いったんは全人類滅亡させそうになるし。こんなテイタラクじゃ、「ミュータントを排除せよ」って運動も起きるわなあ。なのにラストでとってつけたように「ミュータントは進化の始まり」とかナレーションを付けるのもちょっと興ざめだ。
 ああ、けど、前作でてっきり死んだと思ってたご贔屓のケリー上院議員役のブルース・デイビソン(『スパイ・ライク・アス』にも出てるよ)、意外な形で「復活」してたんで嬉しくなりました(^o^)。 

2002年05月17日(金) 追悼、柳家小さん/映画『モンスターズ・インク』/『カスミ伝△』2巻(唐沢なをき)ほか
2001年05月17日(木) 少しまじめな話/『コミックバンチ』創刊号ほか


2003年05月16日(金) すっ飛ばし日記/魔界な男たち

 しげがどうしても一緒に行ってくれそうにないので、一人でキャナルシティまで『魔界転生』を見に行く。帰りは1時間ほど歩きになるが、まあ仕方がない。
 一見して、誉めたい部分と貶したい部分の落差がはげしいので困った。前回の映画化のように、「若山富三郎の殺陣以外は全部クズ」ってくらいにハッキリしてりゃものの言いようもあるのだが。

 ともかく、原作を映画化するということはどういうことなのか、とか、そんな基本的なところから考察しだしたら、もう膨大な分量になってしまう。これはもう、説明不足、舌足らずになることは承知の上であえて乱暴なモノイイをさせてもらおう。

 山本弘さんの「SF秘密基地」では、山本さんご自身が天草四郎について「前作の沢田研次の方がマシだったのではないか」、と書いている。
 トンデモない話で、あんなオッサンのどこが十七歳の少年だというのか。映画のウソにしたって、程度というものがあるのである。かといって、今度の窪塚洋介がいいと言いたいわけじゃないのだが。
 そもそもクボヅカがどうのという批評自体、この映画に関してはあまり意味をなさない。主役はだいたい天草四郎ではない。たとえ脚本家や監督が、窪塚洋介を主役だと認識し、そのつもりで演出していたとしてもである。だって、元々の原作にそういう要素がないのだから、どんなに改変を加えようが、四郎が主役になれるはずないじゃないの。
 「魔界転生」というアイデアは、それまでの風太郎忍法帖の忍法・秘術とは性格が違う。それまでの忍法はあくまで登場する忍者たちの持つ「能力」としての忍法であった。しかし本作の魔界転生の秘術は、あくまで「裏方」にすぎないのである。
 映画版ではカットされているが、原作では島原の乱の実在の軍師、森宗意軒の秘術として「魔界転生」は設定されている。
 天草四郎、荒木又右エ門、田宮坊太郎、宝蔵院胤舜、柳生如雲斎、柳生但馬守、宮本武蔵の七人の魔界衆が蘇り、柳生十兵衛と戦うことになるのだ。だが、しょっちゅう主役のように描かれる四郎は、確かに森宗意の後継者ということになってはいるが、あくまで魔界衆の一人。しかも、元々剣豪ではないために、仕方なく「忍法髪切丸」という妖術の使い手として十兵衛と戦うことになる。こうでもしないと、たかが美少年ってだけでは「十兵衛と釣り合いがとれない」のだ(当たり前だね)。なのに、物語の中盤であっさり十兵衛に倒されてしまうのだから、全く、何のために出てきたんだか。
 原作のメインはあくまで、歴史上ではありえなかった、十兵衛と、剣豪たちの死闘。
 いや、宮本武蔵対柳生十兵衛を描くこと。
 これがこの物語のキモなのである。
 十兵衛が一人、また一人と魔界の剣豪たちを倒して行くのは、それぞれの戦いも圧倒的に面白くはあるのだが、あくまで武蔵を倒すための布石である。ラストは巌流島の決闘の再現。これを「ラストシーンとして」描かない『魔界転生』は『魔界転生』ではない。
 途中まで、映画は原作の精神を生かすように描かれて行く。
 荒木又右エ門は十兵衛と嬉々として戦う。右腕を飛ばされれば、四郎に向かって昂然と「右手をくれ」と言い放つ。自分の命令を無視するかのような又右エ門に四郎が自死を迫ると、「貴様のためには死ねん」と嘯く。
 たとえ四郎の方に魔界衆たちの生殺与奪の権限があろうとも、「剣豪」としての又右エ門たちのキャラクターを描いて行けば、天草四朗は、本人がどうあがこうと彼らを生かすための裏方、ただの脇役に過ぎなくなってしまうのである。
 精神的優位は常に魔界衆たちにあるし、そうでなければ物語は面白くならない。前作の映画化ではカットされた、柳生但馬守対宝蔵院胤舜。ともに十兵衛との戦いを望み、それが果たせなかった二人。この二人の戦いを描くことにどんな意味があるか、脚本家は、監督は考えなかったのだろうか。
 宝蔵院胤舜が「魔界もいいものぞ」と柳生十兵衛に嘯くシーンまでは、私はこの映画の成功を疑わなかった。胤舜の問い掛けに無言で答える十兵衛は、既に人の身でありながら、自らも精神的には魔界衆であることを肯定しているのである。

 ……なのにねえ、次にねえ、脈絡もなくさあ、いきなり対宮本武蔵が来ちゃうんだよ。
 しかも演じてる長塚京三がもう、どうしようもない。ただの優しいおじさんだ。セリフにも殺陣にも鬼気迫るところがカケラもない。こないだ東京ですれ違ったときの方がよっぽど雰囲気怖かったぞ。又右エ門にも胤舜にも但馬守にもちゃんと戦うモチベーションを与えて描写してたのに、なんで肝心要の武蔵をこんなチョイ役に使うんだよ。
 しかも、武蔵倒すの、十兵衛じゃないし(T-T)。
 でさあ、一応ヒミツってことらしいから、原作にない最後の魔界衆、隠しておくけどさあ、なんで大ボスがアレなんだよ。整合性も説得力もねえだろう。
 なんでこんな破綻が起きちゃったかって考えてみるとさあ、やっぱ「深作欣二の呪縛だなあ」としか思えないんだよね。天草四郎をメインに立てたりするような原作の改変、深作版からそのまんま頂いてるしねえ。
 でも、それやっちゃうと「絶対に面白くならない」こと、平山監督にはわからなかったのかなあ。
 「剣豪対剣豪」のドラマは次の十兵衛対但馬守で完結してしまう。しかも今度の天草四郎には「髪切丸」の忍法もない。装飾に凝って見せたって、盛り上がるものでもない。蛇足だけのシーンを見せられる方はもう、ひたすら苦痛だ。

 けれど、それだけの致命的な欠点があるにもかかわらず、私はこの映画を嫌いになれない。少なくとも細川ガラシャがHするためだけに蘇って腰ばっか動かしてたチンケで糞な深作版に比べりゃ、何百倍も面白いのだ。
 クボヅカがどうのってことに拘ってる阿呆には絶対に分からない、時代劇の魅力が横溢しているのだ。
 あのロングでじっくりと見せる殺陣の数々、カメラが寄ってばかりで殺陣がどうなってんだか分らない『五条霊戦記』と比べてみればいい。柳生但馬を演じた中村嘉葎雄は、『キネ旬』で「ぼくは殺陣がヘタだから」と卑下して語っていたが、ほかの役者の誰よりもその剣さばきは早い。私は劇場で何度息を飲んだことか。劇場に行くほどでなし、レンタルビデオでいいや、とか考えてる連中がさ、テレビモニターの小さな小さな画面で「なんだつまんねえ」とか言うんじゃないかと思うと、私ゃ涙が出そうになるよ。
 そして死に行く女たちのエロチシズム。クララお品役の麻生久美子の妖艶さと来たらどうだ。アレで勃たなきゃ男じゃないぞ。

 ……でも実際の話、劇場に足を運んでるのって、圧倒的に窪塚ファンが多いんだろうなあ。後ろにいたいかにもアタマ軽そうなバカップル、ラストで「何これ?」と不思議がってたけど、これはお前らのための映画じゃないんだよ(怒)。


 帰りにコンビニに寄って夜食を物色。
 ついでに永井豪『黒の獅子』2巻(完結)を買う。
 アイデア自体は好きだったんだよなあ。戦国時代を舞台に、不死身のサイボーグ、ビリィ・ザ・キッド、張飛翼徳、ユリシーズらが地球を襲う「白魔」の手で蘇えらせられる(なんか魔界転生みたいね)。
 でも、似たようなネタの『ズバ蛮』の面白さに比べて『黒の獅子』がどうにもつまらないのは、もうこのころの永井豪の絵から「若さ」が消えていたからである。本作には習作時代のオリジナル版があって、「永井豪展」で以前原稿を見たことがあったのだけど、やっぱりそっちの方が面白かったのだった。

2002年05月16日(木) で・じゃ・ぶぅ/DVD『アードマン・コレクション』
2001年05月16日(水) 鳥頭の女/『文鳥様と私』2巻(今市子)



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藤原敬之(ふじわら・けいし)