無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年01月17日(木) 部屋の中を歩けるようになったよん(それが普通だってば)/アニメ『七人のナナ』第2話/『クレヨンしんちゃん』31巻(臼井儀人)ほか

 体調、そろそろギリギリの状態に。
 なんたって、血便が止まらないのだもの。
 ウチの便器は、既に洗っても洗っても、ほんのりピンクになってるぞ。

 しかし仕事は休めない。
 なんとか今日も息つきながら一日過ごして、しげの携帯に連絡を入れたら、またもやつながらなかった。
 しげも疲れてくたばっていたのだ。

 帰宅してなんとか『七人のナナ』の第2話「大混乱!7人そろって学校へ?」を見る。
 『おねがい!ティーチャー』も仕掛けておいたのだが、テレビタローの番組表が間違ってて、時間がずれていた。よくあることだし、たいして入れこんでなかったんでショックは少なかったが。
 『ナナ』は今回からオープニングがつく。
 ……戦隊もの?(・・;)
 うーむ、さすがは『味っ子』『Gガン』の今川泰弘。ただのSFラブコメにする気はないらしい。
 よく見ると画面の中にいろんな少女マンガ雑誌が。
 『りばん』とか『花ゆとめ』とか(^^)。
 『紅茶王女』や『フルーツビスケット』なんてのもあったぞ。まあこういうギャグ、嫌いじゃないけど、あまり楽屋オチ的なギャグには走らないでほしいな。。
 本編の作画も1話目ほど爆走はしていないが安定している。
 けれど、1年後には七人のナナが全て消えてしまう、それまでに一人のナナに戻らなければ、という設定はちょっといただけない。それって、科学者であるジイちゃんが方法を見つければいいだけの話で、ナナが努力してどうなるってものでもないんだから。
 もう少し設定がストーリーに絡んでくれれば、切実感も出るんだけどね。


 昨日の『ヒカルの碁』第十四局『三度目の対局』。
 録画していたのを見返す。
 前回ヘタレていた作画、なんとか持ち直している。
 監修の梅沢由香里さんはご結婚が決まったそうな。
 そう思ってみると「GOGO囲碁」も感慨深いか(何がや)。
 エンディングが観月ありさに変わったけど、サイクルが早くないか。半年も経ってないのに。


 疲れ果てているので、日記もつけずに泥のように寝る。
 ただひたすら寝る。……ああ、書くことが少なくてラクだ。


 夜、溜まりに溜まっていたゴミをやっと捨てる。
 ゴミ捨て場のゴミの半分以上がうちから出たもんだ。こりゃいくらなんでもヒドイな。
 まだもう少しまとめてないゴミが残っているが、しげは明日捨てると言っている。もちろん、明日になればしげは忘れているに決まっているので、聞き流す。
 そのうちしげのケツひっぱたいて片付けさせなきゃならなくなるのだ。


 ネットやあちこちのホームページで劇場版『とっとこハム太郎』の「毒電波ぶり」が話題になっている。
 オトナは全然面白くないのに、子供が食い入るように見ているのがフシギってんだが、ちょっとそれも過剰反応じゃねーかとは思うけどなあ。
 だってそんなの、かつてのゴジラ映画や東映動画に熱中していた我々と同じじゃないか。
 特に今回の映画、話の外形は昔から「ケンちゃんシリーズ」なんかでよく描かれてた「子供の家出」ものに過ぎない。
 子供なら、一度は考えたことがあるだろう、「自分はこの親の本当の子供ではないのではないか?」という思い、「自分はいつかこの親に捨てられる、あるいは殺されるのではないか」という思い、それに押しつぶされそうになって、子供は家を出る。
 たいていのドラマでは、最後に親と子が邂逅し、和解するというハッピーエンドを迎える。……いったい、この手のドラマ、何10本見せられて来たかねえ? ルーツを遡れば、『オズの魔法使』あたりまで行きつくんじゃないか。
 子供はだから、ロコちゃんとハム太郎との関係に親と自分を重ね合わせているのである。ハムハムランドは楽しいけれど、ロコちゃんのいない世界なんだもの。その「喪失感」があの映画全体に横溢しているのだ。それが子供たちの不安感を煽り、画面に集中させる結果になったのではないか。
 と、ここまで考えてて、ふと気づいた。
 ハム太郎は所詮ペットだ。ハムハムランドから帰ってきて、ロコちゃんに再び会えたからといって、最初に感じていた、ロコちゃんとの距離、人間と動物との差が本当に埋められたわけではない。だとすれば、これまでの「家出もの」とは、その点で全く一線を画するものがあるのではないか。
 だって所詮あれって見せかけのハッピーエンドでしかないもの。ハム太郎がロコちゃんの恋人になれる日なんて永遠に来ないんだから。ロコちゃんも、ハム太郎も、その現実から目を背け、とりあえずは居心地のいい、もう一つの虚構に逃げただけの結末なのだ、アレは。
 劇場の子供たちは、ひょっとしたらそこまで感じ取ってるんじゃないか。自分が「人間」として扱われているのではなく、親の「ペット」に過ぎないってことを。そしていつかは「捨てられる」ってことを。……そりゃ、食い入るように見はするわな。
 ……そう言えば、劇場で見たときも子供たち、ハム太郎のあとも全然元気がなかったなあ。彼らの未熟な表現能力では、自分たちが何に不安を抱いているか気がつかなかったかもしれないけれど、その不安は恐らく外れてはいない。
 君たちはいつか捨てられるのだよ、あるいは実はもう、生まれた時から捨てられてるかもしれないのだよ。早いとこ、それを自覚した方が自立の道も開けるんだけれど、小学生くらいじゃ、まだまだそれは難しいかもねえ。


 マンガ、臼井儀人『クレヨンしんちゃん』31巻(双葉社・560円)。
 『クレヨンしんちゃん 寒いけど、オラのハートはあっついゾ!号』(双葉社・380円)。
 アニメの方は時々しか見てないんだけど、モロダシ共和国のオマタさんは出て来てないよなあ。
 例の堺市のなんたら家族が「黒人を出すな」とか言って騒いだ悪影響がこんなとこにも出てるよな。アニメと原作のどっちが好きかって言われたらアニメの方、と答えるしかないんだけど、原作にしかないギャグもあるから、やっぱりついつい買っちゃうのである。
 私は『しんちゃん』については遅れてきたファン(映画版『アクション仮面VSハイグレ魔王』以降)なので、細かい設定は知らないことも多い。アニメと原作の違いもところどころしか解らない。
 『クレヨンしんちゃん百科』みたいな本が出ないかなとも思うんだが、子供向けだと中味がチャチなものにしかならないし、かと言ってオタク向けだとデータが細かすぎて売れない。
 やっぱり世間でのオタクの占める割合が増えてってくれないと、モノの供給自体、されなくなっちゃうのである。

2001年01月17日(水) 雪が溶けて川になって流れていきます/『これから』(夏目房之介)ほか


2002年01月16日(水) どんぶりめしがいっぱい/『パワーパフガールズ<DCコミックス版>』1巻(クレイグ・マクラッケン)ほか

 仕事が伸びて、迎えに来てくれたしげを1時間待たす。
 「やあ、遅れた、ごめん」と謝ったのだが、言い方が多少ぶっきらぼうだったので、「威張って待たせるな!」と怒られる。
 「別に威張ったりしてないよ」
 「うそ。『ごめん』って言いながら、ニヤニヤしてるし」
 「照れ隠しに笑ってるんだよ」
 「はん、笑って許してもらおうって魂胆だね」
 「……そうやって、波風立てて楽しいか?」
 「ほら、そうやって責任転嫁する。自分が悪いって思ってない証拠やん」
 「……今日はしつこいなあ、お前」
 「シツコイって……!」
 「寿司屋に行くか?」
 「うん行く!」
 ちょろいもんである。

 けれどふと見ると、寿司を食うにはサイフの中身がやや心許ない。
 さりげなく「それともほか弁がいいかな?」と言ったら、「そっちのほうがいい!」としげ、乗る。
 しげはその日その日で食いものの好みが変わる。
 「しばらくほか弁を食べてない」
 「しばらくカップ麺を食べてない」
 そういう、ちょっとした間を狙って誘うと、ホイホイと乗って来るのだ。
 安上がりですんで助かるなあ。
 それにしても、食いものだけでマインドコントロールができる妻ってのもラクなんだか情けないんだか。


 しげ、リンガーハットから余ったメシをもらってくる。
 しげはたまにそういうことをしてくれる。これまでにもバイト先を転々としているしげであるが、それが全て食いもの屋であるのは明らかにソレを狙っているからであろう。
 米を炊く必要がなくて助かりはするのだが、今日は量が異様に多かった。
 どんぶりに二杯、更に握ったメシも十数個。
 「なんだよ、この量は」
 「だって余ったんだもん」
 ドンブリでも一杯くらいならなあ、特に問題はないんだが、これだけあると一日では食べきれない。かと言って二日も三日も持たせてたら冷蔵庫に入れてたって、悪くなる。
 「……今から食うしかないか」
 しかし、オカズになるものが、ちょうどレトルトカレーしかなかった。
 ……ハラ、壊してるのにカレーかよ。
 明日のトイレが楽しみである。

 
 マンガ、竹本泉・中山星香・和田慎二・樹村みのり他『ねこミックス』1巻(宙出版・730円)。
 ネコのマンガだけを集めたアンソロジーって体裁だけど、要するに竹本さんに『ねこめ〜わく』の新作を描かせるために雑誌を立ち上げたわけだな。
 元ネタがアンダースン&ディクスンの『ホーカ』シリーズであることは明言している竹本さんだけれど、それがネコと美少女ってのがやっぱりいいよな(何度も書いてるがどうして竹本作品がアニメ化されないのか)。
 ただ、こういう同一テーマのアンソロジー、必ずしも傑作が揃わないというのも事実である。
 他作品との差別化を謀ろうと無理をしてヘンな作品が並ぶか、はたまた似たような作品が並んでしまって、印象が相殺されるかのどちらかだったりするが、さて、これは後者のように思う。
 一作一作を読んでみるとおもしろくはあるんだけれど、続けて読むと「またネコかい」。ほんとに猫好きにしか楽しくないって作品集になっちゃってるんだよなあ。
 
 気になるのは、竹本さんの『ねこめ〜わく』のサブタイトルが『……そろそろ』であることだ。
 これは「そろそろ歩く」ということなのか「そろそろ終わり」ということなのか。ずいぶん長く続いてきた作品だから確かに終わってもおかしくないんだけど。
 百合子ももうオトナになったしなあ。
 ネタも尽きて来たのか今回のカメラネタ、そんなにおもしろくなかったしなあ。
 でも竹本作品のベスト3と私が勝手に思ってる作品なんで(あとは『アップルパラダイス』と『さよりなパラレル』)、もちっとだけ続いてほしいんである。
 あと、読んで気に入ったのは、樹村みのりの『おかあさんがいない』。母猫の死を、物心ついたばかりの子猫の視点で描く。物語の起伏はないが、そこが無理をしてない淡々とした筆致なので、すんなり読める。
 坂田靖子の『猫ぼん』は続きものか?
 舞台はイギリス、大きな屋敷に家庭教師にやってきたマスコウィッツくん、出会った生徒のパティくんはどう見ても猫……久保キリコの『ちょべりぶ』みたいだけれど、物語はそれでオシマイ。次号も続くんじゃなきゃ、話にもなってないぞ。
 連載ものも単発ものも最後が全部「おしまい」なので区別がつかないのだ。


 マンガ、クレイグ・マクラッケン原作『パワーパフガールズ<DCコミックス版>』1巻(小学館・788円)。
 『PPG』の公式コミック。
 アチラのコミックが、原作・下書き・仕上げ・文字・彩色・編集と、完全分業体勢になってるのは知ってたけど、にもかかわらず、各話の印象が変わらないってのがスゴイね。
 作画が変われば面長なバブルスとかが生まれてもよさそうなものなのに(^^)。
 そこが、作家性を重んじて各話のキャラの顔が多少変わってたってかまわない日本のアニメと、何より作品のイメージを重んずるアメリカのアニメとの違いなんだろう。
 実際、アニメとの印象も全く違わないのだもの。
 アニメでは見られないエピソードを、一部は原作者のクレイグ・マクラッケン自身が執筆しているのだ。これはもう「公式」どころかアニメに連なる新作の『PPG』と言える。
 各話に石川裕人氏による日本語の解説がついてるのも親切でありがたい。
 でないと、PPGを倒したモジョ・ジョジョが、フルーツパイを出された途端に負けちゃうってネタ、何のことかわかんなかったもんね(わかんないでしょ?)。
 それにしてもアチラの5冊を1冊にまとめてもわずか130ページ。全ページカラーで、1話あたり150円ってとこか。まあ安いほうなのかな。

2001年01月16日(火) 雪の白樺並木、夕日が映える/『風の歌うたい』(吉田秋生)


2002年01月15日(火) チュパカブラってなんだよ/『機動戦士ガンダム ジ・オリジン ―激闘編― SECTION �機伸供�

 朝からハラが痛いなあ、と思っていたら、血便が出る。
 ああ、やっぱり体調崩してるんだなあ。
 血便そのものはすぐさま命に関わるなんてことはないんだが、ともかく貧血気味で疲れやすくなるのがツライ。
 少し柔らか目の食事をするようにした方がいいかなあ。


 帰りの車の中で、しげが「回転寿司に行きたい」と言い出す。
 まあ、寿司くらいなら、別にハラに響きはしないかな、と思い、「いいよ、ただし安い店でな」と返事をする。
 そのまま、寿司屋に向かってバイパスを走らせていると、ふと、一件の店しげの眼に止まった。
 急ブレーキ、急旋回。
 思わずシートベルトをぶっちぎって窓の外に投げ出されるかと思った。
 「な、なんだよいきなり!」
 驚く私を無視して、しげ、その店の駐車場にスルスルと車を止める。
 「やっぱり『王将』にする! 餃子食べたいし!」
 ……また、腹に応えそうなものを。
 けれどいったん店先に止まっちゃった以上、また出て行くのも店の人に悪い。
 仕方なく、定食だの餃子だのを頼むことにする。
 実際、安上がりな店だし。

 なのにしげ、餃子をぱくつきながらも浮かぬ顔。
 「どうしたん、美味しくないんか?」
 「うん、ここのあんまし好みじゃない」
 「……だったら最初から別の店にしろよ!」
 「だって餃子が食べたかったんだもん!」
 ……よくわからん理屈だ。


 帰り道、「ベスト電器」に寄って、ビデオテープを買う。
 ポイントカードが溜まってるはずだから、代金がかからないはずだと思いこんでいたのだが、前回使い果たしていたのを忘れていた。
 まあ、テープも昔に比べて(って、いつだよ)ずいぶん安くなったから、S−VHSを2、30本買ったからって、いきなり生活に響いてきたりはしないけどさ。

 そのあとマルキョウで食料の買いおき。 
 そこでまた一つ、ヘンな食玩が出ているのを見つける。
 「コレクト倶楽部 七不思議編」。
 出してるのは味覚糖か。七不思議ったって、バビロンの空中庭園みたいな正統派じゃなくて、どっちかと言うとトンデモグッズを集めたもの。
 このラインナップがなんか感動していいのか、それとも頭痛を覚えればいいのか。ちょっと以下にご紹介しよう。

 01.イースター島のモアイ像
 02.水晶どくろ
 03.黄金シャトル
 04.アレクサンドリアの大灯台
 05.ノアの箱舟
 06.ゼウス神像
 07.トロイの木馬
 08.バベルの塔
 09.ロードス島の巨人像
 10.天空城ラピュタ
 11.火星人来襲
 12.捕らえられた宇宙人
 13.異星人来訪
 14.エイリアン・グレイ
 15.ネッシー
 16.スカイフィッシュ
 17.ツチノコ
 18.モア
 19.ロック鳥
 20.チュパカブラ
 21.ビッグフット
 22.河童のミイラ
 23.人魚
 24.鬼

 脈絡がない点では永井豪マニアックスに匹敵するかな(^^)。
 「捕らえられた宇宙人」ってのは例のサルの毛を剃ったヤツである。既にネタバレしてるものまで「不思議」に入れるなよ。だいたい、宇宙人関係は「七不思議」か? 24種類ってのも7の倍数でもなんでもないじゃん。
 チュパカブラって、なんか吸血鬼みたいのらしいが、何の文献に出てるんだろう。『幻獣辞典』にあったっけ? 典拠を示すくらいはしてほしいよなあ。
 ためしに二個、買ってみたら、「灯台」と「鬼」が出た。
 まあ、悪いというほどの造型ではないが、フルタの妖怪シリーズと比較するとどうしてもチャチに見える。買い揃えるかどうかはそのときの気分次第だなあ。
 それに妖怪根付だって、まだほとんど揃えてないんだし。

 なんと『七不思議編』のほかにも『古代文明編』てのまであるらしい。
 ホントに誰が買うんだろうね。多分、それも私だ(^_^;)。


 『ニュータイプドットコム2月号増刊 ガンダムエース 2002 Winter No.003』(角川書店・650円)。
 タイトル見てて気づいたことが二つ。
 アルファベットでタイトルに『GUNDAMA』って書いてあるけど、これ、そのまま読んだら「グンダマ」としか読めないよなあ。新しい隕石の一種か(^o^)。
 あと、「No.003」とあるけど、3桁ってことは最低100冊は出すつもりなのかな。冗談でなく、『ガンダム』『Zガンダム』あたりまで描いたとしたら、そこまで行っておかしくはないけどね。

 実を言うと、単行本が出るまで、安彦良和さんの『機動戦士ガンダム ジ・オリジン』の感想書くのやめようかなあとか考えてたんだけど、二度目に読んだときは読んだときで新たな発見もあるかもと思って、書くことにした。
 今回は、『―激闘編― SECTION �機伸供戞�
 シャアとアムロの最初の対決だ。
 そう、その最初の一発を赤い彗星がよけて、それからシャアの一発をガンダムが盾で受けて……「これが……戦い!?」……そうだ、モニターに巨大な足が映って……蹴りまくられるガンダム!「未熟だな、連邦のパイロット!!」。
 うおおおお、聞こえてくるよ、渡辺岳夫のBGMが!
 この醍醐味、ファーストガンダムに入れ込んだ世代じゃなきゃわかるまいなあ。うひひひひ、これこそが早く生まれた者の特権ってヤツだね(年寄りの繰り言とも言う)。

 もちろん、テレビシリーズそっくりの展開もあれば、変更点もある。
 ブライトさん、テレビに比べてずっとバカになってるし(^o^)。
 「宇宙へ出たの始めてなんですよ。司令部での勤務が長かったものでね」ってセイラさんに言ってたセリフ、テレビで見てたときは、てっきり気弱になってセイラさんに甘えてたんだと思いこんでたよ。
 だって、テレビの作画は、結構ブライトさんを凛々しく描いてたし。少し上を見上げて、鈴置洋孝さんもキリリと思い深げに喋ってたんだよ。
 なのに今回のマンガ、ブライトさんの表情、上を見上げちゃいるけど冷や汗流してるし、片眉上げて口元が歪んでてさ、いかにもイヤらしいんだよねえ。
 ……とゆーことは何かい、これって、単に「ボクってエリートなんでナイーブなんだよねえ」って、セイラさんにコナかけてただけじゃん! 
 そ、そうか、それでセイラさんは「エリートでいらっしゃったのね」って答えてたのかあ!
 この勘違い、私の読解力が低いってだけの問題じゃないと思うぞ。
 たしか鈴置さんも、「最初はカッコいいヤツのつもりで演じてた」って言ってたから、それを安彦さんは始めから「いじられキャラ」としてブライトさんを描き直しているのだ。あああ、芸が細かい!

 ルナツーでのシャアの強襲もオリジナルな展開。
 「オレはシャアに勝てるかもしれないっ!!」ってのぼせあがってるブライトさんもいいなあ。戦ってるのは兵士だろうがよ。これでちゃんとブライトさんを「嫌いになれる」。
 シャアの不敵さもここで再確認。「おもしろい、こうまであなどり難い敵か!!」。
 そして出たぞ、ルナツー司令・ワッケイン。
 チョイ役だが結構好きなキャラだ。映画版ではブライトたちに同情して涙まで流して軟弱化したが、もうテレビシリーズ以上に酷薄な軍人ぶりを見せつける。
 ブライトさんの軍規違反を咎めだて、「せめて避難民をおろさせてください!」の嘆願にも「善処しよう」。
 ……絶対、やる気ないよな(^o^)。これがまさしく軍人として司令にまでなれた証なのであろう。

 安彦さんが、サイン会レポートで「ガンダムは『いらないしっぽだ』と言い続けていましたが、20年たって『あれはやっぱり単なる過去ではなかった』としみじみわかりました」と語られている言葉を聞くと、その境地に達せられた安彦さんに心から拍手を送りたくなる。
 「ジェームズ・ボンド=ショーン・コネリーと思ってもらいたくない」というような心境と似たようなものだったんだろうけれど、「代表作」ってヤツは何をどうしたってその人間についてくるものなんである。その覚悟の上で描かれる『ジ・オリジン』がどのようなものになっていくか、これを期待せずに何を期待しようか。

2001年01月15日(月) 雪は降る、貴女は来ない/『ウルトラマン対仮面ライダー』(池田憲章・高橋信之)


2002年01月14日(月) 原作と映画の間/映画『走れメロス』/『朱色の研究 夕陽丘殺人事件』(有栖川有栖・麻々原絵里依)ほか

 成人の日。
 ああ、三連休というのはありがたいなあ。自分のペースでやりたいことがやれるし。っつーかたいてい本読んだりDVD見たりなんだけど。
 三日も休みがあると何をしていいか分らない症候群じゃないもんね、私は。


 昨日録画しといたCSチャンネルNECO『走れメロス』をしげと見る。

 『走れメロス』の映像化は、恐らく腐るほどあると思われるが、そのほとんどが世に知られてはいまい。
 それはたいていが、NHK教育とかの子供番組でのダイジェストものだったりするからだ。
 では、本格的な映画化作品はあるのかと言われると、これが意外にもほとんどない。理由はおそらく単純に、「舞台がギリシャである」ため、日本人キャストでは映画化が無理だったせいだろう。
 しかし私は、それ以外にも、「超有名な小説が意外にも映画化されにくい」理由があるのではないかと思う。そのことをちょっと考えてみたい。

 それは要するに「手垢がつきすぎている」ということだろう。
 映画化しても新鮮さに欠けるのである。集客力につながるものとはちょっと考えにくい。
 更に言えば、「教科書に載るような作品は所詮、教条主義的な作品に過ぎない」。既成の概念の破壊と再編成が芸術の価値であるとすれば、『メロス』くらい魅力のない作品はないのだ。友情の物語など、描かれつくされ、語られつくされている。仮にそういうものを描きたいからと言って、その典拠を『メロス』に求める必要など全くないのだ。
 実際、この映画が製作された1992年、「なぜ、今どき『メロス』?」と、考えた人は多かったのではないか。
 太宰作品に限らない。過去の作品を今に蘇えらせようとするには、そこに明確なモチベーションが必要となる。芥川龍之介の諸作だって、黒澤明の『羅生門』(原作は『藪の中』)、豊田四郎の『地獄変』が知られているくらいのものだ。ほんの百年も経っていないような時期の小説ですら、現代での映画化は容易ではない。果たして『メロス』の映画化に、我々はどのような意味を見出せばいいのだろうか。

 では、『走れメロス』の映画が今までに全くなかったかというと実はある。
 しかも全て日本人キャストで。
 ならば舞台が日本なのかというとそうではなく、中近東の某国に移し替えられているのである。
 タイトルは『奇巌城の冒険』。
 主演、メロスにあたる「大角」に三船敏郎(……え?)。
 セリヌンティウス「円済」に中丸忠雄。王役は三橋達也。
 製作は東宝=三船プロ。つまりこれは、『大盗賊』で呂宋助左衛門に扮した三船が姉妹編として作った「冒険もの」なのである。
 三船とメロス。このミスマッチ感覚が実に楽しい映画であった。
 でもまあ、それは余談。

 しかし、今回の映画を見ていて、私は唖然とした。
 先にハッキリ言ってしまうが、これは太宰治の『走れメロス』とは全くの別物である。その精神においては真逆とすら言えるものだ。
 言うまでもなく、この『走れメロス』はアニメーションである。絵で描ける以上、原作通りの世界観を展開させることは不可能ではなかったはずだ。
 メロスに山寺宏一、セリネ(セリヌンティウス)に小川真司、ディオニシウス2世(この名は原作には出て来ない。史実に合わせた改変である)に故・小林昭二。
 なんともはやシブ過ぎるキャスティングである(もっともこれじゃウリがないと製作者が思ったのかどうか、女性陣には水沢アキや中森明菜を並べている)。
 こう芸達者が揃っているなら、やはり物語を原作に忠実に描いたとしても、ありきたりな印象にはならずにすんだと思う。
 しかし、監督のおおすみ正秋(あの『ムーミン』や『(旧)ルパン三世』の監督だ)は、全てにおいて原作とは正反対の解釈で物語を作っていたのだ。

 まず、メロスとセリネは竹馬の友ではない。
 これだけでも大胆な脚色なんだが、問題はその後だ。
 シラクサの町で初めて出会った二人、旅人のメロスと彫刻家のセリヌンティウス。気があったその日から二人は親友になる。
 城内に入りこんだメロスが、国王暗殺の犯人として捕らえられる展開は原作とも共通しているが、原作がその目的が事実だったのに対して、アニメでは「うっかり迷いこんだだけで国王暗殺の意図はない=王の誤解」とまたもや大きな改変。

 そして、これがもっとも大きな変更だろうが、セリネが身代わりを申し出たのは、メロスを助けるためではなかったのだ。
 ノラリクラリとしていてはっきりとは語られないが、どこかセリネはメロスの帰還を信じつつも「帰ってこなくてもいいかな」と思っているフシがある。
 酒で身を持ち崩していたセリネは半ば自暴自棄的な思いで人質に名乗り出たのだ。暴虐な王をたしなめるきっかけがほしかった、それだけだったようにすら見える。
 となると、ラストで殴り合う二人の行動の意味も、全くの別解釈が必要となろう。セリネがメロスに殴らせたのは、メロスの真意を疑ったからではない。彼を利用しようとしたからだ。
 原作では帰還したメロスに自分の不明を詫び善政を誓う国王だが、アニメでは最後まで反省はしない。結果、民衆は国王をシラクサから追い出してしまうのである。途中経過を見ていても小林昭二の憎々しい声で演じられているこの国王が最後に涙を流して反省するようには見えなかったが、これはどうやら史実のディオニシウス2世の事績に合わせた改変のようだ。
 つまり、薄っぺらなヒューマニズムでオチをつけた原作を、監督は拒否したのである。それが正しいか正しくないかの議論は置く。ここには、政治とは結局、戦いによってしかなされないと考えるおおすみ正秋のリアリストとしての目が働いていると言っていいだろう。


 ……いや、面白い。
 書き忘れたが、作画監督は『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』、『人狼』でアニメーションのリアル演出で、一つの頂点を極めたと言ってもいい沖浦啓之であるが、まだほんの少し型どおりの演技をキャラクターにつけている部分が見えて微笑ましい。
 ここから『人狼』までわずか数年でたどりついたってのがすごいよなあ。


 沖縄では一足先、昨日に成人式が行われていた模様だが、予想通り(^_^;)トラブルがあった模様だ。
 会場内に酒を持ちこもうとした連中が警備の者と押し問答の末、乱闘になって逮捕されたとか。
 昨日の新聞にも「沖縄は危険」とか書いてあったから、いかにも世間の期待に答えたような形で事件を起こしてくれたものだ。さすが、イマドキの20代(実際にコトを起こしたのは後輩の19歳の連中だったらしいけど)。外さないよねえ。
 またぞろ昨年のように「成人式のあり方は」とか言い出してるやつがいるけど、あり方もクソもあるか。どう対策を取ろうが、バカはバカだからバカをやるものである。バカじゃなきゃ、これだけ世間が騒いでるのにわざわざ逮捕されるようなコトをするものか。
 どうせなら下手に若者に迎合してイベント制を持たせるようなことはキッパリやめて、もう徹底的につまらなく、どこまでツライ目に忍従できるかを試す儀式にすればいいのだ。
 内容は名士の講演を延々6時間、会場は吹きっ晒しの野っぱらに正座、参加拒否者には罰金五十万円、それくらいやって、暴動起こすヤツを全員タイホ、ということにするのだ。これでいずれ犯罪を犯すヤツを未然にムショにぶちこんでおけるという(^o^)。
 まあ、冗談めかして言ってるけど、成人式が有名無実なのは事実だし。元々これって「イニシエーション」でなきゃならんのじゃないか? 「成人」になるための通過儀礼的なことやってるところが、どこか一県でもあるのか? 別にバンジージャンプをやれとは言わんが、「ハタチになったこと」を証明するような「行為」なくして「成人式」と言えるか。
 逆説的だが、とっつかまった連中は、「ハタチになったこと」を身を持って体現したのである。本人たちはそれで満足だろうから、十年くらいぶちこんどいてハタチの味を噛み締めておいてもらいたいものである。


 今日こそ『ハリー・ポッター』を見ようとしげを誘うが、しげは疲れて寝ている。今日を逃すとまたしばらく行けないというのに、ロングランになってるからと言って、のんびりしてやがるなあ。
 まあ、明日に疲れを残さないためにもそれはそれでありがたいんだけど。


 CSファミリー劇場で『ガメラ2 レギオン襲来』を見る。
 ああ、沖田浩之が出ている。
 未だに自殺の理由を知らないんだよなあ。遺族は当然知ってるんだろうけれど、余り口の端に上らせたくないんだろうな。
 しかし、ほんの数年前の映画だと思ってたけど、結構時間が経ってるんだね。
 冷静になってみるとともかく「ここで予算が使えなかったのは痛いなあ」というところが随所にある。
 自衛隊が地下道まで突入していて群体レギオンと戦うシーンがないのは不自然だし、草体レギオンの開花の様子は、アニメーションででもいいから見せなきゃ盛り上がらないよ。
 あとやっぱり永島敏行と水野美紀が敬礼して別れるっての、「今時の若いヤツがそういう『文化』を脈絡もなく、いきなり見せるのは不自然」だと思うぞ。
 ウチの女房も多分水野美紀と同い年くらいだと思うが、私が仮に戦場に行くことがあったとしても、敬礼で送りゃしないと思うのだ。新作『ゴジラ』で、私が宇崎竜童と新山千春のラストシーンに不自然さを感じてるのも、その辺に理由がある。
 それとも私が知らないだけで、「敬礼文化」ってのが世間では流行してるのか。んなことはないだろう。私は単に、『ヤマト』『マクロス』以降の戦争アニメの悪影響だと思うがな。アニメ感覚で実写を撮られてもねえ、文法が違うと思うんだがなあ。

 
 『すごいよ!マサルさん』5話、『これが青春だ』13話、『行け!ゴッドマン』7話など、ダラダラと見る。

 『マサルさん』は言わずと知れた大地丙太郎演出なんだけど、『フルバ』と演出の仕方が変わってないのな。とゆーか、『マサルさん』の演出のタイミングで『フルバ』も演出してるわけなんだけど、これって相当少女マンガから逸脱してるどぎついギャグだと思うんである。
 『フルバ』ファンは怒らなかったんだろうか。

 『青春だ』は、サッカー部部長を決める話。
 結局部長に決まったのはいったん学校を退学していた不良。つまり不良がいかに更生するかって話なわけなんで、これも時代だよなあ。「学校に来れないヤツ=苦労人」という図式も今じゃ完全に崩壊してるし。

 『ゴッドマン』、ただアクションだけを30分延々見せられるとツライツライ。
 ただ殴りあってるのを映してるだけで、見せ方に工夫がないせいだろうけどね。無駄なようでも人間ドラマがいるのだよ、子供番組と言えども。


 マンガ、北崎拓『なんてっ探偵アイドル』6巻(小学館・530円)。
 だんだん、アキラ以外のトリコロールが目立たなくなってきたなあ。
 3人のうち一人にだけ探偵能力があるって設定にしたのは失敗だったんじゃなかろうか。
 「ジッチャンの名にかけて」とか「謎は全て解けた!」とか決めゼリフを三人でやるようにするとか、ケレンを入れた方がいんじゃないのかな。……それじゃ『スケバン刑事』か。
 それと怪盗ものと鏡を使ったトリックは、もう『コナン』にだけ任しとけばいいんでやらないほうがいいよな。
 あと、殺人の動機はもう少し練ってもらわないと……。
 ……突っ込むほどのマンガじゃないですね。すみません。


 マンガ、有栖川有栖原作・麻々原絵里依漫画『臨床犯罪学者・火村英生のフィールドノート�◆ー訖Г慮Φ罅〕射杁峪�人事件』(角川書店・546円)。
 ……なげーよ、タイトル。
 1巻が出たの、2年以上前じゃないか? でもこの本も去年の10月に出てたの気がつかずに買い損ねてたんだけど。
 少女マンガ家によるミステリーの漫画化もずいぶん増えたけれど、70年代を引きずってるような古臭いセンス、もろレディースなクサイ演出、不必要に美形なキャラデザインの愚作(浅見光彦ものは、たいていそうだ)も多い一方で、原作をキチンと読みこんだ佳作も増えて来たのは喜ばしい。
 動きの少ないセリフだらけのストーリーを、作画の麻々原さん、見やすくうまくまとめている。
 原作の火村英生という探偵キャラクター自体には、私は余り魅力を感じてないのだが、アンニュイさを漂わせている作画デザインはなかなか秀逸である。ストーリー自体はまだ完結してないので、まだ感想は言えない。次の3巻がいつでるか分らないのがちょつとネックか。

2001年01月14日(日) 雪の断章/アニメ『ポール・グリモー短編集〜ターニングテーブル〜』


2002年01月13日(日) カメラ小僧にご用心/DVD『エコエコアザラク』/『ななか6/17』5巻(八神健)ほか

 しげとよしひと嬢、夜中の3時に撮影に出発。
 今しか時間がないということだが、風邪をひいてるってのにそりゃちょいとムチャだ。
 かと言って止められるものでもなし、しげにはトキワの「眠眠打破」、よしひと嬢には「エスタック滋養液」をあげる。
 まあ、これで少しは持ちゃあいいんだが。

 二人を送り出してひと寝入り。
 目覚めると9時過ぎで、今日も『アギト』を見逃した。
 ううん、最終回1回前だというのになあ。

 アニメ『コメットさん☆』第41回「タンバリン星国の誰かさん」。
 誰かさんって王子様だろうって野暮は言いっこなし。
 けど最終回1回前でいきなり別の王子様が現れたらタイヘンだな。
 先週は見逃したので、状況がよく分らないけれど、どうやらミラとカロン、ケースケの正体を知っていたらしい。
 ……どこにそんな伏線があった(^_^;)。まあ、毎週見てたわけじゃないからなんとも言えんけど。
 ケースケ=「タンバリン星国の誰か」の失われた輝きを捜すために、コメットさんは保育園など、自分が輝きと出会った人々の所へ連れて行く。
 けどここでちょっと気になるシーンがある。
 園児たちが粘土遊びをしている時、中の一人が突然泣き出して、「大きいの作りたいのに粘土が足りない」と駄々をこねる。すると先生がみんなに「誰か粘土を分けてあげて」と頼むのだ。
 ……普通、「わがまま言っちゃダメ」って叱らんか?
 いや、頭ごなしではなくとも、説得するのが当然だと思うんだが、子供のワガママにいちいち対処するのって躾にならんと思うんだが。
 多分これ、灰谷健次郎の『せんせいけらいになれ』に影響受けてんじゃないかなあ。できるだけ子供の自由にさせてやるのが個性を伸ばすことになるとかなんとか。でも実際にはある程度の制約がなければ子どもって考える力なくしちゃうんだが。
 コメットさんが男に変身して(でも結局ただの男装)、ケースケと男同士の話をしよう、という展開もちょっと安易だ。ラストに来て、ウチキリが響いて来たのかなあ。
 本筋とは関係ないけど、予告編のナレーションにビックリ。ムークが「これで故郷の妻と子に会える」……って、妻子持ちだったのかよ!?


 WOWOW『ノートルダムの鐘』見る。
 最近、著しく凋落の激しいディズニー。
 今度の『アトランティス』も、日米ともに興行成績が芳しくないらしいねえ。まあ、客を舐めきったような駄作を連発してりゃあ、それも当然な結果なんで、自業自得ってもんである。
 それでもこの『ノートルダム』は成績“だけ”はマシなほうだったんじゃないかな。一応、前作の『ライオン・キング』の余波があっただろうし。
 でも、実のところ、これがディズニー没落の原因の一つになったんじゃないかと私は勝手に邪推している。
 本作の原タイトルは“The Hunchback of Notre Dame”で、直訳すれば『ノートルダムの傴僂男』。ところが、オリジナルのオープニングタイトルにもちゃんと“Hunchback”と出るのに、日本公開版のみ、原題そのものまで改変して“The Bells of Notre Dame”としちゃったのは有名な話。
 こんな偽善的かつアホなマネさらしてるから、客が離れちゃうんだよ。
 元々、せむし男カジモドは、ロン・チャニーやチャールズ・ロートン、アンソニー・クインらが扮した由緒正しい“怪奇”映画の主人公として有名だった。けれど、意外や意外、原作は『レ・ミゼラブル』のビクトル・ユーゴーなんである。つまりこれって、堂々たるゴシックロマンの元祖なんだよね。
 それをまあ、よくもお花畑嗜好のディズニーが映画にしようと思ったものである。ある意味感動的だと言ってもいい。しかも悲劇的なラストで知られる原作を、ものの見事にハッピーエンドにしやがった。
 いや、これは果たしてハッピーエンドか?
 カジモドは幸せになれたのか?
 確かに鐘撞男は、その醜い容貌にもかかわらず、人々に受け入れられた。
 しかし、エスメラルダと結ばれたわけではなかった。
 真実、製作者が差別に対して怒りを覚えていたなら、この結末では決してカジモドの心の傷が癒されるものではないことに気づいただろう。カジモドはエスメラルダと愛し合えてこそ、幸福になれたはずなのである。
 だから逆に言えるのである。ディズニーはカジモドを人間として認めてなんかいないのだと。……だって、冒頭に描かれてたように、彼は所詮、「異教徒」なんだから。
 正直な話、見ていてむかついた。こんな馬鹿げた、唾棄すべき映画はない。ディズニーの語る「愛」は歪みに歪みきっているのだ。


 口直しに加藤夏季でも見ようと(^o^)、DVD『エコエコアザラク』見る。
 『ステーシー』の前に公開された、加藤夏季初主演作品だが、映画的な仕上がりは圧倒的に『エコエコ』のほうが上である。……ああ、けど、それって単に「比較すれば」ってことね。『ステーシー』がそれだけひどいってことなんで、『エコエコ』が「傑作」って言いたいわけじゃないのよ。

 加藤夏季が演じるのは、当然、主役である黒井ミサ。
 彼女が初めて「魔女」として目覚めるまでを描く、というのが今回の映像化のコンセプトだが、もちろんそんなのは原作にはない。
 第一、原作じゃミサの両親、ちゃんと今もいるし。
 この映画のように「覚醒」しつつあるミサのせいで両親が死に至る、なんて話にしちゃ、『エコエコ』らしくないんだよなあ。どこかホラーだけれどユーモラスな部分があったのもマンガの『エコエコ』の魅力だったんだから。
 それに、レイプされそうになったことがミサの魔力が覚醒したきっかけ、という設定も安易だよ。……『サルまん』の「イヤボーンの法則」そのまんまじゃんか。だから原作じゃ、そういうやつらを凝らしめるのはもうミサが魔力を自在に操れるようになった後ならいくらでも出てくる設定なんだよ。映画が原作から離れて、オリジナルでやりたかったんならやりたかったで、も少し頭ひねった設定は出て来なかったものか。
 それにさあ、世間がみんな「ミサが犯人か?」と疑ってるとき、未だ完全な覚醒に至らないミサが「私が殺したの……?」って涙ぐんでんだけど、見てるこちらは「そうだよお前が犯人だよ」って知ってるわけだから、同情のしようがないんだってば(-_-;)。
 脚本、『星空のむこうの国』の小林弘利じゃん。ああ、一人よがりなファンタジーばかり書いてるからこんなザツな脚本書いちゃうことになるんだな。

 けれどまあ、加藤夏季が恍惚の眼差しで虚空を見つめながら「エコエコアザラク……」と呟いてるのを見ると、やっぱ、思わずゾクっとしちゃうっスよ。
 十有五歳にして、ここまで妖艶な美をたたえる「魔」の魅力を表現しているとは、恐るべし加藤夏季。原作の古賀新一が、これだけ帳尻のあってない脚本なのに、加藤夏季を見て「ミサだ!」と言ったのも納得である。少なくとも鼻炎声の佐伯日菜子よりは遥かにミサらしい。……ああ、いや、佐伯日菜子のミサもそれはそれで嫌いじゃないけどね(何を弁解しているのかな)。
 それを引きたてる脇役陣に、光石研や蛍雪次朗ら、芸達者を揃えているのもいい演出だ。加藤夏季ファン以外にも、一応この映画は楽しめますよ、とは言っておこう。


 『サイボーグ009』第13話「倫敦(ロンドン)の霧」。
 話は「ほぼ」オリジナル。
 ……だって、007=グレート・ブリテンが、かつて自分が捨てた女の娘と出会う話なんだもの。日曜7時台になんちゅー生々しさか(^_^;)。
 タイトルの『ロンドンの霧』ってのは、グレートがかつて役者だった時代に最も得意としていた演目のこと。ところがその上演を前にして、グレートは、大劇場からのオファーというサクセスと引き替えに、同じ劇団員で恋人でもあったソフィーの前から立ち去ったのだ。
 ……あの、それはいいんですけど、グレートの恋人の名前、原作じゃオリビアなんですけど。細かいようだけど、一応オリジナルな展開で行くとしても、そういう基本設定そのものは大事にしてほしいんだけどね。004=アルベルト・ハインリヒの恋人がヒルダじゃなくてハンナとかアンネローゼだったりしたらファンは許さんでしょうに。
 しかもまた作画が間に合わなかったらしくって、一番感動的なシーンになるはずの、ソフィーの墓の前でグレートが娘のローザと語り合うところ、原画つないだだけのカットがボロボロ出てくる。
 DVDじゃちゃんとリメイクしてよね、頼むから(T.T)。
 けれど脚本は無理にブラック・ゴーストと絡めた展開を除けば(今回、ブラック・ゴーストを出す必要はない)、なかなか大胆で面白い。
 ローザはグレートに「私はあんたの娘じゃないわ、あの後ママはほかの男と結婚したの」とか言ってるけど、ホントにそうなら、わざわざグレートに墓参りさせる必要ないじゃんか。
 つまり、ローザは間違いなくグレートの娘なんである(多分スタッフは「あえて」そのことを認めんと思うが)。006とともにギャグ担当と思われがちな007だけど、やっぱり一番人生の悲哀を噛みしめて来てる「オトナ」なんだよなあ。……ああ、だからもっといい作画監督と演出と、チョーさん以外の役者を007に当ててくれ!
 なんつーか、イマイチ乗りが悪いんだよね、長島雄一。もっとも、それは作画が間に合ってないせいなのかもしれないけど。
 しげは『このまちだいすき』のチョーさん以来、彼のファンらしいんだけど、わしゃどうせギャグやってくれるんなら、007には「ナンタルチャ!」だけでなくって、「ミルクちゃん、大統領はさみしいダス」とか、楽屋オチくらいはやってほしかったけどねえ。いや、無理なのはわかってるけど。


 練習から帰ってきたしげと、ガストで食事。
 今日の撮影の話などを聞く。
 「あの例の『姫』の衣装を着て、撮影したわけ? 鴉丸さん」
 「そうだよ」
 「志賀島で?」
 「そうだってば。脚本にそう書いたのアンタやん」
 「ロケ地まで指定しちゃいないよ。なんかなあ、志賀島はなあ、イメージに合わないんだけどなあ。……雨も降ってたろう?」
 「合間に撮ったよ。でも今日しか時間取れないからしかたないやん」
 「……近くに人がいたら、面食らったろうなあ」
 「いたよ」
 「近所の人?」
 「うんにゃ。カメラマン」
 「……カメラマン? カメラマンって……何のカメラマン?」
 「しろうとカメラマンじゃないの? 『写真撮らせてください』って言うから『いいですよ』って」
 「なんでお前たちの写真なんか撮りたがったんだよ」
 「知らないよ。多分、風景でも撮りに来たけど、雨降ってるし、いい景色がないとこへ急に『姫』が現れたんで、撮りたくなったんじゃないの?」
 「撮りたくなるのか? コミケじゃあるまいし、カメラ小僧かそいつは」
 「だから知らないってば」
 なんだかなあ、仮にその人が普通のカメラマンだとして、なにかの展示場でその写真に「志賀島の日常」とかキャプション付けても誰も信じないだろうなあ。
 しかし、しげたち、よく断らなかったよな。
 「すみません、撮影はちょっと困るんですけど」と一言言えばいいだけなのに。
 もしかして、その写真がいろいろヨコシマなことに使われる可能性は考えなかったんだろうか。……こないだ私に姫のスカートが地面につかないように持ち上げさせたときには「めくるなよスケベ」とか言いやがったくせに。
 つーか、考えてみたらウチの劇団のメンツ、ほとんどみんな元(あるいは現)コスプレイヤーなんだよな。それはもうそれとしてナニされても承知の上ってことなのかもなあ。……ホントかよ(ーー;)。

 よしひと嬢、やっぱり2時ごろでダウンしてお帰りになったとか。
 うーむ、風邪引いてるのにわざわざ来て午前3時から雨降りの志賀島で撮影して更に練習って……そりゃ倒れるわな。
 インフルエンザも流行ってるみたいだし、こじらせなきゃいいんだけど。


 マンガ、八神健『ななか6/17』5巻(秋田書店・410円)。
 そろそろアニメ化の企画が立たないのか、『ななか』。
 嵐山の妹(純和風剣道少女)なんて、お約束テコ入れ&アニメ用キャラって感じがしてならんが。
 つまりはそろそろネタ的に煮詰まってきてるんである。
 前巻登場の稔二のライバルっぽかった女たらし御神渡は早々と退場、雨宮さんの稔二への告白もうまくごまかして、さして大きな「山」にはならなかった。
 今一歩のところで踏み混みが足りないんだよなあ。いい加減、周囲もななかに何が起こったのか気付いてもよさそうなもんだが。
 その、たまに覚醒する17歳のななか、どうやら6歳のななかとは別人格、と言うことらしい。するってーと、これは「幼児退行」ではなくて「多重人格」ってことになるわけだな。
 どうもこれも、後づけな設定のような気がしてならないんだが、連載もめでたく1年を経過して、「二人のななかの心のせめぎあい」でもうちょっと盛り上げようってことなんだろう。
 でも「どっちも同じななかだ」って陳腐なセリフを稔二が吐きそうでヤだなあ。『密リターンズ』の時もせっかくの設定をジャンプシステムの中で陳腐な対決モノにスライドさせられてった轍を踏まないでほしいんだけどね。

2001年01月13日(土) 正月の半ばに/『天才伝説 横山やすし』(小林信彦)



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