無責任賛歌
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| 2005年07月23日(土) |
映画とマンガの感想だけで手一杯/映画『50回目のファースト・キス』 |
早起きできずに、『ウルトラマンマックス』を見逃す。 もっとも何話か見てそんなに入れ込むほどじゃないなあと思っちゃったんで、特に惜しいとは思わないが。
九時にはしげを叩き起こして、天神、ソラリア・プラザへ。目的は映画『50回目のファースト・キス』。 なんたって、久方ぶりのダン・エイクロイド出演作である。熱烈なファンのしげが初日の一番に来ようと、絶対に寝過ごすまいぞと、いつもなら金曜の夜は映画を見に行く習慣になっているのに、夕べばかりは誘いを断って帰宅、10時には寝床に入っていた。けれど早寝したらしたで10時間は寝こくのがしげというやつである。結局は私に起こされることになるのだから、全く当てにならない。 ソラリアプラザは、デカいビルの中にあるわりには三館共通のロビーは狭く、スクリーンはどの館も小ぶり、以前、何度か来たときには上映事故がやたら起きて、私とは相性が悪い映画館である(『美女と野獣』を見に来たときと、『押絵と旅する男』を見に来たとき。後者のときは仕事があったので途中で退席しなけりゃならなくなった。故・浜村純さんも来られていたのだが、この事故のおかげでサインを貰い損ねたのが痛恨である)。 けれど福岡でこの映画を上映するのはここだけだから、選択の余地はない。しげが「先頭で見る!」と言い張るので、アゴをしゃくって見上げながら一時間半の映画に見入る。 ストーリーはもう最近は「流行」としか言いようのない「短期記憶喪失障碍」がモチーフ。舞台はハワイ・オアフ島。交通事故で一日だけの記憶しか保てなくなったルーシー・ホイットモア(ドリュー・バリモア)。彼女に恋をしたのは水族館で働くナンパ男のヘンリー・ロス(アダム・サンドラー)。手練手管で女たちをコロリと騙し、次から次へ女から女へと渡り歩くのは、ヘンリーが基本的に女性不信だから。しかし、ルーシーに出会って、恋をして、けれど次の日には自分が忘れられてしまうことを知って、何とかして自分のことを覚えていてもらいたいとあの手この手を使って、彼女の記憶を蘇らせようと試みる。その結末は……。 ヘンリーの紹介をする冒頭シーンの演出がまずは実に上手い。オアフ島でバカンスを過ごしてきた女たちが、それぞれ帰国して友人たちに旅で出会った彼がいかに素敵だったかを口々に語る。でも、それは全てひと夏だけの恋。彼とは旅の終わりと同時に別れた。彼の名前は「ヘンリー・ロス」。女たちがその名前を次々に口にして、そしてアダム・サンドラーのアップにつなぐのだ。観客のアダムファンの女たちはきゃーと嬌声を挙げ、フェミニストの男たちは女の敵めと憎しみの目を向けるところだろう。 けれど、演出自体はうまいけれど、どうもサンドラーがこういう心に傷を持っているナンパ男のイメージを体現しきれていない。これがもう少し若いころのジム・キャリーか、ブレンダン・フレイザーとかユアン・マクレガーだったらもっと飄々と、けれどちょっとアクな魅力も漂わせて、「らしく」見せてくれそうだって気がするのに、サンドラーはどうにもヌーボーとしているのである。 サンドラーが毎日のナンパに成功したり失敗したり、その過程も面白くないわけではない。一度成功したナンパ法も、タイミングを間違えると次の日にはもう成功しないのである。けれど、サンドラーが中心となるシーンよりも、脇のキャラクターたちが活躍しているシーンの方がずっと面白いのが問題なのである。 ルーシーの父親・マーリン(ブレイク・クラーク)と弟・ダグ(『ロード・オブ・ザ・リング』のショーン・アスティン!)は、ルーシーに記憶障碍であることを気づかせないために、同じ日を毎日繰り返して演じているのだが、おかげで彼らは毎日同じ会話をし、毎日父親の誕生日を祝い、毎晩『シックス・センス』のDVDを見る生活を一年も続けているのである。ああ、何という家族愛。 ヘンリーは友人のウーラ(ロブ・シュナイダー)に暴漢の役を演じさせて、ルーシーの気を引こうとするのだが、意外にも「強かった」ルーシーにウーラがコテンパンにされてしまう展開は、ベタではあるけれども充分おかしい。 でも、そういったディテールが面白ければ面白いほど、「ああ、主役がアダム・サンドラーじゃなければなあ」という思いが弥増していくことになるのだ。 この「毎日リセット恋愛」の結末がどうなるか、ネタバレは控えるが、現実に記憶障碍に悩む人々がいることを考えると、ああいう「ありえねー」形でオチをつけたことには疑問が残る。かといって、リアルに描くことが正しいってわけでもないしなあ。面白くないわけじゃないけど、どうもあちこちに引っかかるものを感じた映画だった。 あ、しげ待望のダン・エイクロイドの出演は2シーンのみ。ルーシーの主治医の役ね。特に感想述べるほどのことはなし。
帰宅して、昼寝。 夕方、しばらく中断していたウォーキングを再会。頻尿がおさまるくらいにならないと、医者にも顔を出せないのである。
マンガ、荒川弘『鋼の錬金術師』11巻(スクウェア・エニックス)。 未だに原作派とアニメ派との間で不毛な争いが続いているらしいねえ。こういう騒動が起こるたびに「メディアが違うものを単純比較することなどできない」という批評の基本を提言する人もいないわけではないんだけどね。でも、感情的にしかモノを見られないオタクや腐女子は自分たちがいかに無知蒙昧かつ厚顔無恥な存在であるかを自覚もせずに互いを敵と見なし罵り合うことにのみ汲々としているのである。 マンガはマンガで面白い部分もあるし、つまらない部分もある。アニメもまた同様である。原作を映像化するとはそもそもどういうことかってことについては本気で語り出せば表現方法を精密に比較しなければならないので単行本一冊くらいの分量が必要になる。そもそも通り一遍に流し見したくらいでは簡単に言えることではないのだ。評論家でもないシロウトにはそれぞれの作品を別物として見る以外に鑑賞のしようがないのであるが、評論家モドキの傲慢な人間がいかに増えたかということである。 だから、私の場合、『ハガレン』についてはアニメから先に入ったのでアニメ派だと思われがちではあるのだが、厳密に言えばどっち派でもない。シロウトの節度を守って、それぞれを別物として面白い面白くないを語っているのである。 前置きが長くなったが、「シン国」キャラの登場以降、アニメとは全く別の流れに入って久しい原作であるが、先の10巻でラストが死亡、「七つの大罪」のホムンクルスは一応全てが登場、ホーエンハイムもついに姿を現しと、いよいよ佳境に入るかと思われたのだが、今巻でちょいと流れが停滞してしまった。佳境に入る前だからこそ、人物や設定をもう一度確認し直す必要があったのだということは分かるのだけれど、「アルは本当に人間の体に戻れるのか?」ってのを今更再確認しなくてもよかったんじゃないのかなあ。話を進展させようとして余計なことをするとかえっていびつなものになってしまいがちだけれども、エドやアルの心理描写にどうにも納得のいかないものを感じてしまうのである。 エドとアルが人体錬成したのは、母親・トリシャではなかったという衝撃の事実。普通なら、そこで自らの愚かしさにもっと打ちのめされてもいいんじゃないか? 「死者は蘇らない」「禁忌を犯した者には罰が下る」こんな当然のことにも気づかなかった大馬鹿者は、もっと罪の意識に苛まれても当然じゃないかと思えるのに、それがなんであんなに簡単に「アルは元に戻れる!」と希望に転換させられるのか。いくら口でアルに対して謝ってみせても、エドには贖罪の意識があまりないんじゃないかという感じがして仕方がないのである。 『ハガレン』が二人の「罪」から始まった「贖罪」の物語であり、自らの欠損を取り戻す中で、「誰も傷つけず失わず」の理想を追い求め、ハッピーエンドを目指すものであるのならば、まだ「悩み方が浅い」と思うのである。二人が錬成したのがトリシャでないなら。あれは何だったのか? そこでもまた「誰か」が「犠牲」になっているのではないか? どうも作者がそういうところまで考えてストーリーを作ってるとは思いにくいんで、引っかかって仕方がないのである。
マンガ、今市子『百鬼夜行抄』13巻(朝日ソノラマ)。 映画『シックス・センス』よりもずっと早く、ホラーとミステリーをずっと洗練された形で(しかもユーモアすら交えながら)描いてきたシリーズの最新巻。 要するに主人公の飯嶋律がオスメント少年に当たるわけだが、相変わらずイマイチ頼りにならない。もしかしたら読者の人気は26年ぶりに異界から帰ってきた律のおじ・開の方が高いのかも知れない。多分、律よりも「力」は強いだろうと思われるのだが、律の危難に対して、あまり協力的でないどころか、状況が悪化するのを面白がって見ている気配すらある。 もともとこの物語の設定自体が必ずしも人間中心主義・勧善懲悪主義では描かれておらず、何の罪とがのない人間だって、禁忌に触れて死ぬこともあるし、魅力的なキャラクターやかよわい女子供があっさりというか時には残酷に退場させられることもままある。共通点も多い『蟲師』と比べても、かなり作者の現実を見る目が冷徹であることが垣間見えるのである。 そんな中で右往左往する律や、霊感あるのに自覚症状のない天然娘の従姉・司、律の祖父・蝸牛の使い魔だった妖魔・青嵐や、飯嶋家の庭の桜に宿っている律の家来の妖魔・尾白と尾黒なんて「お笑い」キャラたちが中心になっているから暗いムードにならずにすんでいるものの、そうでなけりゃ、このシリーズ、結構陰惨な山岸凉子的世界になっていたかもしれない。まさに恐怖と笑いは紙一重か。 今巻は、先述した開の見合い相手の家・白川家に巣食う妖魔たちの攻防を描く『夜半の客』、晴れ着に取り憑いた妖魔の除霊と青嵐の「分裂」というショッキングな事件が起こる『晴れ着』、「生きた細工物」を作る青年・三郎と、律のもう一人の従姉・晶との恋の行方を追う『月影の庭』『餓鬼田の守り神』を収める。 時間経過こそあるものの、まったりまったりとたいした状況の変化もなく進んでいくかと思われていたのに、初めて見つかった青嵐の「本体」(鏡の精だったんだねえ)がいきなり割れちまうわ(だから律は妖魔から身を守る術を一時的にせよ失っているのだが、あまりに狼狽するものだから、まるで悲惨な雰囲気にならない)、三郎はどうやら次巻あたりで完全に「あっち」の世界に行っちゃいそうだわ、作者はシリーズの完結も視野に入れつつあるような感じである。 ホラーミステリーの教科書と言ってよいようなハイレベルの作品も多いから、もっと続いてほしい気もするのだが、15、6巻くらいが限度かなあ。
2004年07月23日(金) 『キャンディ・キャンディ』が“今のところ”リメイクされない理由 2003年07月23日(水) 神ならぬ身なれば/映画『不連続殺人事件』/DVD『レトロスペクティヴ シティボーイズライブ! 1992−1994』 2002年07月23日(火) 夫婦ファイト!/『コリア驚いた! 韓国から見たニッポン』(李元馥)/『ロングテイル オブ バロン』(柊あおい)ほか 2001年07月23日(月) 猛暑に耐えるくらいならクーラー病の方がいい/『(週)少年アカツカ』(赤塚不二夫)ほか
| 2005年07月22日(金) |
カウンセリングもプラシーボ/『ニッポン硬貨の謎 ―エラリー・クイーン最後の事件―』(北村薫) |
金曜日はしげの通院の日。 以前は朝早く、診療時間が始まると同時くらいに出向いていたのだが、最近はカウンセラーさんの都合だとかで、午後の診療に変わっている。 しげはカウンセリング用に毎日日記を書かされていて、これはウェブ上にもアップしていないヒミツ日記なのだが、私は一応読ませてもらっている。ウェブ上のそっけない日記と違って、本音を素直に書いているせいか、文体が妙にかわいらしいのだが、書いてある内容は映画や演劇に関することが殆どである。カウンセラーさんからも「旦那さんのこととか殆ど書かれないんですね」と言われてしまったそうだが、家庭的なことはしげにとって「日常」ではないのかもしれない。 しげの話によれば、カウンセラーさんは映画好きで、30分間のカウンセリングタイムも殆ど映画の話ばかりになるそうである。引っ込み思案のしげも、芝居や映画の話ならば楽しそうに話す。今日も心理劇の話などをして楽しかったそうなのだが、突然、「通院はこれから二週間に一回にしましょうか?」と相談されたのだそうだ。 しげは「それってつまり、病気が治ってきたってことなのかなあ?」と訝んでいる。確かに、薬のおかげで睡眠時間も調節できるようになったし、ヒステリーを起こす回数も随分減っている。この四月からは昼の弁当も作ってくれるようになったし、晩飯もまあちょっと乱暴なメニューではあるが(今晩は鶏もも肉の丸ごと煮なのだが、実はこれがもう一ヶ月以上続いているのである)、作ってくれはするようになった。 しかし、洗濯などのほかの家事にまではまだまだ気が回らないし、それよりもパートの仕事などは全く続かなくなってしまっているのである。仕事自体が嫌いなわけではないのだが、ともかく「仕事に出かけて行く」行為自体ができなくなっている。社会人としては当然喜ばしい状態ではない。トータルで見ると、進歩しているのか退歩しているのか、本人にもよく判断ができないでいるのだ。 「治ったって思うほうが治るのかなあ。カウンセラーの兄ちゃんには『自分で決めてください』って言われてるんだけど」 カウンセラーさんにそう言われているのなら、私も「自分で決めろよ」としか言えない。どういう意図で診察回数を減らそうと言われたのか、もう少し事情を知りたいのだが、そういう肝心なところをしげは聞き損なっている。やっぱりまだそれほど治ってはいないのにあえて回数を減らすことで自立の道を図ろうというのか、それとももともと完璧に治るものでもないのだからこのくらいでまあいいかと気楽に考えようよってことなのか、プラシーボ効果を狙っているのか、ただ単に治療を諦めちゃってるのか、よく分からないのである。どうなっていくんでしょうね(って他人事じゃないだろ)。
FBSで、金曜ロードショー夏恒例の『ルパン三世 天使の策略(タクティクス)〜夢のカケラは殺しの香り〜』を見る。 TVスペシャルシリーズもついに17作、故・山田康雄がルパン三世の声をアテていたのは第6作の『燃えよ斬鉄剣』までだから、10代のファンにとっては、栗田貫一の方がもうルパンの声として定着してしまっている。つか、「山田康雄って誰?」って発言を実際に10代のやつから聞いたこともあるのだ。 いや、栗田さん以外のレギュラー陣の声、とてもじゃないがすっかり衰えてしまっていて、聞けたものではない。数年前までは納谷悟朗さんが一番滑舌が悪くて、よく聞き取れない台詞も多かったのだが、もう本作では小林清志、井上真樹夫、増山江威子、どう贔屓目で聞いてもみな年寄りの声にしか聞こえない。もしもシリーズを本気で続けて行くつもりならば(世代的にはもうルパン五世でもおかしくはないのだが)、『ドラえもん』よろしく、完全リニューアルを考えてもいいのではないかという気さえしてくる。いや、もう潔く一度「完結」を考えてもいいのではないか。 というのも、最近ファンになった若い人はともかく、それこそアニメ旧シリーズ第1作(1971年!)をリアルタイムで見てきた世代から見れば、もう語られるべき物語のアイデアは底を尽いているとしか思えないのである。 今回のルパンが狙う獲物が、アメリカ・ネバダ州の空軍基地「エリア51」に保管されているUFOの破片「オリジナルメタル」だ、と聞けば、もうそれだけで「そんな使い古されたネタを」と気分は萎えてしまう。オープニングで反米テロリスト集団「ブラッディエンジェルス」(これも映画やマンガで何度も使われてきた陳腐なネーミングだ)によってルパンのニセモノたちが倒されるシーンは、またもや『OO7/ロシアより愛をこめて』のオープニングの拙劣な模倣だ。いや、そもそも「女アマゾネス」という設定自体、ルパンシリーズでは「女シンドバット」を初めとして何度となく使われてきたネタで、目新しくも何ともない。 事件の「真犯人」も全く意外でないどころか、登場した瞬間に「こいつか」とすぐ分かるヘボな演出で、脚本、監督が視聴者をナメているのが一目瞭然である。でも、映画やミステリーに慣れてない視聴者はこんなショボい脚本でも簡単に騙されちゃうんだろうなあ。作画だって、一見、ふたコマ作画を多用してよく動かしているように見えはするが、動きの間や質感、重量感ともにデタラメである。枚数使えばいいってもんじゃないんだってば。会話のタイミングもかなり悪く、聞いていて少しも人間的な感情が伝わってこない。ナビゲーターの坂上みきが「シリーズ最高傑作」とかナレーションしてたが、いったいどこをどう取り上げればそんなことが言えるのか。 もう次回あたりで未だアニメ化されていない「シャードック編」か「ヤップランド編」をアニメ化して、完結してほしいんだけど、これも若いファンたちには分かんない感覚なんだろうなあ。けれど頼むから旧シリーズの『魔術師と呼ばれた男』『脱獄のチャンスは一度』とか新シリーズの『死の翼アルバトロス』『さらぱ愛しきルパン』とか見たこともないのに、今のテレビスペシャルシリーズが面白いとか、そんな恥知らずなことは言わないでほしいのである。
北村薫『ニッポン硬貨の謎 ―エラリー・クイーン最後の事件―』(東京創元社)。 文庫になるのを待ちゃいいのに、ハードカバーで買っちまったよ。『ミステリーズ!』の連載でもう読んじゃってるのになあ。 エラリー・クイーンの未発表原稿を北村薫が翻訳、という体裁でのパスティーシュ(模倣昨)であるが、これもファンの間で賛否両論を巻き起こしそうな作品である。本物のクイーンがいかに親日家だったからと言って、その「最後の事件」として一度捨て去った「国名シリーズ」を再開するとは思えない、そういう基本的なところから反発するファンもいておかしくはないからだ。 そもそも本物のクイーンの手になる『日本庭園の秘密(ニッポン樫鳥の謎)』ですら、国名シリーズには入れられなかった(原題は“The Door Between”〔間の扉〕。これまで60年以上、雑誌連載時に“The Japanese Fan Mystery”〔日本扇の謎〕というタイトルが付けられていたという説は、近年の調査で誤りであることが判明した。どうやら江戸川乱歩がガセネタを掴まされたことが原因らしい。嗚呼!)。内容も細かく見て行けば、クイーン警視はまだ警視なのかとか、突っ込みどころは満載である。 しかしどんなマニアやプロの作家でも、ファンの全てを納得させるパスティーシュを書くことは難しい。ある意味、パスティーシュは「お祭り」なのだから、あまりディテールには拘らずに「オアソビ」を大らかに楽しむくらいの姿勢で読んだほうがいいように思う。特に、これまでクイーンの作品を読んだことがない読者にとっては、純粋にミステリーとして面白いかどうか、そこが主眼となるところだろう。 ところが残念なことに本作は、ミステリーとしてはかなりお寒いのである。北村さん、サインまで頂いたのに貶すのは心苦しいのだが、事実だから仕方がない。
1977年、来日したミステリ作家兼「名探偵」のエラリー・クイーンは、東京に発生していた幼児連続殺害事件に興味を持つ。殺された幼児たちは、毎週日曜、一様に女性のキモノ(フリソデ)に包まれて発見されていた。そこには何かの寓意があるのかそれとも犯人の仕掛けた心理的な罠か。 同じころ、大学のミステリ研究会に所属する小町奈々子(モデルはもちろん現ミステリ作家の若竹七海女史である)は、アルバイト先の書店で、毎週土曜日に謎の男から「50円玉20枚を千円札に両替してくれ」と頼まれていた。 二つの出来事は何か関連があるのか。ファンの集いに参加したことからエラリーの知遇を得て東京観光案内を引き受けることになった奈々子は、上野動物園でまさにその幼児誘拐の現場に出くわすことになる……。
クイーンファンよりもむしろ、若竹七海のファンの方が喜びそうな展開であるが、実際、作中に登場する「小町奈々子」は、実に可愛らしい。ストレートなミステリファンで、ゆえに情熱的なのだが、決して出しゃばりやお転婆といった印象ではなく、ミステリへのひたむきさが自然に彼女を、一途に恋をする乙女のように可憐に見せているのである。 この、若竹……もとい、小町奈々子嬢が、エラリーに「国名シリーズ」についての疑問を投げかける「ミステリ問答」の部分、これは文句なしに面白い。「国名シリーズ」のトリックに関わってくるので詳述はできないのだが、クイーンのファンならばいちいち膝を打つことも多かろう。逆に言えば、クイーンの諸作品を読んでいないと、いったい何のことやら分からずに置いてきぼりを食らうことになる。 私も鈍感でよくなかったのだが、本作を読んで、通常の翻訳としては悪訳としか言えない出来栄えの「井上勇訳・創元推理文庫」のクイーンの諸作が、ある作品に限っては「青田勝訳・ハヤカワミステリ文庫」よりも優れていることを知った。これでは、未読の方にどちらの版で読め、と勧められない。全く困ったことである。もはや国名シリーズは、「創元文庫版とハヤカワ文庫版を両方とも、作品発表順に読んでください」と言うしかない。その上でこの『ニッポン硬貨の謎』を読んで頂ければ、私の言わんとすることはご理解いだけるだろう。 しかし、この小説が面白いのはまさにその部分だけであった。小説中でこういう「クイーン論」を展開させたなら、当然それが本筋にだって関わってこなきゃ辻褄が合わないのだが、それが何にもない。ただ単に、エラリーと奈々子との信頼関係を結ぶ役割しか果たしていないのである。 私はてっきり、わざわざ「あんなこと」を持ち出したのだから、これとこれはあれやそれという感じで殺人事件の「ヒント」になるのだろうと思っていたのだが、予測は見事に外れた。「クイーン論」と事件は何の関係もなく、それどころかこれにかなりなページを食われたことで皺寄せが来たのか、本筋の事件はあまりにも単純であった。つか、「あれはないよな」である。「50円玉20枚の謎」は、若竹七海女史が実際に体験した出来事で、真相は藪の中なのだが、だからと言ってクイーンが興味を持つほどの事件とは言えまい。だからこそ、無理やり「幼児連続殺人」と結びつけたわけだが、余計な設定を増やしたおかげで、その解答は殆どコジツケにしかならなかった。『名探偵コナン』並、ミステリファンだったら「ふざけるな」と灰皿を投げつけたくなるくらいにテキトーだったのである。 いや、そこで私は私で、読みながらあるトリックを思いついたのだが、そっちの方がよっぽど面白いと思う。小説を書くアイデアのヒントにはなったので、買って損したとは思わないけれど、パスティーシュを書く場合、書き手はオリジナル作品の作者よりも実力が上じゃなきゃならないんだなあと痛感したことである。
2004年07月22日(木) 風呂の夢を見る女 2003年07月22日(火) オタクの末路?/『吼えろペン』8巻(島本和彦)/『フロイト先生のウソ』(R・デーゲン)/DVD『マジンカイザー死闘!暗黒大将軍』 2002年07月22日(月) 角川+大映=…?/『楽勝!ハイパー▽ドール』vol.2(伊藤伸平)/『スレイヤーズすぺしゃる�魁,襪覆討�・へすてばる』(神坂一)ほか 2001年07月22日(日) 愚か者の舟/『ハッピーマニア』1巻(安野モヨコ)ほか
| 2005年07月21日(木) |
「演出家 鐘下辰男氏を囲んでの夕べ」/『クロザクロ』4巻(夏目義徳) |
仕事が終わって、しげと細川嬢とアクロス福岡で待ち合わせ。 円形ホールで「NPOこども文化コミュニティ」の主催になる「演出家 鐘下辰男氏を囲んでの夕べ」に参加するためである。 開始時刻は7時からだが、1時間ほど早く着く。けれどせっかちなしげは、更にその30分前に来ていて、私はまだ博多駅にも着いていないというのに「地下のロッテリアで待ってるよ」というメールが届いた。こちらも遅れたわけでもないのにあわてて現地に向かうのも癪だったので、「福家書店」に回って新刊マンガをいくつか買っていく。 6時10分にロッテリアに着くと、細川嬢も来ていた。ようやく書き始めた次の芝居の脚本の冒頭を「読みたい」と仰るので、数ページを見せたが、私の字を見て、いかにも困惑されたような顔で「読めない」と言われてしまう。つっても、私ゃもう字を書こうとすると指先が震えるようになっているので、キレイな字はかなりゆっくりと丁寧にしないと書けないのである。まあ、どうせパソコンで清書しますんで、そのときまでお待ちください。
30分前に会場の円形ホールに上がって、ざっと見渡して見るとお客さんは六、七十人と言ったところ。あまり多くはない、というよりは「どうしてこんなに少ないんだ!?」という憤慨が沸々と涌いてくる。 最近は地元劇団の人たちの顔も少しずつ覚えてきているので、見知った顔がいるかどうか探してみたのだが、意外なくらいに少ない。あの「鐘下さん」が来てるのに? 地方劇団というものは往々にして自己充足してしまって、中央の芝居を見ようとしない、海外演劇事情も全然知らない、演劇の歴史も現状も何も知らない、ともかく勉強を怠りがちなものであるが、福岡の演劇人もそういう連中が多いのだろうか。 ふと客席で目が合った方が、なんと本職の方での知り合い。この方も演劇に関わりのある方で見識も深く(あまり詳しく書くと本職がバレるので省くが)、さすがこういうイベントはちゃんとチェックしているのだなあと心の中でウンウンと頷く。実はこの方、例のホモオタさんの大学の先輩で、さらにトンガリさんとも関係の深い方である。あんなイカレた連中と付き合っていれば、ゴタゴタにいろいろ巻き込まれるのも自然の流れなのだが、それでも全く意に介した風もなく、いつも泰然自若としていらっしゃるのだからものすごい。私んとこの業界、人間がウンカのようにいるってのにやたら横の繋がりはあって、狭いのである。 第1部は「演劇を語る」。 FPAP(NPO法人福岡パフォーミングアーツプロジェクト)の高崎大志さんを聞き手に、かなりの本音トーク。固有名詞がかなり出てくるので、そのあたりは「ネットに書かないで下さいね」とクギを刺されているので省こう(笑)。それ以外でも、印象に残るお話はたくさんあったのだ。 「100人演出家がいれば100通りの演出がある」と前置きをして、「自分はうまい役者が見たいわけではない。すごい役者が見たいんだ」と仰る。昔、ワークショップでも言われていたことであるが、鐘下さんは役者にあまり細かい「演技指導」はしない。それがすなわち役者の「上手さ」よりも「すごさ」を喜ぶということに繋がるのだろうが、「すごさ」を役者の「持ち味」とか「個性」と言い換えれば、そういうものは演技指導などから生まれるものではなく、役者を自由に開放することから生まれるのだと言えるだろう。「俳優は、公演中は演出家と飲むな。俳優同士で飲め」とユーモラスに仰るのも、演技プランを演出家に求めるな、自分で考えろ」ということなのだろう。 昔、溝口健二が田中絹代から演技について問われたときに、「演技について考えるのが役者の仕事でしょう?」と言って突っぱねた、というエピソードを思い出す。もっとも鐘下さんは、溝口健二が田中絹代に参考資料を何十冊も与えたようなやり方はあまり好みではないらしい。「役の履歴書を作ると、それで終わりになっちゃうことが多いからね。そこから考えるための履歴書じゃないと」いう意見には全く同感である。 ただねえ、イマドキの若い役者って、ホントに考える力をなくしてるから、いちいち具体的にここはこれこれこういうことでね、と解説してやらなきゃ台本も読めねえことも多いのである。更に言えば、説明したらしたで「難しくてわかんない」とか言われたりするのだ。 会場に高校生の姿もあったので、高校演劇についても語られた。「高校演劇のスターって、プロになったら使えないんだよね」といきなりのカウンターパンチであるが、私も知り合いに高校生がいたりして、たまに高校演劇大会などを覗くことがあるので分かるのだが、これも全くの事実であると言っていい。「クセが付いてるんだよね」と仰って、それが具体的にどういうクセなのかは言葉を濁しておられたが、私なりにそれを補足すれば、思想的にはサヨク、表現としてはアジテート、これが高校演劇出身者の「クセ」だと思う。 「自分が一番楽しかったのは高校の演劇部にいたころ。高校演劇には顧問主導型と生徒主導型の2パターンがあって、自分の高校は生徒主導型だった。あのころ演劇について先輩たちと自由に語り合えたことが人生の中で一番楽しくて、その経験が今の自分を創っている」 ここで言われている前者の「顧問主導型」の演劇部にいる連中が特に「クセ」が強いのだ。しかも厄介なことに、センセイ方のオボエがよくって入賞しやすいのがまさしくこういう学校の生徒だったりするので、生徒主導型の学校の生徒もあえてこの「クセ」を研究して(せんでいいのに)マネをしてしまったりする。おかげで、どの学校も同じ色、という非常につまんない現象が起きるのだ。 カッコつけたことを言わせていただければ、演劇とはまさに既成概念への挑戦であり、権威への反逆であり、自由への飛翔である。それゆえに歴史上、ともすれば左翼に傾く嫌いもありはしたが、本質的に全ての思想から演劇は「自由」なのである。顧問主導型の演劇部なんて、そもそも演劇部とは言えないのではないか。私の高校時代の部活も生徒は完全に自由に芝居を作ることができて、顧問が誰だったか全く記憶にないくらいだが、そうでない演劇部は不幸だとしか言えない。顧問の言うなりになっている限り、たとえ生徒たち自身がそのことを納得していようとそれは「洗脳」されているだけだからである。
第2部は、ついに初来福する(本当にそうなのである!)鐘下さんの新作について。「『弟の戦争』をテーマに語る」。 原作はロバート・ウェストールの児童文学だが、戯曲化に至った経緯は、上演劇団の「劇団うりんこ」からの依頼を受けてとのこと。「戦争もの」はこれまでにも鐘下さんの作品の中で重要な位置を占めているが、児童劇団である「うりんこ」の依頼をなぜ受けたかについては、「現実に日本が戦争に加担している現在、逆に戦争について見えなくなっている部分があるのではないか。それをこの小説は描いているのではないか」ということであった。 この点については、本公演に関しての鐘下さん自身の文章を引用しておきたい。
〉 『知恵と経験−弟の戦争から』 脚本・演出=鐘下 辰男 〉 なぜ戦争は人間を残虐に変えてしまうのか?そもそもいかなる人間も残虐行為に走らせてしまうというところに戦争の真の恐ろしさはあるわけです。今こうして、日々のニュースなどで戦争の悲惨さに胸を痛めている私たちでも、その場にいってしまえばしっかり残虐行為を起こしかねない、そこにこそ本当の意味での戦争の悲惨があるのではないでしょうか。そもそもの悲惨は決して物の善悪を語っただけでは知ることはできないものだと私は思います。 〉 この「弟の戦争」という作品がすぐれているのは、そうしたところをうまくドラマ化している点にあります。私たちは今でもどこかで戦争が行われていることを日々のニュースで知っています。そこでどういう悲惨なことが行われているのかということも知っています。そして心を痛めたりはしています。しかし、これはあくまで知識として有しているというだけで決して戦争を「経験」しているだけではありません。経験なき知識がいかに脆弱なものであるか、私たちは日々の暮らしでそれを実感することが多々あるわけですが、それは戦争も同じ事です。 〉 この作品の主人公は、戦争のない平和な国で暮らしているにもかかわらず、日々変貌していく弟と接しながら、直に戦争を経験していく物語です。知識としての戦争を理解するドラマでではなく、経験として戦争を実感していくドラマです。 〉 こうしたドラマ性を実現できるのは演劇でしかできません。映像は結局知識でしかないからです。自分たちが普段生活している空間に、突然変貌していく人間を目の当たりにすることができる演劇だからこそ、観客は戦争を経験し、実感できるわけです。この作品の主人公が、日常生活の中で変貌していく弟を目の当たりにしながら戦争を経験し、実感したように・・・。
「児童文学」を戯曲化するときには、「手加減」をする作家も多いと思う。「子供向けだからできるだけわかりやすく簡単に」とか、いろいろ言い訳をする作家も多いが、悪く言えばそれはただ子供を馬鹿にしているだけで、「手抜き」でしかない。 しかし鐘下さんは、「子供はウソをすぐに見抜く」と断言されていた。「自分も高校時代、一番多感な時期には大人のウソにはすぐに気づいた。だから、『ウソをつかない』ことには一番気を遣って書いた」と。要するに「奇麗事は書かない」ということだろう。私自身。児童文学を専攻していた経験から鑑みて言えることなのだが、こういう基本的な創作の姿勢について「分かっていない」作家って、名前は挙げないがやたら多いのだ。児童文学が、あるいは児童演劇が、「普通の」文学や演劇に比べて一等低いもののように蔑まれてしまう原因は、一般人の無理解ばかりに原因があるのではない。創作する人間のこうした「意識の低さ」にも起因していることなのである。 鐘下さんが「信頼できる作家」である一番の理由は、まさに「子供向けだからって手を抜かない」点にあると私は感じている。
会場からの「もっとエンタテインメントな、商業演劇を作られる気はないのか?」の質問に対して、「自分はこれまでの人生で苦労をしたことがないし、これまで楽しく生きてきた。だからあえてエンタテインメントを作る必要はない」と答えておられたのが実にカッコよかった。苦労をウリモノにしたり、不幸を語ることで同情を乞おうとするヤカラは多いが、こういうところを見習ってほしいものである。私の見る限り、鐘下さんの作品は充分「エンタテインメント」なんだけどね。理屈抜きで面白いって意味で。
そのあと懇親会が設けられているというので、続けて参加。 相変わらずミーハーなことで恥ずかしい限りだが、『テアトロ』の最新号に掲載されている鐘下さんの新作、島尾敏雄原作の戯曲『死の棘』にサインをしていただく。 不躾にも(いつものことだ)いくつか質問をしたのだが、『死の棘』執筆の動機について、島尾敏雄がなぜこの小説を書いたのか、そのこと自体に興味があり、長年暖められていた企画であったとのこと。別に最近のサイコな風潮に合わせたわけではないということである。水の中に舞台が浮かんでいるような不思議な美術については、やはり能舞台を意識したとのこと。 「表現の自主規制」の問題についても、やや失礼な質問をしてしまったが、これにも明快に答えていただいた。「テレビで放送されることがあっても、自分で自分の脚本に規制をかけることは一切ありません」と。この発言が、いかに「創作する者」にとって強みになることか。分かる人には分かることであろう。 参加数は少なかったが、地元の劇団の方々とも歓談できて、なんかもう、これだけ有意義な集まりにどうしてもっと演劇人が集まらなかったかと腹立たしくなるほどであった。
11時を回ってなお、会がお開きになる様子もないので、名残惜しくはあったが先に引ける。遠慮する細川嬢を「バス停までは」と無理やり付いていって見送ったが、それは彼女から「最近、道端でAV嬢にならないかって誘われちゃったんですよ」と聞いたからだ。 いやもう、言葉を選ぶのに苦労するのだが、細川嬢はともかく魅力的な方なので、目を付けられるのも仕方がないというか、そりゃご本人にとってはメイワクなことだろうからあまり何がどうとは言いにくいのだが、世の男ども、それだけに注目してんじゃねえよと腹立たしくなるというか、まあ、そういうことなのである。いや、私はと言えばもちろん細川嬢はもう素晴らしい女性であって、どこがどうと問われればそれはもちろん心身両面にわたってであって、誓ってそれだけに注目してしているわけではないのだが、それにも注目してるのかと問い詰められたならば、注目してると言うのもしてないと言うのもどちらであっても失礼な気がしてうまく答えられないのである(何のことやら分からん人は無視してください)。
マンガ、夏目義徳『クロザクロ』4巻(小学館)。 スグリとの戦いで、ついにザクロが実体化。これでやや停滞気味だった展開がよい方向に展開していくのかなあと期待していたのだが、またもやハンター同志の内輪もめで、主人公の幹人君は置いてきぼりになってしまった。 なんだかねえ、幹人の「人間に戻りたい」って意志があまり強く感じられなくなってるって言うか、もうこのまま傀牙(オーガ)になったって別に構わないんじゃない? みたいなどうでもいい感じになってるからねえ。それくらいすっかり影が薄くなっちゃってるんである。 脇キャラをたくさん出して人気を取ろうってことなんだろうけれど、あまり魅力のないキャラをポンポン出したって、話が散漫になるばかりである。ゴスロリキャラを二人も出してどうするかね。物語の展開上は御行と萩が入れば充分なのである。 そもそも夏目さんは絵に華があるほうではない。つか、ハッキリと「地味」なのである。同じように絵に華のないマンガ家と言えば、『寄生獣』の岩明均が思い浮かぶが、岩明さんみたいに、絵はまあアレでも、ドラマの面白さがあれば読者を引っ張っていくことは可能なだ。つか、そうしていかないと、お客さんはすぐに飽きてしまうだろう。 そのことは多分作者自身、痛感してることだと思うのだけれど、3巻、4巻の迷走ぶりは、作者がどんどんドツボにはまっていきつつあるように見えて、不安なのである。 ハンターたちの「白爪」グループと「黒棘」グループのネーミングが、それぞれ春の七草と秋の七草になってるので、今の「ハンター内輪もめ編」ではキャラがいきなり14人も出て来る計算になるのだが(黒棘は今巻ではまだ三人)、いくらなんでもこんな短期間にそれだけキャラを出すのはちょっとやりすぎである。本当は、霞谷七人衆とか八犬士とか009とか、そのへんの数がいいとこだろう。本筋の話じゃないんだから。 一巻目のころの面白さが急速に落ちてってるのはちょっと残念。
2004年07月21日(水) 座敷わらしの末裔 2003年07月21日(月) うらんでやるわああああっ(^o^)/映画『星空のマリオネット』/『花の高2トリオ 初恋時代』 2002年07月21日(日) アニソンしか歌えないわけじゃないけど/DVD『千と千尋の神隠し』/『吼えろペン』5巻(島本和彦)ほか 2001年07月21日(土) やたら長長文になっちゃいました。すみません/『裏モノ見聞録』(唐沢俊一)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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