無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年07月23日(火) 夫婦ファイト!/『コリア驚いた! 韓国から見たニッポン』(李元馥)/『ロングテイル オブ バロン』(柊あおい)ほか

 タイトルは『ウルトラファイト!』のもじりです。
 いや、チープなケンカってことで(^_^;)。

 どうもみなさま、おばんです。有久幸次郎でございます。
 相変わらずしげとは埒もない喧嘩ばかりしております。
 夫婦喧嘩は犬をも食わないとやら、書けば書くほど、人様からは「仲いいね」などと言われて恐縮しておりますが、かと言って、あったことを書かないわけにもいきません。これが喧嘩の果てに夫婦ベッキョ、リコンなどということに発展して行けばとても楽しいのでしょうが、何しろ一日経てば何もなかったかのように元通りになってしまいますので、スリルもサスペンスもありません。
 これはもう、読者のみなさまには「またかい」と溜め息混じりではありましょうが、嗤って見逃していただくほかございません。
 昨日の日記で「バカップルのルーツは何か?」とか書いちゃいましたが、読んでたアナタ、「オノレらがそのバカップルじゃ」とか心の中で突っ込んだでしょ? 隠さなくても分かってますよ。
 ええええ、もう開き直ってますとも。我々は充分バカップルです。
 私の知性のおかげで「ちょっとだけバカップル」レベルで踏み止まってはおりますが、所詮は五十歩百歩、バカは死んでも治りますまい。
 てなワケで今日も夫婦ドツキ漫才から始まります。

 朝、職場に行く途中で、しげがいきなり「食べる?」と言って差し出したのは、なんとカステラ。しかも切ってあるやつとかじゃなくて、丸のまま&しげの食いかけ(っつーか齧り残し)である。
 車の中で、運転席からカステラの箱を差し出されるというのもなかなかシュールな光景である。しかし、私は食いものを差し出されて「いらねー」と答えられる世代の人間ではない。それにこれを放置しておいたら、しげはそのままカステラの存在を忘れて、車の中で腐らせかねない。……だいたいどうしてカステラなんかを車の中に持ちこんでるのだ。誰もこいつに「行儀」の二文字を教えなかったのか。教えられてもしげには脳細胞が常人の3%しかないから覚えられなかっただろうが。
 朝っぱらから甘ったるいものを食わにゃならんのか、とは思ったが、仕方なく押し頂く。
 予想はしていたが、手はべたつくわ口の中はざらざらするわ、エラい状態になる。しげに、「途中でミニストップ寄ってくれ、飲みもの買うから」と頼む。
 すると、しげ、脇からまた飲みかけの(っつーか、底に1センチも残ってない余りの)コカコーラを差し出してくる。
 甘いの飲んだところに甘いの差し出されたって、何の役にも立つものではないが、これも差し出されたら飲まないわけにはいかない。飲むというより舐めるが、口の中はかえって甘ったるくなった。なんで朝からこんな目にあわなきゃならんのか。
 ミニストップが近づいてきたころ、しげが突然「ねえ、ミニストップ寄ると?」と呟いた。
 起き抜けは私も冷静ではない。このセリフを私は「コンビニに寄るのなんてめんどくさい、飲み物なんか買うな」という意味だと受け取った。
 声を荒げて「寄れってさっき言ったじゃないか!」と怒鳴る。
 しげも怒鳴られてムッとしたのか「何しに寄るん」と言い返す。
 「飲み物とか買うんだよ!」
 「『とか』って何!」
 「仕事に使うもんとかだよ!」
 「だから『とか』って何!」
 「ウェットティッシュとかだよ!」
 「だから『とか』って……!」
 「なんで『とか』とか気にするんだよ!」
 「『とか』でごまかすとか、なんかヒミツにしてるみたいやん!」
 「『とか』がいつもいつも何か具体的なものを差すとは限らんだろうが! だいたいそんなクダランことをなんでいちいち気にして聞くんだよ! そのどーでもいいことを根掘り葉掘り聞くイヤらしい性格を治せ!」
 ……そのどーでもいー質問にいちいち反応して怒ってる私自身が大人気ないんだよなあ(-_-;)。既に喧嘩の中身はどんどんズレまくっているのだが、それを認識するアタマも働いてないな。まあ、寝起きはこんなものである。
 そうこうしているうちにミニストップに着いたので、お茶「とか」、ウェットティッシュ「とか」を買う。職場が近いので、しげとの第1戦はこのへんで終わったが、第2戦っつーか再試合は夕方に持ちこされたのであった(おいおい)。
 でも、ホントにど〜でもい〜ことで喧嘩してるよなあ。「とか」がどうだってんだ(^_^;)。


 マンガ、李元馥(著)/松田和夫・申明浩(訳)『コリア驚いた! 韓国から見たニッポン』(朝日出版・1575円)。
 去年出た本だけれど、人気があるらしく、今年に入っても増刷が続いているようである。日韓併合の記憶は六十年を経た今もなお暗く重い影を両国の関係に落としてしまっているので、この手の「韓国での日本紹介本」は、たいてい激しい「日本バッシング本」になっていることが多い。まあねー、気持ちは分るけどねー、でもつまり韓国は今でも日本と喧嘩がしたいのかって逆に聞きたくなるくらいで。
 そういう本に比べれば、このマンガ、激しい「偏向」はない。
 序章で作者の李さんが、文化相対主義的観点を標榜して、「韓国と日本、こんなに違う! けれどその違いをお互いに認めよう!」なんて書いてるのを読むと、ああ、このヒトとは話せるかなあ、という気になる。
 でもやっぱり「韓国が兄で弟が日本」的発想から抜け出せてないんだよねえ。
 日本人の「和」の思想が、島国という狭い世界での安寧を保つのには最適でも、国際社会では通用しない、という李さんの指摘については、誰もが首肯しているところだろう。日本人がその「和」の「輪」からなかなか抜け出せないせいで、国際社会におけるコミュニケーション不全を起こしていることは紛れもない事実だ。
 しかし、韓国の儒教的倫理観だって、国際社会で通用するものでもない。
 要するに「文化相対主義」ってのは、どの国の文化もスタンダードではないということを認めることであるし、だからこそ、それぞれの国の文化に優劣をつけたり、一方が一方に文化の押し付けをしたりしちゃならない、ということになるのである。
 だから、日韓併合による皇民化政策は明らかに誤りであり、大東亜共栄圏構想もアジアにとっては余計なお世話でしかなかったと言えるのである。「ロシアの脅威からアジアを守るため」といかにもリクツが通ってるような言い訳を主張する日本人多いけどさ、じゃあ、日本が負けたあと、中国や朝鮮はロシアの属国になったかね。「杞憂」でもって民衆を洗脳し踊らせるのは今でもマスコミがよく使う手だ。中国・朝鮮を「三等国」と見なし「善導」しようとした戦前の日本の傲慢さは否定できるものではない。
 その戦前の日本と同じ行為を、今になって日本に対してやりたがっている韓国人は多いのである。この本でも初めは緩やかだが、章を重ねるに連れて「韓国に倣え」式の発想が少しずつ、じわじわと頭をもたげてくるのだ。
 豊臣秀吉の日本統一を例に挙げて、「韓国より何百年も統一が遅れた」とかいちいち書いてるのもヘンな話で、国の統一に文化の優劣を持ちこんでいるのは差別じゃないのかな? 歴史が古いことに価値を見出す発想自体、文化相対主義を否定しているんだけど、李さん、自己矛盾を起こしてることに気づいていないね。
 論理の破綻は更に続き、やっぱり「日本の文化はオリジナルではない」「朝鮮文化の換骨奪胎(いいとこどり)に過ぎない」ってな感じの結論に集約されていく。それ言い出したら朝鮮だって中国のコピーなんだけど、その辺を李さん、どう考えているのかね。
 だから、どこの国の歴史が古いとかどっちが先だとかいうことを言い出すこと自体、相手の国を侮蔑することになるんだってば。アメリカは歴史が200年しかないから「弟」だって言える? 儒教の「長幼の序」って、そこまで差別意識の強いものじゃなかったはずなんだけどなあ。中国から朝鮮に輸入されて「いいとこどり」されたんだろうね(^^)。
 皮肉めいた書きかたをしたけれど、それぞれの国が、お互いの歴史と文化をもっと学べって李さんの主張は間違ってない。なのにねー、本当はあくまで、その基本を崩さずに書いてくれてたらよかったんだけれどねー、やっぱり「自分の国に都合の悪いことは隠そうとする」心理は、比較的バランスの取れている李さんに関しても働いちゃってるんだよねー。悲しいことに。
 つまり、「元寇」についての記述は、ほかの韓国人の書いた本と同様、この本には全くないのである。そりゃ日本を侵略はしたけれども、あくまでモンゴルの尖兵として使われただけだって主張したいんだろうね。自分たちも被害者であると。
 もちろん、その主張も認めますよ。モンゴルには逆らえなかったんだと。けれど、事実そのものを書かないのはやはり歴史の隠蔽だよ。戦時中の日本人の大半が軍部の命令に逆らえなかった事実をちゃんと書いてくれた李さんになら、これは理解できるリクツなはずなんだけど。
 歴史はたいてい「どっちもどっち」だ。
 絶対の正義なんてないし、絶対の悪もない。
 だから、かつて罪を犯した歴史を認めたなら、そのときは「お互いに」反省し、許しあうしか方法はないのだ。
 その姿勢が李さんにないわけではないのだが、惜しいところで認識の甘さが現れちゃったね。それとも、理性的に書いちゃうと韓国の過激な日本人嫌いの人たちに狙われるから、あえて迎合したのかな? もしそうだったら、かえってこんな中途半端な本は、出さないでくれてたほうが両国関係のためにはよかったかも、という気にもなってしまう。……単に李さんの勉強不足だったと思いたいなあ。

 さて、この日記読んでる人の中にも色々なご意見をお持ちの方もありましょうが、もし、私のことを「日本人として過去の罪を反省していない」人間だと受け取るのであれば、文化の違いがどうのこうのと言う以前に、文章の理解能力自体に著しく欠けているヒトだと断定しちゃいますよ。
 私ゃもういい加減、この手の問題について議論するなら、未来志向の話がしたいんですって。


 さて、第2ラウンド開始(~_~;)。
 すっかりふてくされたのか、しげ、仕事帰りに迎えに来ていない。
 こういう子供みたいな態度を取るから私もハラを立てるのだが、朝に比べたら、私も落ちついている。
 いったん、タクシーで帰って、不貞寝しているしげを叩き起こし(落ちついてるのかね)、博多駅に向かう。
 食事でもしながら少し話し合おうと思ったのだが、しげがグズるので、駅前の駐車場に車を停めたまま、蒸し暑い車中で今朝の出来事を反芻する。
 「だからあのとき、おまえがさあ」
 「あのときって、どのとき?」
 「今、言ったじゃん!」
 しげ、文脈の中での指示語が何を差すのかが把握できないので、会話が堂々巡りを繰り返す。
 「だから『仕事に使うものとか買う』って言ったろ? それでおまえが『とかって何?』って聞くから、『ウェットティッシュとか』って……」
 「違うよ、それ逆だよ。『ウェットティッシュとか買う』って言うから『とかって何?』って聞いたら『仕事に使うもんだ』って答えたんだよ」
 「逆だよ」
 「逆じゃないよ」
 「逆だって。だって、職場でウェットティッシュが要るなあと思ったからそう言ったんだから間違いないし」
 「オレだって確実だよ。ウェットティッシュとかの『とか』が気になったから聞いたんだし」
 「だからなんでそんなに『とか』を気にするんだよ!」
 「『とか』って使い方がヘンだからだよ!」
 「どこがヘンなんだよ! オレの言葉遣いがヘンだって言うなら、おまえは何で俺が飲み物買うと分かってて『何しに寄るん』なんて解りきったこと聞いたんだよ!」
 「だって、もう飲み物飲んだのにまだ要るのかと思って」
 「あれだけで足りるわけないじゃん!」
 「うん、そう思ったから、『まだ何か買うと?』って聞いたら『とか』って言うから」
 「だから『とか』とか気にするなあ!」
 いかん。
 朝の会話以上にどーでもいいことを何度も何度も何度も喋っている(-_-;)。
 しげもいい加減疲れてきたのか、涙声になって愚痴を言い始める。
 「オレも間違ってるかもしれないけれど、アンタは自分が間違ってるかもしれないって思わんの?」
 「誰もそんなこと話してないだろうがあ! それが詭弁だってんだよ!」
 結局、これ以上話しても不毛なだけなので(っつーかケンカの原因自体が不毛)、「しげは指示語が何を差すのかわからないくらいバカだから、これからは指示語をできるだけ使わずに、幼稚園の子供を相手に話すつもりで丁寧に説明するようにします」と約束して決着。
 気がついたらしげは仕事の時間が迫っていて食事どころではなくなっていたのだった。とほほほほ(T∇T)。


 DVD『千と千尋の神隠し』の画像が赤味がかっているという苦情がスタジオジブリに殺到しているそうである。
 えええ? そんな不良品、つかまされたのか? 私が見たときには全く気がつかなかったぞ、と思って改めて再生して見たが、特に赤っぽいという気はしない。パソコン画面で見ると違うのかと思って見てみたが、やっぱりそんな印象はない。
 もっとも私は色弱なので、色の濃い薄いの区別はあまりつかない(この「色弱」ってのも差別用語で、今や「色覚異常」と言わねばならないそうだ。でもそれだと「色盲」との区別がつかないし、「異常」なんて言い方のほうがよっぽど差別だと思うから、あえて従来通りの言葉を使わせてもらう。色弱の人間に断りもせず勝手に差別語にするな。わしゃ「色弱」と言われたって全く傷つかんわい)。
 濃いと言われりゃそうなのかもしれないが、気にするほどのものなのかなあ。世の中の人って、そんなに色に拘ってるのかなあ。赤と青の区別さえつけば信号は渡れるぞ、それじゃいけないのかなあ。
 でも「色の分らんやつは黙っとれ」とか誰かさんから言われたらヤだから、このへんで言うのやめとこ。現物がどんな感じなのか気になる「正常」な方々は、以下のURLを覗いてみなっせ。

 http://www.yomiuri.co.jp/hochi/geinou/jul/o20020723_40.htm


 柊あおい『ロングテイル オブ バロン 絵本とムックで紡ぐ猫の男爵のもう一つの物語』(こだま出版・1800円)。
 映画『猫の恩返し』のムック『バロンの手帖』と、柊あおい自身によるサイドストーリー『空の駅』の二冊をセットにしたもの。
 映画のムックはいろんな出版社から出されているけれど、絵本をつけたことで得点は高い。ムックの方も柊さんのカラーイラストが豊富で、映画以上に猫猫した(ど〜ゆ〜形容じゃ)不思議なムードの猫たちに溢れている。
 柊さんのインタビューを読む限り、作者としては『耳をすませば』のアニメ化について不満な点もあったようだ。「ムーンは私には黒猫ですから」なんて発言には、『耳すま』でムーンをあんなブタ猫にされてしまったウラミもあるのだろう。
 でも、柊さんがオトナであるのは、アニメのイメージに重なるデブ猫を新たに「ムタ」として案出したこと。なかなかできるこっちゃないな。そして『猫の恩返し』が、『耳すま』の雫が創作した物語であると設定したことで、原作からもアニメからもリンクできるようにしたのは実にうまいアイデアだ。
 そして絵本、『空の駅』の出来。
 これもまた雫の描いた絵本、ということなのだろうか、孤独な少女が闇の列車に乗ろうとする、ちょっと『銀河鉄道の夜』を彷彿とさせる物語。バロンは彼女の心が「光」を取り戻すきっかけを与える役割だ。
 柊さんが宮澤賢治に創作の源泉を求めていることは見当がつくが、賢治の世界にバロンのようなキャラクターはいない。人を「光」に導くものは、賢治にしてみれば自らの犠牲的精神そのものである。
 しかし人は弱いものだ。自らを鼓舞してもなお、立ち上がれぬときがある。バロンは、そういう人々に「声」をかける。それが彼に与えられた役割である。
 バロンは預言者か? それともただの狂言回しか?
 恐らくどちらでもない。バロンは知っているのだ、少女たちが本当は自らの力で立ち上がれることを。ほんの少し、勇気を出すことをためらっているだけであることを。
 「少女」とは日本においてはネオテニーの象徴である。幼形のまま成長することを拒絶された存在である。しかし、彼女たち自身はそのように扱われることを望んでいるか? 自ら歩む道を閉ざして、それで満足しているか?
 そんなことはない。少女はまた天使の寓意でもあるが、天使もまた性を持ち生を育む存在であるのだ。
 彼女たちを導くバロンが「猫」であることはいかにも象徴的だ。
 月島雫が天沢聖司と出会う前にバロンに出会っていたように、少女たちはあるものに出会って後、自らの殻を破り、現実の生を生きるのだ。
 「猫」とは何か? 何の象徴なのか?
 「待ちつづけるもの」「異界のもの」。
 それが何かを答えられるのも、少女だけに与えられた特権なのである。
 
 うーん、『耳すま』の原作読んだ時にはちょっと少女マンガとしてもありきたりかなあ、と思っていたけれども(失礼)、この方の才能、見直さなきゃいけないかも(^_^;)。

2001年07月23日(月) 猛暑に耐えるくらいならクーラー病の方がいい/『(週)少年アカツカ』(赤塚不二夫)ほか



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