無責任賛歌
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| 2005年02月01日(火) |
「ポリープ」って音の響きは美味しそうなんだが/舞台『ジャン・コクトーの「声」より』 |
朝から下剤飲んで、病院で内視鏡の検査。 以前も経験があるので、詳細は省略。ケツカメラは前はかなり気持ち悪かったんだけれど、今回は体力消耗してたせいもあるのか、腹がちょっと張るくらいで苦痛はなかった。前回同様、今回もポリープ発見。カメラで見た印象は、腸壁に張り付いたマッシュルームみたいである。 どうやら私は定期的にポリープができる体質らしい。放たっといたら腸の中ポリープだらけになるんか? ってことは、ケツカメラも定期的に突っ込んでもらわなきゃならんってことかよ。トホホ。 大雪の中、帰宅して夜まで寝る。
6時過ぎからお出かけ、キャナルシティ横の「ぽんぷらざホール」で、制作集団アントンクルー番外公演『ジャン・コクトーの「声」より』を見る。 地元劇団の芝居はあまり見ない。自分とこの劇団もそうだけれど、やっぱねえ、一人よがりな人間ばっか集まっててさ、「一般の人に見せられるもの」をちゃんと作ろうってところが少ないから(ウチがカンパ制でおカネ取らないのは、練習見てるとどうしても「そんなんで芝居やってるつもりか」って思いがしてしまうから)。 だからと言って、地元劇団の芝居は絶対見ないとまでは思わなくて、芝居の企画によっては「これは面白そうだ」と思って見に行くことがある。ハッキリ言えば80年代以降の小劇場演劇作家の作品を扱った演劇はどこの劇団が演じても大同小異でもう見たくはない。今回はジャン・コクトーが原作ということで興味を持った。
男から別れを告げられた女。 寂しさに耐え兼ねて、女は睡眠薬で自殺を図るが、友人マルトに助けられて一命を取り止める。そしてその翌日の深夜、女は男からの最後の電話を待っている。 電話のベルが鳴る。しかしそれは男からのものではない。1920年代のパリでは、電話の混線は日常茶飯事であった。見知らぬ女から何度となくかかってくる電話に苛立つ女。ようやく男からのベルが鳴る。 女は昨夜の自殺未遂を悟られないように、明るく振る舞う。しかし、男のつく嘘に気付いたとき、女もまた嘘の上に嘘を重ねるようになっていた。 そして、再び混線する電話。電話の向こうの、名も知らぬ女は、ずっと、二人の会話を聞きつづけていたのだ……。
びっくりしたのはやはり主人公の「女」を男性に演じさせていたことだ。これはかなりな「冒険」で、大失敗に終わることも覚悟の上の勇気ある演出だと思う。 多少、女顔した男性なら、黙って立っているだけなら女に見えなくもないが、声を出して動いてしまうとこれはもうどうにもごまかしようがない。演技力がある俳優であっても、完全に女になることはできるものではない。ましてや、ヘタクソが演じればこれはただのオカマにしか見えないのである。美輪明宏などは、「男でも女でもないもの」として存在しているが故に圧倒的な存在感を観客に感じさせてくれるが、あの域にまで達するのはそんじょそこらの俳優には殆ど不可能に近い。 だから主演の菊沢正憲氏、熱演ではあるのだが、首の動きや足さばきにところどころ「男」ないし「オカマ」が見えてしまうのはいかんともしがたいのである。けれど、プロの役者だってこんな演技をやれと命令されたら「やれるかい」と逃げたくなる人も多かろうから、果敢に挑戦されただけでも素晴らしいし、少なくとも1時間は舞台を持たせることはできたのだから、決してひどい出来ではない。女には見えないからこそ、観客は自らの想像力を駆使して「見立て」ようとする。その想像力を阻むほどにヘタならば問題なのだが、そこまでのことはなかったので、充分演劇として成立していると言えるだろう。元気がありすぎて女の孤独までは感じられなかったのが残念だが。衣裳もユニセックスなブラウスにスラックスで、へたにスカートなどを履かせて「女」を強調しなかったのもよかった。
コクトーと言えば不条理劇という印象があるが、これは随分とストレートな芝居のように見える。しかし、姿の見えぬ相手と「声」だけで繋がる「電話」の存在自体がコクトーにとっては不条理極まりない存在だったのであって、ましてやそれが自分が全く知らない女に聞かれ続けているとなれば、これは恐怖を喚起する悪魔の道具にすら思える。現代では、コンピューター制御でこんな混線は殆ど考えられなくなってしまったが、ちょっと前だと携帯電話の盗聴問題は携帯の普及を阻む大問題であった。 顔の見えない無情な声、耳には届かない気配だけの声が、女の心を侵食していくこの芝居は、普通の芝居のように見えて実はやはり「現実の不条理」を描いたものなのである。 そういったコクトーの感覚が現代人には伝わりにくくなっているだけに、『声』を舞台に乗せるには演出上の工夫がかなり必要だろうと思われるが、そういう点にはあまり注意を払ってはいなかったようだ。電話をわざわざフランスから昔のものを取り寄せたり、小道具には凝っていたけどね。
アニメーション映画賞関係のニュースも、残すところはアカデミー賞くらいになってきたが、その前哨戦ともいうべき第32回アニー賞が、先月30日に発表。 作品賞のノミネートは『イノセンス』『Mr.インクレディブル』『シュレック2』『The SpongeBob SquarePants Movie』の4本で、最有力候補は『インクレディブル』だった。結果は大方の予想通り、『インクレディブル』が作品賞を獲得。それどころか、監督賞、音楽賞、アニメ効果賞ほか、10部門を制覇するという快挙である。 『インクレディブル』の映画自体は私も感嘆して見たし、作品賞受賞自体に反対はないのだが、さてまあ『イノセンス』が一部門も受賞できず(作品賞、監督賞、アニメ効果賞、音楽賞でノミネート)、『インクレ』が10部門全部受賞となると、アメリカは自国ビイキが過ぎるなあと思ってしまう。いや、世間の評判に引きずられて、審査員がみんな「インクレ熱」にかぶれただけではなかろうか。どうしてもそんな風に疑ってしまうのは、「最優秀声優賞」が、『シュレック2』のアントニオ・バンデラスや『インクレ』のサミュエル・L・ジャクソンら錚々たるメンツを蹴散らして、エドナ・モード役のブラッド・バード監督本人に与えられた、という冗談のような結果ゆえにである。そりゃあねえ、確かに女性の声にしか聞こえない名演だったなあと思いはするけれども、ブラッド・バードは美輪明宏じゃないでしょう。ヒッチコックの作品で助演男優賞に監督本人を選ぶようなもんで、ファンは喜ぶだろうけれども賞としては問題があるんじゃないか。 同様に、『イノセンス』がその思想性から作品賞は敬遠されるとしても、アニメ効果、音楽に関して言えば、『インクレディブル』が『イノセンス』より優れているとは言い切れないと思う。「インクレびいき」が、『イノセンス』の評価を総体的に貶める結果になってるんじゃないかといささか腹立たしい気持ちにすらさせられてしまうのだ。 CGアニメーションの進化を認めるに吝かではないのだが、それでも生身の人間の「感情」を表現するのにCGキャラクターは「余白」がなさ過ぎる。それに気付かずにCGアニメに馴らされてしまっているアメリカ人の鈍感さでは、商業アニメ以外のアートアニメーションの表現力は決して理解できないのではないだろうか。 さて、そしていよいよ残るは「本命」アカデミー賞であるが、これも十中八九、『インクレ』が受賞するだろう。対抗馬の『シュレック2』『シャークテイル』だが、前者は敵としてはお話にならないくらい寒々とした出来映えで、後者は未見だが予告編を見る限りではやはり二歩も三歩も後塵を拝しているように思われる。 昨年、アカデミー賞は、“アメリカ以外のほとんど全ての国で”映画賞を受賞しまくったシルヴァン・ショメ監督の傑作『ベルヴィル・ランデブー』を落として、出来としてはそこそこの『ファインディング・ニモ』を受賞させた。今年は、アニー賞に作品賞にも監督賞にもノミネートされなかった『シャーク・テイル』をノミネートして、『イノセンス』を落とした。アカデミー賞は作品の出来だけではなくて、「ヒットしたかどうか」も考慮に入れると言うが、だったら一昨年、小ヒット程度の『千と千尋の神隠し』に受賞させたのはおかしいということになる。なんだかそのときの「意趣返し」のように身ビイキをしているようで、もう散々言われているアカデミー賞の「不透明性」を感じてしまうのである。 これで来年『ハウル』が作品賞を受賞でもしたら、やっぱりかなり「政治的判断」が作用したと思われても仕方がないと思うけどね。なんとなくそうなりそうだなあ。
2004年02月01日(日) しばしのお別れ。 2003年02月01日(土) オタクについて考える夜/『コラムは誘う ―エンタテインメント時評 1995〜98―』(小林信彦) 2002年02月01日(金) 餃子、餃子、餃子〜、餃子を食べぇよおー♪/『真・無責任艦長タイラー�ァ”�活編』(吉岡平)/『東西奇ッ怪紳士録』(水木しげる)ほか 2001年02月01日(木) だ〜れだ?/舞台『菜の花の沖』
| 2005年01月31日(月) |
中尊寺ゆつこさん、死去/DVD『きまぐれロボット The Capricious Robot』 |
しげ、またまた薬を飲みすぎて、朝方起きれず。 最近は仕事に行かなくなった代わりに料理もちゃんと作るようになったんで、家事が全然できないとまでは言わずにすんでいるけれども、まだまだ「抜け」は多いのである。眠れないからといって、二倍も三倍も薬を飲んでたら起きられなくなるのは当たり前じゃないか。なんでもう少し自己管理ができないのかなあ。 私だって子供のころは、寝付きは悪いわ朝は起きられないわで、かなり苦しかったのだが(心臓が弱かったせい)、瞬間で眠れるように「訓練」した。こういうのは「気合い」で何とかなる場合も多いのである。だから、小学校のころは病気がちだったのが、中学、高校と快眠できる状態が続いて、そんなに大病を患うこともなくなった。それが、大学を卒業するころからジワリジワリとまたカラダを壊すようになっていって、結婚してからは病気がトモダチみたいな状態に逆戻りしてしまった。これも、眠れないしげから夜中にいきなり叩き起こされたりしたのが重なったせいもあるのだ。 自分が眠れないだけならまだしも、私まで巻き添えを食らわされたのではたまったものではない。父はしげが睡眠薬を服用していると聞いて、「薬に頼らない方がいいがなあ。お母さんは薬には絶対反対やった」と心配するのだが、私も自分のカラダは自分で守りたいのだ。「寝る技術を身につけろ」と何度も叱りつけたって、しげに自分で努力することが不可能なのであれば、薬に頼ってもらうしかない。 30年も生きてきて、どうして「眠る技術」が学習できないのかってことについては、確かに疑問ではあるのだが、そういう人は実際にいくらでもいるので、単純に「気合いが足りん」の一言で片付けられはしない。これもやはり脳にもともと問題があるのだとしたら、神経科だけじゃなくて脳外科とかにも診察してもらう必要があるのかもしれない。そのへんのことも神経科でちゃんと話しているのかなあ。「最近は病院のほうはどう?」と聞いても「カウンセリングの兄ちゃんとは見た映画の話しかしてないよ」としか答えないんだけれども。
寒波到来、朝から雪。 今年は暖冬だと思っていたので、忘れたころにやって来た、という感じ。こないだ降ったのが大晦日で、あれが福岡では初雪だった。 明日は全国的に大雪になるという予報だったので、職場でも予定していたスケジュールをいろいろ調整するための会議やら何やらが重なって大忙し。私の場合、明日は精密検査で仕事を休むので仕事を前倒しして片付けていたのが幸いした。まだ案件はいろいろあるのだが、できるだけストレスを溜めないようにしたいものである。
DVD『きまぐれロボット The Capricious Robot』。 ネット配信のみだったスタジオ4℃製作の短編アニメーションがようやくDVD化。我々の世代にとっては「星新一」の名前は超ビッグネームであって、若い人たちが「それ誰?」なんて言ったりするのを聞くと、そいつの脳天かちわって味噌と醤油ぶっこんでかき混ぜて野良犬に食らわしてやりたくなるほどの怒りを覚えてしまうのだが、SFが浸透と拡散の末にマイナーになっちまった現代ではこれも文句付けたってどうにもならない現実なのである。 だから、『コミック☆星新一午後の恐竜』『同・空への門』など、星新一のショート・ショートが新世紀のマンガ家たちの新解釈によって再話されていることは基本的には嬉しいことなのだが、同時に「この程度の試みで星新一が若い世代に浸透することはありえないよなあ」と悲観的な思いもどうしてもしてしまう。更に言えば1作1作の完成度の格差があるのも問題なのだ。それはこの『きまぐれロボット』の映像化についても言えることだ。 今回アニメ化されたのは次の10作。 1、『きまぐれロボット』(監督:芦野芳晴) 2、『夜の事件』(監督:清水保行) 3、『3つの願い』(監督:浦谷千恵) 4、『ねぼけロボット』(監督:久保まさひこ) 5、『文明の使者』(監督:千葉ゆみ) 6、『謎のロボット』(監督:青木康浩) 7、『スパイキャッチャー』(監督:青木康浩) 8、『火の用心』(監督:清水保行) 9、『襲来の目的』(監督:青木康浩) 10、『薬』(監督:伊藤伸高) 「初心者向け」すぎる作品のセレクト自体に問題がないかどうか、ということもあるのだが、作画技術がすばらしいのに、「これはおもしろい」と賞賛できるエピソードが少ない。というか、一本一本を見ていくうちに、そもそも「星新一は映像化には向かないのではないか」という疑問が心中沸々とわいてくるのである。 星新一の本質を一言で表現するならそれは『未来いそっぷ』である。未来を想定した寓話であって、だからこそ舞台や登場人物は無国籍、N氏やF氏の姿や年齢は読者の想像に任される。それはイソップが登場人物の殆どを“無国籍”な動物に仮託して人生の真実を語らせた手法と同じである。どんな物語も小説も、時代、風俗、文化などの変化によって古び、その価値が変容することから逃れられはしないが、そこに少しでも普遍的な真実を与えようとするならば、主人公はやはり“象徴”としての無名氏でなければならない。すなわち、彼らに具体的な「姿」を与えること自体、それは星新一作品を否定することになるのだ。 実際、狂言回しの博士のキャラデザインを見て、「なんじゃこりゃあ?!」と思ったファンは多いのではないか。寸詰まりのエーリッヒ・フォン・シュトロハイム(『マジンガーZ』でドナウα1を製造した科学者)みたいな姿はどう見てもマッド・サイエンティスト。しかし、星新一の想像した科学者は全部が全部、マッドな存在だったかどうか? 科学者は全てマッドな存在となりえる危険があるという寓意はあったとしても、それをデザインで予め提示してしまうのは解釈が根本的に間違っているのではないか。更に言えば「ずーっといいのよーん」なんてギャグにもならない陳腐な言い回しのセリフを喋らせるのは星新一に対する冒涜ですらあるのではないか。 アニメーションとしては傑作だが、星新一としては駄作。アニメ『きまぐれロボット』はそんな印象である。もっともガイナックスの『小松左京アニメ劇場』みたいな超駄作に比べたらはるかにいい出来ではあるんだけどねえ(いしかわじゅんのキャラデザって段階でどうしようもなかったんだが、誰も止めるやつはいなかったのか)。 いや、映像化自体に無理があるのなら、いっそのこと、星作品1000作を全編アニメ化してくれないか。それで、日曜の朝とか夕方5時台の帯番組とか、ともかく再放送を何十年も繰り返すのだ。そんなふうに『まんが日本昔ばなし』なみの作品数で「質より量」の展開を図るなら、たとえイメージと違う話があっても星新一作品の宣伝にはなると思う。SFの普及を本気で考えるなら、今時はそれくらいやらないと効果はないのである。
マンカ家の中尊寺ゆつこさんが、31日朝、S字結腸がんで死去。享年42。 オタク的なマンガは一切描かなかったので、私もそんなに注目していたわけではなかったが、それでもウチには『お嬢だん』の単行本がある。「風俗」(エッチな意味ではないよ)を描くことはそれこそ『北斎漫画』以来と言ってもいいマンガが持つ使命の一つである。「オヤジギャル」は名前を与えられた90年代こそ、ある意味特権的で目立つ存在として時代を象徴するオピニオンリーダーたりえた面もあった。しかし、現代女性にとっては、「女性のオヤジ性」なんてものは誰もが持っている一面に過ぎず、珍しくもなんともない。今やオヤジでない女性を探し出す方が困難である。その点で、いしいひさいちのような批評性を持たない「描写」のみで作られている中尊寺さんのヒット作のほとんどは、今や読むに堪えないものになってしまっている。しかし、「風俗」が時代とともに古び、忘れ去られていくものだからこそ、それを描きとめていく必然性がマンガにあることも事実なのだ。 女性の手による「風俗」マンガの描き手は中尊寺さん以降、やたら増えたし、一概に「風俗マンガ家」という括りでは語れないくらいにバラエティに富むようになっている。倉田真由美やさかもと未明は作品内容からは中尊寺さんの系列にないように見えるが、実際は中尊寺さんが敷いたレールの流れにある。つまり、「美人マンガ家」が自ら顔出しして傍若無人な「オヤジ的」活動をし、それを作品とリンクさせて売っていくという路線である。倉田さんが初期はまさに「そういうマンガ」を描いていたことを想起すれば、このことは容易にご首肯いただけよう。さらに視野を広げれば、西原理恵子や太田垣晴子、小栗左多里だってこの系列に並べることができなくもない。これらの女性作家のみなさん、「オシトヤカ」な旧弊な女性のイメージと比較すると充分オヤジなのである(誉めてます)。 そんな時代の流れの中で、中尊寺さんの個性は次第に埋もれていき、忘れられていった。近年は政治経済や海外情報のマンガにまで幅を広げていたということだが、つまりは風俗マンガ家としては食っていけなくなっていたということだ。そのことを一番実感していたのは中尊寺さん自身であったろう。 地道な活動でそこそこ人気を保っていくことはできたと思うが、たとえ努力を積み重ねても、かつてほどの大ヒットを飛ばすことはまず無理だったと思う。だから「若過ぎる死」とか「これからだったのに」なんて押し着せの言葉で故人を追悼することは、“それだけで中尊氏さんの活動を総括し、忘れ去らせてしまう”ことになり、かえって無礼ではないかと思う。中尊寺さんが単に流行語を生んだだけの人ではなかったことをきちんと検証して書き残してくれるマンガ評論家はいないものだろうか。それを切に願う。
2004年01月31日(土) このくらいの文章ならたいして時間はかからんのだが。 2003年01月31日(金) 嗚呼、アニメ三昧の日々が……/『名探偵コナン特別編』17巻(阿部ゆたか・丸伝次郎)/『できるかな』(西原理恵子) 2002年01月31日(木) 血管をタテに切る女/アニメ『七人のナナ』第4話/『ガウガウわー太』2巻(梅川和実)ほか 2001年01月31日(水) そうか、最近匂いに敏感になったのはそのせいか/『鉄甲軍団』(横山光輝)
| 2005年01月30日(日) |
三崎亜紀氏サイン会/『仮面ライダー響鬼』第1話ほか |
えー、先日の日記で「なんで『眞野裕子』で検索かけてくるやつがやたらいるんだ」と書いたら、またアクセスが増えて今日は30件。ウチに来るお客さんの三割だよ。だからウチは「眞野裕子日記」じゃないって言ってんのによう。いくら検索かけて来ても、画像もプロフィールも載ってないの。そんなに眞野さんのヌードが見たきゃ写真集を自分で買うか、映画館まで行ってその目でチチの揺れ具合でも目に焼きつけてきなはれ(-_-;)。 ためしに私も「眞野裕子」と「真野裕子」でgoogle検索してみたんだけれど、前者は7000件中60番目、後者は100件中2番目にランクされてやがった。ウチみたいなささやかな個人サイトにまで情報求めてくるってのは宣伝情報がそれだけ少ないってことじゃないのか。プロダクション、ちゃんと売ること考えてるのか? 映画を見た限りでは確かに体当たり演技ではあるんだけれど、ヌードってのはそれが即役者としての評価に結びつくとは限らない場合も多いんで、これから伸びるかどうかはまだ未知数だと思う。デビューが早いわりにはこれまでそれほど注目された気配もないし、『レイクサイド』自体、そんなに派手な映画ではないから、そのきっかけになるかどうか微妙だ。つか、あまり好印象を持たれそうな役じゃないしねえ。これからもヌードで売ってくような営業やってくと、先細りしちゃうんじゃないか……って特に注目もしてない女優さんの将来を心配してどうする(~_~;)。
そんでもって、また「恵」から「精子くれー」のスパムメールが来やがった「(―ヘー;)。 前は「めぐみ」名義だったけれど、やっと漢字が書けるようになったらしいね。でも、「いちよプロフィールも載せておきますね」の部分は変化なし。文章チェックはコマメにしようね。 しかしniftyのスパムメールブロックの学習能力低いよなあ。毎回文面は同じなのにどうしてブロックできないんだか。
カトウくんからしげに「『仮面ライダー響鬼』、見逃すと流行に乗り遅れちゃうぞ!」とのメールがあったとかで、しげは「今日はちゃんと早起きする」と言って目覚ましをやたら仕掛けていた。おかげで私は時計3個、携帯2つが鳴り響く音の洪水の中で7時に目覚めたんだけれど、しげはグースカピー。こいつには起きなきゃならないときに起きようという意志自体がそもそもないのだ。 仕方なく『響鬼』の第1話、録画してやったのだが、先週の予告編でもちょっと危惧はしていたが、かなり「イタイ」出来である。これまで散々批判の嵐にあってきたスタッフがもう開き直ったものか、意味不明な新機軸を打ち出しまくりである。 のっけからミュージカル“風”の出だしだけれども、これがまあ寒々とした出来で、見ていて悲しくなるほどである。歌って踊れる役者もいないんだろうけれど、それを編集だけでゴマカすってのはミュージカルをバカにしてるだけだわね。せめて『歌う大竜宮城』か『新宿少年探偵団』程度のセンスはほしかったが、アレじゃただの時間つぶしでしかない。ああいうことをやるなら、クライマックスの戦闘シーンだってミュージカルでやらなきゃ辻褄合わないでしょうよ。「新しいことをやろう」っていうんだったやりすぎるくらいにやらないと面白くもカルトにもならないんで、結局は中途半端で陳腐な印象をぬぐえない。まだ話は全然進展してないから、何話か見てみて続けて見るかどうかは考えよう。 そのあと『ふたりはプリキュア』『レジェンズ』など見る。 『プリキュア』、一応は最終回だけれども、来週から新番組で続くと思うと別れの場面も感動はできませんわな。
昼過ぎから、作家三崎亜紀氏のサイン会に、博多駅の紀伊國屋書店まで行く。 第17回小説すばる新人賞を受賞した三崎氏の『となり町戦争』は、ある日、静かに隣接する町との戦争が始まるという広報が主人公の北原修路にもたらされることから物語が始まる。けれど、これが普通の戦争小説ではないのは、全編を通してただの一度も具体的な戦闘描写が描かれないという点だ。それが「日常に戦争が介入する」というアイデアだけは共通している筒井康隆作『三丁目が戦争です』と、“戦争”に対するアプローチの仕方がの異なっているところである。 北原には戦争の状況がさまざまな形で知らされる。スパイとして徴用された彼は、敵地である隣町に潜入もする。しかし、いったいどこでどのように戦争が行われているのか、いや、そもそもこの戦争が何が原因で始まったのか、全てが北原には見えないまま、時間だけが進行していくのだ。その間も確実に戦闘で人々は死んで行くのに、北原は最後までただの一個も「死体」に出会うことはない。 ネタバレはこのへんで抑えておくが、読んで感嘆したのは、極めて非現実的な状況を設定していながら、全体としてはカフカ的な観念論に流れることなく、「日本人がこの60年間に経験してきた“現実の戦争”の性質」を象徴的かつストレートに描いていた点である。実際、「これだけ戦争に関わっていながら、その実態を知らない」国民というのはちょっといないのではないか。そういう状況に置かれている日本人の存在そのものが滑稽であり同時に悲劇的でもある。 読んでつまらなかったらサイン会に行くのもやめようかと思っていたのだが、“現実がどうにもリアルに思えない”感覚で書かれた小説というのは、それだけで「SF」なのであり、「面白い」のである。ブラウンが、ディックが、スタージョンが、筒井康隆が、手塚治虫が、石森章太郎が、藤子・F・不二雄が、押井守が、いや、全てのSF作家が何らかの形のバリエーションでもって描いてきたテーゼである。要するに私はこれを「うおおおう、SFじゃんか!」と感激して読んだのだ。
サイン会は2時からだったが、お客がなかなか集まらなくて、開始が5分ほど遅れた。 現れた三崎さんの印象は、新人さんらしく物腰がやわらかくて、それほど作家然とはしていない。顔立ちはなんとなく小ぢんまりとした京極夏彦という感じである。 事前に感想を書くメモを渡されていたので、「タイトルが『三丁目が戦争です』に似ていたので興味を持ちました」と書いておいた。三崎さん、それをチラッと見て、「ああ、『三丁目』ですね。よく比較されて批評されるんですけど、実は読んだことないんですよ」と仰る。てっきりあれを読んでインスパイアされたものと思いこんでいたので、これにはびっくりした。でも先ほども書いた通り、中身のベクトルは全く違うのである。 「SFを意識されて書いたんですか?」とお聞きしたら、「いえ、SFということでなくて、幅広い人に読んでいただきたいと思いまして」と言われる。SFファンとしては寂しいお答えであるが、ど壺にはまったSFマニアは偏狭で冷笑的な人間が多いから、そういう人に読んでもらっても面白くはなかろうと思う。今はそういう時代なのだ。 「恋愛小説としても楽しませていただきました」と言うと、「屈折した恋愛ですけれども」となんだかお照れになっているよう。つい、「いえ、恋愛にストレートも屈折もないんじゃないでしょうか。別れのシーンには、感銘を受けました」といささか若僧のような言葉が口をついて出てしまったが、気を悪くされた風でもなく笑って「有難うございます」とお答えになった。 なんだか主人公の北原と三崎さんとがちょっとダブッて見えてしまったのは申し訳ない想像であった。
サインをいただけたのは嬉しいのだが、私の本名、やっぱり間違えられて書かれてしまった。三崎さん、「サイン会があると一人は必ず間違えるんですよ」と何度も謝られていたが、「いや、友達でも時々間違えてますから。気にしておりません」と私も頭を下げて、お互い謝り合戦である。 これだから珍名の人間はつらい。こちらが腹立たしくなるのではなくて、相手に恐縮されてしまうのがつらいのである。
サイン会の様子、もう少し見ていたかったのだが、劇団の集まりがもう始まっているので、そそくさと紀伊國屋をあとにする。 千早駅で加藤君が迎えにくる予定だったのだが、到着してみると「すみません、歌の順番が回ってきたので迎えに行くのが遅れます」とのメール。つか、カラオケやってんのかよ。どこに集まるのか当日まで全く連絡がなかったのでどうしたもんかと思ってたが、カラオケじゃ打ち合わせも何もできないんじゃないか。まあ、一応劇団は休止期間であるから別に無理して打ち合わせしなくてもいいんだが。 遅れてきたカトウくん、出口を間違えて教えてくれたので、いったん外に出ていたのを駅の構内を反対側の出口まで走らされる。昼飯食ってなくて、かしわむすびをぱくついてる最中だったから、走ってる間はかなりみっともない格好になった。売店のねーちゃんが笑ってたのがチラッと見えたが、俺を見て笑ってたのかなあ、あれ。。 カトウくんの車似乗ってカラオケ屋に。集まっていたのは、桜雅嬢、加藤(草野)嬢、鴉丸嬢、其ノ他くん、よしひと嬢、ラクーンドッグさん。もう3時間歌いっぱなしな様子で、やっぱり今日の打ち合わせはナシらしい。なら私もなんか歌おうかと思っていたら、もう時間が来たらしく、『キャンディ・キャンディ』と『愛のメモリー』しか歌えなかった。まあ私の『キャンディ』は女性陣にかなり引かれていたようだったので、害毒を撒き散らすのは2曲程度でよかったかもしれない。一応後者は『富豪刑事』がらみということで。
鴉丸嬢、其ノ他くんは早抜け、ラクーンさん、加藤さんはカラオケ屋の前でお別れ。カラオケ屋の駐車場でもみんなで加藤くんを「連絡が遅いぞ」と突き上げる。集まり自体は別にこれという目的がなくたって、いつどこでやっても構わないのだが、連絡が直前に来たりするのはさすがに困るんである。せめて2週間前に連絡もらえてたらなあ。お土産に持って来た「博多通りもん」(お菓子)もカラオケ屋の中で開けるわけにはいかなかったから、駐車場でみんなに配るハメになったが、事前にカラオケに行くと分かってたら、もちっと別のものを用意したと思うのである。
残りのメンツでダイヤモンドシティに。そこのフードコートで食事しながら、月イチ程度で集まろうか、次はどこで何をするか、などをみんなで話す。打ち合わせと言えばこれが打ち合わせになるか。 あとはもう延々と8時過ぎまでオタク話。これまた内容を詳しく書いていたらキリがないので省略するが、まあほとんどは映画『デビルマン』のワルクチである。未見の加藤くん、「そこまでひどいならかえって見たいです」と言っていたが、見る程度ですまさないで、これはぜひDVDをコレクターズボックスで購入してほしいものだ。いや、史上最低の映画がいかに作られたか、メイキングとかで見てみたい気もないわれてはないのだが、多分劇場に足運んだ人間でそこまで「勇気」を出せる人間はそうそういないと思う。ここは一発、加藤くんにぜひ「男」になってほしい。劇団内では加藤くんは「ほ○」と決めつけられているので、映画としてもピッタリだしな(^o^)。
映画も見ようかと思っていたが、さすがに疲れたので帰宅。時計は10時を回ったころ。でも日記を書かにゃならんので、まだまだ眠れないのであった。
2004年01月30日(金) コスプレではない、ヘンソウである。 2003年01月30日(木) なんでも食うよ/『ブラックジャックによろしく』4巻(佐藤秀峰)/『プリズム』(貫井徳郎)ほか 2002年01月30日(水) どうしてくれよう。/『マジンガーバイブル 魔神全書』(永井豪とダイナミックプロ)ほか 2001年01月30日(火) 昨日・今日・明日/『火の接吻』(戸川昌子)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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