心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2005年09月30日(金) 9/30

無理に学校に行かせる必要はないだろうということで、長女は学校を休みました。
どんなときにもマイペースの次女は、普通に通学していったそうです。

僕はといえば睡眠は十分とれているはずなのですが、肩こりや腰の痛みが残って、睡眠不足を感じさせます。お昼前に、仕事を休もうかどうしようか迷っていると、学校から電話がありました。保健室の先生からで、午後だけでも保健室登校しないかというお誘いでありました。

そういえば金曜日で、アラノン・ミーティングが昼間にある日であります。でも妻は乗り気ではありません。

僕は仕事に行きたくないし、長女は学校に行きたくない、妻はアラノンに行きたくない。でも、3人で家にいても仕方ないので、それぞれ出かけることにしました。

僕は職場に着いたものの、腹痛がおさまらず一時間もしないうちに早退することになってしまいました。気がつけば半袖のワイシャツを着ているのは自分一人です。今度から長袖のシャツに替えなくては。

家に帰っていると、妻が帰ってきて「私は一生懸命アラノンに行ったのに、あなたは途中で帰ってくるとは何事であるか」と責められてしまいました。そこへ長女がおなかが痛いと言いながら飛び込んできました。
学校では痛くなかったそうなのですが、家を目前にしたところで、急におなかがキリキリと痛み出したのだそうです。
本人の希望で正露丸を牛乳で飲んでみたものの、痛みはいっこうに治まりません。おまけに、日曜日に救急病院でもらった痛み止めまで飲んでしまいました。

聞いてみると「キリキリ」と胃が痛むと言います。僕は子供の頃から30代まで神経性胃炎に悩まされましたので、この症状はよくわかります。正露丸ではなおらないので、胃痛の薬をさがしてみましたが、手元にあるのはみな15才以上という指定の薬ばかりです。

大きな薬局に行って探してもらった、やっと5才以上という薬を見つけました。胃が痛くても食欲はあって、暖かいものが食べたいというので、家族でうどん屋に行くことにしました。

妻はアラノンに行っただけで「疲れてしまった」と言って、今夜の風呂はなしと宣言して、夕方早々に寝てしまいました。僕も体調が悪いので横になったのですが、夜になって起き出して、子供たちを風呂に入れて、寝かしつけました。

長女に添い寝(といっても寝るまでの間だけだけど)は、今週は水曜を除けば毎日続けています。寝る前にパパがしてくれる、とってもいい加減なおとぎ話みたいなものを長女はとても楽しみにしてくれます。

ともかく、こうして週末へとなだれこみました。


2005年09月29日(木) 9/29

長女は保健室へ登校。付き添いで行った妻は、保健室でパニック発作を出した倒れたらしいです。

昨年の6月ぐらいからロボホフスキー・ハムスターの「ちいちゃん」を飼っていたのですが、学校から帰ってきた長女が遊ぼうとしたら、冷たくなっているのを発見しました。庭の片隅に埋葬されたそうであります。

「明日新しいハムスターを買いに行こう」
「今度はゴールデン・ハムスター」

という娘たちを相手に、「ペットとおもちゃは違うこと」「しばらく喪に服すこと」なんかを話して聞かせてみたものの「喪に服す」って何と聞き返されて、答えに詰まるのでありました。

ともかく、娘たちと接している時間を増やそうと、一緒にお風呂に入り、音楽会のリコーダーの練習をしました。まだ楽譜の読めない子供にかわって、キーボード(音楽用、コンピューター用ではない)で引いてあげました。

子供は10時までに寝るという生活をキープしていきたいです。自分自身も早く寝ることを心がけて。


2005年09月28日(水) 気楽にやろうと自分に言い聞かせつつ

昨夜ミーティングが終わって、アフターのおしゃべりが終わって会場を離れたのが9時半ごろだったでしょうか。いつもだったら、途中のジャスコで買い物をして、実家へと向かうのですが、そこでなんだか疲れ切ってしまっている自分を発見するのでした。

実家に寄らずに帰ろうかとも思いましたが、おそらく家には風呂も僕の夕食も用意されてはいないでしょう。仕方なく実家へと向かいました。普段だったら着くと同時に風呂に入って、すぐに食事をしながら母と話をし、そして1時間あまりで引き上げることにしています。
だが、風呂という気分でも、食事という気分にもなれず、母親相手に(まるで酔っぱらいがくだをまくように)愚痴を垂れてしまいました。だが母は、泣き言を言う人間に優しいタイプではありません。「そんなことを言ったって、おまえ仕方がないじゃないのさ」とつれないものです。
「仕方がないじゃないのさ」というのは、母一流の「変えられないものを受け入れる手段」なのでしょう。この「仕方のない」という諦念に反抗してみたこともありましたが、それは「変えられないものを変えようとする」反抗に等しいもので、勝ち目のない戦いでもありました。

1時間ほど話すと、急に体の寒さと空腹を感じ、風呂と食事を済ませ、さらにもう少し話して実家を出たときには夜半をまわっていました。

この間に、我が家の方では、学校で配られた検尿の容器と袋が居間で行方不明になってしまい、大捜索が行われたものの、結局(容器はともかく)袋は見つからず、袋の自作などが行われていた・・というのは翌日(今日)の昼になって聞いた話です。(また子供たちは睡眠不足だ!)

帰ってみると妻と子供二人はさすがにもう寝ていました。風呂に入っていないようでありました。
僕が実家で風呂を世話になるようになって、いつの間にか妻がその日の風呂をさぼるようになったことに、僕はしばらく気がつきませんでした。子供が風呂にはいるのを面倒くさがるのも原因かも知れません。清潔と保温も休息のうちと思っていて、自身風呂に入れないと不満がたまる僕としては、このことが気に入りません。いや、このことに自分のコントロールが及ばないことが気に入らないのかもしれません。

僕は、早く寝ればいいのに、なんとなくパソコンの前で何をするでもなく起きていました。
水曜日に、午前中にメンタルクリニック+午後に仕事+夕方からAA+夜に実家、とこなすのはちょっと疲れがたまりすぎると思って、クリニックに行くのを木曜の午前中に変えることにしました。だから水曜の晩は夜更かし禁止を自分に言い聞かせているのですが、そういった自制がどうもききません。

最近、うつと怒り(恨み)、うつと甘え、ということをよく考えます。
僕は母同様に「仕方ない」という諦念によって変えられないものを受容する自分を築いています。このことが正しいことかどうかはわかりませんが、「変えられないものは変えられない」と気持ちよく諦めがついているときは、物事は比較的スムーズに進んでいるので、それなりに実用になる考え方であります。
ところが、気持ちよく諦めがつかないときがあります。今の自分のように。
「何とかならないものか」とじたばたしてみたりするものの、物事は一向に良い方向へ向かいません。運命を呪ってみたり、怒ってみたりするのですが、そうすると次にお定まりのようにうつが悪化します。
「運命に押しつぶされようとしているかわいそうな自分」を自分で救ってあげようと、自分を甘やかします。それは意味のない夜更かしであったり、確信犯的な買い物であったりします。だが、夜更かしは体力を奪うし、買い物は金銭を奪うだけで、ちっとも自分を救ってくれはしないのです。できあがるのは、ぼうっと疲れた肉体と頭と心。すさんだ財布ぐらい。あとは自己憐憫がせいぜい。これまたうつの種ばかりです。

結局うつもスピリチュアルな病気であり、人生に対する自分の態度と行動を変えることによって、自分を変えることはできるのだということを、しぶしぶと認めるのであります。
ただ、やっぱり実行がなかなか伴わないのであります。

朝、長女は学校に行くのが怖いと言い、また保健室だったら行けるというので、妻が付き添っていったそうです。だが、保健室の外の廊下を人が通るたびにおびえて机の下に潜り込むような状態で、妻も対人恐怖があって、その場で倒れてしまったそうであります。
そうして、僕はと言うと、午前中にクリニックに行くべく目覚ましをかけたものの、起きられず、ようやく昼に起きてきて妻から話を聞いて、思案に暮れました。

とりあえず自分がクリニックに行かなくてはいけないので、仕事を休むと連絡をいれました。しかし、それももったいないような気がしたので、クリニックには妻に薬を取りに行ってもらうことにして、再度職場に「やっぱり行きます」と電話をして笑われて、遅刻をしたものの仕事に出てきています。

そして、具体的にすぐやらなければいけない仕事もある訳じゃなく、できる精神状態でもないので、「ぶどうのつる」を読み、少し元気づけられて、これを書いているというわけです。

まあ、悪いことばかりじゃありません。失職覚悟だったのに、10月からはたっぷり実務が待っています。仕事(ができるかどうかはともかく)は待っていてくれます。壊れたと思っていた車のCDチェンジャーは自然に直りました。次女の方は元気いっぱいです(こんど泌尿器科にいくけど)。

「変えられないものは変えられない」仕方ないことです。さて、仕事に取り組んで、帰ったら家族で話をすることにしましょう。神様は、僕にできないことは望んでいないのだから。できることだけやっていけば大丈夫。きっと。たぶん。


2005年09月27日(火) 生きている限り問題はなくなりはしない

飲んでいた頃は自分の人生が問題だらけだとは認めようとはしなかったし、もし問題があっても、そんなものは自分で解決できると信じていたし、そう言ってはばかりませんでした。

酒の問題を認めるときには、まず酒の問題だけを認めて、酒の問題さえ解決されれば、あとのことは順調にいくはずだと信じていました。

しかしやがてそうでないことを知ります。今でも僕の生活は問題だらけです。

自分で解決できない問題を抱えながら、そのことで悩まない。それが「変えられないものを受け入れる落ち着き」なのかもしれません。

最近子供のこころの問題が大きくなってきました。下の子は小学生になってもおむつがとれない(寝るときに自分でつけている)ので、大学病院の「子供のこころ」診療にかかっていました。でもまあ、結局のところ話を聞くだけではよくわからなくて、もう一度泌尿器科で膀胱の機能の検査をすることになりました。
上の子は、今年になってから保健室登校やら、心身症?やら、いろいろ表面に問題を出してきてくれています。いつもかかっている精神科医(主治医)では子供は診られないってことで、別の医者にかかったりしています。
子供は子供なりに悩んだり苦しんだりしているのでしょう。

父親という立場からは、子供に対してできることは、結構限られています。接する時間も母親にくらべて少ないです。問題に対して「沓を隔てて痒を掻く」という感じでもどかしく感じます。

だからこそ、自分で解決できない問題を抱えながら、そのことで悩まないということが必要なんだと思います。不安になって騒ぎ立てたりしても、結局は何の解決にもならないのですから。

酒をやめて年数が経てば経つほど、生きていくのが楽になるもんだと思っていました。でも、決してそうではないのですね。人生良いときも悪いときもある。厄年を無事切り抜けたと思っていたら、こんなものです。「ぼちぼちでんな」というメールをいただきましたが、まさにぼちぼちやるしかないのでしょう。
幸い僕にはAAというものがあって、そこのミーティングで愚痴を言ってみたり、人生論をぶってみたり、勝手なことを言っております。それで救われている部分がたくさんあります。

子供にはそういう場所がないから、表に出てきた症状だとか、わがままという形で表出したものを受けとめてあげるしかないんだろうなぁ、と思うのであります。

自分のうつについて思うことは、やっぱり十分睡眠をとらないといけないなぁ、ということであります。週末にまとめて寝て身体の疲れを取るというやり方では、もう体力がついていけなくなっています。睡眠不足の頭を酷使して高いテンションをキープしながら仕事をする、というスタンスがうつの元になっていることは否定できません。
やっぱりライフスタイルから変えていかないといけないんだろうなぁ・・・、とは思うのですが実行に移すのが難しいのは何もAAのプログラムに限ったことじゃありません。

「心の家路」も、どんな人が訪れてくれるのかこちらから分析することはできないのですが、人数は平日で150人ぐらい、週末で100人ぐらいが訪問してくれます。「えんぴつ」を直接訪問してくれる人が20〜30人ぐらい。「さるさる」もまだ10〜20人が訪問してくれます。写真日記「心の家出」は10〜15人くらい。

訪問を受けるからには、新しいなにかをそこに用意しておきたい。そんな気持ちで、あまり気負わずになるべく毎日書くことにしております。そこにあるのは、ひいらぎが自分でインターネットに出しても良いと思った自分であり、それ以上でも、それ以下でもありません。
楽なときには偉そうに傲慢で、苦しいときには苦しいなりにちょっぴり謙虚に。

僕はたくさんの問題を抱えながら、これからもどたばたやって、苦しむまいとしても、結局は苦しみながら生きていくのでしょう。それでいいのだと、思える今日このごろであります。

今日は仲間のバースディ。


2005年09月26日(月) 諸々

9月半ばに与えられた仕事はとりあえず終わりました。
といっても、まだバグ出しと呼ばれる工程は経ていないので、今後どうなるのかはわかりません。とりあえずわかっていることは、僕は10月以降は、今僕がつついている10万行以上のVBのプログラムのメンテナンスチームの一員となることが決まっています。

月曜日のミーティングに借りている施設は、公民館と体育館と図書館の複合施設です。図書館で不要になった本をリサイクル本として無料提供していました。ただで持って行っていいよと言われれば、紙袋をふたつぐらい下げて帰ったのは昔の話。今や厳しい本棚事情を抱える自分としては、「絶対自分では金を出して買わない本」「捨てない本」というふたつの条件くらいは課さないといけません。

2冊選んだのは、岩波新書なだいなだ著『アルコール問答』。これはおもしろそうなので、今後雑記ネタとして使っていくかも知れません。
もう1冊はフィリップ・K・ディックの『ニックとグリマリング』。なんと筑摩書房からディックの本が出ていたとは。ディックが薬物中毒であったことが、ようやく「書いてもかまわない事実」になっていることを知りました。

帰ってから、子供を風呂に入れ、長女を寝かしつけて、そうっと抜け出してきてこれを書いています。

ああそうだ。広い世の中には精神科医のAAメンバーもいるのですよ。もちろん日本に。


2005年09月25日(日) 心身症?

午後5時半であっただろうか。僕は今や自分専用の寝室となってしまった2階のテレビルームに布団を敷き、マンガ雑誌をひろげて読むでもなくごろりと横になっていた。

この3連休に予定していた諸々のことはとりあえず済んでいたので安心していた。それはたとえばFAX回線がつながらないトラブルの解決であったり、テレビの伝送路の見直しであったり、子供を実家のお祭りに連れて行くということであったり、色紙のためのイラストを頼む手紙を出すことであったりと、かなりコンパクトなTO DOリストだったが、それはうつ状態の自分にはふさわしい長さだったと思われる。ともかくリストの中身は空になり、ゆっくりとくつろいでいたのである。

妻が内線を鳴らしてきた。夕食にはずいぶんと早い。
「○○ちゃん(上の娘)が倒れて、胸が苦しいと言って起きあがれないの」
とりあえず駆けつけて、背中をさすっている妻をどけて皮膚を見ても外傷はない。熱もないようだ。ぶつけたとか転んだということもないらしい。FAX回線が回復していたおかげで、救急当番医のリストの取り出しに手間がかからなくて済んだ。気が急いているときにはFAXは大変助かる。電話で診療科目と名前と住所と電話番号を延々聞かされるのはうんざりするものである。
小児科の当番医に電話してみると、症状が重いようなら直接救急病院に連れて行ったほうがいいとアドバイスされる。

車のライトをハイビームにして、混み合う週末の市内を押し通って行った。

この救急病院は何年か前には小児科医が全員辞めてしまって、小児科を標榜しなくなっていたはずなのに、いつのまにか立派な救急センターができていて、子供の年齢を言っても嫌な顔をせずに引き受けてくれるようになっていた。
小児科医がいなくなったのも自由競争の結果であれば、立派な救急センターができたのも自由競争の結果かもしれない。

トリアージセンターで受付をすませ、いすに座って順番を待つ。体温はさっき測ったら36.4℃あったはず。チアノーゼも起こしていない。だが、腕に触っていると、その腕がだんだん冷たくなってくるような気がする。このままどんどん冷たくなってしまって、二度と暖かくならないのではないかと不安になる。世の中にこんなに大切なもの、失いたくないものがあったとは今まで気がつかなかった。すごく動揺する。もう一度体温を測るとさっきより上がっていて安心する。息が苦しいと言い、背中と胸を押さえるので、気胸ではないか、酸素が足りないのではないかと心配になる。

看護婦がやってきて、何かの機械のセンサーらしいクリップで娘の指を挟む。しばらくして出た数値を書き込むと、「安心してください」と言って去っていった。

医師の診察を受ける。「酸素不足は起こしていません」と結果を告げてくれる。じゃあ原因は何なのか? 尿検査・血液検査・心電図・レントゲンをやって、検査の結果が出てからもう一度診察ということになる。

テレビではモンゴル出身の横綱が、ヨーロッパ出身らしい力士を破って優勝を決めていた。豊かになった日本では力士を目指す少年が減ったというが、貧富の差が拡大する世の中になれば、腹一杯ちゃんこを食べるために相撲部屋の門をくぐる少年も増えるだろうか。

心電図をすますころには、痛みはどこへやら・・・。けろりとしているので、「注射が効いてきたかなぁ」とたずねてみると、「血を抜かれただけで、注射はされてない」と言っていた。医者が「ストレス性の・・・」と言うんじゃないかと予想がつく。

1時間ほど待って聞いた結果はやっぱり「ストレス」・「精神的なもの」ということだった。ストレスが身体の症状を呼び起こすということは、身をもって知っている親であるから、子がそうであると聞いても驚きはしない。逆に身体に出てくれてよかったと思うぐらいである。
しかし、原因がストレスだとすると、くり返される心配がある。そのたびに救急病院にお世話になるわけにも行かない。痛いのは事実なのだから・・・ということで痛み止めを処方してもらう。5,000円払って病院を出た。

ひさしぶりに長女に添い寝をする。ずっと長いこと、添い寝をして寝かしつけてきたのだが、下の子が小学校に上がって、同じ時間に姉妹そろって寝るようになってから、添い寝は一度もしたことがない。

一人部屋を手に入れた娘の布団の横に寝て、ぽつりぽつりと話をする。寝付きが悪くて、なかなか眠れないのだそうだ。親が片方がうつで仕事が半分、もう片方の親もうつで入院準備中では、なかなか安心しろと言ってもできるものではなかろう。
安心して眠れるようになるまで、当分添い寝をしてやろうと思った。


2005年09月24日(土) 眠い

水曜日以降、どうも眠くていけません。
頭の中に鈍い芯ができたようで、思考にまとまりを欠いています。
まあ、抑うつ状態というやつですね。
昔なじみの友達がまた顔を出したようなものです。
糖尿病の人が、糖尿でない人をうらやましく思うように、アル中が健康な酒飲みをうらやましく思うように、うつ病の僕はうつなしの人をうらやましく思うのであります。それがどんなに無意味な行動であったとしても・・・。
まったく、ちょっと気合いを入れて仕事をすると、すぐに心が音を上げるのであります。もっと別の職業に就いていたら、この病気とも別れることができるかもしれないのに・・・とまたも思考は無意味なパターンをとるのであります。

記憶力が悪くなり、物忘れが多くなります。
頭がぼけてしまったんじゃないかと不安になるのですが、これは記憶の前提となる注意力が低下しているため(つまり情報の入力が少ないため)であって、情報の蓄積ができない痴呆とは別なのだそうですが、結果は似たようなものであります。
つまり、本人は不安になるということです。

夕方になると眠くてしかたなく、昨夜は家事をどっちがこなすかで、妻と大げんかしてしまいました。昔スポンサーに言われた「家の戸をくぐると12ステップのことはすっかり忘れる」という言葉を思い出します。

今日は娘二人を連れて、実家の秋祭りにおじゃましに行きました。帰ってきてから妻に謝りました。

今はともかく眠るだけ。


2005年09月21日(水) 宙ぶらりん

大学病院に電話してみたものの、まだ空きベッドはできていないそうであります。これで妻の入院は来週以降が確定しました。入院するわけでもなく、かといって軽快するでもなく、宙ぶらりんの状態です。

会社に出てきてみたら、来週の会議の予定がもう入っていました。いつもだったら入っているはずのメンバーが一人かけているのでたずねてみたら、10月から部署を移動になる(物理的には移動しないけど)そうで、来期向けの会議には出席しないのだとか。そいつが移っていく部署は、僕が入社時に希望していた部署ですが、物理的な問題が壁になって、別部署(長野の事業所にある部署)に配属されたのです。僕が休んでいる間に結果を出して、希望の部署へ異動した人間がもう2人です。
なんだか自分だけが置いてきぼりをくらっているようで寂しいです。かといって、フルタイムに移行して猛チャージをかけるわけにもいかず、どうしたものか宙ぶらりんであります。

フルタイムに移行するタイミングとして「自分で勝手に」決めている時期は、妻が入院して、退院してきてきたら、それから障害年金の申請の結果が出たら。の二つがそろった時期というのを考えています。

年金の審査はまだまだ時間がかかりそうで宙ぶらりんであります。

いつものメンタルクリニックに行きまして、さんざん待ったあげくに3分診療。先週安定剤を半分に減らした影響が出ていないことを報告します。「この薬も<そのうち>切りましょう」というわけで、薬漬けの身体から抜け出せるのはまだ先になりそうです。これも宙ぶらりんであります。

子供の病気も治癒して「もうこなくていいです」と医者に言われることもなく、いったいいつまで医者通いが続くやら・・・。これも宙ぶらりんであります。

お金のことも、見通しがつくでもなく、つかないでもなく、宙ぶらりんです。

AAの関係でも宙ぶらりんのことはいっぱいあります。

どれをとっても、宙ぶらりんのことというのは苦手なのであります。「はやいところ白黒はっきりつけてくれぃ」と言いたくなってしまうわけであります。仲間を見ていても、自分の過去を振り返っても、この宙ぶらりんの状態に耐えきれなくなって極端に走ると、たいてい悪い結果がまっているようであります。だから、こつこつやるしかないわけであります。

こつこつやる。なんて苦手な言葉でありましょうか。


2005年09月20日(火) 娘の部屋

仕事の内容はもう普通の勤務並みに戻っているような気がするのですが、定時になると切り上げないといけないという難点があります。どんなに気分が乗っていても、そこで打ち切らなければならないし、どんなに気分が乗らなくても、夕方以降に調子が出てくることに期待をかけてサボることもできず、こつこつやらねばなりません。

明け渡した部屋に長女が、机と椅子と本棚、布団などなどを持ち込んで「自分の部屋」を作りました。ママの本棚代わりのカラーボックスがひとつ、パパのサニタリ関係のものを納めたカラーボックスがひとつ、それぞれスペースを占めていますが、そこは完全に「娘の部屋」であります。
もっとも、扉は開きっぱなしに固定してしまってあり、娘の方もまだ「プライバシー」などということにこだわりを持つよりも、孤立してしまうことに寂しさを覚えるようで、キッチンから部屋の中身は丸見えで平気であります。

今後も僕はその部屋で、風呂上がりの髪を乾かしたり、薬を飲んだり、朝は髭を剃ったりするつもりであるのですが、全体的にピンクに仕上がったその部屋は「男が用もなく立ち入ることを禁ず」という雰囲気を立ち上らせています。

3階に僕のために確保されているスペースといえば、「こたつテーブルの上にパソコンを置くスペースとその前の座布団」、「食事をする椅子」、前述の「カラーボックスひとつ」、それと衣料品を入れたタンスだけであり、残り物はすべて2階に移動してしまいました。

前の休みに、娘たちが2階に下りてきて、「パパはご飯とお風呂の時にしか上がってこない」と文句を言われてしまいました。面倒くさがらずに上がっていって、話をする時間を意識的に作っていかないと、3+1家族になってしまいそうです。

大学病院からの連絡はまだ来ません。


2005年09月19日(月) 引っ越し完了

あと本棚とCD棚だけになっていた引っ越しを終わらせました。
3階と2階をひたすら往復する作業は疲れましたが、うつには「頭を使わず身体を使う作業が一番いい」ということもあって、なんとなく頭がさっぱりした気分です。

2階に引っ越し始めた頃には、2階の荷物は少なくて「まるで客間にいるみたい」な気分でしたが、同じだけの荷物が運び込まれた部屋は、元通りの狭さに戻っています。

これで長女は「自分の部屋」を手に入れたというわけであります。

引っ越しのついでに片づけもするわけで、それで出てくるだろうと思われていたものがいくつかありました。出てきたものも、出てこなかったものもありました。

出てこなかったものは、新婚旅行の写真アルバムであります。それと、子供を撮影したビデオのうち8ミリでとったテープが数巻行方不明のままです。

出てきたものは愛用のペーパーナイフであります。このペーパーナイフであければ、便りの中身はよい知らせであり、別の手段であけるとたとえその時点ではよい知らせであっても、たちどころに悪い知らせに返信してしまう、というジンクスを持っているのであります。

結局今日はミーティングには行きませんでした。


2005年09月18日(日) ドア・クローザー

なんか、昨日の雑記に、別のブログ用のネタが混じってしまいましたが、そのままにしておきます。

3階から2階に引っ越して、3階のドアを開け閉めする回数が増えました。しかし、ドアの開閉装置(って言うのか?)がダメになっていて、ドアが毎回勢いよく閉まるおかげで「ドカーン」という音が近所中に響き渡ります。宵っ張りの朝寝坊の僕が、夜中に気を抜いてドアを閉めると、寝静まった町内に「ドカーン」という音がコダマしていくという次第です。

これではいけない、ということでホームセンターに買い物に行きました。でも、どこに置いてあるのかわかりません。しかたなく、店員さんに聞きました。
「ドアの上についているあれ、どこですか?」
相手も何のことかは理解したらしいです。
「引き戸じゃなくて、開き戸に付いている、あれですね」
先輩の店員に聞きに行ってました。
「ドアの上についているあれ、どこですか?」

製品名はドア・クローザーと言うらしいです。6,500円でした。
古いドア・クローザーの撤去に1時間以上かかりました。義父がDIYでつけたらしいのですが、ねじ山がバカになっていて外れなかったのです。
作業が終わると、すでに夕方でした。
今日は本棚の引っ越しを済ませる予定でしたが、明日に繰り越しです。

さて、先日ラジオで団塊世代が60才に到達するという話をしていました。その数1,200万人。これからその人たちが順次年金生活に入るわけであります。それを聞いていた時には、「ふーん、たくさんの人が年金生活になる前に、僕の障害年金の申請が通って欲しいなぁ」ぐらいのことしか考えていませんでした。

別の日にテレビを付けると、NEETの特集をしていました。仕事をしていなくて、学校にも、職業訓練の場にもいない15才〜35才の若者を指す言葉だそうです。その数80万人。
いままでNEETといっても、「働いたら負けだと思っている」というニート君のことぐらいしか関心がありませんでした。
NEETの生活を支えているのが、団塊世代の親たちであって、NEETの生活は親にパラサイトすることによって成り立っていることが多いのだそうです。その親たちが退職して年金生活に入れば、当然子供たちの生活まで面倒は見られない。あり得るパターンとして、世帯分離して親は年金生活、子供は生活保護というケースが大量発生することも考えられる・・・というのがニュースの内容でした。

「いままでなら優秀な工場労働者になれた層が、製造業の空洞化で行き場を失っている」と就職担当者が言えば、当事者たちは「道から外れた人間の、道への戻り方を教えてくれる場所がない」と訴えていました。

時代はフリーター問題なんかを超えて、ずっと先に行っていたのですね。
であるのに、「小さな政府」を訴える首相の党が圧勝したりしている不思議であります。
長野県人は理屈っぽいから、こういうことを語らせたら長いよ。

「一億総中流」で中間所得層が最大だった時代は終わりを告げるでしょう。日本も「普通の国」と同じように、豊かな層と、貧しい層に別れていくことになるでしょう。そして、僕はどうやらこのままでは貧しい層の方に入ることが確定しているようですが、まあそれは仕方がないとしましょう。

貧富の差が激しくなれば犯罪が増えるでしょう。今も実家のあたりでは、戸締まりしないで寝て、戸締まりしないで出かけています。それは田舎の濃密な人間関係の中で、見知らぬ顔が歩いていただけでもニュースになるようなローカリティと、どんなに貧しくても人のものを盗んで暮らすことを良しとしない古い道徳観念がまだ生き残っているからでしょう。

しかし次第にそうしたものも失われつつあります。アメリカの今回のハリケーンで被害が拡大したのは、被害地域が黒人の低所得者層が住んでいる地域だったせいで、救助活動が熱心に行われなかったからだという話がありました。それが事実かどうかともかく、当事者(黒人貧困層)は、もし被害地域が白人の富裕層の住む土地だったら、もっと迅速に救助活動が進んだはずだと考えているのは事実だそうです。

人々が、自分が豊かな日本の恩恵を受けられない層にいることを発見した頃には、政府の福祉策は縮小一方ということになるのかもしれません。


2005年09月17日(土) 運動会

小学生の子供の運動会に行きました。
二人とも「かけっこ」があって、「ダンス」があって、「綱引き」があります。
ハンディー・カムコーダーには興味がないので、自分で機種選定したわけではないのですが、すごいズームで、遠くにいる子供も、まるで近くにいるかのように引き寄せてくれます。
が、慣れていないので、映している子供が本当に自分の子供か自信がありません。ときどきファインダーから目を離して目視で確認しようとするのですが、近視の目には遠すぎてわかりません。
そして、ファインダーから目を離すたびに、カメラがお辞儀をして(下を向いて)しまうので、帰ってから見てみると地面を撮影していたりします。
思えば、こんなふうにフルに運動会に参加するのは初めてかも。
いつも、ちょっと顔を出しているぐらいだからね。

実家では稲刈りが行われていたみたいですが、大学生になった甥が活躍してくれたおかげで、おおかた済んだと母から電話がありました。

眠いです。いくら寝ても眠い。こんなに眠れるもんかと思うぐらい眠いです。
運動会から帰ってきた子供と昼寝して、これからまた寝るんであります。

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通勤しながら昼のFM放送を聞いている。
今日もしのじゅんが葉書を読んでいた。
「女性に、今度食事に誘ってくださいって言われたんだけど、僕に気があるのかな? ねえ、しのじゅん、女性の立場から教えて」
「うーん、8割は脈なしだねー。でもね、10割、いや9.9にしとくか、9.9割、君は彼女のことが好きになる」

そうかもしんない。「今度食事に誘ってください」って女性に言われたら、やっぱり「僕に気があるのかな」って気になって、気になってしまうともう好きになってしまって・・・。数少ない例外を除けば、きっと好きになってしまうんだろう。

女性の、「今度食事に誘ってください」は、すごい武器だと思う。


2005年09月16日(金) 4連休

寝る前にお祈りをしなかったせいでしょうか。
起きてみるとふらふらでした。
といわけで、お休みであります。

7月半ばに復職して、最初の一ヶ月は休みなしに行ったものの、次の1ヶ月は休みが2回。今回はもう3回目であります。しかも、3連休とくっつけちゃったから、4連休であります。

正直しんどいのですが、しんどいからと言って、医者に頼んでなんとかなるというものでもありません。「仕事しないで休みなさい」と言われるのがオチでありましょう。

夕方まで寝ました。

ニュース検索のスクリプトをいじりました。
毎日新聞の検索フォーマットが変わっていたので、その部分は作り直しです。日刊ゲンダイを検索対象に加えました。春にはまだ日刊ゲンダイのサイトに検索フォームが残っていたと思うのですが、すでにないのでMSNサーチの結果を使っています。
固い新聞ばかりではなくしてみようという意図であります。

アルコール依存薬物依存ギャンブル依存摂食障害関連 と4ジャンルに分けてみました。

重複している記事や、リンク先がなくなっている記事、まったく無関係な記事、いろいろあると思いますが、自動検索の限界ですので、ごかんべんください。

明日は子供たちの運動会。朝からビデオカメラとディジカメと弁当とレジャーシートを持っておでかけであります。午後までみっちりあるので、倒れないか不安であります。

自分自身の調子が悪いので、会社に電話かけたりするのにかまけていて、妻にアラノンに行ってくれるように頼むのを忘れていました。また、来週です。

マット・スカダーシリーズの最初の2冊が届いているのですが、読むのはかなり先になりそうです。かお君のブログを読んでます。

ねむい。


2005年09月15日(木) 睡眠

本当は毎週水曜日の診察のはずなのですが、一日遅れでいつものメンタルクリニックへ。

「特に変わったことはありませんでしたが、この前は夜寝る前の薬を飲まないで寝てしまいました。僕の睡眠中枢も少しは回復してきたみたいです。でも、一緒に飲んでいる安定剤も飲まなかったせいでしょうか、翌日の夕方にはリバウンドでも来たのかイライラしました」

という僕の報告に、主治医は「○○○という薬の半減期が100時間。○○○という薬が12時間。だからその薬の効果が残っていて翌日眠れたとしても、ちっとも不思議ではないし、イライラはおそらくセパゾンのリバウンドというのは正解だろう」と答えたのでありました。

薬に頼らずに寝ることができた、なんて内心喜んでいたのですが、実はどっぷり薬に浸かっていることを再認識させられた一件でした。

セパゾンの前はメイラックスを使っていました。「あなたはアルコール依存があるから、安定剤は使いたくない」という主治医を説き伏せて2月に出してもらった薬であります。確かにその時は楽になったのですが、今度は切るのに苦労しています。メイラックスを、8月にセパゾン2mgに変えて、今日からセパゾン1mgと半分にします。このセパゾンを0にするときは、ちょっと辛い時期が待っているだろうなと予想しています。

あらためて、自分が医者の反対を押し切って働いていることの insanity に気が付かされます。
そういえば、社会保険業務センターにまた書類を出さないと行けません。なんかもう「加入要件」のところを集中的に攻められているので、年金の件は諦め気味であります。まあ、もう変えられないものは受け入れるしかないという「落ち着き」というより「諦念」に包まれております。

ニュース記事の検索スクリプトをまたいじっています。いつの間にか毎日新聞がごっそり抜けています。この機会に、アルコール依存以外に、薬物依存・ギャンブル依存・摂食障害の項目も設けるつもりでいます。

仕事もしてるけど、息抜きの合間に仕事をしているぐらいです。

最近の目標は、寝る前にお祈りをすることです。

ねむねむ。


2005年09月14日(水) もろもろ

Windowsには「アクティブデスクトップ」という機能があります。Win98のときに、鳴り物入りで登場したにも関わらず「単なるトラブルの元」だったために、Windowsマシンを供給されるたびに、真っ先にやる作業のひとつとして「アクティブデスクトップの機能を切る」というのがありました。

長野県内のライブカメラ というページを作ってあるのですが、俯瞰的に天気を把握するにはあんまり向いていないデザインになっています。そこで、アクティブデスクトップの機能を使い、デスクトップ上に、長野県内あちこちのライブカメラの映像と、気象協会のサイトからアメダスや気象レーダーのイメージを取ってきて貼り付けることにしました。
2分ごとに更新される僕のデスクトップは、天候を把握・予想するのに最適です(自画自賛)。名付けて「気象デスクトップ」というのを社内に自慢して歩きました。
「なかなかいいね、コピーしてくれないか。でも一週間ノートラブルだったらその後でいいや」と、過去にアクティブデスクトップに痛めつけられた連中は慎重であります。
おまけに、そんなにヒマなら仕事してくれと、仕事を押しつけられてしまいました。
気象デスクトップは1280x1024のサイズ向けに作られたHTMLファイルです。欲しい人はメールをください。添付ファイルで送ってあげますから。そのかわり、何が起きても知りませんよ。

さて、今日も定時退社する前に気象デスクトップを眺めると、県内ではちらほらと雨が降っています。長野県の西部には大きな山脈があり、正式名称は飛騨山脈というのですが、長野県人は間違ってもその名前は使いません。「北アルプス」と呼びます。富山県人が立山連峰と呼ぶ山脈も、長野県人にとっては「北アルプス」の一部に過ぎません。
その北アルプスの西側と北側には雨が降っています。こういう天候になっていることは結構多いものです。偏西風の影響ってやつでしょうか。

外へ出て夕方の高速道路を走っていくと、北アルプスを乗り越えた雲がこちらへとはみ出してきています。そうやって乗り越えてきた雲が県内に雨を降らせているのです。そして、水曜日のミーティング会場のあたりは、その影響を受けやすいところでもあります。
「いやー、間に合いましたよ」というのは、雨が降り出す前にオートバイで会場にたどり着いた仲間の言葉です。
(君に僕の気象デスクトップをあげよう)と思ったが黙っておきました。

仲間とビッグ・フット・フォーマットの続きをやりまして、今日はステップ2。「臨時のスポンサー」だと思っていたら、「そんなことはないよ」と否定されてしまいました。行方不明になっていた、マーカーがいっぱいついている文庫版のビッグ・ブックの所在がわかりました。でも大切に使ってもらっているみたいなので、そのままにしておきましょう。

テレビでNEETの特集をやっていました。僕も大学を中退して、入った会社も1年あまりで辞めて、フリーランスでも食い詰めて、学校にも・職場にも・職業訓練にもいない、という状態が続いた時期がありました。
母に飯を食わせてもらいながら、7月に線香を上げに行った同級生のことを話しました。


2005年09月13日(火) 10 years ago (3) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (3) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

土日を挟んで5日ぶりに仕事へ。
復帰後初めてまともな仕事をまかされました。まあ、腕試しといったところでしょうか。
ただVB6.0は僕の嫌いな言語のひとつで、そしてコメントもなく1万行をゆうに突破しているプロジェクトは「書いた本人にもわからない」泥沼化している可能性があって、前途は多難そうであります。
クリームさんノブログの7月分を読み終わりました。軽妙洒脱な文章であっというまに一月分を読み終わってしまいました(本当に褒めているのかこれ)。

さて、10年前。

サントリー・オールドの水割りでだんだん酔ってきた僕は、週刊文春や少年サンデーといった雑誌を読むだけの集中力を切らして来ました。
仙台で隣り座った人が、車内販売から弁当と酒を買いました。僕も同じ弁当を買い、それをきっかけに会話が始まりました。酒好きの人のようでした。会話ははずんでいたのですが、僕の記憶は途中でブラックアウトします。もうすぐ東京駅というところから、記憶を取り戻すのですが、その時は相手はすっかり機嫌を悪くしていて、到着とともに捨てぜりふを吐いて去っていきました。
何か悪いことをしてしまったのに、それが何かすらわからない不安。しかもそれが前夜のことではなく、つい数十分前の寝てもいない時間のことなのです。
飲んでいた頃の自分はしょっちゅうこうした記憶の喪失(ブラック・アウト)に悩まされていました。

意気消沈して新宿駅に着いた僕を待っていたのは、「あずさ」の指定席は本日はすべて売り切れという案内と、自由席に並ぶ人の長い列でした。
(このぶんでは甲府まで座れないな)
と思うと、長い列の後ろの方で待っているのが嫌になりました。
(次の電車にしよう)
と決めて、ふたたびオールドの水割りを買い直すと、駅のベンチに座り、少年サンデーを読み直しました。ふと気が着くと、次の列車の自由席待ちの列も、もうずいぶん長く伸びていました。
(もう一本次にしよう)
そう思って再びマンガに戻りました。そして例の不思議な記憶の空白がまた訪れました。

いつの間にか長野県まで行く特急電車は案内板から消え、甲府止まりだけになっていました。記憶が飛んでいる間に、ぜんぶの列車に乗り過ごしたようでした。どうやらまた大きな失敗をしでかしたようです。

選択肢はいくつかありました。
甲府止まりの特急列車に乗っていって、そこから各駅停車で長野県まで行く手段があります。ただ、甲府から長野行きがあるかどうか・・・もう遅い時間ですでにないような不安がありました。
深夜12時すぎに、長野へ向かう夜行の急行がありました。ただ、こいつのボックスシートは固く、とても寝られたものじゃないし、通路スペースは山登りをする連中が寝袋で占領してしまいます。
カプセルホテルで翌朝まで過ごしても手段もありました。とりあえず、カプセルホテルでも、ビジネスホテルでもいいから泊まろうか・・・。そう考えて無駄にしたキップで西口の改札をでて、新宿駅西口地下を歩いていると、タクシー待ちの列がありました。

(そうだタクシーがあるじゃん)
列に付いた時には、いくらかかるかなんて考えもしませんでした。タクシーは多く、客は少なく、僕の番はあっという間に来ました。
「長野の○○まで行けますか? いくらぐらいかかりますか?」
答えは長距離客は歓迎、たぶん3〜4万円ぐらいだけど行ってみないとわからないという返答でした。懐には会社から預かった十数万円が眠っています。
「酒を買いたいので、高速に乗る前に、コンビニに寄ってください」

自宅(実家)まで帰るつもりだったのですが、長野で高速道路から離れてあまり遠くまで行くと、帰り道がわからなくなると、タクシードライバーの泣き言を言い始めたので、会社の近くの駅へ向かうことにしました。そこからまた自宅までタクシーを拾えばいいや・・・。
でも、もう体が疲れていた僕は妙案(と思えたもの)を思いつきました。

先日結婚の挨拶に行った妻(になる人)の家に泊めてもらおう。
タクシーのメーターがはき出したレシートは7万円を超えていました。無駄だとは思ったのですが、会社宛に領収書をもらっておきました。
突然訪れたにもかからず、人の良い義父(になる人)は僕を快く迎え入れ、座敷に布団を引いてくれました。「酒を飲むんだねぇ」と驚いた様子でありました。
布団を出してもらって、ついでに日本酒とビールも出してもらって、飲んで寝ました。

翌日起きてみると、もう昼でした。かなりひどい二日酔いで、残っていたビールで迎え酒をすると、タクシーで会社に向かいました。「タクシー代は今月の給料日まで待ってください」と頼んだら、温情で半分会社でみてくれることになりました。そのかわり、「危なくてとても一人では出張にやれないヤツ」という評判をいただくことになりました。

でも実を言うと、まだまだ困ったトラブルは始まったばかりなのでありました。

(この項終わり)


2005年09月12日(月) 10 years ago (2) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (2) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

病院メッセージで会ったAAスポンサーに妻の入院の話をしたら、「3年・4年・5年の頃のソブラエティのまぶしい輝きも、7年・8年・9年とくりゃ薄れてくるもんだよ」と言われました。単に「人生に浮沈は当然」という事実を示しているに過ぎないのですが、ちょうどそのころに苦労したスポンサーの言葉には不思議な重みがあります。
それと、もう病院メッセージでしか会うことがなくなっても、やっぱりこの人は僕のスポンサーであり「先ゆく」経験ある仲間であるなぁ感じ直した次第です。

さて、大学病院の精神科の外来に、なんとか今日の最後の患者として受付をしてもらって、診察を受けました。自分が本人じゃなくて、家族の立場で診察室に座っているのは妙な気分です。「入院して休息を取りましょう」ということと「入院して薬をいろいろと変えて試して見ましょう」という納得できる診断でありました。当日から入院できる準備を整えていったのですが、ベッドが満床で1〜2週間待つ羽目になりました。
今日から主婦のいない生活を覚悟していただけに拍子抜けであります。

そういうことなら午後から仕事に行っても良かったのですが、ガストで食事を済ませたら無性に眠くなってしまい、夕方までぐっすり寝てしまいました。このように疲れがたまればぐっすり眠れるようになったので、そろそろ睡眠薬は抜いてもいい頃だと思うのですが、無事に復職が済んで、生活が安定を取り戻すまでは、医者もうんとは言わないだろうと思われるのです。

さて、10年前。

角館の街に唯一あるホテルに投宿した僕らは、さっそく夕食へと向かいました。
場所は居酒屋であります。メーカーの設備担当の3人は、仕事の話に夢中で僕にはさっぱりついていけず、一人でピッチ早く飲んでいました。30代だと思った有名な二人は、聞いてみるとすでに40代だそうで、確かに顔をよく見てみると、若そうではあるものの、目尻にしわが深く刻まれているのでありました。「家のことは妻に任せっきりで、近所に誰が住んでいるかも知らないよ」という言葉が印象に残りました。まあ、メーカーの設備担当で、しょっちゅうあっちへこっちへと飛び回っている仕事人間とはそういうものかもしれません。
その居酒屋の支払いを社費で済ませて、宿へ戻りました。
ホテルの自動販売機で缶ビールを買うのは僕だけでした。

翌朝、目覚ましをふたつかけたのにもかかわらず、僕は寝過ごしてしまい、1階のロビーに集合時間に現れない僕を心配して、ホテルの内線電話を鳴らされてやっと起きることができました。ですが、酷い二日酔いでバスルームに閉じこもらずを得ず、1階にいる3人を30分以上待たせてしまいました。
「今日は場所がわかんないだろうから置いていかなかったけど、明日は自分でタクシーで来てね」と皮肉を言われ、それはまさにそのとおりになるのでした。

高速道路の事故で遅れたはずの日通のトラックは、運ちゃんが驚異的な努力で時間を取り戻し、昼には機械が到着しました。

設置して通電し、あっちこっちのシステムのテストを済ませ、テストランを終わらせると、僕の本来の仕事はもう終わってしまいました。
あとは、こっちの下請けの社員に、この生産設備の使い方をトレーニングすれば、全員の仕事が終わって、翌日は角館観光を楽しむことだって考えられました。

昼食に行ったファミリーレストランのランチは、お米が「あきたこまち」でした。
「さすがに本場のお米はおいしいですね」と言うと、農家もやっているというそちらの社員は、「2年前の大不作の時には、あきたこまちは全部農協に供出してしまって、地元の農家はタイ米を食っていたもんだよ」と教えてくれました。
確かその年は僕の家(実家である農家)も限界まで供出させられ、翌年は増産のために休耕田を田んぼに戻すという作業を、禁断症状でぶるぶる震えながらやったことが思い出されました。でこぼこになった田んぼを平らにするために、田植え長靴を履き、鋤簾を持って、泥田の中をはい回った悪夢でした。

さて、何事もそう順調でないのは良くある話です。生産材の納入業者が長野と秋田では違うわけであります。そうすると生産設備に投入する材料も微妙に異なって、そのほんのわずかな違いのおかげで、機械が順調に動いてくれないという「良くあるパターン」にはまることになりました。

僕以外の3人は調整作業に忙しく働いていたのですが、僕は手持ちぶさたに工場の中をぶらぶら歩き回っていました。
「先に帰っていてもいいよ」と声をかけてくれたのですが、この3人に晩飯を食わせるというのも仕事のうちであります。待っていると調整が終わったのが、夜の2時半でありました。
夕食は一日前と同じ居酒屋に落ち着きました。
「俺たちは、どんなに遅くなっても一杯やる」というのが彼らのポリシーでありました。(他にも「禁煙車では移動しない」というポリシーもありました)。
そして僕は、酒にありつけさえすれば、何でも良かったのです。

翌朝、予定通り僕はホテルに置き去りにされ、タクシーで工場に駆けつけたのはお昼頃でした。機械は順調に動き始めていました。
「もう帰っていいよ」
と言われて、一日早く予定を切り上げて、一人先に帰ることになりました。
下請けの社長に角館の名所に寄ってから駅まで送ってもらいました。帰りの切符を買っても、まだ十数万円が僕の財布の中に残っていました。

内容的にはさんざんでしたが、一日早く帰れるのはうれしくてたまりませんでした。
サントリー・オールドの水割りの缶をいくつか買い込むと、秋の陽に照らされる東北の風景を見ながらちびりちびりと飲みました。なんだか多幸感につつまれて、何もかもがうまくいくような気がしたものです。

盛岡で新幹線に乗り換えるまでは、何の問題もありませんでした。仙台までは乗客も少なく、マンガ雑誌を読みながらゆったりと時間を過ごしていきました。

(明日へ続く)


2005年09月11日(日) 10 years ago (1) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (1) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

AAの30周年集会を前に倒れた仲間の話が伝わってきました。また、東京の仲間の訃報もありました(たぶん知らない人ですが)。人間いつかは死んでしまう。それは避けられないことです。でも、淋しくはなります。

うつでしんどかったのですが、病院メッセージに行きました。半年ぶりであります。以前は毎月通っていたこともあるのに、すっかり足が遠のいてしまいましたが、僕が最後に入院した病院であり、母校のような懐かしさすら感じます。

10年前の3月に僕はAAのメッセージ色の濃いミーティング会場に顔を出しました。生まれて初めてのAAでした。その会場を守っていた人のホームグループのミーティングに誘われ、僕は運転免許を取って初めて峠を越え、AAミーティングに定期的に通うようになり、飲まない生活を得るのですが、それも5ヶ月で失ってしまいました。

ミーティングに顔を出すたびに、「飲んじゃいました」という報告をし、黄色いワンデイメダルを何個ももらい、「もう要りませんから」といって断っていたりもしました。「飲んじゃった」を話すたびに、「ひいらぎからは大きな力をもらっているよ」と仲間から言われていたりしました。

あの頃、翌年3月の入院に向かって坂を転げ落ちていった10年前、ふとあの頃のことをできるだけ思い出してみようという気持ちになりました。というわけで、これから来年の春まで、断続的に「10 years ago」と題したシリーズを書いていくかもしれません。ちなみに、僕は佐野元春のファンではありません。副題はなんとなくであります。

8月にはもう再飲酒していましたから、9月にはもう仕事に行くのも苦痛な状態になっていました。その時に東北出張という仕事が舞い込んできました。生産設備の移設の話でありました。

ちょうど酒を止めていた5月頃、僕は地元の大手電器メーカーに液晶パネルの検査装置を納めていました。飲まずに電気(配線と制御)屋さんと打ち合わせをし、飲まずにメカ(機械)屋さんのところで調整をしたおかげで、僕のたずさわった機械の中では珍しくノートラブルで立ち上がった機械でした。

その設備を秋田の角館にある下請け会社に移管するという仕事でありました。もっとも、機械自体は大きな物じゃないので、分解せずに日通のトラックに収まるおかげで、現地で調整作業は不要でした。僕がついていくのは「何かトラブルがあった時のための保険」であり、「なにかあった時に長野から呼び寄せたのでは遅い」から付いてこいという指令でありました。

僕にとっては3泊4日、東北へぶらぶらしに行くだけの出張になりそうでした。主治医に話すと「角館は東北の小京都と呼ばれて、いいところですよ」と教えてくれました。

設備移設担当者は、その大手メーカーの中でも設備担当の遊軍として有名な二人組でありました。僕が勤める会社の社長は、この二人に随行する僕に「接待をしろ」「営業をかけろ」という業務命令を下したのでありました。

もっとも、営業が専門の僕じゃありませんから、そんな高度な営業ができるわけもなく、ただ「酒を飲ませ」「飯を食わせ」て、仕事の話をしてくればいいというだけのことでした。

社費として必要経費の他に、十数万円の現金を預かりました。それまでは、雑誌の取材で行ったSという関西系のメーカーの栃木工場が「最北の地」でしたから、見知らぬ秋田の地に胸躍らせて出かけたのでありました。

当日朝、ターミナル駅に全員集合し、特急「あずさ」の指定席に収まった一行4人(例の二人に下っ端一人、それに僕)は、僕が気を利かせて買ったビールのロング缶で乾杯しました。もっとも、気が利いていると思っていたのは僕だけかも知れません。でも、その日は移動だけで終わるわけですから、列車の中でビールを飲むのは自然なことだと思ったのです。そして僕だけが、車内販売で追加のビールを買って飲みました。

東京駅へ移動して、東北新幹線に乗り換えでした。そこでも僕はビールのロング缶を4本買って皆に配ろうとしたのですが「ビールはもう要らないよ」と断られてしまい、結局一人で全部飲むことにしたのでした。

まだ携帯電話が一般化する前のことで、乗り換えのたびに会社に連絡をして、なにか連絡がないかポーリングする時代でした。

中央道でガラスを積載したトラックが横転し、ガラス片が上下線ともに散らばって通行止めになり、我々の機械を載せた日通のトラックも、高速道路から降りることもできないまま立ち往生をしているという情報が伝わってきました。

盛岡で特急に乗り換え、角館の駅を降りた一行の中で、僕一人だけが泥酔状態でした。でも、僕にとってはそれが一番自然な状態だったのです。

(続く)


2005年09月10日(土) 早々

AAの地区委員会。
その前の時間を利用して、今度ステップ4・5をする仲間のために、ステップ1・2・3をおさらいしておこうということで、ビッグ・フット・フォーマットを使って二人で読み合わせをしました。45分くらいかけてステップ1をやりました。

途中で委員会のメンバーがやってきましたが、そのまま続行。たった二人で立っては「それでは、思い通りに生きていけなくなったことを認めますか」「はい」「はい」「それでは座ってください」とかやっているので、ちょっと恥ずかしいのですが、本人たちは至ってまじめなのであります。

委員会では来年の書記の立候補もあって、安心でありました。

明日は病院メッセージ。6月は休んでしまったんで、半年ぶりであります。一応行く前に投票はすませておくつもり。誰に投票するかももう決まっています。

「良くそんな状態でも飲まずにやってるじゃない。それこそハイヤーパワーの働いているしるしだよ。自分の力で飲まないでいるんだったら、もうとっくに飲んじゃってるよ」という言葉を思い出させてもらいました。

うつ状態だから明日もきっとろくな話はできないでしょう。でも、まあ何よりも自分自身のため、行動を伴わない信仰は死んだ信仰。高く評価されないのが当たり前。

おやすみなさい。


2005年09月09日(金) 妻の入院

ともかくこの雑文を10分か15分で書き上げて、眼科医に出かけなければならないと思っているのですが、どうなるかわかりません。

まず僕の生活リズムですが、半日の仕事から帰ってくると、疲れで横になるとすぐに眠くなってしまい、夕食に起こされて、食べてからまた寝て、妻が子供を風呂に入れ終わったところでまた起こされて、入浴してやっと頭が多少すっきりし、少しだけ子供と話をしたり、それからパソコン部屋に向かって、仕事とも言えない会社での作業の続きをしたり、ブログを書いたり、雑記をアップデートしたりということをすませ、夜半から明け方までのどこかで寝て、起きるのは朝10時〜11時半という生活であります。

こんな風に2回寝る生活リズムになってしまっているのは、薬のバランスが悪いんだろうと医者に掛け合っているのですが、それは生活のリズムの問題であろうと取り合ってもらえていません。お盆前に薬を変えたばかりで、また変えるにはまだ時期が早すぎるということもあるのでしょうが。

朝は(僕の知らない間に)妻が子供たち二人を起こして朝食をすませて送り出すという生活だったのですが、うつで起きられなくなって、義母がやってきて3人を起こしてという「毎度のこと」が続いていました。しかし妻がなかなか起きられないために、汚い言葉の応報が朝っぱらから繰り広げられているという次第です。

その義母ですが、今週になってなぜか僕をも朝から起こすようになりました。これではまともに睡眠がとれないのでたまらんと言って、僕だけが2階で寝るように避難したのが木曜の朝からです。

妻のうつは悪化の一途をたどって・・・というわけではなくて、いままで何十回も繰り返されたのと同じことでした。また時期が過ぎれば良くなるだろうと踏んでいたのですが、事態はそれを許しませんでした。

金曜の朝、やっとなんとか妻を起こした義母が、わざわざ2階で別に寝ている僕を起こすと、憤懣やるかたないといった風情で「もう面倒見切れないからどこかに入院させてやって」と言うのでありました。
その後、妻が義母に話にいったのですが「さじを投げられちゃった」そうであります。

そんなわけで、一日会社は休みをもらって、妻を主治医のところへ連れて行きました。本人も入院を拒絶しているわけでもないし、外来でなかなか良くならないし、何より「支える家族が限界で休みを必要としている」ということで、あっさり入院が決まりました。
といっても、開業医の先生には入院設備がないので、紹介状を書いてもらうことになります。「どこがいい?」と聞いてくるところが先生らしいのですが、しばらく考えた末に地元の有名な精神病院は避けて大学病院の精神科にやっかいになることに決めました。
紹介状を書いてもらうのに15分ぐらいかかったでしょうか、その間に数人しか待っていなかった待合室は満室になってしまいました。少し先生忙しすぎるんじゃないですか?

月曜日に大学病院の外来に行くという連絡を入れ、ついでに会社も月曜日に休みますという連絡を入れ、そして帰宅するとちょうど妻の姉が訪れていたので、義母・義父・義姉にことの次第を話しました。義父は「夜ちゃんと寝れば、朝起きられないなんとことはないはずだ」と、相変わらず病気を認めようとしません。義姉は、皆の性格を熟知しているし、家から一歩離れたところから見られる立場でもあるので、まあなんとか話の筋道を付けてくれました。

うつで入院したからと言って特別いいことがあるわけでもないのはわかっていますが、ともかく義母の怒りは入院しないとおさまりそうにないし、義父は自分の娘が病気だと言うことを未だに認めたがらないのを乗り越えるには入院でもするのが手っ取り早いのかも知れません。

「迷惑かけてすまないねぇ」と妻は言うのですが、結婚当初にはこっちが精神病院に入院したという経緯があるので、「恩は十分売ってもらっているよ」と答えることにしておきます。

子供たちは、ママの入院には抵抗がなかったみたいですが、自分たちの身柄がババのところに預けられると知った時からすこぶる機嫌が悪いです。

僕自身のうつの状態も決して良いとは言えない状況。

決して質の高いソブラエティを送っている僕ではないですが、そんな僕に神様が投げてよこすボールは、だんだん難しいボールが増えてくるような気がします。「ひとつひとつ解決していく」それしかないのだということでしょう。

熱を出した娘の希望で、プリンを買いに行ってきます。

退院したら妻はアラノンに通うかも知れません。


2005年09月07日(水) お疲れ

おとといであったか、帰宅してみると社会保険事務センターから手紙が届いていて、さらに「医師の証明を受けてください」という書類が同封されていました。おまけに、これにより障害年金の審査がまた遅れることになるよ、という呪いの言葉まで書かれてありました。

妻のうつの調子が悪いです。
だいたい学校の行事が何かあると悪くなることになっています。
今年の夏から、僕が代われるものは代わって出席することにしました。
授業参観・PTA・児童館のバスハイク・水泳参観・PTAの子供祭り、そのたびにお母さんたちに混じって僕が参加していました。まあ、父親が顔を見せていることもそんなに珍しくはないので、浮いてはいないと思いますが・・・。
しかし、昨日は「緊急時の児童引き渡し訓練」で、学校までいって子供と一緒に帰ってくるだけのことだからと油断して妻に任せてしまいました。
が、やっぱり直前には心因反応がでて行けなかったらしいです。
こうなると一週間近くは家事になりません。

このままでいくと、後から申請した妻の障害年金のほうが先に通るかも知れません。
「うちって普通じゃないのかなぁ」という妻の問いに、「うーん、無理に普通にしようと思うと苦しくなるのは自分だと思うぞ」と答えたら、「やっぱり普通じゃないんだ」という返事でした。

オータムジャンボ宝くじをオンラインで買いました。オンラインで買う手数料は50円で、この50円で宝くじ番号と当選結果(末等300円が当たりました)を知らせてくれるはがきを送ってくれるシステムです。


2005年09月06日(火) 5万ヒット御礼

ホームページ の一番下に掲示しているアクセスカウンターが(いつのまにか)5万を超えています。
設置したのは、書いてあるように昨年の3月30日なので、1年半足らずでの達成であります。最近は訪問者の方が増えて頂いて、本当にありがたいことであります。

その下に設置してある sugoicounter.com のカウンターは、JANISにあった頃に設置したカウンターで、単純に「観測の継続性」というもののために、置いてありますが、そのうち撤去されるでしょう。

ウェブサイトを開設した頃は、自分自身しか見に来ていないわけで、知り合いに知らせたら、あちこちのAAイベントでお知らせして頂いたりして、少しずつアクセスが増えてきました。それでも一日に50〜60に達した当たりで伸び悩んだころもありました。
その60の壁を突破させてくれたのは、Yahooのディレクトリへの登録だったでしょうか。そのために「アルコール依存症という病気」「自助グループの勧め」というふたつの大セクションを書き足しました。それに熱中しすぎて(焦りすぎて)周囲が見えなくなっていた頃もありました。

実は昨年末にサーバーの設定ファイルを書き間違えて、アクセスカウンターが回りが悪くなる現象が起きました。最初は「年末年始だからアクセス数が減ったんだろう」と思っていたのですが、年が明けても回復せず、仕事で限界に達していたこともあって、些細なことまで気になってしかたなく「あーもう、世の中全体から見放された感じ」という自己憐憫モードに突入してしまい、救いようもなく休職へとなだれ込んでしまいました。
そのころは対人関係の悩みもあったりして・・・。

でもしばらく休んで、電話とかしているうちに対人関係の問題も、結局は自家製の問題に過ぎないことに気がついたりして・・・。

さらには1月後半にサーバーの設定ミスを発見して、思わずそれまでの自分の自己憐憫を笑ってしまったりしました。でも、休職に突入してしまったことは変えられず、いまも完全には復帰できていないわけであります。

まあ、何もかもがうまくいかないように感じられる時ってのは誰にだってあるのでしょうが、その時にパニックになってしまったり、うつになってダウンしてしまったりする人と、そうでなく乗り切っていける人がいるのでしょう。

「困難に立ち向かう」って意味では、ソブラエティが多少長くなっても、ちっとも成長していない自分を発見するわけであります。しかもその「困難」は自家製であったりするわけです。飲んでいた頃の記憶はぼんやりとした過去になってしまいましたが、それでもAAミーティング通いはまだまだ止められそうにありません。

不正アクセスっぽいので「RIPE Network Coordination Centre」からのアクセスを遮断しました。場所がアムステルダムだけに、「心の家路」にアクセスできなくなって困る人もいないだろうと思いますが、もし困るようでしたら掲示板かメールで連絡をください。アムステルダムといえば、しょうもないクラッカーで有名な場所ではありますが・・・。

それから Webalizer の出力を公開します。ブラジルからのアクセスがあるのは、かっちさんかなーと思ったりして。

これからもよろしくお願い致します。


2005年09月05日(月) うつ

うつであります。
仕事を休もうかと思ったのですが、会社に電話する前にメールをチェックしたら、今日の午後は下期の予算会議が組まれていました。これに出席しないと購買品の予算ゼロで過ごす羽目になりかねません。

しかたないので、体だけ会社に行きました。MSDNサブスクリプションを予算に入れてもらいました。

あとは仕事にならないので、AAの人のブログを読んで過ごしました。ああ、インターネットって素晴らしい。

なにか、お金を使うことでしか解消できないフラストレーションが溜まっているような気がします。

ぷみらさんのブログ 掃除のオアシス をリンク集に加えました。


2005年09月04日(日) 一段落

復職以来書いてきたプログラムが一本やっと実用に耐える段階にたどり着きました。
といっても仕事に関係のあるソフトではありません。一応会社には「リハビリテーションのために簡便なプログラム作業に取り組んでみる」という作業報告をしています。このソフトを組もうと構想したのはもう4〜5年前、Windows 2000を使い出した頃でしょうか。

Windowsをお使いの方は、画面下(たいていの人の場合)にタスクバーというのがあるのを知っているでしょう。そして、その一番左には「スタート」ボタン、一番右には時計が表示されています。その時計の左には小さなアイコンが並んでいたりします。通称「タスクトレイアイコン」(正式名称はStatus Area Icons)であり、いわゆる「常駐もの」のソフトのアイコンが表示されています。

Windowsをインストールしてまっさらな状態では、タスクトレイには何のトラブルもありませんが、いろんなソフトをインストールしまくっているうちに、「あれ?、あのソフトのアイコンはどこへ行った?」という、タスクトレイ・アイコン行方不明事件が発生することになります。これはWindows 2000がXPに変わっても症状は変わりませんでした。というわけで、アイコンが行方不明にならないプログラムを書いていたのですが、これに一月半かかりました。

だが、完成と言うにはほど遠い状態ですが、とりあえず一段落です。だから、これはそろそろ脇へ置いておいて、次の作業に取りかかることになります。

ひとつには、より会社の仕事に近いソフトを書くつもりです。一応査定というものがあるので、何か役に立ちそうな雰囲気だけでも作っておかねばなりません。

もうひとつは、「心の家路」関連ですね。いまは、Internet ExplorerとかNetscapeとかFirefoxとかOperaといった、重厚長大なブラウザーでないと見られないのですが、これをLynxなどのテキストブラウザーでも読めるようにする予定です。
だいたい文字中心(というか文字しかない)ようなサイトであるにもかからず、妙なところに凝っていてテキストブラウザーで見られない(見にくい)というのは本末転倒といったところでしょうか。
まあ、そのついでに携帯電話からも同じコンテンツが見られるようにする心つもりです。

そこらへんの作業が終わってから「90の道具」第2期に入ろうと画策していたりします。

PTA主催で、小学校の校庭で行われる「子供祭り」というのに、付き添いで行って2時間立ちっぱなし。


2005年09月03日(土) 副業

4〜5月にはじめたコンピューター部品のリペア商売。
これのおかげで貴重な時間を大量に消費してしまったような気がします。

本業に復職することもあって、店じまいを始めて、在庫処分を始めたのですが、その在庫処分も、8月に始まった引っ越しで止まったままです。できれば8月いっぱいにすべて終わらせたかったのですが、なにごとも思うようには行かないものです。

結局3万円ほどの赤字をかかえたままになっています。


2005年09月02日(金) 老人相手の商売

義父はだまされやすい人であります。
一時期我が家の水道の蛇口に磁石をつけてまわったことがありました。なんでも、磁石の磁力によって水がイオン化してむにゃむにゃな原理により、「健康になれる」のだそうであります。自分たちの住む母屋の蛇口につけるだけで飽きたらずに、我が家(アパート側)の蛇口にもそれをつけたのであります。
磁石は大きくて邪魔なので、僕が取り去ると「なんで取るんだ。せっかく高い金を出して買ってつけてやったのに」と怒られるので、しかたなくつけておきました。
磁石グッズというのはいろいろあります。車の燃料パイプにつけると燃費が向上するとか。車の世界も(オーディオと同じぐらい)不思議な世界で、ただ銅線をひっぱりまわして「アーシング」など称し、やっぱりこれで燃費が向上するというのであります。もし本当にそうなら、環境対策に政府はアーシングに補助金を出すべきですね。純正品のアーシングキットなるものを発売する自動車メーカーも出始めて、もう何がなんだかわかりません。

そのうち磁石を取っても文句を言われなくなりました。聞いてみると、水道管を掘り起こして、そこに大きな磁石装置をつけたのだそうです。「これで家中の水が磁化されて・・・」。いったい何十万円かかったのやら。

「ひょっとして、シロアリ防止とかいって、床下換気ファンとか付けてないか?」と妻に聞くと、「ついてるよ」という返事でありました。これも年寄り相手の悪名高い商売で、換気ファンの部品代なんて数千円のものにすぎないので、大きな利益のある商売です。

今日は水道屋さんが来ています。以前に埋めた磁石装置のところから漏水しているので、その防止工事だそうです。その水道屋さんがなぜか「雨樋から水が漏れているから交換しよう」と義父に持ちかけています。

だまされやすい年寄りの名簿というのが流通しているそうであります。最初に装置を埋めた時に、わざと漏水するように工事しておいて、期間をおいて別の業者が漏水工事にやってくる・・・。というのは考え過ぎかな。

年寄りになると疑い深くなるものなのでしょうが、なぜかお人好しの義父はだまされてばかりです。まあ、そんな人柄だから、もらった婿がアル中で、新婚早々精神病院に入院してしまっても、追い出さずに置いてくれたのかも知れません。その点には感謝しています。

僕は次男坊だから嫁をもらっても良かった(長男であるより次男である方が縁談は多かった)のですが、自分に家を建てる甲斐性はなさそうなので、家付き娘に婿入りしました。養子にしてもらっているので、相続の権利もあります。
でも、家目当てであって、財産目当てで結婚したわけじゃないので、義父が生活に困らない範囲で何に金を使おうと、変に口を挟むのは止めておこうと思うのでありました。

まあ、世の中「変えられないもの」はたくさんあるのさ。


2005年09月01日(木) 9月

引っ越し作業はまだ少しずつ続いています。
ついでにいろいろな物を捨てています。
何でも長く取っておくと捨てやすくなるという法則があります。

たとえばN○VAの教材一式。これは教育訓練給付金という制度を利用して、駅前留学した時のテキストです。100回のレッスンのうち80回以上に出席すると、ハローワークの方から受講料の補助金がもらえるという仕組みでした。英語が上達するためというより、最後の方は「ただ補助金をもらうためだけ」に通っていたようなものです。それでたどり着いたレベルは、「外国で最低限の日常生活(サバイバル)をこなせるレベル」であって、決して「日常生活に困らないレベル」ではありませんでした。
教材にはCDもついていて、自宅でも勉強できるようになっているので、そのうちに取り組もうと思って、捨てずに取っておいたのですが、もちろんちっとも取り組みはしませんでした。
というわけで、教材も捨てることにしました。

あれから何年か、すっかり能力も衰えて「サバイバルをこなせる」レベルでもなくなってしまっているでしょう。
福岡のAA日本30周年集会に英語の通訳が足りなかったら行きますよ、と言っていたのですが、結局金銭的事情&仕事の都合で行けなくなってしまいました。まあ、もし行っていても役に立っていたかは激しく疑問であります。

会社でも本社では、希望者相手に英語と中国語の講座が開かれています。諏訪でもやりたいかと聞かれたので「無料なら」と答えておきましたが、まだ実現していません。

すでに福岡入りしているメンバーからは、メーリングリストに現地レポートが送られています。前夜に開かれたプレス発表では、集まった報道機関の数は「ゼロ」だったそうであります。うはは。

福岡の皆さん、楽しんでくださいね。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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