月の夜のつぶやき

2011年12月28日(水) リセット

こうやって過ごしたかったんだな、と
改めて思う。
もし仮に、この年末が退屈だとしても
それは後悔しない。
だって、こうしたかったのだから。

いろんな嫌な気分もリセットできると思う。
嫌々行っていたのかな、と
改めて自分の気持ちを無視したことに気づく。
夫の実家にも、自分の実家にも
義務感優先になってきていたんだよね。
嫌だ、とはあまり自覚してなかった。
でも、本当は静かに過ごしたかったのかも。

今年だよね、それが強くなったのは。

祖母のお陰だと思う。
祖母のお陰で、こういう年末。
祖母のことがなければ、
私もあまり強く夫に提案できなかったかも。
そして、夫も納得できなかったかも。

年に3回ある大きな連休。
年末年始、5月の連休、盆。
いつもどちらかの実家を気にかけてきた。
5月も、1度しか自分たちのみでは過ごしてない。

ふと義兄たちは気ままに旅もしていることを思った。
私たちはあまり旅が好きではないかもしれないけど、
1度も旅行らしい旅行をしていないのは、
実はその時間がないからだったりもする。

こんなところにも
小さいけど不満?
どちらの親とも離れていて、
お互いに相手の親からの干渉を
回避できていることへの
言葉は悪いけれど代償なのかな。



2011年12月27日(火) 楽しみを探す

年末が近くなってきた。
なんとなくそういう気分になってきた。

いつもとは違う年末を過ごそうと、
あれこれと考える。

「紅白をみよう!」

と夫。
そういえば、いつも見られないよね。
チャンネル、勝手にバシバシ変える人がいて、
落ち着いて何かを見ることすら出来ない。

私の実家で1度過ごしたとき、
最初から最後までTVは紅白を映していた。

「やっぱり、いいよね」

と、そのときふたりで思った。
面白くても、面白くなくても、
大晦日と紅白は密接だ。


こたつを出してこよう!
31日、あそこでミニコンサートあるってよ!
蕎麦、買ってくる?
年越しの買い物行かないとね!

と、なんとなく楽しくなってきた。
大したことじゃないけど、
希望通りの年末、大晦日。
喪中だから、お節は私の主義で作らないけれど、
食べたいお節の品があれば、
単品で作ったってかまわない。

たった2人の小さい単位の年末年始だけど、
こうやって気楽に過ごしてみたかったんだ。


お節なんてさ、
女の人が楽を出来るように、
なんていうけどさ、
その分年末に大変になるし、
結局なにもしないで済むわけでもないし、
絶対に楽できるってわけじゃないよね。

なんて、これまたふたりで言ってみたりする。
とにかく、お節はやはり祝いの膳だ。
どう考えたって、作りたくない。



2011年12月26日(月) 我ながら 限界みたい

とるに足りないようなことがきっかけだろう。
これまでの我慢が積もったといっても、
人によっては大したことない、というだろう。

でも、なんだか限界に来たみたいだ。
このところいつもそうだった。
帰省に関することを考えると、
めまいの様な、寒気のような、吐き気のような、と
私の頭の中と同様に
出てくる症状もぐちゃぐちゃだった。

そこに、ほんのちょっとの刺激が来てしまった。
馬鹿みたいに小さいことだったかもしれないけど、
今はそんな風に言えない気分ということか。

寒くもないのに震えが来た。
体の芯が震えている感じ。
物を持てば、それを落としそうだった。


そういう自分の反応の仕方が悲しくなった。
そんなに嫌なんだ?と。
そんなに傷つくんだ?と。

折角和やかに、穏やかに過ごした今日。
最後におかしくなってしまった。

どんなにばかげたことでも、
積もるとダメなんだね、きっと。
私は自分が思っているよりも
精神的に弱いのかな。
これまでだって、いろんな人との関わりの中で、
結構耐えて、踏ん張ってきたというのに、
今度はこの脆さ。

困り顔にも、心配顔にも見える夫が
ポンポンと背中をたたいてくれた。

「がまんし過ぎたんだ」

と言いながら。

何を我慢してきたんだろう。
いや、文句言わずに大人しくしてきたよね。
やっぱり、我慢して黙っていすぎたんだよね。


よくわかんないけど、
なんか無理なんだ。
体調が悪くなるんだ。
心よりも、体の方がはっきりと拒否をしている。
これって、はっきりとしたサインでありがたいけど、
ある意味、大変なことのような気がする。

完全におかしくなる前に、
ちゃんと原因と対処を見つけなければ。
きっと、本当の原因は自分の心の中にある。
誰かの何かが原因ではなくて、
その外からの「作用」に
こんな風に反応してしまう自分の原因がある。

今年の終わりに
来年の課題を一つ、かな。



2011年12月23日(金) 見返りを求めないこと

誰かに何かをするとき、
そこに見返りを求めない方がいい。
その通りだと思う。
その見返りがないと、怒りや悲しみが湧くから。


この見返りって、なんだろう。
「ありがとう」
という言葉を期待するのも、
やはり見返りになるんだろうか。



私が夫の実家へ行くとき、
どこかで期待していることがある。
それは言葉だ。

「たまにはこちらではなくて、
 遠慮なくあなたの実家へ行って。」

こんな言葉を期待してしまう。
夫が私の両親を訪ねてくれると、
両親はとても喜ぶ。
父が特に喜ぶ。
そんなことをさりげなく伝えてみるけれど、
スルーされてしまう。

「それなら安心」

という程度の言葉で。

義父の言葉は、夫は父とお酒を飲んでいるか、で、
おそらくお酒を飲んでいるなら
友好的でOKだということなんだろう。

なんか足りないと思ってしまう。
大袈裟なことが欲しいのではない。
もうちょっと両親にも思いをめぐらせて欲しいのだ。
寂しくても何も言わないだけなんだから。
自分たちが要求することで、
娘の立場がおかしくなることを心配しているだけだ。
だからじっとしているだけなのだ。


今年、私の精神状態はよくない。
こんなときに、

「こっちのことは心配しないでいいよ。
 今年は来なくていいよ。」

なんて言ってくれたら、
すごく感謝するし、嬉しいし、
距離も縮まると思うのだけど、
こんなことを期待してもいけないんだろうか。

夫を私のジメジメした気持ちに付き合わせるのは
これまた申し訳ない気がするけれど、

「あんたらは喪中やから仕方ないけど、
 新年、おめでとう〜」

とやられるのはやるせない。
以前、義兄の奥さんがこんな状況だったとき、
そういって新年を祝っていたから同じ展開だろう。

夫だけ帰省すればいい、と言ってみた。
義父は待っているだろうから。
でも、うんと言わなかった。
夫婦喧嘩したのか、
あの子はうちが嫌いか?と
いらない心配をさせるだけだ、と。

まあ、そうかもしれない。

今年の私に、帰省という選択肢は存在しない。
深く深く根っこを下ろしてしまった木のように、
まったく気持ちは動く方向にいかない。

たまには、いいか…



2011年12月22日(木) 数えてはいけないもの

人が何かを自分にしてくれない、と
そのことを数えてはいけないという。
本当にその通りだと思う。
思うけれど、どうしても数えてしまう。
数えてしまうのは、また、
別の人が送ってくれた温かさからだったりする。

遠くから来た、心のこもった郵便。
嬉しく、ありがたく、せつなく。
その人は決して楽な環境に身を置いていない。
だから一層、ありがたくもまたかなしい。
その人にも温かい光を、と願う。


どこかで、ほんのちょっとでいいから
気にかけて欲しいと思う相手がいる。
電話はいらないけど、
優しい言葉の伝言とか、
葉書の一枚とか。

母宛には手紙が行ったらしい。
私もかつて実母をなくし、まだこんなに寂しくてつらいけど、
それでもこうして頑張っているから、
あなたもがんばれ、という内容だったらしい。

上手く伝わるか分からないけど、
この内容に私は違和感を持った。
予想通りでもあったけれど。

母はこの人に当時お悔やみの手紙を書いた。
後日、母がその数ヶ月前に姉を亡くしたことを知り、
その人は私にこう言った。

なんか、この前もらった手紙がすごく寂しそうで、
どうしたのかなと思っていたけれど、
そういうことだったのね、とやっとわかったわ、と。

お悔やみの手紙に
ハッピーな空気をいっぱい詰め込む人はいない。
悲しいですね、寂しくなってしまいましたね、と
その人の気持ちに寄り添いたくて
文字を綴るものだと思う。
辛いと思うけれど、元気出してね、と。


ひとりでも、本当に温かく気にかけてくれるなら
それで十分なはずなのに
もっともっと、と欲張っているのだろうか。

そんな自分のわがままにも気づきながら、
でも心はまた冷めていく。
わかっているはずなのに。
所詮、それほどのものなんだから、と。
本心とその人の発する言葉は
いつも一致するわけではないのだ。


「絆」と叫ばれる今年。
絆は大切だ。
だけど、
多くの人が家族の絆を強めたくて
家族と一緒に過ごそうとしているらしいこの冬、
私はどこにも行きたくない。



2011年12月01日(木) 心に立つさざ波

最近、小さい子供と同席することがあった。
にこにこしているとかわいい。
きっとかわいい女の子に成長するだろう、
と容易に思えるような女の子だった。

しかし、あまり躾らしい躾はしていないみたいだった。
子供がいない私には、わからないことだけど、
何しても見守るだけ、怒らない。
せいぜい「めっ」というくらい。
1歳未満の子供に対しては、
どういう対応をするものなのだろうか。

私の母はそういうのが嫌いだ。
個包装のお菓子だけど、
それをおもちゃにして平気とか、
自分の子のお守りを
周りの人に丸投げして平気とか、
そういうところを

「きちんとしてない」

といって後で私に不快感を表明してくれる。

「締めるところはちゃんとしないと
 あとあと困るのは本人なんだから」

と、その小さい子供のためだという。


適当にその言葉を流す。
そして私の心の中でさざ波が立つのを感じる。
なにかここに潜んでいるみたいだ。
このポイントで、私は悲しみとか寂しさを抱くようだ。
漠然とそう感じる。

母は胸を張っていつもいう。

「あなたのことはちゃんとしつけた。」

あぁ、そうかもね、と思う。
あまり誹りを受けないような子供になっていたかもね。

でも、なんか違う。
寂しさ、悲しさ、全く何も気がついていない母への失望。
そんな辺りの感情がゾワゾワと騒ぐ。

大勢が集まった中で、
孫がいないのは両親だけ。
母は何を考えてか

「私たち以外はみ〜んな小さい子に慣れてる」

と父にむかって何度も繰り返した。

でも思う。
そんなことばかりいつも言う母に、
私は小さい子を見せる勇気ないな、と。
子供に恵まれるとしても、
あまり同席したくないよな、と。


祖母という大きな心配事がなくなってしまい、
どうやら再び私自身の問題が目の前にやってきたようだ。


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