TENSEI塵語

2008年10月26日(日) WBC 監督

うるぐすにSMAP の中居くんが出演して、
巨人の優勝&日本シリーズ出場の話でわーっと盛り上がった後、
WBC 監督案を示した。

何と!

監   督:清原!
投手コーチ:桑田!

笑った!
考えもしなかった。
意表を衝いた人選である。

「清原が声かければ、誰だって集まってくるし、
 監督経験なくても、メンバー見りゃ、監督の采配なんていりません。
 みんなそれぞれに考えて、ちゃんとやりますよ!
 新しい発想で、夢のチーム作りましょうよ」
みたいなコメントを熱っぽく語っていたが、
彼の意見に賛成したいところもある。

レギュラーの解説者の江川は、笑顔でそれに答えつつも、
「この2人は正しい、しかし、まだ早すぎる」
などとコメントしていたが、清原や桑田より前に、
何で俺じゃないんだ? などとも思ってたかもしれない。
「早すぎる」の理由の説明の中には、
俺だって待ってるんだぞ、の雰囲気が漂っていたし。。
ちなみに私は、原監督より前に江川監督が誕生すると思ってた。
いーや、それよりも、中畑監督とか。。。

星野・王・落合がすでに固辞を表明して、混迷しているそうで、
野村監督か、今回の日本一監督か、という話になっているようだ。
何か、、痛々しいような監督選びだ。
(病気を理由に辞任した王監督さえ候補に挙がるなんてもってのほかだ)
古臭〜〜い観念から些かも抜け出せない世界を見る思いだ。

私は、イチローがキャプテン兼監督をやってくれるだろうから、
監督自体はだれでもいいだろうと思っている。
采配の重圧を責任もって果たそうとする人よりは、トップ選手たちと
協調して選手のムードを高める人がふさわしいのではないかと思う。

極端な意見を言えば、選手たちをああいう会議で合議で決めて、
選手たちに監督候補を決めさせて、要請させるのもいいと思う。

オリンピックでもこういう世界選手権的大会でも思うのだが、
優勝なり入賞なり、第何位以内なり、目標を掲げるのは選手であって、
我々は、彼らをお祭りイヴェントに送り出すだけにしておきたいと思う。
とりわけ、野球というのは、チームプレイでありながら、
個々人の好不調が露骨に反映されるスポーツだから、なおさらである。



2008年10月25日(土) 今度は妻が左腕不随

昨日の3時半ごろに妻からのメールに気づいた。
「帰る」とだけ書いてある。
あ、今夜飲み会があるって言ってたけど、
飲み会やめて帰るっていう意味だなと思ったけれど、
メールの時刻が2時半なので、やけに早いな、とは思った。

そうしたら、また4時過ぎにメールが届いて、
M病院(先日まで私が通っていた)で診てもらったら、左手首骨折。。
そこまでは車に乗って行ったけど、運転を禁止されたので、
迎えに来られるかどうかを問うメールだった。
私はちょうど抜けられない用事に向かうところだったので、
タクシーで帰るように返事したのだが、
もう、あれもこれもそれも、、、の忙しいときに、たいへんなことに。。

私の左腕不随が、やっとほとんど気にならないくらいに回復したら、
今度は妻が、左腕まったく使えず状態になってしまった。
これは何かの因果だろうか、、??


家事にはほとんど影響はない。
詳しくは書かないけれど、そういう家庭だから、ほとんど支障ない。

私の場合もそうだったけど、左手がダメになっただけで、
右手も使えれば口も達者なので、療養休暇を取る口実にならない。
すごく不便になりながらも、仕事を普通にしなきゃならない。
これがもっとも厄介だ。

1〜2カ月は市吹の練習は無理だろうと思っていたら、
意外にも、いつもどおり付いてきて、片手でほとんど叩いていた。
トレモロのあるソロメロディーだけ、若手に挑戦させていた。



2008年10月24日(金) 疲れた時によく浮かんでた曲

最近はちょっと忘れていたけれど、
心身ともに疲れた時などによく心に浮かんで、
思わずぼやくように口ずさんでいたのが、
シベリウスの第2交響曲の第2楽章の2、3のメロディーだった。

まずは、低音ピチカートの前奏に不安定に乗って歌い始める
ファゴットのメロディー。。(inF だけど、ハ調読みしときましょう)

みーふぁーそーらーーーどーしーらーそーらーしーらーーーー、、、
みーふぁーそーらーーーどーしーらーそーらーみーーーー、、、
みーしーれーどーーしーらーそーらーしーれどらーーーー、、、、、

とか、(「ー」ひとつが ♪ 分)、それから、

らーーーしーらーみーふぁーそーそーーーらーみー、、、

で始まって続いていくメロディーとか、、、、

第3楽章のイングリッシュホルンのメロディーの

みーみーみーみーみーみーみーみーみーらーしーどーれーみーれみれどーれーみー、、、

とか。。。


こんな風に書いてみると、何て単純な音の進行だろうと思うのに、
何であんなに情緒深いのだろうか?
かなり長い時期、疲れて力を失ってとぼとぼ歩いて帰りながら、
こんなメロディーが、ひどく心に馴染んで浮かんできたものだった。

このところかなり疲れてしまって帰路につくので、
ふとこんなメロディーも思い出してしまって、
この3日ほど、シベリウスの交響曲2番を帰りの車で聞いていた。
カラヤン盤とバーンスタイン盤を聴いた。
(その2枚しかたぶん持ってない)


シベリウスの2番は、中学の時か高一くらいの時に、
TVのN響コンサートかなんかで初めて聞いて、
第4楽章の後半からクライマックスに1度で熱狂してしまった曲である。
それから、北欧系の指揮者の演奏でよく聴いたものだけれど、
聞き飽きるほどは聴いてないところが、ここでの大切なところだ。
今聴いても、すごく新鮮に感じられるところが多いが、
今聴くと、何やら不可解だなぁ、と思われるところも多い。
演奏への驚きも多い(特にバーンスタイン盤の方)。

不思議な感じの、いい曲だなぁ、とつくづく思うのだが、
何か終始不安定で落ち着かない感じがするのが困りものだ。

不思議な感じ、というのは、語りかける音楽、って感じ、というか、
物語を紡いでいるような感じ、というか。。
そんな雰囲気が不思議な魅力なのだ。

不安定なのはたぶん、低音パートとティンパニの動きのせいだろう。
打楽器はティンパニだけで、連打がやたらと多い。
低音弦も、普通でないような不思議な役割をしていたり、
ちょっと驚くようなアクセントがつけられていたり、、いろいろ。。
ティンパニと低音弦の動きがずらしてあるようなところもあるし。。
だから、足場の悪いところに世界が成り立っているような感じなのだ。



2008年10月23日(木) 連夜の宵寝。。

9月3日の日記にも悩ましく書いた宵寝。。。
ここ数日、またどうしようもない悪循環に。。

昨夜は40分ほどですっきり目覚めたのだけれど、
今夜は3時間以上も眠ってしまって、すっきり。。。

今月は休日も休めないのが続いて(半日だけ休みが2回)、
日曜日にくたくたで帰って、つい夕食後にダウンしてしまうと、
それがその週の生活におおきな影響を与えるようだ。

今夜などは、そう眠りを欲していたわけではないつもりだったのに、
ほんの5分だけ腰伸ばし、、、のつもりで横になったら、
その5分を待たないうちに、3時間以上の眠りに落ちてしまったわけだ。

そんなに眠ってしまうと、なかなか次の眠りを呼び込めない。
困ったものである。

しかも、宵寝は食後まもない眠りでもあるので、
メタボ知らずがだんだんメタボになってしまうんではないかと、不安。

あー、、でも、そろそろ眠くなってきた。。(まもなく明けの4時半)

・・明日もまた同じことを繰り返しちゃうんだろうな。。



2008年10月20日(月) 「新世界より」を聴いてみた

ドヴォルザークの第9交響曲「新世界より」は、
私にとっては、「もういいよー(げっそり)」系の曲のひとつである。
中学時代に聴きすぎたし(先輩にもらったオケスコアもボロボロ)、
その後も限りなく聴くことがあって、、、
だんだんと、もういいです! 気分が熟成されて来たのだろう。
とりわけ、第2楽章の「家路」のメロディーなど、
並の演奏ならじっと聞いていられないほどうんざり状態になっている。

それでも、85年にカラヤンがウィーンフィルを振ったCDは、
発売とほぼ同時に買っている(第8番も同様に)。
「新世界より」の決定的名盤を求める思いで買ったに違いない。
「新世界」はノイマンじゃないのか! という人や、
ケルテスじゃないのか! という人もいるだろうと思うが、
その人たちの名演奏は十分尊重した上で、
カラヤンの演出するロマンティズムに期待してしまうのだった。
(今、改めてびっくりしたのだが、まだCDの値段の高いころで、
 1枚3500円もしている。
 今だったら2枚組か、初回限定DVD付き特別価格だろう。
 それなのに、迷わずポンポン買ってるんだよねー)

さて、2、3日前にこの時の第8番が棚から出てきたときに、
聴きながら、うーん、すばらしい演奏、、、と感じ入りながら、
回想へと誘うようなメロディーが満載の曲だというせいもあって、
いろいろなことが懐かしくて、、、
「新世界より」のことも思い出されて、うんざりしてたはずなのに、
この新録音を買ったとき何回か聴いたなぁ、、
こういうところやああいうところに感動しながら聴いたなぁ、、、
などと思い出して、珍しく、聴いてみようかなと思ったのだった。

「新世界」の方はまさしく、20年ちょっとぶりである。

うーん、、、改めて思うに、本当に魅力的なメロディーだらけ。
第8番もいい曲だけど、やっぱり「新世界」には勝てん。
第3楽章だけは第8番に軍配を上げてやりたいけれど、
「新世界」の第3楽章が魅力ないわけでもない。

第2楽章の「家路」も、もうええわぃ、って感じだったのだが、
微妙に味わい深い演奏だったのでつい聞き入ってしまった。
表情のつけにくい楽器だと思うが、なかなかの思い入れ。。
(というか、あの音色自体がすでに抒情的なので、
 こういうしみじみしたメロディーに採用されやすいわけだ)

この「家路」のメロディーがやたらとポピュラーになっているが、
私にとって「新世界」の最高の泣きどころは、「家路」に挟まれた
第2楽章の中間部である。
この部分は、飽きもしてないし、うんざりもしていない。
何度聴いてもぞくぞくする、、心震える。。

・・・などなど、久々に感動しながら聴くことができたのだが、
聴き終わって何時間か経った今は、
またしばらく聴くことはないだろうなー、、、と思っている。



2008年10月19日(日) 好奇心

天声人語を読んでいたら、、、

ルーズベルト夫人の言葉:
「母親が妖精に『わが子に最も役に立つものを授けて』と願うとしたら、
 授けられるのは好奇心であるべきだと思う」

ノーベル化学賞 下村脩氏の言葉:
「子どもたちにはどんどん興味をもったことをやらせてあげて。
 やめさせたらだめです」

ノーベル物理学賞 益川敏英氏の言葉:
「本来みんな持っている好奇心が
 選択式テストの受験体制ですさんでいる」
「いまの親は教育熱心と言うより教育結果熱心」

天声人語筆者のコメント:
だが当節、好奇心は生息しづらくなっているようだ。

子どもの周囲に、かつてなく「べし」と「べからず」があふれている。 
少なからぬ人の、それが実感ではないだろうか。
たとえば、勝ち組めざしてひた走る勉強は「べし」の象徴だろう。
そして、外で遊ぶ姿のあまりの少なさには
「べからず」の極みを見る思いがする。

一握りの天才のために教育があるわけではない。
とはいえ好奇心はあらゆる可能性の卵。
二つの言葉のはざまで窒息させてはもったいないと、
わが平凡を棚に上げつつ、受賞にわいた秋に思う。

===================

さらに言えば、天才を生むために好奇心が大切なわけじゃないし、
好奇心をもってやり続けて、偉人にならなきゃ意味がないわけでもない。
大切なのは、それがどう生活の中に生きるかわからないことだろう。
たいていは、金にも名誉にもならなくても、
しっかりと何らかの形で生きてくれるものなのだ。

その、好奇心をもってやり続けたことで、
社会的地位を得ようとか、世間で大成功をおさめようとか、
そういう野心にこだわったら、達成できなかったら無駄! となる。
だから、大方の大人は、そんなことに「現を抜かし」てるよりは、
学校の勉強や、受験のための勉強やりなさい、となるのだろう。

私の中・高生時代は、まだ至って大らかな時代だったけれど、
時にはそんな圧力が降りかかって来ることも無きにしもあらずだった。
私はそのたびに、思った、、、
だって、今これを一生懸命やらなかったら、いつやるの??

今の学校教育は、かなり窮屈なものになっている。
もう、中学校の早い時期から毎年のように、
早く将来の目標を決めて、勉強しなさいね、と指導される。
「生きる力=現実的進路指導」なんて、おかしな時代である。

それじゃ、たとえば高校生たちが、進路指導に乗っかって、
みんな勉強に邁進かというと、別にそんなわけではない。
半数以上の高校生たちは、昔と同様ヒマヒマしてるわけだ。
ただ、ますます過熱する「進路・進学指導」と、
一方でますます氾濫する気晴らしグッズの狭間で、
自分の本当の好奇心がはぐらかされてしまっているケースも
多いのではないかと思ってしまう。


・・・な〜んてことを、天声人語の筆者よりはるかに凡人の私は
あれこれ考えてしまったのだが、、、

きょう、また、高校生の混成バンドの練習に行ってきた。
私自身も、きょうこんな練習があるせいで、
10月の完全休日はほとんどなくなってしまったのだが、
集まってきた高校生たちも、そういう子たちが少なくないと思う。
こうして、熱心に吹奏楽に(音楽に)打ち込んでくれるのは嬉しいけど、
その割には、君たち、研究心乏し過ぎ!!
と思ったことが、帰宅後に読んだ天声人語の感想に反映したかも。。



2008年10月15日(水) カラヤンの「英雄」交響曲を聴いて、、

私の音楽好き生活のごくごく初期のベートーヴェンといえば、
カラヤンの演奏で聴くことから始まった。
友人宅にあった「運命」「田園」「第九」を貸してもらって、
オープンリールのテープに入れて聴くことから始まったのだから。。
選ぶ余裕なんてないし、当時はカラヤンはとにかく「標準」だった。

カラヤンの演奏映画もよく観に行った。
あの指揮姿のかっこよさと言ったら、、、
あんなチビとは思いもよらなかったのだけれど、
指揮姿を見る限り、ほんとに偉大なる巨人という感じがしたもので。。
(気取りすぎ、と言ってたやつもいたけれど、、)
それから、リハーサル映画での、
あの弦パートの音色へのこだわりといったら、、、もう、畏怖心。。

それから、ベーム、フルトヴェングラー、ワルター、、、その他、
さまざまな指揮者のベートーヴェンをいろいろ聴くうちに、
カラヤンのベートーヴェンはだんだん色褪せて行った。
っていうか、、、そんなに際立った魅力が感じられなくなった。
快い速さが特徴かな? と思われるようになった。

ロマン派の音楽だと、重厚で粘りのある、それでいて痛快な演奏に
魅せられることが多々あるのに、ベートーヴェンはやけにあっさり。。
弦の発音には、確かにカラヤンならではの特徴があるのだが。。

そういうことをはっきり感じたのは、
CD化されたカラヤンの70年代ころの全集を聴いたころだと思う。


ところが、棚から80年代に録音されたカラヤンの「英雄」が出てきた。
これだけ、新録音を買っていたのだ。。
え? 何で? と、一瞬不思議な思いになったけれど、
(70年代ころの全集で見切りをつけたはずだったので、、)
理由はすぐに思い出した、、、第2楽章のせいである。
70年代ころの演奏以上のものを期待したに違いない。

きょうそれを聴き直してみた。
第1楽章は、やはり何の変哲もない演奏に思われる。
ついでに、先に言っておけば、第3・4楽章も、である。
私は、この曲の第1・3楽章のブルーノ・ワルターの演奏の大ファン。
第1楽章のクライマックスが、録音のせいか悲惨なんだけど、
ワルターの美学がきめ細かく表現されていると思うので。。
(特に! 第3楽章の中間部のホルン3重奏の美しさといったら!)
ああいうきめ細やかさを感じさせずに、カラヤンは突っ走ってる、、
って感じだ、、、究極のこだわりの指揮者だと思ってるのに、
ほんとに意外と無頓着。。

しかし、第2楽章だけは、ロマン派の、こだわりのカラヤン!
とりわけ、2度目に第1主題になってからのフーガの部分は白眉!
もう、すばらしい迫真の名演!!
とっくに聞き飽きたような曲なんだけど、涙ぐんでしまった。
しばらくは、興奮のあまり呼吸が落ち着かなかったり。。。


そういえば、カラヤンのマーラーも、概して好きじゃないのだが、
5番の4楽章、9番の4楽章を筆頭に、
4番の3楽章、6番の3楽章と、緩除楽章はカラヤンに軍配上げてる。



2008年10月13日(月) 交響曲第3番「ピアノ付き」、、とか

ここ数日のブラームスPコン2番についてまとめとこっかな、、と。

きょうも昨日も一昨日の午前中も仕事に出たので(休日なし)、
ゆっくりと音楽を聴く時間もまったく限られてて残念だけど、
昨夜見つけ出したリヒテル/マゼール盤のCD(買い直してたのだ)を
行き帰りの車の中で聴いて、、、

うーん、、、やっぱりこの演奏が今のところ1番!
リヒテルのテンポの良さとか、ピアノとオケの絶妙な呼吸とか、
それは、高校時代に聴き込んでいたころにこの演奏から植えつけられた
ものかもしれないので、その点は割り引いて比較するにしても、
オケからほとばしる情熱! という点でこちらに軍配を上げることに。。
録音があまりよくないので、音色がかなり気になるけれど。。

この演奏を聴いている時には、
かつて、ちゃんとPコンとして聴きまくってた実績があるからか、
↓こういうことはあまり感じないのだけれど、
先日、もうひとつのお気に入りのポリーニ/アバド盤を聴いていて、
ふと、あの4つの交響曲と同系列の音楽という感じがした。
協奏曲には違いないし、
ピアノ付きの交響曲と言ってもいいかも、、という程度だけど。。
4楽章立てだし、スペシャル・カデンツァ・コーナーもないし。。

でも、「合唱付き」と但し書きされたベートーヴェンの第九も、
「オルガン付き」と但し書きされたサンサーンスの第3番も、
終楽章でワーっと出てくるので、最初からつきまとうわけじゃない。
やっぱりピアノが活躍しっぱなしで交響曲なんて言っちゃダメかな?

・・と思ったら、マーラーの第8番!
「合唱付き」とも「オルガン付き」とも断ってないのに、
最初から最後まで、声楽もオルガンも大活躍の交響曲。
しかも、4楽章制どころか、2部仕立て。。

このPコンを交響曲として数えるとしたら、
交響曲2番の後に作曲されたそうだから、交響曲3番ということになる。
後の2曲が4番、5番ということに。。

それに一体何の意味があるのだろうか?
私にはいくらか意味があるのだ。
ラフマニノフの2番のPコンと争う必要がなくなる。
そして、いまだに4つの交響曲のランキングが決まらない中に、
このブラームスの2番のPコンが加わるわけだ。

・・・な〜んて、、やっぱりあんまり意味ないわ(笑)



2008年10月10日(金) ピアノ協奏曲あれこれ

まずは昨日の続きなのだけれど、昨日発掘したCDは×だったので、
さらに探したら出て来たのは、ツィマーマン/バーンスタイン盤。
これはちゃんと覚えがある。
でも、何となくよからぬ印象がまとわりついてる感じがする。
聴いてみたら、オケの音が小さすぎる、ピアノがずっとうるさい。
第3楽章は妙に落ち着いて聴けるのだが。。。

いや、これじゃない、、、◎の盤があったはずだ、、、
演奏者は忘れたけど、、一時期盛んに出てた1000円盤のイメージ、
と今朝探してたら、棚の奥から出てきたのが、ポリーニ/アバド盤。

聴いてみたら、、、おー、これじゃこれじゃ!
快調なテンポ、美しい流れ、みごとな展開。。。
10年ほど前に、リヒテル/マゼール盤と競うベスト盤に認定したもの。
こういうのはちゃんといつでも出せるところに置かなきゃあね。。


中学時代に聴いていたピアノ協奏曲といえば、
ベートーヴェンの3、4、5番とチャイコフスキーの1番のみ。
協奏曲よりも交響曲や管弦楽曲を聴くのに忙しかったのだが、
この4曲の聴き方もかなりしつこいものだったと思う。
ベートーヴェンの方の演奏家は、
FMから録音したものなので覚えていないけれど、
チャイコフスキーは、リヒテル/カラヤン盤だった。
後にワイセンベルク/カラヤン盤を聴いて、
こちらの方がいかにもカラヤンらしい表現なので気に入ったりした。

高校時代に知ったブラームスの2番も驚きだったけれど、
ラフマニノフの2番は、実に衝撃的だった。
これは、、クラシック、、? 映画音楽? が第一印象だった。
実に高邁なクラシック通を気取っていた私は、
通俗的〜〜! と思いつつ繰り返し聴いていたのだが、
通俗的だと思いつつも聞かずにいられなかったのは、
あまりにも魅惑的だったからである。
その後、何度も検証したのだが、少しもダレるところがない。
隙のないロマンティシズム。。。

ブラームスの方の演奏はかなり当たり外れがあるけれど、
ラフマニノフの方はそれほど当たり外れがないように思う。


まだ高校時代だったか、浪人中だったか、
井上陽水を歌うのが好きな友人がいて、時々伴奏の手伝いをしていたが、
ある日、彼の家に行ったら、大音量で音楽をかけて薪割りをしていた。
その音楽がピアノコンチェルトのようだ、、、ラフマニノフ? 何番?

彼にこの曲は何だと尋ねたら、「砂の器」と答えた。
映画音楽なんだと言う。。。
それから3〜4年後の大学時代にに有楽町の映画館で「砂の器」を見た。
あの映像と音楽の調和は定評があるのだけれど、私もやはり感激して、
「砂の器」のサウンドトラックを手に入れてよく聴いた。

ちゃんと聴いてみると、もうほんとに、
オーケストラ部分も、終結部も、じつにダサい!
(映画の中の作曲家の指揮もそうだったけどね、、)
こんなの聴けたもんじゃないわ!! と思いながらも、
やはりぜんぜん見捨てることができずに、繰り返し聴いたものだった。
あの主旋律の魅力には白旗を上げざるを得なかった。

4年前にTVドラマになって、新しいピアノ協奏曲ができて、
こちらはかなり洗練された作りになっていて、これも気に入ったけれど
まとわりつくような「宿命」の糸という雰囲気はこちらには感じられず
ちょっと残念な気もした。。
それでも、スコアが売られてるのを見たら迷わず買ってしまって。。


何か、きりがなくなりそうだけど、もうひとつだけ。。
あまり大っぴらに名曲名曲と騒がれることのない作品だけど、
私が長年妙に気に入ってるのは、サンサーンスの4番。
最終楽章(というより第2楽章の最終部と言うべきか)など、
実に素朴な感じの、小学校の唱歌的なメロディーで、
オーケストラの面々が真面目に演奏してるのが笑えるほどなのだが、
全編通じて、オケとピアノの絡みが実におもしろい。
1度聴くと、たいていもう1回繰り返して聴いてしまう。
私の愛聴盤は、パスカル・ロジェ/デュトワ盤である。



2008年10月09日(木) ブラームスP協第2番

昨夜はまた久々に宵寝、、、9時ごろちょっと横になったら、
一瞬のうちに(ややオーバー)夜中の1時半を過ぎていた。
これだったら4時までは眠ってやれ、とがんばってみたけど、
目は冴えてしまったし、部屋の電気などもつけっぱなしのはずなので、
起き出してしまった。
そのまま1日過ごすことに決めたけれど、
朝の6時ごろに、ちょっと危ないかも、、と思って、
40分ほど眠ってから仕事に出かけた。

その夜中に、なーんとなく聴きたくなったのが、ピアノ協奏曲第2番。
何で唐突に久しぶりの、、? 
それは自分でもわからない、、とにかくなーんとなくなんだから。。

ピアノ協奏曲で一番好きなのは、、、?
やっぱりラフマニノフの2番かなぁ、、
全編非の打ちどころがないもんなぁ、、
と思いつつも、このプラームスの2番と思ったりもする。
それでいて、チャイコフスキーのを聴くと、これかも、と思ったり。。
でも、やっぱりラフマニノフとブラームスの2番同士で争うなぁ。。
他にも好きなピアノ協奏曲はいくつでもあるんだけどね。


で、明け方にCDの棚をごそごそ探したら、
アシュケナージ/ハイティンクの盤が出てきた。
こんなの持ってたかなぁ、、と、かなり唐突で、記憶にない。
ろくに聴いてないのは確かなので、それを持って出て車で聞いた。
買ったけどほとんど聞かず仕舞いになった理由はすぐにわかった。


私がこのブラームスの2番に夢中になったのは、
リヒテル/マゼールというちょっと意表を衝いた組み合わせの盤である。
高校時代(だったと思う)に、かなり話題になった。
リヒテルはともかく、私はそのころマゼールに不信感を抱いていた。
チャイコフスキーの「悲愴」の演奏が台無しだったので。。

でも、聴いてみたら、オケの方は実に控えめで、弦が伸び伸び。。
ちょっと軽い感じが気になったけれど、録音のせいかもしれない。
それよりも、リヒテルのピアノがすごくて、
それまでにちょっとこの曲を聞いたことがあった時に感じた
ゴツゴツ感がほとんど感じられず、かなり流暢。。
もっとも興奮したのは、第1楽章の提示部と再現部の終わりの方の、
ややリズミカルに昇っていくソロ(かなりの技巧らしい)の部分で、
すばらしい緊張感! その音楽に体が引き寄せられて行くようだった。
第1楽章・2楽章は緊張感に満ち満ちている感じだ。

これを繰り返し聴いているうちに、私の中でのPコン第1位を
ラフマニノフと争うようになったのだった。
ただし、第1楽章・2楽章で、もうお腹いっぱい、
第4楽章をデザートに、、というような聴き方を繰り返していた。


さて、きょうアシュケナージ盤を聞いたら、
力強く重厚な感じなのだけれど、時折音楽の流れが止まるようで、
かなり弛緩した印象の演奏に聞こえた。
アシュケナージなんだけど、、、と思い直そうとしたけれど、
やっぱりどうにも不安で不満な演奏だ。
買って聴いた最初の時も、同じ印象を持ったに違いない。。

他にも1〜2枚持ってたはずだがな、、、さらに探してみなきゃ。。



2008年10月07日(火) 「エロス」に笑えた

親に成績表を送る大学が増えつつあるという話が、
出張からの帰り道、車の中で東海ラジオから聞こえてきた。

話の相手をしている女性アナウンサーが、
「えー? 私の大学では親に送られてきてたから、
 それがあたりまえだと思っていました」
すると、メインの男性アナウンサーが、
「じょうちではそうだったんだー」

え? じょうち、、、上智?
おー、こんなところで愛知県のソフィアンに出会うとは、、!

ひとしきりその問題について語り合った後、、、

「私ね、一般教養で『アガペとエロス』っていう講義取ったんですよ。
 そうしたら、成績表を見た父から電話がかかってきて、
 『エロスって、お前はいったい何の勉強をしとるんだ(怒)』って、、」

ラジオの2人の大笑いと一緒に笑ってしまった。
「1人で東京に出て行ってる娘が、
 エロいこと勉強してる、って思っちゃったわけだね」
何か、意表をつかれたような感じだった。

そういえば、「エロス」という語にそんな語感があることを、
もう久しく忘れていた、、、というか、
プラトン的な意味の陰に埋もれさせていたような気がする。



2008年10月01日(水) 予想外の快晴

昨日までの予報では、きょうはザーザー降りの冷え冷えした1日の
予定だったが、今朝になったら予報も様相も一変。
午前の10時台からもう晴れ間が見え始め、
昼前から夕方まで、いかにも直射!!日光というような陽が射した。
空気が爽やかなので暑さは感じないですんだが、
とても熱くて、眩しい陽射しだった。

土曜日からずっと、どんよりした、
冷え冷え寒々とした天気が続いていたので、
思いがけない雨上がりの快晴に、何か得したような気分になった。
いよいよ本格的な秋、という10月の初日にもふさわしいし。。
明日もさわやかな秋晴れだそうだ。


向かっていた台風15号は、九州の南海上で早々に熱帯低気圧化。
台湾で猛威を振るった後、かなり弱まったそうだが、
海水の温度が高いので再び勢力を盛り返して来るという予報もあった。
しかし、北からの冷たい空気を巻き込んで体調を崩したのだそうだ。
台風もやはりひとつの生き物のように思われてならない。。。


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