TENSEI塵語

2006年11月30日(木) タウンミーティングの怪

ニュースステーションを見てたら、きょうの国会で、
静岡あたりで行われたTMのハイヤー経費について、追及があったそうだ。

その日の出席閣僚は3名。
駅から会場までは約500m、、、我々だったら歩きだが、
そこは閣僚ということで、1人1台のハイヤーだそうである。
タクシーだったら、620円の初乗り料金で行ける距離だそうだが。。。

何と、その3台のハイヤーを東京から呼んだのだそうだ。
「現地での手配がその日はできなかったので、、}と誰やら答弁していたが
現地の会社のインタビューでは、その日を調べたら需要がなかったので、
「お話さえしていただければ出せたと思いますが、、、」

タクシー1台に3人乗せて、620円で十分だと思うが、
ま、お偉い様だそうだから、3台で1860円。
何? タクシーみたいなみすぼらしいものに乗れるかって?
たった500mばか、ハイヤー使っていくらになるの?
仮に、1台2万円と見積もって、6万円? これだけで贅沢し過ぎ!!

何と、東京から175キロほどの距離を走らせてきたものだから、
40何万円かかったとか何とか言っていた。
{残念ながら他ごとしながら聞いてたし、夕刊にもウェブにも出てない)
それって、庶民の家庭の生活費2カ月分かそれ以上なのでは?
たった3人が、たった500m移動するのに、、?
しかも、会計報告の際には、20何台かハイヤーを使ったことにしたそうだ。

他にも、事後の会計報告が見積もりの何倍にもなっているケースが
いくつもあると言う。
普通はそんなことはありえないことだ。
我々のような凡人の庶民でさえ、予算をオーバーしない努力をし、
見積もりと実際の支出が違わないように入念に見積もりを取る。
国家のトップレベルの人たちが、そんな誤算を繰り返すはずがない。
誤算じゃなくて計算なのだとしたら、不明な差額はどこに行ったのだろう?
実際にそれだけ多く正規に支払ったとしたら、何のためなんだろう。
そもそも、この話題の発端のハイヤーにしても、
地元の業者にろくに依頼もしないで、東京から派遣したのはなぜだろう?

晋ちゃんの答弁に、「無駄づかいがあったことは確かなようなので、
今後はこういうことがないようにしていきたい」というようなのがあった。
そりゃそうだけどね、、、無駄づかいした分、返すんじゃないの?


このニュースを確認しようと検索したのだが、きょうのはなかった。
その代わり、1週間前に公表された見積もり表を掲載のブログがあった。
不可思議な項目と金額がいくつも見られる。
これらの項目やその金額について、新聞はちゃんと報道してくれなくては。。

2番の「動員関係」にもおかしなのがいくつかあるが、
(送迎、エレベーター、誘導関係など)
会場関係など、さらに不思議。。。
会場を借りた項目が1番にあるはずなのに(内容が省略されてるが)
舞台に10万円とはどういうこと?
照明・音響に35万円って、そんな派手な演出を伴う「語り合い」なの?
・・・等々。
5番の「企画調整関係」の、マニュアル作成とか、導線作成とか、
台本作成とか、、、いちいちそれぞれに何万も支払うことかいな?
我々は仕事の片手間に無料でやってるぞ。すごく神経使うけどやってるぞ。
そんなのは役人が仕事の一環でやることじゃないか。
閣僚や一般客の移動経路図作るだけで、それぞれ4万円だとー!

この記事にコメントを寄せていた人によると、
これは落札業者の見積もりだから説得力がないという。
しかし、これが落札業者の見積もりだとしたら、
どれだけ無駄な項目を起こし、不要な予算を盛り込むかで落札してたのでは
ないかという疑いさえ湧き起こってくる。
これがもっとも切り詰めた入札だとはとても思えないし、
もしも、これが彼らの常識的な最低限の見積もりだとしたら、
国会とか内閣というところは、もっとも税金を無駄づかいする温床だ、
ということになる。




2006年11月29日(水) 007の第6、7作

日曜の夜に第6作の「女王陛下の007」を見た。
ショーンコネリーでなく、ジョージ・レーゼンビーのボンドだが、
物語はよくできているし、ボンドガールの役割が今までで最高だった。
全体は覚えていなくて、ほとんど初めて見るように見ていたが、
スキーやボブスレーの場面などは以前見た覚えがある。
TVで終わりの方だけ見たのかも知れないし、69年の作品らしいから、
中2のころからやたらと映画館に通い始めた時に見たのかも知れない。

月曜日は試験問題作りに専念して、のだめも見忘れたほどだから、
映画の方もお休み。
昨日は、朝寝坊して、あたふたと職場に滑り込むところから始まり、
夕食後は2時間ほど宵寝をしてしまったので、またもお休み。
昨夜夜中に2度目の正式な睡眠に入るのにかなり難儀をしてしまった。
今夜は絶対宵寝をしないぞ、と誓って、
試験解答用紙を作るのを後回しにして、「ダイヤモンドは永遠に」を見た。

ショーンコネリー最後のボンドである。
ストーリー展開としては、二転三転的な要素が強くなっている。
「粋」「余裕」という要素は第1作から伝統的にあるが、
ますますそういう面が強くなっているように思われた。
多数の追っ手を自損させてしまうカーチェイスが殊更におもしろかった。



2006年11月28日(火) やっぱり金かぁ、の復党問題

考えもしなかった。
懐かしい、嘗て税金の不当な使い道として批判の筆頭にしていた、
政党助成金(政党交付金)という言葉に出会った。

今朝の朝刊の2ページ目、朝日だから「時々刻々」というコーナーがあるが
そこに四角で囲まれた記事があった。見出しに、
『年内望んだ苦しい「懐」 政党交付金・献金」とある。

無所属では政治献金の受け皿もないし、政党交付金の恩恵もない。
パーティーを開くだけでは、資金収入が苦しい。
だから、年内に復党できないようなら、新党結成も考えていたという。
年内に、というのは、1月1日現在の申告で交付金が配分されるからだ。

10年ほど前に、この制度に怒っていたことを思い出した。
消費税を5%に上げる話が出ていたころではないかと思う。
莫大な金額で、今検索して確認してみたら、1994年に始まってから、
10年間の平均年間交付額が317億円という恐るべき金額である。
なぜこんな高額な金をプレゼントしてあげなきゃいけないのか、わからん。
良識ある政治家なら、こんなのは変だと受け取らないに決まってる、と
思ってたら、共産党だけは受け取ってなくて、後は恩恵に浴しているようだ。
教育や福祉のための財源が確保できないなら、まずここを崩して欲しい、と
願ってやまない、実にもったいない税金使途先のひとつなのだ。

昨日の11人が復党すると、自民党への交付金は2億5千万円増えるという。
頭がくらくらするような金額である。
自民党の場合は、その中から支部交付金として議員に配分されるが、
議員歴によって、1千万〜2千万円の配分になるのだという。
要するに党にとっても、何千万かの資金が上積みされ、議席数も増えるし、
復党議員には千何百万円かが転がり込んで来るという仕組みのようだ。
どちらにも、庶民レベルには考えられないような利益があるわけだ。
庶民から搾り取った税金を使って、、、ね(`ε´)

あんな屈辱的な誓約書にサインしてまで、
また、あれほど強い信念を示したはずの前言を撤回してまで、
そしてまた、国民の復党反対の声が圧倒的に多い状況を顧みずして、
何としても復党したい、と願っているのはこのためだったのかぁ〜、と
目から鱗の思いである。
平沼赳夫ひとりが、屈辱的な誓約書は書けないと突っ張っていられるのは、
昨年度だけで4億円の政治資金を集めた強者だからという見方もあるそうだ。
(それにしてもどうやって?)

昨日、まだ釈然としていなかったことが、よくわかってきたのだが、
昨日より一層、恥ずかしいと思わんのかー!(`ε´)という思いが強まった。



2006年11月27日(月) 郵政民営化反対議員の復党問題

今回担当の試験問題は来週の火曜日のものなのだが、
きょう問題だけ作り終えた。
こんなに早いのは久しぶりだ。
昨日の休日にほとんどやる気がしなかったので、不安が募りつつあったが、
きょう、図書館での仕事を終えて職員室に5時半ごろもどり、
それから1時間ほど草稿を作って、夕食後2時間余を費やして作った。
明日他の2人にも点検してもらってから完成させる、余裕の展開だ。
何か晴れ晴れした気分で、風呂から上がってニュース番組を見てるうちに、
あーーー、のだめ見忘れたーーー、と、失敗に気づいた。
夕方からの勢いでうっかりしてしまった。
小学生のころは番組を見忘れたりすることはなかったが、
成長するにしたがってTVを見ることは日常ではなくなり、
連ドラを欠かさず見るのは、奇跡的な難行になってしまった。
それでも、菜々子さまのドラマは見忘れることがなかったものだが、
そうでないドラマはしばしば見忘れてしまう。

ま、そんなうっかり忘れはかわいいものだ。

きょう、郵政民営化に反対した自民党議員の11人が復党願いを出した。
誓約書も提出しなければならないそうである。
その中には、反党行為に対する反省と詫びが明記されている上、
夕刊には載っていなかったが、ニュースの報道によれば、
今後また反党行為に及ぶ場合には、「議員を試食します」ともあるそうだ。

そんなアホな。。。
党を除名され、「刺客」とも闘いつつ、無所属で当選した人たちでしょ?
それを、党の方針に反対したら、党をやめろでなく、議員をやめろって?
何という閉鎖的集団であろうか。
閉鎖的集団の恐ろしいところは、おかしな論理がまかり通るところだ。
平沼赳夫だけは、こんな屈辱的な誓約書に署名できないと、提出拒否をした。

あとの11人は、郵政民営化支持に回り、反省と詫びをしたことになる。
まぁ、そういうもんだわなぁ、あの世界の人間は。。。
その時その時のしがらみと思惑と体裁で右往左往しているだけで、
自分自身が確固たる信念をもっているわけではない。
今は、あの反逆議員たちも大樹の陰に寄り添いたい思いでいっぱいらしいし、
党自体も、国会を独裁するための安定多数がほしい。
決まってしまった郵政法案に今さら反対を唱えてもしょうがないじゃないか、
仲直りしようぜ、というだけのことだろう。

あの後の衆院選で、私は今回だけは野田聖子に入れてやってもいいかな、と
思ったりもしたが、どうせそのうち裏切られるからと思って、私はやめた。
似た気持ちで1票を投じた有権者も少なからずいることだろう。
そういう思いの投票のおかげで当選できた、のかもしれない。
もちろん、以前からの根強い支持者たちの中には、
当選して、議員として活躍しつつ、復党を願っていた人もいるだろう。
しかし、この私でさえ一時は心が動いたほどだから、
無党派層の動きには計り知れない力が働いたとも想像できる。

私は、少なくとも任期が来るまでは、復党すべきではないと思う。
党から懇願されても、無所属で通すべきだと思う。
しかし、彼らはたいてい、選挙の時だけは涙を流してお願いと感謝をするが
当選してバッジをつけてしまえば、国民を忘れてふんぞり返るものである。
そうして、党の上役にばかりぺこぺこする。
郵政民営化に反対して「私が悪うございました」と平然と言ってのけ、
それがメディアを通じて全国民に流されても、恥ずかしくはないようだ。
こういう精神は、私にはまったく理解できないものだ。

あの事件を機に、離党して新党を立ち上げたある議員が、記者会見で、
この誓約書を伴う復党条件について、いじめだ、いじめだ、
国会でいじめがおこなわれている、と騒いでいた。
今回だけでなく、党からの除名、選挙での刺客送り、、、あそこからすべて
いじめに思われる。
あれは、小泉クンのいじめだった。
新しい党首は、そのいじめにも耐えて当選した実力者が惜しいようだ。
しかし、小泉クンの手前、頭を下げて笑顔で呼び戻すことはできず、
徹底的にいじめつつ、呼び戻さなければならなくなった。
首相になっても、いじめっ子小泉クンは怖いらしい。。。

しかし、自民党内部はかなりもめている。
世論調査では、復党反対が多数を占めている。
しばらく成り行きを見守る価値のあるおもしろい問題かもしれない。



2006年11月26日(日) いじめ問題

朝刊を見たら、1面トップのでかでかした文字が「いじめ緊急調査へ」
その横にやや小さく「補正予算案 相談員も拡充」とある。
文科省が毎年行ってきた実態調査が、実態と合ってないかも知れないので、
どういう方法で調査するのかはわからないが、これから検討するそうだ。
また、補正予算で、スクールカウンセラーの配置率を高めるそうだ。

もちろん、そういうことをやってもらってもかまわない。
しかし、実態調査したところで、スクールカウンセラーを増やしたところで、
肝腎なことをしなければ意味がない。
スクールカウンセラーというのは、いじめが起きてから活躍する人だし。。
いじめだの、争いごとだのが起きない環境作りをしなければいけない。

まず、小学校を、1クラスあたり2人教員体制にすることが第一である。
今は、1クラスあたり1人教員体制である。
これはもうさまざまな問題を生んでいるのだが、
いじめ防止対策にもこれはぜったい必要である。
子どもたちは、もう4、50年くらい前から比べると格段に多様化している。
ごく普通の知能の子の中にもまったく道徳観の欠如した子がいるし、
ADHDの子も増えているし、障害児学校に入るべき子が、
親の希望で普通教室に入っている場合もある。
担任1人だけで、何の問題も起きないようにすることができる時代ではない。
小学校の場合は、担任3人制でも多すぎないくらいだと思う。

常に教室やその近辺に先生がいて、子どもたちのことを見ている、
という環境の中では、学校内でのいじめというものはまず行われないだろう。
もちろん、最近しばしば問題になったように、
いじめの現場を見ていながらそれを見ないふりをしているような教師が
いては、何にもならない。
いじめに限らず、絶対に許してはならないこと、についての、
教員間の合意がちゃんとできてないといけない。

人として絶対にやってはいけないこと、守らなければいけないこと、
やらなければいけないこと、、こうした教育は子どものうちに受けてほしい。
できれば、勉強の楽しさも、小学校で身につけられるように。。。
小学校までの時期というのは大切だと思うのだが、
旧文部省も、現代の文科省も、不思議なほど小学校教育を軽視してきた。
教育基本法を変えなくても、まずここを変えることが先決だ。

基本的なしつけは家庭で、、、なんてことはすべてには期待できない。
この60年の変遷を見よ。
戦後生まれで、自由とか民主主義の意味も曖昧なまま成長し、親になった、
その親に育てられた子どもの子が、最近の子どもである。
分別ある親がいなくなったぞ、と言っているのではない。
少なくとも高校で保護者会をやっている限り、
無責任で勝手なことばかり主張する親はごくわずかである。
たいていは分別もあり、子への愛情も十分に備えているようだ。
しかし、子どもの社会は、親や教師の指導の及ばないところで、
着実に汚染され続けてもいる(ケータイ、PC、TV、ゲームなど)。
また、親の愛情不足や、親から教育を放棄されて、荒れた子どもたちも、
子どもたちの社会を汚染し続ける。
そうして、道徳観のますます希薄になった子どもたちが、
やがては親になって子を育てて行くようになるわけだ。

だから、小学校までの教育が、もっと手厚くならなければならないのだ。
ここで、基本的な善悪の感覚を叩き込まれなければならない。

また、いじめについて、もうひとつ。
昔からいじめはあった。
最近、特に過敏な社会問題になってしまったが、昔からあったのだ。
確かに増えてもいるのかもしれない。
教育現場が、助け合いや協力ということよりも、
競争原理と勝ち負け重視の風潮をどんどん加速してしまったから、
子ども社会にも弱肉強食の雰囲気が蔓延しても不思議ではない。
しかし、一方で、いじめられたと悩む水準も変化しているかも知れない。
ひと昔前だったら、いじめには当たらなかったことでも、
深刻ないじめと受け止めて、自殺か否かと思いつめるケースもあるかも。。
2、3年前、ケータイにまつわる一種の症候群として、
ケータイは持ったものの、だれからもメールが来ないので、
孤独感に苦しめられる中・高生の問題があった。
被害妄想的な子どもたちもまた、増えているのだ。

だから、いじめ問題というものは、教師が実際に目にしたところから、
対話を重ねて実状を把握し、指導していくしかないものだ。



2006年11月25日(土) 落ち着かなーい第5作

朝、豊田まで約80分のドライブをし、3時間の会議に出て、
また約80分のドライブをして帰宅して、それから市吹の練習まで、
新曲練習の準備にあたふた。。。
一昨日まではのんびりできる土曜日だと思い込んでいたのに、
昨日、ふと、吹連の常任理事会の日だと気づいてしまったために、
結局、たいへん疲れる1日になってしまった。

やっと一息ついた夜中に、007第5作の「二度死ぬ」を見た。
1日目は最初の2作を見たが、その後順調に1作ずつ見続けている。

今回は初っ端から、宇宙船が謎の宇宙船にパックンと食われてしまい、
ついで、中国で女を食おうとしているボンドが殺されてしまう。
衝撃のオープニングである。
それからの展開は、宇宙SP的なものと日本的情緒が交錯する、
何とも不可思議なSFアクションドラマだった。
対立する米ソを戦争に導いてどちらも滅ぼそうと目論む奴がいて、
その拠点を、日本のある島の休火山の火口にしているという設定である。
違和感たっぷり、というか、これでは、あの当時日本で作られていた
子ども向けのドラマと大差ないような気がした。
それでも、金かけてる分、あの頃にしてはかなり入念なスペクタクルだった
のかもしれないが、、、今の感覚で見てみるとねぇ。。。

私が小学校5年生のころの作品だ。
まだ私が、郡上八幡で生活していた、その最後の年あたりだ。
あんな時代に日本にまで来て、この映画のロケをやっていたわけだ。
何か、不思議な感じがする。
あの頃、この映画を見た英米の人たちは、日本にどんな印象を持ったのか?
日本の国技やさまざまの武術も見せるし、海女や漁村の家屋も見せるし、
神式の婚姻風景も見せる、、、他方、もちろん近代的企業も見せている。
何かとらえどころのない印象にとらわれたのではないだろうか。。。

日本人のボンドガールとして、浜美枝は我々の子ども時代から有名だったが
意外と登場場面も少なく、それほど活躍もしていなかった。



2006年11月24日(金) 意外な疲れ

きょう1日、なぜこんなに疲れてしまったのか、よくわからない。
朝のうちは、快調に思われていたのだが。。。
昨日までと比べてかなり寒い1日で、冷たい風に打たれたためだろうか。
とにかく、夕方にはもう動くのが億劫でしょうがなく、
5時過ぎまで図書館で急ぎの仕事をして、5時半にさっさと帰路についた。

夕食後、007第4作「サンダーボール作戦」を半分ほど見て、
トイレ休憩に階下に下りたついでに、ちょっとベッドに横になったら、
(眠い、と思っていたのではなく、腰がだるく体が重かったのだ)
何を思う間もなく眠りに落ちて、気がついたら1時半になろうとしていた。
私の宵寝としては非常に長い方である。
4時まで眠ろう、としばらく頑張ってみたけれど、まったくダメ。
で、起き上がって、「サンダーボール作戦」の続きを見た。
一生懸命見てしまったので、ますます冴えてしまったが、
このまま眠らずに、明朝常任理事会に出るため豊田まで行く自信はない。
ちょっとは眠らなきゃいけないだろうが、それがあまり遅くなりすぎると、きっと起きられないだろうし、、、困ったことだ。

もしも明朝の会議を気にする必要がなかったとしたら、、、、
きっと私は、きょう届いたきょう発売の「24 シーズン5」を見始める。
昼前まで見続けて、眠る。
夕方に起きて、市吹の練習に出かける。
帰ってから、夜中から朝にかけ、好きなだけ「24」を見続ける。
日曜の夜に、正味18時間の24時間ドラマを見終わることができるだろう。
休日の午前中にひとつ会議が入ったせいで、それががらりと変わってしまう。
日曜日は、まず試験問題を作ること最優先で頭を悩ませることになるだろう。
つまらん休日にせざるをえなくなるわけだ。
・・・まぁ、とにかくもう寝なければ。。。



2006年11月23日(木) 勤労の午前、感謝(?)の午後

朝、7時間ほど寝て、すっきり起きた。
仕事に出た。
土日は家でテスト作りを中心にしなきゃいけないので、
きょうのうちに月曜日の会議に出す文書を用意しようと思って。。。
列挙式の文書なので、こういうのはエクセルの方が更新する際に便利だから
前任者が一太郎で作っていた内容をもとに、最初から作り直した。

もうひとつやらなきゃいけない仕事があったが、
そちらは明日の空き時間にでもできるだろうと、昼過ぎに帰った。
感謝の念などはまったく意識にのぼらなくて、ただのんびりした。
夕方、短い昼寝の後で、トイレ掃除だけはやれた。

夕食後、007第3作の「ゴールドフィンガー」を見た。
写真でしばしば目にしていた全身金箔の裸体は死体だったのかぁ。。。
終わりの方だけは見た覚えがある。1度だけではなかったかも知れない。
何で殴られてもビクともしない怪力の、首の短い東洋人と格闘する場面。
感電死へと導くはずだぞ、と思ったのは今夜が初めてではない気がする。
それ以前の部分は微塵も覚えてないから、そこからだけ見たのだろう。

危機一髪的要素が、この作品から顕著に表れている。
1作ごと、つまり1年ごとに、ずんずん作風が進化しているようだ。
核爆発を止めたのが、あと1、2秒でなく、
あと0分07秒で止めた、というのもなかなか洒落ている。
セリフもだが、危険な任務遂行を描きながら、遊び心満載でスマートだ。



2006年11月22日(水) 007シリーズ

8月に注文しておいた「007アルティメット・コレクションBOX」が届いた。
意外とでかいのでびっくりした。こういうセットなのだが、、、




DVDケースも小さいものにして、アタッシュケースも小ぶりだろうと
思っていたが、DVDケースは通常のトールケースで、
それが20巻、斜めに寝かせて重ねて収められているので、
アタッシュケースもかなり大きいものになっている。
はっきり言って、邪魔くさいくらいの大きさである。

実は、ほとんどこのシリーズを見たことがなかったのだ。
部分的に見たことはあったかもしれないが、
1作まるまる見たのは、6、7年前、名古屋で時間潰ししなきゃいかない
ことがあって、たまたま通りかかった映画館で見た1作だった。
ソフィー・マルソーがボンドカールだったから、調べてみると
「ワールド・イズ・ノット・イナフ」だったようである。

映画を今までほとんど見ないままで来たのは不思議だ。
中学のころだったと思うが、さいとうたかをが劇画化した
ナポレオン・ソロと007を買って繰り返し繰り返し読んでいた。
興味がなかったどころでなく、見たかったがチャンスがなかったのだ。
それなのにレンタル・ビデオの時代になってからも、なぜか見ていない。

きょうはまず、第1作の「ドクター・ノオ」を見た。
邦題は「007は殺しの番号」だったそうで、この題はよく耳にしたものだ。
見てみたら、昨今のアクション映画に比べると、実に悠長な展開だ。
あくびが出そうな展開である。
通信機器といい、原子力施設といい、骨董品的な映像である。
それでも、おもしろくないと非難するほどひどくはないので、
とりあえず楽しんで見たのだが、、、これが、1962年かぁ。。。
私はまだ6歳だったころの作品らしい。
「ナショナルキッド」とか「怪傑ハリマオ」とかを喜んで見ていたころと
ほとんど変わりないようだ。
そう思うと、洒落たセリフで綴られたハイセンスな映画に違いない。

「ドクター・ノオ」だけでは何となくもの足りない感じがして、
明日は休日でもあるし、2作目の「ロシアより愛をこめて」も見た。
翌年の作品らしいが、1作目とは見違えるほど緊迫感が漂っている。
今後がますます楽しみになった。





2006年11月21日(火) インターネット記念日かぁ

書こうと思ったことを書き始めると長くなりそうなので、
話題探しの一環で、きょうは何の日かをちょっと検索してみた。
いろいろお世話になっているものの記念日のようである。

【インターネット記念日】
1969(昭和444)年、インターネットの元型であるARPAネットの
公開実験が、カルフォルニア大学ロサンゼルス校・スタンフォード研究所・
カルフォルニア大学サンタバーバラ校・ユタ大学の4か所を結んで開始された。

ホントに多くの恩恵を受けてるわなぁ。。。
しかし、いったい誰が記念日を祝い、喜んでるんだろう???
ちなみに、電子メールの日は、1月23日だそうである。


【歌舞伎座開業記念日】

1889(明治22)年、東京木挽町(現在の東銀座)に歌舞伎座が開場した。
元々木挽町には江戸三座のひとつ・森田勘彌座があったが、1841年の天保の改革の時に浅草に移され、それから半世紀ぶりのことだった。当時の建物は戦災で焼失し、1951(昭和26)年に復興された。

これも世話になったなー。。。
ちなみに、歌舞伎の日は、2月20日だそうだ。


【フライドチキンの日】
1970(昭和45)年、名古屋市郊外に
日本ケンタッキー・フライド・チキンの第1号店がオープンした。

これも世話になったなぁ。。。
最近はどれもバリエーションを余儀なくされているが、
ケンタッキーも吉野屋もマックも、驚異だったな。
ほとんど単品と言ってもいいような商売が、世界的に支持されている。
実際、それほど安くて旨い。
下手な店に飛び込んで後悔するよりは、、、と、
ついついこういう店に足が向いた時期があった。
飽きないのが不思議だったが、実際いまだに飽きていない。
ちなみに、ハンバーガーの日は7月20日だそうだ。


世界テレビデー(World Television Day)

1996(平成8年)12月17日の国連総会で制定。国際デーの一つ。
同年、国連で「第1回世界テレビ・フォーラム」が開催された。
国連加盟各国は、平和・安全・経済・社会開発・文化交流の拡充等の問題に
焦点を当てたテレビ番組の世界的な交流を促すことにより、
この日を記念するように呼びかけられた。

きょうはTVをほとんど見てないのだが、そんなの行われたんかいな?



2006年11月20日(月) すっきり週明け

昨日の風邪との闘いが、結局はいい休養になったらしく、
今朝は6時半に起き、のんびり用意して、すっきり出勤した。
仕事の方もわりとてきぱき片づいた。
もちろん、体自体は本調子ではないが、治ってないわりに気分がいい。

のだめがますますおもしろかった。


沖縄知事選、、、もしも北朝鮮の核実験がなかったら、
勝敗が逆になっていただろうか。。。
それとも、ただ単純に、米軍基地問題は諦観とともに薄れつつあるのか。。
そうして、8年前期待しながら裏切られた経済振興に、
もう1度賭けてみようと、、?
実際、今回県内建設反対派が知事になったとしても、
その予定地を国のものにして、、云々という裏技を使うことになるという
ような話を、先日ラジオで聞いた。
もうすでに誰かさんがアメリカの誰かさんに約束してしまっているから
それを反故にするわけにもいかない、という話だった。
諦めムードが漂ってもしょうがないし、
北朝鮮の核保有問題が加われば、そんなこと言ってる場合かという人も
増えるのかも知れない。
しかし、約35万vs31万だから、政府は安易に事を進めないでほしい。
与党側に票を投じた県民も、手放しで県内移設に賛成しているわけではない。
地域別の投票の傾向なども調べて検討に加えてほしいものだ。
多数決では、ややもすると、直接被害のないこっちの方のおおぜいが、
被害を受けるあのあたりの少数派に不利を押しつけることにもなりかねない。
「民意」というよりは「多数の暴力」ということもあり得るのだ。
それよりも、私の関心は投票する人、しない人の意識についてだ。
投票する人の意識については、さっき頼りない疑問を書いてみたのだが、、
こういう現実的で深刻な問題を抱えた県でも、投票率は65%。
約35万人、つまり、当選者の得票数分の棄権である。
そういうものなのかなぁ、、、と思う。
だから、当選者の支持率は3分の1である、と言いたいところだが、
棄権は「決定に従う」という意味になってしまうから、
3分の2の支持を得た、と思われても文句が言えない。

きょうは、気分はなかなかすっきりとしていたのだけれど、
この問題については、ちっともすっきり考えられないのだ。
とりあえず、メモだけしておくことにした。



2006年11月19日(日) やられたー

風邪をひいてしまったらしい。
妻が1週間以上も前からずっと風邪に苦しんでいたので、
うつらない方が不思議なのだが、ついにやられてしまったようだ。

朝、くしゃみと鼻がつらくて8時過ぎには起きてしまった。
まだそのころは、鼻炎なのか風邪なのかわからなかった。
昼ごろに風邪だと判断して、早めの昼食をとり、風邪薬を飲んで寝た。
いったん起き出したが夕食前にまたちょっと寝た。
買い物にも出たかったけれど、寝る方に屈服した。
夕食のころは、ひょっとしたら熱も出ていたのかもしれない。
夕食後も、風邪薬を飲んで4時間ほど寝た。

今は夜中の1時ごろだが、かなり体が楽である。
きょう予定していた仕事がひとつしかできなかったが、
大学時代、友人の友人という関係だったヨガの修行者が言っていた。
神さまが、そろそろちょっと休みなさい、と休む機会をくれるんだと。
だから、こういう時は思い切ってゆっくりと休まなきゃいけない。。。

うーー、それなら、平日にドッと熱が出るようにしてくれぃ。
平日の仕事を休ませてくれなきゃ、休むことにならないじゃないかー。
何も、貴重な休日を奪わなくても、、、そうして、これから1週間以上、
仕事に追いまくられながら、風邪の末期症状と闘うはめになったわけだ。
最悪である。



2006年11月18日(土) 休日の職員室

1カ月ぶりの2連休だー、、、と思ったら、
妻が休日出勤で、夕方まで勤務だというので、
夕方市吹に行くときに拾って行く関係で、朝も職場に乗せて行くことにし、
そのついでに私も学校に寄って、雑用片づけをすることにした。

まず、机の上を整理するだけで、2時間近く費やしてしまった。
昨日まで本当にひどい状態で、たまにちょっとばかし整理を試みても、
堆積したプリントや文書の最下層の、机の面と接するところには
10年かからないと到達しないんじゃないかと思われるほどだった。
2時間かけてかなりすっきりはしたが、ファイルフォルダーを忘れたので、
プリント原稿などは結局積み上げただけで、相変わらず邪魔になっている。レターケースの中や本棚の整理もしたかったが、
肝腎な仕事をやらないと来た意味がないので断念して、仕事を片づけた。

休日にはほとんど学校に姿を見せない人が、先週もきょうもいたので、
驚いて尋ねてみると、3年生の模擬テストの監督だという。
あ、そう、って感じである。
これはお得な出勤でいわば高額バイトだから、ご苦労さんと言うに値しない。
進路部の係はわりとたいへんだけど、監督だけなら楽ちんな仕事だ。
1、2年生の担当で出てきている人のほとんどは、
土曜解放の監督や授業をする人で、仕事としてはこちらの方がたいへんだが、
謝金は模擬テストの監督の半分以下か、学年によっては無償とも言われる。
午後から部活動の練習試合に行くために出てきている人もいる。
生徒の引率には手当が付くが、半日だと500円といったところか。

そういう構造が、先週もきょうも、ふと不思議なことに思われた。
同じ場所に同じ時間に存在しながら、存在が金になる人とならぬ人がいる。
それぞれに換算した時給メーターをつけてやるとおもしろいだろう。
かつては、夏休みや冬休みでも、補習授業をする人には謝金が出たが、
成績不振者の補充授業をする人には、同じ時間帯でも謝金がなく、
たいへん不思議なシステムに思われたものだ。
(最近は補習の謝金も時給方式でなくなったので、
 そういう不平等感は薄れているけれど。。。)

それにしても、先週はなぜ仕事w貯めてしまったんだろう、、?
火曜日に出張があったし、木曜の「総合」もいささか準備を要した。
ああ、そうだ、業後に3年生の面接練習指導をやらねばならず、
それが生徒の希望でさらに1回ずつ増えたのだった。
だから、夕方になるとぐったりしてる割に、仕事は放ったらかしだったのだ。



2006年11月17日(金) 国会審議なるもの

きょうはもう夕方に疲れ果て、何もかもイヤになり、動く気力もなく、
それでも何とか家まで帰ってきて、ダウンしそうだったが、、、
届いていた「M:i 3」を見たら、緊迫した場面の連続に引き込まれ、
こめかみや胸が痛くなるほど夢中になって、案外元気になってしまった。
実におもしろかった。
特に、バチカンに潜入しての誘拐劇がおもしろかった。
メイキングの撮影種明かしも楽しかった。


国会の野党議員たちにも、緻密な作戦を展開して
ミッション・インポシブルをクリアしてほしいものだ。
我々にはなす術がないのだから。。。

それにしても、晋ちゃんのコメントはひどい。
ま、首相のコメントなんてたいていこんなものだが。。。

昨日の新聞に載ってたコメントは、
「野党が出席しなかったのは残念だが、通過したのはよかった」
むりやり通過させただけでしょうが!!
いかにも苦難を乗り越えて、ギリギリの闘いをしたかのようなコメント。
野党が出席しても、強行採決でしょうが、、?

今朝の新聞に載ってたコメントは、
「衆院では議論も深まったのではないか。
 参院において、さらに深く広く議論してもらいたい」
よく、公衆の面前でこんなことをしゃあしゃあと言えるものだ。
議論は、いじめだの未履修だのやらせ質問だの、横道に逸れてしまい、
法案そのものについての突っ込んだ議論はいったいどれだけ為されたのか?
費やした時間がある程度まで達したから、大急ぎで採決に入っただけだ。
参院でも審議時間のノルマを食いつぶすことしか頭にない。

昨日「美しき日本」パンフレットの教育再生計画を読んでみたが、
その内容と、新教育基本法との関連がさっぱりわからなかった。
彼の教育再生のために、教育基本法を変える必要はまったくなさそうだ。
それなのに、なぜ性急に教育基本法を改悪しなきゃいけないかを考えると、
要するに、武装のため、としか言いようがなくなるのである。

とにかくこれは実に重要な局面なのだが、ろくに審議もしないで可決である。
しかし、国会の審議などというものは、実は形式的なものに堕している。
同じ政党内でも考え方は個人の自由だというのであれば、議論は意味がある。
そうではないのだから、最初から採決の数字は決まっているのである。
審議が1時間だろうが100時間だろうが1000時間だろうが変わらない。
真の深い議論というのは理解し合うものなのだが、
国会ではそれはあり得ないし、許されていないらしい。
だから彼らはたいていは質疑を真剣に聞いていない。
眠っていたり、野次を飛ばすのに専念している議員が多いのももっともだ。
答えになってない答弁がまかり通るのもそのためだ。
我々が体験してきた議論とは根本的に違うのだ。

いくら反論しても、批判しても、賛成・反対の数は変わりっこないとしたら、
結局のところは、阻止、という形で切り崩すしかない。
そのために取る戦術は、確かに姑息な手段である。
庶民はそれを見て、子どもの喧嘩みたいだとか、無責任だとか非難するが、
正規の議論はいくらしても結果が変わらないのだから、そうするしかない。
審議拒否して欠席するのを無責任だとも庶民は批判するが、
そもそも、出席している議員たちでも、議論などはしていない。
猿芝居をしているだけである。
議論の基本は他を尊重することなのに、そういう気持ちはさらさらない。
いかなる反論も疑問も無視して、自分たちの結論だけが厳然としてある。
議論を積み重ねて結論を出すことを専門職にしているはずの人たちが、
最初っから議論に臨む姿勢で仕事してないのだから、
そういう意味でも、彼らを税金泥棒と呼んでもいい。



2006年11月16日(木) 昨日の余波

何かもう朝からイライラしてしょうがなかった。
昨日の単独採決への怒りもあるし、
きょう予定されていたそれのせいでもあるし、
授業は5時間も埋まってるせいでもあるし、
カリキュラム編成問題で怒っているせいでもあるし。。。
ま、ただでさえ今の教育政策への批判が多いのにどうすることもできぬ、
そうしたイライラをさらに増殖させられているに過ぎないのだけれど。。。

職場で、教育基本法改悪問題がちっとも話題にならないのが不思議だ。
最近の例で言うと、未履修問題だとかいじめ問題だとか、
そういう具体的な問題については大いに盛り上がっているくせに、
こういう基本的なことについては皆だんまりである。
本来、これこそ職場の最大関心事であるはずなのに。。。

まー、今夜は書きたいことがまとまりそうにないので、パス。



2006年11月15日(水) 愛国的民主主義ってことかな?

不自由と非民主を信条とする自由民主党が、得意技の与党単独採決で、
今夜衆院特別委で新教育基本法案を可決し、明日は衆院で可決の予定という。
困ったら単独採決で先に進めばいい、というのは、多数派の暴力である。
彼らが単独採決で可決した法案の冒頭(前文)にはこう記されている。

「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた
 民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、
 世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである」

彼らがたゆまぬ努力によって民主的な国家を築いてきたのかも疑問だが、
それを「更に発展させる」にしてはあまりにも貧弱な態度である。
冒頭の宣言を踏みにじりつつ、法案を成立させようとしているかのようだ。
それとも、彼らの「たゆまぬ努力によって築いてきた民主的」というのは、
過半数だったら怖くない、過半数の言いなりになれ、という制度に
過ぎないのだろうか。

晋ちゃんたちは、憲法も教育基本法も「押しつけられた」ものだから、
「国民の手で」作られたものにしなければならないと繰り返し訴えた。
しかし、この強行採決によって、自民党と公明党の「押しつけ」であるという
構図が明瞭になった。
今後、ひょっとして政権交代があった場合に、
新教育基本法は自民党によって押しつけられたものだから、
新たに民主的な手続きで制定し直す必要があると、再度改められても
文句は言えまい。
そんな風に、時の多数派の政党の思惑で安易に変えられるものであっては
ならないだろう。
しかし、彼らは、そういうものであっていいんだよ、と、
きょうの単独採決によって、身をもって宣言したのだ。
我々には、今、こういう法律に変えておく必要がある、
これ以上遅らせるわけには行かない、だからもう勝手に決める、
悔しかったら多数派になれ、そうしたら好きなようにできるぞ、
今は我々が多数派だから我々のしたいようにするさ、、、というわけである。

こういう私の意見に対して、いや、100時間も審議したんだし、
審議をボイコットしたのは野党であって、
採決が単独になったのは与党のせいでなく野党の意志だ、
という反論はあり得る。
また、その多数派与党も、国民に選ばれた代表だから、
その代表たちによって採決されたのだから、何ら批判されるべきものでない。

100時間の審議というが、どれほど審議し尽くされたのだろう。
野党も、直接この問題に取り組むよりも、
いじめ問題だの、未履修問題だの、TMのやらせ問題だの、
本筋と離れたところで時間を浪費したに違いない。
私は、新聞等で、この問題に関してはかなりチェックしてきたつもりだが、
残念ながら私の疑問に応えるような報告には出会えなかった。

実は私は、この新しい法案の、第二条にある5項目目の
「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」
という文言がわりと気に入っているのである。
生徒たちにも、日本の文化と国土を愛して欲しいと思っている。
教育基本法の精神で学習指導要領が作られるはずだから、
今後の教育は、日本の風土・地理・民俗・芸能・文学はじめ様々な文化が
今まで以上に具体的に盛り込まれることになる。
日本史が必修科目になるだろうし、
現在の日本を取り巻く国際関係の歴史も必修科目になるだろう。
だから、現代を理解するための世界史も必修になるはずである。
日本の古典芸能に触れさせる機会も増え、
歌舞伎や能・狂言、落語、祭、、、等々の映像を見せることも必須となる。
日本の地理や、さまざまな風土も教え、
この美しい国土を決して破壊しない方策を教えよう。
古典を受験科目から外す大学もほとんどなくなるはずである。
条文を素直に受け止める限りではいいことずくめと言っていいのである。

しかし、私が彼らに確認しておきたい幾つかの疑問について、
野党議員たちもしっかり質問して確認してくれた形跡がない。
それは、
「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」
というのは、

1 過去の日本の歴史を無条件に賛美することではない。
2 伝統的な天皇制度を復活し、天皇を愛するようになることではない。
3 過去の帝国主義的侵略戦争の罪を覆い隠し、賛美することではない。
4 「お国のために戦う」ことを教えることではない。
5 日の丸に敬礼し、君が代を大声で歌えと強要することではない。
6 どんな政府であっても批判することなく従順であることではない。

うーーん、、、まだ他にもあったような気がするが、
こういうことをきっちりと確認してからでないと採決はできないはずだ。
他の部分に「個人の尊厳」とか「豊かな人間性と創造性」という言葉が
残されているので、心配するような閉塞的状況はないはずだが。。。
しかし、実際に教育に携わる者としては、見逃せない問題だ。

さらに、「正義」とか「公共の精神」という語の意味についても、
明確にしてもらわなければいけない。
それらが、普遍的真理や個人の尊厳を損なうものでなく、
国民のわずかな一部の権力者の思惑に左右されるものでないことを。。。

だから、100時間費やしても、まともな論議はされてないのである。
それでも大急ぎで卑怯な法案成立に走るのは、
彼らが本当に真剣に考えているのが、実は教育ではなく、
武力装備の当たり前な国家作りに過ぎないからである。
まぁ、今後よほどのスキャンダルで自民党を打撃しない限り、
今会期中の教育基本法改悪は成就してしまうだろうけれど、
文言自体からはそれほど大きな問題が感じられない基本法をもとに、
どんな指導要領が作られるか楽しみだ、、、(`ε´)(`ε´)(`ε´)




2006年11月14日(火) 大ピンチ!!

朝起きたのが7時45分!!
いつもならもう出かけている時間である。
大急ぎで準備して、車を出発させたのが7時58分。
いつもならまもなく衝く時間である。
休日の朝なら最短記録16分で着いたこともあるが、平日の朝は無理。
相変わらず、ある信号では2回待たされ、いつもの渋滞もある。
しかし、平日の朝としてはわりと早く進むことができて、
朝の打ち合わせの寸前に職員室に入り込むことができた。

私は大体寝たら起きるべき時間まで熟睡するたちだが、
今朝は6時にいったん目が覚め、トイレに行った。
それほど眠くなかったのでそのまま起きていようとも思ったのだが、
寒いので体を温めてから起きようと、再びくるまって横になってしまった。
そのままあっさりと眠りに落ち、寝過ごしてしまったようだ。
目覚まし時計の呼び声にどう対処したのかはまったく覚えていない。

そんな風に始まった1日は、実はいつも通りの慌ただしさだったろうが、
格別に慌ただしく感じられた。
朝から3時間連続の授業と、昼からは出張である。

さっき、この塵語に来てみたら、昨日のが書いてなかった。
そんなはずはない! 何か書いてたはずだ、、、何だったっけか、、、
そうだ、のだめネタで書いたはずだ、、、でも、ない!!
おかしいなぁ、、、昨夜はそんなに酔っ払ってなかったはずだが。。。
きょうは、朝から不思議な、狐につままれてるようなことばっかしだ。

よくよく記憶を整理してみると、昨夜は確かに塵語を書いた。
それから、楽天ブックスに行って、娘がのだめの5巻まで買っていたので、
6巻から16巻までを注文したのだった。
それだけではキャンペーンの条件に合わなかったので、
あだち充の「クロスゲーム」の4・5巻と2作品も付け足した。。。
だいぶ記憶がはっきりしてきた。
ということは、書いたけれどもアップしないまま電源を切ったということだ。
約1年半、毎日更新を続けてきたが、ついに穴があいてしまったか。。。
ま、しょうがないね、、、またきょうからやり直しだーーぃ。

しかし、今夜のを書こうとしてログインしたら、
昨夜のは消えたのではなくて、草稿保存のまま残っていた。
また、今さらどうしようもないようなピンチをクリアできた。



2006年11月13日(月) 「のだめカンタービレ」Lesson 5

ドラマはきょうが第5話で、初めて最初から最後まで見た。
先週までは、途中で思い出したり、宵寝から目覚めてから見たりで、
部分的にしか見ていなかった。
先週の演奏会の場面がよかったし、千秋もちょっと人柄に変化があって、
熱くなる雰囲気が出てきたので、先の展開が楽しみになってきたのだ。

きょうはさらにおもしろく、着ぐるみを着てピアニカを吹くのだめを加え
ラプソディー・イン・ブルーを演奏するSオケの演奏も楽しかったし、
千秋のピアノソロでラフマニノフの2番の協奏曲の演奏会に至る過程も、
メッセージ性が強くなっていてよかった。
千秋以上に、のだめも大きな心機一転を迎えたようで、益々先が楽しみだ。

演奏する曲と真剣に向き合うこと。。。
ここ何年もの間、他校の練習を見に行ったり、多くの演奏を聞いたりして、
いつももどかしく思うのはこれだ。


コミックの方は残念ながら夜中になってからしか読めず、
そのころになると、もう肉眼では活字がほとんど読めなくなっているので、
虫眼鏡を使って呼んでいると疲れるから、少しずつしか読み進められない。
まだやっと3巻に入ったところだ。
ドラマで見落としたところをコミックで補うことができる。
ちょいちょい笑える漫画である。
以前、10何巻を一気に読んじゃったよー、という報告を相次いでもらった
時は、題名を聞いて、美しくロマンチックな物語だと早合点していた。
(何しろ、カンタービレ、だもんなぁ、、)
実はとんでもないギャグ漫画だったが、なかなか愛すべき作品である。



2006年11月12日(日) 22222

11111人目を自分で踏んでしまったので、
22222の時には気をつけようと思っていたが、
何とまたもや自分で踏んでしまったf^_^;
11111は去年の6月3日だったから、約1年半かぁ。。。

きょうはいくつかの雑感を。。。


タウンミーティングのやらせ質問の続報が新聞に少しずつ毎日載っていて、
きょうは、やらせをやっていた会が新たに3つわかったとかいう。。。
しかし、あの巨額の使途については今のところ新聞は問題にしていない。
やらせはあり得そうなこと、あの高額すぎる費用はあり得ないこと、
と思うんだがなぁ。。。


自民党の政調会長ともあろうお方が、核保有論議の必要性を言い出して
もう1カ月近くになるが、いまだに本人は正しいと思い込んでいるらしくて
それに対する批判やら擁護やらが続いている。
外務大臣や総理大臣まで彼の発言の擁護に回っているから呆れたものだ。
一般市民が言い出すのはわかる。
しかし、彼らはそういう意見が出てきたときに、
日本は唯一の被爆国として、世界に非核を訴えるべき国であること、
戦後になってからも「非核三原則」が決議された経緯などを
説明する立場であって、不安を煽り、波紋を広げる立場ではない。
先月、政調会長は「この機会に勉強したい」と殊勝な弁解をしていたが、
勉強は閣僚になる前にやっとけ!
平和意識の希薄な連中が政治家になり閣僚になり、まったく困ったものだ。
こういう揺さぶりをかけつつ、大衆の心を武装が必要というムードに
持っていこうとする腹か、、、安倍内閣の最終目標は憲法改悪だもんなぁ。
悪魔たちの集まりだから、油断ならんわ。


昨日、ある学校の吹奏楽部が分裂して崩壊寸前という話を聞かされた。
1週間ほど前の吹奏楽祭には出演し、それまでまとまっていたように見えた。
しかし、午前中に出演し、その午後に大喧嘩をして分裂状態らしい。
どんな喧嘩なのか詳しくは聞けなかったが、原因はホームページらしい。
最近は、生徒の中にサイトを運営しているのが何人かいて、
そこの掲示板を通じて、学校生活だけだったら起こり得なかったような
トラブルが数限りなく起こるのだと言う。
だから、昨日まで学校では仲良かった2人が、きょうは敵同士にもなりうる。
個人の画像を勝手にアップして中傷したり、というルール違反も横行し、
人間関係が一変するということもあるようだ。
こうした実情があるとすると、いじめ問題も多様化しているに違いない。

私は、学力低下だとか、生徒の無気力蔓延の原因は、
ゆとり教育や学校5日制のせいなどではなく、一方では受験偏重主義、
一方では、ゲーム機、ケータイやPCが侵略しすぎたからだと思っている。
確かに、それらは使いようによっては学習にも大いに資するものだが、
上手に使わないと征服され、魂も侵されかねないものである。
問題は増すばかりだが、歯止めをかける術はたぶんないだろう。


きょうは、1カ月ぶりの完全休養日だった。
片づけしたりネットサーフィンしたり授業の準備をしたりしているうちに
何となく時間が過ぎて、何ということもない休日だったが、
昼寝もできたし、まあ悪くない休養日だった、、、かな?



2006年11月11日(土) 記念日の乱立

平成11年の11月11日に、1が並ぶ日だと少々騒いだことを思い出した。
その年ではなかったかもしれないが、そのころ、
11月23日の結婚式のスピーチを頼まれていて、
たまたまその前日に「きょう11月22日はいい夫婦の日」というのを
ラジオで聞いて、招かれた結婚式がその日でなかったのを残念に思って、
しょうがないから11月23日にもつまらん語呂合わせをして
スピーチの枕にしたことも思い出した。

11月11日だったら、きっと何かの記念日になってるに違いないな、と
「11月11日 の日」で検索してみたら、なんとなんと、、、


世界平和記念日
退役軍人記念日(Veteran's Day) (アメリカ合衆国)
Remembrance Day (イギリス)
配線器具の日
電池の日
ジュエリーデー
ピーナッツの日
チーズの日
サッカーの日
くつしたの日,ペアーズディ,恋人達の日
おりがみの日
西陣の日
下駄の日
鮭の日
ポッキー&プリッツの日
もやしの日
煙突の日
きりたんぽの日
磁気の日
カリントウの日
ライターの日
国祭日 (アンゴラ)


これらを全部知っていて、それにちなんだお祝いをやってたら身が持たぬ。
ポッキーの日だからといってポッキーを1111本食べるわけにもいかぬ。
もちろん、私はこれらのひとつも知らなかった。
この内、最初の世界秘話記念日にはこんな説明があった。

「1918(大正7)年、ドイツとアメリカ合州国が停戦協定に調印し、
 4年あまり続いた第1次世界大戦が終結した。
 主戦場となったヨーロッパの各国では、この日を祝日としている」

語呂合わせを楽しんでいるだけではない、しかも、
儲けを増やす企みでもない、こういう歴史的意義のある記念日は、
誰にでもわかるようにちゃんとPRして常識にしてほしいものだ。




2006年11月10日(金) いじめ問題

いじめに遭っている子が先生や親にはっきりと救いを求めない、
これは何となくわかる気がする。
私はいじめに遭ったことがないのだが(どっちかというといじめる方だ)、
もしいじめられたとしても、親にも先生にも言わなかっただろうな、と思う。
ただでさえ屈辱に苛まれているのに、それを先生や親に話すのは
屈辱にだめ押しをするような感じがする。
また、先生に話すのは、告げ口をするようで、かえって後が恐い気がするし、
親には、話しても実際には何の効果もないような気がする。

生徒がいじめられてると訴えに来ても、担任は何もしなかったという例。
これも、非難するより前に、よくわかるような気がする。
自分が実際現場を目撃していない以上、慎重に対処するしかないのだ。
生徒のようすをあまり見ていなかったという点で批判の対象になるが、
自分が確認できてない以上、被害者から訴えられても動きづらいものである。

私が担任をする際に、長年心がけて来たことは、
しばしば教室に行くことである。
教員生活の最初が定時制で、とびきり荒くれなのと
とびきりひ弱でぼぉ〜〜としてるようなのが混在していたので、
なおさら神経質になったのかもしれない。
生徒に用事があるとか、後でこれこれの生徒と話をしなければ、という時も、
職員室に呼び出さずに、教室に出かける。
時には、教卓に忘れ物したようなフリをしたり、
掲示物を朝貼らずに、休み時間に貼りに出かけたり、
授業中の空き時間にも教室の様子を見に行ったりする。
「先公はいつどこに顔を出すかわからんなぁ」という雰囲気を作れば、
そうめったなことは起こらないだろうと思うし、
もちろん、おかしなことが起こっていないかを自分の目で点検するためだ。
ついでに生徒と話す機会も増えるし、意外ないい面も見えたりする。
面談の時には、いじめられそうなタイプの生徒には、
「楽しくやってるか」「いやなことはないか」「いじめはないか」などと
尋ねてみる。
定期考査後に、勉強の反省を書かせたりする際に、
最近困っていること、みたいな項目も与えたりした。

これで十分だとは、もちろん言わない。
幸い、いじめを理由に退学したり自殺したりする生徒はいなかったし、
いじめられて困っているという訴えも聞かずに済んだけれど、
実際に本当になかったのかどうかは知る術がない。
(証明問題でも、「ない」を立証することがもっとも難しいはずだ)
しかし、最低限これくらいのアンテナを立てることは必要だろう。



2006年11月09日(木) タウン・ミーティング?

へぇ〜、、そんなのやってたんだー。。。
「市民との対話」のためかぁ。。。
174回も? えっ? 岐阜でもやったの? いつ?
どうせやるならもっと派手に宣伝してもらわなくちゃ。
政府側の連中と正面から議論できるのなら、仕事休んででも飛んで行くぞ。
えっ? 小泉クンが始めたんだって? 
あの、聞く耳持たぬ小泉クンが? 何のために?

岐阜での開催も含め、4カ所の開催で、やらせ質問が発覚したようだ。
どれも教育問題の会らしくて、文科省や内閣府と教育委員会の協力で、
質問事項や質問する際の注意事項まで、市民に依頼・指示していたそうだ。
反対意見を言わせないためなのか、
政府側の意見を宣伝しやすくするためなのか、よくはわからないが、
そんなんだったら時間の無駄だ、意味無し。
いかにもポーズの人、小泉クンらしい企画である。
発覚したのは4カ所だけらしいが、発覚したのが4カ所というだけだろう。

それよりも、1回の開催費用が1100万円というのは、なぜ?
どこかの会館を借りて、市民を集めるだけでしょ?
我々もよく大ホールを借りてイヴェントを行うが、
少なくとも私が借りた限りでは付帯設備込みで20万にも至ったことがない。
名古屋の中心部では数十万になることもあるらしいが。。。
仮に会場費だけで100万円かかったにしても、後の1千万円は何だ?

高額なギャラのアーティストでも呼んでコンサートを付け足したのだろうか?
反対意見が出る時間を少なくするために。
まさかそんな企画付きでもないだろうに。。。
市民の声を聞き、対話する会にそんなものは必要ないはずである。
十分な対話時間を確保することが大切なはずだから。。。

ステージ上に並ぶ閣僚たちの交通費?
東京からもっとも遠いところで往復10万かかるとしても、
10人そこそこだったらせいぜい100万円である。
そんな土地は珍しいだろう。
東京ー岐阜だったら往復でも3万か、高く見積もっても4万で釣りが出る。

まさか、閣僚たちの1回のギャラが100万近いなんて、
そんな法外なギャラは考えられない。
彼らは企画側なんだから、報酬など必要ない。
じゃ、サクラの質問者への莫大な報酬なのかな?

5年間で174カ所。
1年間に約35カ所。
昨年度だけで、この猿芝居のような会に3億を注ぎ込んだわけだ。
もしも、それ以前もそれくらいの費用をかけていたのだとしたら、、、
財政難だからと、我々の給料もどんどん減らされているのだが、
こういうところには大盤振る舞いである。

しかし、これは、岐阜市の裏金問題以上に、使途不明金だ。
タウンミーティングの実際とともに、
この莫大な費用の使い道についても徹底解明してほしいものだ。
ま、すべて閣僚がポケットマネーを出しあったんだったら文句言わないけどね。。。



2006年11月08日(水) 生き物たちの知恵

昨日・一昨日見た「皇帝ペンギン」の余韻がまだ残っていた。
北海道で発生した恐怖の竜巻の報道に接しても、
一方で「デー・アフター・トゥモロー」の前兆かと不安を感じつつも、
猛吹雪の中で、身を寄せ合って寒さをしのぐペンギンたちに思いを馳せた。

生き物のドキュメンタリー番組を見るたびに驚かされる。
その不思議さに心打たれ、感動する。
身を守り、種を存続させるさまざまな工夫をさせるのは、どんな能力なのか?
また、そういう工夫を子に伝える方法は、
決して教育と学習と言えるほどのものではない。
繰り返し教え、学習するわけではないのに引き継がれる、
その能力はいったい何によるものなのだろうか?

皇帝ペンギンの場合だと、まず彼らは一定の時期に営巣地に集まる。
この地は、苛酷な条件は変わらないが、
地面となる氷の条件や外敵から身を守る点で、稀有な好条件なのだそうだ。
生まれたペンギンは、まだよちよち歩きの時から4年間海で生活するが、
大人になると、ちゃんとこの営巣地への行進に参加する。
そうして、配偶者を求め、出産・子育てに専念する。
我が子を無事出産し、守り育てる術もちゃんと心得ている。
オスは、妻がが産卵を終えてから食料を得る旅に出ることを知っているし、
妻が帰るまで、孵化して生まれた子を育てなければならぬことを知っている。
その努力たるや、敬服に値するものである。

特典映像では、アデリーペンギンの出産と子育てが描かれていた。
こちらは南極の春になると集まってくる。
皇帝ペンギンとは対照的に、暖かくなってから、山の上の岩場である。
そこで、小石を集めて巣を作る。
この小石集めにはかなりのご執心で、こっそり留守中に盗んだりもする。
この小石集めのおかげで、生まれた子を雪解け水に濡らさずに済むという。
配偶者を迎える前からオスが熱心にやっているこの小石集めも、
種の保存に欠かせない知恵だというわけだ。

こういうことを、彼らは言語を用いて論理的に考えたわけでもないし、
言語を用いてさんざん子どもに言い聞かせ教育したわけでもない。
なぜ彼らは、言語も理性・悟性もなしにこのような工夫を編み出し、
それを子々孫々に伝達することができるのだろうか?
こういう自然界の知恵の仕組みは、不思議だ。まったくもって、不思議だ。

人間は、言語・知性・理性・悟性、、、すばらしい能力を得た。
しかし、知恵は次第に退化しつつあるようだ。
さまざまな理屈をこねくり回し、自滅への道もたどりかねない。
いや、自滅にとどまればいい方で、知恵に満ちた自然界も破壊しかねない。自然界から見たら、人間ほど愚かな存在はないのかもしれない。



2006年11月07日(火) 「皇帝ペンギン」を見た

昨夜、映画「皇帝ペンギン」を見、今夜はそのメイキングと、
ドキュメンタリー「南極の春」を見た。
良質のドキュメンタリーからは目が離せなくなるのと同じで、
どれも目が離せない作品だった。

それで、映画の内容を要約しつつ、かなり入念な感想を書いていたのだが、
いきなりブラウザが落ちてしまって、全部消えてしまった。
泣きたい思いである。
立ち直れない、、、もう一度さっき書いたことを思い出して書くなんて、
そんなことはとてもできそうにない。。。
悔しいけど、簡単に要約しておこう。

映画は、皇帝ペンギンたちが、南極の夏の終わりに営巣地に向かい、
そこで、求愛・交尾・産卵をし、メスがオスに卵を託して餌を求める旅に出、
その間、オスは厳寒と空腹に耐えつつ、卵を守り続け、やがて孵化し、
なおも我が子を寒さと飢えから守っているうちに、メスが帰還して交代し、
オスは去り、子は次第に成長し、自立のための海の生活に入っていく、
そういうひと冬の営みを美しい映像で描いたものである。

自然の営みは不思議だ。
さまざまな知恵の詰まった複雑なプログラムを代々伝える遺伝子というのは、
いったいどういうものなんだろう?
人間が苦心して作ってきたコンピュータープログラムは、
とりあえずのところは命じられて働くに過ぎないが、
遺伝子は命じるものである。格が違う。

さっき書いていたこととはだいぶ違うが、もう遅いのでここまでにしよう。
とにかく、またいい映画が見れたなぁ、と喜んでいる。



2006年11月06日(月) 教育基本法問題

夕刊の立花隆の文章は、痒いところをかいてくれるような文章だ。
見出しからして、ズバリと核心を衝いている。

「基本法には普遍的価値  改正論の裏に国家主義」

その要旨はこんな感じだ。

今、さまざまな教育問題が浮かび上がり論議されているが、
それは「教育基本法改正」は「必要だ」という空気を作りたいからだろう。
しかし、それらの諸問題は教育基本法とは別次元の問題であり、
教育基本法を改めれば解決するというものではない。
教育基本法に書かれていることは、
人類社会が普遍的価値として認めるようになってきた事柄であって、
それをバタバタと深い議論もしないで改める理由がどうしても見出せない。
「改正」を急ぐのは、「憲法改正」を最大目標としている安倍内閣にとって
憲法と一体となってそれを支えている教育基本法が邪魔だからだろう。
しかし、教育基本法ができたのは、
戦前の日本では、教育が「教育勅語」に支配され、国家の手段になっていて
そのような国家目的の奴隷的状態から教育を解放するためであった。
教育の目的はそうではなく、ヒューマニズム、「人格主義」である。
つまりは、個人の尊厳であり、基本的人権であり、自由、平和である。
「国家主義者安倍首相は再び教育を国家への奉仕者に変えようとしている」


私自身もいつも書いていることだが、我々が忘れてならないのは、
憲法に書かれていることも教育基本法に書かれていることも、その基本は
人類のめざすべき普遍的価値であるということだ。
自民党の国家主義的政治家たちはいつも、日本人の手で作られたのではない
ことを理由に挙げるが、そんなことはまったく問題ではないのだ。
当時の日本人の中に、この憲法の精神で草案を作っていた人たちがいるとか
いないとか聞いたこともあるが、仮に日本人の手によるものでないにしても
かえってそれが幸いして、理想的で完成度の高い憲法になったと言うべきだ。
自民党が憲法を作ったりしたら、自民党政治に都合のよい憲法にするに
決まっている、、、彼らはいつも自分たちに都合のいいルールを作るから。

現在の教育の諸問題も、要するに、
民主主義とは何かを知らない政治家や官僚が教育を動かして来たからだ。
憲法や教育基本法のめざす価値を知らない連中が、
教育をぶっ潰し続けてきた結果なのである。
学校から民主主義を奪い、自由を奪い、友愛よりは競争原理をけしかけ、
あとから慌てて、ゆとりだの、形ばかりの主体性だの、
付け焼き刃のように対策を講じてかえってちぐはぐなものにし、
地方の教育委員会は、体裁のいいことばかり言うけれど、
結局のところは、受験競争で成果が上がる学校を評価し、優遇する。
要するに、教育基本法は長年に渡りないがしろにされてきて、
そのためにさまざまな問題を生むことになってしまったのだ。

自由民主党とは名ばかりで、彼らが民主主義や自由ということに
どれほど疎いかは、もういくらでも照明されている。
空疎な答弁、単独採決、強行採決、党議拘束。。。
彼らが「自由民主」なのは、自由経済競争を推進する点だけであろう。
これがまた、社会にとっても教育にとっても、大きな弊害のひとつなのだ。

真の愛国心教育というのは、国際紛争を解決する手段として武力を放棄、
という憲法の精神を徹底的に教えることである。
戦争の悲惨と、「我が国」だけでなく「世界」を愛することを教えることだ。
「我が国」をことさらに愛すれば、いずれ国土を損ない、
国民を不幸にすることを教えることである。
現在の憲法や教育基本法をしっかり教育することが愛国心教育になるのだ。

憲法や教育基本法を書き換えるよりも、ちゃんとあの精神に立ち返って、
国政や教育政策を見直して欲しいんだけどなー、、、
何であんな連中に、国民の多数が政治を任せたがるのか、全然わからん。



2006年11月05日(日) 心地よい緊張の時間

きょうは昼から市吹の演奏に出かけた。
昨日・一昨日と、もどかしい思いで20以上の団体の演奏を耳にし、
ウズウズしていたのを、きょう発散する形になった。

出番は、進行表上は15分だが、いつも最後なので軽視している。
今回は「ゲド戦記」と「パイレーツ・オブ・カリビアン」の、
どちらもメドレーで20分ちょっとかかる曲目になった。

例年はこの行事では、ノリのいいポップスや演歌・民謡・懐メロ系で、
どちらかというと受け狙いで選曲するのだが、
今回は団長の要望や、出演できる団員の都合も考慮して、
この、話題性はあるし、刺激的な音楽ではあるけれど、
どちらかといえば地味で渋い曲調の、少々お堅い曲目にしたのだった。
だから、例年ほど気楽に振れなかった。

春に「パイレーツ・オブ・カリビアン」を選んだときも、
夏に「ゲド戦記」の編曲を始めたときも、これほど緊張を強いる曲とは
思っていなかった。
比較的気楽な曲目のつもりだった。
しかし、私は途中で疲れてしまった。
定演では、これより密度の濃い2曲を含め、あと6曲もあるわけだ。
不安になってしまった。

しかし、そんな緊張の時間の中に身を委ねるのが、何ともいえぬ快感である。
あの緊迫したひとときは、他の誰にも味わえないものなのだ。
しかも、最後に向かうにしたがってへたばるのでなく、
より完璧に、緊張を高めなければならないという私の要求に、
団員たちはちゃんと応えてくれる。
本当にかわいい団員たちである。
週にたった1時間半という練習では、実に厳しい要求であるはずなのに。


帰ってから、夕方、明日のための仕事をする余力はまだあった。
意外と元気だな、と自分でも驚いた。
しかし、結局宵寝をしてしまった。
ちょっとだけ横になったら、そのまま瞬時に意識を失ったようだ。
いつもの宵寝よりうんと長く、4時間近い宵寝である。
目を覚ました時には、もう午前0時を過ぎていた。
何とか、明け方の4時ごろまで眠れないかと試みたが、もうダメだった。
いったん起きて寝直すしかない、、、と今は夜中の3時である。
あまりよろしくない週明けになりそうだ。



2006年11月04日(土) ハードな3連休

予想以上に疲れた。
予め分担で決められている仕事以外にも、次々と仕事が発生するものだ。
例年、吹奏楽祭2日目と市吹の出番の市民音楽祭が重なるので、
2日目の午後は吹奏楽祭を抜けて、市吹の棒振りに出かけ、
一石二鳥的な省エネスケジュールとなっていたのだが、
今回はきょうまでが吹奏楽祭で、明日が市民音楽祭と、3日がかりである。
まだ明日もあるという思いが、ますます疲労を深くする。
明日は昼から出かければいいということだけが救いだ。

しかし、疲れたので、きょうはこれだけである、、、バタッ_(_ _)_



2006年11月03日(金) バッハ

久々に私の部屋にバッハの音楽が流れている。
iTune ストアで、諏訪内晶子とヨーロッパ室内管弦楽団の
ヴァイオリン協奏曲集を買ったのだ。
諏訪内晶子が指揮とソリストを兼ねている。

古楽器ではないはずだが、古楽器楽団のような味わいである。
久々なだけに、やはり心洗われるような音楽だなぁと痛感する。
美しいメロディー、高雅な響き、そこはかとない抒情。。。
また「ゴールドベルク変奏曲」や受難曲を聞きたくなった。



2006年11月02日(木) 映画「博士の愛した数式」を見た

きょうもくったくたで帰った。
1時間目が授業、2時間目は雑用片づけるのに追われ、3、4時間目が授業、
5、6時間目は救急講習会の監督で体育館で立ちっぱなし、
その合間に非常勤講師に渡すプリントの用意に職員室に戻ったら、
視聴覚室のテレビが映らないと訴える人がいて、4階に走り、、、
業後は学年会議、その後指定校推薦を受ける生徒の面接練習指導。。。
6時過ぎまでフル活動である。
明日も明後日も休みでなく、吹奏楽祭の仕事である。
ずっと休日を潰している者には情状酌量があってもいいものだと思うが、
残念ながら、そういうことは不問にして、これについてはこの立場で、
あれについてはあの立場で、何もかも平等に分配される。
酷な世界だなぁと思うけれど、何ともしょうがない。
さらに、日曜日は、仕事ではないけれど、市吹の出番がある。
もういい加減疲れているが、3連休は少しもゆっくりできないし、
来週の土曜日も仕事が入っている。

いつ安らげるのだろうと思ったりしたものだったが。。。

今夜ありがたい思いがしたのは、明日を憂う必要がなかったことである。
明日は、吹奏楽祭の会場に行って、その場で必要な仕事をすればいい。
準備することも考えておくことも何もない。
とりあえず、今夜は何も心配せずのんびり好きなことができる。
こんな夜はめったにない。

それなら何か映画を見ようと、買ったけれどまだ見ていないDVDを眺め、
取り出したのが「博士の愛した数式」だった。
原作がたいへん気に入ったので買っておいたのだが、
実は、見るのがちょっと億劫な感じでそのままになっていたのだ。
原作からしてかなり静かな情緒をたたえた作品である。
冗漫でまだるっこい、途中でため息をつきたくなるような映画ではないかと。

しかし、とてもいい映画だった。
美しい映像のおかげで、原作の小説よりも詩情が漂っていたと思う。
ラストもよかったなぁ。。。
じんわりとエンディングに涙ぐませてくれる映画だった。
最近の積もり積もった疲労と鬱憤を忘れた。
1日休みをもらって漫然と過ごしても、これほどの安らぎは得られまい。

映画は、ルート少年が成長して数学の教師となっていて、
そのルート先生の1年間の最初の授業として展開する。
なぜ自分はルートと呼ばれ、数学の教師になったか、
その説明として博士と過ごした時間を語る、という回想的な構成である。
折々に回想から現代に戻ってその授業風景が映される。
回想部分の博士の教える数学を説明し直すのだが、
このルート先生の数学の授業にも引き込まれてしまった。

いい時間が過ごせたなぁ、、という思いは、疲労からも被害妄想からも
解放してくれる。
さぁ、明日からまた頑張るぞ、という思いにしてくれる。
そうして、この原作も映画も、また数学の勉強をしたいな、
という思いにさせてくれる。(結局、そんな余裕はないんだけどね、、)



2006年11月01日(水) これも、ある昔話

きょうは1時間目のLTの時間に、教室に行かなくてもいい1年の副担任は
体育館の椅子片づけとシート巻きで、腰を痛めた。
それから4つの授業で、何度階段を上り下りしたことか。。。
しかも運悪く夕方の戸締まり当番で、校舎の窓の点検に回ったころの
つらかったことといったら。。。
まー、ホントに酷使されとるわなぁ。。。
というわけで、久々に2時間余も宵寝をして起きてきたところである。


さて、起きてから、書きたいことはぐるぐる頭の中をめぐったけれど、
書き始めたらどれも膨大な長さと、めんどうな前置きが必要な気がして、
ついつい怯んでしまってなかなか書き始められず、虚しく時間が過ぎた。
もうそろそろ寝た方がいい時間が近づいている。
そのぐるぐる巡っていた中の、ちょっとしたエピソードをひとつ。。。

教員になって2年間は定時制だったが、3年目に全日制に転勤した。
転勤していきなり2年生の担任を任された。
今までになかった定員割れの学年で、たいへんな生徒もいたが、
荒れまくって自殺した教員もいたほどの定時制の後だから、
その点では何ということもなかった。
今までの教員生活の中で、このころの生徒が最もかわいく懐かしいほどだ。
問題児たちは、確かに横着な暴れん坊であったけれど、
昨今我々を悩ませている、怠け者で自分勝手な悪坊主ではなかった。
エネルギーの捌け口が管理的な学校環境と合わなかっただけで、
その証拠に、学校行事となると、担任以上に指導力を発揮してくれたのだ。
だから、’03年の6月4、5日に書いたような難業を、
彼らのためにやってやりたいという思いにもなれたのである。

私にとっての問題児は、むしろ優秀な生徒の中にいたようだ。
成績優秀者を集めた選抜クラスの授業も持ったが、
その中の2人ほどの女子生徒が、前年の教科担任に苦情を言ったそうである。
1時間に和歌2つしか進まない。。。
受験に向けての不安を訴えたそうである。

1時間に和歌2つしか進まないというのが、どの授業をさしているのかは
すぐにわかった。
万葉集の、額田王と大海人皇子の「相聞歌」である。
  茜さす 紫野行き 標野行き、、、
  紫の にほへる妹を 憎くあらば、、、
これは、教材としてもっともおもしろいもののひとつなのだ。
音楽的(韻律的)なおもしろさや、文法的なおもしろさだけだはない。
歴史的背景を踏まえて、恋歌と読んでもおもしろいし、
儀礼的な戯れと読んでもおもしろい。
1時間でまとめてしまうのも惜しいほどの教材なのだ。

あのころは本当によくいろんな話をした。
哲学史や当時の社会問題についても、教材と関連して熱弁した。
生徒たちとは、概して良好な関係にあったと思う。
標本質に陣取った私の机のそばに、業後勉強しに来る生徒もいた。

相変わらず不満を他の教員にもらしていたのが、
愛教大を志望する2人のあの女子生徒たちだったようだ。
私は、受験に必要なことをあまり教えてくれないという汚名を負ったのだ。
彼女らは、こんな教科担任にめぐり会ったにもかかわらず、
結局は志望校に合格し入学した。
愛教大といえば。将来小・中学校の教員をめざす者が行く大学である。
私は、彼女らの野望の邪魔にならなかったこtにほっとしたけれど、
祝福する気にはなれなかった。
こんな偏狭な学習観を持ったやつに教員になって欲しくはないものだ。


 < 過去  INDEX  未来 >


TENSEI [MAIL]