TENSEI塵語

2004年12月31日(金) 1年をふり返る

起きたら初雪が降っていた。
ゴミ袋4つ出す間に、初雪の洗礼を受けた。

昨夜は、「24」を見終わって、この塵語を書いていたら、睡魔に襲われた。
ただでさえ書きにくい。
これから見る人のために(はっきり特定できるのは橋本さんだ)、
あまり内容を明かすわけにはいかない。
驚きの展開であればあるほど書きたくなるが書いてはいけない。
それだけでなく、昨日は台所とトイレと風呂の掃除にかなりの労力を使った。
そんなわけで、ぐずぐずと書いているうちに、疲労に負けたようだ。
それで、今朝、昨日の分に少し書き足しておいた。

「24」の1作目を見たのは去年だと思いこんでいたけれど、今年2月だ。
season 2は5月だった。
この寿命を縮めるドラマを1年に3つも見てはいけない、危険だ。

「冬ソナ」を見ていたのは4月から5月にかけてだった。
これもまた極度に夢中にさせてくれた。
しかし、私などまったく相手にならないほどの熱狂的ファンが、
今なお増殖中である。
「冬ソナ」をきっかけに、文化交流が進み、経済にも異変をもたらし、
自然な心からの友好的雰囲気が漂いつつあるが、
政府もそれに乗じてアジア諸国との友好を推進するわけでないのが残念だ。

「冬ソナ」を見始めたきっかけは、
たまたまTVのチャンネルを変えている途中に出くわした結果で、
その時私が熱心に探していたのは、イラク人質事件の報道であった。
今年は自衛隊本格派遣に始まり、日本の平和主義への不安を抱いていたら、
4月の人質事件で、その不安はますます大きくなってしまった。
あれ以来、可能なはずだった支援活動がどれだけ損なわれたことだろう。
あれで明らかになったのは、戦争協力以外眼中にないという首相方針だ。

本もまぁまぁよく読めた。
8月の「ダ・ヴィンチ・コード」が白眉だった。
「24」並みのハラハラドキドキだけでなく精神的にも大変革をもたらした。
長年のキリスト教への漠とした疑問を整理するきっかけになったからである。
3、4冊ほど参考文献を取り寄せたが、まだ1冊半ほどしか読んでない。
来年はがんばってまとめてみたいものである。

それにしても、11月に読んだ「電車男」は画期的な本だった。
自然発生的に生まれながら、笑いと感動に満たされていた。
しかし、こういう作品(?)が今後も作られるとは思われない。
その前後に読んでいた村上春樹をこれから読み続けていきたいものである。
かつてそう思った時期はいろいろ忙しくて、そのまま忘れてしまった。
「アフター・ダーク」がいいきっかけになった。

ホームシアターの設備も安価で整えたし、
ビデオ録画をやめるべく、HDやDVDに録画できる環境も整えた。

こういうことも、要は、さまざまな点で図太くなったということだろう。
心のゆとりを得るためには、さまざまな懸念を切り捨てる図太さが必要だ。





2004年12月30日(木) 長い1日が終わった

「24 season 3」を見終わった。
すばらしい24時間(正味18時間)だった。
緊張の連続である。
1時間分が終わってその回のエンドタイトルが流れるたびに、
こみかみのあたりからすーーーっと下りて行く感触がある。
作り物だとわかっているし、ストーリー展開が作為に満ちていることも、
よくわかってるつもりなのに、ついつい引き込まれてしまう。
これはストーリーのおもしろさだけでなく、
出演者たちの演技力やカメラワークの功績でもあるだろう。
それに、我々は、もうあのシリーズの暗示にかかってしまっているのだ。
本当でどこで何が起こるかわからないという。。。

事件が解決しても、決して手放しで喜べないことがいくつも残っている。
今回の結末は、そういう意味では前の2作よりうまく描かれていた。


今回の中心事件は、生物兵器によるバイオテロである。
前作の核兵器以上に不気味さと緊張を伴う。
前作からテロとの闘いの様相を呈しているが、
一方的にテロ行為を憎むようには描かれていない。
一ホテルにウィルスをまき、その犠牲的効果を見せつけた後、
朝の7時過ぎに、首謀者サンダースは大統領を次のように脅迫する。

「米国を高潔な国にもどす。
 大統領、世界が米国を憎んでいる。
 米国の残虐行為は私が説明するまでもない。
 だが、我々がそれを変える、あなたと私で。。。
 世界を蹂躙するこの国の軍事機構を解体する。
「どう解体する?」
「私の知るもっとも汚れた所から始める。
 中東からアジアまで32カ国にいる諜報員だ。
 米国に雇われたA〜H級の諜報員だよ。
「彼らはその国の市民だ」
「スパイだ。
 米国の軍事機構の命令で、故国をうらぎっている。
 45分以内に、彼らの名簿を、次のウェブサイトに送れ」



2004年12月29日(水) 18時間経過

午後1時に始まった物語が、午前7時になった。
見続けるのがつらい。もういやだ。そんなに見る者を苦しめないでくれぃ、、
という思いで、それでも見続けずにいられなかった。
あと6時間だ、、、しかし、長い、長ーい6時間だ。
今夜はもう眠らなくては。。。



2004年12月28日(火) 「24 season 3」を見始める

1週間ほど前に届いていたが、夢中になるのを恐れて我慢していた。
今夜は明日のことを考える必要もないので、年賀状を作りかけたけれど、
途中でイヤになって、「24」を見始めた。
最初の1時間で早くも疲れてしまった。
今、第2話を見終えたところである。
本当に、このドラマの緊迫感は度が過ぎている。

・・・・・・・・・・・・・。

何か書いておこうと思ったけれど、誘惑に負けて第6話まで見てしまった。
3作目になって、ますます密度の濃いドラマになっているようだ。
そして、大きな謎が示されたところだし、どうなって行くか不可解だし、
キムが危機に立たされているし、続けて見たいのだけれど、もう体力も限界である。



2004年12月27日(月) 襲いかかる死

昨日インド洋の海底で大地震があり、津波に襲われた死者の数が、
今夜の夕刊の報道では12000人以上に昇っていた。
戦争でもテロでも日本の天災でも、めったに聞くことのできない数である。

地震でも台風でも、交通事故でも通り魔事件でも強盗殺人事件でも、
このような類のどんな報道に接したときでもそうだが、
こういう突然の災難で命を奪われるときの思いというのはどんなものかと、
気が遠くなるほどの計り知れなさに襲われる。

職員室で新聞を眺めていたら、同じ国語科のB氏が通りかかって、
去年のちょうど今ごろプーケット島で泳いでいたのだとしみじみ言った。
彼は、去年2年生の担任で、来年は行けそうもないからとむりやり旅に出た。
もし彼が去年1年生の担当だったら、今年出かけていたのかもしれない。
そして、我々は彼の安否にハラハラしていたのかもしれない。

どんな報道に接しても、遠い話に思われる。
確かに、50年近く生きてきても生死の境というほどの体験が思い出せない。
けれども、私が気づかなかっただけで、ひょっとしたら、
ある物体から2、3センチ離れていただけで死を免れたのかもしれないし、
ほんの2、3秒の違いで、死に襲われずに済んだだけなのかもしれない。

今回の12000人以上の犠牲者のほとんども、
自分に死が近いなどと考えもしていなかっただろう。
死は遠い将来にきっと来るだろうということは知っていても、
楽しみの時間のさなかに突然訪れるなどとはまったく予想もできないはずだ。



2004年12月26日(日) 休日が遠い

日曜日だけれど、午前中は成績不振者の補充授業に出勤し、
午後はT高校との合同練習に部活の生徒を連れて行き、練習を見た。
冬休みに入ってから仕事納めの28日までの間に休日が多いので、
この土日に補習授業や補充授業を入れている学校が少なくないようだ。

今夜の疲れは昨夜よりも深い。

またまた、サラちゃんのDVDに癒される。
奇跡の歌声、奇跡の歌唱を実感して、思わず涙ぐんでしまう。
この時代に生まれてよかったと、つくづく感動してしまう。



2004年12月25日(土) アンサンブルコンテスト

毎年同じことである。
とにかくくたくたである。
しかもきょうは土曜日だから市吹の練習もあった。
もう吹奏楽の音は聞きたくないし、話すのも億劫に思いつつ、
コンビニでパンを買ってそれをかじりつつ運転して市吹の練習に行った。
ま、こんなのも、こういう活動をしている醍醐味かもしれない。
疲労は深いが、心地よい疲れだとも言える。

クリスマスの日でも、遊ぶことばかり考えないで、
(もっとも、クリスマスはべつに遊ぶための日ではないけれど、、)
64チーム、320人ほどの高校生が参加した。
ここ3年ほどはこれぐらいの参加者である。
実にうれしいことだ。
身体は疲れても、心は何となく軽い感じである。




2004年12月24日(金) セカチューを読んだ

当面の仕事が午前中に終わったので、午後図書館で少しだけ読み始めていた
「世界の中心で、愛をさけぶ」を読み終えた。
帯のコピーが邪魔だ。
「泣きながら一気に読みました」???
私も涙もろい方だとは思うけれど、ぜーんぜん泣けなかった。
泣けるだけの要素はあると思うのだけれど、泣けるという感じからは遠い。
つまらないわけではなく、興味深く読み進めるのだけれど、泣けない。

その理由をあれこれ考えてみるに、
朔と亜紀の存在感が今ひとつ薄い感じがするせいかもしれない。
これは作家の表現力の問題なのか、読む側の好みの問題なのか、
例えば最近読んでいた「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」や
「ノルウェイの森」など、私には、現実にはそうお目にかかれないような
女性たちが、やけに現実的に、触れられそうな近くに現れているように
思われるのである。
しかし、朔と亜紀については、ヴェールの向こうの舞台で、
類型的な演技をしているような感じを受け続けていた。
亜紀は朔に恋しているらしいが、その割にはさりげなさ過ぎる、
そのさりげなさは一種の魅力であると同時に、
愛しつつ死に別れなければならない運命をもさりげないものにしていないか?
まず、このヒロインの亜紀が、映像的にも心情的にも存在が希薄である。
では、最初から最後まで「ぼく」として語り続けている朔はどうか。。。

もうひとつの理由として、読みながら強く思ったのは、
情に訴えて泣かせるには、朔が理屈っぽ過ぎるということであった。
この作者は、悲しい物語で人々を泣かせようとは思っていないのではないか。
むしろ、この人は、愛するものの死をめぐる思い、というものを
書きたかったのではないだろうか。。。
それは、祖父の昔の恋人の骨を2人で墓から盗み出したころから、
祖父との死についての問答をする中で深められているようだ。
泣くことは期待せず、泣くために読むのでなく、
そういう観点でこの作品を読んだ方がおもしろそうだ。
だから、この帯の言葉は邪魔だ。
ついでに言うと、長ったらしいタイトルも何かしっくり来ない感じである。



2004年12月23日(木) ゆとり教育

あれは何日前だったか、、、1週間ほどまえだったろうか、、、
国際学力試験とやらで、日本の小・中学生の結果が思わしくなくて、
学力低下が問題視され、その原因をゆとり教育のせいであるかのように
報道していたのは。。。
現文科相が、ゆとり教育の敗北とか見直しとかTVで話していたが。。。

週休2日にして教科書の内容を削減した、それを「ゆとり教育」と呼んだ。
子どもたちにとって、休日が増え、教わる内容が減ったのだから、
子どもたちにとっては確かに時間的なゆとりがもたらされたと言える。
しかし、教育全体にとっては、決してゆとりなどもたらされなかった。
週5日間の密度は基本的に変わらない、いや、寧ろ過密になった。
学校行事の設定や、その準備も、実に窮屈になった。
その上、授業時間の確保ということにますます厳格になるだけでなく、
1日あたりの授業時数を増やす学校も多かった。

話を義務教育の方に戻そう。
週休2日にし、教科書の内容を削減したところで、
決められた時間内に計画的に授業を進めなければならないことは変わらない。
学校行事やその準備で授業がつぶれても、
残った時間で駆け足でノルマを果たさなければならない。
わからない子がいても放っておいて先に進まなければならない。
小学校など、ほとんど1クラスあたり1人の教員しかいないから、
膨大な雑務を抱えているし、物騒な世の中になって一斉下校が増えたから、
居残り学習もままならない。
授業中など、30余〜40人の生徒に教員ひとりでは、
授業中に、理解の遅れた子どものケアなどできるものではない。
ただでさえ、落ち着きのない子どもが増えていて、
授業を何とか進めるのが精一杯という状況も少なくない。

妻の勤める小学校では、1〜2人の自閉症児を含んだクラスがいくつかあり、
症状が出たときには、もう授業どころではなくなってしまうそうだ。
教育委員会が専門医と共に視察に来て、相談にのる日が年に1回あるが、
必要なのは相談でも視察でもなく、
その子にかかわっている間、クラスを見ていられるだけの要員だという。
自閉症児でなくても、最近はキレやすい子どもが多い。
暴れたりわめいたりするのをなだめなければならないし、
帰っていこうとする子どもを追いかけなければならない。
その間、授業も他の子どもたちも放っておかなければならない、
助っ人となるべき余分な人員がないからである。

「ゆとり教育」と呼んではいたものの、見かけの時間的なものに過ぎず、
きわめて表面的なゆとりでしかないのだ。
質的には何らゆとりはない、いや、むしろ質的には窮屈になる一方だ。
絶対評価に伴う観点別評価だの、学校評価制だの教員評価制度だの、
くだらん指示がいっぱい降りて来るではないか。
肝心なことはまったくできないくせに、些末な間違ったことばかり、
教育現場に押しつけているではないか。
その一方で子どもたちは、ますますゲームや漫画やTVにのめり込んで
時間的なゆとりを満喫するか、
将来の実利的な学力を求めて、詰め込み塾に通わされるか、、、である。
まあ、子どもたちの学校離れ的要素を周到に準備したようなものでもある。

私はもともと、教員の週休2日には賛成でも、
現状の学校制度のまま、子どもたちまで週休2日にすることには反対だった。
けれども、土曜日の授業を残したままで教員だけ週休2日にするのは、
高校では可能であっても、小・中学校では不可能に思われた。
週休2日が教員だけにしろ、子どもたちもそうするにしろ、
いずれにしても、まずは教員数を増やさなければどうしようもないと思った。

ゆとり教育の第1歩は、教員を増やすことである。
小学校の教員定数は、あらゆる点で無謀な少なさである。
クラス数の1.5倍から2倍の教員数にするだけでなく、
1クラスの生徒数を20人以下にすべきであろう。
莫大な増員で、莫大な費用になるだろうが、断行してもらわなければ、、、
そして、小学校の3年生からは教科担任制にすべきである。

質的なゆとり教育であれば、学力低下は引き起こさない。
けれども、ケチケチ教育政策者たちにはこんな頭はない。
あんなものを「ゆとり教育」と信じて、敵視し、見直すなどと言っているが、
さて、いったい今後何を言い出すのやら、、、?



2004年12月22日(水) 「ハウルの動く城」

なかなか見に行ける日がなさそうなのに、
一昨日アニメコミックの1巻を読んだらますます見に行きたくなって、
今夜仕事から帰ってから家族を車に乗せて見に出かけた。
朝からめまぐるしく忙しい1日で、映画館の座席に座ったら力が抜けて
体からじわじわ眠気が広がるような感じがしたが、
ハウルが始まると夢中になり、あっという間に2時間が過ぎた。

とにかくもう、脇キャラがかわいい。
火の悪魔カウシファーなどは絶品で、「千」の坊ネズミ級のかわいさである。
目つきのすわった不愉快そうな顔つきの犬も、やることがかわいい。
喜ぶときもその表情なのが笑える。
ハウルの弟子のマルクルも、原作よりもさらに子どもっぽい。
それが、客の応対や買い物に出るときは、長いひげをつけて老人を装い、
「待たれよ」などと言ったりしている。
恐るべき荒野の魔女さえ、魔法の力を奪われ、
単なる老婆となってからは、かわいいキャラクターになってしまう。

原作ともっとも違っているのは、ハウルが国王に呼ばれる理由である。
原作ではたしか行方不明になった王子を探すために呼ばれたはずだが、
この映画では、戦争の協力のために呼ばれる。
そうして、戦争批判的発言も聞かれる。
「サリマンの魔法でこの城には当たらない。けれども、それが街に落ちる」
のような言葉である。

                       



2004年12月20日(月) 保護者会

保護者会3日間のうちの2日が終わった。
クラス35人のうち、ひとりは両親が亡くなり、ひとりは事前に済んでいて、
ひとりは不登校で休学に入ったから、32人が対象で、
そのうちの24人が金曜ときょうの2日間で終わった。
明日は8人だけだからかなりラクである。

いつの世もだいたい、のんきな子に親がやきもきするという構図は
変わらないようである。
私のように、短絡的でいい加減な親にはめったに出会うことがない。

私は娘の中学時代に、娘の勉強意欲には見切りをつけた。
だから、中三のころには、親の第一希望は家事手伝い、とまじめに宣言した。
けれども娘は家事専業はさすがにイヤらしくて、高校進学を希望した。
成績はオール3程度で、地元の数校の公立高校には入れそうにない。
近いところには私学が2校ある。
その中の、カトリック系の高校に推薦してもらうことにした。
私学に入れるなら、公立と大差ない私学に入れてはつまらないからである。
娘は淡々とその学校に通い、皆勤した。
成績も、中の上か上の下あたりをいつも維持していたが、
普段はのんびりやっているので、大学進学などは私は考えていなかった。
今度こそ、家事手伝いで親を助けてくれるかな? と思っていたら、
やはり大学に行きたいという。
行くとこなんてないじゃん、と思ったら、
この高校は同じカトリック系の南山大の推薦枠を多く持っていて、
上位者がそちらを狙うので、娘には淑徳大の推薦が転がってきたのである。
普通の高校に行っていたらありえない不思議である。
で、娘は今は淡々と大学に通っている。

その娘の保護者会の折り、担任の先生に、第一希望は家事手伝いと言ったら、
「おとうさん、家事手伝いだけはやめときましょ」と笑われたものだ。
私には切なる願いでも、世間では常識はずれな願いだったようだ。
しかし、もしも私が娘に、大学には絶対行け、このレベルの学校に行け、と
躍起になっていたら、娘は家事手伝いするしかなくなっていたかもしれない。



2004年12月16日(木) 多岐亡羊的低迷

ここ2、3日間取り組んでいたことは、DVDコピーの可能性について、
居間のDVDレコーダーの不具合への対処、菜々子さまの「ひまわり」鑑賞、
とまぁ、そんなところだ。
昨夜は楽天ブックスでの買い物にも少なからぬ時間を費やしていた。
高尚なる思索からはほど遠い生活ぶりだ。
新聞を読む暇もないし、TVも「ラストクリスマス」を見たきりだから、
ニュースも見ていない。
こんなことではいけないのだが、こんなことでもひとつひとつ片づけないと、
意識がすっきりと新しい地平に向いて行かない。



2004年12月14日(火) スパイダーマン2

前作以上におもしろかった。
敵キャラも、前作よりは子ども映画っぽくなかった。
アクションシーンは見ていてホントにスカッとする感じだ。
ヒロインのメリー・ジェーンがちっとも美人じゃないのに、
メリー・ジェーンを愛し続けるパーカーをばーかーと思うこともなく、
自然と2人の恋を応援してしまった。
メリー・ジェーンの喜びの笑顔も、何かホッとさせる笑顔に見える。

まあまあよくできた、現代のおとぎ話って感じだ。
それだけに、妙なところもしばしば。。。
細かいことはさておくとして、
蜘蛛に刺されただけで否応なく超人的能力を発揮させられた男が、
普通の人間でありたいと思ったためにその能力を失うところとか、
ハリーが、詳しい事情も知らないまま、父の仇をスパイダーマンと
思って復讐を誓っているところなどは、根本的に「?}の部分だ。



2004年12月13日(月) 「ラストクリスマス」

「スパイダーマン2」を見始めて、2本の電話にそれを妨げられて、
ふと気がついて「スパイダーマン2」を見るのを中断した。
きょうは9時からドラマを見る日だった。
今、見続けている連ドラは、この「ラストクリスマス」だけである。
菜々子さまのドラマに出ていたときには、どんなに可愛く振る舞っても
パッとしなかった(ように私には見えた)矢田亜希子が輝いている。
そのドラマで演じる由季の言うこと為すこと、惚れずにおれない感じである。

その由季が、5年前手術に成功した病気の再発で、
きょうの第10話では入院するところから始まり、今集中治療室にいる。
今までの展開の仕方といい、タイトルの〈ラスト〉クリスマスといい、
どう考えても、来週は由季の死の場面に我々は直面しそうである。
見たくない、、、しかし、見ずにはいられないだろう。
由季にどんな運命が待っていようと、どうか悲劇にはしないでくれぃ。。。



2004年12月12日(日) スパイダーマン

「スパイダーマン」を見てみたが、確かにおもしろい、、、というより、
動きがかっこよすぎる。
蜘蛛の巣というか蜘蛛の糸をプシュッと出しては、めまぐるしく移動する。
まったく速さがゆるむこともなく、ヒュンヒュンと移動する。
時には、両手から発射した2束の糸で吊り輪の選手のように3回転ほどして
勢いをつけて飛んだり、パチンコのような力を利用して飛んだりする。
その一連の動きが実に優雅で華麗で、痛快である。
そうかと思うと、壁にピタッと張りついてビルの壁も這い上る。
そうして、市民を救い、犯罪者をやっつけるというわけだ。

よくできていると感心できるのはそこだけだ。
いや、それともうひとつ、逆さにぶら下がったスパイダーマンと、
ピーター(スパイダーマンの正体)が子どものころから愛し続けている
メリー・ジェーンとのキスシーンも、なかなかの展開である。
逆さまでのキスという稀有な構図だけでなく、
メリー・ジェーンは、ピーターとは知らずにスパイダーマンにキスをし、
ピーターは、正体を告げずにスパイダーマンとしてキスを受ける、という
微妙な心理の交錯が感じられる場面でもあるからだ。


ま、そんなところである。
どうもいただけないのが、科学者オズボーンの凶悪な人格の場面の、
グリーン・ゴブリンの存在である。
こういう対等な敵の存在というのは不可欠の要素なのだろうか?
グリーン・ゴブリンのせいで、きわめて子どもっぽい映画になってしまった。



2004年12月11日(土) 総文祭

正式名称は、愛知県高等学校総合文化祭である。
夏休みには、文化部の各専門部からの代表が名古屋の会場に集まって
文字通りの総合文化祭典を催しているのだが、
その後今くらいの時期までに、専門部ごとの大会を行うのである。
その吹奏楽専門部大会が、きょう鶴舞の愛知県勤労会館であった。
これは、高等学校文化連盟(高文連)の行事である。
去年までずっとこの地区の委員をやっていたひとが、
吹奏楽連盟の県の理事長になってしまったので、今年から私に代わった。
だから、きょうの大会に役員として出かけるのは初めてである。
きょうは気楽な役員だが、来年は担当が私の地区になって
私があれこれ仕切らなきゃいけなくなりそうなので、
朝も定刻にしっかり着いてまじめに参加してみた。

そんな中でふと気づいたのだが、いくつ兼任してるんだ?
吹奏楽連盟  支部理事(コンクール担当)
吹奏楽連盟  県事務局(コンクール担当)
高文連    支部委員
吹奏楽協議会 理事(混成バンド担当)

同じ吹奏楽のことばかりなので、あれこれ手を出している気がしないだけで、
これは要するに、合わせて9日分のイヴェントの運営に多かれ少なかれ
関わって1年間を過ごしているということだ。



2004年12月07日(火) 「愛の群像」見終わる

見始めたころには想像できなかったほど、泣かされた。
たいていのドラマでは、気に入ったヒロインに直接関わるところで
泣かされるものだが、このドラマの泣かせどころはかなり広い。
頑固親父が理解を示すようになってからのセリフにも泣かされ、
男同士の会話にさえ泣かされたりする。
ヒロインのシニョンの思いに同化して泣くようなことはほとんどない。

そもそも、最後までヒロインを贔屓にできなかった。
脇役のヒョンスばかり、絶望的に応援し続けていた。
ラスト2話にはもう贔屓のヒョンスは出てこなくなって、
つまらなくなってもよかったのだが、もう途中でやめられなくなった。

興味津々だったラストではちっとも泣けなかった。
あのヒロインでは泣けない。
けれども、いいラストだった。
44話という長いドラマのラストにしては、引き際を心得ている。



2004年12月06日(月) 「愛の群像」

第40話まで来た。
ソナちゃんのヒョンスがちっとも出てこなくなったじゃないかー。
生きたい、シニョンと暮らす、って、治療費は誰が出してんだ?
前半では、金の苦労というものをあれだけ描いていたのに。。。
今は、大学を辞め、家庭教師の口を見つけたばかりのシニョンと、
ヒョンスの会社への復帰を期しているジェホを一緒に暮らさせるところに
ドラマが集中しているが、急に裕福な世界に入ってしまっている。
脚本家というのは、少々のことには目をつぶれる神経がないとなれないものらしい。



2004年12月05日(日) 書く時間なし!

一昨日から、空いた時間は全部「愛の群像」である。
ヒョンスがかわいそうで見ちゃいられない、と思いつつ、
(普通の視聴者は、ざまぁ見ろ、みたいな思いでヒョンスを見るのだろうが)
見終わるまで塵語は休刊にしよう。
全40話だと思っていたら、44話もあるそうだ。
あと7話だ。

それにしても、これだけヒロインを応援できないで、
歪んだ愛の虜になった脇役の方を贔屓するように見るドラマは、
今までにあったろうか。。。
脇役の方がいい表情を見せてくれるもんだからしょうがない。
この表情にもかかわらず、主人公がヒョンスを嫌うというところで、
かなりムリをした作り物の印象が強くなってしまう。
そういう意味ではこのドラマは失敗作と言ってよい(私だけかな?)
だけど、中盤からホントにおもしろくなってきたし、
このじっくりと練り込むような作風にも驚かされる。



2004年12月02日(木) くつろぎタイム

昨年は長期休業や試験期間など、授業のない勤務日には、
他の職員たちと連れ立って昼食に出たものだったが、最近は単独行動である。
そして、橋本さん(談話室参照)と時々待ち合わせるレストランMに行く。
普通の日でも、授業がうまく空いていて支障のない日は、そこで昼食である。
すると、不思議な魅力をたたえた2人の女性に出会える。
私の予感では、もうすぐ、さらにひとり、不思議な魅力を持った女性が
現れるはずである。

・・・いかん、いかん、こんな書き方したら、
橋本さん、期待してレストランMに入り浸ってしまうかもしれない。
手ぶらの橋本さんが行っても、たいていはおばさんのウェイトレスか、
少々やくざっぽい雰囲気を漂わせた男と向かい合った
年増の女性が散見できるくらいだろう。
実際、かわいい女の子と言えそうな若い女性を、
その店では1度しか見たことがない。
橋本さんに期待させてがっかりさせてはいけない。

私はそこでその時間、ひたすら本を読むのである。
それ以外に読書の時間と場所がないというわけではないけれど、
まとまった時間を確保できるのはそういう時間である。
そういう時間を確保するために、職場の人間がまず行かないであろう店の、
第一候補がレストランMだ、というだけの理由である。
候補は他に2店ほどあって、その時の事情で場所を変える。
この昼の読書タイムは、あれこれやりたいことを増やしてしまう私にとって
とても貴重である。
こんなランチタイムが、もう半年ほど続いている。

先に書いた「不思議な魅力をたたえた2人の女性」というのは、
今読んでいる、村上春樹の「ノルウェイの森」のことである。
10年以上前に読んだ、再読である。
「ノルウェイの森」については、改めて書くことにしよう。



2004年12月01日(水) 「愛の群像」中間感想

全部で40話あるそうだが、きょうから後半に入って2話見た。
ホントにたいへんなことになってきた。
ジェホとシニョンはきわめて理想的でまっとうな感覚で愛し合うようになり、
結婚しようと願っているが、家族の思惑がそれを許さない。
ジェホが孤児だというだけでシニョンの両親が反対する十分な理由になる
らしいが、しかも、シニョンの母とジェホの伯母とは若いときから確執の仲、
更には、ついこの間まで、シニョンの父の浮気心の相手でもあった。
これでは周囲の賛成を得るのは難しい。
ジェホの伯母も、シニョンの母が昔年の仇敵でなければ、
ジェホのこの恋愛を手放しで祝福したに違いないが、これだけは譲歩できず、
シニョンの両親とジェホの伯母との関係は悪化するばかりである。

ジェホに捨てられたヒョンスはますますイヤらしい人物に成り下がり、
ジェホを屈服させることに躍起になって、ジェホに仕事を失わせ、
自分の仕事に加わらせて、金と地位の力に目覚めさせようとしているようだ。
いわゆる憎まれ役で、ドラマを見ながら、いい加減にしろと思うはずだが、
私はついつい誠実なるシニョンよりもこのヒョンスの方を応援してしまう。
ヒョンス役のユン・ソナの表情が良すぎるのだ。
もとはといえば、ジェホが金目当てに近づいた、その犠牲者じゃないか、
と、ジェホを非難し、ジェホとシニョンの恋の成就を祝福できないのだ。
悪役ヒョンスの策謀をなんとなく応援してしまう。
ジェホとシニョンの仲睦まじいようすが少々苦々しくも感じられる。
こういう見方をさせられてしまったドラマは稀有だ。
これが私だけなら私の見方が悪いことになるけれど、
もしも私だけでないとしたら、このドラマはかなりの失敗作かもしれない。

シニョンの先輩であり、一番の婿候補だったのにふられたギルシンが
痛々しいほどの好人物だ。
また、ジェホたちの隣人の婆さんが、しょうもないことでわめいていただけ
だったのが、このごろは至極まっとうな説教をするのがおもしろい。
不和だったシニョンの両親の仲も、シニョンの結婚反対で一致し、結束しつつある。

何はともあれ、この先の展開が楽しみである。


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TENSEI [MAIL]