TENSEI塵語

2004年03月31日(水) 「王の帰還」

ロード・オブ・ザ・リング第3部「王の帰還」の岐阜の映画館での上映が
金曜日までなので、午後から年休を取って観に行った。
いずれ前2作同様DVDを買うのだから、ムリに行くこともないみたいだが、
やっぱり1度は映画館の大画面・大音響で見ておきたい。

2時45分に始まった映画を見終わって、5時20分ごろかな? と
時計を見て驚いた、、6時15分である。
時計が1時間進んでいるかと思ったが、間違いないようである。
長めの映画だと思ったし、腰もかなり痛かったのは確かだけれど、
3時間半もじっと座っていたという感じがしない。

前2作でこの映画の表現にはかなり慣れているので、いちいち驚かないが、
それでも戦闘シーンや風景など、見どころはいっぱいある。
フロドの指輪を葬るための旅の場面が少ないような気がしたけれど、
最初からフロドに付き従って来たサムの活躍が実によかった。
主人公はサムか、と錯覚させるほどの存在感だった。

液晶プロジェクターが届いたら、1作目からじっくり見直したいものである。



2004年03月30日(火) 通販生活

一昨日、ヤマダ電気で、最近探していたウインドウズPCが
158,000円で売っているのを見つけた。
最近ネット通販で見てたのと比べてもかなり安い値段である。
2週間ほど前に、148,000円くらいのを見つけたけど、
迷っているうちに売り切れて、それ以来安価なのを見つけていない。
一昨日は、この機会に買ってしまおうかと思ったけれど、
近くに店員もいないし、急いでいたので、一晩再考ということにした。
しかしその晩、ネットで検索して、135,000円というのを見つけたのである。
ソニーのヴァイオで、DVDも焼けるし、Office も添付されている。
キーボードもマウスもワイアレスで、ばかでかい箱のないやつである。
型落ちとはいえ、信じがたい値段である。
残念ながら、電話注文しかできない店だったので、
最近は不慣れになってしまった電話注文を、昨日会議の合間にした。
きょう、仕事の合間に銀行に走って振り込んだ。
明日か明後日には届くはずである。

以前から、TVをまだ買い換えない代わりに、
映画を家で大画面で見たくて、液晶プロジェクターがほしいと思っていた。
けれども、とても安々と買える値段ではない。
10万円くらいになったら買おうかな、と、ありえない冗談を言っていたが、
楽天のメルマガが来て、マシンガン大セールというのを見ているうちに、
スクリーン付きで、税込み11万円というのがあった。
いろんなサイトを回って評価を見てみたら、まあまあの性能のようである。
定価22万円くらいで、15万円以下だったら絶対買い、という話である。
見つけるのも調べるのも、注文するのも、居ながらにしてできてしまう。
ちょっと勇気がいったけれども、注文した。

ちょっと前までは、格安品を求めて何時間も歩き回って、
へとへとになって、徒労に終わることが珍しくなかった。
東京に出るついでを狙わなきゃならないこともあった。
PC関係のものは、近くても名古屋までは行かなきゃならなかった。
それが、岐阜でも用が足りるようになったと喜び始めたら、
居ながらにして用が足りるようになってしまったわけである。

CDもDVDも、ネットで最安値レベルのものが見つけられるし、
普通は店に置いてないようなものでも見つかって、2、3日中に配達される。
こんなんでいいのか、と思いつつも、やはりありがたいことである。
問題は、見つからなきゃ買わないのに、
見つかってしまうから買ってしまい、出費がかさむことだ。



2004年03月29日(月) 新体制

きょうは、新年度の体制を決める4会議の日だったが、
まともに出たのは前半の職員会議と分掌会議までで、
11時に留年の決まっている生徒が転入先を決めていきなりやって来たため、
その親子の応対と、必要書類を作ったり発行手続きをしたりで、
会議に出たり抜けたりしながら、あちこち走り回っていて、
わけわからないまま会議も進み、いろんなことが決まってしまっていた。
まあ、そう大して困った結果になりはしなかったが。。。

今年は2年担任と図書部というところに落ち着いた。
担任については、積極的にやるつもりでいたのだけれど、
校内禁煙などという不当な扱いを受けては、自分の先行きも見当つかず、
引き受けようにも無責任に引き受けられない、とさんざんごねておいた。
それが10日ほど前のことで、数日前改めて呼ばれて懇願された。
担任くらいでこんな丁重な扱いを受けるとは意外だったが、
病気で体が弱い、精神的に弱い、定年間際、等々の理由で、
引き続き副担任という人が何人もいるようだから、よほど困っていたらしい。
もともと副担任に下りる気など毛頭ないから、引き受けたけれども、
校内禁煙という不当な扱いのために、どういうことになっても知らん!
と、問題点だけは残すことを忘れないようにした。
何らかの形で、猛烈な抗議だけはしておかなきゃいけない。

図書部については、まずとにかく、できれば進路指導部から逃げたかった。
今まで進路だけは経験していなかったので、
この機会にちょっと仕事を覚えてもいいかな、、と去年は思ったのだが、
あまりに形式的なことにあくせくしてるし、
それへの反省もまったくしようとしないので、こりゃたまらんというわけだ。
3年生に持ち上がった時に進路だったら、いよいよたまったもんではない。
もう1年辛抱してもいいはずだが、逃げられるときに逃げないと、、、
というわけで、ダメ元でいいから言うだけのことは言っておこうと、
先週金曜日、これから新体制を決める委員会の始まる前に、
校長・教頭に直訴してみたのである。
進路はイヤだ、なんてことは言えない。
自分が進路にいると文句言い放題だから、進路部長もやりにくいでしょう、
ぐらいのことなら言える。
他にもいろんな話をして、結局は校長が、
毎年副担任の人よりも、担任引き受ける人の希望が優先だと判断してくれた。
その日は、校長が会議の半ばに中間報告してくれたし、
夜、教頭から電話があって、2年担任で図書部に決まったと報告があった。
きょうまで箝口令が敷かれているのに、異例の丁重な扱いである。

きょう正式発表を見たら、確かにその通りではあったが、
密かに恐れていた結果にもなっていた。
世界史選択者の集まるもっとも騒々しそうなクラスの担任に決まっていた。
学年主任が、頼む、とばかりに放り込んだに違いない。
といっても、おとなしい学年だからそう大したことではないけれど、
気の弱い教科担任が来たりしたら、ちょっと厄介なことになるかも、である。
ま、校長には、ますます煙草が増えるわ、といじめておこう。

学年でも分掌でも、そう大した係につかなくてホッとしていたのに、
後になって、学年主任から、総合学習の係に加わってほしいと頼まれた。
去年に引き続きアイディアがほしい、という言い方である。
できるだけムリのないやり方にしてきただけなのになー。
どちらかというと、骨抜きの計画にしてしまいたい立場である。
めんどうな依頼だと思ったけれど、計画が出てしまってから、
こんなのどうやってやるんだー、と文句言うよりは、、、と考え直して、
引き受けることにした。

ま、要するに、希望どおりにもなったけれど、厄介も背負い込んだ、といったところである。



2004年03月28日(日) 「砂の器」終わる

映画での本浦父子の駅での別れの場面は、駆け寄って抱き合う式のもので、
それでもバックに流れる音楽の効果で大いに泣けたものだった。
今回のドラマでは、父は殺人犯であり、出頭のため護送されるのである。
映画と同様、秀夫が汽車の到着と競うようにして走ってくる。
三木と千代吉が乗り込もうとするところへ、秀夫が駅に駆け込んでくる。
千代吉は当惑する、、、映画のように駆け寄る秀夫を抱くことができない、
腕には規則どおりに手錠がかかっており、秀夫には見せられないからである。
三木の妻が慌てて秀夫を抱きとめ、近寄れないようにしている。
秀夫は父を呼び続ける。
三木は千代吉に、何とか言ってやれ! と促す。
千代吉には秀夫に言うべき言葉が見つからず、ただ当惑している。
秀夫は父を呼び続ける。
で、、千代吉は笑顔を浮かべ、秀夫に向かってゆっくり手を振った。
原田芳雄、最高〜〜と思わせる場面であった。
実に奥行きのあるみごとな笑顔であった。
映画以上に泣かせる父子の別れの場面だった。

ドラマが始まったころは、映画と同じ手法を取るということで
どうなることかと危ぶんだものだが、いいドラマに仕上がった。
難癖つけるとすれば、ピアニカにこだわりすぎたという点だろう。
映画と決定的に違う点は、最初から和賀の犯行現場を見せた点である。
それによって、3ヶ月に渡って視聴者は和賀と発覚の恐怖を共有する。
だから、実に緊張感に満ちた展開となったのである。

そして、和賀の悔しさも、映画以上に自分のことのように深く感じるわけだ。
子どもには何の罪もない。
それが、その親の子どもであるというだけで罪人扱いされてしまう。
それは明らかに社会的な誤謬だが、その誤りを一体誰が正してくれるのか。
和賀はその過去を抹消し、新しい生命を得て、栄光の頂点に近づいたが、
親切で善良すぎる美徳の塊である人物が皮肉にも不幸を引き戻したのである。
きょうのドラマは、最後に、医療刑務所の父のところに和賀を導いた。
音楽家として成功の道を歩んできた和賀も、結局のところは、
本浦千代吉・秀夫の父子関係から逃れることができなかった。
何とも哀しい結末ではないか。

世の中で一番恐ろしいのは、やっぱり、偏見と、頑固な大衆なのである。



2004年03月24日(水) 進路指導への疑問

1年前に今の学校に赴任して、驚いたことのひとつが「総合」の計画だった。
何と、年中「進路」だらけである。
うんざりするほど「進路」である。
1・2学期は「職業」という観点で、調べたり、講演を聞いたり、
インタビューしたり、発表したり。。。
3学期は「進学」という観点で、調べたり、講演を聞いたり。。。
こんなんじゃ、生徒もいい加減うんざりするぞ、アレルギーになるぞ、
と危惧していたのだが、生徒の感想には、プラスで好意的なものが多い。
私自身としては素直に受け入れられないのだが、
厄介きわまりない「総合学習」がこんなんでも平穏に潰せるのなら、
ありがたいことだと思うべきだろう。
実際、その時間に苦労することはほとんどなかったのである。

ただ、表面化されない問題はある。
なぜ進路指導がこれほどもてはやされるようになったかというと、
できるだけ早く目標を持たせて、実現の努力へと促すためである。
けれども、この年間通じての進路学習に生徒の反応がよかった割には、
勉強に対する姿勢の方は大して変わりない。
意図と現実がすれ違っているような印象はぬぐえない。
拒絶反応は出ないけれども、麻痺症状なのかもしれない。

そして、もうひとつ、自分の高校時代に思いをめぐらす。
あのころは、こんなことをとやかくうるさく言われなかった。
私は、周囲の雰囲気で、進学するのがあたりまえのような、
かといって、勉強をする気になれず、就職したいような、
実に曖昧なところに身を浮かべて、真剣に考えることのないまま、
音楽や、読書や、文章書くことに熱中していた。
今思うと、それが今までの自分の生活に一番役立ってるように思われる。
それらは決して、将来のためにしていたことではなかった。
私が進路指導偏重主義に馴染めないのは、そのためでもあるのだろう。

制服規定が個性を阻害するとはぜんぜん思わないけれど、
進路偏重教育が個性を埋没させてしまうことは大いにあり得そうだ。



2004年03月23日(火) 「砂の器」の大改訂

一昨日は打ち上げ後ホテルに戻ったのが9時半ごろで、後半の30分、
本浦千代吉が放火殺人をしているところから見た。
そこに至る過程がわからないまま見ていた。
坊ずに録画を頼んでおいたので、今それを見た。

放火殺人の引き金は、妻は村人によって殺されたという思いだった。
そして、そうなった経緯は、もともとあった本浦家への差別が、
ダム建設の賛否を問う投票での村の敗北の悔しさのはけ口として、
本浦家への徹底的な村八分扱いに増幅されたためである。
それは、3人家族に対する村人全員からの徹底的ないじめである。
とうとう過労で倒れた妻を、村の医者はまったく診ようとしてくれない。
隣村の医者のところに連れて行こうとする途中で息絶えてしまう。
積もり積もった怒りが爆発した千代吉は、村の顔役たちを斧で叩き殺し、
村中に火を放って焼いてしまう。
千代吉は、村人30人を惨殺した死刑囚ということになっている。

捜査会議でその経緯を報告する刑事は、鬼が鬼を生んだのだ、と言う。
これはまさに、現代のいじめ問題からテロ問題まで包含するテーマではないか!
そうしてまた、ある刑事の、殺人鬼の子どもはやっぱり殺人鬼か、という
評に対し、「そういう安易な見方がこの悲劇を生んだのだ」とたしなめる。
そうだ、世間の誰もが、殺人を犯したのは父であって、子には何の罪もない
と、必ず認めてくれるような世の中であれば、
和賀英良も自分の過去を抹消しひた隠しにする必要もなく、
三木謙一に抵抗して死に至らしめる必要もなかったのである。
どうにも逃れようのない偏見と差別の構造を、
ハンセン氏病に代わるこの新しい設定も、みごとに表現し得ているではないか、、!

ステージで披露されているピアノ協奏曲は、
ピアニストと指揮者を置いているので、自然に見ることができる。
映画での大きな失敗はここにあった。
主人公のピアノを弾く姿以上に、指揮姿があまりにも拙くて、
せっかく盛り上がりつつある感情が冷やされてしまうのである。
この点はよく反省が生かされていると言えよう。

ただ、父子の逃亡の旅にしては、見通しのいい場所を歩きすぎている。
これが実に残念である。
美しい風景を見せてくれるのは確かにありがたい。
けれども、指名手配中の殺人犯が、あんな優雅な旅をするだろうか?



2004年03月22日(月) 定演翌日

午前中のんびり過ごさせてもらったのだが、まだ疲れが取れない。
肩から首にかけて例年にないほど凝っているのは、
しかもそれが、夕方ごろから顕著になっているのは、
慣れないアクションの後遺症っぽいから、胴上げのせいかもしれない。
ここ10年ほど打ち上げ会場を出てからの胴上げを略してくれてたのだが、
昨夜の打ち上げでは、私のコメントの後ひとり指名して話させたら、
その後次々に前に立って話したり余興したりする事態となって、
その盛り上がりの余波で10年ぶりに宙に放られるはめになったのである。
それも、4回放られてまだ生きてることを確認してほっとしていたら、
ビデオの用意ができてなかったということで、再び3回放られた。
自分では何もしてないはずなのに、終わると息を切らしている。
かなり緊張して力を入れているものらしい。

そんな事情もあって、今夜はまだ、うー、、疲れた、、、状態である。

とりあえず、橋本・patamama 両名にはお礼のレスをしておいた。



2004年03月20日(土) 定演前日

定演前夜に書くのは初めてのようだ。
定演前夜の不安は、不思議にも演奏会自体の不安ではない。
コンクールに出始めてからの7、8年間や、
こうして市吹や部活で演奏会をし始めた数年間は、
10日くらい前から緊張で震えたり、寝そべってのたうち回ったり、
神経が絶えずピリピリして、胃の痛い思いをしたものだが、
ここ数年間はそういう苦しい思いに悩まされずに過ごせている。
定演前夜の不安は、朝ちゃんと起きれるかということと、
忘れ物をせずに出かけることができるかということである。
演奏がどうなるかという悪夢にはもう悩まされない。

きょうは、例年のごとく4時ごろに会場に入って、
すでに設営の済んだステージの上の配置をチェックして、夕食に出て、
例年より30分早い6時から練習を始めた。
いつもそうだが、会場で練習するときは、客席で指示を出して客席で聞く。
客席でどう聞こえるのかが最終的な勝負だからだ。
大半は計算しておいたように聞こえるけれど、所々誤算がある。
その修正はなかなかたいへんだ。少し工夫するが、妥協することが多い。
この練習を経ておくと、不安が緩和されるのである。



2004年03月19日(金) 保科洋「Memoire」

昨夜、「Maid In Japan」という吹奏楽CDが届いた。
最近あちこちのバンドで大人気の作曲家の作品が何曲か入っているが、
どの曲もはじめて聞く中で、私の気に入ったのは「メモワール」だけだった。
昨夜からこの曲を十何回繰り返し聞いたことだろう。
私はめったに吹奏楽の曲を聞くだけの目的で聞くことがない。
たいていは選曲や演奏の参考に聞くだけで、
純粋に聞きたいだけの欲求で聞くことはめったにないのである。
吹奏楽で好んで演奏する曲でも、その程度の魅力しかないものである。
けれども、この曲は、純粋に聞きたくなったので繰り返し聞き、
出会ったばかりのその晩に、もう楽譜まで注文してしまった。

吹奏楽に関わり始めてから20年になるが、
保科さんの曲は7曲、そのうち4曲は2回以上ステージで演奏している。
オーケストラ志向の強くて、吹奏楽しか与えられなくて悶々としていた私に、
吹奏楽もいいもんだと教えてくれたひとつは、彼の音楽である。
オーケストレーションを印象派風に作りながら、心はロマン派である。
印象派的ロマン派、あるいは、ロマンティック印象派と私は呼んでいる。
実に叙情的なメロディーを、印象派風に綴っているというわけである。

しかし、実は最初聞き始めたとき、この程度のメロディーかとがっかりした。
今までの評価から、期待が大きすぎたのかもしれない。
けれども、聞き続けて曲の最高潮に達したとき、(T_T)状態になってしまった。
抑えていたものが堰を切って溢れ出し、泣き崩れるようなイメージである。
「Memoire」を「(亡き人の)思い出」と訳して聞くとますます感慨が深い。

明後日定演が終わるが、来週の練習からさっそくこの曲に入るつもりである。
ステージでの演奏に使うかどうかは決めていないが、
毎週、1度は練習時間の中で演奏する練習曲にしたいと思う。
美しい響きと表現力を深める練習曲として。。。



2004年03月18日(木) 財前くん死す

すばらしい、、、うーーん、すばらしい、、、と、
見終わってから感慨を何度も何度も噛みしめた。
実によく練られた結末ではないか。

今夜はこれ以上は書けない。


簡単にきょうのことをメモっておこう。
1、2時間目は身体計測で、2時間目の座高の係だったので、
30分ほど計ってやってて、腰が痛くなった。
立ちっぱなしに弱いのである。
3時間目は生徒会役員選挙の立会演説会だった。
なぜか、すごく寒くなってきている。ますます腰が痛い。
4時間目は学年集会で、ここで進路講話をさせられた。
それから、いろんな事務処理を教室で生徒にさせた。
午後もちょこまかとさまざまな雑用と事務処理である。
かなり腰をやられたが、とにかく明日は終業式である。
転勤1年目の身としては、感慨無量の日となるだろう。。。



2004年03月16日(火) すごい違い

昨日は高校入試1日目の学力検査。
私自身は、試験監督2時間と、1題きりの作文問題採点の2番手だけ。
その間に他の採点は全部済んでいた。
こんな楽な入試業務は初めてだ。
きょうは、受験生の点呼・誘導の後、約1時間休憩、控え室監督1時間、
でまた休憩があって、会場復元をしたら、それでおしまい。
面接委員でもなく選抜委員でもなく、実に気楽でありがたかった。

勤務時間の振り替えで、午後3時には勤務時間終了となった。
タイヤ交換に走ることにした。
去年までのように選抜委員だったらできないことである。
気楽そうに帰って行く人たちを、指くわえて見てなきゃならなかったものだ。
去年は春休み中の25日に、転勤のための片づけに忙殺される中で、
あたふたとタイヤ交換に走ったようだ。
実に大きな違いである。

こういう境遇が何年も続いてくれるといいのだが。。。

今の入試制度には、当初、ストライキやボイコットも真剣に考えたほど
反対だったし、今も考えは同じだから、特にそう思うのだ。



2004年03月15日(月) 交通マナー

無謀なスピード違反はもちろんいけないのだけれど、
それは実際のところ事故さえ起こさなければそう迷惑ではない。
事故を起こす恐れも多くなるし、起こしたら大きな被害にもなりうるので、
それを防止するために厳罰の対象になっているけれど、
私は、安全運転を勘違いしているのろのろ運転手たちも罰してほしいと思う。
車の列の流れに乗れない車、そして追い越し車線を潰してしまう車は、
無謀なスピード違反以上に迷惑である。
例えば、名岐バイパスは片側3車線の道路だけれど、これだけあれば、
左車線では、流れに乗ろうと乗るまいと、マイペースで走ってもらってよい。
真ん中の車線では、ちゃんと前後の車の流れに合わせてもらわなきゃダメ。
右車線は、それ以上の速さで行きたい人や、右折希望者のための車線である。
自動車学校でも、ちゃんと追い越し車線だと習ったではないか。
追い越し車線を追い越され車線に勝手に変えて、
延々と走り続ける傍若無人(いや、後若無車、というべきか)な運転手の
何と多いことか、、!
そういう車がしっかり安全運転をしてくれてるかというと、あやしいものだ。
御本人は、制限速度を守っていさえすれば安全運転と信じているようだが、
後ろから見ていると、たいていはキョロキョロキョロキョロしてるものだ。
無謀なスピード違反の運転手よりも、こちらの方がうんと危険だし、
迷惑度から言えば、こちらの方がうんと上である。
自分のことしか考えてないという点では、どちらも共通している。

交通マナーの要は、適正な判断力と、気配りである、と私は思う。



2004年03月14日(日) アラベスク!!

あ〜あ、1日空いてしまった。
今月は全クリペースだったのに、残念である。
今週は特に日曜練習で疲れた上、一昨日の夜も娘のサークルの演奏会があり、
解散時間の遅くなった娘を乗せて、食事して帰ったから深夜の帰宅となった。
昨夜は思ったよりも早く疲れが襲ってきたようだ。

さて、正高氏の「家の中主義」について書こうと思っていたけれど、
もう少し時間が必要な気がするので、きょうは見合わせるとしよう。

昨日、市吹で来週演奏するディスコ系の曲の原曲をもう1回聞こうと思って、
団員から借りていたディスコ・ヒットのオムニバスCDを聞き直していた。
以前聞いたときは、目的の曲だけをざっと聞いただけだった。
いろいろ聞いているうちに、数曲入っているアラベスクという
3人の女性グループの歌がたいへん気に入ったのである。
聞きながら、つまらないのはとばし、気に入った曲が聞こえるたびに
これは誰の歌じゃ? と曲リストを見ると、ほとんどアラベスクだった。
何となく、どれも聞いたことがある。
たぶん、20〜30年くらい前に、喫茶店などで聞こえていたのだろう。

昔聞き流していた音楽に今さらハマるなんておかしな話だ、、と思いつつも、
HMVのサイトで検索してみると、そう多くはないが、ダーーと出ている。
2枚組のベストアルバムを注文することにした。
DVDが1枚だけあったので、これも注文してみた。
ついでに、前々から1枚買っておきたいと思って忘れていた
アース・ウィンド・アンド・ファイアのベストアルバムも探してみた。
こちらのリストはかなりの数である。
代表曲3曲が2種類のヴァージョンで入っているらしいアルバムを注文した。
とにかくまず、来週の定演で演奏する「ブギ・ワンダーランド」を
何としても聞いておきたい。

昨日の昼過ぎに注文したのに、きょうの昼過ぎに届いた。
2、3年前まで長年の間、欲しいものは何軒店を回っても見つからない
という経験にうんざりしていた私には、こういうシステムが実にありがたい。
町の中にある店には申し訳ないと思うが、
どの販売店も同じようなものしか置いてないのだから、怒っていたのである。

さて、アラベスクとアース・ウィンド・アンド・ファイアだが、
サラちゃんほどにのめり込むことはないと思うけれど、
アバやビージーズくらいに、時々聞きたくなるコレクションになることは間違いない。



2004年03月12日(金) 校長との会談

きょう、来年度の担任希望・分掌希望の提出日だった。
さあどうするかなー、、、当然、2年生の担任を希望するわけだけれど、
安易にそんな希望ができない状況である。
来年度から校内では禁煙などと、不当な扱いを受ける身だからである。
吸いたきゃ校外に出ろ、と不思議なだけでなく、
校舎内の一室で吸うよりも正門前で吸った方がいいならそうしてあげるけど、
かなりの時間の無駄を伴う。
1時間授業をするたびに空き時間を入れてもらわなきゃならない。
仕事をするために年休を取る、というのは私のアホな得意技だが、
来年度はそんなことがますます増えて、足りなくなるほどかもしれない。
とにかく、落ち着いて仕事できる状態が期待できない。
今回の怒りは、この問題に限った怒りでなく、
今までのバカな教育政策に対する多くの怒りの上で爆発しているから、
非常に根が深く、精神的にもかなり危険である。
いい加減あほらしくなって、辞職することもありうる。
だから、安易に担任を希望するわけにはいかない状態にある。
・・・そんなことをざっと書いて、夕方提出しに校長室に行った。

顔を見るや、待っていたかのように呼び止められて、
ちょっと話を聞きたいから座るように言われた。
話は、その件だった。
書いたよりももっと過激な話をした。
校長自身もかつては喫煙室仲間だったから、前々から困っていたようだ。
喫煙室の人口は減っていない。
正月から禁煙していた人たちも、最近は戻ってきている。
彼らがどんな考えなのか、口ではいろいろ言っているけれど、わからない。

ついでに、最近考えていたことを3つ話した。
朝の読書、自学自習できる力を育てる方策、総合での小論文指導。
前者2つについては、前回話したときは否定的な反応だったが、
きょうはもっと丁寧に説明したので、シングルヒットくらいの当たりには
なったようだが、彼の考えの困った点は、
他校と同じ程度のことをやった上で、本校独自の教育を加えたがるところだ。
それでは教員の負担は増すばかりだ。
ま、しかし、焦らず、他の先生たちといろいろ話すことにしよう。

予定外に約20分間の会談が入ったので、
大急ぎで帰り仕度をして、娘のサークルの演奏会に走った。



2004年03月11日(木) 里見くんの名ゼリフ

きょうの「白い巨塔」では、原作と違い、再び里見くんが最後の証言をした。
財前くんの弁護士が、手術をせずに化学療法にしたところで、
1年か2年の延命にしかならないことを強調しようと懸命だ。
里見くんは、それを認めた上で、こう語る。

「確かに(癌による)死は避けられないものだったでしょう。
 しかし、、、心の準備のないひと月と、覚悟の上で過ごす1年、、、
 この違いは、患者の人生にとってあまりにも大きいのではないかと、
 私には思われます。
 人は皆、いつかは死ぬものです。
 医療の現場で大切なのは、その死までの期間を患者がどのように生きるか、
 医師がそれをどのように手助けできるか、ということに尽きると思います。
 今回のケースでは、佐々木庸平さんが、残された時間をどう過ごすかを、
 自分で決めるようにすべきでした。
 責任は財前先生ひとりではなく、結局は、彼の独断を許した私や、
 大学病院のあり方そのものにあると、私はこの裁判を通じて感じています」

このセリフは、もちろん30何年も前に書かれた原作にはないはずである。
いかにもこの裁判をしめくくるにふさわしい言葉であると同時に、
里見くんがドラマの中で一貫して見せていた態度の表明にもなっている。
彼は、苦境に立たされても、本質を見失わない。



2004年03月10日(水) 校長の誤認逮捕(笑)

不服な転勤で始まった今年度もあとわずかとなった。
私の担当する授業も明後日はたまたまないので、明日で終わりである。
この1年ありがたかったことは、
ケータイポチポチしている生徒をほとんど見ずに来られたことや、
体育館でも教室でも、いつまでも談笑に興じるアホ面を見ずに来られたこと、
そしてあの不細工きわまりないルーズソックスも過去の遺物になったことだ。
ほぼ全員が紺か、稀に黒のハイソをはいている。

一昨日あるクラスに授業に行ったら、
ちょっと油断すれば髪の色で注意を受けそうな女子が2人、
白いソックスをはいていた。ごく普通の丈の、標準タイプの靴下である。
生徒手帳の服装規定で指定してあるやつである。
私はたいへん驚いた。
ついに、模範的標準タイプがブームになろうとしているのだろうか。。。

きょう喫煙室で、指導部のT氏が、今朝の事件を話してくれた。
毎朝、生徒の登校時に指導部の2、3人が門のところに立っている。
校長はしばしばいろんなところに立って指導している。
今朝は生徒昇降口のところに立っていたらしい。
で、ひとりの女子生徒の腕をつかんで指導部長のところに引っ張って来た。
それが、白のソックスをはいているからだというのである。
居合わせたT氏は、それがもっとも規定に合ったソックスだと説明した。
体裁悪くなった校長は、その生徒の他の部分を叱責し始め、
ことはますます大事件となり、帰宅指導にまで発展してしまった。
名前を聞くと、一昨日授業で見た2人のうちの1人である。
他の生徒と比較すれば、帰宅指導までする必要のない段階なのに。。。

最近、校内禁煙問題についてあれこれ考えているうちにも思ったのだが、
学校というのは、わざわざ悪者を量産する恐れがあるものだと再認識した。
必要以上に悪い生徒を作り上げていないか、よく観察する必要がある。
私も来月から極悪非道の教員になってしまうわけだし〜。。。



2004年03月09日(火) 「砂の器」の音楽

数日前に、今まだ放映中のドラマ「砂の器」のサントラ盤を手に入れた。
ま、要するに、HMVに予約して、発売と同時に送ってもらったわけだ。
ドラマではまだ断片的にしか聞けない「宿命」全2楽章を、
もう10回以上聞いた。
いいメロディーである。
どこかで聞いたようなメロディー、、、なんてことは私には関係ない。
いいメロディーが聞ければそれでよい。
映画の「宿命」のメロディーも好きだったけれど、今度のもそれに劣らない。
オーケストレーションも曲の終わり方も今回の方がうんとすっきりしている。
そういう意味では、先輩を凌ぐ作品と言っていいと思う。
けれども、映画の「宿命」にはいろいろと不満な点があったにしても、
メロディー以外にもうひとつ大きな魅力があった。
それは、メインテーマが何度も何度もうねるように現れることである。
それは、まとわりついて離れない宿命の糸を思わせる。
和賀英良の悲劇は、離れたつもりでまたまとわりついてきた宿命の糸を
断ち切ろうとして起こったのである。
もともとは、自分で望んだ運命ではないのに、執拗にまとわりついてくる。
そんな自身の宿命に対する狂おしい思いが、音楽にも表れていた。
新しい「宿命」には、そういう魅力はない。
要するに、どちらも好きだけど、どちらもちょっと残念といったところである。



2004年03月08日(月) 珍種のサルの群れ

毎日通勤のために電車に乗っていると、
十代の男女とイヤでも乗り合わせるはめになる。
すると、想像を絶するような光景に出くわすことが日常茶飯事である。
むろん、くわえたばこや茶髪やピアス、歩きながらものを食べるぐらいでは、
こちらも驚かない。けれども、プラットホームのコンクリートの床に、
セーラー服姿の女子高生がじかに尻をついて座っている。
しかもあぐらをかいてである。下着をさらけだしている。
車内でも、あたりかまわずへたり込むように腰をおろす。
雨が降っていても頓着しない。
気持ち悪いとか汚いとか感じないのだろうか、と不思議で仕方がない。

こうした疑問は、書き出すときりがなくなってしまう。
夏にルーズソックスをはくのは、暑くないのだろうか。
足はむれたりしないのだろうか。
靴のかかとを踏みつぶして歩くのは、歩きづらくないのだろうか。
雨の日はソックスがびしょびしょになるだろうに。
電車内で化粧をするのは、出かける前に時間がないからなのだろうか。
家で鏡の前に座ってするのと同じように、
車内でも上手にできるものなのだろうか。
それに加えて、ケータイである。
電車の中で会話して、それを周囲に聞かれて気恥ずかしくないのだろうか。
そもそも何をそんなに話したり、メールしたりすることがあるのだろう。

特徴をこう列挙してみると、およそ異人種の習俗・行動だと改めて思う。
異人種というか、まるで珍種のサルを見ているような、、、

・・・・・・

上のは私の文章ではない。正高信男「ケータイを持ったサル」の序文である。
本屋で立ち読みして、まったく同じこと考えてるなぁ、と思ったのである。
さらに私だと、あのちんちくりんのスカートを何とかしてくれぇ、
と言いたいところである。
私服でコーディネートできているならまだ許せる、というか、
むしろ、それがスタイルとも合っていれば賞賛してあげてもいいのだが、
古式ゆかしいセーラー服の下のちんちくりんスカートはどう見ても奇妙だ。
しかも、どんな太さの脚でも見せびらかしたがるのが不思議だ。
30余年前にミニスカートがブームになったころは、
脚の細さに自信のない女性の多くが泣く泣くミニを諦めてくれたものである。
なぜ今の女子高生の感覚は、そういうことはおかまいなしなのだろうか?
恥ずかしくもなさそうだし、視覚的暴力だということにも気づいてない。
そしてそれだと冬は風除けが足りないもんだから、ハーフパンツをはく。
ますます奇妙な格好を得意げにしている。
スカートの下にはみ出るものがあったらイヤなはずなのになぁ、、と思う。
そういえば、男子もシャツがはみ出てないと心地よくなさそうである。
それでいて、私がうっかりシャツを出していると、
先生シャツ出てるよ、とご親切に教えてくれる。

高校生にはまだ少数派だけれど、口元のピアスというのも不思議だ。
子どものころ、口元に米粒つけてると「弁当つけてーどこ行くの〜」と
からかわれたものだが、ご飯粒つけっぱなしでいるようにしか見えない。
鼻ピアスなんてのも、鼻くそつけてると思って欲しがってるとしか見えない。

とにかく、得体の知れない異人種の群れなのである。

正高氏はサル学者らしくて、序文を次のように結んでいる。

・・・・・・

結論を先取りして書くと、
現代日本人は年を追って、人間らしさを捨ててサル化しつつある。
もっとも、人間の「人間らしさ」の遺伝的資質が変容しているわけではない。
ただ、人間というのは、放っておいても「人間らしく」発達を
遂げるのではなく、生来の資質に加えて、
社会文化的になかば涙ぐましい努力を経て「人間らしく」なっていく、
サルの一種なのである。
いや、「そうであった」と書くべきかもしれない。というのも、
今や社会の中に「人間らしく」なっていくように仕向ける要因が
消滅しようとしているからである。

・・・・・・

というわけで、しばらくこの本を読んでみようと思ったのだった。



2004年03月07日(日) 1日練習日

2月22日に続き、きょうは2度目の丸1日練習日だった。
くったくたである。
きょうも何カ所か楽譜の修正をした。
本番2週間前なので、午後は本番どおりに全曲通してもらった。
途中で、まだあるんかいな〜、ひえ〜〜、と思った。
といっても、きょうに限ったことでなく、毎年そうなんだけれども。。。
団員たちも悲鳴をあげている。
もちろんそれも、きょうに限らず、毎年のことである。
毎週の練習も定演も、へとへとに疲れ果てて帰ってもらおうというのが
私の方針である。
実際それは、麻薬的な楽しみになってくれているようだ。



2004年03月06日(土) 観点別評価(2)

昨日の続きである。

計画表を書きあぐんでいるうちに、ばかばかしくなってしまったので、
ばかばかしいことにはばかばかしさをもって応えることにした。
例年の指導計画表なるものも、多分に形式的なものに過ぎなかったけれど、
教材の内容に合わせて、それにふさわしい計画を書き並べる努力はしていた。
しかし、今回はそんな努力は捨てることにした。
教科書会社のサンプルから何項目か抜き出して、
サンプルどおりに観点別評価の欄に○をつけて、
古文の場合、漢文の場合に分けて、どんな教材であろうとコピーするだけ。そう決めたら早かった。
一番たいへんな、いちいち教材を読んで中味を検討する必要がないのである。
和歌や漢詩の場合には、それらにふさわしい項目を加えるくらいの
誠実さは忘れなかったけれど。。。
ま、今までよりも格段に無内容なものになったことは間違いない。

こんな計画表を書かせたくてこういう施策を出してきたのではないだろうが、
昨日書いたような理由で、真剣に考えたら気が変になりそうなんだから
しょうがない。

こんな評価区分を設けなくても、我々は多角的に評価してきたのである。
テストひとつ作るのにも、さまざまな観点をもって作っているではないか。
そして、さまざまな観点の根底に、
どれだけしっかり文章を読んでいるかという基本を忘れない。
単にテストの点数だけでなく、小テスト・ノート・プリントも評価に入れ、
点数化はしないにしても、態度の善し悪しや、関心の表れも、
ここぞという時には評価に影響するものなのである。

観点別評価は、そうした幅広い複合的な評価をかえって狭苦しく窮屈にする。
彼らはすごくいいことをしたように思っているようだが、
それはたぶん、彼らが狭い観点でしか人物評価できない人間だからだ。

こんな評価方法を採り入れたって、5段階評価はなくならないだろうし、
その数字が上級学校への資料として送られることには変わりない。
もしもこれが、通知票や指導要録にも記入すべきものにもなるならば、
ますます空虚な労力を強いられることになる。

うーん、、ま、その場合は、関心・意欲については生徒へのアンケートだね。
本人の気持ちも無視して、勝手に関心・意欲があるなどと判断できまい。
関心もって取り組めましたか、それはどういう点ですか? てな具合に。
上手に書けていれば、書く力にも○をあげよう。
読む力とか知識・理解はテストの点数とほとんど比例するし、、、
前はひどかったけど今回はがんばったね、という場合に、
ご褒美として○をつけてやることもできるわけか。。。


私は実は7、8年前に、テスト100、平常点100の評価方法を、
実際に試行しながら、周囲の人の意見を聞いたことがある。
内規では、平常点は多くて3割くらいだったから、
その規定で成績を出しながら、試しに平常点100も計算して
成績をつけてみたのである。
実におもしろかった。
学校には睡眠をとるためだけに来ている生徒が何人かいて、
彼らはノートも出せず、プリントも白紙、寝るかぼんやりで、何もしない。
ところが、考査直前になると、内職を始め、テストの準備である。
40点前後の点を取れば、平常点3割ではたいてい合格する。
逆に、授業はまあまあまじめに受けていたのに、
試験前の勉強が甘かったために20点も取れなかった生徒は不合格。
ところが、テストと平常点を同等に配分すると、ちゃんと逆転する。
上位者の方の逆転にも、いろいろ興味深い現象が見られた。

今こそこういう評価方法を採用すべきだと、私自身は確信したのだが、
周囲の人たちに話しても、あまり好評とは言えなかった。
あまり平常点の比重を高くすると、評定の信憑性が危うくなる、という
そんな意見が大半だったようだ。
五段階評定の資料的意味が障害となってしまうようだった。



2004年03月05日(金) 観点別評価???

来年度から観点別評価導入の話が職員会議に出た時、こう質問した。
「小学校ですでにやられている観点別評価は、
 その子の中でこういう点が優れているという個人内評価の意味が強いが、
 高校での観点別評価はそういう趣旨とも言えないようだ。
 今までもテストの点だけで評価をしない努力をしてきたはずだが、
 あえてこんな方法を採らなきゃならない理由は何か」
それからもうひとつ指摘した。
「国語の場合、書く能力という項目があるけれど、
 今まであえて目をつぶってきたこの点もちゃんと評価し始めると、
 評定5をやれる生徒はいなくなる、ほとんどが3以下になってしまう」

その時の校長の答は、
「そう難しく考えなくても、評価をするのに今までよりさらに
 いろいろな観点を取り入れましょう、ぐらいにとらえればよい」
というようなもので、今までと大差なしと解釈して引き下がったのだった。

ところが、今までと大差があったのは、今まで4月に書いていた
年間指導計画を、観点別評価を取り入れて2月中に書けという。。。
アホらしい、書けるかい、来年度の担当者が誰かもきまってないのに、、、
まだ指導書もないし、、、新2年生は新教材ばかりだし、、、
けれども、昨日書いたような理由で、そうほったらかしにはできなくなった。

で、しょうがなしに調べ調べ書き始めて、改めて怒り始めたというわけである。

国語の観点なるものは、こんな風に区分されている。
1 関心・意欲・態度
2 話す・聞く能力
3 書く能力
4 読む能力
5 知識・理解

私が担当したのは2年生の古典で、
古典の場合は1・4・5だけでいいようなので、2・3は無視しても、
考えれば考えるほど、混乱して腹立たしくなってくるのである。
そもそも、これらは観点別に評価できるものなのか、、、
そんな疑問に取り憑かれて、判断に苦しんでしまうのである。

たとえば、古文や漢文を「正しく読むことができる」というのは、
真っ先に「読む能力」を示すことになるだろうが、
歴史的仮名遣いや単語の区切りや漢字の読み方や、漢文の訓点などの
「知識・理解」なしには、ろくに読むことなどできないではないか。
また、「適切に口語訳している」なんてのも、某教科書会社のサンプルでは
「読む能力」に区分されているけれど、「知識・理解」なしには不可能だし、
「関心・意欲」なしには自らそんな厄介なことはできっこないし、
それは表現の領域でもあるので、「書く」「話す」にも関わる問題である。
また、「文法事項の理解」というと、そりゃもう「知識・理解」なのだが、
実際「関心・意欲・態度」が欠けている生徒が多すぎて、
1年間同じことばかり繰り返している古典文法は、
2、3年辛抱強く続けても、初心者のままであることが多い。

要するに、私が改めて強く感じたのは、
多角的な観点を持つのはいいことだけど(実際今まで心がけてきたことだ)、
あえてそれらを別々に評価しようなどというのはバカげたことだ、、である。
真に観点「別」にできるような観点を見つけるのは至難の業だ。

彼らは、人間というものは、部品の寄せ集めくらいにしか思っていない。
でなければ、こんなかたわみたいなことを、大改革みたいに自慢げに
全国の教員に強要するわけがないではないか。
そんな風にしか人間を見ることができないとは、哀れなやつらだ。
そして、それをヘイヘイと承ってくるやつらも、哀れなやつらだ。
そしてまた、そんなやつらに牛耳られている教育界も、何とも哀れだ。

きょうはここまでである。
 



2004年03月04日(木) 理不尽な仕組み

実はきょうは、観点別評価表について書くつもりだった。
例年4月に書かされる年間指導計画書が、
今回から観点別評価を伴ったものとなり、一昨日がその〆切だった。
アホらしい話なので(職員会議で文句言った後)無視していたが、
昨日の時点で書いてないのは私だけらしく、教科主任が困っているので、
しょうがなく、昨日から書き始めたのである。
たいていいつもこういうことになる。
上からバカな指令が下りてきて、それに対して発言する機会も与えられず、
バカなことはできん! と突っぱねようとしても、
結局は、同僚を困らせることにしかならないもんだから、
不承不承協力せざるを得なくなるわけだ。
これを私は、お上の汚い卑怯なやり口と呼ぶ。
こんなんでは教育の場が浅はかになるばかりであるが、
結局はおおぜいの人たちがお上の言うことにヘイヘイと従うので、
抗議のつもりで無為を決め込んでも、怠けもんでしかなくなってしまうのだ。

しょうがなしに昨日から書き始めてみたのだが、
きょうは考えれば考えるほどおかしなことをしていることがはっきりして、
一字も進めないまま、放り出してしまった。
そのあたりのことと、それに対する対処をかく予定だったが、
今夜の「白い巨塔」が、またあまりにも面白い展開になって、
ついに原作を取り出して拾い読みしたり、
DVD販売サイトに行って売値を調べるなどに時間を費やしてしまった。
だから、観点別評価計画については明日書くことにする。



2004年03月03日(水) 雛人形

・・なんてことはまったく忘れていた。
帰ったら、テーブルの上に階下の婆さんが作ったちらし寿司が置いてあって、
おりょりょ、、と驚いてからようやくきょうは3月3日だと認識した。
昨日仕事帰りに買い物に寄る前は、ひなあられでも買わなきゃなー、と
思っていたのに、店に入ったころからは完全に忘れてしまった。
去年・一昨年のこの日は何書いてたのかなー、、と、過去の塵語を見たら、
2回とも、何も書かずにさぼっていたようである。
やっぱりほとんど意識の表に上ることなく過ぎてしまったのだろう。

冷蔵庫のあり合わせで、おかずというべきかつまみというべきか、
とにかく夕飯の用意をして、坊ずと食べ始めた。
我が家の女ふたりはまだ帰らない。
妻はまだ仕事だし、娘は、弦楽合奏サークルの定演前の練習で遅い。
私が忘れているだけでなく、優雅に雛祭りなどと言っていられないのである。

これで誰でも察しがつくように、雛人形も当然出ていないのである。
私自身、飾られた雛人形を見るのは好きなのだが、
ここ10年ほどは、全部飾ったことはなく、
殊勝に飾っても、最上段の親分夫婦だけですませてしまっている。
段を全部組み立てて全部飾るだけのゆとりがないのである。
しかも、3日過ぎてもそのまま放置したことが何度あったことか。。。
娘は、100歳まで生きても、金輪際嫁には行けまい。
雛人形を飾るのは、かえって罪作りにもなりかねない。

もうちょっとゆとりがあったら雛人形を飾るのに、残念である。
何とも優雅なインテリアではないか。
子どものころ家に飾ってあった母の段飾りは、40センチ四方くらいの
小さな段に、丸っこい粗末な粘土製のかわいい人形だった。
ほのぼのとした、実にいい味わいの顔をしていた。
そのせいか、娘のを買うときも、細面のエレガントな人形を買う気になれず、
ふくよかな真多呂人形の中から選んだ。
本当は、さらに、段飾りでなく、寝殿造りの一画のようなものはないかと
探したのだが、まれにあっても高価すぎた。

雛人形の原点は、王朝時代の宮中のミニチュアである。
着せ替えごっこ付きのままごと遊びである。
ま、早い話が、貴族社会の女の子たちの、りかちゃん人形みたいなものだ。
桃の節句専用のお飾りなどではなかった。
桃の節句には、それとは別に、人形を川に流して、女子の厄を流した。
両方が合体して、今のように雛人形が扱われるようになったのは、
室町のころだったか、、武士の世になってからである。

段飾りというのは味気ないものではないか。
清涼殿のような間取りのフロアにちょっと趣向を凝らして配置したいものだ。
そうすれば、人形にももっと表情があらわれることだろう。
ものぐさなくせに贅沢なことを言っているけれども、
長年こんな風に思っているわけだ。



2004年03月02日(火) 「ハーレム」DVD

新発売のサラ・ブライトマン「ハーレム」DVDが届いた。
アメリカ発売の直輸入品らしい。
注文するときには気にしていなかったが、見始めて、困った。
サラちゃんがいろいろしゃべっているのに、字幕が出ない!!
輸入品を買うときの、要注意項目に加えておこう。

しかし、話したり笑ったりしているサラちゃんにはあまり魅力を感じない。
今まで、ライヴDVDを3本買って見たが、いつもそう思う。
歌っている表情が何とも言えず魅力的だ。
歌っている口元には何とも言えぬ色気のようなものが漂っている。
しゃべったり笑ったりしている口元には、そういう魅力が感じられない。
あれほどいい声で、しかも歌がうまくなかったら、
わざわざ映像まで求めようとはしなかったはずである。
私にとっては、今までで最高の歌手である。歌の女神と讃えてもいいような。

残念ながら、今回のはライヴDVDではなかった。
凝った映像で構成されたプロモーションビデオ集みたいなものだった。
買うときは、とりあえず何でもいいから欲しいと思ったのだった。
モロッコやエジプトの美しい風景を背景にしていたり、
さまざまな映像を交錯させて目を楽しませようと工夫されているが、
かえってそれが落ち着かないだけでなく、歌手の魅力を損なっている。
「ラ・ルーナ」や「エデン」のライヴDVDのように、
何度でも見たくなるような感動がない。

さんざん工夫してあっても、ライヴ映像の方が楽しめるってのは皮肉だ。
録画とはいえ、やっぱり伝わってくる緊張感が違うのだろう。
早くハーレム・コンサートのDVDを出して欲しいものだ。
首が長くなるだけでなくて、長くなった喉から手も出てきそうだ。。。



2004年03月01日(月) タッチタイピング2週間目

ローマ字入力でタッチタイピングの練習を始めてから2週間目のようである。
この2週間、よほどのことがない限り、キーボードは見ていない。
”「”や”?”は見ずに打てても、”」”や”〜”の時は見てしまう、、、
まあ、そんな感じである。
もちろんまだ早いとは言えない。
一字一字考えなきゃいけないときも多い。
けれども、煩わしさや億劫な気持ちはなくなってきた。
コナンの練習ソフトでも、毎晩2、30分練習している。
ビシバシ打てるときもあるけれど、いったんつまづくとパニック状態に陥り、
復活するのに時間がかかる。
連続して打つ分には速いこともあるが、冒頭の1字にウッと止まったりする。
脳の中で、回路が混乱するのだろう。


☆ひらがな入力からローマ字入力にして、便利になった点

・〜、?、!、「、」、もだし、。、・もなのだが、
 ひらがな入力の時のようにシフトキーを押さなくてもよくなった。
・濁点のつけ間違いがなくなった。
 ローマ字入力しか知らない人にはわからないことだろうけど。。。
 ひらがな入力では、後から点々や丸を加えて濁点にするのである。
・4段でなく、3段が基本だから、タッチタイピングが可能である。
 ひらがな入力で試みた時期があるけれど、すぐに不可能だと悟った。
 だから、やはりこのメリットが最大である。

☆タッチタイピング便利な点、、、便利なのは当たり前だが、、、

・とにかく、手間が省ける。見る場所が減るというのは当たり前だが、、、
・間違いにすぐ気づく。
 キーボード見て打ってると、画面を見てから、ありゃりゃ〜、、となる。
・特に入力方法の変更にすぐ気づけるのがありがたい。
 特にひらがな入力をしていたころは、英数字モードになっているのに
 気づかないまま、何文字か打ち込んで、画面を見て間違いに気づいて、
 それから消して打ち直すということが多かった。
 ローマ字入力ではそういう機会は少ないけれど、何度か助けられている。

☆ひらがな入力の弊害

・イの段の字とエの段の字を間違えやすい。
 「E」の位置にかな入力の「い」があるからかも。。。
・「す」と打とうとして、「る」と打ちがちである。
 「R」の位置にかな入力の「す」があるからかも。。。
・「ぬ」は右手人差し指の操作だが、左手の小指が左上に伸びようとする。
 「ぬ」はそこにあり、かな入力の悩ましい点のひとつだったからである。

これだけではないのだが、要は、長年の習慣がつい出てしまって困るのだ。
けれども、いくら習慣というものは恐ろしいといっても、
十数年の習慣から抜け出すのに十数年もかかりはしないだろう。
普通の人よりは余計な労力を使うことになるけれど、辛抱強く続けよう。

目先の安易さにだまされると、後でこのように苦労することになるものだ。
一見厄介そうでも、定番には定番になるだけのよさがあるものだ。

けれども、タッチタイピングは絶対にいい、とも言えないような気がする。
視点が長時間狭い範囲に固定されがちだからである。
視力のためには、眼球はあちこち動いた方がいいのである。
この点はちゃんと意識して気をつけなきゃいけない。 




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