TENSEI塵語

2003年12月31日(水) 大晦日

大晦日とはいえ、日本人が長い間使っていて日本文化の土台となっていた
旧暦でいえば、まだ12月9日である。
不思議なことだ。
昔もこんな日に除夜の鐘をつき、明日から初詣をしてたのかな、、、?
な〜んて、そんなわけない、
今回のむつきついたちは1月22日だそうだから、それが元旦のはずである。
旧暦12月9日のきょう108の鐘をついたって除夜の鐘の意味はなかった
はずなのに、太陽暦を採用したら僧侶も神官も太陽暦に合わせたところが
何ともおもしろいものだ、
神仏の摂理であればそんなことで変わりっこないはずなのに。。。

しかしまあ、とにかく我々にとっては、ひとつの節目である。
本当は、4月の新学期が大きな節目なのだが、
2003年が終わるとか言って世間があまりにも大騒ぎしているから、
自然とそれにおつきあいするはめになるわけだ。

今年はとにかく転勤で慌ただしい1年だった。
3月から9月までは、とにかくひたすら落ち着かずバタバタしていた感じだ。
もう転勤は御免である。
それでも、行事もなくなった10月あたりからようやく慣れてきて、
わりと自分のペースで生活できるようになったように思う。
7限授業も、かえって時間的なゆとりに感じられてきたし、
こうして担任してるのがもっとも気楽でいい、基本だという気分に戻った。
20年近く腹の中に納めたまま取り出さずにいたことも、
自分の担当範囲内で試み始める余裕も生まれてきた。
それは、古典の活用語の訓練を徹底的にやらせることと、
HRの生徒たちに日々の復習を具体的に勧めるということである。
前者は勇気が出ずに、後者はいい方法が見つからずに躊躇していたのだった。
学校運営に対する提案も、徐々にわき出る状態になってきた。
ちょっとおもしろくなってきたぞ、という今年の暮れである。

昨日見つけた戦争体験リンク集、あれを生徒に読ませる教材にすることも考え始めた。



2003年12月30日(火) ある戦争体験記

忙しい1日だったと言えばそうも言える。
午後は台所掃除で手を油まみれにし、トイレ掃除もした。
腰が痛くなって座っているのもつらくなったので、夕寝をした。
夜は風呂場の全面掃除をした。
それから、最後の2集分を一挙放映した「映像の世紀」を見た。
第2集から欠かさず、見たくてたまらない気持ちで見続けたことになる。
年末年始にはしばしばこういう番組に出会えるのでうれしい。
第10集の民族紛争の特集を見ながら、また涙ぐんでしまった。
もっとよく知って、自分の言葉で自在に語れるほどよく知って、
生徒たちに伝えなければならないことがいくらでもあるのだと思い知った。

昼前は何をしてたかというと、こんなこと↓を書いていた。

橋本さんが日記の中で「戦争を語り継ごう リンク集」のサイトを
紹介していたので、ちょっと覗いてみた。
http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/
そういえば、どんな細かいことでも検索して調べるという技を覚えながら、
こういうサイトを検索するということを思いついたことはなかった。
とりあえずひとつ読んでみようと、特にこれという理由もなしに
クリックして入って行ったのが、「サイパン島の怒号」という体験記である。
http://www.nsknet.or.jp/~yamabuki/taga.html

ついつい一気に読んでしまった。
九死に一生どころか、九百九十九死に一生を得たようなスリルの手記で、
よくこんな中をくぐり抜けて帰還されたものだと、敬意を表したくなる。
食料も水もなく、武器もなく、飢えと渇きに耐えながら、
ただジャングルの中を砲弾を避けて逃走する体験記である。
周りの日本兵たちは次々に死んで行く。
この筆者が生き延びたのは、かすかながら水・食料を得ることができ、
たまたま弾に当たらなかったからである。
その攻撃のすさまじさもよく伝わってくる。
そうして筆者はついに殺されることなく捕虜として捕らえられ、
ハワイやカリフォルニアの収容所を転々とさせられ、
終戦2年後に帰国する。
故郷では戦死者としてとっくに弔われていたそうである。

私はそのヒヤヒヤするような極限状況の物語を読みながら、
そのきっかけの部分を忘れずに読んでいたので、常に怒っていた。
彼らは何のためにこんな運命を背負わされたのだろうか、、、?
筆者は召集されてから約3ヶ月の訓練を受け、
数ヶ月後にトラック島へ出兵となったが、危険で近づけず、
とりあえずサイパン島に上陸することになった。
そのころはまだ米軍は上陸していなかったようである。
筆者は見張りの仕事だけは義務づけられていたようである。
2ヶ月近く経ったころから空襲が始まり、以後は逃げるだけの毎日である。
これといった戦闘があったわけではないようだ。
1発撃てば千倍になって返ってくると言って、銃の使用も禁じられたようだ。
ということは、応戦するほどの備えもない状態に放置されていたのか?
そんな状態のところに、なぜ彼らは派兵されなければならなかったのか?
戦場の現実を知らない役人が、ただ駒を機械的に動かすように、
多くの生命を無駄な死に場所へと送り込んだだけではないのか。
そんなことを怒りながら読んでいたのだが、私なんかの怒りより、
体験した筆者自身のまとめの言葉の方が切実であろう。
私自身の覚えとして、ちょっと引用させていただくことにした。

・・・・・・・・
振り返ってみると「お国の為にお役に立とう」と勇んで村を発ったのですが、
何かお役に立ったことがあったでしょうか。
怯えながらジャングルの山中をさまよい、
側に戦死した友の遺体をそのまま放置して、逃げ惑うことがほとんどで、
何とお詫びの言葉もありません。
私自身が死と直面した毎日でした。
人生の基礎を築く大事な年代に、4年間も死と対峙〔タイジ〕し、
恐怖の逃避生活を余儀なくされ、九死に一生を得て生還しても人目を憚って、
外出も控え目な生活をしなければなりませんでした。
捕虜となったことで、こんな引け目を感じたり、罪悪感に悩まされることを、
戦後の教育を受けた人には理解できないでしょうが、
戦前の教育では最大の不名誉で、
家門の恥、男子の恥ということをたたき込まれていたのです。
アメリカでは「名誉の捕虜」という言葉があって、
凱旋勇士と同等の扱いをするそうですが、
国民性と教育による考え方が違うことを痛感しました。

ある夜、夢を見ました。
「お前はなぜ生きて帰って来た。
 恥しいだろう、俺が殺してくれるからここへ入れ」
と棺桶に入れられ、火葬場に着いたところで目が覚めたことがありました。
又、今ここにいる私は本当の自分だろうか?
柔らかく温い蒲団の中に寝ているここは、本当に自分の家だろうか?
信じられないような疑問と幻想に悶々と日を過したことも長く続きました。

私が何を悪いことをしたと言うのでしょう。
あの当時の国の指導者は何を考えていたのでしょうか。
国益の為になると思っていたのでしょうか。
大和魂で勝てるとか、日本は神の国だから負けることがないとか、
そのうち神風が吹いて敵の艦艇は全部沈没するとでも思っていたのでしょうか。
武器らしい武器も無く、精々が帯剣と手榴弾だけの肉弾となって、
最後の声を振り絞った鬨〔トキ〕の声をあげながら、
敵弾雨霰〔アラレ〕と飛び散る中ヘ突撃して散った若い兵士達に、
何とお詫びしようと美辞麗句を並べて称讃しようと、散った命は蘇りません。

鳴呼!、怒号の涙が止まりません。
『子よ、孫よ、こんな愚な戦争に参加してはならない!!
 平和こそ人類の最高の仕合わせだ』

今、振り返ってみて、私の手で人を1人も殺さなかったことは、
最高の幸運であり、最高の誇りだと思っています。

最後に、平成7年8月7日に来日された
ワイツゼッカー前ドイツ大統領の講演の中に、
「過去を否定するものは、その過去を繰り返す。
 心のこもった謝罪でなければ、謝罪にならない」
また、「過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目になる」と言われました。
なんと素晴しい言葉でしょう。
現在の日本の政治家達が以って銘すべき名言だと思います。
いや、政治家ばかりでなく、我々1人ひとりの日常生活の中にも
座右の銘として、肝に銘じていきたいものだと思います。




2003年12月29日(月) 「BR」「DH」を思い出して、、

今夜も「映像の世紀」を見た。見ずにはいられなくなってしまっている。
今回は、アメリカにとってのベトナム戦争がテーマだった。
結果として、アメリカにとって実に無駄な戦争であったばかりでなく、
国内にもさまざまな混乱をもたらしてしまった、ということになる。
こんな風にたった2行でまとめてしまっては申し訳ないほど、
番組の中身は豊富だったのだが、この番組を見ながら、
いつも思い浮かべていたのは、「ディア・ハンター」という映画である。

大学時代に見たきり、それ以来見ていないのでかなり忘れている。
けれども、あの映画を見たときの恐ろしい感情は今もよく覚えている。
そのひとつは、主人公と2人の友人たちが北側の捕虜となり、
ロシアン・ルーレットをやらされているときのあの恐ろしさである。
何という残酷な賭け事をしていたんだ、、、と憤ったものである。
それ以上に恐ろしく感じたのは、主人公の友人の1人が、
戦後帰国して、恐ろしいほど虚無的に生活していた姿である。
その経緯がどうであったか、もう映画の内容はよく覚えていない。
彼は、主人公とロシアン・ルーレットをして、自らこめかみを撃って死んだ。

・・・こりゃダメだ。もう1回見てみなけりゃいけない。記憶に自信がない。
DVDを買ってあるのに、まだ見ていない、、、こわいからだ。。。

番組を見終わってあれこれ考えているうちに、
ふと、「バトル・ロワイヤル」を思い出した。
本は読んでいないが、だいぶ前にビデオを借りて見た。
噂に聞いていた時より、ビデオを見たら多少救いが感じられもしたけれど、
何でこんな話を思いつくんだぃ、という思いは見る前も後も変わらなかった。
あまりにもひどい設定としか思われなかったのだ。
けれども、小説の作者と映画の作者の意図とは関係ないことを言うようだが、
戦争というものはああいうものなんだ、とふと思ったのだ。
ある権力集団が、勝手にバトルを企画する。
そんなことを願いもしてないのに、偶然その時代にそこにいたというだけで
そのバトルに巻き込まれて、生死の境に置かれる。
兵士とさせられた以上、戦わなければ殺されると、絶えず脅されて戦う。
そして、多くの人々が、あっけなく無駄な死を遂げてしまう。
生き残ることができたのはうれしいかもしれないけれど、
大切なものを失ったという傷はいつまでも残る。。。

理不尽な死は、日常生活の中でもそこら中で待ち伏せしている。
けれども、戦争はそれ以上の、理不尽な大量虐殺へと駆り立てる。
好んで民衆をそれへと導く権力者たちの精神構造は、いったいどうなってるのだろうか。。。



2003年12月28日(日) 愚かな為政者たち

「映像の世紀」を第2集から見続けている。
昨夜は、9時50分ごろから2集分の放映だったので、少し遅れたけれど、
市吹の練習から帰るなりビールを手にして見始めた。

過去の様々な問題のひとつを、時間をかけて掘り下げた番組もある。
そういう番組を見て深い感銘を受け、放送局に感謝するときもある。
先日も、アウシュヴィッツに関する番組を見て、ここに書いたばかりである。
「映像の世紀」は、そういうのと違って、駆け足でたどって行く。
それは皮相な描写に終わるのかもしれないが、
見ているうちに、何とも言えぬ哀しみに支配されてしまう。

ひとつの事柄について扱う時間は短いけれども、
目に入ってくるのは、生々しい実写であり、
耳に聞こえてくるのは、的確なナレーションと、要所での哀しいテーマ音楽。
時間的にも地理的にも東奔西走する映像が我々にもたらすのは、
何でいつまでも性懲りもなく同じ悲劇を繰り返してるんだぃ、という思いである。

先日、第二次世界大戦の部について、そんな思いを書いたのだが、
第二次大戦が終わっても、もちろん平和が訪れたわけではなかった。
朝鮮戦争やベトナム戦争のような目立った戦争ばかりでなく、
そこら中で内乱があり、多くの罪のない庶民が死ななければならなかった。
そしてきょうは、核兵器の脅威に抑止された東西冷戦の模様である。
日本は、新憲法によって戦火から遠ざかることができたのだけれど、
世界はそうではなかったし、日本だって、戦火は避けたものの、
明瞭には見えない形でさまざまな戦争に協力してきたのは確かだ。

・・・いや、、日本が、ではない、そうしてきたのは日本の為政者たちだ。
各国だって、特定の国を敵視したり占領しようとしたりしてきたのは、
詰まるところ、その国の為政者たちとその取り巻きであって、
大多数の庶民は、平穏に仲良く暮らすことを願ってきたはずなのだ。
その願いを一時的に歪め、鼓舞し、好戦的にさせたのも為政者たちだ。
彼らはなぜ、国のため、と言って、人々を悲惨へと駆り立てるのか?
なぜ、世界を守るため、地球を守るため、人間の幸福のためと言わないのか?

番組を見ながら何とも言えぬ悲哀に包まれてしまうのは、
当代きっての各国の教養人であるはずの為政者たちが、
今もって、そういう広い視野で世界を動かすことを願いもせず、
国家的エゴや、民族・宗教の対立等にかかずらって、
あちらこちらに不幸な民を増産しているという根本的な認識のためである。

そうして、番組とはまったく関わりなく、こんなことも思うわけだ。
この終戦後の60年近い間、憲法の平和主義を貫くために
日本の与党がどんな努力をしてきたと言うのだろう、、?
彼らは、踏みにじるためのさまざまな努力をしてきて、
そうして今になって、現実に合わない憲法を改めるべき、と言い出したのだ。
自らの憲法違反の歴史を、憲法自体に責任転嫁しているわけだ。



2003年12月27日(土) 年賀状作り

ようやく実際に冬休みに入ったので、昨夜から年賀状に取りかかった。
昨夜だいたいのデザインが決まったので、きょうは印刷にかかろうとしたら、
何と、9月に買い換えたこのPCに年賀住所録が移してなかった。
その時バックアップを取ったCDを見ても、そこには入っていなかった。
うっかり忘れてしまったらしい。
春に、前のPCのシステムを再インストールしたときに
MOにバックアップを取ったときには入れたという記憶がはっきりある。
しかし、今のPCにはまだMOドライブを使えるようにしてないので、
今朝はまず、MOのドライバをインストールするところから始めて
住所録を見つけてこのPCにコピーするところから始めなきゃならなかった。
便利な機械を使うためには、めんどうなこともしなければならぬ。
全体としては手間が減り、しかも高度になっているのは確かなのだから。
今回は初めてフチなし印刷まで可能になった。
プリントごっこでぺったんぺったんやっていた時期も懐かしいが、
もうあんなめんどうなことはやりたくないという気持ちが強い。
宛名書きも煩わしいことは多々あるけれど、
私にはとうてい書けないような楷書を数秒のうちに書いてくれるものだから。



2003年12月26日(金) 第二次世界大戦

「映像の世紀」第5集は、「世界は地獄を見た」と題して、
第二次大戦の全容を時間的にも地理的にも駆け足で記録したものである。
たったの70分間の間に、数年間の世界大戦をたどるのだからたいへんだ。
けれども見ているうちに、今まで感じたことがなかったほどの
深い哀しみに支配される。
今まで、戦場で戦わざるをえなかった人々の思いも見聞きしたし、
収容所で恐怖や飢餓に苦しんだ人々の思いも見聞きしたし、
空襲や原爆の中で逃げまどい、その後悲惨な運命をたどった話も見聞きした。
それらはみな、いろんな機会に、部分的に入ってきた情報である。
それらだけでも、二度と戦争を起こしてはいけないという思いを
起こさせるには十分なはずだった。

今夜の番組は、見ながら、いったい何をしているのだ、と哀しませるのだ。
(もちろんこの悲哀には要所要所で流れるテーマ音楽が効果的に絡んでいる)
ヒトラーのドイツがポーランドに空襲を加えるところから戦争が始まった。
兵士と兵士、軍隊と軍隊の戦いでなく、
武器を持たない一般市民を無差別大量虐殺することによる戦争が始まった。
ドイツも日本も、そうすることによって快進撃を続けた。
大量に下ってきた捕虜も虐待した。
ドイツはさらに、戦闘とは関わりないユダヤ人も大量虐待した。
アメリカでは、日本の真珠湾攻撃を気に、日系人が収容所に入れられた。
市街戦も行われ、武器を持たない市民が大量に死ぬはめになる。
やがて戦況が逆転すると、日本でもドイツでも、
一般市民が空襲等により無差別大量虐殺されることになる。
何をしたためでもない、ただそこにいたから死ぬ運命に遭ったのだ。
そこに生まれ、そこに住んでいたというだけで死なざるをえなかったという
大量の市民があちこちにいたということである。
番組のナレーターは最後にこう語った。
「第二次世界大戦の死者は、6500万人と推定されています。
 そのうち4000万人が、武器を持たない一般市民と推定されています」

番組の途中から、得意そうなヒトラーの顔を見るたびに、
首を絞めてやりたくなったものである。

頼むから、喧嘩は、したいやつらだけで、人の迷惑にならないようにやってくれぃ。何が「お国のため」だぃ。



2003年12月25日(木) アンサンブルコンテスト

「映像の世紀」がファシズムの台頭を扱っていたのに、
1日の疲れでうつらうつらしながら見て、終わったらすぐ寝てしまった。
書いているのは翌朝である。

今年のアンサンブルコンテストの出場数は、申し込みが68チーム、
プログラムを作るまでに辞退が2チームあり、直前に1チーム辞退して、
65チームとなったが、去年よりもまたさらに増えたわけである。
主催者としてたいへんうれしいことであるが、
しかも、今年から県の理事長になっているKさんが客席から戻ってきて、
「今年はなかなかレベルが高い。何じゃこれ、というのがない」
と言ったように、ぞっとするほど低レベルの演奏もなくなったのもうれしい。

出場数が多ければ多いほど、進行が遅れないように気を遣うわけだが、
生徒の動きも実に協力的で、ほとんど時間どおりに進行した。
審査員の1人も、2度ほどわざわざ私に向かって感嘆の言葉を口にした。
演奏時間5分以内のところを、1チーム5分ずつで区切っているから、ちょっと油断するとどんどん遅れてしまう。
打楽器アンサンブルは、非常に多くの打楽器を使うので、
入れ替えに時間がかかり、1チームあたり7分確保していても
毎年遅れぎみで課題になっていたが、
今回は事前に午後出場予定の生徒などを手配するようお願いしておいたら、
これもしっかり協力が得られて、時間内に進行した。
実に気持ちのよい展開で大会が進んで行った。

それでも、表彰式まですべて終わったのが6時過ぎ、
それから後の処理をして、自分の学校の3人の生徒たちを家に送り届けて、
(学校までの予定だったのに、何と、荷物が部室に置いてあるという。
 案の定、そんな時間には校舎は堅く閉ざされてしまっていた。
 自転車の鍵がかばんの中に入ったままだというので自転車で帰れない。
 それで、家まで送り届けるしかなくなったのである)
家に着いたのが9時前になった。
精神的にはそれほど疲れたつもりはなかったけれど、やはり疲れていたらしい。



2003年12月24日(水) 「映像の世紀」(2)

明日の朝早いというのに、結局見てしまった。第3集である。
世界恐慌前のアメリカ国民の様子がよく伝わってくる。
明晩の第4集は、恐慌の中でのファシズムの台頭だそうである。
ついつい今の日本の状況と重ね合わせてしまい、見ないわけにはいかなくなる。

明日はたいへんな1日だ。
とにかくまずこれをクリアしなきゃ冬休みに入れない。例年のことだが。。

今の通勤途中にはケーキ屋がないので、ケーキの注文をできずにいたら、
昨日娘が自分でデコレーションしたいと言い出したので、
昨日・きょうと材料など調達してやった。
一応それらしいものができた。おもしろいものである。

バッハの受難曲はまだ聴き始めていない。



2003年12月23日(火) 「映像の世紀」

ここ2、3年、加古隆のCDを聞く中でテーマ音楽だけ親しんでいるが、
NHKの「映像の世紀」という番組は1度も見たことがなかった。
今夜、第2集の第1次世界大戦のところをやったのを見た。
平成7年に放映されたものだというから、知らないのも当然である。
あのころはまだ、とうていテレビを見ることのできる状態ではなかったから
新聞のテレビ欄さえ見る気になれなかったころだ。

想像していた以上に実写フィルムが多い。
戦場の生々しい映像だけでなく、当時のさまざまな国の様子まで描いている。
これを見るまでは、てっきりNHKが収めた映像で構成されているのだろう
と思っていたが、世界中のフィルムライブラリーの強力を得ているらしい。
世界の貴重な映像を集約しているだけでなく、
世界史の横のつながりがとてもわかりやすいように編集されている。


しかし、今夜はもう眠い。
部活のアンサンブル指導と、明後日のアンサンブルコンテスト準備と、
交互にあたふたやって、校舎の点検・施錠をし、
大いに上り下りし、歩き回った1日だった。
まだまだのんびりできない。。。



2003年12月22日(月) 終業式〜

「激酷猛暑」で始まった2学期が、厳寒で終わった。
それは、それだけ長い期間だったはずだし、
実際の意識として、学校祭の9月などかなり昔の思い出に遠のいているのに、
あー長かった、というような、それほどの感慨はない。
1学期に比べて、かなり心身が慣れてきたからに違いないのだが、
それだけではなくて、自分としても何らか動き始めて、
一種の楽しみめいたものを感じ始めたためだろう。
担任としても、また古典の授業でも、長年躊躇していたことを実行し始めた。
まだまだこれといった明白な成果は出ていないけれど、
それらも何となくおもしろい感じがしているのである。

きょうは学年の忘年会だった。
教務主任も来ていたので、先日からちらちら考えているけれど、
具体的方法がなかなか見えてこないことをちょっと話してみた。
総合学習の時間に、イラク問題、さらには中東問題を扱えないか、という話。
教務主任が苦し紛れの案を作っているためでもあり、
彼が世界史の教員だということもあって相談してみたのである。
私自身は、この総合学習の時間をそう真剣にやりたいわけではないが、
何せ今年の1年生は、進路ばっかしである。
イヤになるほど、進路のことばっかしである。
そんなに大事なことかいな、と、自分の若いころを振り返って疑問に思う。
回り道をするのも大事な学習ではないか、と思うと、
なんか、必要以上に生徒を脅迫しているような感じにとらわれるのだ。
2年生用の計画案を見せてもらったときに、
今その内容をしっかり思い出せないのだが、同様の空しさを覚えた。
形骸化させるのが無理なのならば、
もうちょっと、知るべきことを知ることができるような時間にしたいものだ。

今のような時勢ならば、中東問題や年金問題に関心を持たせることも可能な
ように思うし、そこから社会問題に目を向けさせられるような気がする。
新聞やニュースに関心をもつものも増えるかもしれない。
我々自身も勉強不足だし、、、いいんじゃないの? ともに学べば、、、
てなことを考えているだけでも、ちょっと楽しくなるものである。
でも、具体的にどうするかということになると、相変わらず濃霧の中である。





2003年12月21日(日) 仕事三昧の連休

本務の方の仕事が一段落して、ゲームでもして遊びたいところだが、
昨日もきょうもずっとPCの前で仕事していた。

きょうの昼過ぎから夜までは、アンサンブルコンテストの準備である。
プログラム原稿を入力し(何しろ、66団体もある!)、審査用紙を作り、
審査集計表のフォームを整備し、厄介なところの大半を終えた。
もうひとつ厄介なのは、厚手の色コピー用紙を買ってくるのと(案外少ない)
それを700枚ほど両面印刷しなければならない作業である。
それを仕分けすれば、ほとんど準備完了となる。
あとはアナウンス原稿を作ればよい、、、これもなかなか厄介だけど。。。

昨日からきょうの昼過ぎまでは、原稿書きをしていた。
1ヶ月ほど前に、上智大の国文学会から原稿依頼の郵便が来た。
中等教育(つまり中・高の教育だ)についての提言や問題点を
書いてほしがっていそうなことはわかったけれど、
今ひとつ趣旨がわかりにくいのと、忙しいのと、600字以内という
字数制限が苦手なのと、不特定多数に出しているのだろうからという思いで、
無視していたら、1週間前に会報の編集担当者から電話が来た。
在学当時助教授で飲み仲間のひとりだったM神父が候補者にあげたので、
原稿依頼をしたのだと聞いて、断るわけにいかなくなった。
自信ないままに承諾したものの、案の定、この1週間その余裕はなかった。
昨日それを思い出して、かといってどの問題について書いたらいいか
的も絞れないので、6つの原稿を書いた。
きょうの昼ごろにざっとそれらを点検して、
使えるものがあったら使ってください、加筆・削除・修正は許可なく自由に、
と添え書きして、メールで送った。
このサイトに書いたことばかりなので、あえて紹介する必要もないが、
そのうち、「教育」のコーナーにUpすることにしよう。

そういえば、HPの方は放ったらかしだなぁ。。。
冬休みにヴァージョンアップしなきゃ。。。



2003年12月20日(土) 雪の事故

今週の頭にタイヤをスタッドレスに交換したときには、
今週中に雪が降るなどとは予想していなかった。
年内は降らないとは思うけれど、万一平日に降られたら困るわけだし、
特に、25日のアンサンブルコンテストの日に降られたらおおごとである。
あくまでも万一のためであって、とても降りそうな感じがなかった。

昨夜の雪はそう積もらないだろうとたかをくくっていたが、
朝起きたら15センチくらいの積雪だった。
前々から午前中に出かける予定にしていたが、仕事ではないのであきらめた。
雪道に、そう安易に車を出すべきでないと思うからだ。
平然とノーマルタイヤで走っている大胆なやつもいるから危険である。

夕方から市吹に出かけた。
行きはよいよい帰りはこわい、である。
行きは、うちの周辺から脱出しさえすれば、
あとは雨上がり程度の地面の濡れようで、滑る不安はなかった。
けれども、9時過ぎて帰るころには、水たまりの水も凍るほどの冷え込みだ。
車道はたいていまだ凍っていないから普通に走ればいいのだけれど、
こういうときは、とにかく路面をしっかり見て注意しないといけない。

歩道に突っ込んで電柱に激突しているワゴン車が見えた。
ちょっと驚いて軽くブレーキを踏んだら、何となく違和感を感じたのは、
橋というほどの橋ではない、小さな川の上のめだたない橋である。
スピード出していたのが、ここで何かの拍子にブレーキかけたら
車の向きが変わってあの位置に激突ということがあり得そうだ。
電柱は倒れて、バッティングセンターのフェンスにもたれかかっていた。

名岐バイパスの木曽川に架かった大きな橋の上では、
トラック2台とバス1台、乗用車2台が左端に、乗用車1台が中央分離帯に
停まっていて、パトカーが来てまだ事故処理の最中のようだった。
こんな大がかりな事故現場を見たのは何年ぶりだろう。
橋の上というのはこわいものである。
もう少し先に行くと、陸橋になったところの対向車線側で、
車2台の事故らしいところにパトカーが停まっていた。

さて、岐阜に入ってきた。
岩戸トンネルまでは路上の雪はなかったけれど、
もうひとつのトンネルに入る高架に登ると、かなりの雪が残っている。
山の陰になっているから雪が残りやすいのだ。
どの車も慎重にゆっくり走るので、数珠繋ぎになったけれど、
単独で安易に走ると危ないぞ、と思ったら4件目の事故車が目に入った。
乗用車が1台歩道を越えて、壁に激突している。
その手前のカーブのところに雪が固まっていて、つるつるの感じだった。

きょうは午後あたりから路面の雪もほとんどなくなり、
ノーマルタイヤで安易にでかけて、ほんのちょっとした落とし穴にかかって、
激しい事故に遭っているのかなぁ、と思った。
とにかく、橋の上と山の麓あたりはもっとも注意すべきなのだ。

さて、長良川を渡って私の住む区域に来たら、雪国になった。
しっかりそこら中に雪が敷かれて凍結している。
特に住宅地の中に入ったら、ばりばり音を立てながらの氷上運転になった。
これだから、冬用タイヤは不可欠なのだ。
このあたりはしつこく雪が残りがちなのである。



2003年12月19日(金) 初雪

年内はたぶん雪は降らないだろうと思いつつ、月曜日にタイヤを替えた。
早すぎるかなぁ、早すぎたかなぁ、来年でもよかったかなぁ、、と思ったが、
昨日の朝、今夜の雪の予報を聞いた。
能登の輪島の上空に−25度以下の寒気が来ると雪が降りやすいそうである。
今夜は−40度の寒気が流れ込むという話だった。

保護者会の間は、ストーブなど入れなくても十分しのげる程度の陽気だった。
と思っていたら、4時前後に初雪が舞い始めた。
かなり大粒の雪が、斜めに走り降りてくる。
その雪がいったんやんでから、急速に寒くなった。
いかにも冬らしい冷え込みようである。
今季発初の、いかにも冬らしい冷たさを味わうことができた。

帰り道も、途中まではほとんど降っていなかったが、
岐阜に入ると、激しい雪に加えて、路上の積雪が始まっていた。



2003年12月18日(木) 保護者会2日目

昨日13人、きょう15人、、、終わって喫煙室に入ったら、
もう動く気がしなかった。頭がぼおっとしている。
明日は残り8人だ。楽勝〜、って感じである。
私の保護者会は、ほとんど雑談みたいなものだが、それでもひたすら疲れる。
というわけで、きょうは死にかけているので。。。



2003年12月17日(水) 二者懇談

親と子と担任とで行うのを三者懇談、
親だけ、または生徒だけと行うのを二者懇談という。
学校は前々から三者懇談の方針でやってきたらしくて、
統一して配られる案内にも、三者懇談で行うと明記してある。
しかし私はそれを無視して、前回も今回も二者懇談で行っている。
生徒にも親にも、何でこのクラスだけ二者なのか、と問われることがある。
生徒には、めんどくさいから、とでも答えている。
生徒はただひたすら喜んでいる。

前任校ではどちらでもよかったので、基本的に二者懇談にしていたが、
三者懇談にしたこともある。
ある年に、夏休み前は二者で、冬休み前は三者で行った。
ほんの2、3例に過ぎないとはいえ、夏休み前には流暢に語った親が、
冬休み前には、実に遠慮がちで、ほとんどしゃべらない、
しゃべっても妙に警戒しているような慎重で形式的な発言、、、
こっちの調子も狂わされてしまう。
何日か経って電話をしてきて、先日は話せなかったことだが、、、と
いろいろと相談する親もいた。
これじゃ、何のために親に来てもらうのかわからない。
3年生になると、進路の具体的な話を相談するという懇談会になるので
三者懇談にしないとかえってめんどくさいことになるけれど、
1、2年生のうちはほとんどそんな必要性もない。
できるだけ、親としての率直な思いを聞いて参考にした方がいいと思う。

私自身は、担任として生徒が同席しようがしまいが、言うことは同じだが、
話すべき相手が2方向に分散されるので煩わしいと思う。
親として保護者会に臨んだときでも、我が子がいようがいまいが、
言うことも態度も変わらないので、
娘などは、家にいるときと同じだと言って妻よりも私の出席を望んでいたが、
内心は、三者懇談の方が多少窮屈に違いないのである。
自分が生徒だったころを思い起こすと、三者懇談は鬱陶しかった。

あえて三者懇談を指定する理由が私にはわからない。
学校というのは、とにかく人のいやがることを強いるところなのか、
と、皮肉な解釈もしてしまう。
確かに、親の意見を参考にして、生徒に言った方がいいことを、
その場ですぐに伝えることができるというメリットはある。
けれども、私の経験では、その時に生徒が「はい、わかりました」とか
「はい、がんばります」と言ったところで、
それが親を前にしての体裁を繕っただけだということは、
何日もたたないうちに証明されてしまうものだ。
表向きメリットがあるように見えても、実質はそうでもないものだ。

今までで、三者懇談でよかったと思ったのは2年生をもった時の一例だけだ。
1学期に3つほどの赤点(不合格点)をかかえ、
2学期の中間考査でも深刻な赤点を3、4個取ってしまった生徒が、
2楽器の成績としては赤点をなくしてしまった。
母親は、息子の低迷する成績をあきれたように非難してまくしたてた。
私は、こりゃまずい、と思って、
「彼にとっては今回赤点をなくすということを第一目標に努力したんだから
 その点だけは評価してやっていいんじゃないですか?」
と母親をたしなめた。
当の生徒は、声には出さないが、「そうです」と口を動かして笑顔になった。
母親は、先生もてっきり一緒になって子どもを叱ってくれると
期待していたらしく、心外だというように語気を弱めた。
母親はがっかりするように帰って行ったけれど、
3年生でもその生徒を受け持ち、保護者会で母親に会ったとき、
あれから自分でも考えを改めて子どもに接したら、
家のこともいろいろやってくれるようになったし、
将来どうしたいかも率直に話してくれるようになったと言って感謝された。
こんな一例ぐらいのものである。



2003年12月16日(火) 忙し、、

明日から3日間の保護者会だ。いろいろと準備がある。
生徒の定期考査の成績個票をノートに貼り付けながら、
今まで4回の定期考査の成績の流れをたどって、
それぞれの子の生活の様子を振り返ってみるとおもしろい。

アンサンブルコンテストの準備も進めなければならない。
今年は去年よりもさらに4チーム増えて、67チームである。
主催者としてはうれしい悲鳴、、だが、準備はますますたいへんだ。
今夜はタイムテーブルを作ったが、プログラム作りを思うと気が遠くなる。

忙しいけれど、きょうしか平日の午後があいていないので、
一昨日・昨日と2台の車のタイヤを冬用に替えた、その外したタイヤを、
例年どおり、柳津に借りている物置に収納に行った。
これだけは何とか大仕事が終わった、という感じである。

あんまりあわただしいものだから、食料品の買い物はちゃんとできたけれど、
酒屋に寄って夜中の楽しみのウイスキーを買うのを、忘れた。



2003年12月15日(月) フセイン発見? 拘束?!

夜中の1時40分である。
寝る前にiMac の電源を落とそうとして、つい魔がさしてテレビを見たら、
名鉄美濃町線の映像が流れていた。
懐かしい、、というか、普段見慣れているのをテレビ映像で見るのが
また興味深くて、軽い体操をしながら3、4分見ていた。
その間に、「この後、予定を変更して緊急報道」などと字が出てくる。。。

CMの後始まったのは、フセイン拘束の速報だった。
農家の納屋の小さな穴の中に身を潜めていたそうである。
髭もじゃになっている。
イラクのある市の市民は喜んでいるらしい。
アメリカの方の街頭インタビューの方が冷ややかな反応だったような。。。
本物なのかい? などと言ってる人もいるし、
まただまされるんだわ、なんて言ってる人もいる。

とにかく今のところはどうにも判断しかねる。
もうすぐブッシュの会見も始まるようだが、今夜はもう寝ることにしよう。
今夜また続きを書こう。



喫煙室に、朝日と中日の号外が置いてあった。
電車通勤の先生が駅前でもらってきたものだそうだ。
各国首脳の声明はおおむね楽観的のようだが、
武装勢力の攻撃が沈静化するかどうかはまだまだわからないようだ。
拘束されたときの状況から考えると、フセインは放っとかれ状態のような、、
つまり、あの抵抗運動とは関わりがないように思われる。
とすれば、相変わらず戦闘が続くわけだ。
それでも、ブッシュもブレアも日本政府も、追い風に吹かれ始めた。



今夜はもう眠い。
かなり冷え込み始めている。きょうタイヤを替えてきた。



2003年12月14日(日) けちけち教育財政

昨夜は、また書きかけで意識を失ってしまった。
テレビ見ているだけで2時過ぎてしまい、眠いまま書き始めたからである。
今朝見たら、また不思議ながら書きかけのまま登録していたようなので、
一応のところを書き足しておいた。
それから、バンドネオンのサイトに飛んで、実に有意義な情報を得た。
  http://www.yk.rim.or.jp/~msda/
きょうは新しく知り得たことについて書こうかな、と思っていたら、
朝刊にまたむかっ!とするような記事があったので、変更することにした。

文科省が来年度小中学校の教員を980人増員しようと予算請求したら、
財務省はそれを拒否したそうである。
子どもは減少しているんだから必要ない、というのが理由のようだ。
とにかく、記事が短すぎてよくわからない。

980人ばかり、、、?? たったの、、??
都道府県は今いくつあるんだっけ、、、47なのかな、、??(=_=;)
ま、ともかく、県あたり20人程度ではないか、、!
1校あたり何人の増員なのではない、何校に1人という程度の増員である。
ふざけてるんじゃないだろうか。
これで何かお仕事をなさっているつもりらしい。
ま、これっぽっちの増員が認められて、きっちり教育にも配慮してますよと
いばられるよりも、却下された方がよさそうだ。
ほとんど意味のない増員だ。

現場知らずの教育政策に現場が混乱させられているのが今の教育界だ。
本当に現場を知っていたら、今のように、小学校の教員数が、
1学級あたり1人というのは絶対にいけないと、改善を図るはずである。
少なくとも、芸術や体育には専科をおかなければならないことも、
わかるはずである。
そういうところにはまったく配慮ができない。
そんな中で、尾張部の小学校では、障害児学級の廃止を始めようとしている。
つまり、今でさえ多様な傾向性を持つ生徒が入り乱れていて、
1学級1担任制の中で悪戦苦闘しているというのに、
そこに、心身障害児も入れようというのである。
表向きには、共に生活する中で思いやりや優しさを育てよう、とでも言うが、
もちろんこれは、教員配置の節約のためでしかない。
1校にたった数名のクラスを1、2クラス作って、そこに1人ずつ
担任を配置するのが、現場知らずの連中には無駄にしか思われないからだ。
子どもたちのためにどうするかよりも、とにかくひたすらけちけち財政。
ますます授業のしにくい状況を作っておいて、
そしてまた、いずれは、学力低下の原因は週5日制にあるとか、
教員の資質が問われているとか、まったく違ったところに持ち込むのだ。

とにかく、小学校の教員数を増やさないことには、
こちょこちょと指導要領をいじっても、迷惑なだけで何の足しにもならない。
肝心なことは何もしてくれないのに、いらんことばっかり上から降ってくる
というのが、今の日本の教育界の実状である。
私は高校の教員だけれども、高校教育を改善するためには、
小・中学校の教育環境を改善してもらわねばならないと思うのである。



2003年12月13日(土) バンドネオン

最近またタンゴを好んでよく聴いていたのだが、
聴いていてもっとも心奪われる音色はバンドネオンの音色である。
オーケストラ曲一辺倒だった中・高時代はオーケストラ的タンゴに惹かれた。
バンドネオン中心のバンド的演奏は安っぽくてイヤだと思ったものだ。
今はもうそういうもったりしたタンゴは聴けなくなっている。
バンドネオンの醸し出すそこはかとない郷愁に心惹かれる感じである。

その形状を思い浮かべるだけで、さまざまな謎に包まれる。
とにかく、鍵盤がないのだ。
右手は鍵盤、左手はコードボタンのアコーディオンとはまったく違うらしい。
左右に多くのボタンが付いているだけだ。
いかにも弾きにくそうなのに、最近聴くタンゴでは、
いわゆるアドリブソロ的なメロディーを華麗に弾いていることが多い。
アコーディオンのように楽器を体に固定するわけでなく、
膝の上に置いただけで蛇腹を開け閉めしながら、
ボタンを押しながら演奏しているわけだから、至難の業のように見える。

今夜は、また夜中になってから、タンゴについての番組を見た。
タンゴ発祥の地は、約100年前の小さな港町の酒場、というあたりも
とてもおもしろかったのだが、
それ以上に、バンドネオンについての話がおもしろかった。

今あるバンドネオンのほとんどはドイツ製である。
そのメーカーたちも、第二次大戦後はもう生産をやめてしまった。
アルゼンチンで今も生産されているわけではないのだそうだ。
アルゼンチンには修理屋がわずかに存在するだけで、
中古品を修理しながら回しているだけのようである。
楽器メーカーのカタログを見ても載ってないはずである。
(後でサイト検索してみたら、今も製造しているメーカーは
 数社は存在するようである)
ヨーロッパで発明されて使われていたころは、
携帯オルガンとして、聖歌など歌うときに使われていたようだ。
それが今では、タンゴ専用の楽器になっているわけだ。

ボタンの疑問についても少し答えてもらえた。
何という驚き!・・・アルゼンチンタンゴのバンドネオンは、
音階がバラバラに配置されている上に、
蛇腹を開くときと閉じるときでは、同じボタンでも音が変わるのだという。
なんという厄介な構造なのだろうか。
けれども、どの奏者を見ても、実に気持ちよさそうに弾いている。
残念ながら、なぜそんな構造になっているのかという説明はなかった。

もう少しこの楽器について調べてみたくなったのだった。



2003年12月12日(金) アウシュヴィッツの傷跡

昨日のもくろみを実行に移した。
ちょっと遅くなった仕事帰りに、ちょっと時間的に無理をして、
PC屋に寄ってTVチューナーを手に入れて帰り、夕食後接続してみた。
PCでテレビも見られるなんていう事態はあまり現実的に想像できなかったが、その現実の光景が意外とあっけなく私の目の前で展開した。
ハードディスクへの録画なら、ほんのボタンひとつで簡単にできそうだ。
そこからDVDに録画するところまでは、まだやれてない。
そういう気にさせる番組がなかったからである。
けれども、実は夜中にそういう番組があったのだ。

このTVチューナーの機能をもう少し調べようと思って、
夜中の1時過ぎに起動してみたら、その本来の目的を忘れて番組を見続けた。
NHKで「死の国の旋律〜アウシュヴィッツと音楽家たち」をやっていたのだ。
アウシュヴィッツで女性オーケストラの団員となれたために、
強制労働からも死からも守られた3人の女性を取材した番組だった。
あれから60年近く経つ今も、傷の癒えていない人々である。

そのオーケストラは、収容所の人たちが強制労働に出かけるときや
帰ってくるときに演奏をして送迎する役割を担っていた人たちである。
常にナチス親衛隊の監視の中で演奏を強要されていた人々である。
労働者が帰ってくるときに死体も帰ってくる、それでも演奏をやめられない、
もしも演奏をやめれば即座に銃殺される運命だったからである。

終戦後解放されてから、3人とも当時の楽器はもう弾けなくなってしまった。
(これだけで、もう十分すぎるほどの悲劇のはずである)
第一の女性は、10年目にようやく事務員として働く気持ちになれたが、
軍服を見るだけで大声で叫んで気を失ってしまうので、
すぐに解雇されてしまったという。
思い切ってコンサートに出かけてみても、
収容所で弾いた曲を聴いてしまうと意識を失って病院に運ばれた。
13年目に思い切ってアウシュヴィッツを訪ね、
正面から向き合うことによってようやく力を得て、楽譜を書いたり、
アウシュヴィッツ体験を語ることによって生計を立てて来たようである。
第二の女性は、その女性と今も支え合って生き続けているが、
いまだに当時のことを語れない、忘れようとばかりしている。
第三の女性は、戦後解放されてからイスラエルに住居を求めたが、
パレスチナ人を難民に追いやっているイスラエルの同士たちを、
ナチスと同じことをしていると批判してドイツに戻った。
ドイツでは、ネオナチスを擁護するような警察官たちを叱咤したりした。
収容所のオーケストラではアコーディオン弾きだったが、
最近は、アウシュヴィッツ体験を歌で語り続けているという。

フランクルの「夜と霧」とか、いろいろ読んだり見たりして、
生還者のその後を楽観的にとらえがちになってしまってしたようだ。
極限状況からぎりぎりの帰還を果たした人々の精神は、さまざまなのだ。
彼女たちだけではない。
彼女たちの口から語られるエピソードの中には、
ガス室の誘導係を命じられていた人の中に、
自分の父や、自分の子どもたちをガス室に誘導し、そうして処刑後、
その遺体を焼かねばならなかった人もいるということだ。
みな、自分自身が生き続けることを願っていた、、、けれども、
生還してから、自分は生きるべくして生きてこられたのか、と、
明確な答の出そうにない難問のために苦しみ苛まれているのだろう。

その第一の女性は、自分を見失いそうになるたびに
アウシュヴィッツを訪ねてきたという。
番組の最後は、彼女のおそらく生涯最後になるだろう
アウシュヴィッツ詣ででしめくくられていた。
彼女は、解放されてもなお、60年近くの間、ヴァイオリンを手にできず、
自己の存在の意味を問い続けている。
ヒトラーが彼女からヴァイオリンを取り上げた、、、それだけで、
この上ない罪ではないか。

多くの印象的な言葉を聞かせてくれる番組だったが、
「アウシュヴィッツは叫んでいる。
 人間たちよ、もっと深く考えよ」という最後の言葉が印象的だった。
しかし現実は、平和憲法改悪へとひた走りに走っている。




2003年12月11日(木) iMac でテレビ?

職員室のくつろぎコーナーで昼食を取りながら新聞広告を見ていた。
DVDレコーダーの79800円という値段を見て、隣のI先生に、
今はこれぐらいが相場なのかと尋ねたら、そんなもんだろうと言う。
まだ高すぎるねぇ、、、などと言っていたら、
今まで考えてもいなかったことを言い出した。
そんなものを買うよりも、マックにテレビチューナー買ってつないだら?

すぐにはピンと来なかったのだが、よくよく考えてみればできそうである。
DVDは専らiMac で見ているし、CDもDVDも焼けるマシンである。
サブマシンとしか使ってないから、容量も十分残せるだろう。
もしそれが可能であれば、画質は今のテレビデオよりいいに決まってるし、
かさばるビデオの山からもしだいに解放してもらえるだろう。

切り出した質問は実にしょうもない話だったのだけれど、
またひとつ、新たなチャレンジへと発展することになったのだった。
帰りに早速PCショップに寄りたかったが、会議で遅くなって寄れなかった。



2003年12月10日(水) 評定が出た

成績処理もほぼ終わり、クラスの生徒の成績が回ってきた。
評定1の赤点が15もあったので、こいつら〜(`ε´)とも思ったが、
1学期よりはかなり少ないし、人数を数えてみたら5人だけである。
ひとりで6科目抱えている生徒は中間考査後ほとんど投稿しなかった生徒だ。
3科目抱えた生徒が2人。どちらも、髪も赤っぽい上に、勉強しない。
2科目抱えた生徒は精神的に弱い。
1科目だけ抱えた生徒は、1科目だけというのが奇跡だ。

いずれにせよ、中間考査では赤点保持者が30名近くいて、
現社だけで19名、理科だけで10数名いたことを思えば、
あのころ願っていた以上に減ったと思えばいいわけである。
これがあの復習強化策の成果かどうかは、
もう2、3日かけて分析してみないと何とも言えない。
ただ、ざっと見た限り、あの課題に毎日のように応えていた生徒たちは、
一学期よりもうんと学年順位を上昇させているようである。

帰りのST時に、期末考査の個人成績表を配ったが、
大歓声やら何やらで、なかなか解散の挨拶ができなかった。
解散後も、何人かの生徒が自慢話をしにやって来る。
中間考査の成績表を配ったときとは大違いである。

そんな中で私が1番感銘深かったのは、あるおとなしい男子生徒である。
めったに表情を表さない、いつもはずかしそうに話す生徒である。
彼は1学期からずっと学年で150番から200番までの間を行き来してた。
けれども今回は、学年で53番である。
彼は個票を相変わらず無表情で受け取って戻ろうとしたけれど、
それを見ながら立ち止まって、苦笑いをしながら何度も首を傾げた。
素直に現実を認めがたい風だったが、実に魅力的な笑顔だった。
彼は、復習課題を毎日提出し続けたひとりである。



2003年12月09日(火) ふうせんココア

またまた ShockWave のゲームである。
ココアというのは、キャラの犬の呼び名らしい。
そのココアが風船を持って空に浮いてゆっくり落ちるので、
マウスクリックで少しずつ浮かせてやりながら、
飛んでくるハチに刺されないようにうまく避けてゴールまで導く、
そんな実に簡素なゲームである。
モードが「かんたん」「ふつう」「むずかしい」に分かれていて、
それぞれにいくつかのステージが用意してある。
さすがに「むずかしい」モードになると、
わずかなタイミングでやられてしまうという部分が用意されていて、
単純なゲームなどと侮ることはできなくなる。

簡素なものは、アレンジしやすいし応用も幅広くなるということだ。
変奏曲のテーマに選ばれるのも簡素なメロディーである。

Web 上で無料で遊べるが、500円の有料版だとステージ数が多く、
特にランキング登録もできるスペシャルコースは、
有料版のステージ数でないと上位に入れそうにないこともあって、
有料版のダウンロードをして遊ぶことにした。
そうしたら、フルスクリーンに大きく表示して遊ぶこともできるので、
いっそうおもしろくなった。
スーファミのスーパーマリオワールドをいったんクリアした後の、
スペシャルコースの中に、マリオがふうせん状態になるのがあって、
それをうまく操作するのに苦労したものだ。
あのつらく楽しかった時期を思い出してしまった。

それにしても、このふうせんココアといい、先日のピタゴラスといい、
二角取りといい、ゲーム作者たちの発想の豊かさには頭が下がる。
それはスーパーマリオの時から感心していたことであるが。。。
大は小を兼ねる、と言うが、簡素は複雑を兼ねるとも言えそうである。



2003年12月08日(月) 12月8日

きょうは授業が4つあったが、最初の授業で授業に入ろうとして、
ふと12月8日という日付が目に留まったので、ちょっと予定を変更して、
きょうは何の日だ、と生徒に質問してみた。
結局、4つの授業全部で同じことをしたのだが、なかなか出てこない。
生徒はこういう質問をされると、まず誰かの誕生日だと思うのである。
「先生の誕生日!」などとすぐに思いたがる。
私の誕生日も確かに128だが、1月28日である。
奥さんの誕生日、子どもの誕生日、結婚記念日、、とランダム発言も
めちゃめちゃになるが、私はそんな個人的な話を持ち出すのはきらいである。
「ジョン・レノンの命日」という答えも聞こえた。△にしてやった。

それで、黒板に、
12月 8日
 8月 6日
 8月 9日
 8月15日
11月 3日
 5月 3日
と並べて書いて、ノートにも書かせて、それぞれ何の日か書くように言った。

こういう時間を設定すると実におもしろい。
見て回りながらそこかしこで相談するのを聞いていると、
「5月3日は子どもの日か」「たんごのせっくだろ」なーんて言っている。
相談もせず黙々と書いているこの中にも、子どもの日と書いてるのがいる。
11月3日は秋分の日、5月3日は春分の日、なんてのもある。
8月15日を秋分なんて書いてたらほめてやるべきかもしれないが。。。
「どっちが憲法公布だっけ?」などと相談しているのを聞くと嬉しくなる。
やっとこさ話が格調高い方向に進みそうである。
けれども、「文化の日」という言葉はなかなか出てこないようだ。
文化の日が憲法公布の日で、憲法記念日が施行の日である。
広島と長崎の原爆の日は、わりと多くの生徒が書いている。
でも、書いている生徒の大半は2つか3つだ。
5つまで書けた生徒でも、12月8日のところは空欄のままだったりする。
6、7割の生徒は、ひとつもわからーん状態のようだ。
これが現実である。
10数年間でかなり免疫ができているとはいえ、
やはりこういう質問をするたびに驚かずにはいられない。
それにしても、教科書を進めることばっかり意を注がないで、
生活の中の基本的な知識をもっと点検してやりたいものである。

ま、今は試験後のわりと授業進度にゆとりのある時期なので、
イラク問題、自衛隊派遣問題、憲法改悪問題、、、等々、
社会の問題に目を向けようね、ということの導入みたいに
12月8日を利用させてもらったというわけである。
考えてみると、上に挙げた記念日(?)の中で、
「きょうは何の日?」と尋ねることができるのはきょうだけだ。

ついでながら、清水義範が「日本国憲法」という本の中で詠んでいた名歌を
思い出して、また吹き出してしまった。

  この味がいいねと君が言ったけど5月3日は憲法記念日




2003年12月07日(日) 失いかけている趣味

昨夜は、日誌を書きかけのまま意識を失ってしまった。
というのは正確でなく、もう眠くてしょうがなくなって、
わけわからず電源落としたり電気を消したりして下に降りて眠ってしまった。
こういうときは、書いた文の内容も登録も何もかも忘れて寝ることが多いが、
今朝起きて、見たら、書きかけのまま登録されているのでびっくりした。
何を言いたいのかさっぱりわからん状態で書きかけになっていたので、
何とか昨夜書こうとしていたらしいことを思い出して書き足しておいた。
ま、しょうもない話題なのだけれど、
昨夜、今年の初めに夢中になっていたゲームをちょっとやってみたくなって、
やり始めたらボタンの操作方法をいろいろと忘れているのにびっくりして、
その反動で思いついたような話題である。
体で覚えたことはなかなか忘れない、とはいうけれど、
何ヶ月もやらなかっただけでこんなに忘れちゃうもんかなぁ、、、
それにひきかえ、なかなか抜けない習慣というのもあるなぁ、というわけだ。

そういえば、ギターもコントラバスも、また一からやり直し状態だし、
リコーダーももうたどたどしいだろうし、フランス語も忘れてしまったし、
字も書くことが少なくなって下手っぴになってしまってるし、
毛筆なんてもうぜんぜん書けないだろうし、、、寂しいことである。
ちょっとずつでも続けないと維持できないぞ、とわかっていながらも、
ついつい、間があけばあくほど億劫になって遠ざかってしまうわけだ。

何かうまいこと必要性というものが作れればいいのだけれど、、、
ああ、でも、もうちょっと部屋の整理でもしないと、ギターも出せん(+_+;



2003年12月06日(土) 新車1週間

納車から1週間だが、まだまだ他人行儀みたいなつきあいである。
昨日もまだ、乗る前にズボンのポケットからキーを取り出そうとした。
今度の車では、カードを身につけていれば、ドアロックの解除も、
エンジン始動もキーなしでできるというのに。。。
けれども、乗る前の動作はかなり慣れてきた方だと言えるだろう。

乗ってからの動作がまだかなりぎごちない。
何しろ、エンジン始動も、サイドブレーキも、シフトレバーも、
オーディオも、きょうみたいな雨降りの日だとワイパーも、
とにかくいろんなものが今まで慣れてきたものと異なっているのである。
20年間、ほとんど毎日、車に乗り込むたびに
キーを差し込んで回すことで運転が始まっていた、
そのキーを省略するということが、走り出す前の一連の動作のリズムを
乱してしまっているわけだ。
きょうはうっかりサイドブレーキの解除を忘れて発信してしまった。
さいわい警告音が出たので、そのまま走り続けることはなかったけど。。。

車から降りる前の動作のリズムを狂わせているのは、サイドブレーキだ。
足でペダルを踏む仕様に変わったものだから、
シフトレバーをPに入れたらすぐにサイドブレーキを踏んでおくようにした。
それで、左手がなーんとなく手持ちぶさたで、何か忘れている感じなのだ。
20年間、左手がサイドブレーキを引くことによって運転を終わってきた
その感覚がなかなか変更できないわけである。
何度か左手が勝手に動いて、運転席横のサイドテーブルにぶつかっている。

考えてみれば、20年間というと、1日数回運転したこともあるわけだから、
こういう発進・停車作業を、1万回以上繰り返してきたわけである。
なるほどなぁ、、簡単に習慣が修正されるわけがない。
もちろん、カードを使わず、今までどおりキー操作することもできる。
カードによるキーレスシステムをあえて選んでいるのは私自身の選択で、
あえて習慣を変えようとしているわけである。

もうひとつ、他人行儀でまだ車に慣れ親しめないのは、きれいすぎるからだ。
以前、北さんが私の車に乗り込んでいみじくも言った、
「走るゴミ箱」にはまだまだほど遠いきれいさである。
これは私の空間ではない、どうもよそよそしい、他人行儀だ、、、
それも長い習慣のあらわれである。



2003年12月05日(金) 昨日のつづき

昨夜は眠たくて中断して眠ってしまった。

要するに、勉強嫌いを公言してはばからない生徒でも、
今回はがんばったぞ、テストもよかったぞ、というのは
学校生活で最大級に楽しいことのひとつなのだということを、
再確認できたということなのである。
ならば、そういう機会や刺激を与えてやることは大切な仕事なのだ。
その代わり、勉強せよ勉強せよと連呼するばかりではダメである。
たとえばこんなことをしようと例を挙げて、それを確認してやる、
小学生みたいだけれど、そこまでめんどうを見ないと刺激にならないらしい。
先月、約3週間にわたって復習用紙なるものを配ったのは、
実際にやれば、その子にとって大きな収穫になるという期待なのだが、
実際にやらない子たちにとっても、
危機感だけはできるだけ大げさに感じて欲しかったからである。
説教や演説でどれだけ効果があるか不安だったので、
おまけを用意して説教にあたったというわけである。



2003年12月04日(木) ひとつの楽しみ

最近、生徒がちょいちょいテストの点数を報告してくれる。
聞きもしてないのに、呼び止めて報告してくれるのだ。
「現社のテスト、83点だったよ」などと現社の報告が4つあった。
2学期中間考査で、現社はクラスで19人も赤点だった。
そのゆゆしき事態に刺激されて、先日書いたような復習課題を始めたのだ。
その課題に乗ってこなかった生徒も、そんな報告をしてくれる。
勉強しろ、だけでなく、具体的な何かを提示しながら
刺激してやるのがよさそうである。
「古典のテスト、84点だったよ」と報告してくれたのは、
暇さえあれば文庫本を読んでいる読書家なのに、
国語のテストとなると、常に中位を上下している生徒である。
もっとも、私が担当している現代文の方では、
その子のテストの点数は平均点並で終わってしまったけれど。。。

こうして報告してくれるのは本人自身驚くほど高得点だった場合に限るので、
全体としてどうだったのかはまだわからない。
けれども、こういう報告をしてくれるときの生徒の表情を見ると、
テストにまともに答えられる、授業がちゃんとわかる、というのは、
生徒に楽しい学校生活を送らせる大切な要素なのかな、と思わせる。
本当にいい表情をしている。
担任をやる喜びを実感できるのは、卒業式の直後だけではないようだ。



2003年12月03日(水) 採点地獄

金曜日の現代文の答案の採点が終わりきらないまま、
昨日、試験最終日の古典の答案が入ってきた。
昨日はなかなか集中して採点できる状態ではなかったので、
きょうの3時間目に古典の答案を返すのは諦めていた。
けれども、今朝になってやっぱりそれでは授業の段取り上まずいので、
急遽、LTを自習ということにして、教卓で採点させてもらうことにした。
考査翌日の1時間目に自習というのは無謀だけれども、
3時間目のOCの授業の宿題をやり忘れている者もあり、
明日の終礼時には英語の小テストもあるということで、概ね歓迎された。
寝る者もこそこそしゃべる者もあったけれど、
まったく無視して、一心不乱に採点した。
2時間目の教科会の時にも採点を続けた。
3時間目の直前に点数まではつけ終わった。
教室に行ってから、生徒に待たせておいて、点数を転記して、答案を返した。
それから今度は6・7時間目の現代文の答案返しの仕上げに入った。
それらも何とか間に合わせた。
それから今度は、明日返すべき答案の採点である。
帰宅して、ついさっきそれをやり終えたところである。

まー、ホントにうっとうしい仕事である。
汚すぎる字も多いし、薄すぎて読めない字もあるし、誤字脱字だらけだし、
文章で答えさせたら日本語になってないし、
解答者が知らない人間ばかりだったら採点拒否してもいいようなものだが、
そこをあえて読み取ってやろう、解読してやろう、とするので、
ますます疲れるのだ。
丁寧なはっきりした文字で、授業で教えたとおりに答案を書いてくれると、
赤ペンの方もさっさっさーと動いて何の苦痛もないけれど、
文字も内容もぶっきらぼうで乱雑なのが4、5人も続くと、
こっちも気が変になりそうで、答案の束ごと燃やしてしまいたくなる。



2003年12月02日(火) 冬がまだ来ない

1週間前から教室のストーブも解禁になったが、今のところまったく不要だ。
喫煙室だけは地下牢のような冷え冷えとした部屋なので、終日ストーブを
焚いているが、それ以外では挨拶にも「寒い」の語は聞かれない。
ここ数日、曇ったり雨が降ったりという天気が続いていたけれど、
ひんやりした空気を感じることはあっても、冷え冷えとはしなかった。

きょうは久々の快晴だった。
午後からは風も強くなったが、寒風吹きすさびはしなかった。
午前中は風もなく、とても静かでのどかな陽気だった。
試験監督しながら窓から外を眺めると、上空にはほとんど雲がなく、
彼方の空に、ぽつん、ぽつんと雲が浮かんで静止していた。
たしかにその空の下には、冬枯れというか、冬木立というか、
冬独特の色彩で景色が眺められるのだが、肌の感覚はそれとは不釣り合いだ。

12月に入ったというのにこの暖かさ、、というのはちょっと記憶にない。
たいてい今までは、吹奏楽祭のころから寒さを感じるようになり、
職員室でのストーブ使用が解禁になる前からストーブが欲しくなったものだ。
一度冷え込んでからまた寒さが緩んだ場合でも、
これほど平穏なムードが漂うような陽気であったかどうか。。。

寒くならないのは、大陸に高気圧が張り出してこないから、
寒気が流れ込まないのだと、昨日の朝、気象協会がラジオで説明していた。
あ、なるほど、「西高東低の冬型の気圧配置」にならないわけね、
ととりあえず納得するものの、じゃあそうならないのは何故かはわからない。

この暖かさがいつまで続くのかはまったくわからないようだ。
たいてい毎年今ごろにタイヤをスタッドレスに交換するのだが、
今年は新車になったばかりということもあって、まだ変えてない。
12月20日ごろに交換するからと、車屋に予約はしておいたけれど。。。
何年か前に、そう寒くもないのに早々とタイヤ交換したら、
2、3日後にいきなり大雪となって助かったこともあるけれど、
あの時の「そう寒くない」と今の「寒くない」というのは程度が違っている。

そういえば、今年は、本格的な夏の訪れも遅かった。
8月の中旬まで、夏休みの意味がないほど涼しい毎日が続いていた。
8月の下旬になってからようやく夏がやってきて、
たまらないほどの猛暑が9月下旬まで続いた。
立秋を半月も過ぎてから猛暑となり、中秋まで続いたということになる。
あの夏も異常だったけれど、この1ヶ月間の生暖かい寒さも異常である。
ひょっとしたら、2月の立春後から春分にかけて本格的な冬が訪れるのかもしれない。



2003年12月01日(月) 似非教育家たち

小学校設置基準なるものを検索して見てみた。
昨年の4月から改訂されたのだという。
読めば、ばかばかしい限りである。
1学級の児童数が、昭和22年制定の「50人以下とする」が、
「40人以下とする」に変わった以外、そう大した違いはないではないか。
「設置基準を最低基準と位置づけ、設置者は水準向上に努めること」
と第1条で断ってはいるものの、
設置者が最低ラインをいつも保ってきたばかりか、
昨今では、最低ラインぎりぎりで工面しているのが実状である。

この改訂版を作るのに、どれだけの議論がされたかはわからない。
思うに、この程度の改訂には、ひとりが案文を書いて、
ほんの10分読み合わせて「ご苦労さん」で十分だろう。
現場のことを何も知らない人たちが寄り集まって
全国隅々までの教育を規制するのだから、実に恐ろしいものである。
現場を知っていたら、とてもこんな条項を発表することはできまい。
教育のことを真剣に考えてないからこんなことを大いばりで公表できるのだ。
真剣に考えていたら、恥ずかしくて居酒屋でも話せまい。
理念も何も抱いていないことがまるわかりである。
金がかからないように、、、それしか考えていないのだから。。。
似非教育者たちをどうやって教育してやればいいのだろうか、、?

小・中学校設置基準の最低ラインはこうでなきゃいけない。
「1学級あたり30人以下とする。
 教員数は、1学級あたり2人以上とする」
これが現代の最低基準である。
そうして、小学校3年生か4年生あたりから専科授業制にしてもらいたいものである。


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