TENSEI塵語

2003年11月30日(日) 納車日

毎回そうだけど、恐れと不安と淋しさに包まれる納車日である。
先月23日に注文したニューオデッセイは12月中旬以降、
年内納車も難しいかもしれないと言われていたが、
10日ほど前に半月ほど予定が早まったと連絡が入って、
バタバタと書類の用意などして(大半は店の方で書いてくれるけど)、
きょうの納車ということになったのだ。
楽しみだねーとみんな言ってくれるけど、今まで納車日が楽しみだったのは
古い中古アコードから、中古だけどグレードの高いアコードに変えたときと、
トヨタのルシーダからオデッセイに変えたときだけである。
今回が7台目なのだが、納車日というのは別れの淋しさに包まれる日である。
そうしてまた、慣れない車に乗る緊張を強いられる日でもある。
どちらかというと、たいへん億劫な日である(大枚を放出するしー、、)。

さて、きょうは、いろいろと今までと違った仕組みがあるので、
店へ車を引き取りに行って、1時間半も説明を聞いたり確認したりした。

まず、最も新しいのは、カードによるキーレスシステムである。
カードを身につけていれば、離れたらドアロックされるし、
近づくとドアロック解除されるし、そのままキーなしでつまみを回して
エンジンをかけることができる。盗難防止機能も高いそうだ。
もちろん、キーを併用することもできる。
運転席シートは電動で上下前後に動かすことができる。
2列のリアシートの操作方法も今までとだいぶ違っている。
サイドブレーキは足で踏むことになっている。
オートマのレバーには、マニュアルモードもついている。
今まではなかった、折りたたみ式のテーブルが運転席横についている。
フロントガラスやサイドミラーにも熱線が入っているそうだ。
車体にコーティングをしてもらったのでその注意事項も聞かなきゃならない。
何やかやで、いつもだと2、30分で終わる受け渡しの行事が、
1時間半を越えてしまったのである。
私はこれでもかなりオプション装備を切りつめておいたけれど、
フル装備の車を買ったりしたらたいへんなことになりそうだ。

さて、いざ乗ってみると、今まで以上に快適である。
走行音はますます静かだし、キーレスも便利である。
10年ほど前に誕生したときから、ずっとお気に入りだった車が、
格段にまた進化したことがよくわかる。
燃費もうんといいようだが、これはもっと後にならないと確認できない。
けれどもまだよそよそしい。
他人の家で遠慮しいしい居候しているようなものだ。
新車が自分の空間になるまでにまだかなりの日数がかかる。
さまざまな思い出のまとわりついた車を手放した代償は案外大きいものである。



2003年11月29日(土) 学習合宿よりは、、、(2)

2泊3日のプログラムの決められた案をもとに考えてみた。
まず、自学自習の習慣を作る機会としてこういう行事を考えるなら、
合宿という形は必要ないし、かえって日数も窮屈になってしまう。
学校で、何日間か行えばいいはずではないか。
金銭の負担も実に無駄である。
また、その3日間にいろいろなプログラムを盛り込んで統一するのは、
かえって場当たり的なものになって効果が薄いのではないか。。。

だから、まず、勉強内容は生徒が個々に計画すべきである。
ある問題集を1冊、とにかく相当量やり進めるだけでもいい。
1学期間に受けた補習の総復習をするぞ、というのでもいい。
ひたすら英単語と熟語を覚えるぞ、というのでもかまわない。
この日のこの時間はこれ、この時間はこれ、と計画してもかまわない。
自分が入試に向けて何をすべきかを考えて、それぞれが計画する。
(もちろん、場を設定する側の責任として、事前点検・指導が必要になる)
要するに、本来自宅で個々にすべきことなのだけれど、
それができない、その経験を欠いているから、サポートするわけである。
大学入試に必要なのは、本来はこの能力なのだし、入試に限らない、
最近流行りのはずの、生涯教育という視点からもためになるはずである。

私自身の経験では、この種の勉強に取りかかったときに自信になったのは、
単語集1冊覚えきったとか問題集1冊最後までやりきったという実感である。
三日坊主、3週間坊主だけでなく、買った問題集や参考書の、
3分の1もやらずに、知らないうちに忘れてしまっていたのが実状である。
受験勉強の第一歩は、教科書なり参考書なり問題集なりをやり倒すこと、
やり倒す、というと誤解されそうだけれど、征服することである。
読書嫌いが本1冊読破したときの充実感と似ている。

そんなわけで私が出した結論は、3年生の夏休みの補習はなしである。
補習の代わりに、自学自習特訓期間とでもして、個々の学習を監督する。
8月10日まで、約3週間、約15日間できるわけである。
朝9時から、80分ずつ3コマでも4コマでもよい。
各自の勉強は相当量進むことは確実である。
集まるのはその気で集まる生徒たちだから、寝てばっかりということはない。
喋ってばかりという危険は、監督がつけば絶対大丈夫である。
その監督も、教科にこだわらずつけることができる。
国数英理社の教員ばかりに負担が行かないというメリットもある。

私自身の経験では、たとえば問題集なり単語集なり取り組んだ場合、
なかなかページが進まないうちは前途遼遠という思いに圧迫されて
意気消沈するものだが、半分以上とか7割方とか進むと、
何とかこいつを征服してやりたいという励みに変わるものである。
これがさらなる学修意欲につながったりするものだが、
ここまで自己を律するのが苦しい、、、で、負けてしまうものなのだ。

こういう体験の中で、生徒たちが何かをつかんでくれないだろうか、、、
また、他律と自律の相克する状況に耐えながら、
自律への力を養ってくれないだろうか、、、
学習合宿反対を考える中で、私はかえってそんな思いに変わってきた。
私は、高校時代まで批判的だった受験勉強の中で勉強の楽しさを実感した。
それは実に複雑な心境になる事態ではあったが、
要するに、何でもそうだけれど、勉強も真剣にやってはじめて、
その楽しさがわかるものなのだ。
入試で合格することよりも、勉強の楽しさをわかってもらえれば最高である。





2003年11月28日(金) 学習合宿よりは、、、(1)

10月26日に学習合宿の案が出ていることについて触れて、
その発想のくだらなさを批判して書いたのだが、その続きである。

先週の木曜日に、その具体案がいきなり進路部会に出てきた。
今の学校には、学校活性化委員会なるものがあるらしくて、
そこで検討済みだから、きょうの職員会議に提案するのだと言う。
見ると、夏休みに入って約2週間後の日付で2泊3日、
場所は生徒が自転車でも行けるようにと江南市の一施設、
3年生対象、参加費用18000円となっている。
目的には、自学自習の習慣を養うなどもっともらしいことが書いてあるが、
2泊3日である、、、三日坊主の象徴みたいなものではないか(笑)
そううたいながら、内容を見ると、過去のセンタープレテストなど
持ち出して、解説や解答の繰り返しになってしまっている。
要するに、補習の別メニューの集中講座に過ぎない。

ま、こんな行事はほんの一過的なイヴェントに終わってしまうわけで、
生徒にもたらす教育的意義はほとんど認められないものだ。
それなのに、3日間で18000円とはあまりにも高い。
ひとつのイヴェントとして泊を伴う活動には楽しいものがあるだろうが、
この行事の意図は、PR用の看板作りである。
学校のわがままから発生したものに過ぎない。

それでその時は、さんざん批判して、進路部提案ということだけは
撤回させて、活性化委員会提案でとどめるようにだけ認めさせた。
それで、その日の職員会議に出る予定だったけれど、
他の議題に時間がかかりすぎて、提案はかなり先まで延期になった。

さて、それからいろいろに考えてみたのであるが、
自学自習の習慣のきっかけはやはりつかませたいものだと思う。
今の多くの生徒に欠けているのは、この力である。
授業も受けっぱなしで片っ端から忘れて次の授業を受ける。
補習も受けっぱなしで片っ端から忘れて次の補習を受ける。
小中学校時代から、それを繰り返してきているわけである。
今の生徒だけじゃない、私自身が高校時代そうだったから、
その悪循環のからくりが、自身の体験と共に見えてしまうのである。
私が補習に批判的なのは、補習を受けてそれで勉強が終わったと
生徒に錯覚させてしまっている現状のためである。
とりあえずの自己満足に貢献しているだけである。
そうして、結局、受験勉強に入れないまま入試を迎えてしまう。
何とか、このあたりを改善できるような指導はできないものか、、?

(もっとも、私自身は、高等学校という場が受験のためにあくせくしたり
 大学入試のために教育をねじ曲げられることに大反対である。
 高校の勉強だけで大学に行けないシステムなら浪人していけばいいし、
 高校とは別に入試のための勉強を教えてくれる予備校に行けばよい。
 このあたりのことを、世の人々は勘違いしているようである。
 この勘違いのために、高校という現場も振り回されてしまっている。
 実にアホらしいこととは思うけれど、それが現実であり、
 傍観して蚊帳の外にいるつもりでも、そんな立場にいると、
 ますますアホらしいことに巻き込まれて二進も三進も行かなくなる。
 被害を最小限にする、または、どうせやるなら意味あることを、、、
 そんな気持ちで考えざるを得ないわけだ。
 この続きは明日にする)



2003年11月27日(木) Virtual PC

これは、林檎機の上で窓機を操作しているかのように見せかける、
おもしろいソフトである。
要するに、林檎機のシステムのまま窓機のシステムを再現してるものである。
何年か前に Soft Windows 98 というソフトを使ったことがあった。
この時は、CPUが弱すぎてほとんど役に立たなかった。
今回は、OSXしか起動しないiMac がDVD鑑賞専用になっているので、
もうひとつ仕事をやらせようというもくろみで、
買ってインストールして試してみることにした。

これから試してみるのは次のことである。
・Win 版Office と一太郎をインストールして、仕事上の効率化を図れるか?
・まだMac 版の出ていないDVDコピーに挑戦してみること。
後者がもしできれば、かなり大きな収穫となるだろう。



2003年11月26日(水) 現代のイエス

本当にたまたまだったのだが、風呂から上がって自室のテレビをつけたら、
チャンネルがNHKになっていて、「その時歴史が動いた」が始まった。
きょうはガンジーの話だった。無抵抗・不服従主義。
改めてその生涯に感動し、うるうるしながら見ていた。
やっぱり彼は現代のイエス・キリストだったと強く思った。
けれども、彼のあの絶大な説得力というのがどこにあったのかということは、
いまひとつよくわからなかったのが残念だ。

インド独立後の宗教上の対立抗争の中で、
「宗教は、神と人、人と人とを結びつけるものである。
 宗教のために人と人とが争い合う理由は何もない」
そんなようなことを言って、ガンジーは断食に入った。
痩せ細って行くガンジーを見て、多くの人が武器を捨てたそうである。
けれども、宗教的好戦派の凶弾により、ガンジーの尊い生命は奪われた。

イエスの言葉をたよりに宗教というものを知った私には、
そもそも、宗教戦争という概念自体が理解しがたい。
毎日のように報じられる報復テロの数々。。。。
彼らの〈神〉の正体はいったい何なんだ!?
考えれば考えるほど腹立たしくなる現代の難問である。



2003年11月25日(火) 鳥の声!?

十二楽坊 その2である。
「自由」という曲の吹奏楽譜を見つけて、市吹でやってみようと思い立って、
それからまた私のところで脚光を浴び始めた(笑)
ブライトマンの時のように毎日聞かずにいられないほどではなかったのだ。
けれども、「自由」ってどんな曲だったっけ、からまた聞き始めたのである。
そうしたら、CDから鳥のさえずりが長々と聞こえてくるので驚いた、、、
いや、その驚きはDVDを見たときにすでにあったのだが、
2度3度聞くうちに、そのみごとな模倣ぶりに新しい驚きに進化するのだ。
それが「感謝年華」という曲だと確認してまたDVDに戻る。
この曲は、1曲の中で、胡弓だけ、箏だけ、笛だけ、琵琶だけ、そうして、
ツィンバロンのような楽器だけと順々に演奏して、
それぞれのパートごとに名人芸を披露するような構成らしい。
それぞれに実にみごとなのだが、鳥のさえずりもその中の一幕である。

鳥の鳴き声が楽器で演奏されていることで衝撃的だった最初は、
ベートーヴェンの「田園」の第2楽章の終わりである。
フルートとオーボエとクラリネットが3種の鳥の声を模倣する。
実に緊迫した安らぎのひとときである。
それから、かっこうの模倣なんてのはいろんな音楽で使われているし、
マーラーは、「復活」の第5楽章でかなり長い鳥のさえずりを描写している。
けれども、どちらかというと、鳥の声を思わせる歌、という感じである。
野生の鳥の声を彷彿させる点では、「田園」のあの部分が最高傑作だろう。

けれども、十二楽坊の笛の奏者が再現する鳥のさえずりは生半可でない。
音程をかなりの幅で自由自在にコントロールできることもあって、
自然の鳥のさえずりにかなり近い模倣ができている。
実際に鳥がそう鳴いている、という意味ではない。
これは鳥がさえずっているのだ、と聞いて実感してしまうという意味である。
これだけのことができるのは、かなり卓越した耳と演奏技術が必要なはずだ。

DVDを見始めると、必ず箏と琵琶の二重奏の「山水」を聞いてしまう。
この曲は、なぜかCDには収録されてないのである。
これも、着実な演奏に擬音をまじえて、枯淡の世界に誘ってくれる。
実に冷静に、中国での新しい音楽のあり方を追求しているように見える。
いったいどんな人が、この集団の音楽をプロデュースしているのか、
実に興味深いところなのだが、なかなかそういう資料には行き当たらない。

彼女らが、日本では、アイドル的ヒットで若い子たちの間にも人気なのだと
聞いたけれど、なかなか容易には信じがたい話である。



2003年11月24日(月) 3連休。。。

ホントに3連休だったのか、とあっけなさに呆然とする。
うん、確かに、一昨日の夜と昨日の夜は3連休の喜びを確認したはずである。
「明日も休みだし、明後日も休みだー」とか、「まだ明日も休みだー」とか、
ありがたいことだと噛みしめたはずである。
終わってしまえば、2連休も3連休も大差ない、
むしろ、3連休だったのにー、というよけいな思いに煩わされるだけだ。

しかし、昨日、台所兼食堂のドアの取っ手が長い間壊れたままだったのを、
時間をかけて構造解明して修理したり、
トイレ掃除や廊下掃除に時間をかけることができたのも、
3連休故の心のゆとりの賜物である。
最近、遅れ気味でやっつけ仕事みたいになっていた市吹の活動日誌も、
昨日はゆっくり時間をかけて書いたりしていた。
きょうは、試験問題を作りながら、無線LAN のメンテナンスもやっていた。
休日ならではの過ごし方もできているのだろうけれど、
なーんとなく虚しく終わった感が強いのは、内面的な生産性に乏しいからだろう。

最近は、今の職場での仕事の流れや仕組みやペースにもだんだん慣れてきて、
だいぶ気楽にいろんなことができるようになってきた。
生徒の言動に手を焼くということもほとんどないので、
授業をこなし、クラス担任をし、時々分掌の雑用をする程度なら
気楽なんだなぁ、、という思いを、改めて感じている。
(確かに前任校でも、8年ほど前までは、担任が楽しかったものだ)
去年まで、分掌主任という立場にいた時よりうんと気楽である。
きょうは帰ってよさそうだな、と判断すると、定刻になれば、
あるいは時間給をとってさっさと帰るのに、去年までほど躊躇しなくなった。

そんなゆとりがあるせいか、この際ちょっと意を決して、
長年迷ってきたことをひと月前から2つ試してみた。
ひとつは、古典の授業で徹底して品詞分解して、
そのつど、用言の活用を書かせるというやり方である。
私自身が高校時代にやらされて、後にたいへん助かったという方法である。
今までは、いろいろな意味で恐くてためらっていたけれど、
この際思い切って試してみようと考えたのである。
またもうひとつは、日々の授業の復習を
担任の立場から宿題にさせようという試みである。
ノートや教科書を書き写すだけでもいい、
主要項目を何度か書くだけでもいい、どんな方法でもいいから、
その日の授業を短時間でもいいから振り返りなさい、という宿題である。
これも私が小・中学校時代に一時的にでもやって、なるほどと思った方法で
大学に行ってからはかなり高度な方法で実践していたものである。
もちろん、復習を原則としてはいるけれど、
他の方法が良ければ何でもいいことにしてある。
何年もためらっていたのは、ノートにやらせると点検が大変だからだった。
それを、用紙を配るという方法を思いついて、
それならいつ点検してもいいわけだから、実行に踏み切ったのである。
もともと学力が大してない上に、家に帰ると学校のことは忘れてしまう、
だから、授業はまじめに受けていても赤点の危機にさらされてしまう、
そういう生徒が多いので、見るに見かねて始めたというわけだ。
(こんな小学生相手のようなことをやらねばならんことを悲しみつつ、、)
こちらの方は、きっちり応えてくれている生徒は、まだクラスの3分の1だ。
どちらも、成果のほどがわかるにはまだ時間がかかるだろう。

そんなことも、長い目で見れば、緊張と楽しみの種にはなっているけれど、
いずれにしても、内面のドラマを感じない生活はなんとなく物足りないものである。



2003年11月18日(火) 自衛隊派遣

年内に自衛隊をイラクに派遣するのを政府は諦めたようだ。
イラクの治安がますます悪化してきているからだが、
どう新聞を読んでも、人命というものに対する配慮は感じられない。
もしも派遣した自衛隊員に万一のことがあれば、
小泉政権は打撃を蒙るし、来年の参院選もあぶない、という発言ばかりだ。

土曜か日曜の新聞の投書欄に、自衛隊員を恋人にもつ女性の懇願があったが、
人間として当然の訴えも、政府や与党の連中には戯言でしかないのだ。
彼らにとって、民衆なんてものは票田以外に何の価値もない。



2003年11月16日(日) ピタゴラス

先日、shockwave から1200円で買った「ピタゴラス」というゲームの、
パズルモードで時折遊んでいる。
やっと50のパズルをクリアして、第6ステージに入ったところである。
もう何ともしようがなくて一時ギブアップしたものの、
再挑戦して、ふっと思いついた方法でクリアしたこともしばしばである。
発想の転換ということの楽しさを、手軽に教えてくれるゲームである。

いろんなゲームを試みて痛感するのは、
実に単純な仕組みなのに、内容が実に豊かなゲームが存在するということだ。
そこには、ゲーム作者たちの、大いなる発想の転換があるに違いない。



2003年11月15日(土) 久々の土曜休日

1ヶ月ぶりくらいの土曜休日だった。
朝、9時近くまで眠ることができた。
日中はほとんど編曲の仕上げとパート譜作りで終わってしまった。



2003年11月14日(金) 女子十二楽坊

1ヶ月ほど前、隣の席のS氏がノートPCに取り込んだのを聞いていた。
彼はそれを別の人のノートにも移植していた。
その午後は、しばらくの間職員室でその演奏が聞こえていた。
私は、一時的にいい感じだと思っても、胡弓のウィーンウィーンというのが
やがて耳障りになるという経験から、さほど興味を抱かないようにした。

昨夜だったか、CMでちらと新発売のお知らせを見た。
モーツァルトの40番をPOP調で弾いていた。
私の興味を引いたのは、その演奏よりも、DVD発売という知らせである。
この中国の楽団の、楽器やその奏法には興味がある。
夕方、帰りが遅くなってあわただしかったけれど、
近所のスーパーに行ったついでに、CD屋にも寄ってみた。
新発売の「奇跡」というアルバムはあった。
CDとDVDがセットになって、普通のCDアルバムの値段である。
ほとんど迷わず買って帰った。

このDVDは実におもしろい。
大体大まかに言うと、胡弓が4人、笛が2人、琵琶のような楽器が3人、
琴と、ツィンバレンのような楽器に3人といった構成のようである。
日ごろあまり目にしない楽器をかなりのハイテクニックで演奏してるので
見ていて実に楽しい。
曲によっては編成をうんと減らしたりもする。
古箏と琵琶のような楽器の二重奏の「山水」という曲が実に味わい深い。
CDで聴くだけでは早々に飽きてしまうかもしれないけれど、
この映像つきのディスクは実に貴重である。
カメラワークはかなり稚拙であるが。。。

クライマックス近くの曲で、ヴァイオリンの客演が加わった。
モーツァルト40番で始まる「新古典主義」という曲である。
ヴァイオリンの音色を聴くとほっとする。
胡弓はピッチの安定が今ひとつなので、彼女らはかなり合わせてはいても、
やはりどうしても落ち着いた響きにはなり得ていない。

けれども、彼女らの快演を見ているのはやはり楽しい。



2003年11月13日(木) 「白い巨塔」

木曜日だけ、9時からドラマ2本を見なければならない。
9時から「トリック」、10時から「白い巨塔」である。
一晩に2本、2時間制約されるのは困るのだが、しょうがない。
同じ時間に重ならなかったからよかった、とかえって喜ばなきゃならない。
「トリック」は相変わらずばかばかしさもあるが、
山田奈緒子のキャラが絶妙なために、はずせない。
ビデオ録画しながら見ているのは、また見たくなるだろうけれど、
きっとこの第3シリーズも、DVDを買いたいとは思わないだろうからである。

「白い巨塔」は、原作がしっかりしすぎているせいか、実におもしろい。
すでに大学時代に、読み出したら止まらない経験を味わっている。
家で読んでいて、駅に走るように向かって着いたら読み始め、
電車の中で読み、目的の駅に着いて降りて、歩き始めても次が読みたくて、
歩道の片隅に立ち止まって読み続けたり、
座れる石を見つけて座って読み続けたりしたほど、夢中になった小説である。
今回のドラマ化では財前くんに人情役者的唐沢くんというキャスティングで、
当初大いに不安を抱いたが、もうそんなことはほとんど気にならない、
とにかくドラマとしてとてもおもしろい。
やっぱり、もう一度原作を読み返したい、という思いが強くなってきた。



2003年11月12日(水) 吹奏楽曲

昨日また新しい吹奏楽CDが届いたので、今夜はそれを聞いて過ごした。
楽天市場のバンドパワーの店長が熱烈なコメントをつけているので、
ついつい期待してこれまでにも数枚買って聞いてみているのだけれど、
どうも、これこそやりたい曲だというほどの曲が見つからない。
金も時間も浪費しているって感じである。
けれども、市吹のためにも、来年以降の混成バンドのためにも、
いい曲を何曲か見つけておかなければならない。
10枚の中に1曲でも見つけることができたら幸運と言うべきだろうか?
とにかく、問題外のつまらない曲が多い中に、
良さそうでやっぱりつまらない曲が時折見つかる、といった具合である。



2003年11月10日(月) 総選挙雑感

一昨日は「明日選挙」と覚えていたのに、昨日は1日忘れていた。
きょうは1日外に出ずにのんびりするぞ、夕飯もありあわせですませるぞ、
と思って、3週間休みがなかったお返しをするつもりになっていた。
夕方妻に指摘されて、あ、そうだったと気づいて、あわてて投票に出かけた。
自分の票が実に空しい一票だということは時勢がらよくわかってはいても、
投票日だと知った以上、投票をさぼる気にはなれない。

毎回毎回投票率の低さを指摘される日本の選挙であるが、
投票所に行ってみると、次々に人が現れているものである。
これでも、6割とか5割とかそんな投票率なのかと疑いたくなるほどである。
けれども、投票に来る人々の姿を見て、複雑な心境に陥る。
この中の多くの人たちは、これだけ庶民の生活が痛めつけられていながら、
庶民の生活を省みない政党への支持票を投じるためにやってくるのだ。。。
そうして、もっともっと痛めつけてほしいとばかりに一票を投じるのだ。。。
実に哀しい選挙ではないか。
井戸端や居酒屋では、生活に対する愚痴をさんざんに吐き散らしながら、
「現状維持の安心感」への深い信仰心故に、現状悪化の維持に努める。

報道は、2大政党制の時代を迎えたとか何とか言って騒いでいるが、
多少の政策の違いはあっても、根本的にどこが違うのかわからない。
かつての、自民と社・共が張り合っていた時代とはまったく様相が違う。
その社会党さえ、政権の感触がほしいあまりに一時自民にすり寄って、
それ以来ふにゃふにゃになって消滅寸前である。
今の2大政党だと、政権交代という夢に踊らされて国民が期待している間に、
もっと恐ろしい、単独支配的な状況が訪れはしないかと。。。
ま、私は、民主党などは野党として認識していないのである。
いわば、野党の仮面をかぶった、与党の一派閥にすぎない、みたいな。。。
報道があれほど大騒ぎするのが、攪乱作戦のように思われてしまうのだ。

それにしても、毎回思うのだが、6割程度の投票率で、
投票者全員から票をもらったわけではないのに、
「国民の信を得た」みたいなことは言ってほしくないものである。
6割の過半数に過ぎないではないか。
「与党3党で安定多数を取れば、継続してがんばれということだ」
と小泉くんは言うけれど、そうではない。
4割の国民はそっぽ向いてるし、3割近くは反対票を投じている、
と解釈すべきである。
(もちろん、そっぽ向いて投票しないやつらはバカである)
与党3党に票を投じた3〜4割の有権者のどれだけが、
現状を理解した上で票を投じているかわからない。
政治家が謙虚であれば、自分たちの路線に不安を感じるはずだけれど、
彼らは、庶民の生活なんかどうでもよくて、
バカな票田がバカであり続けることだけを確かめて笑っているのである。

きょうになって、ふっと気がついたのだが、
今回の選挙戦、宣伝カーからのお願いの連呼を一度も聞いてない。



2003年11月06日(木) ヒアリング

2年後の大学受験生からになるようだが、
センター試験の英語受験者にヒアリング試験が加わるそうである。
20〜30分と、かなり長いものである。
従来の200点満点に50点分上乗せして、250点満点になるそうだ。
そのための道具として、無線のイヤホーンを使うそうである。
その使い捨てイヤホーン代2000円が受験料に上乗せされるようだ。

英語を聞き取れ、しかも話せる、というのはいいことだと思うけれど、
日常的にネイティヴの英語を耳にできる教育環境を整えてやってるんかぃ
と、実に無責任な〈名案〉に腹立たしさをおぼえる。



2003年11月05日(水) 曖昧みぃまいん、、??

中学の入学式前、3月の20日ごろからだったか、
母の軽い勧めをそのまま受け入れて、塾に通い始めた。
3年間通じて見れば、実にできの悪い塾生で3年生の半ばにやめてしまった、
が、中学生としてのスタートを切るには実にいい体験となった。

5部屋の仕切をとっぱらった2階に、細長い座り机を並べて、
100人以上の生徒がひしめき合うように座って授業を受ける。
春でも熱気むんむんという感じの、実に悪条件な塾だったが、
当時は、この地区でもっとも進学指導の確実な塾として有名だった。

さて、その英語の授業の話であるが、プリントを使った授業の合間に、
先生対生徒たちで、会話の初歩の初歩みたいなことをやった。
先生の質問に生徒がいっせいに答えるというやり方である。
What is this? It's a blackboard.
What is that? It's a clock.
Is this a pen? No, it is'nt. It's a pencil.
・・・といった具合に、先生がいろいろなものを指しながら質問するので、
生徒たちが一斉にそれに答えるというわけである。
これを何度も何度も繰り返した。
同じものを3度4度指すことになっても、繰り返した。
意欲的な生徒が大半を占めているので、返答は大合唱になる。

そうして、3教科を終えて生徒たちが荷物を片づけて帰ろうとする時間、
アイ・マイ・ミー・マイン、ユー・ユア・ユー・ユアーズ、、、、
を唱え始めるのである。週3回、毎回である。
先生が唱えるままに、生徒は帰り支度をしながら大声で復唱する。
私も何のまじないかわからないながら、唱えていた。
アイマイミー、、と始まると、何が曖昧なんだ?と思ったりもしたもんだ。
それは、イット・イッツ・イット・イッツ、ゼイ・ゼア・ゼム・ゼアーズ
まで進むと、またアイマイ、、に戻って何度も繰り返される。
やがてそれが、ゴー・ウエント・ゴーン・ゴーイングや
シー・ソー・シーン・シーイング、、、などなどに変わっていった。

この謎のおまじないの意味がわかるのは、あるものは2、3週間後だし、
あるものは2、3ヶ月先である。
けれども、そのおかげで、新しい構文もすんなり受け入れることができたと思う。

中学校の英語の授業が始まってみると、こういうことはあまりやらなかった。
発言も活発で、生徒の発想を大切にする学校だった。
けれども、みんなで発音するのはほとんど教科書を読むときくらいだった。

昨日、隣の席の英語の先生とそんな話をしていたら、
高校生たちも、まさにそのアイ・マイ・ミー・マインとか
ゴー・ウエント・ゴーン、、、からしてぜんぜんわからない状態だという。
だから、とんちんかんな英語を修正するのに苦労するし、
一時的に直っても、すぐにまた忘れてとんちんかんになるのだろう。
(それは、古典文法についても同じである)
実際、英語の試験監督をしながら答案をのぞくと、
なんでこんな文が書けるのか、頭の構造を疑いたくなることがしばしばだ。

意味不明の棒暗記を忌み嫌う風潮がますます強くなっているせいもあるし、
そもそも、1クラスの人数が多すぎるせいもあって、
こういう基本事項の暗記力は低下する一方のようだし、
生徒が英語を発音する機会もどんどん減っているようである。
英語の授業も、理屈ばかりが先行しすぎているように思う。



2003年11月04日(火) みせばやな、、?

職員室で隣の席の年配の英語の先生が、
「私、百人一首で古典の文法やるの、いいと思うよー」と言った。
本当にその通りだと思うし、それを試みようとしたことも何度もあった。
けれども、百人一首の暗唱の段階でかなりの困難にぶつかってあきらめた。

私が高校時代に古典の授業をおもしろいと思った理由のひとつは、
小学生の時にわけも分からず覚えた百人一首の歌の謎が、
ひとつひとつ解き明かされていった、驚きや感動である。
子どものころ、母や妹とよく百人一首でかるた取りをして遊んでいた。
母が読んでくれて、私と妹が札を探すのだが、なかなか見つからない。
母はその間、時には眠たそうになったりうんざりしたりしながらも、
下の句を何度も何度も復唱してくれていた。
私たちも、時にはそれを口で言いながら探していた。
読み手は、時には私や妹に回ってくることもあった。

今思うと不思議だが、その歌がどういう意味かということは追求しなかった。
意味はわからなくても、札取りの遊び自体が楽しかったのである。
「かたぶくまでのつきをみしかな」と聞いて「かたふく」を思い浮かべ、
「おたふくおたふく、、」と探すような、
「はげしかれとはいのらぬものを」と聞いて、
「はげになれとはいのらぬものを」と探すような、そんな程度の遊びである。
早く取れるようになりたくて、絵札だけを何度も読んだりしていた。
そんなことをしているうちに、全部覚えたわけではないにしても、
お馴染みのセンテンスが自然とできあがってしまったのである。
意味不明の暗号だらけのセンテンスである。

それが、数年後に、たとえば終助詞「ばや」の意味を知ったりすると、
突然「見せばやな」というフレーズが浮かんできて、
あれ「見せたいな」みたいな意味だったんだー、と目から鱗になる。
「みゆきまたなむ」なんて女の子の名前を含んだような謎のセンテンスも、
「御幸」とか終助詞「なむ」の意味を知ってしまえば、な〜るほどと思う。
助動詞や、副助詞の「し」や、係り結びや、、、どれも同様である。
わけもわからず覚えていたことが、数年後に数々の驚きをもたらしてくれて、
そのおかげで、この勉強大嫌いだった高校生にも古典の勉強は楽しく、
労せずしていろいろなことをすぐに覚えることもできたのだ。

意味不明の暗記を侮ってはいけない。
英語も同様である。
またの機会に、英語についての同様の思いをまとめてみよう。




2003年11月03日(月) タンゴ

タンゴなんて、若いころにもう飽きてしまって、そう聴かないはずだったが、
最近仕入れた、映画「タンゴ」のサントラ盤は実に洒落てておもしろい。
映画自体はそれほどおもしろいものではなかったのだけれど、
(もちろん、踊りを見せてくれるので、何となく最後まで見てしまうのだ)
音楽に魅せられて、HMVで見つけて手に入れたのだった。
若いころはバンドネオンの音を聞いても、聞き流していたけれど、
このごろは、あの音色や、聞こえてくる奏法に、深い情緒を感じる。
このサントラ盤には、オリジナルの曲もあれば、定番のもある。
ラ・クンバルシータさえ、不思議なほど新鮮な1曲になっている。

タンゴとは関係ないが、昨日ときょう行われた吹奏楽祭で、
もっとも多く演奏されたのは、ディズニー・プリンセス・メドレーだった。
今、私も市吹で扱っている、今年の新譜である。
他にも、アラジンの音楽が2校、別のディズニーメドレーが3校と、
ライオンキングのメドレーが1校と、ディズニーの音楽の人気はすごい。
私自身、ディズニーの曲は、何度振っても飽きない。
「タンゴ」サントラと一緒に「メリーポピンズ」DVDも買って、
何度目かの見直しをしたけれど、実に楽しい音楽が次々に現れる。

ちなみに、今年あたりは市吹で「ライオンキング」をやるべきかなと、
どんな曲かと、吹奏楽祭でしっかり聴かせてもらったけれど、
大しておもしろい曲だとは思えなかった。



2003年11月02日(日) ハシゴ

去年のように、こっちで1ステージ振って、急いで移動してもう1ステージ、
というほどではなかったけれど、朝吹奏楽祭の会場に行って、
開演前の練習につきあって、昼までちょいちょいと世話を焼いて、
昼過ぎに隣の市のホールに移動して、市吹のステージで振った。



2003年11月01日(土) 混成バンド最後の練習

きょうは111の日なので、余裕はないけれど書くことにする。

1年生も模擬テストの日なので、担当者として出なきゃならない日だったが、
午後から吹奏楽祭の準備と混成バンドの練習が入っていたので、
担当を代わってもらって、午前中は遅くまで寝ていた。
昨夜、そろそろ眠たくなるころから「白い巨塔」の昔の映画を見始めて、
最後まで見てしまって4時になったから、10時前に起きたにしても、
寝足りるはずもなく、睡眠不足の感触でむりやり起きたのだった。

昼に学校に寄って模擬テストのようすをちょっと確認してから会館に行った。
舞台の設営やら、準備もなかなかたいへんである。
3時過ぎに、ほとんどの混成バンドメンバーが集まった。
吹奏楽祭前日にこうして集めて練習するのは初めてのことで、
事務局が、準備のために午後から借りたから是非使ってほしいと言うので
練習時間を設定したものの、ホントに集まるか不安だった。
約2時間調整をした。
今回の曲は例年に輪をかけて難しいので、前日に練習できたのは正解だった。
4月からそう練習を見てやらずに来た自分の学校の吹奏楽部の生徒たちよりも
8月から数回だけでも難しい曲の再現に四苦八苦してきた
この雑多な集団の生徒たちの方により愛着が感じられる。
こちらも、いらいらするほど拙い子たちの集まりではあるけれど。。。

会館の中を歩き回ってから市吹の練習に行ったので、
夕方は、足腰の疲れを中心にしてぐったりしていたのだけれど、
市吹の練習が始まると、もう疲れは忘れて指揮台で踊っていた。
明日も明後日も、9時に会館に行かなければならない。


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