TENSEI塵語

2003年07月31日(木) 「12人の怒れる男」

1度も暑さに苦しむことなく7月が終わってしまった。
こんな7月は生まれて初めてのような。。。
晴れてるけど涼しいなぁ、、と感心しながら、
座っているだけで汗がポタポタ落ちるような猛暑の中で、
音合わせに四苦八苦していた何年か前の部活を懐かしく思い出した。
そう、あの泣きたくなるような思いが、結果として歓喜に転じたのだった。

夜は暑くて熱い映画を見た。
大学1年の時に、倫理学の時間に見せてもらい、
それから、大学の演劇サークルのひとつが上演したのを見、
もう1回テレビの放映で見たことのある映画である。
北さんがよく話題にしていたけれど、いいことはわかってるので
そのままだったが、北さんの論調も最近ピークに達していたので、
先日本屋に寄ったついでに、もう1度見てみようと思って借りたのだった。

今夜見始めてから、以前見たのとどうも違うような違和感の中で、
それでも、入念な脚本に感心しながら夢中になって見ていた。
でも、内容は同じなのに、どうも前に見た雰囲気と違う、、、
後で調べてみたら、今夜見たのはリメイク版だったらしい。
レンタル屋には、この1本しか置いてなかった。
HMVで検索してみたら、こちらのはなくて、旧盤しか検索できなかった。
どちらにせよ、この映画もDVDで手に入れておきたいものである。
それ以上に、対訳台本を手に入れたいものだ。



2003年07月30日(水) やっぱり無駄な仕事だ

一昨日から降り続いていた雨が、今朝は激しい降りになったけれど、
昼からは晴れて、ちょっと蒸し暑いような雰囲気にもなった。
けれども、とうていいつもの夏の暑さには及ばない。
今月は結局夏らしい暑さを1度も味わわないうちに終わるのだろうか。
学校のような職場にいる者にはありがたい天候ではあったけれど、
農作物の方は心配だ。

午前中に指導要録の、今書くべき部分は全部書き終えたけれど、
無駄なことに時間かけてるなぁ、、という思いはやはり拭えない。
だいたい、住民票どおりに「大字」「字」なんて、
今どき書く必要なんてないじゃないか。
「丁目」「番地」なども、指導要録に必要な理由がわからない。
このために、スペースと字配りに余計な配慮をしなければならない。
要するにこういう書式というものは、わかりやすい基準を提供するために、
もっとも漏れの少ないめんどうなところに基準を設定するのである。

もう今どき作る必要もないような帳簿が、
もっともめんどうな書式で、大した理由もなく作られ続けているわけだ。
ここまでで数時間かかっている。
年度末に修得科目だの、出欠記録だの、所見だのを書いたりすると、
全部で20余時間、いや場合によっては30時間を費やすのかもしれない。
出勤3〜4日分をフルに費やすほどの労力である。
(かつての私は、それを勤務時間内にやれた試しはなかったが、、)
それを教務の係が時間をかけて点検し、細かい修正を強いられたりする。
ばかばかしい時間の浪費である。

けれども、まだ廃止運動も始めていないし、
ひとりだけ書かず終いというわけには行かないので、
(前任校時代に、ひとりだけそんな大胆不敵な人がいたように記憶するが)
とにかく、やらずにすませるわけにいかないことはやらないわけにいかない。
そうしてやっていると、1枚1枚終えていくごとに、達成感はあるものだ。
また、ペン習字でもするようにていねいに字体にこだわって書くので、
きれいに書けたと思えるときは、いちいち楽しいものである。
改めて、生徒の居住地域や、家族構成などを確認する機会にもなった。
ま、こんなおまけでもないと、とてもやってられない仕事である。
無駄であることを明確に認識し得たからなおさらである。



2003年07月29日(火) 無意味な仕事のひとつ

きょうから指導要録なるものを書き始めた。
学年末に書くものではあるが、1年生の担任をすると、
組・番号・名前や住所、保護者名、出身中学、入学年月日など、
基本的なところは早めに書いておかなければならない。
何年か前までは5月中に書け、と言われていたもので、
ある年などは、4月末に前年度分を書き終えて、
5月のGWの間に新年度の新入生分のこの作業をしたこともある(笑)
部活動の吹奏楽の定期演奏会を4月の下旬に開いたので、
前年度分をそれが終わるまで書けなかったのだった。

それにしても、きわめて無駄な仕事である。
すべてが、とは言わない。
組・番号・名前は書いて、成績や出欠席の記録も残しておいてもいいだろう。
在学中の特筆すべきことがあれば、いいことも悪いことも、
ありのままに記録しておいていいかもしれない。
特になければ書く必要もない。
ま、あれば書いておいてもいいかもしれない、という程度である。
最低限の記録でよい。

けれども、それも実はぜんぜん必要のないものだ。
データはほとんどPCに記憶させてあるし、それを印刷したものもある。
3年生の時に調査書を書くから、それを卒業後一定期間残せば十分である。
何も仰々しく高価な紙で用紙を作って、20年以上も保存することはないし、
そんなにいろいろなことを神経使って記入する必要もない。
本質的に必要のないもののために、時間をかけて丁寧な仕事をするのはばかばかしいことだ。

たとえば、住所の記載は、住民票の記載の通りに、などという注意があるが、
なぜそんな必要があるのだろうか?
住所がどこかなんて、学校生活の記録としてはどうでもいいことじゃないか。
本人の名前の読み方はともかくとして、
保護者名のふりがなまで必要なのはなぜか?
本人を特定するためなら、名前の横に写真でも貼り付けておけばよい。
住所や保護者名にこだわる理由がさっぱりわからない。

最もアホらしいのが、生徒所見欄というやつである。
ますますこの欄が増加しているのだが、医者のカルテのように、
在学中の指導の資料として記録するために書くのならわかるけれど、
差し障りのないことを書くように、というお達しがある。
じゃあ、これは何のために書くんだい??? ということになる。

結局は指導要録など何の役にも立たないものだし、形だけのものである。
そんなものに、書式上の厳密なルールがある。
アホらしくてたまらなくても、自分ひとりが書くことをボイコットしても、
学校全体の運営に支障が出るので、無視するわけにはいかない。
それは、複合選抜制度断固反対!と掲げて
入試業務をボイコットしようとしたけれど、そんなことをしたら、
他の教員に余計な負担が行ってしまうのでボイコットできなかったのと同じである。

学校という職場にも、とにかく無意味で無駄なことが多い。
旧態依然としたものをそのまま残して、新たなものをつけ加えて行くから、
ますます無駄と煩雑が蔓延していくのである。
4、50年も前の時代ならともかくも、
もう今の世の中には、あんな帳簿など必要ないのだ。
PCから3年間のデータをまとめて、CDに記録しておけば十分である。
後でまんいちひつようになったときにでも、
それをもとにデータを抽出して個人データを作るくらい簡単なことである。
呆けた石頭のお役人には、そんな発想の転換はまったくできないらしい。
教育基本法は容易に変えてはいけないけれども、
学校教育法のそういう実際的なところは改正してもいいのである。



2003年07月28日(月) また、うたた寝、、

久々にまた不本意な早寝早起きをして、翌朝になってからの一筆である。
昨夜、9時を回ったころから全身がだるくてたまらなくて、
10時前にちょっと横になった、、、気がついたら朝の4時だった。
起き出てコーヒーを入れながら、どんな思いにとらわれているかというと、
毎晩寝酒としてちびちびやっているウイスキーを飲み損なった無念な思いである。
同時に、その反対に、今夜は労せず休肝できてよかったという思いもある。
今夜のように、不覚にも討ち死にしてしまうようなことがなければ、
容易に断念できないでいるわけだから。

爺さん寝のベテランであり権威でもある橋本さんの推奨に限らず、
早寝早起きは、ほぼ普遍的に認められたよき習慣であり、
おまけに深酒を免れるというありがたい特典つきなのに、
自らこの習慣を作っていこうという気になれないでいるのは、
酒の楽しみもあるけれど、遅寝早起きの習慣が長かったからだ。

高校時代は、3時4時に寝て6時に起きるような毎日でも、
学校で居眠りということもなく過ごしていた。
読書や作文の楽しみが深まるにつれて、夜中の生活も深まったわけだ。
大学時代は、規則正しい生活など続くわけもなく、
(何せ、友人づきあいやそれに伴う飲食が未明に及んだりもする)
レポートや論文や、サークル活動に忙しかった時期などは、
昼夜逆転の毎日が続いたりした。
教員になってからは、最初の2年間は定時制だったので、
自然と寝る時間は遅くなり、たいていは普通の時間に起きていた。
全日制になってから、数年前までの約15年間は、
常に仕事が山積みのままたまっているような生活で、
毎日持ち帰りの仕事に追われていた。
何より部活動が忙しく、合間に仕事を片づけようとしても追いつかない、
学校で仕事を片づけていても、中断させられることの方が多い、、、
仕事が遅いと言うことでは、常にワースト3に名を連ねていた。
仕事は持ち帰らない主義、と悠然としている人たちも周囲にいたけれど、
とてもそんなのんきなことは言っていられない。
当然帰る時間も遅いので、深夜まで仕事に追われることになっていた。

こういう場合に、まず寝てから仕事をする習慣にすれば、
早寝早起きの習慣ができて、健康的な意日となるわけだが、
私には、そんな恐ろしい選択はできなかった。
生徒の中に、試験の際に、朝起きてテスト勉強しようと思って早く寝たのに、
早く起きられなくて何も勉強できなかったと告白する者が時々あるけれど、
それと同じことになるという不安のためである。
まず、明日までの分は片づけなきゃ寝られない、、、そんな中で、
ちびちび酒を飲む楽しみも習慣になったわけである。

ここ何年かは、持ち帰りの仕事も激減して、
のんびり過ごしていいはずの夜が多くなっているはずなのだが、
急ぎの仕事に追われているという強迫観念からはまだ解放されていない。
頭の中に長く巣くってしまった観念は、なかなか追い払えないものである。
昨夜のように、たまに起きていられなくなってうたた寝を強いられるのは、
たいへんありがたい贈り物のようなものである。



2003年07月27日(日) 駄々っ子のような政治家

2、3日の間、新聞もろくに読んでいなかったけれど、
読み返してみたら、きのうの新聞の1面トップは強行採決だったようだ。
答弁もろくろくできないような審議(?)の末、強行採決ということだ。
非戦闘地域にしか自衛隊を派遣しないといいながら、
どこが非戦闘地域かは知らないという答弁さえあったようだ。
その実、アメリカが期待しているのは非戦闘地域への派遣ではないような話もある。

ごまかしごまかしして、とにかく決めちゃえば勝ち、という体質が
日本の与党にはあるのである。
わがままいっぱいのことをして、その批判をいろいろなところから受けても、
国民の審判はいつも寛容だからである。
意に反した決定に荷担した政治家には、次の選挙では絶対投票しない、
それが投票という行為の基本だと思うのだが、
日本の国民の多くは、どんな仕打ちを受け、言葉では文句を言っても、
選挙の時には、政治はやっぱりこの人にやってもらわなきゃ、となるらしい。
実に不気味な精神である。
だから、与党は、のらくらと勝手し放題である。
甘やかせば、手のつけられない駄々っ子に育つものだ。



2003年07月26日(土) コンクール地区大会の日

去年と一昨年のこのあたりの塵語を読み返してみた。
一昨年は、生徒への罰として、この大会では振らなかったけれど、
前日まで練習は見てやっていた。
去年は、準備にかなり難儀していたようだ。

今年は、長らく連盟に加盟していない学校に転勤したし、
実際部員もようやく最近10人ほどになったという状態だから、
準備作業に専念できて、一昨日には大方準備が終わってしまった。
準備が早くできてしまうと、そのつもりなだけで、案外ミスが多いものだが、
きょうの進行も別段何の問題もなく、時間どおりにスムーズに進行した。

閉会式は、久々に素直な反応に満ちたものになった。
金賞団体が発表されるごとに、さらに、県大会への代表校発表のたびに、
キャーーッという大歓声が起こって、苦労の末の喜びが会場に満ちる。
昨年までなかなかそういう思いのできなかった学校が4校、
そういう表彰をされたという背景がある。
運動部の試合などでは、試合中に勝敗の流れが見えていて、
ひとつの試合が終わるごとに、勝敗の決着がついてしまうけれども、
こういうコンクールでは、演奏が終わっても勝敗はわからない。
だから、閉会式での審査発表の時間が、コンクールの醍醐味なのである。

こういう素直な歓声が飛び交う閉会式が久々なのは、
ひとつには、私のいた前任校の生徒たちのせいだったのかもしれない。
私がいた15年間のうち、1度だけコンクールに出られなかった年があるが、
14回中、いつも金賞受賞で、13回県大会に進んだ。
県大会に行けなかったのは、3年目、出演順1番の年だけで、
この時は、最後に演奏した団体と同点になって、審査員投票で負けたそうだ。
生徒たちは、最初の4、5年間は、地区大会での成績を聞いて
キャーキャーと喜んでくれていたが、
その後数年間は、金賞と発表されても、県代表と発表されても、
めったなことでは歓声ひとつあげてくれなくなった。
それがあたりまえで、勝負は県大会以降という意識が定着したからである。
で、審査結果発表の際に、こういう団体が早い出演順にいると、
後に悪い影響を与えてしまうし、ひとつでもこういう団体があるのは、
閉会式全体のムードを沈ませてしまうものである。
去年・一昨年はどうだったかというと、多分に意外性の混じった歓声だった。
私自身が審査集計をしながら、何で?何で?と不思議だったほどだから、無理もない。

その前任校は、きょうは最下位から2番目になってしまっていた。
最低限の基本のことができていない5演奏だったから、しょうがない。
去年から、何とか部を維持しようと努力していた3年生の子たちの
気持ちを思いやると、非常につらい思いにとらわれるのだけれど、
地区の吹奏楽全体を眺める目で見ると、発展性のある成長を感じさせられる。
ま、たいへん複雑な心境である。



2003年07月25日(金) 昨日の続きと、、、

昨夜は、途中で眠たくなって寝てしまった。

小学生の毎朝の町内単位のラジオ体操、
なんとおせっかいで迷惑な風習ではないか。
・・・とそんなことを書きながら、それでも、
地域と家族のつながりが稀薄になるにつれて、
不可解で突拍子もない言動に走る子どもが増えてきたのかな?みたいな、
そんな曖昧な話に発展しようとしていたのだけれど、昨夜は力尽き、
今夜はそんな話よりも、明日のコンクール運営の方が気にかかる。
ここ数日、着々と準備を進めてきて、きょうも夕方から会館に行って
98%までの準備を整えてきたので心配することはそうないのだけれど、
とにかく、朝早く起きて、無事に会場に着くことが肝心である。
荷物も多いしー、、、ノートPC、小型プリンター、スーツ、市吹の鞄。。。
明日は夏休み中でもっとも多忙な1日になりそうだ。
コンクールを終えたら市吹に行き、10時過ぎにこちらに帰ってくると、
長良川花火大会の客の渋滞に突入して、なかなか帰宅できないだろうし。。。



2003年07月24日(木) ラジオ体操

夏休みのラジオ体操が今でもこの町内で続いているかどうかは知らない。
子どもは2人ともとっくに小学校を卒業しているし、
私が起きるのも7時に近いような時刻である。
でも、たぶん続いているのだろう。
ただし、この町内のラジオ体操は、夏休みの最初と最後の1週間ずつである。
我々の子ども時代のような、お盆以外は毎朝というようなしつこさはない。

今朝のラジオで、黒木瞳がこのラジオ体操を話題にしていた。
ハンコを押してもらって、、、などというのを聞いて驚いた。
全国的に同じやり方で行われていたとは。。。
てっきり、岐阜・愛知あたりの悪習なんだろうと思っていた。
東京でも行われていたかどうか、、、少なくとも在京時代は見たことがない。
彼女は確か、子ども時代は九州だったはずである。
もしも全国的に小学生たちがあれを強いられているとすると、
いささか不気味な感じがする。

で、黒木瞳が言うには、「私は行きませんでしたよ」(きっぱり)
なぜ夏休みなのにいつもより早起きしなきゃいけないの?
と思って、町内のラジオ体操には行かなかったそうである。
わがままなお嬢さんだったようである。
(けれども、大人になってからほぼ毎日続けているとも言う)



2003年07月23日(水) しかし、やはり無用だった

昨日のLaserWriter であるが、きょうは昨日の苦労が報われる期待に
胸をワクワクさせて再挑戦したのに、結局は徒労に終わった。
まず、昨夜人の手を煩わせてまで用意したLaserWriter ドライバは、
ヴァージョンが新しすぎて不都合だということで、拒絶された。
しょうがないから、昨夜はためらったシステムの再インストールをして、
古い方のLaserWriter をインストールしてもらうことにした。
その再(上書き)インストールはうまく行ったのだけれど、
昨日用意したのを捨て忘れていたのを、上書き更新してはくれなかった。
やり直しである。やっかいなことこの上ない感じだが、
目の前に便利がぶら下がっているようなものなので、あきらめない。

ようやく環境が整って先へ進むことができるようになった。
ところが今度は、プリント記述ファイルなるものを指定せよ、と言う。
適切と思われるものがどこにもない。
選べるものを次々選んで、印刷を試みても、尽くフリーズする。
印刷してくれないだけでなく、そのまま固まってしまうのである。

結局、PowerBook と進路室のプリンターとの接続は諦めざるを得なかった。
進路室の窓機にファイルを移して、出演者証と外出証を作り直した。
Mac のエクセルで作ったものを窓機のエクセルで開くと、
フォントが大きくなるのか、セルが小さくなるのか、
全体のレイアウトは縮こまる上に、セルから文字がはみ出てしまう。
細かい調整をしておいたのが、またやり直しである。
それがイヤで何とかPowerBook とプリンターをつなぎたいと思っていたのだ。

Mac は個人で使う分には窓機よりうんと使いやすいけれど、
公的な場で共存しようと思うと、金や時間や思考を浪費することになる。
けれどもそれは、Mac というマシンの性能の罪ではない。
商業主義に乗っかった人々の罪である。



2003年07月22日(火) 無用とは?

昨夜は、ちょっと時間をかけて、
若いころどんな風に音楽によって癒されていたかを書いたりしてたのだが、
登録しようとして回線をつないだ途端にフリーズしてしまった。
考え考え苦心して書いた長文が、それで跡形もなく消え去った。
時刻ももう遅かったし、とても書き直す気力はなくなった。
今夜、1日おいて再び、、という気力さえも起きないほどショックだった。
以前、1度こんなことがあった直後は、テキストエディタで書いてから
こちらにコピーするなどというような手間をかけていた時期もあったけれど、
しばらく安全な状態が続いたので、油断していたのだった。

このPCという機械は、便利だけれど厄介なものである。
作文するのにこんな便利なものはない。
紙に書いたら、下書き・推敲・清書と、少なくとも2度以上書くことになる。
途中で書き損じたら、特に手紙の場合は最初から書き直しである。
若かったころはそんな手間を忍耐強くやっていたものである。
PCで作文し始めて一番ありがたいと思ったのは、
削除・挿入・修正が思いのままで、間違えたってこわくない点である。
その代わり、昨夜のようなことがあると、跡形もなく消えてしまう。
紙に書いていたころはすべてが残っていたのに。。。

きょう学校で、私のノートPCから進路室のプリンターで印刷できるように
しようと、ドライバのCDを探し出してインストールした。
進路室のプリンターは、3台の窓機とLAN で接続されている。
その中の1台のLAN ケープルを外して自分のノートに挿して、
しっかり設定し終えて接続を試みたけれど、プリンターを認識してくれない。
何度か試みた後、接続状況を再確認すると、
LAN とプリンターを仲介しているのは、プリントサーパーという器具である。
このプリントサーバーとMac の相性が悪いのかな、といろいろ研究しても、
ぜんぜんそんなことはなさそうである。
取説どおりの設定を、さっきからちゃんとしているではないか。。。

いったん諦めて、そうしてしばらくして取説を読み直しているうちに、
驚くべき注意書きに気がついた。
「本製品(プリントサーバー)を使用するときは、
 プリンタードライバにLaserWriter8 を選択してください」
LaserWriter !!!
Mac OSをインストールするたびに、標準装備で必ずインストールされ、
無用なことが明らかなのでそのたびに捨ててきたプリンタードライバである。
それが今、なくてはならぬものとして現れてきたのである。

帰宅後、夜になってから、OSインストールCDから、
このLaserWriter 8のファイルをコピーしようとしたら、
これがまた、容易ならざることだった。
CDの中にファイルの形で存在するのでなく、インストールの過程で、
ファイルとしてインストールされるようになっているらしかった。
それで、このファイルをまだ捨てずに残してある人から
送ってもらうことで解決せざるをえなかった。

長年、無用であることが常識だったのに、突然存在を主張し始めた。
ま、人間の知識なり経験なりも、そういうものだという気がするけれど。。。
本当に無用であるかどうかは、生きている限りわからないものだ。
我々の周りにあるものは、その状況によって意味を変えるものだから。。。



2003年07月20日(日) ブレーキ

車を6カ月ごとの診察に持って行った。
診察途中に、ブレーキパッドがあと1〜2カ月の命という宣告を受けた。
もちろん即答で交換をお願いしたが、冷や汗ものである。
夏休みに入るゆとりある時期だからよかったものの、
あわただしい時期だと、1カ月くらい遅れて診察してもらうこともあるし、
今まで1度だけだけれど、診察をズルして1年あけたこともある。
知らずにもう2〜3カ月でも運転していたらどうなったことか。。。

ところで、この車は4年目である。
車屋に言わせても、ブレーキパッドの交換が早いそうである。
最近、よくキーキー言っていたのは気になっていたけれど、
それは必ずしも摩耗のせいとは限らないし、
以前に1回交換済みだという記憶が、まだまだ安心感になっていた。
しかし、よく思い出してみると、前に換えたのはまだ2年経ってないころだ。
あの時も、早いですね、と言われたものだ。

前任校での通勤距離は片道24キロ弱だった。(今は15キロである)
渋滞するところをできるだけ避けても、3カ所は渋滞した。
渋滞を避けるため、まっすぐ行けばいいところを余計に何度か曲がるわけだ。
急がば回るべきところがいくつもあった。
それでも、3カ所ほどの渋滞は避けようがなかったわけである。
曲がるときには減速する、そして曲がり終えたら急加速する。
所要時間を最短にするために、安全と思えば急加速である。
そしてすぐにまた急速な減速をし、過度を曲がり、曲がり終えたら、、、
このくり返しだから、正攻法のドライバーに比べて
何倍もプレーキを酷使していたわけだ。
また、直進路でも、郊外の道路というのは、
脇道からちょろちょろ出てくる車が多いものである。
それが、のたのた、とぼとぼ、と変なタイミングで出てくるので、
我々の通行が妨げられてブレーキを踏まざるを得なくなる。
直進車に不本意なブレーキを踏ませないで出ることを鉄則にしている私には
信じられないような図太い進入をする人たちが多いものだ。

前任校時代は、毎朝がそんな風に戦闘的だったし、帰りも大半そうだった。
今の学校に移ったら、通勤距離が短くなっただけでなく、
曲がることが何分の一かに激減した。
今の通勤コースが最短であることは明らかだし、
よほどの大障害で大渋滞にならない限り、急がば回れは通用しない。
角を曲がるという箇所は数カ所である。
合流や渋滞や信号でブレーキを踏む場面はもちろん多くあるけれど、
以前に比べたら、これも半分以下、何分の一かに減っているように思う。
ブレーキパッドの摩耗も、かなり緩和されることだろう。
それ以上に、神経の摩耗が緩和されていることは、もうすでに実感している。



2003年07月19日(土) 当面の仕事

些かの解放感で気が抜けたせいか、しばしば睡魔に襲われる1日だった。
昨日から、再び首の痛みに悩まされてもいる。
夕方についに1時間半ほど眠ってから市吹の練習に出かけた。
まあまあのんびりできた1日だったようだ。

明日からはそうのんびりもしていられないのである。

まず、来週の土曜日のコンクールの準備をしなければいけない。
1、色画用紙を買ってきて、出演者証・外出証を作らなきゃいけないし、
2、審査員用の審査・講評用紙を作らなきゃいけないし、
3、審査集計の準備をしておかなきゃならないし、
4、とにかくその他、さまざまなこまごまとしたものを用意する。
どれも、案外時間がかかる仕事である。
今年は、学校のプリンターに頼らなきゃいけないので、
その点でも所要時間が予想しにくく、先が見えにくい。

部活も見てやらなきゃいけないし、補充授業・追試もある。

明日・明後日はまだ休日だけれど、明日からすでにのんびりできないわけだ。

8月は、市吹で演奏する曲のパート譜の作成と整備に追われるだろうし、
混声バンドの曲選びに頭を悩ませることになるだろう。
下旬は、学校祭準備や混声バンドの練習などでほとんど仕事だ。
ちゃんと完璧に掻き出したら、こんなもんではすまないほど忙しいだろう。

しかし、一番やらなきゃいかん当面の仕事は、この部屋の掃除だ。



2003年07月18日(金) 1学期が終わった

怒濤のような?カ月で始まった1学期が終わった。
慣れた職場でも、4月から5月にかけては長い感じがするものだけれど、
今回は特に長〜〜〜〜い感じがした。

昼には、何だか気が抜けたみたいで、動く気がしなくなった。
考えるのもめんどうだった。
例年のことながらぐちゃぐちゃになっていた机の上を整理した。
かなりさっぱりした。

一昨日、喫煙が見つかって指導に入ることになった他のクラスの生徒から、
私のクラスの生徒から勧められて始めたという告白があったらしくて、
生徒指導室に来るように伝えて欲しいと言われて、行かせた。
前任校だと、事情を聞いた後、担任が家庭との連絡をとったり、
引き取りに来た親としばし話をしたりと、いろいろ忙しいものだったので、
そのうちお呼びがかかるものと思っていたら、そうではなかった。
指導部長が私のところに報告に来て、家庭に連絡しておいた、と言う。
本人も家に帰した、と言う。
火曜日にまた指示するから、この3連休は家でおとなしくしているように、
と親にも生徒にも言っておいたということで、
当面は担任のすることはないそうである。
実に簡潔でありがたいことである。



2003年07月17日(木) Time To Say Goodbye

3日間の保護者会が終わった。とにかく疲れた。

疲労回復は、やっぱりサラちゃんの歌声である。
「エデン」「ルーナ」2枚のコンサートDVDを抜粋して聞いた。
声にも癒されるし、歌う表情にも癒される。
1曲1曲が実に充実している。

どちらのコンサートでも、アンコールの最後がTime to Say Goodbye である。
前奏が鳴り始めると、拍手と大歓声になる。
そして、レシタティーヴォ風に歌い始めて、再び大拍手になる。
私の心も画面の観客の気持ちと同化して熱くなる。

先日、「オペラ座の怪人」の吹奏楽譜を注文した折りに、
この曲の吹奏楽譜も一緒に頼んでおいた。
定演のアンコールに使おうかな、と思ったのである。
きょう聞いているうちに、アンコールにふさわしい曲なのはなぜか、
サラちゃんのコンサートでいつもラストの曲になっているのはなぜか、
歌詞の中にも使われている題名をかみしめているうちにわかってきた。



2003年07月15日(火) 久々の保護者会

できれば担任は避けたいという思いは、大体次のようなところから来る。

1、毎日のST、毎週のLTがめんどくさい。
2、服装指導などの生活指導の責任者としていろいろ降りかかってくる。
3、学校祭などの活動を引っ張るのがめんどう。
4、保護者会。
5、指導要録。

どれも、生徒がみんな手のかからない子たちばかりだったら、
めんどくさくて時間を取られても、かえって楽しいものかも知れないが、
やっかいな生徒が多ければ多いほど、精神的にも肉体的にも時間的にも
負担が増すばかりで、担任をする被害意識の方が増してしまうものだ。
小中学校だと、副担任も少なく、担任をするのが基本なので諦めがつく、
けれども、高校ではたいてい担任と副担任が半々なので、
できれば、めんどうで煩わしいことの多い担任を避けたい気分になるわけだ。

私自身は、1、2、3はさほど苦にならないのだけど、
保護者会期間や指導要録を四苦八苦して書いているときは、
実に損な気分になる。
指導要録など、99%反故になってしまう無駄なもののためにかける労力は、
もうばかばかしくて呪いたくなるほどである。
保護者会は、その点、まだいろいろと意義深い面もあるけれど、
休憩で職員室に戻ったりしたときに、
好きな読書をしたり、ソファで退屈そうに居眠りをしている副担任をみると、
じつに理不尽だという不満が押し寄せてくるのである。
特に数年前まで担任をしていたころは、
保護者会の午後は、懇談と、クラスの学校祭活動指導と、部活動の指導と、
3本立てで追いまくられていたから、そういう思いが強かった。
つまり、3時から4時半までは、吹奏楽部の合奏指導、
その前後に懇談を詰め込み、少し空きができればクラスの様子を見に行っていた。
午前中は、授業の合間に懇談の準備やら、コンクール運営の準備やら、、、
こうしてめまぐるしく複雑な役をあたふたこなしているそばで、
ヒマヒマおじさんやヒマヒマおばさんを見ると、
どうしてもっとうまく分担できないのかな?とイライラしたものだった。

けれども、前任校では保護者会が5日間あったので、
そんなスケジュールであたふたすることも可能だった。
久々の保護者会は、たったの3日間である。
きょうは15人で、4時間の懇談に耐えられるかと不安だったが、
さいわい、よくしゃべるおかあさんたちがほとんどだったので、
どちらかというと聞き役になっている時間が多くて楽できた。
ノートにカルテのようなものを作っておいたので、困ることもなかった。
学校指定は三者懇談だったけれど、それを無視して二者懇談にしたので、
貴重な情報をいくつも得ることもできた。
それでも、顎は次第に硬直し、頭はだんだんぼぉぉ〜っとしてくる。
終わった後はぐったりして、しゃべりたくもないし動きたくもないけれど、
それから分掌の仕事などをさらに進めなければならない。
とにかく、実にたいへんな、損な仕事なのだと改めて痛感した。



2003年07月14日(月) 週初めからうっかり寝

10時半ごろに、どうにも横になりたくて、そのまま眠ったらしい。
気づいたら、午前0時半である(もちろんもう翌日の15日になっている)。
もうちょっと寝ようかと思ったけれど、仕事途中で寝たのを思い出したし、
妻にも何かを頼まれたような覚えがあって、起き出した。
起きて出ると、通知票書きをまだ続けていた妻が、
学年会計報告書の仕上げを手伝ってもらおうと待っていた。
細かいレイアウトのところが苦手なので、夕食時に頼まれていたのだった。
まだ寝ぼけた頭で、レイアウトを仕上げて、印刷して、
後で再び眠りやすくするためのウイスキーを手にして部屋に戻ると、
今度は自分のやりかけの仕事が、仕上げてもらうのを待っていた。

私の場合、月曜日は7時間授業の中の4時間が授業だが、
きょうは特に、空き時間もいろいろ雑用でバタバタしていた。
(しかし、6限授業で4時間担当している場合よりはゆとりがある。
 これが7限授業の唯一のメリットと言えよう)
7限目の授業を終え、掃除監督をして、帰りのSTを終え、
何人かの生徒と話をして、遅めに職員室に戻ったら、
職員室はほぼ空っぽである。
きょうは、業後は成績不振者指導があるため、授業が5分短縮だったので、
たまたま入ってきた先生に、
「ひょっとして、不振者指導に行かなきゃいけないのかな?」と尋ねたら、
そうみたいだと言う。

行ってみると、学年別に生徒を集めた部屋には、
担任も副担任も全員が集まっている。
生徒は30数名だが、学年の12名の教員もそこに集まるわけである。
話すのは教務主任と学年主任だけだけれど、
良く言えば、そういう担当者にお任せ〜、という形にしない雰囲気がある。
こういう不振者指導は初めてだ。
この?学期間、多忙に輪をかけていたようなのは、
ひとつには、この雰囲気のためである。

それにしても、明日から3日間の保護者会が始まるというのに、
この爺さん寝にならない迂闊なうたた寝は大きな失策である。
明朝、ちゃんと起きられるかどうかさえ不安である。
ま、2杯目のウイスキーがほどよく回っては来ているけれど。。。
あ、そういえば明朝ゴミ出しだから、ゴミをまとめておかなければ。。。



2003年07月13日(日) 休日の楽しみ

休日の買い出しは午前中にすませておくに限る。
今朝、起きるなり、近所に住んでいる先生が借りもんに来るというので、
約束の?0時に応対した後、ついでにスーパーに買い物に出かけた。
昼食の時に、きょうはもう車を出す必要はないだろうと決め込んで、
ピールを飲んだ。実にうれしいことだ。
あいにく雨が降っていたので楽しさは半減したけれど、
休日くらいは、時間にこだわらず好きな時間にビールを楽しみたいものだ。
青空の、まぶしい陽光の中だと、ますますビールがうまい。

休日の醍醐味は、
1、昼間からビールが飲める。
2、好きなときに横になれる。
3、自転車に乗って走り回る。

ここ何年か、私が、休日だなぁ〜、、としみじみ実感できる時間である。

もっとも、若いころは、休日の醍醐味は次のようなものだった。
1、まとまった勉強ができる。
2、まとめて仕事を片づけることができる。

ホントに、今とは比べものにならないほど忙しかったもんなー。。。
平日に年休取って家で仕事しないと追いつかなかったもんなー。。。
年休取って仕事するなんてバカなヤツだと言う人もあったけれど、
やっとこさ自分のペースで余裕もって仕事できるのが休みだと思っていた。
ま、土曜日も日曜日もなかったし。。。



2003年07月12日(土) 通知票

きょうは休日だが、朝は、コンクール課題曲講習会の様子を確認に行き、
その足で勤務校に移動して、遅れている仕事を大方片づけた。
それからいったん帰宅して、1時間半ほど眠って、市吹の練習に出かけた。
移動の車の中で、「オペラ座の怪人」の第2幕をくり返し聞いていた。
3回ほどくり返したようだが、場面がよくわからない状態で聞いていても、
いい音楽が流れている、という実感のために、長い移動も苦ではなかった。

学校での仕事は、まずは通知票書きだった。
評定・欠課時数と、出欠状況を書くだけの簡単な仕事だが、
間違えるわけにいかないので、ちょっと時間のかかるめんどうな仕事である。
前任校では2、3年前からPCで打ち出せるようになっているけれど、
それを知っているだけに、ばかばかしい作業に思われる。
けれども、とにかく高校では所見を書かなくてもいいのでありがたい。

小学校に勤める妻は、きょうは通知票のために市吹も休んだ。
先週末に過労のように伏せって、土・日はずつと寝ていて、
月・火は朝仕事に出かけても、昼の給食の配膳指導までして帰っていた。
水・木・金は保護者会だった。
その金曜日が、通知票を教務主任に提出する〆切だったけれど、
そんな状況で書けるはずもなくて、きょう・明日の仕事になったわけである。

小学校というのは不思議な職場で、たとえば、
週ごとの授業の計画と反省を毎週月曜日に提出して、管理職の検閲がある。
反省の文章に対して、管理職の返事が書かれている。
管理職と教諭との関係が、まるで教師と生徒みたいなものである。
通知票を終業式の?週間以上前に教務主任に提出しなければならないのも、
主に所見の内容を検閲するためなのである。
検閲する方もごくろうさんなことであるが、
実際、人によってはクラスの半数くらいの枚数に訂正を求められるらしい。
その訂正が、本当に理に適った訂正なのか疑問なことも多いけれど、
とにかくそのように直さないと管理職がきかないので、
砂消しゴムで(本当はこれは反則である)ガリガリ削って修正するのだと言う。

まあとにかく、小学校の話を聞けば聞くほどばかばかしいことだらけである。
もし、自分が小学校に採用されていたら、半年もしないうちに自ら辞めるか、
喧嘩ばかりし続けて、数年のうちに追放されていたに違いない。

・・で、ふと思うに、通知票に所見が必要だったのは昔の話だということだ。
昔は、夏休み前だの冬休み前だのに保護者懇談会なんてものはなかった。
学年の早い時期に家庭訪問はあったかもしれないし、
毎月の授業参観のあと学級懇談はあったけれど、
保護者と個人的に懇談する機会はめったになかったように思う。
保護者に成績を伝えるだけでなく、学期中のようすを通知するには、
学期末の通知票にお手紙欄のようなスペースが必要と考えたのだろう。
それはいい方策だったかもしれない。
けれども、最近は学期末に保護者懇談で面と向かって話しているのである。
通知票の所見など、まったく必要ないではないか。

仮に!枚の通知票に15〜20分の時間がかかるとして、
36名の生徒がいるとすると、9〜12時間を費やすことになる。
18時間かかるのかもしれない。
それを、週に2、3時間の空き時間があるかどうかも保証されない中で、
成績が出そろってから、3、4日の間に書いて提出せよ、というわけである。
車上盗難防止のため、持ち帰らないようにという指示も出るそうだ。
10時か11時まででも学校に居残って仕事せよ、
と命じているようなものだが、実際は持ち帰り仕事にせざるを得ない。

しかし、それは、実は今はいらない仕事なのだ。
過去の遺物に、な〜んとなくこだわって、廃止できないでいるだけのことだ。
修学旅行みたいなものである。
修学旅行も、貧しかった時代の遺物みたいなもので、
昨今の子どもたちにはほとんど意義や価値が見出せなくなっているのに、
そうして、さらに現代にいたって授業料納入の過重負担になりつつあるのに、
学校には廃止する勇気がなくて、ズルズルと引きずって厄介者になっている。

根本から見直せば、切り落とせる枝葉はいくらでもありそうなのに。。。



2003年07月11日(金) 習慣的思い込み

今朝教務主任が手渡してくれた用紙は、
成績不振者の保護者宛の通知書だった。
これを月曜日までに書いて下さい、と言うのだった。
生徒名の下に「保護者様」とあり、補充授業と追試を受ける旨の説明があり、
その下に科目名が列挙されていて、○で囲むようになっている。
前任校でも何枚も書かされて、そのたびに閉口した書類である。
私は今年は何年かぶりに補充授業をしなくてすみそうだったのだが、
もう1人の1年生国語の担当者が、補習を一手に引き受けてくれた代わりに、
補充・追試は私がやることにしたので、この紙が回ってきたのだと思った。
それで、古典の成績不振者の名簿を見ながら、
クラスと名前を書き、古典を○で囲んで書類を書き終わった。
書いているうちに、こういう形式だったら教科ごとに書くのでなくて、
担任がまとめて書くか、PCで打ち出せるようにすればいいのに、、、
と思ったのだが、今度意見してやらにゃ、、と決めて作業を続けた。
書き終わったときには、そんな考えが生じたことも忘れていた。

書き終わって、他のクラスの担任が近くに座っていたので、
これは教務経由じゃなくて、直接担任に渡せばいいのか、尋ねた。
相手は何だか怪訝そうな顔をしている。
そうして、生徒に直接渡せばいいんじゃないか、みたいなことを言う。
私は何だか頭が混乱して、何をしてるのかわからなくなる。
その人が私の書いたのを見て、自分のクラスの生徒を書くのだと言った。
私は、途中の疑問も何もかも解けたような解放感と共に、
この不思議な思い込みと、説明不足の教務主任とに一瞬腹を立てた。
つまりその用紙は、クラスの生徒に対し、
成績不振科目がこれだけあるよ、ということを?枚で伝える用紙なのだった。
教科担任の立場で書くことを長い間続けてきたので、
その習慣が、教科単位で発行する通知だと思い込ませてしまったわけである。

書き直しながら、この方がうんと合理的で、生徒にもわかりやすいと思った。
今までは、生徒は各教科から出された何枚もの通知を受け取っていたけれど、
これだと、生徒は?枚もらって、自分が受けるべき内容をすべて知る。

それにしても、習慣とは恐ろしいものだと痛感した。



2003年07月10日(木) あっけない成績処理

忙しくあわただしいことを覚悟していた成績処理は、
期末考査の点数を入力しただけで終わってしまった。
入力したのが先週の金曜日で、その日の夕方に私が会議に出ている間に、
もうひとりの教科担当の人が、プログラムの従って評定を出した。
その時点で同時に、教務に提出する書類も印刷されて出てくるらしい。
手書きで提出するのは、補充授業の日程希望用紙だけである。
月曜か火曜に、クラスの生徒の欠席・遅刻・早退を入力するだけで、
水曜日には、評定の一覧表が配られた。
執拗な点検作業も強いられず、煩雑な書類もほとんど書かずに済んだ。
通知票がいまだに手書きなのが困ったものだ。
即座に、画竜点睛を欠く、という言葉を思い浮かべた。
ここまで成績処理システムの連携がうまくできているのに、
通知票ができないとは何たることだ、という感じである。
理由を聞くと、ペラペラのコピー用紙で通知票を渡すわけにいかない、
とのことだった。
立派とは言えないけれど、まあまあの厚さの紙があることを
教えてあげなければならないようだ。



2003年07月09日(水) 多少は合理的な指導体制?

そういえば、転勤して以来、こんな指導方法もあったのか、、と
思わされることがいくつかあった。
そのうちメモしておこうと思いながら忘れていた。
時が経つと、最初は驚きだったことも当たり前になってしまうだろう。。。

【遅刻指導】
朝のST時から遅刻者は何秒という遅刻でも職員室に行かされる。
副担任の何人かが廊下でその指導をしている。
職員室では、指導部長や学年の副担任が遅刻者の応対をする。
その後の遅刻者についても、学年担当の教員が遅刻者の受付をする。
遅刻者は、左右2連になった用紙に記入して、1枚は担任の机の上に、
?枚は生徒自身が持参して教室に入って教科担任に渡す。
担任には、登校したかどうかが大変わかりやすい。

生徒出欠状況黒板には、人数でなく、誰が欠席遅刻早退したかを記入する。
生徒指導部の係が、業後にそれをPCに入力する。
遅刻が4回になると、自動的に警告状が発行され、
5回になると、始業15分前登校を義務づけられる。
毎朝、8時20分に、職員室に来て、生徒指導部の担当のチェックを受ける。
3年生あたりにはどうしてもそれができずに、業後清掃をしている者もある。

で、実際朝の状況を見ると、チャイムの鳴る1分以内には、
ハアハア息を切らしながらら駆け込んでくる姿がいくつか見られる。
普段はあまり多くないけれど、最近のように雨降りの朝が多いと、
1クラスあたり10人近くがそんな風に駆け込んでくる。
わずかに遅れて紙を書いて持ってきた生徒は、実にくやしそうである。
早朝登校指導は、私のクラスでは2人が受けたけれど、
最初の1人は、その後3週間遅刻も欠席もしていない。
もう1人は3日前にそれを終えてから、翌日は遅刻、きょうは欠席で、
まだその後のようすが何とも言えない。

【頭髪服装一斉検査】
これは学年によりまちまちのようだが、1年生のやり方には驚いた。
体育館などの集会の間に、係がある程度チェックを済ませておく。
生徒の退場を1クラス単位にして、出口のところで数人の教員が見る。
チェックポイントごとに分担してあるらしく、
1人でもダメを出された生徒は、出口を出ないで、整列して待機する。
流れ作業のスピードでそれが進行し、全員のチェックが終わった後で、
ダメを出された生徒に対して、まとめて指導が行われる。

【清掃】
年度初めに、清掃分担のローテーションの時期は統一して指定され、
清掃分担表を、保健部から提出を求められる。
すると、清掃分担交代の日の直前に、
清掃分担の名簿(出欠表)が保健部から清掃監督に配布される。
全日制3校目だが、今までで一番保健部が清掃指導に食い込んでいる。
清掃時には音楽が流れる。
美化委員や保健委員をしばしば呼び出して指導している。

【ケータイ】
手にしているところを見たら、1週間預かりなのだが、
職員室に、そのことを記入する紙が掲示されている。
それにその旨を書いて、職員室内の金庫に保管する。
幸い私はまだ、3カ月以上たった今でも、取り上げるべき事態に直面していない。


さらに、生徒会の動きにも驚くべき点が多いのだが、これは後日にしよう。




2003年07月08日(火) 「オペラ座の怪人」あらすじ

先日買った「オペラ座の怪人」のCDの1枚目をくり返し聞いている。
今夜は、1枚1幕分が1トラックでは途中から聴きたい時に不便なので、
MDにダビングしながら、トラックを切って聞きやすくした。
音楽を聞いているだけでも十分おもしろいいのだけれど、
3度4度と聞くうちに、どういう場面で何を歌っているのかが気になる。
そもそも、どんな話なんだ?? という疑問がだんだん膨らんでくる。
添付の冊子は、1冊は英語の台本、もう1冊が邦訳の台本である。
それを読めばいいわけだが、字が小さすぎて実に難儀である。
で、こういう時は、サイト検索に限る、と、検索を始めたが、
なかなか詳しいあらすじを書いてくれているサイトがない。
諦めかけていたときに、やっとひとつ見つけた。
ちょっと、きょうの大きな成果としてここにコピーさせてもらって、
しばらく熟読させていただくとしよう。

それにしても、第四場の「オペラ座の怪人」という歌が音域の低い歌で、
サラちゃん、ふだんなかなか聞かせないような低い声で歌い始めるんだけど、
この声にも痺れるんだよなー(>_<)

・・・・・・・・・・・

【プロローグ】
1911年 (諸説あり)パリ オペラ座。
舞台の上でこの劇場に縁のある品々がオークションにかけられている。
シャニュイ子爵(ラウル)がペルシャ風の服を着た猿のオルゴールを落札した。
そのオルゴールを見て過ぎた日のことを思い出すラウル。
《♪ア・コレクターズ・ピース(ラウル)》。
同じく競りにかけられている巨大なシャンデリアに明かりが入るやいなや、
シャンデリアは閃光と共に不気味に揺れながら客席の頭上高く上がっていく。

《♪序曲》


【第一幕】

1881年(諸説あり) パリ オペラ座

★第一場:「シャリュモー作・歌劇ハンニバルのリハーサル」

舞台上では新作オペラ「ハンニバル」の舞台稽古中である。
《♪ハンニバル(カルロッタ・ピアンジ・コーラス)》
そこへオペラ座の支配人を引退するムッシュ・ルフェーブルが、
新しい支配人のフィルマンとアンドレを連れて入ってきた。
二人に請われて、ソプラノ歌手のカルロッタがアリアを歌い出す。
《♪スィンク・オブ・ミー(カルロッタ)》
すると、突然背景幕が落ちててきた。危うく幕の下敷きになりかけた
カルロッタは腹を立てて舞台から去って行ってしまう。
代役にたったのはバレリーナのメグ・ジリーと
舞踊教師のマダム・ジリーが推薦する、コーラスガールのクリスティーヌ・ダーエ。
《♪スィンク・オブ・ミー(クリスティーヌ・ラウル)》


★第二場:「ガラ」

クリスティーヌの代役公演は大成功を収めた。
舞台を見ていた観客の中には、オペラ座の新しいスポンサーで、クリスティーヌとは幼なじみのラウル子爵もいた。


★第三場:「ガラの後」

控え室でメグ・ジリーの賞賛を浴びるクリスティーヌ。
上手く歌えたのはパパが贈ってくれた「音楽の天使」のおかげだと話す。《♪エンジェル・オブ・ミュージック(クリスティーヌ・メグ)》
控え室にラウルが訪ねてきた。
14歳の頃の二人の思い出を話し、再会を喜ぶ二人。
《♪リトル・ロッテ(クリスティーヌ・ラウル)》


★第四場:「地下の迷路」

ラウルが席を外したわずかな間に、クリスティーヌは
鏡の中から現れたオペラ座の怪人と共に、オペラ座の地下深くへと降りていく。
地下の湖を舟で渡り、怪人の住処で歌のレッスンを受ける。
《♪オペラ座の怪人(ファントム・クリスティーヌ)》
《♪ミュージック・オブ・ザ・ナイト(ファントム)》


★第五場:「翌朝」

ファントムの仮面の下の素顔を見たくなったクリスティーヌは、
隙を見て仮面を剥ぎ取り、怪人の醜い素顔を見てしまう。
怪人は激怒し、仮面を返すように懇願する。
怪人の孤独な心を感じ取ったクリスティーヌは仮面を返す。
《♪アイ・リメンバー(クリスティーヌ)》
《♪ストレンジャー・ザン・ユー・ドリーム・イット(ファントム)》


★第六場:「舞台裏」

怪人はクリスティーヌを再びオペラ座に戻し、
二人の支配人とカルロッタ、マダム・ジリー、ラウルにそれぞれ手紙を出す。
二人が地下から出てきたとき、舞台裏で大道具係のブケーが
踊り子たちを相手にファントムの真似をして見せていた。
その様子を怪人は見ていた。
マダム・ジリーはブケーに死を暗示する。
《♪マジカル・ラッソ(ブケー・ジリー)》


★第七場:「支配人のオフィス」

ファントムからの手紙には
「5番のボックス席を怪人のために空けておくこと」
「怪人に対して給料を支払うこと」
「次のオペラのイル・ムートでクリスティーヌを主演させること」
などの要求が記されており、要求に背いた場合、
「諸君の想像を絶する災いが起こる」と脅す。
《♪ノート(フィルマン・アンドレ・ラウル・カルロッタ・ピアンジ・ジリー・メグ)》
手紙を読んで「侮辱された」と怒るカルロッタを支配人たちが
「プリマドンナはあなたしかいない」となだめ、
怪人の要求を無視して「イル・ムート」の主役をカルロッタにしてしまう。《♪プリマドンナ(フィルマン・アンドレ・ラウル・カルロッタ・ピアンジ・ジリー・メグ)》


第八・九場:「イルムート」

オペラ「イル・ムート」の幕が上がる。
カルロッタ扮するカウンテスの歌
《♪プア・フール(コントラルト・宝石商・ヘアドレッサー)》
《♪ヒー・メイクス・ミー・ラフ(カルロッタ)》。
ところが歌の最中にカルロッタの声が急にヒキガエルのようになってしまい、
さらに、大道具担当のブケーの首吊り死体が舞台上にぶら下がり、
大混乱に陥る。


★第十場:「オペラハウスの屋上」

大騒動の劇場を抜け出したクリスティーヌはラウルを屋上に連れて行き、
助けを求める。
《♪ホワイ・ハブ・ユー・ブロート・ミー・ヒア(ラウル)》
《♪ラウル・アイヴ・ビーン・ゼア(クリスティーヌ)》
お互いの愛を確認し合った二人は将来を約束し合う。
《♪オール・アイ・アスク・オブ・ユー(クリスティーヌ・ラウル)》
二人の様子を陰から見ていた怪人の哀しみは嫉妬に変わる。
そして、カルロッタの代役で舞台に立っているクリステイーヌの足元をめがけてシャンデリアを落下させる。
《♪オール・アイ・アスク・オブ・ユー<リプライズ>(ファントム)》
---------------------------------------------------------------

【第二幕】

半年後。

★第一場:「オペラ座の階段」

その年の大晦日。仮面舞踏会に集まった人々が華やかに歌い、踊る。
クリスティーヌとラウルは密かに婚約を交わす。
《♪マスカレード(全員)》
舞踏会の最中に仮装したファントムが現れ、
自作の新作オペラ「ドン・ファンの勝利」のスコアを支配人に渡して消える。
《♪ホワイ・ソー・サイレント(ファントム)》


★第二場:「舞台裏」

ラウルがマダム・ジリーにオペラ座の怪人の秘密を問いただす。


★第三場:「支配人のオフィス」

支配人のオフィスに怪人から
「ドン・ファンの勝利」上演に際しての指令の手紙が届いた。
「主役はクリスティーヌ」
「オーケストラメンバーへのダメ出し」など。
ラウルは怪人を罠にかけるため、クリスティーヌに主役をやるように言うが、
クリスティーヌは恐怖から、それを拒否する。
《♪ノート》
《♪トゥイステッド・エヴリ・ウェイ(フィルマン・アンドレ・カルロッタ・ピアンジ・ラウル・クリステイーヌ・ジリー・ファントム》


★第四場:「ドンファンの勝利の稽古」

「ドン・ファンの勝利」のリハーサル中。
何度やり直してもスコア通りに歌えないピアンジ。
カルロッタがスコアが悪いのだと主張すると、
稽古場のピアノが勝手に鳴り始める。
《♪ドンファン・トライアンファント(ピアンジ・カルロッタ・コーラス)》


★第五場:「墓場」

思い悩むクリスティーヌは父親の墓を訪ねる。
《♪ウィッシング・ユー・ワー・サムハウ・ヒア・アゲイン(クリスティーヌ)》
すると、怪人が十字架の中から現れ、
我こそが父親の言っていた音楽の天使だ、とクリスティーヌを誘う。
《♪ワンダリング・チャイルド(ファントム・クリスティーヌ)》
クリスティーヌは怪人の語りかけに誘い込まれそうになったが、
追ってきたラウルの一言で我に返る。
《♪ブラボー・ムッシュ(ファントム・クリスティーヌ・ラウル)》


★第六場:「ドンファンの勝利の初日の夜のオペラ座の舞台」

ラウルが怪人を罠にはめるべく、消防隊に指示を出す。


★第七場:「ドンファンの勝利」

「ドン・ファンの勝利」の初日。
《♪ドン・ファンの勝利(ピアンジ・カルロッタ・パッサリーノ・コーラス》
ドン・ファン役を演じるのはピアンジのはずなのだが、
途中からファントムに入れ替わっている
(頭からフードをかぶっているので、顔は見えない)。
クリスティーヌは様子が違うことに気付くが、舞台は続けられる。
激しい愛を告白する、ファントム扮するドンファン。
《♪ザ・ポイント・オブ・ノー・リターン(ファントム・クリスティーヌ)》
デュエットの途中で、クリスティーヌがドン・ファンのフードをはぎ、
またもや舞台は大混乱に。
怪人はクリスティーヌを拉致する。
舞台からはピアンジが死体で発見された…。


★第八場:「舞台の上」

マダム・ジリーはラウルにファントムの行き先と注意すべきことを教え、
途中まで案内すると言う。


★第九場:「地下の迷路」

ファントムとクリステイーヌは再び地下の湖の隠れ家へやってきた。
遠くからは人殺しを捕らえろという追手の声が聞こえてくる。
《♪ダウン・ワンス・モア》
《♪トラック・ダウン・ディス・マーダー(ファントム・ラウル・ジリー・コーラス)》


★第十場:「ファントムの隠れ家」

ファントムはクリステイーヌにウェデイング・ベールをかぶせ、結婚を迫る。
《♪ミュージック・オブ・ザ・ナイト(ファントム・クリスティーヌ)》
そこにラウルが現れるが、招き入れられたラウルは首に縄をかけられてしまう。
怪人は「私の愛を受け入れてラウルを助けるか、
拒絶してラウルの死を見るのか、どちらかを選べ」と選択を迫る。
クリスティーヌは怪人の横暴なやり方に絶望した。
しかし、「一度は心を捧げた人。この人が一人ぼっちではないということを
分かってもらえるために…私の心を見せてあげる」と、怪人にキスをする。
キスの後、怪人はラウルを自由にし、二人で逃げるように言う。
二人は言われた通りに去って行くが、
クリスティーヌはラウルからもらった指輪を怪人に渡しに戻ってくる。
ファントムは彼女に愛の告白をするが、クリスティーヌはそのまま去って行く。
一人になってもなお、「クリスティーヌ、愛している」と泣き崩れる
ファントムを残して、クリスティーヌとラウルを乗せた舟が遠ざかっていく。
《♪オール・アイ・アスク・オブ・ユー(クリスティーヌ・ラウル)》
ファントムは玉座に座り、マントを頭からかぶる。
ファントムを捕らえようとする人々が隠れ家まで降りてきた。
その中にはメグもいる。
メグが玉座にかぶせてあるマントを剥ぎ取るとファントムの姿はなく、
彼の仮面だけが残されていた…。



2003年07月07日(月) 七夕

先日、ふと、なぜ「たなばた」って言うのかな? と疑問に思った。
「七夕」をどう読もうとしても、「たなばた」とは読めないではないか。
今までにも時折疑問に思いつつ、調べず終いになっていたことを調べてみた。

「たなばた」は、「棚機」つまり機織り機のことである。
「七夕」と呼んでいるのは、「たなばたつめ」つまり「機を織る女」の略で
織女星を祭る行事を「たなばた」と呼び、
7月7日の夕べのことだから、「七夕」という字を当てたわけである。

授業でそんな話をするついでに、本当はきょうじゃない、などと爆弾発言。
幼稚園・保育園や小学校で、あたかもきょうであるがごとくに、
願い事を色紙に書いて笹の葉にぶら下げてきたみたいだけれど、
本当はそれじゃあ願い事が叶うわけがない、と残酷なことを言った。
小さい子に話しちゃいかん、などといらん注意を与えつつ。。。

七夕は旧暦の行事だから、今年だと8月4日になるのである。
それは実は、立秋のころである。
小さいころから教わっていた新暦の7月7日だと、
たいていまだ梅雨が明けてなかったりして、天の川は雲の向こうにある。
朝のラジオの気象協会の話では、?4年前に晴れたきり毎年曇か雨だそうだ。
けれども、本来の七夕は、この五月雨の残る夏の風情でなく、
確かにまだ暑さの残る夏休みのただ中であっても、
初秋の風情の中で行われてきた行事である。

こういう新暦と旧暦の混在を、日本人は忘れるべきではないと思う。
昨今はNHKのアナウンサーでも、GWのころに五月晴れなんて言葉を平然と使っている。。。



2003年07月06日(日) オペラ座の怪人

今までこのミュージカルを題名しか知らずに来た。
最近になって、サラちゃんがコンサートで不可欠のように
取り上げているのを見て、また、そのたびに「序曲」を聞かされて、
ちょっと吹奏楽で取り上げてみようかと、興味を持った。
吹奏楽編曲でメドレーが出ているので、その収録曲を確認するために、
先日、サントラ盤を取り寄せてみた。
今夜、それを聞き始めた。
ところが、目的の曲だけトラックを選択して聞くことができない。
2枚組のCDなのだが、1枚に1幕分が1トラックで入っている。
しかも、添付の台本の冊子が、英語版と日本語版に分かれていて、
日本語版だけ見ていてもさっぱりわからない。
英語版を追いながら、どれがどの題の曲かを推測しながら聞くしかない。

なんとか、第1幕だけで、
Think Of Me
Engel Of Music
Phantom Of The Opera
Music Of The Night
All I Ask Of You
の5曲を確認することができた。
なんといい曲が続くではないか。
このミュージカルが評判だったころはまったく知らずにいて、
今ごろやっと知ったというのが、大きな損失のように思われるのである。
もう舞台を見ることもできそうにないし。。。



2003年07月05日(土) 首の痛み

昨夜は、進路検討会などという、新参の1年生担当にはまったく無意味な
会議につき合わされて、9時過ぎに帰宅した。
それからビールを飲みながらネット上を回っているうちに、
ちょっと横になりたくなって横になったら瞬時に意識を失ったらしく、
一瞬後には朝の7時になっていた。
だから、6月1日以来の毎日欠かさず記録は途絶えてしまった。

昨日の1時間目の担任会の時に、ふっと背筋を伸ばした瞬間に、
長年恐れていたがここんとこはかなり長い間免れていた感触が襲ってきた。
首筋の辺りに、突然、ピシピシピシ、、という硬化するようなきしみが走り、
痛くなり、やがて動かなくなるという長年の持病である。
あ、いかん!! と思ったときはもう遅い。
1度これにやられると、短くて3日、長くて2週間くらいの間、
実に憂鬱な痛みと闘いながら仕事をしなければならなくなるのだ。

未然防止のつもりで、毎晩十分に首を動かして
柔らかくしてから寝るようにしている。
そのおかげか、ここ2、3年の間はなんとかこの災難から免れていた。
けれども、今週はやたらと疲れて、しかも早く寝ることができない状況で、
寝る前の首の運動もおろそかになってしまった。
そうしたら、さっそく首の方がストライキに入ってしまったらしいのである。

昨夜、ちょっと横になりたいと思ったのは、この首の痛みのためである。
そう眠たいと思っていたわけではないので、すぐ起きるつもりだったが、
何を考える間もなく、スーーッと何秒かの間に眠りに落ちたらしい。
朝から痛みに耐えて仕事をしていたので、
心が感じる以上に体が疲れ切ってしまったのだろう。
朝の目覚めは爽快だったけれど、首がまるっきり動かない状態だった。
起き上がるのもひと苦労だった。
湿布薬を貼る間もなく眠ってしまったのが失敗だったかもしれない。

19年前の追突事故でのむち打ち症の後遺症なのだろうか。
10年前に診てもらった医者によると、
首筋に並んでいる骨が少々開いているから、
何かの拍子にそれが開きすぎて、筋肉との関係がまずくなるのだという。
まあ、要するに、硬化しすぎているのだろう。
運動不足と、仕事をするときの姿勢が悪いのがいけないのに違いない。



2003年07月03日(木) 採点終了

きょうの夕方、ようやく採点が終わった。
一昨日の午後の睡魔が祟って、きょうまでずれ込んでしまった。
ま、時間のやりくりはたいへんだったけれど、
んもおぉぉ、こいつらなーんにも勉強せずに受けてるじゃないか〜!
と、イライラムカムカすることもなかったので(もちろん稀にはいるけど)、
それほど精神的ダメージを受けることなく終わった。
中間考査の時も同じ感想をもった。

この夏は、何年かぶりに、補充授業&追試などという、
無駄で徒労で甘えた精神を助長するだけの時間の浪費を
しなくてすみそうなのが実にうれしい。
もちろん、一生懸命わかろうとしているのに、
もう一歩のところでわからなくて苦しんでいる子がいれば
ちゃんと補充してあげたいと思うけど、、、そういうケースは最近はない!



2003年07月02日(水) 「オペラ座の怪人」CD

昨日、米朝落語DVDが届いたのだが、タイミング悪く、見る暇なし。
こちらはしばらくお預けだ。

CDなら聞くだけだから、仕事しながらでも可能である。
きょうは、先日HMVに注文しておいたサラちゃんのアルバム2枚と、
「オペラ座の怪人」のCDが届いた。
「オペラ座の怪人」は、なんと2枚組で、セリフも入っていて、
オリジナル・ロンドン・キャストと銘打ってある。
それを見ながら、・・ん?ひょっとして、、?と思っていたら、
最近聞き慣れた味わいとそっくりな声がスピーカーから聞こえてきた。
配役の部分を読んでみたら、ちゃんとサラ・ブライトマンの名があった。
知らずにサラちゃんのCDをもうひとつ頼んでしまったらしい、、f^_^;

これのDVDが欲し〜い!



2003年07月01日(火) 採点時の睡魔

昨夜の飲み会で飲み過ぎたせいか、朝から体調不良(二日酔いではない)。
朝食もとれないまま仕事に出て、2時間続きの試験監督、全校集会、大掃除、
そして30分近くかかった帰りのSTを終えて、昼食を食べたら、
どっと午前中の疲れが押し寄せて来たらしい。
きょう終わって答案ができたテストもあり、
それを明日返そうと思ったら、一心不乱に採点に没頭しなきゃいけないのに、
ぜんぜん体がいうことをきかない。
15点か20点分くらいの範囲に小分けして次々に採点していくのだが、
3人分つけては、睡魔に襲われる、気を取り直して再開しても、
また3人分つけては睡魔に襲われる、、、といった具合で、
いつの間にか、30分ほど眠って目を覚ましたりする。
こういう苦しみは今までの試験最終日にも経験しているけれど、
ちょっと眠ってしまって目を覚ましたら、後はビシバシ集中できたものだ。
けれどもきょうは、これが何度も繰り返された。
雨が降り、ちょっとヒンヤリするような1日で、
寝冷えまでしたのかもしれない、頭痛にも悩まされた。

・・もう1日が終わるのに、明日の準備もいろいろと中途半端である。
まぁ、何とかなるでしょ、と少々投げやり的。。。

今月は、成績処理、保護者会、学校祭準備、コンクール運営、、等々、
実に忙しい月であるが、前途多難の予兆となるような初日であった。
簡単に言うと、まぁ、これじゃ先が思いやられるわぃ、、というわけで。。。


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