TENSEI塵語

2003年06月30日(月) またまた「ラ・マンチャの男」

7、8回目になる観賞である。
前に書いたなー、と思って、先々月あたりからを探しに行ったら、
かなり遡って、去年の9月11、12日に書いていた。
もっと最近のように錯覚していたのは、作品が心の中に生きているからだろうか。。。

高校時代に初めて見たときの感想も、その時の日記に書いてある。
あまりの夢想についていけない感を抱きながらも、
その姿が崇高なものとして描かれている点については感心したのだった。
そうして、最近はやはり、セルバンテスの次のセリフが心に響く。

「人生で、狂気とは何だ?!!
 現実的すぎること、夢をもたぬこと、ゴミの中の宝探し、、、
 1番の狂気は、人生を、あるべき姿でなく、あるがままに受け入れることだ!!」

ドン・キホーテは、現実を良くしたいという夢をもって生きる
ひとつの極端な典型として描かれたのだが、
それを、最終的には夢を実現する勝利者として描かずに、
徹頭徹尾、無力な愚かしいほどの人物として描いたところに、
セルバンテスの、現実の中でもがき続けた深さがあるのだろう。

現実をまずありのままに見つめることは大切である。
でも、ただありのままに受け入れて忍従しているだけでは、変わらない。
個人としての生活でも、社会生活でも、夢や希望を抱くことがなかったら、
前向きに空想できる力がなかったら、現実は変わらない。
確かに、もう厳然と立ちはだかる現実は、容易には動かし難い。
実際には、現実をまず見つめ、どうするのがいいのか、
どういう風になら、夢や希望がどの程度まで実現できるか、
判断しながら闘っていくことになるのだろう。
ドン・キホーテという人物像は、ひとつのエッセンスなので、
純粋すぎるあまりに、作中では、笑われ、侮られ、敗北してしまったけれど、
後世には、崇高な何かを残したわけである。



わーーい、1カ月、毎日書き続けたぞ! わーい!\^o^/



2003年06月29日(日) 「宛名職人」の長短

試験の採点をしなければいけないのに、その前に、
どうしても明日発送しなければならない封書の準備をした。
支部の吹奏楽コンクール参加校宛に2つの文書を送らなければならない。
その文書はそれほど苦労することなくできたけれど、
宛名書きのところでかなり難儀をし、3時間を費やしてしまった。
結果から言えば手書きで宛名を書いた方がうんと早かったことになるが、
難儀してから手書きに変えればそれだけ労力を増すことになってしまう。
最初から手書きでやろうと決めればそれはそれでいいのだけれど、
PCでやろうと決めたら、いくら途中で難儀しようとも、
まったく不可能でない限り、結果的には途中で変えない方が早いことになる。

3時間の内訳をここにメモしておくと、
1、タックシールを探した。
2、袋は見つかったけれどシールは1枚しかなく、足りなかった。
3、封筒に直接印刷することにした。
4、宛名職人がまだインストールしてなかった(2カ月前にOS入れ換え) 
  ことに気づいて、まずインストール作業をした。
5、住所録も入れてなかったので、バックアップのMOから移した。
6、宛名のレイアウトがなかなかうまくいかず、2時間近く費やした。

宛名職人は、年賀状など、ハガキ印刷する分にはかなり便利である。
タックシールなど印刷するのもかなり便利である。
ただ、その場合でも、差出人の郵便番号、住所、名前、電話番号、、等々の
文字サイズなどが自由自在に設定できないのが難である。
きょう使い始めたのはヴァージョン10だが、
その不便さは、ヴァージョン6時代からいっこうに進化していない。

きょうは、普通の人があまりやらない封筒への宛名印刷だったせいもあって
高校名と「吹奏楽部顧問殿」の間隔の調整や、
差出人のコーナーをレイアウトするのに
いろいろとわけわからない現象が起こって困った。
差出人の行間調節をしても、横書きにしたせいかちっとも反映されないし、
設定がちゃんと反映されるカードもあれば反映されないカードもある。
やっとこさ印刷にこぎつけたのに、郵便番号を印刷してくれなくて、
それを解決するのに2、30分を費やすことにもなってしまうし。。。

でも、何年か前に同じ作業に挑戦したときはもっと簡単にできたのである。
その時は、タックシールを封筒に貼るよりも、
直接封筒に印刷した方がうんと手間が省けるとさえ思ったのである。
でもそれを続けなかったのは、糊つきの封筒を使うようになって、
それではプリンターを使えないからだった。
なぜあの時簡単にできたはずのことがきょうできなかったのかは、不明だ。

宛名職人の最大の難点は、宛名レイアウトが保存できないことだ。
せっかく長時間かけて最適のレイアウトにしても、
1度終了してしまうとレイアウトは失われてしまう。
次に同じ作業をしようとしても、また新たにレイアウトし直すことになる。
5回もヴァージョンアップしてこの点が改善されないのは不思議だ。



2003年06月28日(土) 爺さん寝の朝

昨夜、頭の中はさほど疲れ切っていたとは自覚してなかったけれど、
9時前ごろから身体のそこかしこが眠い眠い、だるいだるいと訴えるので、
ちょっと体を横たえてみたら、一瞬後に目を開けると真夜中の光景で、
時計を見たら1時半をちょいと過ぎたころだった。
5時間には足りないけれど、ぐっすり眠ったようである。
翌日仕事だと、酒飲んででももう1度眠ろうかと迷うのだけれど、
幸いきょうは休みなので、いつでも昼寝ができるからと、
ウイスキーちびちびは断念して(淋しい、、、)起きて過ごすことにした。
昨夜眠ってしまって書けなかった塵語を書き、メールを書き、カキコをし、
「たそがれ清兵衛」を見、2度の朝食をとって、8時近くまで過ごした。

婆さん寝、爺さん寝というのは、夜8時か9時ごろに寝て、
朝4時か5時ごろ起きる習慣に命名したものである。
私は中学時代から夜行性動物で、深夜になるにつれて目が冴えてきて、
若いころは2〜4時ごろでないとなかなか寝る気になれなかったので、
まだ爺さん婆さんと呼ぶほどでない人がこんな生活をしていると聞くと、
それがあまりにも驚異だったので、こんな呼び方を思いついたのである。
その意味で比較してみると、昨夜の私の睡眠は爺さん寝とは似て非なるもの、
1時半ごろ寝て6時半ごろ起きるといういつものパターンが、
5時間近く前にずれただけのことである。

朝8時半ごろに、ちょっと起きてるのに疲れて横になった。
いったん目が覚めて、二度寝した短い時間に、久々に夢を見た。
悪夢だった。

バスに乗っていて、そろそろ自分の降りるところだと思ったら、
目が痛くて開かない。財布がない〜と思ったら、床に落ちていた。
運転手に待ってもらって、見えない目でやっとこさお金を取り出した。
お釣りをもらう間に荷物を持とうとしたら、免許証入れが空っぽで、
中味が床に散らばっていた。
急いでかき集めてとりあえず袋に入れて、
かばんやら、袋2つやらを持って、バスから下ろして、
運転手さんはまだお釣りを数えていた。
やっとお釣りを受け取って、荷物のところに戻ると、
いっぱい荷物が置いてあるフロアには、自分の荷物はない。
どこをどう探しても、、、ない! ない! 
ないなんてわけにはいかない、、答案も入ってるし、
キャッシュカードもクレジットカードも何枚あることか、、、
でも、ない! ない! ないのは困るー、、ってキチガイみたいになって
探しまくってる最中に、パッと目が覚めた。

起きてからも、悪夢の印象はなかなか覚めなくて、
実際にすべてをなくしたのではないと安心するまでに時間がかかった。
それにしても、夢というものは不思議である。
バスから荷物を下ろしたところは、絨毯のフロアで、
そこには多くの荷物を置いて、多くの人々がいくつかの塊になって、
車座になって談笑していたり、ぽつんぽつんと座っていたりする。
そんなフロアの端に、バスは相変わらず布団のようにとどまっていて、
その中へもう1度探しに行かなきゃ、行かなきゃ、と懸命に考えている。
そんな不思議な設定を変だとも思わず、
真剣に自身の身の破滅を憂えて、懸命に荷物を探し回っている。。。

ま、爺さん寝を心から楽しめるようになるには、まだまだかなりの年季が必要らしい。



2003年06月27日(金) 煙草にまつわる思い出

来月から煙草が値上げだといって、サークルKが注文販売までしていた。
今までも値上げのたびに買い占め作戦を考えたものだが、
あちこち回って買い集めるのも難儀なのでたいていは断念していた。
かといって、この機会に禁煙!、、などという気にはなれないものである。
この親切な作戦に乗って、20カートンを手に入れた。
他にも5カートンほど買いだめしてある。
これでもやっとこさ5千円の節税に過ぎないし、
せいぜい3カ月もつだろうかという程度の買い置きである。
つくづく煙草というのは無駄遣いだと思うのだけれど、
そういう実感と、やめるやめないはまったく別次元でしか考えられない。
案外、買いだめの在庫がまだたくさんあるというのに、
突如として禁煙を思い立つ、なんてこともあったりするもんだし。。

思い起こしてみると、もう40年近い前の我々の子ども時代など、
かなり家計の苦しい時代だったはずなのに、
私の父も、父の知人たちも、ほとんどが愛煙家だった。
私が小学生だったころ住んでいた郡上八幡の町営住宅の、
狭い四畳半二間に、わりと頻繁に来客があった。
客の種類にもよるが、たいてい子どもも同席のような恰好で、
煙草の煙に包まれていたものだ。
モクモクと漂う煙の中にフーーーッと息を吹きかけて、
煙を動かして楽しんだりしていた。

当時よく目にした煙草は「いこい」「しんせい」などだったが、
時々「ピース」なども置いてあった。
缶ピースの蓋を開けたときの臭いには、何となくロマンを感じたものだった。
けれども、子どもの思いとしては、あんな煙たいものはかなわん、
好んで吸うやつらの気が知れん、という思いの方が強かった。

高校時代に、毎朝美濃町線の電車に乗ると、
まだ空いている電車の中で数人のおっさんたちが煙草を吸っていた。
あのころは、電車の中でもおかまいなしだった。
その数人のおっさんたちは、たいてい「エコー」を吸っていた。
私はそのころ鼻炎に悩まされていたので、早朝のこの煙幕には参らされた。
軽トラックの青っぽい排気ガスや、大型車の真っ黒い排気ガスと同様、
実に忌むべき諸悪の根元のような存在に感じられた。
けれども、嫌煙権などという言葉はまだ耳にしない時代だった。
このころの私には、喫煙など自分とはまったく縁がないはずだった。

大学の1年の時に、仏文科の友人たちと酒を飲んで、
それからどこに行くかとなったときに、そのうちのひとりが、
先輩のマンションに行って飲もうと言い出して、ゾロゾロと移動した。
その先輩というのはW大の学生で、我々のほとんどは初対面なのに、
結局そのマンションで大騒ぎしながら朝まで飲んでいたのである。
その時に、そのW大の先輩が悪のりして、パーッと全員に煙草を配って、
雰囲気をワイワイ盛り上げながら、火をつけて回ったのである。
もぉ、こいつ、とんでもないやつだー、と思いながら、
私も酔って浮かれていたから、ま、くわえるだけ、と座興に交わった。
この時の2、3本が、意外にも、うまいと感じられてしまったので、
そのまま愛煙家に加わることになってしまったのである。
20歳の誕生日の1週間前のことだった。



2003年06月26日(木) またまたサラちゃんDVD

きょうはちょっと早い時間に帰路につくことができたので、
かつての通勤路の方に回って、CD屋に寄った。
「エデン」コンサートDVDを買ったときに保留にしておいた、
もうひとつのコンサートDVDのことが気になっていた。
HMVのサイトでサラ・ブライトマンを検索してみると、
CD・DVD・ビデオなど、輸入盤も含めて全部みたいな感じで
リストが表示されるのに、その中にこのDVDが入ってないので、
放っておくと永久に手に入らなくなる恐れがあるので買いに寄ったわけだ。
最初見つけたときよりも値引きされていた。

帰ってさっそく見始めた。
「エデン」「ラ・ルーナ」のコンサートとは違って、
クラッシックコンサート的な演出である。
ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートということで、
解説によると、ここはクラッシックコンサートもやるけれど、
ロンドンのポピュラー音楽の殿堂として有名なホールらしい。
1997年のコンサートのようだ。サラちゃん35歳だ。
前髪を下ろしていて、額の皺が見えないせいもあって、かなり若く見える。

前半はほとんどクラッシックの声楽の発声で歌っている。
こればっかりじゃ、サラちゃんの特徴が出てないじゃないか、と思ってたら
後半、ミュージカルナンバーがふえるにつれ、
いつもの変化に富んだ歌声が楽しめるようになった。
CDアルバムと違って、こういうコンサート映像を見る楽しさは、
観客の反応と共に楽しめるところにある。

こうして、DVDで3つのコンサートを見てきたわけだが、
どれにも取り上げられているのが、「オペラ座の怪人」である。
サラちゃんのミュージカルスターとしての当たり役だったせいらしい。
この音楽の吹奏楽版がずっと前から出ていて、
演奏しているところも聞いたことがあるけれど、
部分的におもしろいと思ったところもあるけれど、興味なしでいた。
最近、俄にこれが興味の的になって、是非演奏したいものだと思っている。



2003年06月25日(水) 事務分業すべし

期末考査が始まり、早く帰ろうと思えば帰れるのに、出張である。
吹奏楽コンクール地区大会の打合会である。
打合会というのは運営に関する連絡・確認会議であるが、
メインはもちろん、出演順決定である。
自分のところの部は出ないのに、この会議に出席すると気楽である。
しかも、今年から10年間続けてきた事務局を交代してもらっている。
事務局補佐みたいな形でとどまっているので、裏から世話をする係である。
事務局は主催者側の席にいて、説明する時間もあるし、気が抜けない。
今年は私は普通席で、のんびりと報告資料を作っていた。
そして、それを事務局に送信だけ頼んで帰ってきた。
去年までは、会議中にそんな仕事をする立場になかったので、
帰宅してから資料を整理して、翌朝、県事務局に送信していた。
こういう分担ができるようにしておけば、楽だったのだ。



2003年06月24日(火) 発見! 福島弘和

帰ったら、日曜日にメールで注文しておいた2品がもう届いていた。
ひとつは、静岡のすみや楽器店の、櫛田てつ之扶作品集のCDと
その中の1曲である「元禄」という曲の吹奏楽譜である。
この曲をとにかく聞き直して、次回の市吹の定演の有力候補に決めた。

もうひとつは、群馬のアコード出版という会社が出している
オリジナル吹奏楽譜のサンプル演奏CD8枚である。
2、3年前はこんなのを出してはいなかったはずだけれど、
日曜日にサイトを見に行ってみたら販売していたので、
全部で9枚販売しているうちの8枚をまとめて注文したのである。

私はかなり多くのオーケストラ曲を聞いてきたつもりだし、
人からいろいろな曲の話題を持ち出されても、
その曲知らない、と答えることはあまりないのだが、
ここのアレンジ曲のリストを見ていたら知らない曲がいくつもあった。
確かに、マスネだとかグラズノフなんてのはほとんど知らないし、
レスピーギだって、ローマ三部作以外は、吹奏楽を始める前は
ひとつも知らず、吹奏楽を通じて「教会のステンドグラス」とか
「シバの女王ベルキス」を知ったけれど、このアコード出版のリストには、
レスピーギのまだ知らない曲がさらに3曲並んでいたりする。
市販CDでこういう曲を探すのはたいへんなので、
このサンプル演奏CDをドバッと取り寄せることにしたのである。

ほとんどがオーケストラ曲やピアノ曲からの吹奏楽編曲なのだが、
吹奏楽オリジナル曲というのも10曲ほど入っている。
この分野のものはたいてい期待できない、期待して聞いてもほとんどハズレ
なので、もっぱら私の関心はオーケストラ曲の編曲に行きがちなのだが、
今夜はびっくりした。
福島弘和という人の作品が9曲入っている。
「雲の信号」「よだかの星」「宙のしらべ」「シンフォニエッタ」など、
なかなか耳を引きつけるのである。(めったにないことである)
アレンジ的創作曲も優れている。
「五木の子守歌」「八木節」など、もういいよと言いたくなるはずなのだが、
実に新鮮なおもしろい曲に仕上がっている。
最初にとにかく驚いたのが「せんばやま変奏曲」という
「あんたがたどこさ」を素材にした曲だったし、
何曲か聞いた後、こりゃうまい!と感心させられたのが、
「四季のうた」というメドレーである。
「早春賦」「我は海の子」「もみじ」「雪」という、これこそホントに
もういいよ、ほっといてくれ、と言いたくなるほど聞き飽きた4曲を
実に新鮮な音楽として甦らせている。

市吹で演奏する曲を、私は年中機会あるごとに探しているけれど、
その点では、今夜非常に明るい展望が開けてきたようだ。



2003年06月23日(月) ある提案への空しい答弁

週5日制になったこともあり、各校では、授業を7限目まで延長して、
週あたり32時間授業を確保するための対策を論議していた。
そうでもしないと、その学校は、生徒のためを考えない、
やる気のない学校という烙印を捺されかねない勢いだった。
(たいていの場合、こんなのはその当初気にかかる程度の問題にすぎない)

しかし、私の周囲の生の声では、
6時間授業はこの生徒たちにとって長すぎる、
午前中4時間授業で午後1時ごろに昼食というのは遅すぎる、、、等々の
意見が聞こえていて、私もそうだと思っていた。
また、生徒の単位の未修得の問題でも、さまざまに矛盾が生じていた。
反対に、やる気のある生徒には手を入れてやりたいという願いも強い。。。

そんな中で、それらをすべて解決する方策を、考えたつもりだった。
まず、最低必修の授業を1日5時間の中に組み込む。
(それで本来十分になる予定なのだ。ここでは詳しく書けないが、、)
それだけは全員がちゃんと修得しなければいけない。
それを午前中3時間、午後2時間で行う。
6限目、7限目は、自由選択授業にする。
選択しない生徒は、部活をしてもいいし、帰ってもいい。
その選択授業は、必修では不十分な分を補うもので、
今、物議の的になりがちな補習でやってるようなことをやればよい。
こうすれば、週あたり、必修授業は25単位時間だけれども、
最高34単位時間まで可能である。

この案は、話した何人かの先生たちに賛成してもらえた。
当然である。
今あるさまざまな矛盾を解決できるばかりでなく、
有料の補習も、授業料の枠内で修得単位になるというおまけ付きである。
全体としては、すべての子に受験教育を押しつけるのでなくて、
高校生としての最低限の教養を身につけてもらおうという方針である。
学習指導要領の基本に則った、新しい方策なのである。

秋に、県教委の高校教育課の学校訪問があるのが恒例で、
その日の第6限は、分掌主任に向けての指導の時間というのがある。
もちろん、指導なんてたいそうな言葉を使うほどの話はない。
その時間に質疑というのがあるので、その時間に質問したことがある。
質問はあらかじめ提出するように言われていたので、
教頭に出しておいたのに、時間がないからと質疑をカットされそうなところ、
強引に割り込んで質問したのである。
しょうもない毎年恒例の話ばかり聞かされて、
肝心なことを省略されてしまうのでは、つまらない。

学習指導要領の規定と、生徒の実態などを話した上で、
上記の提案を実現する可能性はあるか、という質問をしたら、
答は次のようなものだった。
「この県では生徒を3時半ごろまでは学校で預かってもらうことにしている」
「学校によって生徒の帰る時間がまちまちでは困る」
開いた口がふさがらないようなアホらしい答弁に、
それでも気を取り直して意見を言い続けようと思ったら、
教頭が、時間も過ぎているし次の予定があるので、と会議を打ち切った。
真剣に考えるのがばかばかしくてたまらなくなる事件だった。
ま、それまでにもいろいろあった中での極めつけみたいなものだが。。。



2003年06月22日(日) なぜか再び禁煙問題が、、

先日、中日新聞の報道が「新聞社の勇み足」に過ぎなかった、という
お知らせが学校に入ったのだけれど、
そのころ沈黙していた朝日新聞が、きょうの朝刊で蒸し返していた。
「生徒に禁煙を呼びかける教員が学校で煙草を吸うと指導上の説得力がない」
なんてことを、県教委が真剣に考えているのだとしたら、
県教委のいつもの場当たり的な政策そのものだから、
まあ、一貫性のある、相変わらずバカな精神だと言う他ないだろう。
こんな論理がまかり通るようだと、そのうち年休も夏休みしか取れなくなる。
生徒に遅刻するなと呼びかける教員が、時間給を取って遅れてくるようでは
指導上の説得力がない、などというのと同じだからである。
生徒が3時半まで我慢して課業を務めているのに、
それ以前に教員が帰ってしまうのはよくない、ということにもなりそうだ。
私自身は、立場の違いということを認識させるのも教育だと思っているし、
それは自分がまだ十代だったときもそういう認識を持っていたので、
たとえ今嫌煙者の立場にいたとしても、上記の考え方には反発しただろう。

実際、県教委の通達がどういうものなのか定かでないけれど、
新聞がこんな報道を盛んにし始めたとなると、
私が学校を去るのも、そう遠い話ではないようだ。
こういう問題が持ち上がった以上、禁煙して教員を続ける気はない。
もしも禁煙するなら、教員をすっぱり辞めて、
このバカげた問題から自由になってからである。
このバカげた問題は、今までのいくつものバカげた政策の延長にあり、
今までは個人がどうしようと何とも仕様のないレベルの問題だったけど、
今回は個人の対応が迫られているわけだから、
これに屈するのはなんともばかばかしくてやってられないのである。
だから、これに屈するよりは、この機会に自由な立場になって、
今までのバカげた教育政策を糾弾したいものである。
やっぱり、新しい収入の道も今から模索しなきゃいけないのかねぇ。。。
あの迷惑カキコや迷惑メールする商売にでも荷担するかね?
もうこの歳になると、そんなもんしか残ってないだろうしなぁ。。。

いつも言っていることだけど、教員が働きにくい職場を作るためだけに、
教育委員会は存在しているのである。
電話での訴えにはペコペコするばかりで、現場を困らせるだけだし、
入試制度を変えるたびに、現場は困惑するばかりだったし、
現場からいい提案をしようとしても、形式主義ではねつけるばかりだし、、、
それでいて、職場の分煙がここまで進んできたのは、
私の見る限り、職場の嫌煙者の努力である。
県教委は、何か言ったのかもしれないが、
少なくとも、喫煙室の設営については、会計担当の係が苦慮していたから、
県から推進費用が出ていたとは思われない。
とにかく彼らは、現場を忘れた無責任集団の集まりでしかない。
あいつらに屈してたまるか、と思いながら、今まで泣き寝入りして
忍従してきたのは、自分ひとり抵抗すれば職場の仲間に迷惑かけるからだが、
校内喫煙問題に関しては、自分ひとりでも抵抗できる。



2003年06月21日(土) Figlio Perduto

これはイタリア語だろうか。。。

去年ある人に薦められてサラちゃんの「ルーナ」を聞いたとき、
始まってすぐに聞こえてくる「Winter In July」や中程の「月の息子」にも
とりわけ感心したものだったが、その時最もおもしろく思ったのが、
このイタリア語らしい題名で歌われていたベートーヴェンだった。
ベートーヴェンの交響曲第七番第2楽章は、厳粛な曲である。
厳粛な中で、美しい対旋律がたまらない哀感を醸し出す。
30年以上も歌とは無縁だと思っていたこの弦楽主体の音楽が、
イタリア語らしい歌とコーラスで再現されている。。。

今夜はじめてその訳詞を読んでみた。
シューベルトの「魔王」のような歌詞だったので、またまた驚いた。
この題名は、フランス語だと Fils Perdu となるのかもしれない。

・・・・・・
風の吹きつける 夜がせまりくる 父と子が旅立つ
馬にまたがり 真っ暗闇の中 ふたり突き進む
しかし突然 恐怖のあまり 子は震え出す 辺りは寒くなる
父よ ああ父よ 小妖精の王様が ほら そこに ねぇ見える?
迷える息子よ ねぇ遊ぼう 楽しいことしよう さぁおいで
父よ ああ父よ 彼が口にした言葉 約束したことを ねぇ聞いた?
迷える息子よ 私についてこないなら 私の力を駆使しよう
父よ あぁ父よ 小妖精の王様が 僕に触ってる 僕を苛める
そうしてその子は 目を瞑り 動かなくなる さらわれてしまう
・・・さらわれてしまう



2003年06月20日(金) 交通安全指導

朝、当番で通学指導に立ったのだが、立っているうちに
何と判断のむずかしい場所だと思った。
横断歩道があるので、原則として、自転車通学者ばかりでも、
横断歩道のあるところを渡らせなければならないのだろう。
しかし、横断歩道を渡らせると学校への1本道の右側に入らせることになる。
すると、対向車との関係がよろしくない。
ちょっと外れた場所からスキをうかがって渡った方がうんと安全である。
小学校方式に、渡るときは自転車を降りて引いて渡る、
それを2回やらせて、学校への1本道を左側通行させる、なんてのは
とてもやってられる状況ではない。
けれども、立っている以上は、原則通りにやらせないと、
あいつら何のために立ってんだ、と地域住民が怒るかもしれない。

私は長年この0の日の交通指導には反対である。
どうしてもやらねばならぬものならば、毎朝毎夕、同じ人が、
同じ指導を根気よく続けるべきである。
0の日だけ立つのは、単に体裁だけのものである。
それで効果があるのかというと、その時限りのものに過ぎないし、
かえって、いつもと違うことを強いたりすると危険だったりすることが多い。
我々自動車通勤者も、黄装束集団が交差点で旗を掲げている朝は、
渋滞がいつもよりさらに長くなり、イライラさせられるものだ。
交差点を過ぎるときに、こいつら轢き殺したろかしらん、
なんて思うこともしばしばである。

交通当番は、地域へのカムフラージュに過ぎない。
学校はこれだけのことをちゃんとやってますよ、というPRである。
そもそも、地域の人々が、教員にそんな仕事を期待するのがおかしいのだ。
しかもそんなことにいちいちチェックを入れる人なんてごくわずかだ。
そんなわずかな文句を懸念して、空しい仕事が強要されているのである。
本当に生徒の安全を願って交通指導をする気なら、
毎朝、最善の指導を継続すべきである。
でも、そんな気はさらさらないのである。
きょうは特に判断に苦しむような場所だっただけに、
こんな素人が下手に指導してもいいのかな、とますます疑念が膨らんだ。

まーとにかく、過保護というか何というか。。。
小学校では、今でも自転車点検をやっている。
通学用ではない、私生活で遊びに使っている自転車を、
学校に持って来させて、長い時間かけて点検作業をしている。
それは親の仕事である。
普通の親からすれば、何と失礼な、となりそうな話である。
ま、普通の親が減りつつあることも問題をややこしくしているのであるが。。



2003年06月19日(木) 桜桃忌

木曜日は娘が大学休みなので夕食係になっている。
自分で材料を買ってきて料理の本を見ながら作ったりしている。
きょうは、私が買うのを避けているすももを買ってきていた。
桜桃忌にすももを食べた。
こういう酸っぱいくだものは苦手だ。

三鷹の太宰の墓参りには3度ほど行ったけれど、
鴎外の墓と違って、いつもワンカップと煙草が備えられていた。
ワンカップにはまだふたを開けて間もないくらいの酒が入っていたし、
煙草も、まだ火がついていたこともあり、消えていても白く新しかった。
3度とも、ほんの少し前に誰かが来て供えていったらしかった。

そういえば、今年の初めに今年の抱負として、
昔書いた「『斜陽』論」をアップしようと思ってたのに、まだ手つかずだ。
仕事に疲れて精神的に怠惰になってしまっている毎日なので、
1度、あのころの精神を取り戻す機会をもってもよさそうだ。

来年、仕事を辞めざるをえなくなったら、生活費には困るけれど、
精神的には救われるだろうなぁ、、、と思っていた。
ま、そんなわけで、いざとなれば辞めればいいや、のお気楽精神で、
いろんな策を講じようと思ってはいたのだけれど、
きょう、文書で入った情報では、
県教委は、校内全面禁煙を通達したわけではないようだ。
校内での分煙をより徹底するために、その道も示しながら、
喫煙室からの煙の流出に今まで以上の注意を払うことを求めたようだ。
たぶん、前任校のような、職員室の一画に喫煙室がある場合だろう。
そのきょうの報告文には、中日新聞の勇み足、と表現されていた。
来年はいろいろと悶着起こして楽しむ予定だったのに、
ちょっとだけ先延ばしにされたようである。

太宰の墓の煙草がもとで、話が逸れてしまったようだ。



2003年06月18日(水) 桂米朝DVD全集

きょう届いていたDMの中に、落語のCDやDVDの宣伝があった。
その中に、桂米朝のDVD30枚、60演目というのがあった。
実は、LDですでに10枚ほどバラ売りを持っているのである。
名古屋のCD屋で見つけたときに、1枚、3枚という風に買っていて、
早く全巻そろえたいなぁ、、と思っているうちに、
なかなかそういう機会もなくなり、注文で取り寄せるのも忘れて
そのままになってしまったのだ。
だから、こういうのを見ると躊躇し、迷うのだけれど、
DVDで揃えて、LDは処分することにした。
たぶん、足りない分をLDで揃えるだけの費用で、
DVD30巻が揃えられそうな価格だからである。

大学時代に区立図書館でいろいろな落語のカセットテープを借りて、
そのうち、まず円生の落語をダビングしてくり返し聞くようになった。
とりわけ「一人酒盛り」なんてぇのは、
聞いていても目の前にようすが浮かぶような語り口で、気に入りだった。
何本かダビングして、寝床で睡眠前に聞いていた。

別の図書館に、米朝のテープが何本も置いてあるのを見つけて、
最初に借りたのもよく覚えている。「千両みかん/愛宕山」だった。
これがまず気に入って、1日に3度でも4度でも聞き返すほどだった。
円生の江戸言葉とはまた対照的な大阪弁の味わいが何とも言えず、
しかも、こっちの方がうんとよく笑える。
たちまち、米朝は私にとっての最高の落語家になった。
米朝にお話ししてもらえないと眠れないほどになった。

就職してから、本の円生落語選集も米朝落語選集も全巻買い込んで、
しばらく愛読書になっていた時期もあった。
円生のLDセットはわりと早くに出て目でも楽しめるようになったけど、
米朝の映像はなかなか出ないようなので、
テレビで放映されるのをビデオ録画して楽しんでいた。
テープで聞いていたのとは、間の取り方が違ったりテンポが違ったりすると
多少興が損なわれることもあるけれど、またあの顔が何ともいえずいい。
とぼけた丁稚や女中の役をやらせても、実にかわいい。
まさに、福をもたらす表情である。
そんなわけで、永久保存版の映像を手に入れることが夢のひとつになったのだった。



2003年06月17日(火) 命を絶つこと

今夜はとても日誌を書けそうにない。
今月に入って毎日を心がけてきたけれど、ここで絶たれるのかもしれない。
友人がひとり死んでしまうかもしれないのに、
何かじっとしていられない気持ちなのに、じっとしているしかない。
そんなことは9割9分信じたくないし、信じられないことなのだけれど、
わずか1分の可能性にも、何やら現実味を感じてしまって、
数字とは反対に、1%が99%を凌駕してしまいそうな、、、
人間の心の中には、こういう非合理的な力関係が働くものである。

今までに、身近な人のさまざまな死に悲しい思いをしているわけだけれど、
教員になってから、身近な人の自殺を3度経験した。

最初は、最初に勤めた三河の定時制高校の、職員室で隣席だった先生である。
実にまっすぐすぎるくらいに真面目な先生だった。
この人が、後にも先にもこんなひどい生徒が集まったことがないと、
長くいる先生たちが証言したクラスの担任を2年間担任した。
無断欠勤が数日続いた後、彼は腐乱死体として林の中で発見された。
私は、生徒たちに対する、彼なりの究極の抗議だったと解釈している。

2番目は、そのクラスの生徒のひとりだった。
港でシンナーを吸って、その勢いで海に飛びこんで死んだという。
同情はできなかったけれど、棺の中の表情が、
生きていたときとはまったく異質の世界にいるので、淋しかった。

3度目は、前任校に赴任したとき、真っ先に親しくなった人物のひとりである。
音楽や文学の話で親しくなった。
家族をとても大事にしていたのに、遺書を残すこともなく、
自宅の軒先で首を吊って死んでしまった。
それを知ったのは、彼が亡くなって2カ月ほど経ってからだった。
転勤後何年も経っていたからである。
なぜ死んだ、なぜ死んだ、、、と、彼の日記をつぶさに読んだけれど、
どうしても、こうだという理由がつかめない。
小説家になりたがっていた彼の遺稿集は私が編集して、
10人ほどの彼の友人たちと協力しあって本にした。

親しい人の、本当に成立してしまった死でも、
99%信じられなくても、1%の現実味が凌駕してしまうものだ。
心と現実の絡まった領域というものは、数字や論理では割り切れぬものである。



2003年06月16日(月) 「若葉のころ」

昨夜、わりと早くすべきことが終わってしまった気安さから、
久しぶりにサラちゃんの「エデン」DVDを見ていた。
途中まで、少し見たらやめて寝ようと思っていたのだけれど、
結局なかなかやめられなくて、後半に入ってからも見続けていた。

こうしてもう2カ月近く聞き続けているのだけれど、
実に魅惑的ではあっても、泣けるということはなかったのである。
どちらかというと、心がほわ〜〜んと解かれていくような楽しみなのである。
癒される、とてもありがたい音楽なのである。

ところが、昨夜、タイタニックのテーマ(セリーヌ・ディオンより上手い)、
それから大好きな「オーシャン・アウェイ」という歌の後で、
しみじみと「若葉のころ」を歌い始めた時、なぜかホロリと来てしまった。
CDで聞いていたときは、確かに格別お気に入りの1曲ではあったけれど、
これほどしみじみとは感じられなかった。
CDでは、その前に、もういいよ、と食傷気味の
「ムーンリヴァー」が聞こえているせいかもしれない。
DVDでは、感服の連続の中で聞いていたせいかもしれないし、
ちょっとすねているようなポーズで淋しげに歌うサラちゃんの表情が
歌にかなりの色を添えているせいかもしれない。

今朝までこの印象が拭えなくて、ピージーズのCDを持って出た。
「メロディー・フェア」の後にこの曲が入っているからである。
(この2曲と「ステイン・アライヴ」ともう1曲しか聞かないCDなのだが)
帰りの車で、この原曲を何度もしみじみ聞いたけれど、
結局のところはサラちゃんの歌い方の方が好きだなぁ。。。

音楽体験にしろ、文学体験にしろ、何度も接していても、
TPOによって新しい体験ができるのがうれしい。
もちろん、人間同士のつきあいだって同じだ。



2003年06月15日(日) 今年限りで退職だ〜

いろんなことに耐えて懸命に働いてきたつもりではあるが、
もう来年度からは仕事を辞めなければならないようだ。
噂では、来年度から学校の敷地内では煙草が吸えなくなるという。
私には、なぜそうまでしなければならないのかがぜんぜんわからないし、
そんな形で禁煙を強要されるのが、あまりにもばかばかしい屈辱なのである。
禁煙するときは、自分の意志でしたいものである。
迫害され、追いつめられ追いつめられして、敗北の禁煙なんて腹立たしい。
分煙までは当然だと思うけれど、禁煙まで強要される必要はないはずである。
禁煙を勧めるのは正当だけれど、喫煙を弾圧するのは不当である。
とにかく県教委というのは、仕事をしにくい環境を整えるのは得意のようだ。

まぁ、でも、いろんな闘い方はあるわなぁ。。。
敷地内での喫煙は禁じられても、喫煙の権利は失われていないわけだから、
空き時間は断固敷地内にいないようにする、、、困るだろうなぁ。。。
来年度から、満足に仕事できる自信がないと主張して、
めんどうな役や、連続授業は断固拒否する。
この断固拒否が通らなければ、仕事に出ない。・・・な〜んてことを
やってたら、生徒に迷惑がかかるから、辞めざるをえなくなるだろうなぁ。。

辞めて、守秘義務がなくなったら、県教委が雇用主でなくなったら、
今までの県教委の愚行をそっこら中に書きまくってやるんだ、という
ワクワクするような楽しみもある。
ホントに愚かな奴らばっかりなんだから。。。
そろそろ、本腰を入れて、教育政策の誤りをじっくりまとめ始めようかなー。


我々の子ども時代には、先生は教室でも煙草を吸っていた。
小学校の時の先生は、教室の机に灰皿を置いていた。
中学校の時の先生は、給食の後、牛乳のふたに灰を落としながら、
私を呼んで説教していたものだった。
この先生は、私の心と生活を180°変えてくれた先生である。
そういう教室での喫煙を、今、いいことと思うのではないけれど、
そんなことをしていた先生だからといって、
尊敬の念は少しも損なわれないのである。
とにかく、私が生徒としてみてきた学校は、大らかだった。

とにかく、さまざまな意味で、
せせこましく住みにくい世の中になっていくなぁ、と思う。



2003年06月14日(土) 愛国心

教育基本法改正(????)が見送られたそうである。
改正とは実におこがましい言い方だとは思うが、
とにかく、現基本法の理念に則って政策が行われてきたかどうかもあやしい。

要するに自民党は
「国を愛する心」と「宗教的情操の育成」という内容を入れたいらしい。
公立学校も、小学校から大学に至るまで、
キリスト教の学校、浄土宗の学校、浄土真宗の学校、日蓮宗の学校、
曹洞宗の学校、神道の学校、イスラム教の学校、モルモン教の学校、
統一原理峡の学校、ものみの塔の学校、生長の家の学校、千乃婆の学校、、
等々と弁別して、自由に選択させて通わせたいらしい。
現代の、心のよりどころを失いがちな日本の子供たち、若者たちには、
案外こういう大胆な変革が必要なのかもしれない。
公明党にとってもそれはなかなかありがたいことではないか。
ちゃんと創価学会の学校というものを公的に認めてもらって、
徹底的に宗教教育ができるのだから。。。
けれども、公明党がウンと言わないので、保留になったとは如何に、、?

「国を愛する心」も大切である。
何だかよくわからないが天皇を愛する心、ではなくて、
この日本という国、日本という社会を心から愛せるようになりたいものだ。
この風土はなかなか好きだし、文化遺産も大好きである。
海外に行ったことはないので、比較した上で賞賛するわけではないけれど、
この日本の自然や文化遺産が破壊し尽くされることがあってはいかんと思う。
けれども私は、この社会に対しては、嫌悪感の方が強い。
政治家や官僚は肝心なことをせずにしょうもないことに税金を浪費し、
ろくな政策を推し進めなくて、国民も大半はうんざりしていて、
それでも選挙になると、馴れ合い票が多数を占め、真剣な票がゴミになり、
さらにゴミになる白紙の投票用紙が有権者数の半数前後にもなり、、、
これでは、政治離れ、社会離れ、嫌国心ははびこる一方なんだな。
この社会で自分は活躍してるぞ、自分もこの国を作るのに貢献してるぞ、
という実感こそが、愛国心を育むのである。
集団や社会と個人の関係というものはそういうものである。
ま、要するに「国を愛する心」を育成したければ、
政治参加教育や自治活動を徹底して鍛え込むことである。
ところが、政治参加をばかばかしく思わせるように政策を推し進めてきた
当の本人は自民党なのである。
自民党がこの数十年間を反省して、この国を作っていくのは君たちだぞ、
教育は今までと違って、政治にちゃんと参加できる人間になるために
受けるんだぞ、今までの大人たちとは違って正しく判断できるようになれ、
と、そういうつもりで改訂を訴えるなら、私も賛成するんだけどなぁ。。。



2003年06月13日(金) 昨日の続きだが、、、

昨夜は書きかけで眠ってしまった。
本当はたぶん、こんな忙しい毎日にも文句を言わずにやってるなぁ、
という思いが、自然と少しずつ甘やかすことになっているのかもしれない
というようなことを書こうとしたのだと思う。

前々からいる先生たちは僅かなことにも危機感を感じて問題にしようとする。
学年主任は、学年集会のたびに怒ってばかりいる。少しも誉めない。
私だったら、8割方誉めて、2割今後の課題を与えることだろう。
けれども、たとえば、
今まではケータイの蔓延しない学校は信じられなかったのに、
休み時間にもケータイで遊ぶ生徒を見ないで済んでいるのは、
ケータイが流行り始めた当初から規制を厳しくしていたおかげだろうし、
授業への入りが早いのも、ほとんど毎時間、教員がチャイムより前に
教室に着いていることから来る心理的効果なのかもしれない。

そんなことを漠然と思いながら書き始めたのだけれど、
書き始めるまでがすごく長くて、書き始めたらすぐに力尽きたという感じだ。
それというのも、本当に書くことに困るのである。
今月は、1日にちゃんと書いたせいもあって、毎日書く決意をした。
けれども、なかなか書くことを探すのがたいへんである。
4月以来読書もままならん状態だし、新しい情報に欠ける。
1日を振り返ってみても、これといって変わったこともないような感じで、
いざ書こうとすると、新しい発見を探すのがたいへんなのである。
こういう苦境は、7月あたりからは何とかしたいものだ。



2003年06月12日(木) 生徒も忙しい

もう、何でこんなに忙しいのでしょうか、、と言いたくなる毎日だが、
考えてみれば、今の学校の生徒たちもなかなか忙しい。
月曜・水曜は7限授業で、そうでない日も、たとえば今週などは、
火曜日は体育祭の群団会議で、7限目があるのと変わりないものだったし、
木・金のきょう明日は、終礼時に小テストがある。
10分放課も、たいては10分もない。
たいていの教員は(何と、私も)チャイムより前に教室に行っているし、
私の見る限り、チャイムの鳴るころには9割以上の生徒が席に着いて
授業の準備をしている。
私語が多いとか、眠ってばかりの生徒がいるとかの苦情も聞いてない。
けれども、別に勉強に意欲があるわけではないし、
できるだけ楽したい気持ちを持っている点では、そう感心するところもない。
大半の生徒は、家庭学習時間0時間に限りなく近いだろうことは、
しゃべっている言葉の端々から明らかである。
ただ感心するのは、そんな中にいながらも、遅刻する生徒も珍しく、
短い許された時間に明るくはしゃいでいる姿である。



2003年06月11日(水) 卵の価格

電化製品など、たとえばテレビを例に挙げてみても、
画面が大きくなり、性能がアップしても、
よほど新しい画期的な機能を備えたものでなければ、ここ2、30年、
標準の価格が変わってない、、、そんなことにも驚いたりするのだけれど、
もっとも驚くのは、卵の価格である。
私が子どものころでも、15円とか18円とかしていたように思うのだが、
記憶違いだろうか。。。
今も、標準の卵はそれくらいで変えるし、もっと安いこともある。

その子どもだったころに、父の給料が少し前まで
7千円だったと聞いたことがある。
全体の物価は今よりかなり安かったんだろうとは思う。
豚の細切れ100グラム買いに、よくお使いに行ったものだったが、
これは確か30円くらいではなかったか、と記憶している。
はなはだ曖昧な記憶なのだが、生活が苦しかったことは確かで、
家族5人の夕食に使う肉がそれだけである。
しゃぶしゃぶ肉数百グラムなんてぜいたくなものではない。
鳥の皮肝などという、今ではめったに見かけない、
ヒュルヒュル丸まる筋みたいな細切れに卵の黄身がどんとついたようなのも
よく買いに行かされたものだ。

さて、卵の値段だが、4、50年前に月給6千円だった人が、
今なら同じくらいの年齢で、24万円だと、実に乱暴な仮定をしてみよう。
これは、暗算がしやすいようにそうするので、だいたいの仮定である。
それで、卵の値段が、そのころも今も15円だとする。
そうすると、あのころの卵というのは、今で言うと600円になるのである。
(本当はもっと格差があって、600円よりも上のような気がする)
朝食に目玉焼き2つ食べたら、1200円である。
遠足にゆで卵ひとつ持たされたものだけれど、
弁当はおにぎりだったとはいえ、
子どもは何も知らないままに、何と高級な弁当になっていたことだろう。



2003年06月10日(火) 日本人専用観光地?

アニメ「フランダースの犬」は、私は見ていない。
放映されたのは、私が大学に入学した年だったようだ。見るはずがない。
それから何度か再放送されたようだったけれど、まったく知らなかった。
最近、懐かしのアニメ・ランキングとやらには、
かなり高いランキングに入っているようだし、
放映当時も、視聴率25%前後を維持していたようである。
もちろん、アニメは見ていなくても、小学生のころ、
「小公女」「小公子」や「母をたずねて三千里」などと一緒に読んでいた。

ベルギーの人たちは、この「フランダースの犬」をほとんど知らないそうだ。
アントワープの人たちでさえ知っている人は珍しいようだ。
作者はベルギー人でなくイギリス人というのが理由のようだ。

ところが、日本でアニメが放映されたころ、
その舞台をたずねて日本からの観光客が増えたそうである。
○○はどこにありますか? と問われた観光関係の人も、
何、それ?? という状態であった。
それで、その観光関係の仕事をするひとりが、図書館で原作を見つけ、
そこからいくつかの観光スポットを確定した。
「フランダースの犬」にちなんだ土産物も作られ、
ほとんど日本人観光客向けの観光産業が発展しているという。
今でも、年間約6万人の日本人観光客があるという。

ま、こういう日本人専用観光地はアントワープだけではないと思うが、、、
私がこの話を聞いて特に感心するのは、
アニメ作品の侮れない威力とテレビというものの大きな力である。
ひとつのアニメ作品が、ヨーロッパの町の運命を変えたのだから。。。

そういう私も、「巨人の星」にはかなりの影響を受けたものだ。



2003年06月09日(月) 朝まで眠れたら、、

休日明けの1日はただでさえ疲れやすいものだが、
それに加えて、昨夜は睡眠不足だった。
1時ごろに、さあ寝ようと思ってから、うっかりテレビをつけた、、
というよりは、ちょっと事情があってつけっ放しになっていたので、
そのスイッチを消す前に、うっかりチャンネルを回してしまったのだ。
それでテニスの試合を決着がつくまで見てしまった。
そこで眠ればいいのに、またチャンネルを移動して、
今度は車のレースを決着がつくまで見てしまった。
そんなわけで、寝るのが3時近くになってしまったのである。
これがテレビと人間の関係の問題点のひとつである。

今夜は、9時も過ぎると座っているのも大儀になり、
ついに9時半ごろ、トイレに下りたついでにちょっとベッドで横になった。
それから何も思う間もなく熟睡に入ったようである。
気がついたら朝、、、、であってほしかったと思う。
起きた瞬間は、うたた寝したということを忘れているから、
朝ではなさそうな気配を感じて、異様な思いにとらわれる。
時計を見るとまだ11時である。
あー、変な眠り方をしちゃったなー、とそのまま横になっていたら、
再び眠りに落ちたらしいけれど、次は11時半だった。

こういう場合、実に恨めしく思われるのは、
この目覚めが実にすっきりしていることだ。
たった2時間のこの眠りは、実に満ち足りているのである。
数時間眠った朝の目覚めは、決して満足行くものではないのに。。。

それで、気持ちよく夜中に起き出してしまうわけだが、
これはたいてい悲劇の始まりとなる。
このまま明日の夜まで起きっぱなしというわけには行かないから、
起きるなり、再び眠りへと導いてくれる寝酒が始まるわけである。
遅くとも2時には寝たいと思うけれど、うまく行ったことは少ない。
こういうときは、深酒と睡眠不足で、かえって翌日がつらくなるものだ。
橋本さんのように、早寝早起きの爺さん寝ができると一番いいのだが。。。
9時半ごろに眠ってしまったら、未明の3〜4時に覚めてくれるといいのに
たいてい2時間そこそこですっきり覚めてしまう。
それなら、夜中の3時か4時に寝ても2時間ですっきり目覚めさせて
くれればいいのに、そういうときは数時間の眠りを欲するようである。
自分の体ながら、なかなか思うようには行かないものである。



2003年06月08日(日) ピンク・フロイド

買い物に出たついでに、楽器屋に寄った。
コントラバスの弓につける松ヤニを買いたかったのが第1の目的だったが、
それはなくて、ついでにサラちゃんの曲の楽譜を探してみた。
ピアノ譜のところを探したら、ぜんぜん見つからなかったけれど、
代わりに1カ月前にも探し続けていた久石譲の「Etude」が見つかった。
こういう探し物は、もうあきらめて忘れたころの方が見つかるものらしい。
2週間ほど前に出版されたらしかった。

次にバンド楽譜の棚を見に行った。
この種の楽譜が見つかると、吹奏楽への編曲がしやすいのでありがたい。
けれども、サラ・ブライトマンという名前はどこを見ても見当たらない。
うーむ、、たしかに、、、ロック系とは言いかねるしなぁ。。。

ところが、ふっと、信じられないような文字が目に止まった。
「ピンク・フロイド・ベスト」などという文字が見えるではないか!!
目を疑ったけれど、どう見てもそう書いてある。。。

高校時代から約30年間、飽きることなくピンクフロイドファン、、、
といっても、「原子心母」「狂気」「アニマルズ」の3つだけのアルバムの
熱狂的な愛聴者に過ぎないのだけれど、
20年ほど前から、このバンドの楽譜はないものかと探していたのだった。
国内版はカタログをいろいろ見てみてもなさそうなので、
東京に遊びに出るたびに、楽器屋の洋版のロック楽譜を隈無く漁った。
いつも空しい努力で終わっていた。
インターネットをやり始めたころも、ピンクフロイド関係のサイトには
英語部屋であろうとお構いなく訪ねて楽譜情報を求めたけれど、
いつもまったくの空振りだった。
そんな話を同年代の吹奏楽仲間のKimくんにもしてみると、
彼も同様にピンクフロイドの楽譜探しをしていて、
やはり私と同じく、吹奏楽化をもくろんでいるらしかった。
でも、彼もやはり、どれだけ探しても見つからないと言うので共感しあい、
ますます、まだ世界のどこにも売り出されていないという確信を深め、
あきらめてから7、8年が経過していたことになる。

やっぱりこういうものは、あきらめて忘れていたときに見つかるものらしい。
きょう見つけた楽譜には6曲が収められていて、
そのうち私が好きなのは2曲しかなかったけれど、それだけでも貴重なので
迷わず買って帰った。初版発行年月日は一昨年の8月になっていた。
この2年間に何度かこの棚を見てピンクフロイドの文字も探したはずなのに
きょう初めて見つかるというのも不思議である。
これをどんな風につかってやろうか考えるのもひとつの楽しみになったし、
ひょっとしたらその内「原子心母」全曲の楽譜も出るかな、と期待が増した。



2003年06月07日(土) 再びサラちゃん讃

音楽にはいろいろな要素があるのだけれど、
私は他の要素に比して、かなりのメロディー偏重型である。
何を評価するにしても、まず第一にメロディーがよくなくてはいけない。
だから、ノリのよさとかリズム感の良さとか、もちろん顔のよさとかは、
メロディーを引き立てるものでしかなくて、
メロディーがつまらなければ他のすべては台無しだと言ってよい。

そんなことはあたりまえだ、と言われそうな気もするのだけれど、
ヒットチャートベスト何とかなんてのを聞いてると
何でこんなのが、、?ということが非常に多いわけだし、
私にはバルトークの音楽なんてのはほとんど感覚的受入ができないし、
(といっても、ストラビンスキーの「春の祭典」あたりだと
 リズムも融合していいメロディーに満ちた音楽だと思うわけだが、、)
市吹の団員が、是非、、といって提案した曲をいくつ黙殺したかしれない。

歌を聞くときにも、ほとんど歌の内容にこだわってないのも私の特徴だ。
外国語はもちろんだけれど、日本語の歌でもほとんど歌詞は聞き流している。
ある歌がかなり気に入るようになってから歌詞まで傾聴するようになったり、
歌詞カードを読んだりして、いっそうその歌への思いを深めるわけである。

サラ・ブライトマンをもう1カ月以上聞き続けているけれど、
いまだに歌詞の内容はほとんど知らないままで聞き続けているのである。
どの歌もいいメロディーで厳選されているように思う。
こんなにいいメロディーに埋め尽くされた歌のCDに出会ったことがない。
(交響曲などのオーケストラ曲の場合は別である)
たいていは、半分でも熱心に聞ける曲があれば優秀な方である。
そんなすばらしいメロディーの数々を生かしているのは、
あの何とも表現しがい、不思議で表情多彩な声である。
で、ふと気づくのは、彼女が歌っていることはよくわかっていながら、
あまり歌ということを意識しないで聞いている、という感覚である。
名演奏の楽器の音色や演奏の表情に聞き惚れているのと同じで、
こういう幻惑めいた聴き方を、名ソプラノ歌手のアリア集でも
体験したことがないので、格別に驚かされているわけである。



2003年06月06日(金) 疲れた〜

何年かぶりに除草作業という行事の日だった。
前任校では何年か前に廃止された行事なので久々なのである。
生徒もそう叱る必要もないほどの仕事をしていたので、それはいいけれど、
外での活動に慣れていない身には、炎天下での作業は疲れた。
球技大会でも体育大会でも、1、2時間外にいるだけで極度に疲れるのだ。
業後はぼちぼち仕事をしながら、ぐたぐたしていた。

横になりたいなー、と思いながら、教科の歓送迎会に出かけた。
解放されたのが、11時半近くである。
ヨロヨロと、瀕死の体で家の階段を上った。


昔話の後日談であるが、私はあれからしばらくして組合に入った。
彼らとは、活動を共にする仲間になったからである。
とにかく、ひとりでがんばることは不可能ではないにしても、
どうしても大きな動きには発展しにくいのだ。
そのころの私には、社会をどうするよりも、目の前の教育改革しかなかった。
その後ちょっと勉強させてもらううちに、こういう社会だから、
反対表明をきっちりできる集団を大切にしなければいかん、
と再認識するようになったけれど。。。
とにかくあの学校での組合活動は2年余りの短いものだったけれど、
校内でも支部でも、実に創造的で楽しかった。



2003年06月05日(木) ある昔話 2

ちなみに、ロックバンドと書かずにエレキバンドと書いているのは、
はたしてロックバンドといえるほどの代物か、
単にエレキギターを使ったバンドに過ぎないじゃないか、という意味である。
あれ以来、17、8年間文化祭でのバンド演奏を聞いてきたけれど、
単発で、このバンドのドラムは上手いとか、リードギターはいいぞ、とか
いうのはあったけれど、たいていは、うるさいぞ! って感じである。
特にたいていヴォーカルが困りものである。(笑)

こんなことのために、あの1年近くの間がんばったのか、、、
などと後悔する思いはなくて、それでよかったと思っている。
細かいケチさえつけなければ、彼らにはそれなりの達成感がある。
勉強もできず、する気力もない点では、今の困った高校生と同じ、、、
どころか、特別指導などでも今より困らせられた連中だったかもしれない。
けれども、あのころのそういうちょいと道はずれの生徒たちには、
最近多くなったしらけきったぐうたらとは違う活力が見られた。
たとえば、15分間清掃時間があったら、だれもさぼることなく、
5分間でチャッチャカ片づけて、10分間獣のように走り回りに行くのである。
体育祭や球技大会では、彼らの中にリーダーができて、彼らが中心になる。
何か問いかけたりするとよく意見を言ってくれたものだし、
授業はきらいでも、政治や社会情勢の話をすると意外と聞いてたりする。
(そういうときは、成績上位の生徒たちの方が意外と反応鈍かったりした)

ま、こういう連中にも、文化祭で目立つ場を作ってやりたいと思ったわけだ。

前々任校2年目の新しい年度になって、生徒議会でも議題に加えられた。
しかし、これはあくまでもポーズに過ぎない。
生徒の方がそれについて、真剣な、理のある討議ができないことは
エレキバンド否定派の教員たちにはお見通しなのである。
生徒たちはそんな訓練など受けてきてないのだから。。。
案の定、やりたい、認めて欲しい、以上の意見が出るはずもない。
生徒会執行部が実施上のルールを作ったりして、進展しつつあるけれど、
議論自体はたいして盛り上がらないものだから、バンドマンたちも、
「どうせダメなんでしょ」と諦めたようなヤケ気味の言葉を吐き始める。
そういう時には、よく怒ったものだ。
「どうせダメなんだから」という言葉が私は嫌いである。
とにかく、できるだけのことはやった上でしかあきらめない。

結局職員会議でがんばるしかないのだけれど、ひとりでは非力なので、
同じ思いでくすぶってた人たちを巻き込んで、いろいろ作戦会議である。
もちろんそれは、組合の人たちである。
当時私はまだ組合に入ってなかったけれど、賛同してくれたので、
職員会議の前日や当日の昼休みに何人かの人を集めて作戦会議をしたりした。
あんまり決め手となる道理に恵まれてないのがつらいところだが、
「文化展示発表会(とその学校では呼んでいた。祭ではないと、、)は、
 確かに文化部の活動の発表の場ではあるけれど、
 部活には認めてもらえない活動を私的に毎日がんばっている生徒もいる。
 そういう生徒たちに年に1度、校内の仲間の前で発表させる機会を
 与えてやってもいいではないか」
という主旨のことを、いろいろな形で意見にして言おうと言うわけである。

会議は活発な論戦になり、紛糾した。
校長・教頭は、絶対に許さん、ふさわしくない、の一点張りで抵抗してくる。
こちら側の意見に拍手が起こったりすると、
拍手は職員会議にふさわしくない、と言って、校長が怒り出したりする。
けれども、ダメだ、認めない、という結論になりかけても、
執拗に抵抗するうち、状況が一変した。
いつもは管理職に媚びるような意見を断固と主張する教育会の若手が、
「僕も彼らにそういう場を与えてやりたいです」と強く主張し始めた。
それも、2人、3人と続いた。
感動的な展開だった。
もう我々の意見に反論するようなムードではなくなって行った。
校長もついに、条件をいろいろつけながらOKを出した。

前々任校ではそれから3回、文化展示発表会でのバンド演奏を見た。
体育館ではなく、武道場で、畳を積み上げたステージでの公演だった。
本当に嬉しかったのは、職員会議の時にはいつも苦い顔をして、
我々に反対ばかりしていた2、3人の体育教師たちが、
その演奏している姿を見て、
「いい顔して演奏しとるわ」「あんな顔するときもあるんやなぁ」
と言って喜んでいるのを見たときである。



2003年06月04日(水) ある昔話 1

職場で学校祭の話がちらほら出始めている。
前任校では生徒会も担当していたし、
生徒会主任で学校祭の先頭に立たざるを得なくなった年もあるし、
担任として苦労して成果をあげた年もあって、それぞれが思い出深いのだが、
学校祭というと第1に思い出すのは、それらを跳び越えて、
その前の学校で取り組んだ、20年前の活動である。

その学校に赴任した年に、
その前年、生徒の嘆願書が不問に付されたことを知った。
内容は、文化祭でのエレキバンド演奏を認めて欲しい、というものだった。
私がその時関心をもったのは、エレキバンドの是非以上に、
それについて話し合う約束がされていたにもかかわらず、
結局何ごともなされず、不問に付されたという点についてであった。
その時の生徒会主任は、日ごろ見ている限りでは、
生徒の言い分をよく聞いて、考え考え対処する人に見えたので、
莫大な数の署名を集めた嘆願書を不問に付したのは、
管理職の弾圧のせいだと解釈したのである。

それで、生徒にその証拠物件を持って来させて、それをかざしながら、
職員会議で、報道機関のすっぱ抜きのごとくにそれをすっぱ抜いた。
こうなると、この問題を職員会議や生徒議会の問題にしないわけには行かない、

(つづく。眠い。。)



2003年06月03日(火) 「ラ・ルーナ」コンサートDVD

サラ・ブライトマンを取っ替え引っ替え聞く日々が続いている。
「エデン」コンサートDVDはすでに手に入れて2回見たけれど、
一昨日HMVにネット注文した「ラ・ルーナ」コンサートのDVDが
早くもきょう届いた。
とりあえずの仕事を終えてからさっそく見始めた。
歌はいいし、やはりいい表情で歌っているものだから、つい見続けてしまう。
「エデン」のおまけはインタビューだけだったけれど、
「ルーナ」の方は、リハだのレコーディングだの、舞台裏のいろいろが
ボーナストラックに入っていて、とても1度に見切れるサービスではない。
それはまた後日の楽しみにしながら、
早くも「ハーレム」DVDの発売が待ち遠しく思われる。
HMVのメルマガに、アーティスト別ニューリリース情報があったので、
サラちゃんの情報を送ってもらえるよう手続きをした。



2003年06月02日(月) 5月の風?

今朝は寒くて、目が覚めたら体が冷えていて、なかなか起き上がれなかった。
起きたら、かんかんに照っているといった光景で、暑くなりそうだった。
けれども、昨夜由伸のサヨナラホームランで決まった巨人阪神戦の翌日らしく
晴れた空の下で、1日中さわやかな(ちょっと強かったけど)風が吹いていた。
なんか、おっとりとした平穏な雰囲気で過ぎた1日だった。
それは珍しいことではないけれど、週初め特有のつらさやけだるさもなかった。



2003年06月01日(日) シェエラザード

リムスキー・コルサコフの「シェエラザード」を初めて聞いたのは、
中学生の時の、テレビのN響&岩城宏之の演奏だった。
この最初の出会いで、すっかり陶酔してしまったことを今でも覚えている。
特に第1楽章と、第4楽章の最後に演奏される「海の情景」が
耳から離れなくなって、LPレコードを手に入れるまでが
すごくもどかしかったことを覚えている。
レコードを手に入れてから毎日聴きまくったのはもちろんだが、
もうどの楽章も魅力満載の曲として心の中に育ってしまった。
クラッシック入門の相談をしてくる人があると、たいてい私は、
この曲とラフマニノフのP協第2番を真っ先に薦めることにしている。

市吹では、数年前にこの曲の第2楽章を四苦八苦してやったことがある。
この曲は、GSタイガースが盗作して「モナリザの微笑み」に変身した、
その原曲で、「モナリザの微笑み」の何倍も甘美で、しかも激しい曲である。

昨日、この曲の第4楽章の楽譜を持ち込んだ団員がいて、
ちょっと遊びで試奏してもらうことにした。
この第4楽章は、私にとっては他の楽章に比べて魅力薄なのに加えて、
他の楽章のモチーフが断片的に現れるので、
単独で演奏プログラムにしようとする思いは今まで生じていなかった。
ま、ちょっとだけ遊んでみましょ、という気楽な気持ちで試奏を始めた。
団員たちにとっては、ちょっと遊びどころか、四苦八苦である。
ところが前で拍を取りながらスコアをたどっている私には、
懐かしいメロディーが次々現れるし、リズムがさまざまに交錯するし、
おもしろいことこの上ない。
こりゃあ、ちょっと遊びで済みそうにない、、、というわけで、
今後のことも大きく左右するほどの刺激的な時間になったのだった。


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