TENSEI塵語

2003年05月30日(金) 球技大会

最初に赴任した全日制高校では、まったく学年別の開催だった。
次に赴任した前任校では、全校一斉の開催で、対戦も全校単位だった。
15年間のうち、学年別での対戦を提案したこともあったし、
生徒会担当だった数年間の中で、それを自分でも検討したことがあったけれど、
どちらがいいのかわからないまま、ずっとそのまま行われてきた。

今度の学校は、全校一斉に開催するけれど、学年別である。
(そのかわり、体育大会は学年縦割りのブロック制である)
男子はソフトボールとバレーボール、
女子はドッヂボールとソフトバレーボールに分かれ、
それぞれの種目に3つずつコートが用意されてあって、
各学年の試合場所になっている。簡潔明瞭である。

午前中2時間ほど、ドッヂボールのコート監督だったので見ていたが、
集合も早いし、審判もちゃんと声かけて並ばせて始めるし、
時々質問に答えてやったりする程度で、のんびりした日向ぼっこだった。
5月には珍しい台風が近づいているとかで、
時折強い風が吹いて砂埃にまみれたりするので、
優雅な日向ぼっこというわけにはいかなかったけれども。。。
他の担任はほとんど現れなかった、、、つまり、担任が自分のクラスの
生徒の試合に付き添うという風習はないようである。
閉会式の表彰は、4種目で各学年だから、12の優勝があるわけだ。

そんなわけで、非常に和気藹々としたのんびりムードで1日が終わった。
外で陽にあたりながら過ごすのに慣れていない私は、
午前中だけで、頭はボーーッ、足腰だるーい、と疲れてしまい、
夜になってからは、目も痛く、頭も痛いという風であるが。。。



2003年05月29日(木) 志賀直哉「清兵衛と瓢箪」

「清兵衛と瓢箪」の朗読CDを聞きながら帰った。
中一の時、教科書外の授業教材となって、
初めて、短編小説のおもしろさを教えてもらった作品である。
そのころはまだ、私は国語が得意教科ではなかった。
得意教科となるきっかけの事件は、それから1年後のことになる。
けれども、この「清兵衛と瓢箪」の授業では、
それまでまったく感じたことのない衝撃を受けたのだった。

清兵衛は瓢箪に凝る子どもである。
それも、大人たちが讃美する、でかくて奇抜な瓢箪などには目もくれず、
一見ごく平凡な瓢箪の中に、自分の気に入る瓢箪を見つけては、
大事に手入れして、コレクションにしている、、、という話である。
町中の瓢箪は全部見て回って知っていたはずの清兵衛が、
ある日、思いがけず見つけたつまらない店の瓢箪群の中に、
やはり一見なんの変哲もない瓢箪ながら、格別気に入るのを見つけて、
それを手に入れてから、もうそれを手放せなくなった。
学校にも持っていくようになり、授業中に磨いているところを教師に見つかり、
取り上げられ、罵倒され、母にも泣かれ、
日ごろから瓢箪に夢中の清兵衛を苦々しく思っていた父には、
罵倒された上、コレクションの瓢箪を全部たたき壊されてしまう。
教師からも父からも「将来到底見込みのないやつだ」と罵られる。

これだけの話なのだが、こんな後日談がついている。
清兵衛が10銭で買って手入れした瓢箪は、
取り上げた教師が学校の、今で言う用務員に捨てるようにやってしまったが、
用務員がちょっとした小遣い稼ぎのつもりで骨董屋に売ろうとしたら、
最初5円の値がつき、10円になり、結局50円出売れた。
そうしてそれはさらに、骨董屋の手から600円で売れた。
そんなことは、清兵衛自身も、教員も清兵衛の父も知らない。

当時の私には、この後日談の意味が自分ではわからなかった。
全体に、かわいそうな子どもがほんわりした雰囲気で書いてあるなぁ、、
と思っていた程度だった。
けれども、授業の中で浮き彫りにされてわかってきたのは、
清兵衛の美的感覚と、その確かさの証明が後日談にあるということだ。
それを大人たちは理解しようとしない。
今で言えば、清兵衛は100円で買ったものを60万円の価値に
仕上げたのに、父はそれを知ろうともせずに、
なんの役にも立たないことに現を抜かしているとしか思えなかったわけだ。

もうひとつの後日談があって、清兵衛は最近は絵を描くことに凝っている、
けれども、それに対しても父は小言を言い始めた、と言うのである。
大人は、自分の価値観から子どもの価値観を否定し、断罪する。
この物語は、大人の無理解が招いた清兵衛の悲劇である。
おとながちゃんと見る目を持っていれば、清兵衛は才能を発揮できたのに。。。

あのころ、この作品の意味を知ってとりわけ印象に残ったのは、
当時私が音楽にのめり込み始めて、
父からさんざん文句言われ始めたころだったからだろう。
私と音楽の関わりは、実際のところ大したことはないにしても、
志賀直哉自身も、小説を書くことで父親とのかなりの確執があったようだ。



2003年05月27日(火) まだよそ者だ

先週は暑めの毎日だったが、昨日からは雨が降ったり曇ったりで、
少々湿っぽいけれど、ちょっと空気のひんやりするような状態である。
生徒たちも、昨日から夏制服を着て来てもいいことになっているけれど、
夏制服で来ている者はほとんどいない。
考査最終日も、たいへん落ち着いた雰囲気で終わったようだ。

最近は新しい環境での仕事にまだ落ち着かず、
本もゆっくり読めないし、じっくり考える心のゆとりもない。
映画やドラマも見てないし、稀に見たとしても感想をまとめる余裕がない。
だから、この塵語も、なかなか書くことが浮かばない。
書けばますます塵芥のような文字列を量産しそうである。
な〜んにも浮かばない、書けない、という事態はちょいちょい訪れるものだが、
今回はそれがやけに長く続いているようだ。

大切なのは、心の余裕がない中でそこに余裕を取り戻す、
自分自身を取り戻す時間を、自分で意図的・習慣的に作るということだ。
そのために、読み、見て、考え、まとめる時間を作る必要があるのだが、
なかなかその境地に入れずに足踏みをしているわけである。
何かしようと思っても、慣れない環境での先の備えに憂えて、
いろいろと準備しなければならないことがあるような錯覚に邪魔されるのだ。

職員室の机でも仕事するし、喫煙室でも進路室のPCでも
仕事するようになったけれど、どうもまだ自分の場所になっていない。
でも、15年前を思い出してみると、副担任だったせいもあり、
職員室でなく生徒指導室常駐だったせいもあって、
新しい職場に慣れるのに2、3年かかったような記憶がある。
要するに、職場でも自分をしっかり取り戻さなきゃいけないわけである。
この自分が生きているという実感を得ない限り、自分の場所にならないのだから。



2003年05月25日(日) この1週間

またまた、この日誌に長い休暇を与えてしまった。

今週はまず、新しい学校での最初のテスト作りが課題だった。
1年生の国語はもうひとりの担当者と2人だけなので、
現国も古典も半々に分けて、古典の担当分は日曜日に作っておいたけれど、
現国のテスト作りに難儀をした。
ここ何年間か、現国のテストを作ってなかったせいもあるけれど、
とにかく、どの程度の問題を作ればいいのかが悩ましい。
しかも、この部屋のPCとプリンターの環境がうまく行ってないこともあって、
家である程度編集して、学校でも続きを作ってプリントする、という風だった。
家ではMac でかな入力作業、学校では窓機でローマ字入力作業という
ややこしいことをしながら、自然とそれが老化防止になっているかもしれない。
ま、とにかく、慣れぬ職場では、慣れた職場での仕事よりも
余計に時間がかかるものだ。

今年度、朝の東海ラジオと岐阜ラジオの両方でやっている
「行ってらっしゃ〜い」という短いトーク番組で黒木瞳が担当していて、
この語り口がすごく楽しくて、黒木瞳の印象が格段によくなった。
聞き始めたころが十朱幸代で、温かいムードが漂っていてよかったが、
次の沢口靖子が、実につまらない番組にしてしまっていた。
黒木瞳になってから、あたかも、通勤途中に、
庭先で話しかけられて1、2分立ち話をして笑って送られて仕事に行くような、
そんな、実に気さくな雰囲気で楽しいので、
7時45分を過ぎるとわざわざ東海ラジオに切り換えて聞くのが
日課になるほど、楽しみにするようになった。
今までの、映画やテレビドラマでの黒木瞳の印象はよくなかったけれど、
この「行ってらっしゃい」とドラマ「GoodLuck」で印象が反転したので、
何となくまた1本映画でも見てみたくなって、レンタルで探すと、
「SADA」というのがあった。
いやな予感がして解説を見てみると、いやな予感どおり阿部定である。
「愛のコリーダ」で、もーいいわ、というテーマなのだけれど、
監督大林宣彦が何かおもしろいことやってるかも、、という期待も手伝って、
水・木の2回に分けて見てみた。
舞台演劇の手法も取り入れたおもしろい演出で、
そんなにドロドロした雰囲気もなく、黒木瞳も魅力的な表情を振りまいていた。
あれよりゃかなりましな出来、と思ったけれど、くり返し見たいとは思わない。

金曜日は組合の分会歓送迎会だった。
こういうのに出ないと、職員間のいろいろな内情についてわからない。
いろいろとおもしろい情報が入ってきた。

昨日から、市吹のこれからの演奏曲目について悩み始めて、きょう、
リムスキー・コルサコフの「ロシアの復活祭序曲」と、
プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」の吹奏楽譜を探して注文するのに
約3時間を費やしてしまった。
思いついて決心するまでもたいへんだが、探して注文するのもたいへんだ。
でも、それを今は、部屋にいながらにしてできるところが違う。
つい数年前までは、東京まで探しに行ったりしたものだ。



2003年05月19日(月) 奇跡の歌声

サラ・ブライトマンの「ラ・ルーナ」というアルバムを薦められて、
聞いてみて即座に気に入って、そのうち他のアルバムも買おうと思いながら
何ヶ月間もそれっきりになっていたけれど、
先月、「ハレム」という新譜が並んでいたときにそれを買って聞いて、
ますますハマってしまって、今月初めに数枚のCDを一挙に買い込んで、
最近は、「ハレム」「ラ・ルーナ」「エデン」の3枚を
取っ替え引っ替え聞いている毎日である。

この種のアルバムを聴く場合、好んで聴ける曲が3曲もあればいいと
ふだんは思っていて、半分もあればかなりいい方である。
2、3度くり返して聞くと、飛ばしてしまう曲も決まってきたりして、
選んで聞くようになるのが常である。
ところが、少なくともこの3枚については、まったく飛ばせない、
というか、飛ばして聞く気になれないほど、各曲がそれなりに魅力的だ。
私にとってはそれだけでも奇跡のCDアルバムだと言える。
こういう風に惚れこんで聞き続けることができるのは、
クラッシック作品以外では、ピンクフロイド以来である。
Xのアルバムでも、時々飛ばして聞いていたから。

オリジナルの曲もいいし、クラッシックアレンジもいい。
曲自体かなり厳選されている感じがあるし、その伴奏も気がきいている。
しかし、何といっても歌声がいい。
基本的に柔らかくハスキーな声で歌っているけれど、
囁くような声にもなったり、オペラ歌手の発声になったりもする。
曲も声も、実にバラエティに富んでいるし、曲種もそうなのが
飽きさせず次々に楽しませてくれる要因になっているのだけれど、
とにかく、これほど癒される歌声を今まで聞いたことがないのである。
歌声の良さと幅広さは、表現力にもなる。
それもまた、ますます味わい深く飽きさせない要因にもなっているのだろう。
声を聞いていると、かわいらしさもあり、
最初は20代前半の人かな、と思ったものだけれど、
解説にあった生年月日から計算すると、今年41歳ということになる。
奇跡の歌声である。



2003年05月18日(日) のんびり曜日?

ホントに久々に一歩も外に出ず、のんびりと家の中で過ごした。
試験前の仕事も半分以上は進んだ。
けれども、全体として何かイライラに包まれていたようだ。
確かに夕食後2時間ほど、新iMacとプリンターの動作がなかなかうまく行かず、
しばしば (ノ`´)ノミ┻┻ 状態に陥ったのも確かである。

けれども、夜だけでなく、朝からずっと何やらイライラしていたのは、
北さんちで赤瀬川原平の文章を読まされたからである。
原やんの文章については、何年か前から教科書や問題集で読まされるうちに、
その独断的で悦に入った調子が生理的嫌悪感を催すほどになっている。
そういう相手でも、いいこと言ってるぞと思えば、
いいことも言うやつだ、と内容によっては賞賛できたりするものなのだが、
今回もまったくダメであった。
自分の都合のいいようにすべてをねじ曲げて、レトリックで煙に巻く
ソフィスト原平の姿をまた見させられたという感じである。

それにたぶらかされた北さんが、
結局のところ何が言いたいかわからない文章を書いているし、
利休が前衛の茶人になってしまい、芭蕉が前衛詩人になってしまっている。
もうめちゃくちゃである。

事の起こりが原やんでなかったらこんなにイライラしてないのだろうが。。
しかし、ソフィスト原やんの文章が売れているのも、教科書に採用されるのも、
それにたぶらかされる人が少なからずいるということだろう。
ちの婆にさえ献身的な人がいる世の中だから、不思議がってはいけないのかもしれない。。。



2003年05月15日(木) のんびり遠足

計画は先月オープンの昭和村だった。
楽しみにしていた。
けれども、昨日から雨である。
きょうは日中は曇りと聞いていたので、行けるかなと思ったけれど、
決定は、大事をとって昭和村を断念することになった。
昭和村だと生徒の弁当場所に困るというので、
雨天時はリトルワールドということになっていた。
実は、リトルワールドもまだ1度も行ったことがないのである。

去年も遠足で来たという分会長につきあってもらって回ってみた。
時々、すれ違う生徒の相手をしながら見て回るだけである。
長年、こじんまりした建物がひしめき合っているさまを想像していたが、
わりと大きな建物が広い間隔で点在している。
もともと家の間取りなど見るのが好きなので、おもしろかった。
フランスの田舎の家の中など、質素だがロマンを感じたりした。
散歩して歩くにはなかなかいい施設じゃないかと思った。
(ただ散歩するには入園料が高いようだけれど、、、)
近辺に15年間通勤していながら1度も行ったことがなかったのである。
だからこそ行ったことがないのだとも言えるけれど。。。

ほとんど気ままにぶらぶらしたり食事をとって歓談しているうちに、
集合時刻が近づいた。
集合時刻30分前に、スペインサーカスなるイベントが始まった。
全部見ると、集合時刻の10分後になる。
生徒も2回目の公演ながら、2、30人見ていたようである。
我々は10分ほど見て出口に向かった。
今までの習慣から、心配事が3つある。
奥の方にいる生徒が時刻までに戻ってくるかどうか。
サーカスを見ている生徒が時刻までに戻ってくるかどうか。
出口の脇にある売店からの追い出しに苦心するのではないか。

そんなわけで、しばし出口のところでようすを見ていた。
他の先生たちは何でもないようにさっさとバスの方に行ってしまう。
見ていると、出口付近で屯していた生徒たちも、さっさと移動を始める。
次々に生徒が帰ってきて、さっさとバスの方に行く。
売店に寄る者もいたけれど、2、3分で出て、バスに向かう。
サーカスを見ていた連中も、さっさと戻ってきた。
気になる顔もだいたい見終えたのでバスに戻ると、5分前に集合完了していた。
集まってた先生に「売店の追い出ししなくていいなんて信じられん」と
言ったら、「そんなんあたりまえじゃないですか」と言われてしまった。
あたりまえのことがあたりまえにできるのが不思議に思われることもあるのだ。
忘れた傘を取りに行った先生だけが5分遅れてたどり着いた。
その間、どう落とし前をつけさせるかを相談していた。

何のめんどうなこともなく、気ままに過ごして終わった遠足であった。



2003年05月13日(火) 娘のヴァイオリン

娘が小学校3、4年だったころに、楽器習うなら何にしたい?から始まり、
ヴァイオリンを希望したので、近所の先生のところに習いに行かせた。
ピアノだと先生が母になるので、それをいやがったのかもしれない。
歩いて、子どもの足でも7、8分というところに先生の家があったので、
土曜日に帰ってから、ちょっと練習をして自分で通っていた。

毎日5分ずつでもいいから練習してほしい、
週1回1時間練習するよりも、少しずつでも毎日弾いた方がよいと、
最初のころはいろんな手を使って練習させていたものだが、
あまりにも強要しすぎて嫌いになられるよりは、
なーんとなくでも続けてもらいたい気持ちの方が強くて、
その兼ね合いがなかなか難しく、練習はやがて週2、3回になり、
週1回、レッスンの直前に30分程度弾いてから出かけるパターンになった。
親としては、先生に申し訳ない気持ちでいっぱいであった。
練習せずにレッスンを受ける生徒を前にする気持ちは、私自身が知っている。
何しに来たー! 帰れーー! と怒鳴りたくなる気分である。
あるいは、聞きながらアホらしくて睡魔に襲われてしまうものである。

親としては、別にそれで食べていってほしいという気持ちがあるわけでない。
将来、弾きたいな、と思ったときにいつでも弾けるだけの技術を
身につけてもらいさえすればよかったのである。
私自身が、中一の時に、オーケストラの音楽に一挙に惹かれ始めたとき、
ヴァイオリンを弾きたくてうずうずしても、どうしようもなかった。
それで、すぐにでも弾ける代わりに表現力も音量も音域も乏しい
リコーダーでかろうじて欲求を凌いでいたことを思うと、
子どもがちょっとでもやりたいと言った楽器はやらせてやりたかったのである。
将来、どんなことがあるかわからない、
すべてのことをやって備えるというわけにはいかないけれど、
何かひとつでも楽器を子どもの時にやっておくとどんなにいいことか、と、
このことは、自分自身で痛いほど感じていたので。。。

ヴァイオリンというのは、習わせるには厄介な楽器で、
成長に従って、より大きな楽器に買い換えて行かなきゃならない。
最初は1/2、それから3/4、そして、中二のころに大人の同じ大きさになる。
その時に、中古で30万円台の楽器を買った。
弾いてみたら音の抜けが実によかったので、それにしたのである。
将来、よほどのことがない限り、買い換える必要はないだろう、と。。。
ところが、レッスンは中三の時に、先生の都合で終わってしまった。
わざわざ遠くの先生を探してまでレッスンを求める気持ちは、
親にも娘自身にもなかった。
そうして、趣味で弾いて遊ぶこともなく、楽器は3年以上眠っていた。
高校では、吹奏楽もなかったので、聖歌隊に入っていた。
とりあえず、音楽がきらいではないらしかった。

娘が大学に入ると、さまざまなサークルの中に、
オーケストラはなかったけれど、弦楽アンサンブルのサークルがあった。
親は、そこに入れ、と言わず、何でもいいからまとまった活動のできる
ところに入るように、と薦めて、親の希望は弦楽アンサンブル、とだけ
言っておいた。
それから、運動部も含めていろいろ見学して、結局、
幻想文学研究会なる、怪しげで得体の知れないサークルと、
弦楽アンサンブルに入部したようである。
どちらも拘束時間がわずかなので、兼部しても十分やれるようである。

きょう帰宅したら、娘の部屋から練習する音が聞こえるので仰天した。
夕食前にヴァイオリンを弾いているなんて、
レッスンに通っていたころでもまったくなかったことである。
親の耳で聞いていても、一度もまともな演奏を聞いたことがないのだが、
新入部員の中でもっとも弾ける、と言われたことが、
かなり本人の気をよくしているのかもしれない。
8人ほど入ったうち、ほとんど初心者で、経験者は3人ほどだという。
そういう環境だったおかげで、今後の展開を興味深くしてくれている。



2003年05月11日(日) 早朝のお勤め

四市交歓体育大会という、社会人体育大会が毎年行われているそうだ。
開催地も4つの市でローテーションするから、
4年に1度、市吹の出番が回ってくることになる。
今朝はその開会が8時半だというので、8時に会場入りした。
10月の市民体育大会でも9時開会だから、
こんなに集合時間が早いのも、4年に1度である。

開会式はてきぱき進行して、予定の半分くらいの時間で終わった。
行進曲も、進行表に従って、入場に10分、退場に3分用意しておいたけれど、
その半分ほどで終わってしまった。
疲れるはずの出番だったはずだけれど、奏者も楽ちんだったようだ。
予想よりうんと簡素な出番になってしまったけれど、
それをやるにしても、30数名が早朝から駆けつけてくれないと成立しない。

帰って早めの昼食をとったら、そこから全身が重たくなってきて、
腰のだるさに耐えかねて横になったら、そのまま眠りの世界に落ちた。
目が覚めてからもなかなか起き上がれず、2時間ほどの昼寝となった。
何とか起きてからもすっきりしないので、
サラ・ブライトマンのコンサートDVDをずっと見ていた。
その後買い物に出たら、日が暮れた。



2003年05月10日(土) ディスプレイ買い換え

このいつもメインで使っている7600機のディスプレイが逝ってしまった。
6日火曜日のことだった。
ここ2カ月ほど、時折画面がパチン、、、パチン、、とやってたのは確かだ。
それは、ディスプレイのせいではなくて、
3年前に使い始めたビデオカードのせいなのかな、と思っていた。
けれども、火曜の夜、それがあまりにも頻繁になった。
その前日から、画面がディスプレイからはみ出すほど膨らむようになっていた。
それもぜんぜんもとに戻らないうちに、パチンパチンをくり返している。
ビデオカードのソフトの問題だろうと思って、再起動した。
すると、再起動後はもっと画面が激しく揺れて、なんだこりゃ〜〜、と
焦ってるうちに、ブチッと画面が真っ暗になった。
電源ランプはまだ点いていた。
それも、消えかかってはバチッと復活し、消えかかっては復活し、
そうして消えてしまった。
ディスプレイの電源を入れ直すと、画面は真っ暗なままで、
電源ランプだけが同じ動作をくり返して、やがて消えてしまう。
何度か試してみて、もう諦めるしかなかった。
音を頼りにマウスを操作して、手探りのようにPCの電源を切った。

このマシンをいつ買ったのかはよく覚えてないのだけれど、
平成6年頃は富士通のFMVを使っていたはずだから、
その2年後の平成8年、今から7年前だったのだろうか。。。
3年前にG3に改造し、ハードディスクも改造し、メモリも増設した。
へたばりかけていたのを、手術で増強したわけである。
まだまだ若いもんにゃ負けちゃおれん、と強がる爺さんみたいなもんである。
確かに、最近の製品にはまったく及ばないし、寿命もあやしげだけれど、
まだまだ働けるし、いかにも熟練の腕みたいなものを持っている。
先日まで、何カ所か患って病気がちの毎日を過ごしていたけれど、
OSの入れ換え手術によって、すっきりこんと生き返ったばかりである。
平常の仕事の方は、まだまだこのマシンにがんばってもらわなきゃいけない。

水・木・金と、インターネットだけはiMac で不便なくやっていた。
ディスプレイを買いに行くような時間の余裕はなかったので、
きょう買いに出かけた。
ちょうど、今まで使っていた三菱のRD17 シリーズの中古が12000円だったので、
それなら7600との対応も何も考える必要がないし、
願っていた価格よりは多少高めだったけれど、すぐにそれに決めた。


帰りには、車屋に寄ってタイヤの交換をした。
昨日、もう薄暗い夜7時前に帰ろうとして、車を走らせたら、
駐車場を出るころに、何やらゴト、ゴト、という感触が気になった。
道路に出たときに、すぐ端に停めて後ろを見に行ったら、
左後ろのタイヤがペチャンコになっていた。
あ〜〜、、っと目の前が暗くなるような一場面である。
今週は厄週なんだろうか。
そういえば、朝、学校近くの交差点を左折するときに、
何か衝撃を感じて、縁石に乗り上げたかと思ったのだが、
そんなはすがないのに、という思いもあって、不思議だったのだが、
あの時実はパンクしたのかもしれない。

タイヤはペチャンコだけど、ちっとは我慢してね、とばかりに、
学校の駐車場に戻って、スペアタイヤへの交換作業をしなきゃならなくなった。
タイヤ交換なんて10年ほどやってないような気がする。
オデッセイに乗るようになってからは、1度もやっていない。
工具はすぐに見つかったけれど、ジャッキの収納場所からしてわからない。
車屋に電話して聞いて見つけたけれど、それを取り出すのに難儀したりもして、
もう、さまざまに戸惑いながら交換した。
いざというときのために、もっといろいろ知っておかなきゃいけないものだ。

タイヤも、もうかなり摩耗していて、いつ取り替えようかと考えていたので、
この機会に全部交換することにしたわけだ。
パンクはショックだったけれど、いい機会になったかもしれない。




2003年05月07日(水) 最近の疲れ &昨夜の千乃会見

業後、喫煙室で座るとついぐったりしてしまうのだが、
この疲れは主に足腰の疲れである。
HRも授業も、全部別棟の3階なので、移動に疲れるのである。
ここ数年、体が疲れるよりも先に、生徒を見て精神的に疲れたものだが、
その意味では救われている。
授業での反応がもっといいと活力が増すのだけれど、
そうぜいたく言うべきではないだろう。

今朝は全校朝礼があったが、1時間目のLTの時間だったので、
朝のSTをすませてからゆっくりと移動である。
内容は、部活の賞状受納式と、学校祭説明会と、身だしなみ検査。
学校祭説明会は、ボランティアで集まった30名ほどの実行委員が
全員ステージに上がり、生徒司会で各部門の委員長が要点を説明していた。こういう機会を持つことは、私が長く生徒会を担当していた時にも
ぜんぜん思いつかなかった。
それでも、生徒は実際なかなかうまく動かないものらしいけれど。。。
驚いたのは、受納式からこの説明会の間、静かに進行していたことである。
この1ヶ月で、2、3年生にはかなり傍若無人なやつらがいることを
知ったけれども、なぜかこういう時間になると静寂に包まれる。
身だしなみ指導も実にてきぱきと終わったし。。。


昨夜の千乃会見は、とても長年に渡って信者を心酔させてきた人物とは
思われないような、いい加減な発言に満ちていた。

・過激派の攻撃で数日で死ぬかもしれないけど、
 どうせ約束された命が数日ならば、車から出てもいいじゃないか。
・その過激派(マルカ)ってのは、いったいどういう連中だ??
・食事はミカエル様のご指示で食べてるらしいけれど、
 1日100錠もの錠剤もミカエル様のご指示なのかなぁ、、?
・1日100錠もの抗ガン剤をどこでどうやって手に入れているのか?
・そんな薬に頼れるようであれば、ジプシーするより入院しては??
・テレビを見られない理由が、マルカの攻撃のせい?
 テレビを通じて千乃個人を攻撃するなんてできることではないし、
 トイレ攻撃・失禁攻撃なるものが、テレビを見られない理由というのは、
 ちょっとそれは論点が違うような。。。
・「ニビル星が近づくのはけっこうなんですが」とはどういう意味???
・テレビは見られないけど、インターネットは見るらしい。
・失禁とガンの因果関係は???
・ニビル星の接近で地球が滅亡すると言いながら、
 なぜ、タマちゃんを助けてくださいと声高に叫ぶのか、、?

というわけで、妄想に生きる人しか思われなかったのだが。。。



2003年05月06日(火) 千乃裕子会見??

昨夜の続きをメモせざるをえなくなった。
フジテレビのみご指名で、千乃教祖が会見だという。
瀕死の病床に横たわって何を語るのかと思ったら、
白ワゴン車内の床に座って、白装束でなく、
水色セーターに紺色パンツという姿での会見だったという。

「私の病気のことは関係ないんです。そんなことはどうでもいいんです。
 あと4、5日しかもたない、、、もう末期ガンで重症ですから。。。
 実は、タマちゃんに餌をやってるんです、毎日。。。」
「周囲をものすごくガードした家の中に住まなきゃならない。
 山梨の方の、今向かっているドーム型の家なら
 そういうことも可能かと思っている」

記者「車での移動は疲れませんか?」

「それでも、外に出たらマルカ(過激派)の攻撃に遭って1週間で死にます。
 あるいは3日ですね。
 私たちは山梨県に行きますし、私は3日か4日で死にますから、
 皆さんにご迷惑をかけたけど、もうそれで終わりですから、
 許していただかないと。。。
 とにかく!マルカのせいで!過激派のせいで!1カ所に住めない!!(ドン!)」

記者「千乃さんはテレビをごらんになっているとお聞きしてますが、、」

「テレビなんて見れません(苦笑)」

記者「なぜ?」

「それはですねぇ、マルカの攻撃がひどくて。
 いつでも強制失禁、失禁強要させられるんですよ。
 過激派がねー、腎臓攻撃しますから、どうしても失禁してしまいます。
 インターネットでマルカが、千乃さんの妄想だなんて言ってますが、
 妄想ではありません。
 過激派のせいで、私はどんどん攻撃されて、トイレ攻撃、失禁強要されて
 いつ死ぬかわからない状態で、今、末期ガンにされています!!」

記者「いつもどういったものを食べていらっしゃるんですか」

「たいていは、高血圧なので、おかゆを食べて、それからおそば類ですね、
 血圧を下げるものを食べてます。
 天上界のご指示で、ミカエル様のご指示で食べてます。」
「地球の最期が来ますから、みんな滅亡します。
 地球人類が滅亡するんですよ。
 それは何故かというと、ニビル星が近づくのはけっこうなんですが、
 あまりにも皆さん呑気でおられますけどね、
 ニビル星による大災害がありますねー。
 巨大地震、大洪水、津波、、、そういったものに対して、
 核シェルターが全面的に安全だと思われますか?」

記者「末期ガンで節々が痛くなって利しません?」

「それは、天上界のエネルギーがありますから。。。
 それに、ガンの薬、、飲み薬だとか錠剤だとか、
 1日に100錠くらい飲んでます」

記者「失礼な話ですが、もうお亡くなりになってるんじゃないかと思ってたんですよ」

「これで生きてることはわかったでしょ?
 ただ、これからはわかりません。
 天上界に連れて行っていただくということは、3、4日とお約束してます。
 ・・私の病気はもうよろしい。
 4、5日したら死にますから、どうでもいい。
 タマちゃんは緊急ですから、、、タマちゃんを助けてください!
 全国の皆さん、タマちゃんを助けてください!!」


誰が聞いても、矛盾の3つか4つは感じ取られる内容の発言である。
聞いていても、ちょっとぼけかけた婆さんの愚痴のようにしか聞こえず、
いったい何のためにきょう会見に臨んだのか、わけがわからない。 



2003年05月05日(月) 暑い3連休 &白集団の不思議

いい風は吹いていたというものの、27、8度にもなる暑いGWになった。
昨日、部活のために学校でほぼ1日過ごしたけれど、
校舎の中だけは異様にヒンヤリとしていて、喫煙室は寒ささえ感じた。
夏らしい陽気というわけではないのだけれど、初夏の風情でもない。
そういえば、昨年も、5月にしては暑すぎるぞ、とぼやいてたような。。。

特に昨日は、実に久々の休日部活で1日が終わりかけたところへ、
夕方から家族で「ロード・オブ・ザ・リング」を見に行くことになって、
異次元の世界を旅して来たので、長い1日になった。
春休みに転勤騒動で行きそびれて、映画館で見るのは諦めていたけれど、
まだ、時間限定とはいえ、字幕版を上映してたとは驚きである。
とにかく映像がすばらしい。
物語はたいへん息苦しいような展開になってきているけれども、
この世界にしばし浸っているのが実に魅力的に思われる映画である。


清見村の白装束集団は、今夜7時半ごろ移動を開始したようである。
昼のニュースで聞いたところでは、
ニビル星の接近とやらで起こるとかいう天変地異から守るために
建てられたという山梨県のドームに向かうのではなく、
福井県にあるバナウェーブ研究所に帰るという仄めかしがあったと言う。
(その研究所の地下には強固なシェルターがあるという報道もあった)
ま、とにかく、何をしようとしているのか、どこに行こうとしているのか、
そもそも、この10年間何をしてきたのか、さっぱりわからない。
たしかに、先日のある報道では、電磁波やスカラー波を防ぐ研究を
続けてきたというコメントがあったのだが、
その進化の過程は、白布とまじない札の強化でしかないようだ。
科学的には根拠のないおまじないを一生懸命に施している一方で、
彼らはケータイを平然と使用している(車のそばではないけれど)。
瀕死の教祖さまをお守りしているそうであるが、我々から見ると、
病人にとって最悪のことをしているとしか思われない。
その教祖さまの、実際の病状とやらもわからないし、存在自体が謎である。
警察も、かなり立ち入って捜査するようになったようだけれど、
そこまでは踏み込めずにいるそうだ。

謎だらけであるために、さまざまな憶測を生む。
つい先日までの10年間はほとんどマスコミにも問題にされずに、
近辺の村民の漠とした不安でとどまっていたのが、
マスコミも報道を盛んにし、新たな不安をもたらされた村民が
警戒心を強めるようになったのも、その不可解さがクローズアップされたからである。

テレビ画面で白い車の列を眺めていても、
その中の1台に、瀕死の病人が守られていることが信じがたい。
実はもうミイラと化しているのではないか、
ここ何年かは、ミイラとなった教祖さまを守り続けているのではないか。
その遺骸を、もうすでに山中に埋めたか、
あるいはまた、瀕死のまま、実は研究所で療養しているとか。。。
そうして、彼らの恐れる運命の日とやらに、空の車の内部を見せて、
千乃さまは、昇天して地球をお救い下さいました、、、などと。。。

今朝、教祖さまの口述筆記という声明が発表された。
声明を出したのは、ヴァル大天使長なのだと言う。
つまり、その天使長が、千乃裕子の口を借りてお告げをしたらしい。
それによると、ニビル星の接近は1週間遅れるのだと言う。
じっくり読むことはできなかったけれど、
こういう声明文には似合わない、煮え切らない論調で、
信じるものしか救われることはないようなことが書いてあるようだ。

瀕死の病人が生きているとしたら、
彼らの言う運命の日に、瀕死の病人はお亡くなりになるのだろうか?
そうして、教祖さまが命と引き換えに地球をお救い下さった、と、、?
あるいはまた、マスコミと横暴と警察の圧力のために、
電磁波やスカラー波を防ぎ切れなくなって、教祖さまを死なせてしまったと、
世間に向かって告発することになるのだろうか?

謎だらけで、さまざまな不安のもとになっているのであるが、
願うことはただひとつである。
信仰というものは、自己の心ひとつの中で育ててほしいものである。
スカラー波攻撃は誰々の仕業だとか言って不審な行動を続け、
さまざまな形で不審を振りまいて敵を量産し、
ついには全世界を敵に回すような戦闘的な組織になったり、
ニビル星などという架空の危機を作り出して、
不安を煽って信者の結束を高めたり、
信仰とは本来そういうものではないのである。
信仰とは、自己の抱えた苦難と向き合うための心の糧である。
それ以上の方便に利用してはいけないのである。
教祖さまが第一に教えるべきなのはその点である。
新興宗教の恐ろしいところは、教えの正しさよりもまず先に、
信者がそのリーダーに対して献身的になりすぎてしまう点である。





2003年05月01日(木) 5月1日

メーデーのはずだが、働きづめの1日で、労働者の祭典もくそもない。
メーデーって、今でも何かやってるのだろうか、、?

朝の車も、かすかに少なめといった程度で、空いてる感じがない。
今年は連休のタイミングが悪すぎて、大型連休にする企業はほとんどないらしい。
この時期、朝の道路が空いていれば憎々しく思うし、
朝の道路が混んでいれば、何でこうなんだと怒るはめになる。

きょうは体力テストの監督などもあって、休息時間の少ない1日だったけれど、
肉体的にはかなり疲れたけれど、精神的な疲れは少ない。
職員間も温和だし、生徒も我々をイライラさせるほどのことはしない。
とりあえず、ほどよい節制が保たれているのが救いだ。


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