TENSEI塵語

2002年10月29日(火) 日本一に王手!

意外な楽勝ムードで、巨人が3戦3勝して、今年度日本一に王手をかけた。
1戦目が4対1、2戦目が9対4、3戦目が10対2である。
まず1、2戦目は勝てるだろう、と予想していたけれど、予想というよりは、
上原・桑田で勝てなければ、先の見通しがわからなくなる、という願望みたいなもの。
勝てなきゃ困る、でも、その2人はまず踏ん張ってくれるでしょ、と思っても、
もっとジリジリと胃が痛くなりそうな、冷や汗たらたらの接戦を覚悟していたのである。
ここまでは、意外にもほくほく顔で観戦できて、ありがたいことである。

けれども、ファンとしては(選手も監督もみんなそうだろうけど)
7点差、8点差あっても、9回にアウトを一つ二つ取るまでは安心できないものである。
打たれ始めたら釣瓶打ちのように打たれ、崩れ始めたらドミノ倒しのように崩れる、
それが勝負の世界の恐ろしいところである。人生もそういうものである。
私自身は、試合の流れとかいったものをあまり信じないのだが、
実経験のある元選手の解説者がそれを強調するのも、わからないわけではない。
評論家とか解説者というものは、とかく深い意味付与を施したくなるものなのである。
それが彼らの存在理由なのだから。
実際には、流れとか運の傾きとか、そんなものとは関わりなく意外な展開があるので、
離れがたくおもしろいのだが。。。

王手をかけても、最後の最後まで日本一を願望はするけど、
まだまだ信じられない、買って兜の緒を締めたくなるのがファン心理である。
絶対に勝って欲しいと思うから、油断大敵、楽観禁物となるのである。
ここまではよく打ってきたけれど、明日は完全試合をやられるかもしれないのである。
3対0から3対4で逆転優勝されてしまったチームもあるのである。
普通のペナントレースの中だったら、ま、こんなこともあるさ、で済むけれど、
7試合だけで決定する代表戦だと、それでは済まされないものである。

それにしても、このシリーズでは二岡がすごい。
3前連続猛打賞の上、きょうは満塁ホームランで試合を決めた。




2002年10月28日(月) モアイ像の皮肉な話

テレビのチャンネルをピッピッやってたら(カチャカチャというのは昔のことだ)、
あるチャンネルでたまたまモアイ像の謎に迫るなどというアメリカの番組が始まった。
(世界まる見え テレビ特捜部、とかいう番組の1コーナーなのだった)

モアイ像の謎と島の文明の滅亡というテーマらしいのに、
モアイ像の作り方と、その運び方ばかり追求しているのが不審だった。
けれども、それがおもしろいので、しばらく見ていた。
モアイ像は、島の南東にある火山の中腹の岩でできているそうだ。
その岩盤に直接輪郭を彫って行き、形作りながら像を岩盤から彫って離し、
山の斜面を利用して滑り落とし、麓で穴を用意しておいてそこに立てたのだという。

問題は、それを島中の海岸にどうやって運んだか、という点である。
今1番有力な説は、丸太を組んで作った大きな橇のようなものに乗せて、
丸太のレールやころの上を引っ張ったというものである。
そうして、目的の場所に立てるときは、丸太を何本も使っててこで少しずつ持ち上げ、
持ち上げたところに石をどんどん詰めながら徐々に立てて行ったのだろうと。。
その実験のようすが映されていて、たいへんおもしろい。

そして、ようやく最初の問題提起の、文明の滅亡に入る。
これだけ丸太が使われたらしいのに、その島には森や林がないのだと言う。
映されている島の風景も、草原ばっかりである。
ところが、椰子の木の花粉等は島からちゃんと発見されているそうだ。
この島は、昔は島中を椰子の木が覆っていた。
モアイ像を運ぶために木を全部切り倒してしまった。
土地は痩せてしまい、食糧難となり、多くの餓死者を出して文明は廃れてしまった。

何か腑に落ちない部分も残り、ちょっと疑わしい仮説だという思いもあるけれど、
もしそうだとしたら、歴史は繰り返すものだなぁ、今も同じことをやってるじゃないか、
という思いと、番組(アメリカ製の方の)のまとめの次の言葉に魅せられて、
ちょっと書きとめておこうと思ったのである。
「モアイ像は祖先の霊を祀るために作られたのですが、
 そのために、彼らは滅びることになったのです」





2002年10月25日(金) ウォーター・ボーイズ〜〜!!

レンタルに行ったついでに「ウォーター・ボーイズ」を借りてみた。
「これ、人気作品なんで、7泊の料金で3泊になってます」とわざわざ説明を受けた。
そんなもんかいねぇ、、、とまだ疑わしい。
映画館で予告編を見たときの、あんまり見たくない映画だな、という感触から
なかなか抜け出せないのだが、談話室の客が2人も感動しているらしいので、
まぁ、自分も感動するとは思えないけどとにかく、、見てみることにする。

・・・・・。

(^o^) (^○^) ('_;) (^_^) (^O^) (;_;) (^_^) (^o^) (T_T) (T。T)

いい映画だ。
しっかり笑わせるし、しっかり泣かせるし。。。

展開に唐突な点が目立つけれど、かえってすっきりまとまっていていい。
ムダの多い映画はきらいだ。
終盤はやはり涙なしには見られなかった。
男のシンクロ自体は、美しくもなくてそう見たいものではないけれど、
心を合わせて目標を実現する青春の日々は、やはり美しいものだ。
大きい円から小さい円をいくつか作る場面で、
それを仕切っているもっともどんくさかった秀才くんが両腕で○を出して、
みんなで、おおーーーっ、と喜ぶ場面がもっとも感動的だった。
恋も、少しもグチャグチャしないで、すっきりさっぱり描かれていてよかった。



2002年10月24日(木) お転婆・・婆さん?

一昨日の漏斗や如雨露のことで橋本さんと話していたら、
「お転婆ってのは外来語らしいよ」などと話が飛んだ。
そういえば、女の子にしか使わないような言葉に、
「婆」の字を使っているのは不思議だと思ったことがあった。

帰ってから調べてみると、何通りかの説が紹介されている。
1、オランダ語「オテンパール(馴らすことのできない)」に由来。
2、女の子が出しゃばって足早に歩くことをテバテバと言い、それに「お」をつけて、
  「おてば」と言ったことから。
3、宿駅で公用に使われた「御伝馬」が、餌も十分で元気よくはね回ることから。
4、中世末期から近代にかけて、機敏なさまを「てばし」「てばしこい」と言った、
  その「てば」に「お」がついたか。。。

1がもっとも有力視されてきたそうではあるが、18世紀の用例に、
「おのれ、このてんばめ」といったような用例があるので、
「オテンバール」よりは「てんば」「てば」に「お」がついたと考える方が
信憑性が高いのだという。
いずれにしても、肝心の「婆」の字を充てることについては何も書かれてない。
「じゃじゃ馬」のように、「婆」よりは「馬」の方が雰囲気は伝わりやすいと思うが。。。

ちなみに、この語源辞典の4ページ前には「おちゃっぴい」について書かれている。
もう死語なんじゃないかと思うのだが、これの説明は興味深い。
江戸時代に、客がなくて暇な遊女には、客に出すお茶を挽かせていて、
そんな遊女のことを「お茶挽き」と呼んでいた、その変化した形である。
「客がつかず、お茶挽きばかりさせられていた遊女には、
 おしゃべりで、しとやかでない者が多かったのだろう」



2002年10月23日(水) 柳沢教授、おもしろ〜い

9時からの「天才柳沢教授の生活」を見た。
先週は、知ったのが金曜日だったので、もう初回が終わってしまっていた。
普通なら、それでもう見るのを諦めてしまうところであるが、
何となく期待する部分が拭いきれなくて、満を持して見たのである。
たぶん、幸四郎が世間から外れたような教授を演じるのだろうと想像すると、
「王様のレストラン」での徹底した演技ぶりに拍車がかかって、
おもしろいドラマを見せてくれるのだろうと期待したのである。

コメディー・ホームドラマ特有の私の嫌いな雰囲気も確かにあるけれど、
柳沢教授の疑問や発見は実におもしろい。
しかも、1話の中にいろんな要素が盛り込まれているけれど、
それらが緊密に結びついている点も、よくできている。
さっきから、具体的にこのドラマの内容を書こうと考えているのだが、
思い出せば思い出すほど、混乱してしまうので、書くのを諦めることにした。
場面転換のスピーディーなところも、緊張を持続させてくれる。

きょうはこの程度にしておこう。
書き始めたときの意気込みはどこへやらである。
とにかく、久々に連ドラで笑わせてもらえて、楽しかった。



2002年10月22日(火) 漏斗・如雨露・上戸

それは、もう何年も喫煙室の机の上の雑多な物入れの中に放っとかれていた、
今ではもう使いようのない、金管楽器(アルトホルンかメロフォンのものか不明)の
マウスピースが、誰かの手によって机の上に立てられていたことから始まった。
Yはそれをろうそく立てみたいだと言い、Kはそれを線香立てみたいだと言った。
Kは、さらにそれを逆さにして、漏斗かな、と言った。
もちろん、それは冗談ではしゃいでいるのだけれど、そこからさらにKが、
「漏斗ってのは、もともとあったことばなのか?」と言い始めた。
「外来語に字をあてたんじゃないかなぁ、、」と答えながら、私は、
いつもそこに置いて、漬け物石にはならぬ程度に利用している日本語大辞典を開いてみた。

意外なことに、外来語らしいことは少しも書いてないのである。
ずっと長い間、ロートが元で、それに漢字を当てただけだと思っていたのは、
ロート製薬のせいかもしれない。
(帰ってから語源辞典を調べてみたら、漏れる桝=斗、ということらしい)

で、漏斗の別名「上戸」も説明の中に書いてあったので、私が、
「僕ねぇ、小学生のころは、じょうろとじょうごがなかなかどっちかわからんかった」
と言うと、Kもそれに同意してくれた。
「じょうろ、ってのは、あれは、じょろじょろ出るからじょうろなのかい?」
などと言いながら、「じょうろ」を調べてみたら、また意外な驚きであった。
これは、ポルトガル語からの外来語なんだそうである。
それにしても、「雨のごとき露」とはうまい当て字ではないか。

「上戸」も調べてみて、またもや驚いたのである。
今まで、酒飲みを上戸と言い、飲めない人を下戸というのは、
上戸(=漏斗である)のように底なしに入っていくという意味で酒飲みが「上戸」、
飲めない人はその反対語として「下戸」というのだろうと決めつけていた。
(そんなことを誰に説明する機会もなかったので、調べる必要もなかったわけだ)
ところが、実はそれは逆だったようだ。
酒飲み=上戸という言葉が先にあって、酒を徳利の口などに注ぐために使う漏斗を、
「酒を吸い込む」という意味で「上戸」とも呼ぶようになったようだ。

やはり、勝手な思い込みは禁物である。

帰ってから、語源辞典で「上戸」を引いてみたら、こうあった。
「古く、百姓の戸口を家族数の多少によって、上戸・下戸などといったが、
 その戸口の規模に喩えて、酒を多く飲む人、酒好きの人を上戸、
 酒が飲めない人を下戸と言うようになったという説がある」
「上戸は本来は酒に伴う癖のことをいう接尾語であったが、現在では、
 単によく笑う人を笑い上戸、よく泣く人を泣き上戸ともいう」

とにかく、言葉の変遷とはおもしろいものだ。



2002年10月20日(日) 完全休業日

きょうは久々に1歩も外に出なかった。
食料品の買い出しも、妻と娘が出かけた。
久々の完全休業日である。
昨日の混成バンド練習会の疲労の続きで足が痛いこともあり、
湿布薬を貼って、できるだけ歩かないようにして、
PCの前に座ったり、机の前に座ったり、ベッドに何度か寝ころがったりして、
ぐたぐたと過ごさせてもらった。
菜々まつ様の、仏様の化身のような値千金の微笑も拝めたし。。。

ここで、夜更かししてしまっては、完全休養日の意味がなくなるのである。
数週間前に、この大発見をしたのである。
リフレッシュに1番大切なのは、休日ののんびりも確かだけれど、
それ以上に時折の十分な睡眠であって、休日の翌日が睡眠不足で疲れていては、
せっかくのリフレッシュも後悔の種となりかねないのである。
若いころから長い間、いつも時間に追われ、寝過ぎたりすると後悔するような、
そんな生活を続けていたから、なかなかそこに気づけないでいたのである。



2002年10月16日(水) ふつうであること

patamama さんが身障者関連のカキコをしていたので、レスしようと思ったけれど、
「おばさんAのひとりごと」らしいので、レスはやめてこちらに書いておこう。
・・・ホントは、レスを書き込もうとしたら、上下のアートネイチャーの広告が
あまりにも騒々しいのでイヤになってしまったのと、
寝るまでの時間が乏しいので、塵語継続の方を選んだのである。

吹奏楽部の顧問になってから、いろいろな場所で演奏する機会があったけれど、
養護学校との交歓会とか、市の身障者の会や作業所の催しでの演奏も多かった。
そのたびに身障者の子どもたちと交流の機会があったのに、
なかなかそこに十分入って行くことはできなかった。
どこでどう機嫌を損ねて泣いたり怒ったりするか、見当がつかないので、
何の資料も予備知識もないうちは、できるだけ密着しない方がいいだろうと思ったのだ。
小学校の時に、身近なところに心身障者がいてよく遊んだりもしてた経験から、
かえって用心深くなっているのだろうと思う。
何のかんのときれいごとを言っても、やっぱり彼らの相手をするのはいろいろと大変だ。

自分の子どもが生まれるときにとにかく願ったのは、
五体満足で生まれてほしい、それ以外は望まない、ということだった。
そうして、何の障害もなく生まれ、これといった大病もなく普通に育った。
下の子は今、不登校で、自宅ではちょっと珍しい趣味に興じているし、
上の娘は、どうも今ひとつさえない、ぼけぽけっとした子である。
この子たちは普通なのだろうか、どこか屈折してないだろうか、とも思うが、
そしてまた、我々の遺伝子がどうしてこんな風な成長を遂げるのか、不可解なのだが、
それでも、五体満足で生まれてきたときの感謝は忘れない。
確かにいろいろな苦労はあったけれど、ぜいたく言ってはいけないのである。
毎日普通の会話ができ、放っておいても自分で何とか生活できる、
それだけでも、実にありがたいことではないか。



2002年10月15日(火) 習慣

昨日の昼間にやったことのひとつは、談話室の壁紙の張り替えである。
今までは、掲示板で提供されている色から選んで指定していただけなのだが、
色の濃すぎるのが気になっていたし、ネットスケープで見ると妙な青色になっているし、
そのうち、暇な休日にでも壁紙を貼りつけようと思っていたのを、
昨日ようやく実行に移したのだった。
作業はそう難しくない。
素材として持っている壁紙をHPにアップしておいて、談話室とリンクさせるだけだ。

ところが、かなりてこずったのが、HPにアップするための関門である、
Geocities のファイルマネージャーへの行き方である。
このHPを作り始めたころはするすると利用していたわけだし、
前回久しぶりに掲示板変更のために更新作業をしたときも苦労した覚えはない。
けれども、昨日はさっぱりわからなくて、暗中模索でいろんなページを開きながら、
やっとのことでファイルマネージャーにたどり着いたのだった。
それで、壁紙をアップして、談話室とリンクさせて、実際に見てみたら、
淡いポツポツだと思っていた柄は、実は細かい花柄で、
私の柄に合わないと思ったのでいったんは取り替えようとも思ったけれど、
次にやろうと思っていたことのための時間はもうとっくに過ぎていたし、
最近談話室は2人のおば、、いや、おねいさんたちに乗っ取られ気味だから、
ま、気にするまい、ピンクや黄色ってわけじゃないし、、と思ってそのままにした。

しかし、ファィルマネージャーを探し回らなければならなかったのは驚きだった。
要領がわかった、慣れた、と思っていても、怠けているとまたわからなくなるものだ。
現にHPの各コーナーの更新はもう何ヶ月も怠けているし、この塵語も穴あきである。
先週始めたリコーダーの練習も、連休こそたっぷりやれるはずなのに、
連休に入ってから、ついつい忘れて早くも止まってしまった。
(煙草とともにコーヒーを手放せない私は、楽器を吹く前に楽器を汚さないために
 義務づけているうがいがめんどうだと、楽器を吹くのも先延ばしにしてしまうわけだ)

悪しき習慣のための努力はいらないが、良き習慣のためには、油断は禁物だ。
良き習慣は、作るにも努力がいるし、長年続けるにも努力がいる。
そんなことは30年前にも知っていたことなのに、
それを肝に銘じて実行する習慣すらもいまだ身についていないという情けなさである。



2002年10月13日(日) セイタカアワダチソウの冤罪?

10年くらいも前だったか、秋の花粉症の原因はこいつだと何かで知らされて以来、
この花の群れを見るとぞっとして逃げ出したくなるのである。
もう花粉症に悩まされることはほとんどなくなってはいたけれど、
いかにも盛大な群れを目の当たりにすると、頭の上からわっと襲いかかれて、
一挙にまた再発するのではないかと恐れおののくようになったわけである。

昨日市吹に向かう途中、高速に入るまでは堤防や田畑の間を走る時間が多く、
この花の群生が、あちこちにやたらと目についた。
黄色い花は上の方から順に開くらしくて、まだ開いてない下の方から
だんだんと黄色くなっているように見えるのが、独特な色合いに見える。
何か、そんな鮮やかな黄色も、毒々しく見えてしまうのも花粉症の恐れのためである。
その群生している光景を見るたびに、悪が猛威を振るっているように見える。
すると妻がさらに恐ろしいことを言い出す。
今までススキが生えていたところに、この花が群がって行くのは、
ススキの根を枯らしながら繁殖して行くからだ、、、と。
あの風流なススキの原が少なくなったと思ったら、こいつのせいか!!となる。
まさにこれは、悪の繁殖の象徴ではないか!! 断固撲滅すべし、焼き払え!!

それで、ちょっとHPで検索してみたのである。
たとえば、こんなわかりやすい説明がある。犠牲者はススキだけではなさそうである。

−−−−−−−−−−−−−−−
北米原産の1.5〜2mにもなる多年草で、
明治期に庭園用として導入された物が逃げ出して、全国的に暴れ回っている帰化植物。
タネでも繁殖しますが、地下茎での繁殖はすさまじくて、縦横無尽に広がり、
空き地などでは、あっという間に広がる駆除困難な雑草の一つになってしまった物です。
花自体はなかなかキレイなのですが、
根から他の植物の生長を妨げる物質(アレロパシー)を分泌しながら、
自分の勢力範囲を広げている非常に攻撃的な植物です。
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う〜ん、、何と恐ろしい。。。 誰だ、いったい、持ち込んだやつは?!
犯罪者じゃないか!!
ところが、この記述の後に、妙にのんきなことが書かれているのである。

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切り花としての利用もできますので、庭園への持ち込みは止めた方が賢明ですが、
水揚げも良いためにアレンジには、お薦めできます。
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アレンジにお薦め、って、何と恐ろしいことを言うのだろう?
百合やジャスミンさえ、花粉症の危険を感じてしまうというのに。。。
こうなると、花粉症とセイタカアワダチソウについてはっきりした説明を求め、
さらに検索に回らなければならなくなる。
すると、こんな説明に2つも出会った。

−−−−−−−−−−−−−−−
身近な植物では、一年の最後を締めくくるのが本種である。
この花が終わると、季節は一気に冬へと進む。
かつて花粉症の原因植物として悪名をとどろかせたが、それは濡れ衣であった。
美しい花を、素直に楽しみたい。
−−−−−−−−−−−−−−−
セイタカアワダチソウの開花日は十月一日です。
上のほうから黄色く色づいてきます。鮮やかな黄色が美しい。
花粉の舞い散る杉のような風媒花ではありません。
アレルギー要因と誤解されたのは昔のこと。
今は美しい花穂を心置きなく愛でましょう。
群生した時のこの花の美しさは、実際に見てもらうしかないんじゃないかと思います。
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そうかぁ。。。 花粉症の原因とは冤罪だったか。。。
何かまだ半信半疑ではあるが、あんまり悪者呼ばわりすべきではないようだ。
けれども、穏やかに、素直に、心置きなくこの花の美しい黄色を眺めるには、
これからかなりの時間を要しそうである。
忌むべき植物というイメージがあまりにも強く心に焼き付けられていて、
そういうイメージはなかなか払拭できるものではないからである。



2002年10月12日(土) 早起きの朝

目が覚めると、何かいつもとようすが違った気配で、、、
あ、この雰囲気は、うっかり眠ってしまった時の夜中の雰囲気だと気づくのに、
それほど時間はかからなかった。
起き上がって時計を見ると、4時になろうとしているところである。
昨夜は10時ごろに、コーヒーをお代わりするかウイスキーにするか迷いながら、
台所に下りて、ちょっと腰を癒すために寝室まで遠征して、
横になって、う、ぅぅ、ぅ、、とそのままあっさり眠りに落ちたようだ。
もう少し眠ろうかと迷ったが、部屋の電気もPCもつけっぱなしだし、
きょうは休みだから昼寝もできるからいいや、というわけで起き出して、
まず、水曜日と木曜日に書こうと思っていたことを思い出して書いた。

起きて最初にしたのは、昨夜の松井チェックである。
巨人は最終戦を勝ちでしめくくったけれど、松井はやっぱり打率を伸ばせなかった。
ま、追いかける相手が勝負をやめてしまって高見の見物に入ってしまい、
1試合4安打しないと抜けないという状況ではムリだとは思っていたけれど。。。
それよりも、そういう状況に置かれながらの、一昨日の2本のホームランが貴重だ。
年間4番で完全出場、ホームラン50本、打点107、、、文句なしの王者ではないか。

今朝の朝刊のののちゃんはおもしろい。3連休の最初にふさわしい題材だ。
めずらしく、典型的な4コマまんがの型に仕上がっている。
父が「おい、のぼる、クルマで城山へ行かんか」「練習があるんだ」
「のの子」「公園行ってくるー」
「おかあさん」「シルバー会やねん」
と、2人の子どもも母もさっさと出かけてしまう。で4コマ目は、
「かくれるな!!」・・妻が押し入れに潜り込んでいる。



2002年10月10日(木) 休日にあらず

10月10日なのに仕事、というより、仕事してるのに10月10日だということが、
どうもいまだに違和感を帯びている。
体育の日が第2月曜日となったのは2年前だったか3年前だったか覚えがないが、
それは、ある意味で大変ありがたい策だった。
それまでは、体育の日かその前後の日曜日に市民が集まって体育的行事を行うと、
翌日は出勤だったのに、体育の日を月曜日にすることによって、
前日の日曜日に行事を行って運動し、体育の日は体を休めることができるようになった。
おかしなもんであるが、ありがたいことは確かなのである。
実際には、どこの地域でも体育の日の前日に開催しているわけではない。
岩倉の市民運動会は先週だったし、この長良地区の運動会は来週である。
そういうのは、小中学校の運動会とか他の社会人チームの大会とかの日程によるのだろう。

私はどちらかというと、連休よりも週の途中に休みが入るのが好きである。
週休2日への移行期に土・日休みになりそうだったときも、
かつてのフランスのように木曜休みになればなぁ、と願ったものである。
ゴールデンウイークも、連休になるよりは飛び石連休になるのを好んでいた。

今年度から土曜日もすべて休みになったが、偶然にも、
祝祭日が絡むとすべて土日月の3連休になってしまっている。
月曜日に授業があるクラスの進度を調整するのがたいへんである。
また、3連休明けの火曜日は、ことさらに精神的な調整がたいへんである。
1日中、そこはかとない疲労感の中で仕事をしなければならないからである。
そういう週は、木曜日くらいにようやく調子がもどってくるようだ。



2002年10月09日(水) オーボエ

中学時代から弾きたいと思っていた夢の楽器は、ヴァイオリンは言うまでもないが、
管楽器では、オーボエとホルンである。
今振り返ってみると、最初にオーケストラの音楽に魅せられたきっかけが、
「白鳥の湖」組曲で、「序奏」にしろ有名な「情景」にしろ、
オーボエソロとホルンのユニゾンが非常に効いているので、その影響が大かもしれない。
けれどもそんな楽器を手にするという夢は、10代のころは雲をつかむような話だった。
買うなんて途方もない話だったし、学校の音楽室にもなかったから、
ほかにどうすればいいのか、皆目見当がつかなかったのである。
オーケストラの音楽を聴きまくってはいたけれど、
それを演奏する世界はまったくの別世界のできごとと思わざるをえなかったのだ。

教員になって吹奏楽部を担当するようになってから、いろいろな管楽器が身近になった。
あたりまえのように触れ、時には簡単な手入れや修理もするし、
空いてる楽器があって暇もあるときは、ちょっと試しに吹いてみたりもした。
曲が吹けるほどには練習できていないのだが、
こうすると音が出るようだ、という程度はいろいろ音出しに挑戦済みである。
演奏会等で聞けば甘い音色が魅力のオーボエも、自分でちょっと吹いてみると、
いかにチャルメラになりやすいか、身にしみてわかっている。

オーケストラの管楽器でオーボエが1番好きだといっても、
交響曲や管弦楽曲の中で時折前面に出てくるのは好きだけれども、
オーボエ協奏曲とかオーボエソロの曲を聞いてもあまり楽しくないのである。
何ヶ月か前に宮本文昭のソロCDを買ってみたけれど、
1度は全部通して聞いたかどうかも定かでなく、どこかに埋もれている。

オーボエ協奏曲で長年好んで聞いているのは、
バッハの「オーボエとヴァイオリンのための協奏曲」やマルチェルロの協奏曲などで、
1番好きなのは、アルビノーニのニ短調の協奏曲である。
ただ、このアルビノーニのニ短調については、オーボエソロよりも、
弦楽合奏部分により魅力を感じているように思う。
けれども、ソロ部分は他の楽器では絶対つまらない、オーボエでなきゃいけない曲である。

もしも太宰の「斜陽」を映画化することがあったなら、
BGMはぜったいこのアルビノーニのオーボエ協奏曲だ(ト短調のも併用)、
というのが、20年来の私の腹案なのであるが、
もちろん、私が映画作りに関われる可能性なんてまったくないから、
この案は、実にもったいなくも、闇に葬り去られることになる。



2002年10月08日(火) リコーダー

リコーダー(ブロックフレーテ=小学生のたて笛)の思い出について書きとめよう。
というのも、去年の暮れだったかに買ったヤマハの8万円台のリコーダーの存在を、
昨日、ふとしたきっかけで思い出して練習再開し始めたからである。
もう3年か5年か、かなりリコーダーを吹くのをさぼっている。
それまで、20年ほど前に就職してすぐに6万5千円で買ったメックのを吹いていたが、
その楽器が長年不満で、去年の暮れについに買い換えを決心したのだった。
それを機会に練習を再開しようと思っていたのに、数日馴らし吹きをするうちに、
生活が慌ただしくなって、そのまま今まで忘れてしまっていたのである。

リコーダーを吹く楽しさを最初に教えてくれたのは、小6の時の担任である。
いつも棒を持っていて、何かあるとすぐに前に呼んで棒で尻を叩いたり、
赤チョークで顔にひげを描いたりする暴力教師だったし、音楽の時間に他ごとしてると、
それが女の子でも、その子のリコーダーを取って鼻で吹くというえげつない人だったが、
時々僕たちに実にきれいな音で情緒たっぷりのリコーダーを聞かせてくれた。
チゴイネルワイゼンの第2部の抒情的な部分が1番思い出に残っている。
私も彼の吹き方を真似るようになって、音楽の時間に1人で吹けという時に
私の番が回ってくると、彼は他の時には私のことをほめたことはないのに、
まだ演奏しないうちから、「こいつはうめえぞ」と皆に予告するようになった。

しかし、上には上がいた。
中学に入ってから、必要なときにしか吹かなかったけれども、ある時、
妻の妹(妻は中学の先輩で、その妹は私の後輩である)が部活の合間に
リコーダーを引っぱり出してきて、パーセルのロンドを吹いていた。
それは、小6の時の担任とは別の意味でうまい演奏だった。
それに刺激されて、私は暇さえあればリコーダーを吹くようになった。
でも、楽譜がない。
たまたまそのころよく眺めてたのが「新世界より」のオケスコアだったので、
その第2楽章を主旋律をたどって吹き始めたら、中間部を吹くのに酔ってしまって、
それから病みつきになって、全楽章を吹いて楽しみ、それからもう、
好きな交響曲・管弦楽曲は片っ端からメロディーをたどり吹き。。。
端で聞いてる者にはわけわからんような耳が痛いだけのようなものだったに違いない。
それでも、その戯れのおかげで、初見演奏、移調、総譜解読、、いろいろ身についた。
とにかく、それしか演奏を楽しむ術はなかったのだ。

高校に入って、放送委員会に入ったら、放送室にリンデのLPがあった。
それを聞いて、決定的な衝撃を受けた。
ああ、、こんな演奏ができたらなぁ、、と煩悶するほどの衝撃である。
アルトリコーダーを吹くようになってからのレパートリーの多くは、
このころリンデのLPで聴いていたものである(いつまでたっても足下にも及ばない)。
当時は、アルトリコーダーなんてとても高くて買えやしない、と思っていた。
小中学校で使うソプラノリコーダーのような材質の安いアルトリコーダーがあるとは
夢にも思っていなかったのである。

大学に入って、ギターアンサンブルサークルの合宿の時に、
そのころ(今もだけど)もっとも演奏面で信頼していたコンマスのTが、
その安価なアルトリコーダーを持参していて、ギターと二重奏をやろうと言い出した。
この時2人で楽器を交代しながら遊んだのがきっかけで、安いアルトリコーダーを買い、
銀座のヤマハに行くたびに、リコーダーの楽譜を物色して手に入れた。
やがて、響きの柔らかい木製のリコーダーを吹くのが夢のようになった。
就職して、最初にしたぜいたくな買い物が、メックのリコーダーである。。。

・・・というわけで、きょうの文章の振り出しにたどり着いたわけである。
こうして振り返ってみると、リコーダーだけでもなかなかおもしろい変遷ではないか。
だいぶ端折ったけれども。。。




2002年10月07日(月) 教育に莫大な金?

昨日から朝日新聞の一面に「競争加速」と題するシリーズが始まり、
今日のテーマは「階層差が学力差に?」というテーマである。
最初に、「高級家庭教師」が取り上げられている。
1回2時間で2〜3万円、週2回利用で月額約20万円という高給家庭教師である。
すでに月40万円を投じているケースもあるそうである。
そうでなくても、首都圏の私立の中高一貫校に入れるために、
小四から進学塾に通わせ、3年間で200万円はかかるのだそうである。
書道だとか、楽器だとか、絵画だとか、そういう学校教育では太刀打ちできない分野に
高額を投じるのはしょうがないと思うけれど。。。

こんな記事を書き立てられたら、ますます進学のための経済力競争が加熱し、
教育とは何か、子育てとは何か、大切なことが見失われて行きそうだ。
さっそくきょう、「高給家庭教師」についての問い合わせが殺到したのではないか。
愚かな親たちが一挙にまた量産されたのではないだろうか。

私もまた、受験生時代に、こういう話に惑わされ、不安に苛まれたひとりである。
私の受験生活は、ほとんどわずか1年間で、受験勉強を始める前は偏差値40だった。
それが、上智大学をめざして勉強している中で、ホントに受かるだろうか、
受かるわけないよなぁ、、と諦めがちになるのが、上記のような類の風評のためである。
小学校のころから鍛えられてきた英才教育の申し子たちも少なからず受けに来る、
とても太刀打ちできるわけがないじゃないか、とつい弱気になってしまったりした。
そんな中で持ちこたえるには、競争相手は外にいるのではない、と信じることだった。
敵は自分の中にしかいない、自分の中の怠惰と闘いさえすれば勝てる、
人よりもいい点を取ろうなんてせこい考えは捨てて、自分が正解を書くことだ。。。
それで、結局東大とまでは行かなかったし、そんな目標を立てはしなかったけど、
とにかく上智大文学部には受かったのである。
入ってから、私と同じように高三まで好き勝手に遊び呆けていたような者は、
なかなか見出すことはできなかった。

私の場合はさんざん遊び呆けていて、勉強大っっ嫌いだったのだが、
中学時代の同級生で、順調に県内最上位の公立高校から東大へ入った連中を見ても、
塾・家庭教師漬けでがんじがらめになっていたわけではない。
適度に我々のような怠け者とつき合いながら、生徒会や部活もやりながら、
合間にこつこつとやるべきことをやって当然のように入っていったものである。
大切なのは、自分が自分のやれることをやるということで、他に惑わされないことだ。

昔と今は違うよ、なんてことをよく言われるのだが、その原理は同じである。
ただ、昔よりもさらに塾・家庭教師の幻想が加熱しているだけのことである。
昔も今も、それに惑わされる大人が多いものだから、不幸な子どもが増えるのである。
そうしてますます幻想が膨らみ、妙な受験産業も産まれ、競争を煽る仕組みになる。

さて、「高級家庭教師」なるものを、全面的に否定しようという気持ちはないのである。
ひとつには、本当に有能な人であれば、きっかけに利用してもいいだろう。
けれども、長年に渡って大枚をはたくなんてことはムダである。
勉強は楽しい、というきっかけさえ作ってもらえば、あとは必要ないのである。
その人なしには勉強などしないような〈優等生〉を育てて、何になるのだろうか?
言われたことだけをこなしてテストだけできる〈優等生〉などいらないのである。
本当の優等生を育てるには、きっかけだけで十分なはずである。
またもうひとつには、〈優等生〉でなく、わかりたいと思っているのに、
学校の勉強にはぜんぜんついていけない不幸な子のためには利用してもいいだろう。
むしろ、いわゆるわかりたがっている〈劣等生〉のために活躍してほしいものである。
そんな子どもは極少数派だろうけれども。。。



2002年10月03日(木) 宮本輝「オレンジの壺」

題名からは想像もつかない壮大なドラマだった。
何しろ、「オレンジの壺」とはオレンジの入った壺でもオレンジ柄の壺でもなくて、
秘密結社の一員の暗号名なのだから。。。

ヒロインの田沼佐和子は、冴えない女として意図されている。
離婚の際、夫から、お前には悪いところもない代わりにいいところもない、
「女としての魅力も人間としての味わいも皆無だ」と言われたほどつまらない女である。
けれども、それほどつまらない女として感じられるほど描かれていないのが
この作品の数少ないキズのひとつである。

その佐和子が、離婚の痛手から抜け出せるようにと父親が事業を興すことを勧め、
それをきっかけに、遺言で託された祖父の日記を読むことから、佐和子の変貌が始まる。
日記に書かれた祖父の第二次大戦前の若き日の記録は謎に満ちていた。
その謎の解明のためヨーロッパに飛んだ佐和子に、新しい事実がまた現れる。
明らかになるにつれて、また、謎もいっそう深まる。
息詰まるような緊迫感がある。

大戦の傷跡は癒えることがない、というモチーフがくり返し語られる。
それを我々は主に対中国との諸問題でしばしば痛感させられるのだが、
あの時勝った国・負けた国にかかわらず、ヨーロッパでもやはり同じなのだと
この小説は教えてくれる。

宮本輝の小説は、人間の悲しい性というものを全編に漂わせる。



2002年10月02日(水) マーラー 交響曲第3番 メモ

名古屋までコンサートを聴きに行くのは(しかも平日の夜だ)億劫だったけど、
去年のコバケンの「復活」があまりにも感動的だったので、
きょうのコバケンと名フィルのマーラー交響曲第3番も聴きに行ったわけである。

第1楽章は殊にマーラーのオーケストレーションの精緻さが魅力なのだが、
それを生の音で味わう楽しみを確かめさせてもらえた。
第2楽章は期待どおりに美しく歌い上げられていた。
第3楽章の長いポストホルンのソロは、録音で聴いてもそれほど魅力的でないのだが、
2階席で演奏するポストホルンは実に魅力的だった。
この曲はぜいたくな曲で、第5楽章のほんの4、5分のために(全曲は約100分である)、
少年少女合唱と女声合唱を使うが、瞬間、別世界に入ったかのような新鮮さである。
ただ、きょうの合唱は歯切れが悪くて残念だった。
第4・5楽章のアルト独唱もいまひとつ心に届いてくれなかった。

さて、いよいよ第6楽章の「愛が私に語ること」である。
コバケンのテンポは今まで聴いたうちでもっとも速いテンポだったけれども、
そのために感動が損なわれるわけでもなく、
相変わらず、感動するツボをしっかりおさえた演奏だったと思う。
弦楽器だけで歌い上げる部分で、弦楽器群の弓の動きを眺めていたら、
本当に音楽が波立ちながら高揚しているようで、これも生演奏の魅力だろう。

帰る道にも、帰ってからも、頭の中ではこの音楽が鳴り続けている。
再発見も多く、感動の連続のいい演奏会だったと思う。
マーラーは最高の作曲家であり、音楽の完成者だという思いをさらに新たにした。
ただ残念なのは、第1、3、6楽章の最後のところで(3カ所もある!!)
ティンパニががむしゃらに叩きすぎて、オケの音を損なってしまったことである。
惜しかった。このミスさえなければ、手放しで讃美してもよかったのに。。。

大学時代には、マーラーの交響曲の生演奏を聴くことも夢のひとつだった。
あのころはまだ、ほとんどマーラーの交響曲を取り上げる演奏会はなかった。
とりあえず、2番3番と、さほど労せずして聴くことができている。
ありがたいことである。



2002年10月01日(火) 気力? 齢?

10数年前までは、がむしゃらだったかもしれない。
東京のプロダクションに問い合わせたりしてチケットを手に入れて、
わざわざ東京までオペラに見に行くこともちょいちょいあった。
もっとも大変だったのは、団十郎襲名公演の時である。
(もちろん、団十郎よりも、共演の玉三郎の方が本命である)
チケット販売日前日に上京して友人宅に泊まり、翌朝、発売時間前に歌舞伎座に着いた。
ところが、まだ発売時間までかなり時間があるのに、ごった返している。
列に並んでしばらくすると、整理券を渡された。
800番台の数字が書いてあって、3時半ごろになるという。ヒョエー、である。
まだ朝の8時台なのに、3時半まで時間を潰すはめになった、、は、実はまだ甘かった。
3時半に歌舞伎座に戻って、列に並んで、買えたのは夜の11時前である。
窓口の様子が眺められるような位置になってやっと悟ったのだが、
ひとりで何枚も、何日分も仕入れていく人がいくらでもいるので時間がかかるのだ。
飢え渇いても、あきらめて立ち去るわけにはいかない。
新幹線の終電も終わるころになって、夜行に乗れるかも不安になった。
10時ごろ、団十郎が挨拶とお詫びに来て、間近に見たのだけが得だったけど、
玉三郎ちゃんも一緒に連れてきてほしかったな、、、と。
ようやく自分の番が来て、買えたのはA席でも補助席だった。
でも、この日を逃したら、補助席も手に入らなかったわけだし、
その補助席は、A席の右端よりはうんといい場所だった。
数時間立ちっぱなしだったけど(しかもその前にいろいろ歩き回っている)、
駅に走って、何とか大垣行きの夜行電車に間に合った(寝台などではない)。
予定外の事態だったけど、それで、翌朝、家に戻らずにそのまま仕事に出た。
これはもっとも悲惨な例だけれど、東京のコンサートに行くと大体こんなもんである。
あるオペラを見に行ったときは、2日がかりだったので、
欲張って日生劇場の幸四郎の「ラ・マンチャの男」も見て帰ったりした。
こういうことが億劫でもなかったし、楽しみでもあった。
この10年ほどは、岐阜や名古屋での公演でも億劫である。
よほど気に入ったものしか行けなくなって、年に2、3回である。
大切なものをかなり逃してしまっていることは、自分でもよくわかる。
仕事上、予定を立てにくいという面があることも確かだが。。。



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