TENSEI塵語

2002年04月27日(土) 「風」の2曲

大したアーティストとは思えなくても、中には唐突に傑作が見出せることがある。
2、3日前、職員室の喫煙室で「22才の別れ」という懐かしい歌が話題にのぼって、
それが頭にあったのか、きょうCD棚で探し物をしていたときに、
『「風」全曲集』が目に止まり、不意に聞いてみたくなった。
聞いてみたくなったのは、17曲入っているうちの2曲だけである。
「22才の別れ」はもちろんだが、このCDを買ったときに初めて知った
「あの唄はもう唄わないのですか」という歌をむしょうに聞きたくなったのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    22才の別れ
あなたに さよならって言えるのは きょうだけ
明日になって またあなたの温かい手に触れたら 
きっと言えなくなってしまう そんな気がして

私には 鏡に映ったあなたの姿を見つけられずに
私の目の前にあった 幸せにすがりついてしまった

私の誕生日に 22本のローソクを立て
ひとつひとつがみんな君の人生だねって言って
17本目からは いっしょに火をつけたのが 昨日のことのように

今はただ 5年の月日が 永すぎた春と言えるだけです
あなたの 知らないところへ 嫁いで行く私にとって

ひとつだけ こんな私のわがまま聞いてくれるなら
あなたは あなたのままで 変わらずにいて下さい そのままで
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こういう歌詞を手放しで賞賛する気はないのだけれど、好きなところはある。
「明日になって またあなたの温かい手に触れたら きっと言えなくなってしまう」
「17本目からは いっしょに火をつけたのが 昨日のことのように」
「今はただ 5年の月日が 永すぎた春と言えるだけです」
こういう部分には、若かりしころ、大いに泣かされたものである。

さて、この女性は、相手を愛しつつも、「永すぎる春」に見切りをつけて
嫁いで行くらしいが、この心情を心に受け取ったまま、
「あの唄はもう唄わないのですか」を聞くと、いかにもその続編か後日談のように、
切々とした思いを訴えられてしまうのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    あの唄はもう唄わないのですか

今朝 新聞の片隅に ポツンと小さく出ていました
あなたのリサイタルの記事です もう1年たったのですね
去年もひとりで 誰にも知れずに 一番後ろで見てました
あの唄 もう一度 聴きたくて
私のために作ってくれたと 今も信じてる あの唄を

あなたと初めて出会ったのは 坂の途中の小さな店
あなたはいつも唄っていた 安いギターをいたわるように
いつかあなたのポケットにあった あの店のマッチ箱ひとつ
今でも時々取り出して ひとつつけてはすぐに消します
あなたの香りがしないうちに

雨の降る日は 近くの駅まで ひとつの傘の中 帰り道
そして2人で口ずさんだ あの唄は もう
唄わないのですか 私にとっては 思い出なのに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

女は、思い出のために歌ってほしいと願い、
男は、思い出であるがためにかえって歌うことができない、
そんな男女の姿を思い浮かべて、何度も繰り返し聴いてしまうのである。
メロディーも伴奏も「22才の別れ」とは較べものにならないほど切々としている。
「いつかあなたのポケットにあった あの店のマッチ箱ひとつ
 今でも時々取り出して ひとつつけてはすぐに消します 
 あなたの香りがしないうちに」
この一節などは、実にみごとにどうにもならぬ思いを表現しているではないか。

あの当時流行っていた、いわゆるフォークソングと呼ばれるジャンルの中で、
さだまさしを除いたら、文句なしにこの「あの唄はもう唄わないのですか」が白眉とさえ思われるのである。



2002年04月20日(土) 巨人戦&納豆

昨日の巨人−阪神戦は涙ものの一戦だった。桑田 vs 井川の投げ合い。
桑田はもうここ2、3年、かつての球威を失い、綱渡りのようなピッチングを続けていた老兵だし、
井川は対照的に今年に入って3度登板して1点しか失点していない球威抜群の若虎である。
6時にラジオで試合が始まったとき、桑田が調子いいとはとても思えなかった。
1回は松井がセンター前へのヒットになってもおかしくない打球を2度好補してピンチを免れたようだ。
2回の桑田も危なっかしかった。
それに対して井川は、悠々と投げているようで、巨人の選手が打てるという予感が全くなかった。
3回の桑田は三振を2つまじえて3人で抑えて、どしたの? という変貌ぶりだったけど、
またいつ崩れるかわからない、という不安を抱いたまま、車を降りた。
遅くなった夕食後、テレビをつけて驚いた。まだ0対0のまま。桑田好投だそうである。
結局、0対0のまま延長戦に入って、10回表、ホームランを打ったのは、代打要因の福井だった。
レギュラー選手は、阿部の3安打以外は江藤の1安打だけ。
主力選手の不発に苦しむ中で、そうあてにならないはずの福井の1発で勝負が決まった。
その裏は、デビュー時から応援してきた河原が、快速球で抑えて、1対0の勝ち。
桑田は、4被安打の無失点。・・すごい!!
松井はきょうも打てなかったけれど、それでも感動できるいい試合だった。
松井の1回の、1点もやらないぞという気迫の好捕がなかったら、こういう試合にもならなかったろうし。。。
きょうは上原登板で悲惨な結果に終わったようだけど。。。

もうひとつ、昨夜感動したのは、やっぱり「おかめ納豆」うまい!!である。
ある冊子の説明やニュースステーションでの納豆講座の話に惹かれて、
時々食べてた納豆をほぼ毎日に切り換えてから3カ月くらいになるが、
そうするようになってから、スーパーで78円とか100円とかのものばかり買うようにしていた。
ずつと前から四角いパック3連のおかめ納豆のファンだったのに、節約の意味で諦めていた。
けれども、3日くらい前に掟を破って久々に買ってみたちょっと高いおかめ納豆を食べてみると、
苦みもなく、硬さもほどよい柔らかさで、他にくらべて抜群にうまいのである。
同じ食べるなら、やっぱりうまい方を食べないと損である。

久々に日誌のページに来てみたら、10日以上も書かずに放っておいたことになる。
こんなたわいもないことまで書けるのは、やっと一息つける生活に戻ったからである。



2002年04月08日(月) 心震わせる曲、を反省す

昨夜書いたものは、やっぱりどうもすっきりしない。
なぜそうなるかというと、実はいろいろな場面でかなり心を震わせていても、
高2からの数年間の間のマーラー体験が、さまざまの体験を曇らせてしまうというか、
あの感動に比べたら大したことはなかった、みたいなことになってしまうのである。

たとえば、さっき思い出したのは、エルガーのチェロ協奏曲だった。
わーーっとこちらをつかまえにやってきて泣かせてしまうほどの場面は、
第1楽章のたった2カ所である。そこはすごい熱っぽさである。
まさに、興奮のるつぼに入り込んでしまう。圧巻の水準である。
ところが、そうした大波も、案外あっけなく引いていってしまう。
何かもの足りない思いが残るし、2、3楽章まで聞いてももうそんなにおもしろくない。
それに対して、ドヴォルザークのチェロ協奏曲は、全編すばらしい。
すみずみまで聞きたくなる。第2楽章など、特に泣かされる。
けれども、エルガーのあの2カ所ほどの興奮には至らない。

小学校3年生の時に、住んでいた郡上八幡町に岐阜交響楽団が来て、
小学校の講堂で休日に無料演奏会を開いた。
母に連れられて行ったその演奏会で、あくびをかみ殺しながら、
それでも、シューベルトの「未完成」はきれいな曲だと思い、
それ以上に、ハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」のワルツがすごく印象に残った。
「未完成」は中学時代に音楽狂になってすぐに何度も聞きまくったけれど、
「仮面舞踏会」は岐阜大学管弦楽団の演奏会で1度聞けたきりで、
あ、あの時の曲だ!! というすごい衝撃とともにさらに印象づけられた。
しかしなかなか聴く機会にめぐられないまま、次に出会ったのは10年前くらいだから、
あのころから20余年後、ということになる。
名駅のヤマギワだったと思うけれど、このワルツが流れていてハッと思い出した。
その時はなぜかCDを探すことに思い至らなかったのだけれど、
しばらくして、とりあえず吹奏楽版のCDを手に入れた。
それからしばらくして、吹奏楽譜を手に入れようと、
そのCDの楽団の事務局に電話を入れ、譜面担当者に電話を入れ、
その譜面の所有者である関西学院大学の吹奏楽部に電話を入れて、
ようやく楽譜を手に入れて、高校の部活で演奏した。
さらに、オケ版の演奏CDも手に入れた。
年を経て2度も演奏したこの曲(ワルツ)は今でも好きなのだが、
メロディーは実に魅力的だけれど、オーケストレーションも実にちゃちで、
とても上位にランキングできるほどの音楽ではない。
けれども、あの小学3年生のまったく平凡な坊主に与えた印象は並々でなかったのだ。

こういう感動の名曲というものは、やっぱり羅列すべきでない。
マーラーを知る以前とその後も区別しなきゃいけない。
年代によっても違うし、その時の精神状況によっても違う。
失意の中の感動もあれば、失恋の中での感動もあれば、孤独の淵での救いもあれば、
幸福感に満たされた共感もあれば、精神と因果関係をもたない感動もある。
演奏者によっても、泣けたり泣けなかったりする。
マーラーの音楽などはその最たるものだ。



2002年04月07日(日) 心を震わせる曲

ふと思いついてX JAPAN の「CRUCIFY MY LOVE」という歌を聞いたら、
期待していた以上に心を揺さぶられ、涙してしまった。4回繰り返して聴いた。
X JAPAN の曲の中でもっとも渋い曲のひとつで、ピアノ伴奏とヴォーカルだけ、
その裏にちょっとストリングスが鳴っているだけの切々たる歌である。
歌詞も英語ばかりで、そんなものそうしっかり聞いたことも読んだこともない。
歌詞がわからなくても、このメロディーとピアノ伴奏だけで十分泣けるのだ。
名曲の多いYOSHIKI の作品の中でも、これは世界にも通用するぞ、
世界でもトップクラスだぞと太鼓判を捺してあげたいほどの名作である。

いいなぁ、、、この曲!!と感じられる曲は多い。
30年近く飽きずに聞いているリムスキーコルサコフの「シェエラザード」や、
ラフマニノフのピアノコンチェルトなどはとびきりいい曲だけど、
それでもまだ、いいなぁ、、、の範囲にとどまっている。
でも、うっとりする、とか、美しさに満ちているとか、そういう良さ以上に、
心の底から全身を揺さぶってくれるような、そういう音楽こそ生活を変えてしまうのだ。
たとえば、最初に書いた「CRUCIFY MY LOVE」にしても、初めてこれを聴いたとき、
それまでのX JAPAN の音楽に対する中途半端な好意が急上昇してしまったのである。
こういう体験が、それまでの音楽観や世界観までも変えることがあるものなのだ。

そういう体験として最初に味わったどでかい体験はベートーヴェンの第九だった。
これについては、「音楽」コーナーの「第九」に書いてある。
それから、さっきあれこれ思い出してみたのだけれど、
思い出したそばから忘れそうなので、ちょっと書き留めてみる。

・マーラー 交響曲第2番「復活」 第1、4、5楽章
・マーラー 「大地の歌」 第1、6楽章
・マーラー 交響曲第9番 第1、4楽章
・マーラー 交響曲第5番 第2、4楽章
・マーラー 交響曲第3番 第6楽章
・マーラー 交響曲第6番「悲劇的」 第3楽章
・ブラームス 交響曲第1番 第1、4楽章
・ブラームス ピアノ協奏曲第2番 第1楽章
・ワーグナー 楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」
・プッチーニ 歌劇「トスカ」
・プッチーニ 歌劇「ボエーム」の1番最後
・プッチーニ 歌劇「トゥーランドット」第1幕

あれ? もう出て来なくなったぞ。。。
今挙げたのは、あまりの高揚感や驚くべき展開のために、
聞いているうちにまったく全身骨抜きにされてしまった曲である。
たとえば、ブラームスの交響曲だって、第2番が1番好きだった時期もあるし、
第4番が1番好きかもしれないとも思う。
第3番の第3楽章もとびきり好きな曲のひとつではある。
マーラーの次に好きな作曲家はブラームスか、と問われても、そうとは言いがたい。
バッハにもラヴェルにも、またほとんど無名といっていいカンプラにも、
いろいろな作曲家の作品に、上記と紙一重のような体験があるのである。
マーラーを挙げ始めたら、評価が厳しくなってしまったかもしれない。
とにかく上に挙げたのは、すばらしくいい曲と言いたい以上に、
全身を震わせられた体験が生々しく思い出される曲である。



2002年04月06日(土) YOSHIKI が復活する?(3)

インタビューの続きである。
hide の死後はマスコミを避け、L.A.に隠棲していた。
仮に音楽を続けるようなことがあっても、裏方に徹しようと思った。
作曲は、生むのはたいへんだけど、作ったものに助けられるような関係なので、
もともと発売目的とは関係なしに、日記を書くようにして書き留めていた。
転機となったのが天皇在位10周年奉祝曲「アニヴァーサリー」を手がけたことで、
10年間のいろいろな思いも込めて曲を書き、演奏した。
  (・・・う〜ん、何とかこの曲聞きたいものだ)
その時、聞こえてきた歓声にxのコンサートが甦って、驚いた。
それから、ファンレターにも励まされるようになった。
1番驚いたのは、解散後に知ってファンになったと言う外国からの手紙だった。
自分としてはいつも、消耗品じゃない音楽、世代・国境を越えて生きる音楽という
理想を持っていて、何言ってんだ、と人から言われるけど。。。
それに、いつまでも待ってます、とか、おばあちゃんになってもファンでいます、
というようなファンレターも届く。
そうして、自分の中にあるメロディーをどんどん書き留めて、70曲くらいになった。
この秋に、プロジェクト第1弾を発表しようと予定している。
X JAPAN =人生だったし、これからの活動はその延長線上だとやっと思えるようになった。
せっかく生きるんだったら、とことん生きようみたいな気持ちに変わってきた。
未来によって過去も変えられるんじゃないか、と。。。

・・・とまぁ、いろんなことにほっとしながら、この話を聞いていたわけである。
折しも、きょう昼前に、昨日駅前駐車場に置いた車を取り行こうと思ったときに、
一昨日注文した「YOSHIKI presents Eternal Melody」のCDが入ったという
連絡が来たので、各務原まで大回りして受け取りに行った。
ロンドンフィルのスタッフが編曲し、ロンドンフィルが演奏しているCDである。
(ロンドンフィルにしてみれば、単なる商売なんだろうけど、、、)
こうして聞いてみると、この編曲ではBGMにしにくいのが残念だけど、
やっぱりいいメロディーを書いているんだなぁ、と改めて深く感心する。



2002年04月05日(金) YOSHIKI が復活する?(2)

YOSHIKI がテレビ画面で話し始めたとき、その軽快な声と語り口に拍子抜けした。
もっとぼんやりした声で、物思わしげにぽつりぽつり話すような予感がしていたので。
でも、もしそうだったら、だんだんイライラしたかもしれない。
聞き手の問いかけに素直に反応しつつ、できるだけ忠実に答えようとする姿を見て、
かつて神秘的でしかなかった霧が晴れて行くように、安心感を抱いたのである。

そして、さっそく飛び出した話がこういう話だった。
「僕、曲作るのは早いんですよ。レコーディングは遅いんですよ」
ピアノを使うことはあるけれど、ほとんど楽器は使わないで、譜面だけで書く。
「古い体質っていうか、クラッシックから来てるんで・・」
・・やっぱりそうだったんだ!! 
書きながらイメージができている。レコーディングは妥協の作業みたいなもんで、
「こんなはずじゃない、こんなはずじゃなかった、みたいな・・」
わっっかるなぁ、この気持ち!! ・・・なんて、生意気なこと言っちゃいけない。
私が、編曲したものと実際に出てきたものとのギャップを感じるのと、
彼が感じるギャップとはレベルが違うのだから。。。

幼稚園時代からずっと馴染みだったToshi の脱退について、彼はこう言う。
「僕がいけなかった、と思ったんですよ」
レコーディングに際して、自分の中に理想の声とか音とかいうものがある。
かすれぐあいにまでイメージとか表情がある。
Toshi にもこうしたいというものがあったかもしれないのに、
こうじゃない、こうしてほしいと、強く彼に押しつけていた。
彼自身よりも彼の声について知っていたと思う。でも、
Toshi を道具のように扱っていたかもしれないと思う。。。

私は、X JAPAN の解散の理由を、メンバーの中に、
YOSHIKI の呪縛から解き放たれたい、
YOSHIKI なしでも自分の力だけでもやれる自分を証明したい、
と考える者が現れたためだと想像していた。
そして、その代表がToshi なんだろうと思っていた。
ところが、彼らは結局自分だけではX以上の音楽ができないことを思い知らされて、
やがてこのグループがが復活するに違いないと思っていたのだ。
(ところが、Hide が謎の自殺を遂げてしまって、復活の望みは断たれた)
Toshi の脱退についてのYOSHIKI の告白を聞いて、実に納得してしまった。
私の想像は、それほど細かくはなかったけれど、大筋では当たっていたわけだ。

演奏をまとめる立場にある者は、常にこのようなジレンマを抱えているのである。
全体としていい演奏にするために、やはりある程度のイメージを抱いている。
すると、それはそれでもいいけれど、こうした方がもっと生きる、という
欲が生じ、それを演奏者に強く要求することになる。
それは、その奏者の個性を損なうことになるかもしれないのに、
その奏者の主体性を軽視して、こちらの要求を受け入れてもらうことにもなる。
それは、時にたいへんつらい難題にもなるのである。。。  (つづく)



2002年04月04日(木) めぐり合わせ、さまざま。。

きょうは午前中の遅い時間の出勤になったのだが、
走る妨げになる車がほとんど前に現れなかった。
現れたと思うと、すぐに別の道に去ってくれたり、
道の端に寄って、2、3台の後続車を先に行かせたりするような車もあった。
平常の遅刻しそうな朝など、この逆の災難に見舞われることが多い。
のろのろ運転を避けても避けても、次々に現れ、時には強引に割り込んできたりもする。
今朝は、急いでいるわけでもないのに、そういう車にも煩わされず、
信号のつながりも実によくて、淡々と職場に着くことができた。

遅い昼食をとろうとして、どこもランチタイムは終わっていることだし、
できるだけ早く仕事に戻れるよう、吉野屋に車を走らせた。
この時も、さーーっと着いたのだが、きょうから250円期間に入っていたのだった。
まぁ、思いがけない、ちょっとだけ得、というわけであった。

4日前からちょっとずつ進めてきた大仕事が全部終わって、きれいに片づけて、
実に気分が良く、次の仕事をしようと思って車に道具を取りにいったとき、
校舎のドアを開け、開けたときはすんなり開いてそのまま出ようとしたら、
突風にドアが勢いよく押し戻されて、からだ全体を打ちつけた。
その時、ズボンの左ポケットに激しい衝撃があった。
ドアの縦長の取っ手が当たったらしいが、からだには何も痛みがないのに、
ポケットに入れていたケータイのauマークのところに穴があいてしまった。
ケータイが腰骨あたりを守ってくれたようなものだが、
そのケータイの外観が気に入っていただけに、実に痛い思い。。。
実に恨めしい風である。
でも、今回のケータイは折りたたみ型で、機能に影響なく済んだようだが、
前の機種だったら、液晶画面が割れるか、ボタンのどこかを損傷していたに違いない。
いったい、何が悲劇で何が幸いかわからない。

4時ごろ帰ろうとしたら、転勤するA氏が、やっと最後の仕事が終わった、
煙草1本恵んで、と言って入ってきた。
それで30分ほど、あれこれ話し込んでしまった。
その間に、各務原のいつも行くCD屋から電話が入った。
一昨日注文した「利家とまつ」のサントラが入ったという電話だった。
帰路の車の中で、X JAPAN の「ART OF LIFE」を聞いているうちに、
昨夜のYOSHIKI のインタビュー番組の中に、天皇在位10周年奉祝の式典で
YOSHIKI が作曲し演奏したとかいうピアノ協奏曲の話があったのを思い出して、
CD屋で、その曲のCDがあるのかどうか聞いてみようと思いついた。

店で聞いてみたら、検索する機械を使って検索してくれて、
それがないのはわかったのだけれど、その検索結果の中に、
「Eternal Melody」というのがあって、即座に「これほしい。注文して」と頼んだ。
これは、X JAPAN の名曲のオーケストラヴァージョンである。
2月にHPで探してみたら、廃盤となっていて、
その後、中古CD屋に行くたびに探しても見つからなかったものである。
当分見つからないな、と思っていたのに、思いがけずそこで見つかったのである。
廃盤には「廃」の字がついているのに、それにはついていない。
「廃盤だとばっかり思っていたのに、、」と言うと、検索していた店員が、
「旧盤の製品番号がここに出てるから、再発売じゃないですか?」と言った。

人生は期待していても起こらないことも多いけれど、
思いもしなかったことが起こったりもする。
占いなどはほとんど信じないし、・・だからいい1日になるとか、
・・だからきょうはろくなことがなさそうだなどという考えは消し去る習慣だけど、
人の生活というのはホントにわかんないんだぞ、悲喜交々だぞ、
一寸先は誰にもわかんないんだぞ、という思いを強くした1日であった。
その仕上げは、巨人の連夜の延長戦勝利でもあった。



2002年04月03日(水) YOSHIKI が復活する?(1)

X JAPAN を聞くようになったのは、たぶん10年前か11年前だ。
その年から、卒業式で吹奏楽部が卒業生の入・退場時の演奏をすることになった。
入場の曲を何にしようかと生徒に相談したら、Xの「Say Anything」と言う生徒がいた。
その時私はまだそのバンドのことをよく知らなくて、
男のクセに厚化粧してカラフルな髪の色にして、見た目も刺激的に、
そして音楽も刺激的なやかましい演奏をして熱狂でごまかしているバンドだと思っていた。
でも、その「Say Anything」はバラード系なんだと言う。
とにかくその生徒にCDを借りて聞いてみたら、心動いてしまったのである。
とにかく、最初心洗われるような(月並みな音楽という感じもしたけれど)
ストリングスの前奏で始まり、ピアノ伴奏でのボーカルに入り、
ドラムスに導かれてロックの音楽に入って行くが、なかなかきれいな曲である。
次に、その生徒がロックバンド用のスコアを持ってきたので、編曲を始めた。
編曲といっても、そのスコアから吹奏楽の各楽器に音符を割り当てるだけである。

それからX JAPAN のバラードの新譜を楽しみにするようになった。
「Tears」「Longing〜途切れたメロディー」「Forever Love」も
発表されるとその年には編曲して、卒業式の入場曲にし、
そのメロディーを演奏して楽しんだものだ。

で、このリーダーのYOSHIKI というのは、いったいどういう奴だ、
という疑問が、さまざまに湧き出てくるわけである。
いろいろ曲を聴いていると、それはみんなロックに分類される音楽なのに、
クラッシックを勉強してきたとしか思われない。
けれども、どう見てもあの風貌からはそれが確信できないのである。
ピアノも確かにうまいけど、ドラムが実にうまい、
そしてあの塗りたくった顔と、ちょっと締まりのないような頼りなげな顔。。。
強烈な主張を持っていそうで、それほどでもないような中途半端な印象。。。
趣味的に、クラッシック情緒を取り入れているだけかなと、
しばらくはその程度の解釈で済ませていたのだが、
9年前に発売された「ART OF LIFE」を聞き直してみると、
ロック一辺倒の音楽家が作れるような交響詩とはとても思われない。
さらに、6年前のアルバム「DAHLIA」に至って、ますますただ者でないと。。。
このアルバムのストリングス伴奏のみで構成した「Forever Love」もすごいが、
ピアノ伴奏とボーカルの「CRUCIFY MY LOVE」は、おそらくYOSHIKI の最高傑作、
世界にも通用する名曲である。
アップテンポのいわゆるロック調の「DAHLIA」「Rusty Nail」など聞いても、
とても生半可な音楽感性では作れないような入念な曲である。
彼は実に謎に包まれた男だった。

そのYOSHIKI が、テレビでごく普通にインタビューに答えるのをはじめて見た。
NHKの「わたしはあきらめない」という新番組の第1回に登場したのである。

(長い前置きから本題に入ったところで、明日に続く、としよう)



2002年04月02日(火) 黄色の絨毯

持ち家者であるが、実は、タイヤの置き場もままならないのである。
二世帯住宅の2、3階は我が家だが、1階は義父母の領地だからである。
最初のうちは下の庭の物置の中に入れさせてもらっていたけれど、
私のも妻のも、タイヤのサイズがだんだんと大きくなって、入らなくなった。
それで一時期、妻は冬用のタイヤを断念して、電車併用となり、
私はオールシーズンタイヤを試したり、滑り止め装着などでしのいだりしていた。
そんな期間のために、ますますタイヤの置き場はなくなってしまった。
ある時、妻が勝手にタイヤストッカーを買って裏の庭に置こうとしたら、
案の定、義父に叱られ、返品を命じられた。
自慢の庭に、美観を損ねるようなものを置くでない、というわけである。
(私は同居してから叱られたことはないけれど、妻は叱られるのである。
 娘の夫にはなかなか遠慮するけれど、自分の娘には言うべきことは言う。
 世の、嫁vs姑関係とは正反対である。婿養子という形でなく、別世帯で、
 妻の親と同居するのが1番平和なのである)

さて、いよいよまたスタッドレスタイヤに復帰しようとして、最初の置き場は部室だった。
でも、何年もそうしているわけにはいかないし、妻もスタッドレスにしたがった。
近所に月1万円程度で借りられる部屋でもあれば、いろいろ収納できて、
第2仕事部屋にもなって便利なのだが、そんなものは、ない。
近所の貸し駐車場にガレージ付きのがあったのだが、そのころはもう消滅していた。
そうして、HPで見つけたのが、「押し入れ産業」という
柳津の運送会社のコンテナ賃貸システムである。
年額8万数千円を納めて、これで丸3年利用させてもらっている。
タイヤのために、タイヤを含め、ものすごい投資をしていることになるけれど、
冬用タイヤというのは仕事上の保険のようなものなので、やむを得ない。
コンテナは、1番小さいコンテナの料金で2番目のものを貸してもらえたので、
タイヤを8つ入れてもガランガランである。
まだいくらでも入るのだが、考えてみても、他にそう入れるものもなく、
邪魔だといって廃品一時収納所なんて考えていると解約したとき困るので、
申し訳程度に、段ボール箱が2つばかり入れてあるだけだ。
もったいないけれど、タイヤの置き場さえあれば、という
切羽詰まった要求によるものなので、それで良しとしている。

毎年春休みのこの時期と、12月の試験期間中に、タイヤを引き取りに行き、
2台のタイヤを交換して、収納に行くわけである。
そこへ行くには、岐阜の街の中を通って行く方法もあるけれど、
長良川の堤防沿いにず〜〜っと墨俣まで下って行くルートもある。
もちろん、後者は信号も少なく、景色もいいので、こちらを愛用している。
岐阜から津島に行く場合でも、この道を通ると、津島へ入る大橋まで、
信号が3つか4つしかないという、驚異のルートなのである。

長良川は木曽川ほど河岸が加工してないので、川の眺めがよい。
それも、このルートの心休まる要素である。
道中に桜が散見できるばかりでなく、墨俣の桜が壮観である。
ここの交差点がかなり長い渋滞になるのだが、春はそれが苦にならない。
墨俣一夜城址から橋までの間、ずっとその壮観な眺めを楽しめるからである。

ところが、きょうはもうその桜も、「わろし」の域に入っていた。
清少納言が炭火について「白き灰がちになりてわろし」と書いたのと似た思いである。
花はかなり散ったとはいえ、まだ大半最後の命をとどめている。
けれどもこのころになると、取り残された雄しべの海老茶色が強調され始め、
葉の緑も点描画の中に混じってきて、美しくないのである。
墨俣の桜も、まだまだ壮観ではあるが、妖艶な美は失っていたのである。
それは、運送屋から職場に向かう途中での笠松競馬場周辺でも同じだった。
昨日ときょうが暖かすぎた、いや、きょうは6月並みに暑いほどだった、
その異常な気候が、桜の命を極度に縮めてしまったのである。

その代わり目を引いたのが、長良川堤の壁面の、黄色い絨毯である。
実に鮮やかな黄色い絨毯である。
「いちめんの菜の花 いちめんの・・・」なんて詩も思い出す。
でも、、、菜の、、花、、?
去年の春も、一昨年の春も、こんな絨毯が広がっていた印象がない。
この花はいったい何だろう、、、??(私は植物にはまったく疎い)。
四谷の桜に興を添えていたレンギョウとも違うし、
鼻炎に悩まされていたころ忌まわしかったセイタカアワダチソウでもない。
墨俣での20分近い渋滞の間、助手席から手を伸ばせば摘み取れるくらいの距離で、
じっくり観察した結果、これはどう見ても菜の花ではないか、と判断した。
花のつき具合、茎から短いヒョロッ、ヒョロッがでているようす、、、
どう見てもこれは、小学校の時に観察した菜の花の姿に似ている。
菜の花?? 菜の花の通常の盛りって、もうちょっと後じゃなかったっけ?
異常とも言いたくなるほどの暖春が、桜だけでなく、菜の花の運命まで変えたらしい。
それにしても、は〜〜〜っと感動できる黄色い風景だった。。。

明日の朝もこの光景を楽しめるわけである。
きょう交換したタイヤを収納に行かなければならないから。。。
こういう眺めも、もったいない出費の、思いがけない〈おまけ〉なのである。



2002年04月01日(月) 桜景色のBGM

韻文苦手の私にも、いくらかは好きな和歌・短歌・俳句があるように、
ほんのいくつか、文句なしに好きな詩はあるのである。
桜を眺めているときには、時折、無意識に、心の奥で、
三好達治の「甃のうへ」の流れるような断片が響いていたりする。
それが、桜のある風景に奥行きをもたらしているのかもしれない。


あはれ花びらながれ、
をみなごに花びらながれ、
をみなごしめやかに語らひあゆみ、
うららかの足音空にながれ、
をりふしにひとみをあげて、
かげりなきみ寺の春をすぎゆくなり。
み寺の甍みどりにうるほひ、
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば、
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ。


・・・こうして改めて書いてみると、
何というリズム感、何という美しい響き、何という映像美であろうか。。。

そういえば、この三好達治には「雪」というたった2行の詩もある。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

この限りない静かさ、無限の空間性、そして、限りないやさしさを、
たった2行の何の変哲もない言葉で表現しうるほどの詩人である。


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