TENSEI塵語

2002年02月23日(土) 脳の仕組みへの興味

大学時代、1年次に一般教養自然科学で数学を選んだら、
旧課程の我々はぜんぜん触れてないのに、新課程から導入された「行列」で、
すでに習っていることを前提とした授業に挫折して、放棄してしまった。
2年次に生物をとったら、これが脳細胞のシナプスの話で、実におもしろかった。
1年次に数学をクリアしていたら、この話は聞けなかったわけだから、
何が幸いするかわからないものである。
単位を落とすというのは罪悪のように見なされがちだが、必ずしもそうではない。

この世は、本当に不思議だらけだけど、生物界も不思議に満ちている。
きょうの昼も、家族で昆虫の話になり、やがてテントウ虫の点の数の話になった。
虫に数の観念はないはずなのだが、あれはあれで仲間を識別する信号になっている。
しかし不思議なのは、そのように外見までもが進化してしまうことだ。
人間1種の生態を見ても、数え切れないほどの不思議に包まれている。
そのもっとも不可思議な部分が、脳なのだ。

大学で聞かされたシナプスの話は、記憶とか忘却を理解する上でたいへん役立った。
それに刺激されて、2冊ばかりの本を買い求めたけれど、
あの講義ほどのわかりやすさや、発展的な見解は得られなかった。
NHKの「驚異の人体」シリーズの脳の話は、より視覚的にわかりやすかったけれど、
あの一般教養の授業以上のものはもたらしてくれなかった。

今朝読んだ橋本さんのHPの日記は、その点とてもおもしろかった。

> もっとも、ここに少々例外があって、たとえば日本人の脳は、
> いまだに左脳に右脳的な非言語的機能が残っているらしい。
> たとえば私たち日本人は、虫の音を左脳で聞く。
> 泣き声や笑い声、風の音、せせらぎの音、
> こうしたものを左脳で聞いているのは珍しくて、
> 欧米人のみならず、中国人や韓国の人とも違っているという。

これ、日本語論や日本文化論にも発展する問題ではないか。



2002年02月22日(金) 雑記

せっかくの指定休だったが、あっという間に。。。

午前中は、レンタルの仮説ステージについて調べて終わった。
定演の時に、琴の奏者のための舞台を特設したい、
安上がりな手としては、学校の部室の机をいくつか運んで、
その上に板をのせて布をかぶせる、なんてことまで考えたけれど、
やはり1メートルくらいの高さは欲しいので、HP検索してみたのである。
いろいろ調べて、電話で問い合わせたりしているうちに、3時間近くかかってしまった。

午後は、シンセとアンプをつなぐケーブルを手に入れるのにあくせく。。。
結論は実に簡単で、エレキギターで使うようなケーブルでよかったのに、
大変な勘違いをしていたために、よけいな時間と出費をしてしまった。
アンプはステレオプラグだろうと思い込んでいたので、
一方はステレオ、一方は二またに分かれた接続コードを探したのだった。
最初、楽器屋に行って、そういうものが見当たらなかったので、
ヤマダ電気に行って、あれこれ考えながら、ミニプラグのそのタイプのコードと、
ミニプラグの先にはめる太いプラグをそれぞれ分買って帰って、試してみた。
音は出た。けれども、最大音にしても室内でちょうどいいくらいの音しか出ない。
これではとてもホールでは使えない。
で、その現象が、モノラル端子にステレオプラグをさした時と似ているので、
はたと勘違いに気づき、再び楽器屋に行って、いつもたくさんかかっている
モノラルのケーブルを買ったのだった。
とにかく、ムダの多い1日だった。

しかし、その間に床屋にも行けたし、食料品の買い物も済ませた。
レジを待っていたら、「週間テレビガイド」が目に入って、
表紙が「プリティガール」の3女優だった。
もう1種類の同じ目的の雑誌の表紙も、「プリティガール」の主役だった。
今ひとつ地味な感じのドラマだと思っていたので、
こうしてクローズアップされているのが意外だった。
しかし、先週と今週の展開は、さわやかな軽いメルヘンのつもりで見ていたのに、
とたんに、陰謀と裏切りによって深刻な様相になっている。
主役の花も、明るい希望だけではやっていけず、悩む場面も増えてきた。
ますます、見るのをやめられない状況になってきているのは確かである。

昼のラーメン屋とヤマダ電気で、偶然、フィギュアスケートの観戦ができた。 
ラーメン屋で席に落ち着いたときに、ちょうど村主の演技が始まって目を引きつけられて、
それ以後、目が離せない状態になったのだが、
電気屋に移動して、ケーブルを探している合間に見たヒューズの演技は圧巻だった。
何の予備知識もなく、たまたまテレビに目を向けたら、
その見えている演技に目を奪われてしまうのだから、
名演というのはホントに卓越した水準のものなのである。
夜、NHKの特集で見直したけれど、ヒューズが得点を見た瞬間に、
かん高い歓声をあげた場面が何とも印象的だ。
村主の演技はやっぱりいいけれど、脚を後ろに高くあげて前傾姿勢の片足で滑るところ、
こういうところがもっと長く優雅にできるようになるともっといい印象になるのだろう。

朝刊の「声」欄に、日本選手の低迷を云々している発言があったけれども、
別に戦争に出かけているわけでないのだから、ニッポン、ニッポンと騒ぐことはない。
代表選手を送り出すにあたっては、国は費用を出しているかもしれないけれど、
それはオリンピックから見放されないためにそうしているだけで、
だからといって、「お国のために闘ってこい」などと言ってはいけない。
もしそうだとしたら、トレーニング段階から多額の援助をすべきである。
でも、そうすべきであるとも思わない。
スポーツにしろ何にしろ、そもそも試合とか勝負とかいうものは、
いや、そもそも「がんばる」ということは、たいていの場合自分自身との闘いである。



2002年02月15日(金) 福島千晴の歌手デビューに思う

きょうは予餞会だった。吹奏楽の出番と放送管理のため、バタバタしどおしである。
でも、吹奏楽の仕事も、かつてに比べれば何分の一かで楽になっているし、
生徒会の担当だったころからずっと舞台裏の仕事をしているけれども、
出演する生徒たちやスタッフの生徒たちとごちゃごちゃやっているのは、
授業よりもうんと楽しいものである。
思えば、自身の中・高時代も、こうして舞台裏にいることの方が多かった。
こういう場所の楽しみを覚えないと、学校生活のおもしろみは半減するに違いない。

さて、きょうの予餞会のプログラムの中には、
1月23日についに歌手デビューした福島千晴のステージも約20分あった。
ノーギャラサービスにもかかわらず、マネージャーの主張で、
音響スタッフを連れてアンプやミキシング装置をセッティングしての
手の込んだステージである。
昨夜は、このセッティングにつきあって遅くなったのである。

彼女は5年前に私が担任したクラスの生徒だった。
入学式で「誓いの言葉」を読み上げる役に選ばれたのは成績のためだが、
同じ理由で、とりあえずクラスの室長もやってもらった。
文化祭でも自らアイデアを出して、優秀作品をクラスで作り上げた。
翌年、私が生徒会主任になって担任を外れた年には生徒会長をやっていた。
1年生の時から、有志出演はそのころはまだなかったにもかかわらず、
予餞会に出演させた。生徒会執行部代表ということで。。。
「お前なら歌ってもいい。歌え」と言って、承諾させた。

最初驚いたのは、入学後1週間ほどで行われた校外合宿のバスの中だった。
バスガイドが「何かみんなでやって行きたいこと、ありますか〜」などと
よけいなことを生徒に問いかける。
すると、あのころはたいてい、カラオケ〜〜、となってしまうのだった。
私はカラオケを歌うのも聞くのも、忌み嫌っていた。
歌うのが嫌いなのは、私の声では絶対音域が合わないからであり、
聞くのが嫌いなのは、下手な歌を聞かされるその暴力性のためだった。
店やバスの中でむりやり聞かされるのはたまったもんじゃない、
そういうのにはもううんざりしきっていた。

その時も、予想される展開に、早々と睡眠モードに入り、
ガイドの説明から問いかけ、そしてカラオケに決まる過程が、
睡眠にだんだん近づきながら、我関せずのまま、ただ聞こえていた。
ところが、最初に歌い始めた福島千晴の歌で、ぱっと起こされてしまったのである。
それまでにも、この子の歌味があるな、とか、なかなかうまい、というのはあったけど、
それとはまったく較べものにならないうまさを感じたのである。
「津軽海峡冬景色」だったと思うが、メロディーによって3、4種類の声色が聞こえる。
ただカラオケを楽しんでいるとは思えないほどの歌いっぷりだったのである。
そのあと、3、4人が歌ったけれど、幸いにもかえって盛り上がらなくなった。
トップバッターがあまりにも意表を突いたので、他の連中が歌いづらくなったのだ。
SAの休憩の時に何人かに聞いてみたら、「何これ、と思っちゃったよね」などと、
やはりみんな一様に感嘆していた。

それから自己紹介や面談によって、子どものころから歌手志望で、
歌のレッスンに通い、いろいろな大会に出て入賞していることがわかった。
母親とも話してみると、母親もまた、それに熱心であることがわかった。
私は、プロの歌手というものは、歌がうまいだけでもダメで、
さまざまな要素を求められるから難しいだろうと思いながら、
応援したし、オリコンに勤める友人にも相談したりした。
いくら難しい夢でも、夢というものは、同じ挫折するのでも、
挑戦しないで挫折するよりは、挑戦した上で挫折した方がいいし、
挑戦しない限りいつまでたっても実現の希望は生じないからである。

デビューすると聞いたときには驚いたし、ホントにいいのか、などと危惧もしたけれど、
どんなに小さいデビューであれ、母娘の長年の夢を実現した事実は、やはり祝福したい。
きょう、デビューCDを5枚買ってやった。
市吹の長老たちに、注目してやってね、いいと思ったらお仲間にも聞かせてやってね、
と言いながら、配ってやるつもりである。
このCDは、悪くない、なかなかいい。だから、迷惑にはなるまい。

彼女のプロになるための欠点のひとつは、まじめで硬い、というところなのだが、
そうだったからこそ、かえって応援してやりたくもなるのである。
昨日、喫煙室でも話題になったのだが、マネージャーの言葉の中に、
「母校に呼ばれて歌う、なんてことはあまり例のないことだから」というのが
あったそうで、それを聞いて私は、「たいていのタレントは、
母校でろくなことしてないからじゃないの」と言って同室者に笑ってもらっていた。
・・・心配なのは、硬さがデビューしたての歌にも表れていることだ。
あのころのような、柔軟な声色は聞けない。その点は残念である。



2002年02月14日(木) 久々に超多忙感覚

今週はやったらと忙しい!!
出張の影響もあって、授業も変につまっているし、
とにかく、学校行事前は、吹奏楽と放送準備のために何かと時間をとられるのである。
きょうは久々に7時半に帰路についた。
それまで外より寒い(ような気がする)体育館でバタバタしていて、
職員室に戻ると、誰もいなくて、ストーブも消えて暖かさには迎えられなかった。
みんな帰ったかと思ったら、明日、急にPTA役員会を開くことになった
総務主任が入ってきて、電話をかけまくり始めた。

しかし、3年前までのことを思うと、7時半なんて早いものだったのだ。
7時ごろ帰るのが普通で、行事の直前などは9時過ぎるのが当たり前だった。
生徒会の係だったので、1年のうち1、2カ月はシーズンオフはあるものの、
いつも何かしら調整したり企画したり、生徒を集めたりしていた。
その上、吹奏楽部も大人数で盛んなうちだったから、6時過ぎまで練習していた。
職場で休みなく仕事しても、ぜんぜん足りなくて、家でも夜中まで仕事。
もちろん、そうまでしなくても、適当にしておけば仕事は作らずにすむのだが。。。
今は部活は廃れて簡略活動だし、図書の係だし、別天地のような生活が続いている。
(図書係でも放送関係も担当しているので、行事前は生徒会とともに仕事するのである)
慣れというものは恐ろしい。
今夜、8時ごろ車を走らせながら、ひゃー、こんな時間、と悲鳴をあげたくなった。
かつてはそれが日常茶飯事だったのに。。。
もちろん、娘に夕飯の用意を指示しておいたから、悠々と居残りしてたのである。

体育館での仕事がようやく終わって、職員室に戻ると誰もいなくて火も消えている。
この時の淋しさは、経験した者にしかわからないものである。
一緒に残れ、という思いでも、何で自分だけ、という思いでもない。
無理につき合って残っている人がいるなら、そんな必要ないのに悪いな、と思うのだ。
そうではなくて、とにかく無条件に、ぽかっと淋しいのである。
何ともいえない気分に襲われるのである。



2002年02月10日(日) 「わくわくコンサート」の1日

きょうは市吹の行事日だった。
市の音楽関係の団体が集まって、2時間余のコンサートをやったのだが、
市吹には、50人弱の合唱団(それでも3団体の合同である)との合同演奏と、
民謡サークルとの合同演奏が割り当てられていた。どちらもなかなかの難題である。
合唱との合同演奏は不思議でないけれど、人数が少なすぎる。
民謡との合同演奏は、どのようにやるのがいいか、去年の11月から今年の初めまで、
もう途方に暮れるほど悩まされたのである。
苦肉の策で、「日本縦断民謡まつり」というポップスアレンジされたメドレーを
提案したら、その中のわりと原曲に近い形で編曲されている
「ドンパン節」と「金比羅船船」を、三味線弾いたり唄ったり踊ったりで
一緒にやってもらえることになったのである。

以下は市吹の活動日誌に書いたものである。
関係者以外にはわからない部分も多いだろうけれど、
悪戦苦闘の1日だった雰囲気だけはわかってもらえるだろう。
念のため書いておくと、このホールは一般の音楽ホールとは違って、
客席は格納式になっている。
1度だけ客席が出てくる様子を見たことがあるけれど、
電動で床板が出てきて、そこに段差ができ、椅子がバタバタと起き上がって客席ができる。
感嘆の声が挙がるほど壮観な眺めである。
また、「あの日聞いた歌」という曲は、かつての文部省唱歌(「赤とんぼ」とか
「浜辺の歌」などのような)を吹奏楽に編曲した曲で、
来月の定演でも演奏する予定の曲である。
「ハレルヤ」というのはヘンデルの曲そのままを編曲したものではなくて、
ゴスペル調にアレンジしたポップスレパートリーである。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「どきどきはらはらコンサート」である。
実際の舞台がどうなるのか、なかなかイメージがつかめない。
そういう意味では、やっぱり「わくわくコンサート」なのかもしれない。

もしも合唱の声が聞こえなかったら、団員には客席の下に入ってもらおう、と決めていた。
あの客席の下の空間には、私も落としてしまった楽譜を拾いに入ったことがあるけれど、
なかなか心ときめく神秘の空間なので、皆にも気に入ってもらえるに違いない。
聞く人たちにもおもしろいかもしれない。
どこからともなく聞こえてくると思ったら、「地下」から聞こえてくるのだから。。。
尻がムズムズしてくるかもしれないけれど。。。

さて、合唱とのリハ。
予想したとおり、公民館の講堂の時よりは多少声がよく聞こえるので、
「翼を下さい」と「Tomorrow」はこれで良しとした。
「ハレルヤ」だけ、全部のリハが終わってから再び集まってもらって調整した。
今度はマイクも用意してくれたけど、ほとんど効果がないみたいだった。
団員に吹かない部分や弱音で吹く部分を少し増やしてもらって、
何とか声の効果も発揮できる程度にはなった。
その練習をしながら、ふと、「あの日聞いた歌」にしてもらえばよかったな、
と、今ごろ思いついたってしょうがないことまで思いつく。
やっぱり市吹をステージに乗せて、合唱を前にすべきだった、
でも、合唱が下ではいけないな、長机を並べて固定して布かぶせて、
その上に乗ってもらうか、、、名案だけど会館は反対するだろうな。。。
いらんことまであれこれ思いつくのは、それだけ悪戦苦闘してるからだけれど、
配置換えなんか今さらできることではないので、あきらめて、
さあ、問題は、「ハレルヤ」の最後の部分である。
吹奏楽ももうここではメロディーを外してもにぎやかにならざるをえないし、
声の方も、それをしのぐには限界がある。
歌詞はもう「ハレルヤ」しかないし、音符も同じことのくり返しになるので、
まずは、もうここでは楽譜を見ずに歌ってもらうようお願いした。
次に手拍子をお願いした。もう、パフォーマンスの要素を入れるしかない。
ひとりの小学生の激しい抵抗にあったけれど、一瞬ひるみながらも、お願いした。

もうひとつの民謡グループとのリハ。
「ドンパン節」が始まると、三味線が舞台の一番奥にいる上にマイクが弱いらしくて
三味線の音が聞こえにくい。
いつもそれを聞きながらやっていたので不安だし、バランスも悪いので、
三味線のマイクのボリュームを上げてもらうよう頼みに舞台に行ったら、
誰に頼めばいいかわからない、それらしい人がいない、
適当に舞台袖の男の人に頼んでみたら、音響と連絡をとってくれそうな様子だったけど、
客席にもどって聞いていても、なかなか改善される様子でない、
もう1度舞台に上がって、今度はマイクを三味線に近づけてみたりした。。。
こういうことをしながら走り回っている間も、5回のくり返しを指で数えておくことは
忘れない。歌詞をちょっとは覚えておくべきだったな、と今ごろ後悔する。
マイクの問題をのぞけば、「ドンパン節」は問題なく過ぎたので、先に進んだ。
ところが「木曾節」も過ぎ、フルートソロに入っても緞帳が開かない。
「金比羅船船」の前奏とともに上げるのかな、ベストだな、と思って、
その曲に入ったけれども、歌の部分が始まっても舞台は相変わらず緞帳に隠れている。
曲を止めて「開かなーい」と叫んだら、それだけでも爆笑になる。
きょうのリハは、いろいろと笑いが多い点では、楽しいと言えるかも。。。
黒幕が舞台に入ってからも、なかなか緞帳が上がらないので見に入ったら、
ちょうどスタッフが出払っていて、マイクの用意が間に合わなかったそうで、
戻ってきた担当のスタッフと打ち合わせをしているところだった。
どこでも、団体の幹部がスタッフを兼任しているので、
団体の世話もしなきゃならず、運営もしなきゃならず、たいへんである。
しかも、時間によってスタッフ交代制をとると、ますます難しくなる。
で、リハ再開。金比羅さまの唄は始まったけれど、声が聞こえにくい。
またボリュームを上げてもらうよう頼むべきかと思ったら、
今度はみなさんマイクから離れすぎである。
全部歌い終わってからにすべきかちょっと迷ったけれど、
リハ時間もだいぶ延長しているので途中で止めてしまった。
伴奏がなくなってもみなさん一生懸命唄ってみえるので、
やっぱり途中で止めたことを非常に後悔してしまった。
お年寄りには、たいていこういうひたむきなところがある。
こういうときは、絶対途中で止めてはいけないのである。
マイクにうんと近づいて歌うようお願いして、その唄だけやり直ししてリハを終えた。

昼休み中に、金比羅さまの唄をリハの時よりもゆっくり演奏すること、
もし、緞帳がなかなか上がらなかったら、その前で曲を止めて待つことなど、
要請があった。こういう不安材料を抱えたステージにもおもしろみがあるものだ。

本番では緞帳は「木曾節」の締めくくりの全合奏の時に上がったので、
最適のタイミングだったし、「金比羅船船」をかなりゆっくり振り始めても、
団員諸君は、ぴったりとそのテンポで弾いてくれた。実に優秀である。
「ドンパン節」の三味線は相変わらず聞こえにくくて困ったけれど、
まぁ、いいアンサンブルになったのではないかと思う。
苦肉の策のジョイントだったけれど、なかなかいい趣向だったんではないだろうか。
「金比羅船船」のファンが団員の若者たちの間に続出したようだし。。。
こういう企画を通じて、みんながもっと古典芸能に親しめることも、私の願いである。

心配の多かった合唱も、本番ではリハよりも声が伸びているように感じられた。
合唱があまり聞こえない不満を観客が抱いたら、
ああいうタイミングで拍手は来ないだろうから、まあ、
ぎりぎりでクリアというところだろうか。。。
それにしても、今ごろになって、「あの日聞いた歌」の修正案を、
早く思いつかなかったことが実に悔やまれる。。。。
ああいう歌は、ママさんコーラスは得意だろうし、
子どもたちは歌う機会が少なくなっているだろうし。。。

悪戦苦闘の1日が終わって、へっとへと。。。
でも、まぁ、快い疲れ、、、かな?
黒幕は、総指揮&苦情処理でさぞかし大変だっただろう。
中高生を集めたこういう行事でも、運営側が困るのは生徒相手よりも、
親やその身内などの大人相手の方に難儀するものだから、その大変さが察せられる。

さあ、定演まで、あと練習は6回。 集中、集中。




2002年02月08日(金) 言葉の不思議

考えれば考えるほど不思議なもののひとつが、言葉というものである。
誰が言葉というものを発し始め、どうやってそれが複数の人々の共用となったのだろうか。
いったん生まれてしまえば、そこから変化・発展するのは不思議ではない。
しかし、0から何かが生まれるというのは、無限大分ほどの飛躍になる。
算数では「5−4」も「2−1」も「1−0」も答は「1」だけれど、
創造・誕生・発展、、、といった見地からすると、1と0の差は「莫大」である。
なぜ日本人の先祖は、木を「き」と呼び、水を「みづ」と呼び始めたのだろうか。
なぜかわいらしいものを見て「うつくし」と嘆じるようになったのだろう。
この不思議さは、外国語についても同じである。

物の始まりというのは実に不思議である。
生命の始まり、生物の始まりについては説明可能なようだが、
言葉の始まりと同様に不思議でしょうがないのは、時間・空間の始まりである。
時間・空間の始まりと終わりに思いを馳せると、発狂しそうなほどに不思議である。
言葉の始まりというものは、それらに比べるとそれほど不思議ではない。
言語のない状態というものは決して想像できないことではないからである。
時間・空間のない状態というものを私は想像することができない。
想像力が乏しすぎるのかもしれない。

言語のない状態は想像できないものではない、と言っても、
言語のない人間関係は何とか想像し得ても、言語のない心の活動は想像しがたい。
我々の心の中では、様々なイメージとともに様々な言葉が錯綜しているではないか。
言語のない心の活動はどういうものか、という疑問は、
人間以外の生物たちの行動を観察しているときにいつも生じる難問なのである。
きっと彼らは単なる刺激−反応行為をしているだけで、精神活動などはない、
と割り切ってみても、なかなか釈然としないものである。

我々は言葉に恵まれた生活にどっぷり浸かっているので、何かと言葉を頼りにする。
物の認識に物の名前を知ることが重要な要素になっている。
どれだけ頻繁に目にしていても、「これは○○だ」「この人は○○さんだ」と
言い得るまではどことなくその存在はぼんやりしていて、
そう言い得てようやくその存在は我々と親しい関係に入るのである。
心の中のもやもやも、言葉にならぬうちは落ち着かず、時にはイライラさせる。
また反対に、心の中でははっきりとある考えがまとまっているつもりでも、
実際に文章化してみると、まったく不完全だったことを思い知らされることもある。
そうかと思うと、考えていた以上の物が文章化されたものに表れ出ることもある。
それというのも、言葉というものが単なる記号にとどまらず、
使いようによって様々な意味・イメージを伴うからである。

言葉が具体的な映像に優ることがある、、、これも考えてみれば不思議である。
分解してみれば、文字の羅列、音の羅列に過ぎない、そんなものが、
意味を持った統合体として、我々に豊かなイメージをもたらす。
こんなことを思って、ふと今思い浮かんだ文章は、遠藤周作の「沈黙」である。

「黎明のほのかな光。光はむき出しになった司祭の鶏のような首と
 鎖骨の浮いた肩にさした。司祭は両手で踏み絵をもちあげ、顔に近づけた。
 人々の多くの足に踏まれたその顔に自分の顔を押しあてたかった。
 踏み絵の中のあの人は多くの人間に踏まれたために摩滅し、
 凹んだまま司祭を悲しげな眼差しで見つめている。
 その目からはまさにひとしずく涙がこぼれそうだった」

「司祭は足をあげた。足に鈍い思い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。
 自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと
 信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。
 その時、踏むがいい、と銅板のあの人は司祭にむかって言った。
 踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。
 踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、
 お前たちの痛さを分かつため、十字架を背負ったのだ」

このイエスの姿を映像化することは決してできないだろう。
「レ・ミゼラブル」のファンティーヌの悲惨な姿だって、
映画化された映像で見るよりも、小説の方が生々しく伝わってくる。
谷崎の「刺青」がもたらしてくれる映像も、言葉の魔術である。

・・・しかし、この話題はもう別のテーマで書いた方がよさそうだ。



2002年02月05日(火) 政治への期待

きょうのランチタイムに、小泉幻想によって今の政治的難局面をのりきろう
と主張する北さんが加わった。
彼が新聞を持ってきて開いたので、昨日から特集になっている
「一からわかる小泉改革」のページを指さして、
「とてもいいイメージは持てないよ」と先手を打った。
私は小泉さんが台頭してきたときから、自民党改革どころか、
弱者に厳しくつらい政策を今まで以上に推進する者というイメージを抱いているので、
どれだけファンが増え、期待の声を聞いても、警戒心が増すばかりなのである。
最初のころは、自分の思いとは裏腹に、あの弁舌とムードだけで支持率を上げて行くので
ヒットラーになるかもしれないと危惧したほどなのである。
ところが北さんは、「じゃあ、彼以外に誰が改革できるんだ」と、
小泉さんをいいイメージで祭り上げて、いい改革をやってもらうべきだと主張する。
私には、こわくてとてもそんなことは言えない。
彼が本当に我々の望む政治をやってくれる素質を持っていればいいけれど、
そうでなければ、大衆がそういう幻想を抱くのは、
人類が飽くことなくくり返してきた過ちをまたまたくり返すことになるからである。
「自民党と官庁の改革をまず最初にやってくれれば、イメージよくなるけどさぁ。。。」
と言った。構造改革の優先順位は、まずここである。

それから北さんと橋本さんが、経済改革の展望を議論し始めたけれど、
私はもう何もいう言葉がなかった。
考えれば考えるほど、今の政治のどこに期待ができるのか、見えなくなるからである。
あまりにも長い間自民党に政権を任せてしまった結果、
政界や官界や財界の体質は、我々の計り知れないところまで硬化してしまっているのだ。
今回の、支持率激減覚悟の真紀子外相更迭事件もその表れであり、
人気取りの上手い小泉さんさえ、そういう体質には屈せざるを得ないことの表れである。
かといって、正反対の党に政権交代しても、混迷するばかりで
国民はますますうんざりするに違いない。
何年か前に、自民党以外の首相が2人ばかり出たけれど、
それまでの自民党政治と大した違いはなかった。表看板でしかなかった。

戦後のもっと早い時期から、政権はころころ変わるべきであった。
国民は政策最優先の、これをやればダメ、これをやれば支持、という、
真正直な選挙をやるべきだったのに、それができなかった。
どんな政治でも、自民党による安定政治、というイメージで応援し続けてきた。
ちょっと視点を変えれば、どこが安定なのだ、と不思議でしょうがないのだけれど、
大衆の幻想的イメージというのは蟻地獄に引きずり込まれるようなものである。

自民党信奉者の父(警察官だった)と
「自民党だけに政治を任せていたら、いつまでも助け合いの社会にはならない」
などと言って口論したことがある。
そのころ、田中角栄は一生懸命賃金水準を大幅アップしていた。
「田中角栄のおかげでお前は東京の大学に行かせてもらえた」と今でも言われる。
あの賃金急増政策は、国民にとってもすばらしい恩恵であった。
しかし、その代償はやはり何年か後に国民に押しつけられることになったのである。
高賃金に困り果てた企業は、海外に労働力を求めることになる。
高賃金ゆえに、物価も学費もそれなりに上がる。
高賃金の高齢者は、子どもの教育費の高額なときにリストラに合ったりもする。
一時は豊かになり、どんどんものを買いそろえても、
買いそろえばとりあえずは買う必要もなくなり、売れなくなる。
売れなくて儲からないのに、高賃金は支払わねばならない。
・・・とにかくやりすぎは禁物なのである。堂々巡りである。

今の政治に何が期待できるのか、ホントにわからないのである。
今より良くなるなんて期待せず、そう悲惨にしないで、と願うばかりである。
理念としてはすばらしい民主主義も、現実は、金の力を持つものが主権者なのである。
それは間違いだけれども、動かしようがわからないのである。

この問題に関しては、10余年前の自分とは別人のように無気力になってしまっている。



2002年02月03日(日) ますますホームドラマ

先週「桶狭間の奇跡」の描き方に落胆した「利家とまつ」だが、
きょうの第5話は、利久の妻つねの登場もあり、それぞれの祝言の話も盛り上がり、
ますますホームドラマの色が濃くなってきた。
私のように、最初の回から「まつのホームドラマ」として見ようと決めた者には、
ますます緊張が取れて菜々子さまらしさの表れたまつを見るのが楽しいけれど、
歴史ドラマファンや橋本さんなどは、そろそろ見切りをつけ始めるかもしれない。
私などは、まつが足立六兵衛の話を聞いて「私決めました」と言うあたりや、
つねのことを「あの女はダメです!」といってすねたような顔をしているところとか、
成政夫婦の前で「私おじゃまでしょうか、、、」と言ってみせたり、
利家が立てる予定の手柄を聞きたがる成政に「いいえ、教えませぬ」と
両手を口にあてる表情など、もう菜々子さまの魅力満載で、
録画していたビデオを巻き戻して、最初の方だけ見直したほどである。

それにしても、あれだけは歴史ドラマとしてもいい場面だった。
信長が成政の祝言に使うようにと、まつに金を授けにやって来る。
桶狭間の留守中に、勝つと信じて皆を勇気づけた褒美だという。
けれどもまつは、褒美は利家が足立六兵衛を討ってから頂戴するときっぱりいう。
果たせなかったら腹を切らねばならぬぞ、と信長がたしなめると、
果たせなかったら利家に腹を切らせるとまで言う。
「自分より弱い人の首をいくつ取ったところで、それは殺生にござりまする。
 武士は殺生をするものではござりませぬ。戦は、世のため、人のためにござりまする」
そして、利家が六兵衛を討つ宣言と、その褒美をきっぱりと要求する。
おもわず、吹いたな、まつ、、、と信長がつぶやく。
「妻も命がけにございます!」

まつの菜々子さまはいいところばかりだけれど(第1話ではちょっと硬かったけど)、
利家に今ひとつ魅力が漂ってこないのがもの足りない。
放映前のスタジオパークに唐沢クンが出てきたときには、
なかなか鷹揚な、座長らしい貫禄を感じさせられて、ドラマも楽しみだったのだが、
ドラマが始まってみると、イメージダウンの感がある。
感情をむき出しにするようなところは、利家役として大事なところだろうが、
ここではそこまで感動しなくてもいいのではないか、というようなところで、
妙に感じ入ったり泣いてみせたりしている。
表情はもうちょっと微妙でよい、画面アップの多いテレビドラマなんだから。
大げさに感じられてしまうと、かえって演技の小ささとして印象づけられてしまうものだ。
利家の存在感がもうちょっと増さないと、
ますますこのドラマは歴史ドラマとしてのおもしろさを失ってしまう。

まあ、私にとってはぜんぜんかまわないことだけど。。。
最初から、「菜々まつさま物語」でしかないのだから。



2002年02月02日(土) 昨日の続き

昨日書きたかったけれど眠くて書かなかった分は昨日の分につけ足しておいた。
きょうのランチタイムに橋本さんと話していて気づいたことを加えておこう。

古語の「る」「らる」、口語の「れる」「られる」には、
自発・受身・可能・尊敬の意味がある。
この用法についての荒木さんの指摘はとてもおもしろいのである。
特に、可能の意味については「自発可能」というおもしろい論で、
なるほどと思わされる。
しかし、「私は父に死なれた」「雨に降られた」のような言い方の場合、
この受動態の行為者は誰か、という分析になると、もうこの人についていけなくなる。

「この場合はもちろん〈私〉と〈父〉、〈私〉と〈雨〉とは
 対立的に存在する何かではなく、
 あるいは〈働きかけるもの〉と〈働きかけられるもの〉という相互関係でもなく、
 〈天〉において統一されるべき、主客を越えた何かであると認識されているのである」

この気持ちはわからないでもない。
「父が死んだ」「雨が降った」と言うよりは、
「父に死なれた」「雨に降られた」と言った方が運命的な情緒を帯びる。
その代わり、この言い方は〈我が身の〉さだめということを、
つまり、自分の存在をより強調するので、決して主客未分の表れではないのである。

こういう、「受動態ならぬ受動態的表現」は、日本語の曖昧さから来ているのである。
「私は父に叱られた」「強盗に金を盗られた」という場合でも、
この「に」に「によって」などという意味を意識していない、
そういう習慣的な使い方から生じた、悪く言えば誤用である。
また、日本語は、自動詞・他動詞の区別もそれほど厳密でない。
また、「雨が降る」は印欧語では1語だろうけど、日本語では3語である。
こういう事情から生じた誤用だが、なかなかいい表現として認められてしまうのである。

それにしても、こうしていろいろ考えさせてくれる本はありがたい。
もう少し考えたいが、大急ぎで市吹に行かなければならない。



2002年02月01日(金) 主客未分化、とは?

橋本さんに教えられた、荒木博之「日本語が見えると英語も見える」を
昨日読み終わり、きょうも要所要所を読み返して、ところどころ線を引いたりした。
最近の私の読書としては、こういう読み方は珍しいのである。
久々に、こういう読み方というか、執着をしたくなる本だということである。
それは、英語を含むいわゆるインド・ヨーロッパ系言語と日本語の違いについて、
実に説得力のある用例で説明してくれているからである。
若いころ漠然と感じていたことを、明確に説明してくれているからである。
そういう意味で、この本は実におもしろい語学書なのである。

けれども、そこから文化論に話が及ぶと、ウ〜〜ンと首をかしげたくなるのである。
最も簡単な例だけ挙げると、「好きだよ」と「I love you.」の違いのごとく、
日本語では主語も目的語もない文が可能である。
「私」の代わりに「こっち」、「you」の代わりに「そっち」ということも可能で、
対象との関係よりも、単に位置関係だけの認識で言葉ができていたりする。
そういう用例を踏まえて、彼は、日本語というのは、
主客未分化の精神の中で発せられる〈モノローグ言語〉であると主張する。

確かに、日本語の方は主語や目的語を明示しな(くてもよ)い、これははっきり言える。
また、日本語の発生や発音が、英語のそれに比べて曖昧で低調なのは確かだ。
しかし、主客未分化とか、〈モノローグ〉と言ってしまうのはどうだろうか。
これは彼が印欧語系の特徴とする、主格区別、〈ダイアローグ言語〉と対比したい余りの
過度な定義、行き過ぎた規定のように思われてならないのである。
余談だが、英語は〈ダイアローグ言語〉かもしれないが、そう言うなら、
ドイツ語は〈演説言語〉、フランス語は〈呟き言語〉、スペイン語は〈論争言語〉
などと言ってもいいかもしれない。

日本語の特徴は、規則が非常に希薄な点にある。より自由なのである。
語順などというものもあってなきがごとしである。
状況と一体になって発せられるので、状況から聞き手にもわかるような要素は
省いてしまってもかまわない、という習慣を維持してきたのである。
「好きだよ」と言っても、「オレ」と「お前」が未分化なわけではない。
言わなくても明らかなことは言わないのが日本語らしさである。
それを決めるのは状況であって、「好きだよ」がふさわしい状況もあれば、
「オレ、お前のこと好きだよ」とわざわざ明示した方がふさわしい状況もある。
また、「好きだよ、お前が」と語順をひっくり返した方がふさわしい状況もある。
こういう場合にも、助詞の使い方など、実にいい加減なのも日本語の特徴である。
印欧語系も状況の中で語られることには変わりないけれど、より規則的である。

はっきりと断定できるのはここまでである。
こういう違いが出てきた遠因として、「農耕民族と遊牧民族」のような分析を
するのもいいだろうけれど(昔からかなり説得力のあるものである)、
あまり拘泥しすぎて、規定しすぎないでほしいものである。
比較文化論者の悪いクセは、対比を強調しすぎて、下手をすると
何でもかんでもその概念規定の枠に押し込めてしまうところにある。

このように、大きな疑問点もあるけれど、日本語というものを考える上で
この本がもたらしてくれる成果はたいへん多い。                    


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