TENSEI塵語

2002年01月31日(木) 「恋ノチカラ」

変な題のドラマだが、第4話まで見続けて、ますますおもしろくなる気配。

堤真一が、プライドの高い広告デザイナー貫井功太郎を演じているが、
その傲岸さが次第にとけていくようでもあり、いろいろな表情も見せ、
「なでしこ」の欧介よりも好演しているように思う。
ヒロインの本宮籐子(深津絵里)は、ほとんど無能みたいなダサイ30過ぎの女だが、
単なる直感に支えられた行き当たりばったりの決断で貫井を救って行く。
こういう兼ね合いがなかなかおもしろい。
「なでしこ」で若葉ちゃんを演じていた矢田亜希子は、
今度もまた堤真一の役、つまり貫井に恋する役柄である。
籐子の昔の恋人の妹で、同居している。かなりの信頼関係である。
たぶん、貫井をめぐる恋愛で、後半2人の間でひと騒動あるのだろう。
「なでしこ」では問題外だった矢田亜希子が、
このドラマでは頗るかわいく見えてしまうから不思議である。

物語は、貫井が自分の仕事に対する会社の干渉に嫌気がさして退職し、
木村壮吾とともに新会社を設立するところからだった。
女子事務員の必要から、人違いで、籐子をスカウトしてしまい、
籐子も退職して強引に社員として居座ってしまう。
そして、貫井は籐子を問題にせず、どちらかと言えば口論になることも多いが、
籐子の〈怪我の功名〉的な働きで、かろうじて新会社は維持されて行く。
新会社の経営難航の1番の原因は、前の会社の元上司である吉武(「なでしこ」の佐久間)
の妨害工作によるものだが、きょうの第4話は、この吉武が、表向きの顔を捨てて、
本音に帰って、この新会社の営業担当として入ってきたところで終わった。
自分も企業の手足として利用されているだけの生き方には満足できなかった。
しかし、家族を守るためには、〈冒険〉などできなかった。
ところが貫井はそれをしたので、信頼していた部下も憎悪と嫉妬の対象となる。
ムキになって貫井の新会社を潰す工作に奔走する。
けれどもそれは本音を単に裏返した、歪んだ心情表現に過ぎない。
籐子の無謀な勧誘によって、結局は心動かされてしまう。
危険な〈冒険〉に賭けてはいけない、と自己を制しながらも、
それに抗しきれないで、自分も本来向かって行きたかったところへ行く決断をする。

このドラマは、30歳の女たちの生活や心情を徹底的に調査した上で作られたという。
ドラマの中にその成果が確かに盛り込まれているし、
一般サラリーマンの心情もなかなかよく描かれていると思う。
夢や理想と現実とのギャップに苦しむ姿は、
人間が社会の中に生きている限り、永遠の課題だとも言える。



2002年01月30日(水) 巨泉と真紀子の辞任劇

きょうの大きなニュースは、大橋巨泉の議員辞職と田中真紀子の更迭だった。
どちらもあまりよくわからない。特に最近の外相関係のもめ事は今ひとつわかりにくい。

巨泉の辞任については、記者会見記事を読む限り、いいことしたな、と思った。
そもそも、参院選出馬の時点で、巨泉、堕落したんじゃないかと思っていた。
言いたい放題ずけずけものを言っていた、時には言いすぎなんじゃない?
調子に乗りすぎてない? と思うようなところはあっても、
なかなかいいこと言ってるじゃない、と思わせることも多かった人が、
どうしてこういう政党の枠の中で議員として働こうとしているのかが不可解だった。
その懸念は当たったわけで、彼はやはり良識派だったと思う。
このまま民主党の議員として続けても、何も言わせてもらえないし、
有権者への約束も果たせそうにない、と言うのである。
この言葉を信ずる限り、彼は党改革と政治改革を夢見ていたが挫折したということである。
比例代表制で当選という経緯の筋を通すなら、議員のまま脱党するわけにも行くまい。
私は最初に感じた思いのまま、これは当然の結末だと思うし、
彼が堕落していなかったことに安堵するし、この貴重な経験を踏まえて、
政界の体質について、今後どんどん忌憚なく発言してほしいと思う。
そうすれば、投票した多くの有権者の思いも浮かばれるだろう。

田中真紀子の更迭は、要するに、外務省の官僚の私利にとってはなはだ迷惑な外相を
これを機会にばっさりと抹殺しようとした結末に過ぎないように思われる。
小泉クンも、最初に予想したとおり、やっぱり単なる自民党員でしかないのである。
古い体質を引きずって抜け出すことができないのである。
パフォーマンス・演技力で多くの国民に新しい首相の誕生を錯覚させたけれども、
これで、化けの皮を剥がしつつある。
「聖域なき構造改革」なんてすばらしいスローガンを掲げながら、
やはり、官界や政界は聖域にしてしまうのである。
国民を苦しめて、改革が進んでいる、などとご満悦になっているけれど、
国民を苦しめる前に、政界・官界の構造改革が先である。
ちょっと前に、田中外相が失言だとか指輪だとか、何かミスを犯していたような
記憶があるけれど(曖昧だがメモ程度)、その時には更迭することなくかばい続けて、
どちらかというと我々から見ていい方向に動いているときに辞めさせるのだから、
政界の倫理というのは本当に奇怪なものに思われる。
夕刊に、福田康夫の言葉で「『いい外相だな』という方を選びたい」と載っているが、
「いい外相」とは外務省と喧嘩しない、言いなりになる外相なのだろう、、か。。。



2002年01月29日(火) 朝の風景

昨日の予報では夜のうちに雪が積もるかもしれないということだったが、
道路が湿っている程度で、何ということもないようだった。
駐車場に着くと、フロントガラスにうっすら積もった雪が凍りついて固まっていた。
お湯をかけてもなかなか取りきることができないほどだった。

長良川沿いの道に入ると、風景はそれまでと一変した。
この道を上流に向かって東進すると、前方にも左右にも山が連なって見える。
その山々のどれもが曇天を背景にほどよい薄化粧をしている。水墨画のような風景である。
前方には、灰色がかった雲の中に円が真っ白に光って浮かんでいる。幻想的な光である。
何やら幽玄の雰囲気に包まれて、脇見運転をしてしまいそうだった。
この川沿いの道の竹藪にはさまれたところは、きょうは大したことはなかったけれど、
大雪の時には雪を載せた竹が傾いて、重厚なアーチを作る。
目が眩むような幻想的な空間に入り込んだ思いにとらわれるところである。

朝、いい風景に出会えるのは嬉しい。
何年か前まで、今よりも遅い時間に出ても余裕があったころなど、
鵜沼から犬山に渡るライン大橋から見える犬山城の景色を見るのが毎朝の楽しみだった。
晴れた朝も雨の朝も曇った朝も霧の朝も、どんな空気の中でもそれぞれに味わいがある。
来て1、2年の間はなかなかこの職場に馴染めず、毎朝些か憂鬱だった。
けれども、木曽川の対岸から眺める犬山城の風景は毎朝の慰めだった。
時には、夕方にも対岸の駐車場に車を停めて眺めたりした。
これは鵜沼の名所なのか犬山の名所なのかと、重大問題のように考えたりもした。



2002年01月26日(土) 某牛丼屋の話

2月10日に市吹が合唱と合同演奏をやらなきゃいけない関係で、
今朝はその合唱の練習場に見学に行った。
楽譜の違いや、テンポ・表現の違いで著しいところがあるならば、
来週の合同練習の前に修正しておく方がいいので。。。
それで、午前中に岩倉まで行って昼過ぎに帰り、
夕方また市吹の練習で岩倉に行って、深夜に帰ったわけである。
それは実にめんどうなことだけれど、
あとで焦りまくるよりはうんとトクなのである。

昼過ぎの帰り道、どこで昼食をとろうかなと迷った揚げ句に、
結局吉野家に寄ることにした。
大学時代から、もう四半世紀に渡る吉野家ファンなのである。
この店が廃れては困るので、できるだけ行かねばならない。
・・・などと心配する必要は全くなかったのである。
私の前を走っていた車が2台、その店の駐車場に入った。
一方は食べる客で、一方は弁当を買って帰る客だったから、仲間ではない。
駐車場には車が並んでいた。
店の中は8割ほどの席が客で埋まっていて、弁当待ちが3人立っていた。
しばらくすると、店の入り口に立って待つ人が数人たまるようにさえなった。

安い牛丼を食べさせる店ができたために値下げを余儀なくされ、
ちょうどそのタイミングを計ったかのように狂牛病騒動が起こり、
吉野家をつぶすべく世の中が動いていたかに思われたが、
このたくましさには感心するしかないようだ。
店内の風景も、以前とはかなり違っているところがある。
家族連れや、若いカップルが増えている点である。

先週日曜日の新聞に、この吉野家のことが書かれていた。
値下げ前は客数も減っていた。
客が減るということは売り上げが減るだけでなく、
味が落ちる、800〜1200食だと1番うまい、という。
それは、ある程度の売り上げがないといい食材が得られなくなるという
意味なのだろうけど、商品の回転の問題でもあるのだろう。
以前、稀に、煮詰まって辛くなりすぎた牛丼を食べさせられたことがある。
あの時は、同じ吉野家でも、ここにはもう来ないぞ、と思ったものである。
客の入りの悪かった某ハンバーガー屋で買って食べたら、
中味が干からびているようで、やっぱりマックじゃないとダメだと思ったものだ。
そのマックは、ある程度の時間がたったら捨ててしまう、
捨てる分が最小限に抑えられるよう、状況を見て計算して指示するのが、
各店長の務めである、という新聞記事も2、3年前に読んだことがある。
こういう商売の奥の深さは、単なる消費者の想像を絶する次元のものである。
牛丼の値段を400円から280円に下げたときの試算にも驚く。
290円にすると、来客数は30%増え、利益も確保できる。
270円だと、来客数は45%増えるけれど、利益はたぶん減る。
280円だと、客数は40%増えるけれど、
仕事のやり方を抜本的に改めないと利益が出ない。
そうして、280円に決め、仕事のやり方や食材の求め方を工夫した、という。

こんな簡単な新聞記事からも、商売の奥の深さを感じさせられるし、
こういう企画を任され、決定する人の心情はどれほどのものであろうかと、
きょうはそんなことも思いながら、久々の牛丼の味を噛みしめたのであった。
 



2002年01月23日(水) 「プリティガール」

自室でもテレビを見られるようにはしたものの、めったに見ることはない。
でも、先々週、雑誌の記事をもとにいくつか新しい連ドラを物色して、
先週も見続けたのが、この「プリティガール」と明日の「恋ノチカラ」である。
(大河の「まつ物語」は、それを見逃さないために自室でテレビを見られるようにした
 のだから、他のドラマとは別格である)

「プリティガール」は、「ロンバケ」の桃ちゃんが主役をやるとどうなるのかな、
という興味だけで、先々週、途中からちょっとのぞいてみたのだった。
この途中から見た第1話がおもしろかったとは言い難いけれども、
屈託なく常に前向きに新しいアイディアを出してデパートの窮地を救って行く
ヒロインの姿には魅力を感じたので先週も見、きょうも見た。
先週は、婦人服の専門店がいくつか入っているフロアで、
異なる店の品物を着合わせて買うことができるというアイディアを
ヒロインの花(名前)が強引に進めて、客にも店員たちにも喜ばれ、
売り場全体を活気づかせるような話だった。

きょうの話は、デパートのIT化を進めようとする専務(社長の息子)が、
小手調べに、受付嬢を廃止してコンピューターによる案内機を設置する、
それに対して、花がそれに優る受付コーナーを発案するというものだった。
まず、受付嬢以外の社員を数人並べて、分野別の案内コーナーを作り、
客の目的にふさわしいデパートでの回り方や過ごし方を説明する。
普通の売り場については通常の受付嬢が、平面図に書き込みながら説明する、
その際、その売り場の途中にあるいい催しとか、
客のようす(夫婦とか、子連れとか)にふさわしい場所の紹介などもする、
説明役でない受付嬢は、場合によっては客を案内して歩く、
そうしながら、いろんな売り場の情報を集めておく、、、などなど。

花は、いわばカリスマ店員とでもいうべき役柄だろうか。
どんなところに配置されても、知恵と明るい勢いで周囲の人間たちを変えてしまう。
片平なぎさが演じる人事部長は、そこを見抜いて花を配置する。
そして、花のアイディアは、〈人間的な商売〉〈心の通う商売〉というような
共通点をもっている。
それはお客のためばかりでなく、こうして工夫すれば店員も仕事が楽しくなる、
つまり、店員自身の生活の充実ため、という意味も含んでいる。
それに加えて、きょうの物語は、リストラ阻止という点も含んでいた。

もっとも、きょうの物語の本当のテーマは、花の友人である受付嬢の
婚約問題に対して、飾らないつきあい、嘘で固めないつきあいを訴え、
その友人が自分の仕事に誇りがもてるようになる姿を描いたものである。
その大きな転換点を作るのが、花の案内システムだったに過ぎない。

その受付案内サービスは、常時、フルタイムで実現するのは、現実には難しいだろう。
ドラマだから天真爛漫に具体化して大成功をおさめられるのだ。
テレビドラマにしろ映画にしろ、こういう〈いい気な〉場面というものが
つきものなのであって、場合によっては心底ばかばかしいこともある。
けれども、作り物の効用というものもあって、
そうして、ある真理を描くことも可能なのである。
それをばかばかしいと感じるか、真理が表れていると感じるか、、、等々は、
見る人それぞれの生活によってさまざまなのである。

ここ何年か、小売店はもちろんのこと、大手スーパーやデパートも
相次いで潰れている中で、何か考えさせられるドラマである。
まぁ、仮にそれほどの収穫はなかったにしても、
稲森いずみの花が、さわやかな1時間をもたらしてくれるだけでも、いい。



2002年01月20日(日) もの足りない休日

「恋におちて」と一緒に借りてあった「ソフィーの選択」を昨夜、真夜中に見た。
収容所生活の中でぎりぎりの選択を迫られ、そんな中で生きる意味を失った女、
自分が死にそうだったときに救ってくれた男と生きること(そして死ぬこと)しか
選択できなくなった女、、、絶望を引きずりながらの楽しい生活、、、難しい役だ。
それにしても、いかにも映画らしい映画だった。
これこそが映画的手法なんだぞ、とでもいうような。。。

ところで、きょうはいったい何してたんだろう???
休日1日目はいつもこうだ(今回は1日しかないけれど)。
あ、そうだ、昼ごろはせっせと、年末年始の恋愛論議を編集していたのだった。

それから、ビデオを返しに行ったついでに、
「ソフィーの選択」の本が出ていないか、かなり時間をかけて探した。
それから、ちょっと遠くまでガソリンの補充に行った。
そして、食料品を買い込んで帰った。
そんなんで、もう6時近くになってしまう。。。

起きるのが遅いせいでもあるけれど、休日の短さというのは実に理不尽で腹立たしい。



2002年01月14日(月) 「恋におちて」を見た

前々から見たいような見たくないような映画だった。
恋愛ものが好きだということは周囲の人間に着実にバレつつあるけれど、
不倫ものとか嫁vs姑ものなどは、修羅場を過度に見せつけられる傾向があって、
見るのをためらってしまうのである。
でも、今回橋本さんの推薦があったので、信じて見ることにしたのである。
昨夜、寝る前に見た。

やはりまず、メリル・ストリーブの演技に魅せられるのである。
それに、各家庭での破局が最小限に描かれているのが実にみごとである。
そして、ヒロインにはさんざん悩み苦しませる。いい映画である。

最初のあたりにちょっと類型的なにおいを感じた。
2人とも家族のためにクリスマスプレゼントを買いあさっている。
その合間に会う友人は、不倫の恋のために家庭不和である。
当の2人は、不倫なんて思いも寄らない、なんて生活をしている。
ただし、互いの家庭の状況が微妙に描き分けられているのがいいところ。
男の方は、2人の子どもにも恵まれ、実に円満な家庭である。
女の方は、夫と2人きりで、いささか気持ちのすれ違いもある。
何かいたわり合っているような、危うい雰囲気もあるな、、、と思ってたら、
最初の子を出産後病気で亡くした痛手が夫婦関係に影響しているようである。

お互いの気持ちが深まってきたころ、それぞれの友人がけしかける。
この場面はない方がよかったな、と見ながら思ったものだった。
この映画の最大のキズのような気がする。

家庭的にはよりうまく行っているはずの男の方が身体の関係に性急で、
子どもも失い、家庭的にはちょっとテンション低いはずの女の方が
それにブレーキをかける、それでいて余計に深く苦しむあたりなど、
実に緊密な構成になっている。
男が仕事で旅立つ前に少しでも会いたいと、夫の制止を振り切って
雨の中を猛スピードで飛ばし、遮断機の下りようとする踏切を突破しようとして、
我に返って急ブレーキ、、、その後の心の葛藤の場面などはすばらしい。
「マディソン郡の橋」の信号待ちの場面に匹敵する、緊張感ある場面。
毎度のことながら、メリル・ストリーブの微妙な表情の演技には、
画面を食い入るように見つめながら感心してしまう。
この映画では、監督も、その点安心して長いカットを多用しているようだ。

・・・で、昨日、きょうと、こんなコメントを橋本さんちに書いた。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
さあ、しかし、この先2人は? なんてね、僕は考えません。
先々まで願い永久にすべてを、と願いつつも先々を考えないのが〈恋〉の本性で、
先々のことや周囲のことをあれこれ考えるのが〈理性〉の役割です。
こうしてみると、やっぱり〈恋〉は劣等生みたいですが、
だれだって、〈好き〉という感情の威力は知ってるじゃないですか。
仕事でも、趣味でも、勉強でも。。。
「好きこそものの上手なれ」という諺レベルにとどまらず、
好きなら結果なんて考えずに挑戦してみろ、とまで言うじゃないですか。
〈恋〉だけ罪悪視するのはやっぱりおかしいと思うのです。
〈恋」と〈理性〉とがうまくバランス取れれば最高ですけどね。(きょう)

理性の力が及ばないだけでなく、恋に落ちてしまうと、
どうするのが本当にいいかは、倫理的価値、愛情論的立場では
判定できなくなる、というのがtensei 流恋愛論です。
当の本人の心の中にはそれほど大きな世界が作られてしまうのに、
倫理的判断は単に「狂った心」「心の迷い」として一蹴しようとします。(昨日)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

不謹慎な意見と批判されようが、これが心の真実である。
そうじゃなくてこうであって欲しいというのは、別の次元の問題であって、
まずは、ありのままの姿を記述することだ。
その上で、どう判断するかは、生身の個人の問題だ。
他者がどれだけ罪悪だと罵る恋をしたって、それが幸か不幸かを決めるのは、
当の本人でしかない。
「ロミオとジュリエット」を喜劇めいた悲劇にしたのは、
彼らの恋が幼かったからである、などと決めつけるわけには行かない。
〈好き〉よりも〈憎い〉〈嫌い〉を絶対的価値にした
両家の稚拙な価値観が、喜劇めいた悲劇を生んだ、とは明言できるけれど。




2002年01月13日(日) 「利家とまつ」2回目を見る

きょう1日は、いったいどう過ぎてしまったのだろうか。。。
するはずだった仕事は2つともせずじまいでいる。何してたんだろう??
そういえば、午前中市吹の練習日誌を書いて、それが少し長くなったのだった。
それから、、、そうだ、昼寝したんだった、2時間ほど。
というのも、娘の学校の連絡網の電話で起こされて、睡眠に不満があったからだ。
昼寝から起きて、少し遅めの昼食をとって、しばらくして、レンタルとスーパーへ。
帰ってから、借りてきたヒット曲CDを聞いて市吹の定演で取り上げる曲を
検討した。
それから夕食の準備をして、夕食、「としまつ」を見て、
また、ベッドに入り込んでうとうとすること2時間、、、、なり。。。
何かぐたぐたしたような1日で、空白のまま過ぎたような気がしていたが、
まぁ、こうして思い出してみると、一応行動を伴っていたことはわかる。
そういえば、妻に持病のめまいが出て、容易に動けない状態だったので、
昼食後、洗濯物を干したりもしていたのだった。(家事の中でもっとも苦手な)

「としまつ」だけは、2回目のきょうも予定どおり見ることができた。
またも!!・・・泣かされてしまったのである。毎回泣かされるのだろうか。。。
「利家といっしょになるか?」とたつに問われて
「はい」と答える菜々子さまを見て、ジワッ。。。
農民たちを前に「わたくしにお任せくださりませ」と宣言するところで、ジワッ。。。
その農民の祝福を受けている姿をたつが潤んだ目で見ているのを見て、ジワッ。。。
最後の、沙汰待ちの利家を救うために信長にお願いに行くと言って、
「わたくしにお任せくださりませ」で、またもやジワッ。。。
ホントにこれ、今年の流行語大賞取れるかもしれないぞ、と思ったりもして。。。

この大河を見ていて、やたらと声をそろえて笑う談笑場面とか、
妙に力の入った演技の連続とか、相変わらずだなぁ、と思う。
そういう中に菜々子さまが登場すると、実に違和感があるのである。
あの顔も声も、完全に浮いてしまっているのである。
農民たちを率いて石投げたり、「行くぞ〜」と声かけたりなど、茶番劇になるのである。
それでも私がこのドラマに見切りをつけず、涙を伴いながら
また来週、と楽しみにしているのは、「まつ=菜々子さま」のドラマと思っているからで、
そのつもりでない人々からはかなり非難の多いドラマになっているのでは
ないだろうか。
「歴史大河ドラマ」なんて銘を打つと、それにしては頼りない感じがするけれど、
「まつの物語」と見れば、なかなかおもしろいホームドラマになるかな、と思うのである。
私はたぶん、菜々子さまのここぞという場面で涙腺が緩んでしまうように、
パブロフの犬と同じような反射行動パターンができてしまっているのだ。



2002年01月11日(金) 今週の授業

長〜〜い1週間に感じられた。身も心も慣れないからである。
しかも、大雪の影響が残って、水曜日まで朝は大渋滞の連続で、疲れた。

冬休みの橋本BBSでの意見交換の中に、勉強の意味というテーマもあって、
その影響で、久々に「正義と微笑」の一節を生徒に紹介してみようと思い、
この年の始めを、まずその話で始めることにした。
それで、この文章(読書 No3 を参照)をひらがなだけで書いてプリントにし、
それを漢字を使った文章に書き直させることにした。
それを自己添削させながら、さらに、その文章を読んで思ったことを
自由に書かせるという課題にした。

で、大変驚いたのだが、居眠りしてその課題をやらない生徒がいなかったのである。
5クラス、全員がその書き直し課題に取り組んだのである。
この言葉漢字? これどんな漢字? などと、質問したり相談したりしてやっている。
言葉に親しませようと稀にやっているパズルやクイズやクロスワードは、
多くの生徒に歓迎されているけれど、ぜんぜん取り組まない生徒も稀にいる。
今週のこの課題に全員が取り組んだのは、「ほとんどできる」レベルだからだろうか、
それとも、多少なりとも関心の持てるテーマだったからだろうか。。。

感想なり考えた内容なりについては、書いていたのは7割くらいの生徒だった。
これも予想より多くて、しかも殊勝な意見が多かった。
もちろん、その時点ではほとんど私からの説明はしない。
cultivate,culture,egoist の単語の意味を説明した程度である。
「心を耕す」意味について説明するのはその次の時間である。
その前に自分なりに考えてみる時間はやっぱり与えなければならない。
そして、その意見の多くが、多かれ少なかれ感銘を受けている印象があったとしても、
それでその子たちの生活が一変するなどと、楽観してもいけない。
私は確かにこの文章のために生活も一変した。
けれども、心の姿勢が一変しても、生活も一変させるには何ヶ月かを要した。
けれども、誰もが同じように感じ、同じように変化するわけではない。
何かの折りにふと思い出して、そういえばこんなこと言ってる人もいたなぁ、
という程度に心に残っているだけでも、それは大きな成果なのである。



2002年01月06日(日) 「利家とまつ」が始まる

昔、私の家では、夕方から就寝時間までずっとテレビがついていた。
2間しかない狭い家の中だったから、テレビは自然と目に入った。
NHKの大河ドラマなども、親が見るから自然と見ることになっていたのである。
そのうち私はテレビから離れるようになった。
父の悲願の家が建って、自分の部屋ができると、めったにテレビは見なくなった。
7年間の大学時代は、ほとんどテレビのない生活だった。
テレビを見る習慣はこうして消滅した。
結婚して、もちろん家庭らしくテレビのある生活にした。
けれども、見ようと思っていた番組を見忘れることが度重なった。
連ドラも、3週間坊主になってしまったり、最初から見忘れることが多かった。
そのうちに、どんな前評判の高いドラマでも、どうせ続かないからと、
最初から相手にしなくなった。
仕事が忙しいときが多かったので、ホントに忘れてしまうのである。
まぁ、最近は特に、たいていの連ドラはビデオになり、借りて見られるので、
わざわざ毎週時間を気にして緊張しなくても、後でまとめてみられるようになっている。

けれども、NHKの大河はそういうわけにいかない。
49回だそうである。ビデオが出ても総集編でしかない。
仮に全編販売されることがあっても、買うわけにはいかない。
「利家とまつ」はドラマに対する興味はほとんどなく、
菜々子さまを見たいだけなのであって、総集編ではダメなのである。
仮にドラマもいいとしても、それはおまけで、菜々子さまを全部見るのが目的である。
そこでそのための条件整備として、先月この自室でテレビを見られるようにしたのである。
必ず毎週見る、そして同時にビデオに撮る。自分の傍にテレビがないとダメなのである。
それでも、なでしこBBSで教えてもらった予告編はことごとく見忘れた。
きょうは何時と何時にあるんだぞ、と言い聞かせていても、
知らないうちにその時間が過ぎてしまっているのである。
実に不安な先行きを感じのだが、昨日の土曜スタジオパークも、
きょうの第1回も、しっかりと見て、ビデオに収めることができた。
とりあえずは、まずまずの滑り出しである。

それにしても、昨日のスタジオパークにインタビューのために出てきた
菜々子さまの完璧美人ぶりは、もうどこをとっても惚れ惚れせずにいられなかった。
答えて話す内容も、同じような質問であったりして答えにくそうにしても、
感心するほど言葉を選びながら、内容のある話をしている。
それは、共演者の唐沢クンも同様で、大変好感が持てた。
ちなみに、この2人の共通点として、朝ドラに出た点が挙げられて、
唐沢クンの出た「純ちゃんの応援歌」というドラマが少し紹介された。
そしたら、そこに智ちゃんが登場した。これが「ふたり」のきっかけだと思い出した。
出てきた智ちゃんを見て、あ、か、かわいい、とハッと驚いた。
(菜々子さまの直後に見ても、ぜんぜん劣らぬ異質のかわいらしさがあるのだ)
そのVTRはあっという間に終わってしまったけれど、終わったすぐに、
唐沢クンが「いやー、うちのおくさんもかわいいねー」と言った。
思わず口をついて出てきたような、大声だけどしみじみした言い方だった。
それで大爆笑になったけど、「まん丸いもんが好きなんだ」なんて弁解しながら、
もう1度「いやーかわいい」なんてくり返していた。
彼自身も心底、改めて感心したのかもしれない。
目を潤ませて照れ笑いしていた。おもしろかった。

その番組の予告編のまつを見ていたら、とにかく、かわいらしい。
こりゃ、武士の妻のイメージを刷新する、かわいい妻になりそうだと思った。
(もっとも、最近の時代劇はまったく知らないので、これが刷新かどうかは確かでない)
きょう見てみたら、途中から成長したまつとして登場するのだけれど、
ドラマの状況から見て、綺麗すぎる違和感がまず拭えないのである。
ほんの少しでいいから、この時点ではせめて陽に焼けたメークでも欲しいところである。
どこに出てきても綺麗すぎて、その点がちょっといただけなかった。
ドラマの展開も、現代のホームドラマと似たイメージがある。
NHKの大河がいつからこんな風になったかは、まったくわからない。
けれども、私は中途半端に辛気くさい昔のイメージが嫌いだったので、
時代劇らしくなくても、この方が見続けるにはありがたい。
多少ケチつけたり、注文つけたりしながらも、
まつが利家に思いを告白する場面では、さっそく泣いてしまったのであった。
第1回目から、さっそく泣かされてしまったわけである。
11回完結の連ドラでも、こんなことはなかったのである。困ったことである。

これは、今年のひとつの課題である。毎週日曜日、欠かさず見て、完全録画すること。
これが毎週日曜日のいい励みになればいいのだが。。。



2002年01月03日(木) 大雪と戯れる

昨夜から降り始めた雪が、今朝は本格的に積もっていた。
ニュースでは21センチと報道されていたが、
屋根の雪を見ると30センチくらい積もっているように見えた。
朝にはやんでやがて陽がさしてとけ始めるのが普通なのに、
昼過ぎになってもまだ降り続き、積もり続けていた。

さてさて、こうなるとやっぱりどうにもじっとしておれないのである。
降りしきる雪の中へ飛び出していって、雪と戯れたくなってしまうのである。
降る雪は童心を呼び覚ます。
子どものころは、わざと雪まみれになって遊んだものである。
まぁ、この歳になって戯れるのも何だから、せめて散歩にと、
長靴を履き、できるだけ雪の深いところへズボズボと足を突っ込みながら、
町内をぐるっと回って、河岸まで歩いてみた。
河岸から対岸を眺めると、金華山の麓の景色が点描画のように幻想的に見える。
しきりに落ちてくる雪片が、雪の帳の奥の方までヒラヒラと視線を誘う。
いつからこんな形になったのか、上流にある川原から細長く岸が伸びてきていて、
黒い川面に真っ白な図柄をくっきりと描いている。
その真っ白な川原からとつぜん真っ白な鷺が現れて、黒い川面を背景に飛んでいた。
動く水墨画のような光景をしみじみと眺めて、家に戻った。

雪だるまを作っている子供たちはいない。かまくらを作っているのを4カ所で見た。
大人が雪かきをして、その集められた雪をそのまま利用しているのだろう。
たしかに、子どもの時、雪だるまよりはかまくらの方が楽しかった。
2人くらいがやっと入れる程度のものしか作れなかったけれど、
山の笹などを刈って「秘密基地」なるものを作ったのと似た楽しみだったのだろう。
そういえば、この雪はさらさらで積もりやすいけれど、感じよく固まりやすい。
ふと、車の雪をいったん下ろしておいた方がいい、と思いついて、
義父に雪かき道具を借りて、駐車場の雪かきと車からの雪おろしを始めた。
すごい雪である。車の上の雪は40センチ以上にもなっている。
すくってはすくっては塀のところに投げつけて山を作る。
車2台分、1時間ほど雪との格闘を満喫して、思い残すことなく家の中に入った。
その雪は夜11時過ぎた今も降り続いている。明日もまた楽しみだ。
でも、明日はきっと筋肉痛に悩まされるだろう。

それにしても、明日仕事始めで通常出勤の人たちは大変だ。
昼のニュースで、空港で足止めを食い、「どうしても今日中に帰らないと」と
言っていた人たちはどうなったのだろうか。。。



2002年01月02日(水) 水の都 飛鳥京

NHKハイビジョンスペシャル「飛鳥京発掘 よみがえる水の都」の再放送を見た。
2時間にも及ぶ学術的推理解明でありながら、まったく途中飽きさせない。
下手な推理ドラマよりもよっぽど見応えがある。
いちばんの焦点は、都の北西部分に作られた巨大な池が、
都に水路をめぐらすその源であると同時に排水の末端でもあるという。
その際、池の水位が上がりそうな場合には地下水脈へと流れ込み、
池の水位が下がりそうな場合には、地下水が池に流れ込んで、
池の水位を常に保っているという点が驚異であった。
それをまた、京都大学の教授の研究室で、水槽で実験しているところがすごい。
そして、こんなことが可能なためには、当時の人々が、地下水の流れを
確実に把握していないといけないそうだ。
驚くべき知恵。。。。。
そしてまた、こういう予想仮説を超えた発掘研究成果をもとに再現された
コンピューターグラフィックがすごい。

その番組が終わると、すかさず「出雲大社の高層神殿の謎」。慌ててこれもビデオに録画。
出雲大社には、もとは30mくらいの柱の上に神殿がのっていたそうである。
その柱は、ひとつひとつが太い木を3本束ねてある。
この問題の焦点は、高さの割りに埋め込む深さが浅すぎること、
3本の大木をどのようにして束ねたか、どうやってその柱を建てたか、である。
とりわけ、2番目の柱の束ね方が驚きだった。
両端に長方形の穴をあけた3本の細長い鉄の板を鍛冶によって両端を曲線にして、
その3本をそれぞれ1辺にして、曲線部分の重なったところに釘を差し込んで打ちつける、
その釘はゆるやかな逆三角形状になっていて、打ち込むごとに
重なったところが次第に寄せられて、締めつけられるという仕組み。。。

結局、正月番組の中でもっとも心惹かれるのはたいてい毎年NHKSPの再放送である。
こういうのを生徒に見せたいな、と思うけれど、大半の生徒が早々に寝てしまうことは
ありありと予想できてしまう。



2002年01月01日(火) 元日は暇じゃない

午前中はHP&メールチェック。そして昼からは年賀状の返事書き。。。
毎年のことだが、元旦は年賀状の返事書きに一苦労する。
毎年送ってくれる人にも年末に出しておけばいいのだが、
それが卒業生だったりすると、やっぱり来てから書こうと考えてしまう。
小学校の時、担任の先生に年賀状を送ったら、その後しばらく、
こちらから出していない年にも来て、当惑した覚えがあるからである。
また、家族みんなの必要枚数を増し刷りしなければならないので、
その分だけまた忙しくなることになっている。

夕方には、「スターウォーズ ファントムメナス エピソード1」を見た。
11月の発売日に買ってあったのに、きょうやっと封を切ったのである。
アナキン・スカイウォーカー(子役)がホントにかわいく描かれている。
この健気な少年が将来ダースベーダーになるのかと思うと、哀しくなる。


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