TENSEI塵語

2001年09月30日(日) スポーツの3大ニュース

きょうは混成バンドの練習で、先週の日曜日に引き続きよく踊った。
踊った、というのは、曲の流れをあまり言葉で説明しない習慣だし、
80人近くを相手にそれを棒振りで伝えようと思うと、
どうしても身振りが大きくなってしまうのである。
力を入れて振ってはいけないのだが、明日は筋肉痛かも知れない。
しかも、練習会場校だったので、準備・片づけ・施錠によく歩いた。

その施錠の合間に、ベルリン・マラソンの経過を知りたくて事務室でテレビを見た。
15キロ地点あたりを走っていて、高橋尚子がトップ独走中だった。
それから、帰りの車の中でずっとラジオを聞いていた。
シドニーの時も、ちょうどあれは混成バンドの練習に行く途中ラジオを聞いていて、
会場校に着いたときにゴールインして、感動しながら会場に入った。
ただ走っているだけの姿をテレビで見続けていられるのも不思議だが、
ラジオで聞いていても、緊張感が伝わってくるのが不思議である。
ずっと世界新記録更新ペースで走り続けている。
けれども、アナウンサーの描写も、だんだん怪しげな雰囲気になってきた。
顔をしかめている、苦しそう、という言葉が多くなる。
ここで、がんばれがんばれと心で祈り続けてしまうのは、
ほとんど公約と言ってもいいほどの昨年からの目標を、
本当に今まさに実現しようとしている、そこに感動するからである。
あと3キロぐらいになったとき、家に着いた。すぐにテレビのスイッチを入れた。
確かに苦しそうである。まばたきが激しく、やがて首を振り始めた。
何かの拍子に転倒なんてことにでもなったら、、、という不安もよぎる。
アナウンサーがあと数百メートルと言ってからがやたらと長く思えた。
時間が刻まれるのだけがやたらと早く、無情な感じがする。
けれども、ゴールのテープが見えた。そして、彼女がテープを切ったとき、
画面右上の時間は、2時間19分44秒、世界記録を58秒上回っていた。

驚いたことに、彼女はゴール後立ち止まって、しばし何かを確認するような風だったが、
すぐに笑顔で歩き出し、そのままカメラマンにポーズ取ってみせたり、
いろんな人と言葉を交わしている。
さっきまで苦しい表情で走って、たった今偉業を成し遂げたのがウソのように、
2、3分もすると、何事もなくふつうに周囲と応対している。
座ってひと休みなんて、そんなこと思いもしてないようだ。
あの外見の中に、無類の強靱なものが満たされているのがいかにも不思議だ。

さて、一方、退任劇は長嶋監督だけでは終わらなかった。
槇原も、そして、村田、斎藤までもが、今シーズンで引退ということになった。
今季、新人の阿部をどんな状況でも使い続けたのは、
村田引退を見込んでのことだったのだ。
村田と槇原が同期だと知って、ようやく納得した。
巨人の顔だった男たちが、一挙に4人も。。。(もちろん、後続がないとは言えない)
きょうは東京ドームでの最終戦だったので、セレモニー込みの試合となった。
テレビで見たかったけど、負け試合だったのでラジオで我慢した。
セレモニーでの原の挨拶が高校生っぽくて、来年からの監督談話が不安になった。

ちなみに、昨日市吹に行く前の夕食時に、店のスポーツ新聞を4種見たけれど、
中京スポーツだけが「なぜ江川でなくて原なのか」を書いていた。
その記事によると、読売の幹部が江川のマイナスイメージのために反対しているそうだ。
今多額の借金を抱えていることもあるそうだが、それ以上に、
入団時の「空白の1日」問題がまた再燃するのを恐れているようだ。
私に言わせれば、あれはそもそもドラフト制自体が悪い、
「少年の夢と努力」を台無しにしぶっ潰すドラフト制を見直そう、
ということになるが、まぁとにかく、要するにやっぱり悪人扱いということらしい。

もうひとつは、大リーグのイチローが新人最多安打記録を更新したという。
90年間破られることのなかった記録をイチローが破ったわけである。
イチローは大リーグでもちゃんと活躍すると思っていたけれど、
始めの1、2カ月くらいは、つまずくに違いないと思っていた、
ところが、本当にシーズン通じて安定した活躍をしていた、それが驚きだ。
新記録を作っただけでなく、目下、リーグ首位打者でもある。
・・・松井も、ちょっと神経質なところがあるのではないかという疑いもあるが、
大リーグの方が本領を発揮できるのではないかと私は思っている。
それだけに、イチローが活躍すればするほど、
松井も渡米してしまうのではないかという不安を感じてしまう。



2001年09月29日(土) 長嶋監督退任劇

ウソだろぉ〜、こんなんでも辞めさせる気かよぉ〜、と、
昨日ラジオではじめて聞いたときはちょっと焦ったけれど、
きょうの新聞を読んだら、球団の意志でなく監督自身の意志らしいので、
このあたりでそろそろひと休みさせてあげたい、という思いにもなった。
とても淋しいことであるが、もう連続9年である。
ON時代からの巨人ファンとしては、王監督と長嶋監督が3年交代くらいで
やってくれると最高なのだが、なかなかそうもいかないだろう。

私の巨人戦観戦は主にラジオだけれど、
よく、「何でここでこのピッチャーなの?」と不思議に思うことがよくあった。
それで難なくしのげばいいのだけれど、それで打たれることも多かった。
信頼のおけるピッチャーが、ガタガタに崩れることもよくあった。
それを私はここ数年、ピッチングコーチのせいにしていたのだが、
「コーチと話して救援投手を決めても、別の投手の名を審判に告げてしまう。
 2軍に落とした選手の名を告げたこともあったという」
という新聞記事の一節を読んで認識を改めた。

そういう話題の特筆すべき一例として、去年の斎藤先発の試合のことが
今でも挙げられているのがおもしろい。
あれは、斎藤がようやく復帰した初登板の日で、勝ち投手目前、
9回に岡島が2アウトまで取って、あと1人のところだった。
ほとんど誰もがこのまま岡島が抑えてくれるだろうと信じていた。
ところがピッチャー交代、桑田、と告げられて、悲鳴をあげたくなった。
桑田はそのころ登板のたびに打たれっぱなしで、不調が明らかだったからだ。
その時の岡島は調子がよさそうだったので、勝つことに徹するならば交代の理由はない。
ベテラン斎藤の復帰勝利を、ベテラン桑田で締めくくるという
ドラマを演出しようとしているとしか思えなかった。
気持ちはわかるけど、それは危険だし、岡島にもいいことではないと思った。
不安は泣きたくなるほどみごとに当たり、
桑田はランナーを出した上、逆転ホームランを打たれて負けた。
その時私は珍しく斎藤のはつらつとした笑顔を見たくてTV観戦していたが、
ベンチの中の硬直し呆然とした斎藤の顔を見ていられなかった。
あの時だけはさすがに、ばかやろう、長嶋、監督辞めろ、と思ったものだった。

今となっては、腹の立った試合も何もかも、微笑ましい思い出の数々である。
要するに彼の特徴は、ドラマを意識するところにあったのだ。
個々の試合ではセオリーどおりではない意外な展開から生まれるドラマ。
優勝に向けて圧倒的な強さで邁進するドラマは結局実現しなかったけれど、
絶望的に勝率を引き離されても、それを追いついてひっくり返す奇跡のドラマ。
今年ももうちょっとところでつまずいてしまったけれど、
ほんの数日前までは、奇跡の逆転劇も思い描けていたのだ。

川上巨人時代と今とでは、状況がまったく違う。
ドラフト制によって、若い選手を思うように獲得できなくなり、
ほしかった選手を他の球団に取られてしまう。
川上巨人のV9の置きみやげのように、どの球団も「打倒巨人」を標語にしている。
まず巨人には勝とう、といった上での優勝争いを展開するのである。
それでいて、球団側からは、川上V9時代の強さを期待される。
独特の勘を最大の拠り所とする指揮官としては、さぞかしお疲れのことだろう。
ゆっくり休んで、英気を養ってほしいものである。
もうこれで終身引退などとは信じられないから、あくまでもひと休みである。

新監督は原、というのは、どうも私には頼りなく思われる。
ヘットコーチを務めては来たものの、どうも選手時代の印象が薄い。
打撃陣はそろっているし、ここ数年のもどかしさは投手にあるのだから、
本当は次の監督は堀内か江川であってほしいと思っていた。
長嶋ほどの存在感をかもし出せるのは、若手ではやはり江川だろう。
けれども、いきなり江川というわけにも行かないから、つなぎの原というわけか。。。
3年後には、長嶋監督復帰か、江川監督就任??



2001年09月28日(金) 「蔵」を見た

松たか子ドラマ第3弾として、「蔵」を見た。
何といってもまず、壇ふみがよかった。このドラマではこの役が最高。
出てくるだけで何やらホッとさせる程の好演技。
松たか子は第4回の終わりごろにやっと登場したけれど、
やはり、時折ハッとするような美しい表情を見せる。
でも、目を開いての盲人の演技はやっぱり至難の業なんだろうな、と感じさせる。
思い立ったら一筋、という人物像については好演していた。
それにしてもいい話だ。
目が見えない(世間を目の当たりにしない)だけ、純粋に自分の生きがいを求めた烈の物語。

橋本さんが超お気に入りの「櫂」はどこにも見あたらない。。。



2001年09月26日(水) あ〜あ、負けちゃった

きょうは、先発を代えるのが早すぎたような気がする。
今年の巨人の特徴である継投ミスが久々に出た。
もうメイを代えるの? と不安に思っていたら、河原がピンチになり、
何とか凌ぐだろうと信じていたら、チョンが出てきて、チョンでは守れん、
と思っていたら、さっそく打たれてしまった。
こんなのは、勝敗に関わりのない岡目八目的な勘に過ぎないのだけれど、
去年も今年も、何度こういう思いを味わわされたことだろう。。。
最近はむしろ継投がうまく行きすぎていたので、一体どうしたのかと思っていた。
継投策について自信過剰になっていたような印象が。。。
ヤクルトは大差で中日に勝って、これで、セ・リーグのおもしろさは殆どなくなった。
これから、巨人が3連勝し、ヤクルトが3連敗するなんて奇跡でもなければ、
もう混戦になることもないだろう。
それにしても、中日の不甲斐ないこと。。。
星野中日軍団の目標は「打倒巨人」だから、この際ヤクルトに勝たせて、
巨人が優勝の望みさえ失えばそれで満足!! といわんばかりの劣勢である。
気迫が売り物だった投手陣は、一体どうなってしまったのか。
こうは思いたくはないけれど、もしも、「打倒巨人」の気持ちが
昨日きょうの対ヤクルト戦に表れているとしたら、情けないことである。
同じように、巨人に対してはムキになってかかって行く癖に、
ヤクルト相手に負けすぎた阪神(ヤクルトの優勢の最大原因)も困りものである。

まあしかし、ヤクルトのM減らしをここまで引き延ばしてきたのは、
巨人軍の功績として、拍手を贈るべきだろう。

それにしても、松井がヒット2本とまたもやフォアボール3つ。
5打席のうち、3回は逃げられてしまったのである。
こういうことは、松井の場合珍しいことではない。
松井のフォアボールの数は、シーズン通じて異常に多い。
打てない球を投げるのでなく、打つ気にもならない球を投げて逃げる。
ファンは松井の打球を見たくて球場に来ているのに、投手はやたらと逃げる。
松井もそんなことが度重なりすぎて、打ちたいときにも打てなくなってしまう。
松井には高校野球時代にも、甲子園で5打席全部敬遠されて、
チームが負けるという悲劇を味わっている。
大リーグで60本以上のホームランが出てさわいでいるけれど、
どの解説者も、大リーグではそれでもピッチャーは勝負しますからね、と言う。
そういう意味では、日本の野球を「勝負の世界」としてみると、いびつである。
追いつめられた場面での敬遠策は作戦だけれど、
敬遠が日常茶飯事になってしまったら、勝負にならない。
松井にはずっと日本で野球を続けて欲しいけれど、
日本の野球にあいそつかして、大リーグに行ってしまってもしょうがないな、と思う。
そういえば、ペタジーニが巨人戦でよくホームランを打つのを、
ある解説者が、巨人の投手はすなおに勝負に行き過ぎますね、
ランナーのいないときにはフォアボールでもいいという気で投げないと、、、
と言っていたことがある。
こういう意見はスポーツをつまらなくする。
アマチュアでももちろんだし、プロなら観客の願いを裏切ってほしくない。



2001年09月24日(月) まさかの逆転劇

きょうの巨人戦は勢いに乗って、意外にも2ケタ得点で大差の楽勝!!
・・・とならないかな、、、と願った反対で、
悪い方の予感が当たって、上原は不調で3回に早々と下ろされ、
ヤクルトの入来は絶好調らしく、とても点を取れそうな気配もないまま、
7回まで0対2でずっと負けていた。
それでもファンの心理というのは不思議なもので、ダメだなと思っても、
それでも一縷の希望のために、気になってしょうがないものである。
それは、今までにも奇跡のようなことが起こって喜ばせてもらえた経験があるからだ。
で、今夜もやっぱり奇跡が起こったのである。
8回に、仁志がツーランホームランを打って同点にした。
9回に元木がタイムリーを放って1点勝ち越した。
なおもチャンスは広がったけれど、たった1点の勝ち越しにとどまってしまった。
けれども、桑田がその1点を守って、3対2で巨人が勝った。

巨人が1年を通じてこういう試合をしばしばやっていたならば、
1カ月前にもう優勝が決まっていただろう。
けれども、同点に追いついてもまた点を取られる、
土壇場でかろうじて逆転しても、最後の最後にサヨナラ負けを喫する、
あるいは、もっと悪いことに、追いつこうとする前に、どんどん点を取られる、
そんな試合が多すぎて、今、この上なく苦しい状況で闘う羽目になったのである。
だから、ファンの心理の中にも、勝利への願望は常にありながら、
同点にしてもすぐにまた突き放されるのではないか、とか、
逆転して喜んだ途端にサヨナラ負けで終わるんじゃないか、とか、
常にそういう悪い予感が現実味を帯びて迫ってくるので、
本当に勝って終わると、信じられないほどの驚きと嬉しさに包まれるのである。

今夜で対ヤクルト戦は終わって、優勝候補チームに2つ勝ち越したわけである。
このヤクルト3タテは、ヤクルトファン以外のすべての野球ファンが歓迎するだろう。
アンチ巨人にとってはヤクルトに勝って欲しい、けれども、
自分がひいきする球団と闘うときには、その点複雑な心境になる。
パリーグは近鉄がM1にしてしまつて、先がもう見えてしまったけれど、
セリーグは、きょうの巨人の勝利で本当に逆転Vの可能性が見えてきた。
数字上それは簡単なことではないけれど、野球界をおもしろくすることこそ
プロの選手の使命なのだから、何とか巨人にはあと5試合を4勝くらいして欲しいものだ。
そうすると、巨人戦が終わったあとのヤクルト戦もおもしろいものになる。



2001年09月23日(日) 連夜の逆転劇

首位攻防戦、昨夜は逆転1点差で巨人が勝った。
今夜はラジオからの情報でもぜんぜん勝てそうな気配がなかったが、
1対4から、逆転して8対4で勝った。
逆転打は松井のスリーランだから、昨夜の1点差勝利よりももっと嬉しい。
先発を早めにあきらめて、中継ぎが0点で抑えている間に、逆転した。
今まで、中継ぎがポコポコ打たれすぎ、点を取られすぎて今の苦境があるわけだ。
これでゲーム差は−2.5にまで迫り、勝ち数では3上まった。
もしも明日も勝つなんてことがあったりしたら、本当におもしろい展開になる。

ファン心理としても、きょうも勝ってここまで肉薄できたことが奇跡みたいなもので、
逆転優勝を心底信じられるかというと、そういうわけでもないのである。
でも、〈夢〉を断たれていないということこそがここでは貴重なのである。
もしも明日勝って、その後、ヤクルトが勝ち巨人が負けるということがなくて、
巨人が勝ちヤクルトが負けるということが2回あれば、とりあえず、
勝ち数では6上回り、ゲーム差でも上回ることも可能なのである。
また、万一、巨人が残り6試合を全勝して、ヤクルトが6連敗するなんてことがあったら、
もうヤクルトは絶体絶命のピンチに立たされることにもなるわけである。
そういうことはほとんどあり得ないことなのだけれど、
そういう事態への期待もまだ残してくれるところが貴重なのである。


きょうは混成バンドの練習で、例によって脚がだるくてしょうがない。
帰りの車でも、野球中継が始まるまでは運転しながら眠ってしまいそうだった。
明日は早いからもう寝よう。



2001年09月22日(土) 「ラブジェネ」後半はつまらない

3連休のうちきょうだけはゆっくり眠っていられるという安心感と、
あとの2日は朝早く起きなきゃならないということもあって、
昨夜、夜中に「ラブジェネ」を見続けて、全部見終わったら朝の5時を過ぎていた。
久々の朝の薄明を眺めて、あわてて眠った。
8時ごろにそう眠たくもなくいったん起きたけれど、
再び眠ったら、起きたのは12時だった。

いったいどう収拾つけるつもりだろうか、という興味で次々に見続けたけれど、
第7回あたりからの、こういう展開のドラマはキライだ。
登場人物を弄ぶような誤解の罠をしかけ、無用の混乱とすれ違い、
そうして視聴者をいたずらにやきもきさせて、最後は安易なハッピーエンド。
主要な2人の女性の人間性も、前半とは別人のように変わってしまっている。
それが、成長したとか、本来の自己に目覚めた、とか、
そういう意味での説得力を持っているとは思えない。

このドラマの場合、主役2人の恋愛が第5話で成就してしまった。
で、あとの6回分が、誤解とすれ違いの嫉妬劇に費やされるのである。
じつにもったいない時間の浪費といわなければならない。
確かに、相手への批判から自己批判へ、自己批判故の別離という
精神的発展は見られるにしても、
破綻と修復に長々と時間を費やしすぎているように思われてならないのだ。
もっと建設的な展開をしてほしいものである。

視聴率約30%を維持した超人気ドラマだったそうだけれど、
前半の第5、6回あたりまではたしかにそれを信じてもいいほど
軽妙でさわやかなコメディーを楽しめた。
特に松たか子が「Hero」の時とはぜんぜん別人の表情をして、
魅力を発散させていたのが実によかった。
けれども、ドラマの出来としては断然「Hero」に軍配を上げよう。
主題歌もヒットしたそうだけど、つまらない歌で、歌い方も不快で、
オープニングタイトルの間は毎回早送りした。


そういえば、「やまとなでしこ」と最初並行してみていた「氷の世界」も、
後半から唐突に調子が変わって、何か説得力の乏しいドラマになって残念だった。
11回を「見させる」のに制作側は想像以上に四苦八苦しているのだろう。
こうしていろいろ見ると、「やまとなでしこ」はホントによくできたドラマだなぁ。。。



2001年09月21日(金) きょうこのごろ

ようやく3連休に入る。・・・長〜〜い1週間だった。
それというのも、9月に入ってからの2週間が学校祭のため、
必ずしも時間どおりの制約を受けないで、割と柔軟に進んできたためだろう。
その間にはまた、台風の警報が出たり、体育祭が朝から中止になったこともあった。
今週は炎天下の暑い体育祭からスタートしたので、
平常の日々に戻った火曜日からやたらと体が重たくて困った。
やっとしばし解放される、、、、と喜びたいところなのではあるが。。。

3連休とはいえ、明日は夕方から市吹に出かけなければならないし、
明後日は1日中混成バンドの練習だし、(明日、下調べをしなければ、、、)
その次は、マーチング大会の役員で、岡崎まで行って長時間労働。。。
まぁ、早い話が、ほとんど休養にはならないわけである。
でも、いつもと違うのは、意欲的な仲間や生徒達に囲まれるという点である。
こういう場合は、いくら動いても重苦しい疲労には包まれないものである。


さて、しばらく何も書かずに過ごしてきてしまったけれど、
書きたいことはたくさんあったのに、落ち着いて書けるほどゆとりがなかったのである。
夜は、巨人戦も聞かなきゃならなかったし、
テロ事件や中東問題の情報も読まなきゃならなかったし、
一昨日まで「Hero」を見直して、昨日から「ラブジェネレーション」を見始めた。
市吹の体育大会の演奏曲の算段もしなければならなかったし、
混成バンドの「もう1曲」の選曲にも頭を悩ませなければならなかった。
これではとうてい何かを書き始める勇気はもてない。

テロ事件のその後。
アフガン聖職者会議は、アメリカのビンラディン引き渡し要求は批判したものの、
ビンラディンの国外退去命令という苦肉の策の結論を出した。
(というか、安全に国外逃亡させるための時間稼ぎ会議だったという味方もあるそうだ)
しかし、アメリカはその結論では要求にこたえていると言えないとして、
テロ組織とテロ犯罪に荷担するものに対する軍事行動に向かって、拍車をかける気配。
きょう、その趣旨の長い大統領演説があったようだ。
一方、日本は自衛隊の後方支援の道を求めて、新法制定に向かいそうだ。
湾岸戦争の時の出遅れの失敗をくり返してはならない、という焦りがあるみたいだが、
いささか、短慮という感がしないでもない。
目に見える支援を、と要求されているようだが、
それならまず、ビルの倒壊現場にいち早く派遣してもよかったはずだ。
素朴に見ると、何となく、軍事的支援にこだわりすぎているような気がする。
そんなところに、漠然とした不安や、妙なシナリオを深読みしてしまう。

もっと中東戦争の歴史をよく理解しなければと、本も読んだりするけれど、
ついついまた、TVドラマビデオにも手が伸びてしまうので、読書ははかどらない。
「ラブジェネ」は、ついつい、もう第6回まで見てしまった。
この松たか子は、もう何ともいえずかわいい。
ファンが量産されたはずだ〜〜、と実に素直に実感できる。
静止画まで見たいと思う女優ではないけれど、ドラマではかなり魅力的だ。


きょうは吹奏楽部の6人の希望者にからくり文化部を体験させる日で、
しばらくそれに付き添った。
能管・小鼓・締太鼓を体験させ、講師の先生に教わるのを見ながら、
自分でも小鼓や締太鼓の作法をちょっとだけ体験させてもらった。
もう2、3回彼女らの様子を見た上で、これについてもう少し詳しく書こう。



2001年09月17日(月) テロ事件の近因?

報復攻撃よりも、平和のための話し合いだ、対話だ、と誰もが思う。
そんなことはわかっているし、それができていればこんな長い流血の歴史もなく、
今回の残虐なテロも起こらずに済んだわけである。
私が今回驚いたのは、どうしてここまでしなければならなかったのかということであり、
ますます再燃しそうな激しさに、中東和平の困難さを永遠の堂々巡りのように感じたのである。

ちょうど山崎雅弘という人の「中東戦争全史」が発売されたので、昨日から読み始めた。
昨日は最初から読み始めたけれど、今夜は終わりの方だけ先に読んでみた。


一昨年イスラエルの首相となったバラクは、去年の7月に中東首脳会談に臨んだ。
その際に、3つの大きな譲歩案を用意していた。
1、ヨルダン川西岸地域からのイスラエル軍の撤退
2、パレスチナ難民の帰還権
3、ガザおよびヨルダン川西岸地域でのユダヤ人入植者の削減
ところが、第4の争点である東エルサレムの帰属問題に関して、
アラファトはバラクへの妥協を拒否し続け、会談は決裂した。

イスラエル国内でのバラク政権への批判が高まる中、去年の9月には、
バラクは、エルサレム分割を容認する、という大きな賭けで事態収拾しようとした。
ところがちょうどそのころ、野党リクード党の党首シャロンが
この東エルサレム内を視察訪問しており、この態度に反発したパレスチナ人により、
1週間の投石事件が起こり、バラクの分割案も空手形のごとくなってしまった。
争いが再燃し始めたので、バラクは首相を辞任し、首相公選に踏み切った。
この選挙で再び勝って信任を得た上で和平交渉に臨もうとしたのである。

ところが、イスラエル国民は、バラク政権の実りのない譲歩和平に嫌気がさして、
今年2月の選挙ではシャロンに圧勝させてしまった。
和平交渉は棚上げとなったばかりでなく、
「ハマス」「イスラム聖戦」などのパレスチナ過激派組織は、シャロンの強硬姿勢に反発、
アラファトを「弱腰」と決めて、独自に無差別テロを再開する。
3月以来自爆テロとそれに対する報復攻撃がくり返されてきたわけである。

6月に、アラファトはようやく「停戦実現のための努力」を声明し、
シャロンは、報復回避のための「パレスチナ側が行うべき3条件」を示したが、
パレスチナ自治区の「ハマス」等の13団体は、闘争継続で一致していた。
米大統領ブッシュは紛争拡大を懸念して、CIAのテネット長官を派遣し、
シャロン、アラファトと今後の対応を協議させた。
この交渉開始と共に、紛争は沈静化したかにも見えたのだが。。。


・・・第9章の途中まで要約してみたが、新聞で断片的に読んでもぜんぜん脈絡がなくて、
いったい彼らは何してるのか、とわけがわからなかったところが、
ちょっとだけつながって見えるようになったという感じである。

対話だ、話し合いだ、というのは易しい。
おそらく、どちらかが大いに譲歩すれば案外簡単におさまるものなのだろう。
けれども、個人と個人の問題ならともかく、民族単位・国家単位で、
利害をまったく捨てた譲歩など、本当に可能なのだろうか。
バラクの最後の譲歩案、エルサレム分割で、事態は安泰になったはずなのだろうか。
どう話し合えば平和が訪れるのか、、、それが問題だ。
そもそも1番悪いのはイギリスだ、何とかしろぃ、と言うのは簡単だ。
けれども、「あの時は悪うございました、あの前に白紙に戻して、、、」なんてわけにもいかないだろう。



2001年09月16日(日) テロ事件の行方は?(2)

米議会で武力行使が決議された。
パキスタンの協力はすでに得られることになっている。
イランでさえ「沈黙の協力」をする可能性があり、
タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンも、ロシアとの協議次第という。
アフガン包囲網を着々と狭めつつある。
一方、ビンラディンの居所はつかめず、イラクに逃亡した可能性もある。
また、タリバーン政権は、アフガニスタンが報復攻撃を受けた場合は、
アメリカに協力した隣接国に報復すると声明。。。

米議会の反対投票は1票だけだった。
「だれかが抑制を利かせねばならない。
 武力行使が世界的に暴力の悪循環を生みかねない」

朝刊にこんな意見を書いている人がある(佐渡龍己氏)。
「テロリズムとは何か。
 テロリストが狙っているのは貴方の心である。
 テロリストは、世界中の人々がどのような感情を抱くかを計算している。
 その最終的な目標は、国際的関心と国際世論の獲得なのである。

 テロリズムは、自己の信念を固守する人、ある強い信念を抱く一部の人々が、
 その信念を脅かされたときに不安・恐怖を感じ、
 権力者を追い出し、政策を変えさせるために起こす。
 権力者を直接に脅すだけでなく、国内外の民衆に恐怖を与えることで
 間接的にも権力者を脅し、そして過剰報復させて国際世論を操作し、
 権力者に圧力をかける、という恐怖を運用するシステムである。
 つまりテロリズムは『脅し』という精神的な強制行為を手段とする戦争なのだ。
 この戦いは人々の心を戦場とする」

「脅しという手段を使い、被害者の怒りを逆手に利用するテロリズムに対して、
 怒りはテロリズムを助長する源である。復讐によっては問題は解決しない。
 日本国民一人ひとりが冷静に事態を判断し、
 日本独自の世界平和達成に貢献する地道な道を進まなければならない」

なるほど、と思う。
しかし、今回のあのあまりにも残虐な手口も改めて思い出すと、
そんな生ぬるいようなことを地元民や関係者たちに望めるだろうか、とも思う。
けれども、それが相手の思うつぼであり、悪循環の環になるのだ。
いずれまた、今回は何事もなかった人々の上に残虐な大量虐殺の運命が降りかかる。
ある日突然、まったく思いがけない瞬間に、不条理な死が襲いかかる。
そして、根を断つ努力を怠ったことを忘れ、ただ怒りにまかせて報復合戦。。。

日常生活でも、喧嘩をふっかけられたら相手にしないのが1番という。
やはり、大統領もぐっとこらえて、国民の怒りを静めるのが得策であろうし、
小泉さんも、日本国憲法の下での首相であれば、即座に「報復支持」などと
言うべきではなかった(これは、その報道の時にすぐに思った)。

現実には、今さら何をどう言おうと、報復攻撃は実行されるだろう。

でも、やっぱり常々考えておかなければならないことは、
報復をやめ、平和への道を、と言うは易しだけれど、
実際のところ、建設的に何をしたらいいのか、どうするといいのか、ということである。

佐渡氏が書いている「日本独自の方針」を一応書き抜いておこう。
こういうものなのかどうか、私には未だ勉強不足で判断できない。
これから、今までより真剣に考えるための参考資料の1つとして。

1、テロリズムの発生原因の解決に寄与すること。
  具体的には、医療援助、井戸・橋・道路・学校の建設、耕作地増設など、
  民衆のためになる人的援助を強化すること。
2、日本が間に立って話し合いの場を持つこと。
3、離脱したテロリストが逃げ込める「逃れの町」の制度を作ること。



2001年09月15日(土) テロ事件の行方は?

3時間近くかかって、昨日の朝・夕刊ときょうの朝刊の関連記事を読んだ。
テレビのニュース番組を見た方が早いのだが、なかなかテレビの前に座れない。

要するに今のところはこういうことだ。
首謀者と断定できるビンラディンの身柄引き渡しを、
アメリカはパキスタン政府を通じてアフガニスタンのタリバーン政権に求めたが、
タリバーンはそれを拒否し、「でっちあげだ」との見解も発表されている。
アメリカはいずれ、ビンラディンの武力集団に対し、報復のための軍事行動に出るだろう。

もっとも興味を引いたのは、今朝の朝日の「自爆テロ」の記事である。
イスラム過激派ハマスは、「自爆者」を集め(あるいは養成し?)ている。
イスラム教は自殺を禁止しているが、自爆は殉教として「天国への道」となる。
ある学生の遺書には、「神に与えられた使命」として誇らしげな自爆の決意が記され、
その両親も「息子のおかげで自分たちにも天国が約束された」と考える。
パレスチナを覆うこの風潮が、今回の、日本の大戦時よりも過激な「特攻」作戦を可能にしたわけだ。
日本の特攻が、追いつめられ兵器が乏しい中での、苦肉の策の狂気であったが、
今回の「特攻」は、それをはるかに凌ぐ狂気である。

突然、身内や友人を奪われた者からすると、何らかの報復なしでは気が済むまい。
しかし、報復は報復を呼び、火を消さないでいればますます激しく燃え広がる。
今回の事件も、早期に火を消さなかった過程の大惨事なのである。
報復は無益である・・・けれども、報復しないで、どう解決できるのだろう。

仮に、ビンラディンの身柄が差し出されたところで、誰がどう裁くのか。
彼の身柄がアメリカの手に渡れば、解放を求めるテロ行為が続発するのではないか。
彼を許すことはあり得ないし、彼を罰すれば、ますます火を大きくすることになるだろう。

軍事行動(戦争)は、無関係な者の生命まで巻き添えにする。
これは絶対に避けるべきである。けれども、じゃあどうすればいいのか。
ハマスの指導者ヤシンは、「多くの民間人を殺してきたのはイスラエル側だ」と、
今回の自爆テロを正当化する。
要するに報復合戦であり、弱小の抵抗軍団側は、これでもまだ腹の虫がおさまらない。

そもそものところ、歴史的に見ればどちらが正義なのか、それすらわからない。
それを判定できるのはいったい誰なのだろう?
そうして、宗教指導者が憎しみと争いしか説けない、とはいったい何なのだろう。
そうしてそんな宗教のために殉死の至福を味わえるのも、まったくわからない。
オウム事件の際の謎が、また再燃するような思いである。

世界を救うには、イエスの再臨か、ゴルゴ13の登場しかないのかも知れないなぁ。。。



2001年09月14日(金) 「セビリアの理髪師」を観た

2カ月ほど前からの予定で、今夜はオペラを楽しんだ。
これはストーリーがどうのこうのではなく、音楽を楽しむオペラである。

バーデン市立歌劇場の公演が、近所の国際会議場のホールで行われた。
近いし、格安の料金なので、妻と娘と3人で出かけた。
字幕付きの公演だから、予習をしつこくする必要もなく楽しめた。

このオペラは、ビデオやTV中継などで2度ほどしか見たことがない。
それでも、名人芸を随所にちりばめたような歌が次々に歌われるので
おもしろいという印象が強かった。
それはこうして生の公演に臨んでみても確かだと思うし、
オーケストレーションも実に巧妙に作られているものだと、再発見であった。
また、きょうの演出は以前に見たものよりも喜劇性が随所に強調されていた。

20年ほど前までは、オペラを観に東京まで出かけなければならなかった。
そうまでして出かけるのは、ワーグナーやプッチーニのオペラでなければならなかった。
今は、ロッシーニとはいえ、歩いてでも行けるようなホールでオペラを観ることができる。。。

きょうは体育祭だった。
開会式までは何の心配もなく、生徒の態度はともかくとして順調に進んだが、
開会式を解散にした途端に雨粒が落ちて来始めて、たちまち土砂降りに。。。
10分ほどでグラウンドは使用不能状態になった。
競技の方は月曜日に延期せざるをえなくなった。
朝8時の地方気象台の説明では、帰りごろに降る恐れがあるので傘を持って出た方がいい、
いや、でもそれはわからない、というようなあやふやな情報だったので、
たぶん、小雨が降ったりやんだりの1日になると予想していたのに。。。



2001年09月13日(木) 「Hero」最終回を見た

う〜む、これはいかん。はまった。ラストがうまい。
第2巻を最初に借り(テーマ音楽を聴くためだけだったので)それから第1巻、
昨日それを返しに店に寄ったら全部貸し出し中で(全4巻×2セット)、
きょう寄ったら第4巻が1本だけあったので、それを借りて見た。
1話ずつ完結型なので、その点非常に都合がいい。
第4巻の第10話は、冤罪をでっち上げようとする警察との対決、
第11話は、左遷決定の残されたわずかな期間での、汚職を追及する特捜との対決となる。
どちらにも名言はあるが、それはこの次の機会にして、そういう大がかりなドラマよりも、
恋愛否定論者だった雨宮(松たか子)がひたむきになって行くドラマの方に心惹かれる。
突然いなくなった久利生を探す雨宮の回想シーンにやっぱり大いに泣かされる。
2人の恋愛が最後までちっとも甘ったるくならないように描かれている点もよい。
もちろん、予想したとおり、このヒーローの過去もこの第10回で明かされる。
第3巻を明日も探しに行くだろう。
・・・でも、「やまとなでしこ」みたいな大がかりな感想文を書くことはないだろう。

文化祭が終わり、明日は体育祭である。
文化祭が終わった時点で足が疲れて痛くてしょうがなかったけれど、
明日のグラウンドの放送の準備にてこずって、また歩き回らねばならなかった。
要するに、今まで使っていたラジカセもマイクも、
別のに取り替えたらうまく行ったので、壊れていたとしか判断できず、
ホントにこれも災難としか言いようがない。

疲れていたのにな〜、脚がだるくてしょうがないのに、
ドラマのためにまた寝るのが遅くなった。。。
(日付を13日に設定しているだけで、実は14日の1時になっている)



2001年09月12日(水) あちこちで大惨事

昨夜のニューヨークのテロ事件を、今朝のラジオのニュースまでまったく知らなかった。
ニュースの前の交通情報の中で、
「今朝は寝不足の方が多いと思いますが、、」などと言っていて、
それを聞いたときはまだスポーツか何かの話かと呑気なこと考えていた。
ニュースの時間になってやっとこの大事件を知ったのだが、
「寝不足」云々については、きょうの勤務先である文化会館に着いて、
昨夜は2時まで、とか、4時までテレビを見てた人が何人かいたので、
それでやっと話が結びついた。
僕が今朝のラジオではじめて知った、と言うと、
詳しく解説してくれるので、つい先日NYに行った人などは
さぞかし心穏やかじゃないんだろうな、、と思いながら聞いていた。

それにしても、その手口は、特攻隊と似ていて、それよりうんとひどい。
戦闘機でなく旅客機で何も知らぬ乗客を道連れにする上、
相手は戦争目的で向かっている軍艦や戦士ではなく、
そんなこととはまったく無縁に仕事していた人々である。
何がいきなり命を奪うかわからない。やっぱりこの世は恐ろしい。

海の向こうとはいえ、世界的に深刻な事態になっている中、
明日は(きっとバカみたいな)文化祭というのも、変な気がする。
3年前生徒会主任だったとき、同僚のFさんが大手術の末亡くなって、
そんな時にこんなバカ騒ぎをやってもいいのだろうかと、
深刻に考えたのと似たようなもの。

明日の文化祭で演奏もしなきゃいけないけれど、まったく気が進まない。
技術面でもおぼつかないし、まだ練習不足だ。
「こんなの人前で演奏する資格ない」とはっきり言ってやりたい。
こういうことは聞いてくれる人に失礼なのだ、と思う。
でも、言えない。悲惨な状況でかろうじて持ちこたえているだけに、言えない。
ここにも、明日は惨事が待っている。数年前までは賛辞を浴びたものだけど。。。



2001年09月10日(月) 暴風警報の出た日

昼の1時ごろ、警報が出た。
こちらを直撃しそうな進路をたどっていたので、出るだろうとは思っていたけれど、
予想よりもかなり早かった。
ちょうど昼休みが終わるころで、午後に予定されていた学校祭準備はしないで、
生徒は全員帰宅させざるを得なくなった。実にもったいない話である。
今、夜中になり、あまりにも静かなので台風情報をテレビで見てみると、
かなり東の方に進みそうで、結局このあたりは大事に至りそうにない。
杞憂のために貴重な時間をフイにしている。
1番痛いのは、吹奏楽部の練習がなくなってしまったことである。
まだ決してうまくできているとはいえない状態なのに。。。

生徒が帰った後の職員打ち合わせが終わってから、まずベースギターの練習をした。
合奏指導中は弾けないので、こんな時でも利用して練習しておくしかない。
その部屋から戻る途中で、橋本さんのクラスの教室に寄ってみた。
「午後は担任と副担で作るしかないなぁ」と彼が言っていたので、
「教室に行ってみたけどいなかった」とからかってやろうと思ったのだ。
どの教室も電気は消えているし、誰もいる気配はない。
・・・と思ったら、驚いたことに、その教室にだけ人影があったのである。
本当にひとりで製作・・・というほどではないにしても、
明日、生徒が取り組みやすいように下準備の作業をしていたのである。
説明を聞いて、申し訳程度のお手伝いをしようとしているところへ、
用務員さんが施錠に回ってきたので本当に下準備で終わってしまったけれど、
この偶然の遭遇は、まったく1本取られた、という感じでおもしろく、感心した。

職員室で一休み、、、に入ったところで、マイク納品の業者が来た。
体育館に行ってマイクテストと、機器についての疑問点をあれこれ尋ねた。
暇になったはずの午後にも、いろいろと用事が降りかかってくるものである。

4時半ごろに帰ろうとしたら、まだ橋本さんが採点の仕事をしているので、
彼より早く帰ることになったのをからかってから職員室を出たのだが、
後になって、実は生徒の親が来るのを待っていたのだということを思い出して、
ああ、悪いこと言っちゃったなぁ、、、とかなり後悔。

私はその時、ベースアンプを買うか借りるか、どこで借りるか、どうやって?
という課題で頭を悩ませていた。
部室のキーボードアンプにベースギターをつなぐと、ちょっとした動きに、
激しい雑音が出る。たぶん、仕様が違っているのではないかと思って、
何とかしなければ、と、いよいよ解決に踏み切ろうとしたのである。
ところが、買うにはちょっと予算の問題があり、借りようにも、
どこにそういうレンタル会社があるかわからない。
事務室の電話帳で尾張地区を調べてみたけれど、遠回りしすぎる。
各務原に入ってから電話帳で調べてみようか、などと考えながら車を走らせているうち、
中古ショップ(ベースギターもそういう所で買った)に寄ろうと思いついた。
うろ覚えで HARD OFF にたどり着いて安いのを手に入れたけど、
これがちゃんといい買い物になったかどうかは、明日試してみないとわからない。

思いがけず早めに帰宅できたので、早めに夕食にして、
昨日借りてきた「Hero」の第1巻を見始めたら(先日のは第2巻)、
3回分、一気に見てしまった。
エンディングが気に入ったので、それを視聴して余韻に浸っていると、
すぐさま次の回が始まってしまうものだから、ついついそのまま見たくなる。
これもまた、「やまとなでしこ」の時と同じだけれど、
あの時は、寝不足おかまいなしで夜中からでも見始めて生活破壊したのに、
今回は一応時間によって抑制が利いている点が違っている。
(つまり、昨日は見るのをやめた、という点をさしている)

「あなたはどうして検事になったの?」という雨宮(松たか子)の問いに、
久利生(キムタク)の「被害者の味方ができるのは検事しかないから」という答が、
今まではっきり考えたことのない新しい発見のように響いた。



2001年09月09日(日) 「リング2」見たけれど。。。

午前中に見た。原作にないことを展開しているので、その興味だけで見たけれど、
結局のところ、つまんない映画だった。
「リング」だって、菜々子様がよかっただけの話で、映画自体はつまんない。
「リング2」はストーリーも「リング」よりつまんない上に、
菜々子様がついでのようにしか出てこないし、魅力の表情あんまし見せてくんないし、
実に哀れな死に方するから、もうイヤだ。
もうあとの「らせん」も、小説だけで十分。

台風が近づいているらしい。
明日、いつ警報が出るかわからないけれど、朝まだ出ていなかったら、
授業だけあって、学校祭準備ができないという、最悪のケースになる。
朝出ても、学校祭の準備はとにかく困るだろう。

きょう、昼から学校に行ったけれど、昨日よりもうんと静かなたたずまい。。。
こんなんだったら、本当に学校祭なんてほとんど意味がない。
とことん展示の準備をし、展示の時の説明の打ち合わせをする。
やることはいっぱいあって、時間がなくてイライラするところにこそ醍醐味があるのに。
一方で、応援練習をする。・・・もう応援の「お」の字の気配もない。
1年生が、学年でひとつの盛大な応援演技をすると言っていたのに、
昨日応援係を召集したけど集まらなかったと、学年主任が困っていた。



2001年09月08日(土) 学校祭前の休日

2連休なれど、部活のため昼から学校に。。。 もちろん明日もそうだ。
今の学校に来て13年目になるが、この休日を休んだためしはないのである。
去年・今年はまだいい方で、生徒会の担当だったころはもちろん朝からだった。
朝からずっと生徒会の仕事しながら、担任のクラスの様子も見ていて、
4時か4時半くらいからやっと部活が始まって6時半くらいまで、というのが習慣だった。
去年から図書主任で担任なしだから、その点だいぶん楽になったわけだ。
学校祭前なのに、朝ゆっくり眠って昼から出かければいいなんて、夢のような境遇である。
でも、そうなってしまうと、本当だったら2連休のんびり休めるはずなのに、、、と、
部活がひどい負担に感じてしまうから、人間の心というのは不思議なものである。

学校に着いたのは1時過ぎで、部活までにはまだ2時間近く時間があった。
おかげで、授業の提出物の整理がかなりできて非常にすっきりした。
慌ただしいウイークデーの仕事の合間にはなかなか片づけにくい仕事だったので、
実にいいチャンスになった。
でも、こんな日にこの種の仕事をやっていられるなんて、
これもやはり3年前までは考えられなかった。
つくづく、今はだいぶん恵まれている、と思わずにはいられない。

部活で、生徒が「Hero」というドラマのテーマを選んで今練習しているので、
その曲をしっかり聴いてみようと思って、レンタルでCDを探してもない、
その代わりにビデオを借りてそのテーマを聞いてみたら、ドラマも見てしまって、
(「やまとなでしこ」の時とまったく同じパターンである)
一昨日の晩に1回分、昨夜2回分を見てしまった。
実にいいテンポのドラマだし、キムタクがいい雰囲気を出している。
松たか子も、ちょっと冴えない(潜在的にいい)女、という役を好演している。
今までの映画やドラマで冷酷非情な役割をするのが一般的な、
検事を描いている点がおもしろい。
エンディングも、私のお気に入りの「Can You Keep A Secret?」をバックに、
実に粋な映像が構成されている。
(エンディングが流れ始めたときはびっくりしたなぁ。。。)
この2つのテーマをメドレーにして、市吹の演奏曲にしようかという考えも浮かんだ。
巷では松たか子も美人女優らしくて、
菜々子様と松たか子の区別がつかない人もいるそうだけど、何の何の、ぜんぜん。。。
でも、この役柄で見る限り、すごく好感が持てる。
以前、あだち充原作のドラマ「じんべえ」で見たときはまったくダメだったけど。。。



2001年09月05日(水) 「風の谷のナウシカ」(2)

「風の谷のナウシカ」における〈清浄の地〉。。。

「ナウシカ」物語の世界は、汚れた大地である。
腐海はその代表であり、瘴気を発散し、瘴気をまともに吸えば血を吐いて死ぬ。
風の谷とは、腐海の近くにありながら海から吹く風によってかろうじて守られた地である。
けれども、もちろん風の谷も決して清浄の地ではない。
いつ腐海の菌に侵され、そうなればたちまち土中の毒素を吸い上げつつ繁殖し、
腐海に飲み込まれるかわからない、危険をはらんでいることは他と変わらない。
けれども、汚れているのは腐海そのものではなく、大地なのだ。
腐海の役割は、土中の毒素を吸い上げて瘴気を発散させつつ、
大地を清浄にすることにある。
腐海の底には、瘴気のない空洞のできている場所がある。
そこはやがて、植物も役割を終えて石化し、清浄の地となりうる。
何百年もの営みであるが、腐海の果ては憧れの清浄の大地であるとも言える。

ナウシカは、シュワの墓所に至る前に、清浄の世界に連れられる。
巨神兵の放つ光のために体が衰弱しきっていた。
薬湯に浸かり、食事をすると心身ともに癒され、ふと現世のことを忘れかける。
「なんだっけ。。。 何か思い出さなきゃいけないのに。。。
 なんて安らかな世界。・・・いい気持ち。。。。」
一方、同じくここに招待されたクシャナの2人の兄王たちは、
もうすっかりこの世界になじんでいて、詩や音楽に興じている。
けれども、ナウシカはふとテトを亡くした悲しみに襲われて、我に返る。
逃げだそうとすると家畜たちがみな「行ってはいけない」と阻止しようとする。
やっと壁を1つすり抜けようとしたところで、再び番人の男と出会う。
執拗な誘惑。
「そなたたち人間は飽きることなく同じ道を歩み続ける。
 みんな自分だけは過ちをしないと信じながら、
 業が業を生み、悲しみが悲しみを作る輪から抜け出せない。
 この庭はすべてを断ち切る場所。。。 トルメキアの2人の王子を見ただろう。
 彼らは生まれてはじめて、安らかな喜びを感じている。
 そなたのしようとしていることは、もう何度も人間が繰り返してきたことなんだよ」

挫けそうになるナウシカのもとに、念力で〈森の人〉セルムが現れる。
セルムに向かって、番人は言う。
「そなたたちは腐海の意味に気づいているはずだ。
 なぜ腐海の尽きるところに住めないかを。。。
 腐海がその役割を終えたときは、ともに滅びるときだとも。。。」
「そなたたちは腐海の尽きる地へいくたびも人を送り込んだはずだ。
 しかし、誰ひとりもどらなかった。みな血を吐いて死んだからだ。
 今は聖地としてタブーになっておろう。
 肉体は拒絶され、心でしかたどり着けない土地を、なぜ希望などと偽り続ける?
 そなたは知っている。人間の体がもとから変わってしまったことを。
 汚した世界に会うように。。。
 自分たちだけではない、草や木や動物まで変えたのだ」

この番人のことばを聞いて、ナウシカは長い間の疑問を解く。
「火の7日間の前後、世界の汚染が取り返しのつかぬ状態になったとき、
 人間や他の生物をつくりかえた者たちがいた。
 同じ方法で世界そのものも再生しようとした」
つまり、腐海も人の手で作り出されたのだ。
こんな目的をもった生態系などは、生命の本来のあり方にはそぐわないけれど、
千年前絶望の中にあった人々の、必死に求めた希望だったわけである。
「計画では、今は再生への道程のはずでした。
 けれど、現実には愚行はやまず、虚無と絶望はさらにひろがっています」

セルムは、腐海も王蟲も人為の産物だったという考えに戸惑う。
「森(腐海)はひとつの聖なる生命体と私たちは感じてきました」
しかし、ナウシカはそれも否定しない。
「私、いまもそう感じています。
 〈個にして全、全にして個〉・・・ある偉大な王蟲が教えてくれました。
 たとえどんなきっかけで生まれようと、生命は同じです。
 精神の偉大さは、苦悩の深さによって決まるんです。粘菌の変質体にすら心があります。
 生命はどんなに小さくとも、外なる宇宙を内なる宇宙に持つのです」

そして、ナウシカは「真実を見極めるために」墓所に向かう。
そこでの言葉のやりとりを、昨夜先に書いた。
その前に、墓所の前で、ナウシカはセルムに語りかける。
「どんなにみじめな生命であっても、生命はそれ自体の力によって生きています。
 この星では生命はそれ自体が奇跡なのです。
 世界の再建を計画した者たちが、あの巨大な粘菌や王蟲たちの行動を、
 すべて予定していたというのでしょうか。・・・ちがう。
 私の中で、何かがちがうとはげしく叫びます。
 あの黒いもの(墓所)は、おそらく再建の核として遺されたのでしょう。
 それ自体が生命への最大の侮蔑と気づかずに。。。」


・・・さ〜て、これらのナウシカのメッセージをどうまとめることができるだろう。
常に共通して流れているものは、人為の驕りに対する警告のようでもある。
どんな状況に生まれようと、生まれたものはその運命を引き受けて生き抜くしかない。
しかも、この地球は、この世界は人間だけのものではない。
人間だけの都合によって改造すべきものでもない。
人の命を尊ぶだけでなく、動物や植物の命も尊び愛する。
ナウシカは、あらゆるものに〈心の耳〉を傾ける。。。
また、「ナウシカ」の世界は、大地が汚れているだけでなく、
人間世界もまた空しい戦闘に明け暮れる汚れた世界である。
ナウシカの存在は憎悪を浄化し、人々を、また部族間を結びつける。
・・・こんな材料をもとに考えていってみよう。



2001年09月04日(火) 「風の谷のナウシカ」完全版

昨日と今日とかかって、「ナウシカ」全編を読み終えた。
たぶん、これが4回目である。
でも、毎回初めてのように読み返す。それだけ物語が錯綜している。
1冊6千円近くする上下巻2冊本の愛蔵版を買ってから全部読み返したのは初めてだ。
重たいけれども、大きくて見やすいのでありがたい。

それにしても、本当に壮絶な物語だ。
闘いたくない、殺したくない、心で結びつきあいたいと願うナウシカが、
どうしても、人間の愚かな闘いの中に巻き込まれて行く。
けれども、ナウシカによって、結局はみんなが結ばれて行く。
「森の人」なる不思議な人物にも救われる。
(7巻本が何ヶ月かごとに刊行されるたびに買って読んでいたころは、
 次々に新しい種族や不思議な人物が現れるたびに、
 いったいこの話はどこまで行くのか、解決があるのかと不安に駆られたものだ)

最後のシュワの墓所の主との闘いは壮絶を極める。
「あの時代、どれほどの憎悪と絶望が世界を満たしていたかを想像したことがあるかな?
 数百億の人間が生き残るためにどんなことでもする世界だ。
 有毒の大気、凶暴な太陽光、枯渇した大地、次々と生まれる新しい病気、夥しい死。
 ありとあらゆる宗教、ありとあらゆる正義、ありとあらゆる利害、
 調停のために神まで造ってしまった。とるべき道はいくつもなかったのだよ。
 時間がなかった。私たちはすべてを未来に託すことにした。
 これは旧世界のための墓標であり、同時に新しい世界への希望なのだ。
 清浄な世界が回復したとき、汚染に適応した人間を元に戻す技術も
 ここに記されてある。・・・」
「絶望の時代に、理想と使命感からお前が造られたことは疑わない。
 その人たちはなぜ気づかなかったのだろう、清浄と汚濁こそ生命だということに。
 苦しみや悲劇や愚かさは、清浄な世界でもなくなりはしない、
 それは人間の一部だから。。。。
 だからこそ、苦界にあっても、喜びやかがやきもまたあるのに。
 あわれなヒドラ、お前だって生き物なのに、浄化の神として造られたために、
 生きるとは何か知ることもなく、最も醜いものになってしまった」
「お前にはみだらな闇のにおいがする。
 娘よ、お前は再生への努力を放棄して、人類を亡びるにまかせるというのか」
「その問いはこっけいだ。私たちは腐海とともに生きてきたのだ。
 滅びは、私たちの暮らしの、すでに一部になっている」
「人類は私なしには亡びる。お前たちはその朝をこえることはできない」
「それはこの星が決めること。。。」
「虚無だ!! それは虚無だ!!」
「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた!!」
「お前は危険な闇だ。生命は光だ!!」
「ちがう! いのちは闇の中のまたたく光だ!!
 すべては闇から生まれ、闇に帰る。 お前たちも闇に帰るがよい!!」

「お前は悪魔として記憶されることになるぞ。希望の光を破壊した張本人として!!」
「かまわぬ! そなたが光なら、光などいらぬ!!
 巨大な墓や下僕などなくとも、私たちは世界の美しさと残酷さを知ることができる。
 私たちの神は1枚の葉や一匹の蟲にすら宿っているからだ!!」

この闘いが終わったとき、ナウシカはもう1度青き衣で金色の野に降り立つ。
チャルカのつぶやき、、、
「あの服は。。。 王蟲の血よりも青い。(墓の体液の色だ)
 灼けただれた大地が、夕日を浴びて金色に輝いておる。。。」

とにかくこれは、悩み苦しむ救世主の物語なのである。
 

 



2001年09月03日(月) 「出口なし」上演の思い出(2)

・・・で、大変なことになったわけである。
一方は指揮、一方は演出家のかけもち、しかも、演劇に本格的に取り組むのは初めて。。。
はっきり言って、無謀な試みとしか言いようがない。
けれども、「出口なし」を視覚的・音楽的に表現したい、という願望は、
もう実現へのお膳立てができてしまったのである。後に引けない。
・・・この年は多くの授業を捨てて、特に必修のフランス語も捨てて留年確定に
してしまったけれど、そのことについて、まったく後悔していない。

最初にやったのは、対訳ノート作りだった。
原文をノートの左ページに写し、右ページに日本語訳を書く。
それは、ちょっと難解な台詞をすぐに参照しやすくするためだけれど、
それをしながら、舞台上の登場人物の動きをあれこれ思い描くことにもなった。
夜中にそんな作業を続けながら、本当にこんなことやってていいのか、と
不安に駆られることもしばしばだった。

練習の時には、それほど多くの注文を出したわけではない。
時折、そこはもう少し早口で、とか、もっとトーンを下げた方がいいのではないか、とか、
位置関係を修正したりとか、そんな程度だったような気もする。
ただ、位置関係に関しては、このドラマの生命だと思っていたので、かなりこだわった。
「地獄、それは他者だ」というテーマは、第3者の存在が地獄だということだからである。
言葉がわからない人にも、その地獄性が伝わらなければならない。
また、このドラマの緊張感のためにも、強弱やテンポは大事に思われたのである。
時折、台詞の解釈について議論になったときもあるけれど、
役者の信じる方に譲ったことが多いような記憶である。
Mの考える照明案には、全部OKを出した。
音効には、ギター仲間のTに相談しながら、ジョン・ケージか誰かの、
ピアノ曲を使ったはずだが、よく覚えていない。
ただ、その選曲をMも(上演後話したフランス人も)かなり気に入ってくれたのである。

上演が近づいた。劇は11月、ギター部の定演は12月の上旬だった。
両立が難しくなった。どちらのメンバーにも、ストレスがやってきた。
演劇の練習の最中に、ギター仲間のTが「どうする気だ」と怒りの表情で
相談に来たことはよく覚えている。
どちらも手を抜けない。
劇の本番の3日前に、猛烈に奥歯が痛み出した。。。



2001年09月02日(日) カント全集第14巻

Fクンが「今度送るよ」と予告していたものが届いた。
夏休みに翻訳していたカントの論文がメールで送られてくると思っていたら、
メールでなく、小包で届いたのは春に刊行されたカント全集の14巻だった。
「世界市民的見地における普遍史の概念」とか「啓蒙とは何か」とかを彼が訳している。
他に「理論と実践」とか「万物の終わり」「永遠平和のために」などが入っている。
三批判書なんて、もうこんな生活しているとなかなか読み返せないけれど、
こういう論文は1度じっくり読んでみたいと何年か前から思っていた。
ありがたいことである。

礼状の返信にFクンもこう書いていた。
「是非じっくり読んでください。特に啓蒙論文と普遍史の理念は、
 短いながらも内容が豊富です。
 普遍史の理念の方は、上智の哲学科のゼミで読んだのが初めてでした。
 当時は、あまり関心を持てませんでしたが、現在ではもっとも好きな哲学書です。
 日々の生活で苦しい思いをするときは、いつもこの作品を読むことで乗り越えています。
 また、啓蒙論文は18世紀ドイツ語散文の最高傑作と呼ばれているものです。
 これによって、トマージウス以来の啓蒙理念が総決算されました。
 すべての行が力強い表現で、人間の精神を奮い立たせてくれます」

実は、前に会ったときにも彼から2冊の訳書をもらっている。
スピノザとカントの研究書の翻訳だったけれど、ざっと目を通したものの、
特にスピノザは、入門書らしいのに、中座してしまった。
そのうちに、と思いながら、それっきりになってしまった。
きょうも、夕食前の気ぜわしい中で、2つの論文に目を通したのだけれど、
もっとよくわかるためには、そのうちに、もっと落ち着いて読もう、ということになる。
こういう「そのうちに」が反故にならないよう、ちゃんと銘記しておこう。


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