TENSEI塵語

2001年06月29日(金) 車内化粧の是非?

朝刊に、2週間前から続いている車内化粧についての紙上論議の、
中間まとめ報告が載っていた。
「他人に迷惑をかけなければいいんじゃないかな」という女子高生の投書がきっかけらしい。

実は、迷惑でないこともないのである。
隣に座った中年の女性が、20分もの間化粧をし続けていたことがあるが、
ごそごそ隣で動かれるのは、実に鬱陶しいものである。
当人にとってはたったこれっぽっちのこと、と思うかもしれないが、
道具を取り出し、蓋を開け、鏡を見、筆を取り出し、顔に描き、この道具はしまい、
また新しい道具を取り出し、、、、見たくもないので見ないようにしていても、
その間私は「早く終われ早く終われ」とイライラし通しだった。
まさか、そんなに長いこと続けると思わなかったので、
その席から逃げ出す機会も逃してしまった。
「これっぽっちで迷惑だと思うなら、あっち行ったら?」と追い払われる運命かな??
立っていて、目の前に座っている女性が化粧していたときも邪魔臭さを感じた。
幼児がじっと座っていられなくて、ムズムズ体を入れ替えては、
窓を叩いたり、母親に寄り添ったり、母親をつついたり、こっちをじっと見たり、
あの迷惑さと大差ない。
ケータイの通話は車内では禁止項目になりつつあるが、
ケータイの大声通話は広範囲に実害を及ぼすけれども、
すぐ傍にいるものにとって、という但し書きをつけるならば、
ケータイの通話よりも化粧の方がうんと鬱陶しいものである。

鏡を覗き込んで自分の顔を修正するときの視線というものは、
どう見ても、他人に見られるための表情を作っていない。
やはり、「密やかな愉しみ」にしておいてもらいたい、と願うのは、
古い観念に縛られた古い感覚だと、化粧公開派から非難されるのであろうか??

新聞投書の中には、
「鼻毛を抜いているおじさんと同じ」
「ビューラーとマスカラを持って目を見開いている姿は間抜け以外の何物でもない」
などの意見もあったそうだ。また、ある大学教授は、
「人前での化粧をフランス人同僚は『露出狂』と言っていた」
「車内化粧は戸を開けっ放しで入浴するのと同じ」
とも言っている。また、ある女性からの、ちょっと視点を変えた、
「周囲の人間を、『人格と心を持つ他人』としてではなく、
 景色か物ととらえている。単なる物扱いされれば不愉快だ」
という意見も、そういう見方もできるなぁ、と思う。

とにかく、見たくはないし、目に入ってしまえば不愉快に襲われるのである。
「イヤなら見なければいい」と言われても、目に入れば不愉快に襲われる。
この不愉快さは、醜い容貌の人を見て感じるのとはまったく異質のものである。
車内化粧に限らず、喫茶店やレストランでの店内化粧や、教室内化粧も同様である。

時間節約の人も中にはあるだろうが、大半は、自分の化粧が気になったときに、
どこでも平然と直せる図太さを身につけただけの話である。
つい何年か前までは、化粧室に辿り着くまでは化粧道具が出せなかった。
そんなプライヴェートな営みを人前ですることを、恥じていたのである。
そういう恥の感覚を失った女性が増えつつあるということだ。
さらに、私の立場から言わせてもらえば、
化粧をしているときの表情がどういう様態のものであるかを読み取る力もなくしている。
これを革命と呼ぶべきか、堕落と呼ぶべきか、その判定は容易でない。

化粧に限らず、羞恥心の欠如というものは、今の高校生を見ていれば、
そこら中に指摘できる。しかし、まあ、これはまた別の機会に。。。

車を運転している女性の車内化粧、あれは、実に迷惑である。
電車内と違って、自家用車の車内は半私的空間とも言えるけれど、
車自体は公共の空間に存在していることを忘れてはいけない。
そういう女性が後方にいる場合、バックミラーで見ると、
時々すごい顔を見せてくれたりして、滑稽なおもしろさもあるのだが、
自分の前にいられると、大変な迷惑を蒙ることがある。
もちろん、前の車の場合は、化粧しているのかどうかわかりにくい。
けれども、ある朝、明らかに化粧をしているのが見える車の後をついて行くと、
蛇行運転でヒヤヒヤさせられた上、発進が3度も遅れて怒らずにはいられなかったのである。



2001年06月25日(月) 「時間」について

きょうの授業は、3時間ともテスト前の自習時間にした。
そこに、欠勤した人の自習監督が入ったり、恒例の会議が入ったりして、
少ない空き時間に、明日の吹連のコンクール打合会の準備を大急ぎでやった。
ホントは、自習時間にその準備をやりたいと思ったけれど、
野放しにしておけるほど立派な状況ではないので、
自習の監督をしながら、昨夜思い出した岩波新書の「時間」を読んでいた。
教員が無為にウロチョロするよりも、教卓で真剣に仕事したり読書したりする方が、
生徒も落ち着いて勉強するものである。

その本を読み返してみて、やっぱり不毛な感じがした。
著者自身が、時間というものの真相を自分で見ようとしないで、
いろいろな学説の中から、推理の対象としての時間というものを
浮き彫りにしようとしているとしか感じられなかった。
残念ながら、その本を職場に置いてきてしまったので、
引用しながら批判することができないのだけれど、
学生時代にこの本を読みながら、どうもこの内容に満足できなくて、
そんなもんじゃなんじゃないかなぁ、、、とぼんやりしている中で、
あんなイメージがフッと浮かんで、そのままその虜になってしまったのだろう。

けれども、この発見はある意味では非常に恐ろしい発見だった。
あらゆる存在は、過去と未来の無の間にある紙一重のようなものに過ぎないことになるし、
(それに厚みを持たせているのは、意識の特性に過ぎない)
時間も空間も、頑としてあるのではなく、様々の存在とともにある。。。
そのどれが潰えても、世界は無の闇に陥る。
(それにしても、「無」って、いったい何なのだろう。。。)
すべては不断に消え去り、不断に生成し続ける。。。
絶対的なものはいったいどこにあるのか・・・?
あの時達した結論は、やっぱり我々の意識の産物でしかない、ということだった。



2001年06月24日(日) 時間について

昨夜、寝たのは3時ごろだった。
「やまとなでしこ」7、8話を見ていたのだった。
起きたのはちょうど正午になるところだった。
起きたときの腰の痛みが、いかにもよく眠ったという証になる。
おかげできょうは、何をやるにも、投げやりなめんどくささというものがなかった。
それから朝食(?)を簡単にとって、恒例のHP訪問やメールチェックをして、
昨日できてきた定演のビデオを一通り見たら、もう3時も過ぎてしまう。
森本哲郎が何かの本で書いていたように、日曜の午後というのは、
あっという間に過ぎて行くものである。
・・・まあ、きょうは起きたのが遅すぎるから当然なんだけど、
今までの経験で言えば、早起きしたって実質的には大差ないものだ。
それから、大量の買い物にも出かけたし、
試験問題の仕上げや、吹連の仕事もしたわけだけれど、その合間に、
書きかけのまま放ってあった「時間について」を書き加えた。

もうちょっとわかりやすく書くつもりだったのに、
やっぱりわけのわからないような、苦しい表現になってしまった。
大学時代に滝浦静雄の「時間−その哲学的考察−」という岩波新書を喫茶店で読みながら、
本から目を離し、周りを眺め、ウエイターの動きをぼんやり見ていたときに、
ふっと思ったことが、そのまま今まで続いているのである。
その時読んでいた本の内容は、もうまったく覚えていない。

この世の中にどれだけ不思議なことが多くたって、
時間と空間ほど不思議なものはない。
真剣に見つめ始めたら、発狂しかねない。
きょうは、とりあえずのところで書くのをやめた。



2001年06月22日(金) ちょっと恥ずかしい買い物

テストも何とか完成したので、退校可能時間に入るとすぐに出て、
いつもパソコン関係の買い物をするコンプマートに向かった。

妻が成績処理をするのに、職場で作ってもらったファイルがMac ではどうしても読めない。
それで、今まで私が代わりに枠を作ってそれで作業をしていたのだが、
どうも不都合なので、1週間前にやっぱりWin ノートがほしい、と言い出した。
ホントは、すでにiBook を使っているのに、新iBook を欲しがっていたのだが。。。

もう早急に成績処理に入らなきゃいけないので、きょう買いに出かけたわけだ。
けれども、何も下調べをしていない。
とにかく、条件だけは頭に入れて、店で探すしかない。

・20万円以内でおさめる。
・用途は限られているから、機能は簡素な方がよい。
・エクセルがバンドルされていて、すぐに使える。
・あまりごついデザインはダメ。
・在庫があって、すぐに持ち帰ることができる。
・液晶が14インチ程度。

結局、16万円台で出ていたメビウスを買って帰ったのだが、
どうもWin 機を買うのは、〈恥〉のような気がして冷や汗ものだ。
職場で時々Win 機を使っても、なぜ世の人はこんな厄介なパソコンを使いたがるのか、
不思議な感じがする。

Mac 信者にとって、Win 機を買う瞬間というのは、
踏み絵を踏むようなつらさ、痛さ、恥ずかしさ、、、に襲われるものである。



2001年06月21日(木) 新入生校外合宿を潰す

昨夜は、久しぶりに「やまとなでしこ」の第2話を見始めて、
(「再び第1話」を書いて以来、つまり、その続き。ずっと気になっていた)
ついつい第4話まで見てしまった。
TUTAYAの「やまとなでしこ」コーナーの解説に、
「何度見てもおもしろい」と書いてあったけど、本当にその通り。

こういうメルヘンに酔っていると、現実が煩わしくなるものだが、
やっぱり、憂鬱な現実は襲いかかってくるもので、
きょうは職員会議で議長をしなければならなかった。
ただでさえ、議題が多いのが運営委員会でわかっているのに、
もうひとつ、ひょっとしたら大変な審議になりそうな項目つき。。。

その校外合宿を行うかどうかの再提案は、「来年は行わない」という形で提案された。
そのおかげで、会議の混乱は避けられたものの、それに不服な人たちからは、
「もっと有意義な代案を1年かけて模索する」
「来年入学の生徒が、自分たちだけこういう行事がなかった、と思うのはまずい」
などという意見が出た。
「教員の熱意が衰えたせいだ」と批判する人もいた。

私は司会しながら、そのすべてへの反論がすぐに浮かんだけれど、
意見を言うわけには行かない。
「今後の検討への参考意見」などと、彼らの意見をくくってしまって、
とりあえずきょうの議論をおしまいにしてしまった。

校外合宿なるものにこだわるよりは、学校祭にこだわった方がいい。
校外合宿で授業が潰れる分を、学校祭準備に回そう。
例年、授業時間確保、という名目のもとに、準備時間が虐げられている。
授業時間確保を強く主張する割には、校外合宿、修学旅行、遠足などには、
実は、授業を潰すほどの価値があるとも思えないのに、妙にこだわっている。
優先順位が違っているのである。



2001年06月19日(火) 桜桃忌

何年たっても、6月19日というのは、ほのかに特別の日なのである。
最近は太宰の作品をそれほど読むわけではないけれど、
今こうして文章を書いていること自体に、太宰の存在がまとわりついている。
ついさっき、文庫本を読んでいたことにも、太宰の存在がまとわりついている。
太宰に出会わなかったら、文章を書くことも、本を読むことも、考えることも、
それほど好きにならなかったはずなので。。。

そのほのかに特別な日に、それとは無関係な嬉しい展開。。。
金曜日に、「魔女の条件」DVDと、「やまとなでしこ」サントラCDを注文した。
その時、「早くて火曜日には入荷します」と言われた。
でも、夕方、帰路につくまでにその店からケータイに連絡は入らなかった。
そこで、そのままいつもの経路で帰ろうと車を走らせ始めたのだが、
ふと考え直し、その店に行くのに都合がいい経路を選んだ。
途中で店から連絡が入ったら、それを引き取りに行けばいいし、
連絡がなかったらレンタルに寄って、「魔女の条件」の最終巻を借りて来ようと思って。。。
ところが、ホントに途中で、その店から連絡が入ったのだ。
その店まで10分もかからないあたりまで達したころに。
それでそのまま店に向かい、その2品を買って、
サントラ盤の方は車の中で聞き、夕食後「魔女の条件」の最後の2話を見終えた。



2001年06月14日(木) 対話

若いころから、読書は対話である、哲学を学ぶのも対話である、
音楽を聴くのも対話である、、、、というのがモットーのようになっていて、
近年はそんなことをそう意識化することもなく過ごしていたけれど、
橋本さんが橋本BBSに自ら、北さんへの反論としていいことを書いていたので、
末尾に押しやられて消えてしまわないうちに、ここにコピーしておこう。

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私にとって、歴史とは過去と出会う旅だといってもよいでしょう。
他国を知ることが、自分の国をよく知ることに通じるように、
過去の世界を知ることは、現在の自分を知ることでもあります。
歴史とはそうした時間の旅ではないでしょうか。

そしてそこで大切なのは異なった世界との「出会い」だと思います。
異なった文化や価値観に出会い、そうした対話を通して、
現在の自己を反省し、変革していくこと。
そして、未来への 新しい展望と希望を得ること。
歴史を学ぶことで、 そうした自己変革と自己認識の深化が促されます。

歴史を「物語」だと見る観点からは、このようなダイナミズムは
生まれようがないのではないかと思います。
現在の視点で、過去を解釈し、
都合のよいフィクション として仕立て上げる行為が「歴史」だとしたら、
それは あまりにも自己中心的、現在中心的だと言えないでしょうか。

歴史は過去との出会いであり、過去との対話だと思います。
そして、そうした対話を通して、より大きな真実を尋ねる 旅だと思います。

私がこうした考えをするのは、私が数学や自然科学を学んできたせいかもしれません。
数学や物理学も「物語」だと言う人が いますが、
しかしそれは単なる「物語」ではない。
それはやはり「自然との対話」の産物なのです。
そして、それよって、私たちは、常識を越えたさまざまな 自然の驚異に
目を見張らされることになります。

私は自然科学に限らず、「学問」とはそのようなものではないかと思っています。
いや、そもそもそれは文学の精神でもある。
「竹のことは竹に学べ」という芭蕉の言葉に心がひかれます。



2001年06月12日(火) ようやく回り始めたかな??

日曜日から、やっと少しずつ書きかけのファイルをupし始めた。
映画についてのコーナーも作っ(て、菜々子様の記事もその巻頭に置い)たので、
これで少し落ち着いた感じがする。
「やまとなでしこ」についても一段落して、以前から書きたかったいろいろのことが、
また、自由自在に頭の中で暴れ始めた。
交通整理するのが大変である。

で、書く意欲満点なのに、どうも巨人のもどかしい試合運びが邪魔をする。
8回で10対3なら、もう楽勝試合じゃないか!!
それなのに、四球、四球で試合が延びる。
エラーがらみのランニングホームランまで、あって、
性懲りもなく四球続きで、またもやピッチャー交代。。。
ホントに無駄な時間だ。勝っても腹立たしい。
先発のピッチャーの女房役は阿部、リリーフになったら村田、とすればいいのに、、、と、
もうイライライライラしてしょうがない。

しかしHPは、何とか毎日更新ペースを保ちたいものだ。


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