日々日記
いちらんふるいあたらしい


2009年03月14日(土) お仕事考

今日でバイトを辞めた。
朝3時半起きの大変さが良くわかる仕事だった。

雪が降ってすごく積もった日とか、
台風の豪雨の中を、いつも雨カッパ着てマウンテンバイク乗って行ったことが
すでになつかしい。


お勤めって、大変だけど面白い。
人と関わることで「生きてるなぁ」って気がするから。

そしてお客さんのキャラクターの幅の広さに、
「世界は広い。常識なんて幻」って思わされるから。

さらに会社そのものに、
「どうにもならない部分」とか「白黒はっきりさせてはいけない部分」を
いろいろ見ることが出来た。


職場というシステムは、どこも多かれ少なかれそういうものを持ってるんだな。

でなきゃ、人が一カ所に集まってきて働き続けることも、
会社という仕組みが維持されることも、ありえないんだろうなー。




もちろん円満退社よ(いや、店側の腹の中は知らんけど…)。

さぁて、次はどこで働こうかなー!


明日から伊東に卒業旅行だお。

1泊。
なんとつつましい旅行。
でも一緒に行くのはマブダチなんだぁー。楽しみだなぁ。
グフ。


2009年03月10日(火) 春のつれづれ

ひっこしひっこし。
今日やっと光回線が開通ー。ネットなし生活長かったー。


そして春っぽく、空気も水も温んでいくのと同時に、
わたくしも自堕落モードから、ヒヨッコ研究者モードに少しずつ転換中。
…さすがにな、いい加減にしゃんとせんとな…。

いや、研究者とか言い過ぎだわ。反省。まだ全然研究者ではない。ふはは。
つーか、卒業式!21日!忘れかけてた。てへ。


ところで、ところで!

竹細工にすごく興味があるんだ。
どのくらいあるかというと、松本までこの夏習いに行こうかと思案してたくらい。

というのも、松本の竹細工職人さんは超高齢でさ、
早くしないとこの世からいなくなっちゃうからなんだけど。

なんと竹細工職人、地元にもいたんだわー。あーびっくらこいた。
「自給自足」という季刊雑誌に「中津川」の文字。ひゃー。

そうよねぇ、あそこ、竹いっぱい生えてるし、水も空気も空も良いもんね。

てことは、松本の人に習うの間に合わずにお師匠が死んじゃったとしても、
中津川の人はご存命だということだ!若いし!


生活の中で使うものを自分で作って暮らしたいという願望があるのだけど、
(みそとか醤油とか、野菜づくりもその一環)
竹のカゴは気に入ったサイズもデザインもあまりないというのが作りたい一番の理由。

オールマイティに使える美しさというのも確かにあります。
何を入れても、どう使ってもよしの美しさ。


だけど、そうじゃない美しさを求めたいんですよ。フェチ的な。

自分の腕の長さ、ウェストの位置、手のひらの大きさなどから編み出された、
「いちばん使いやすい大きさ」とか、

空間の占有という面で一番美しい「縦横比」だとか、

中にものを入れるという機能という面では、
入れるものによって専用の高さや幅にしつらえることだとか…。

きりがない。

あと、いいカゴは高い。でもやっぱ、いいカゴなのよ。うっとり。
高くていいカゴを買ってそれをお手本にする。

編み物は好きじゃないけど、竹でカゴ編むのは絶対楽しいと思う。

売る訳じゃないから、竹の加工の仕方と編み方を教われば、
ひとりでぽつぽつ編んでは使い、使っては次回作で改善していける。

などという、素人の夢を果たして職人さんが聞いて下さるかっちゅう
問題があるんですけど。がんばるにゃ。



なんだかますます社会学から離れて行っているように見えますが、
そうでもないんよ。
でも、もしかすると社会人類学とかそ文化人類学のほうにシフトする可能性はあるかもねー。


2009年03月09日(月) 京王百草園に行くまでの坂に夢中

百草園と書いて「もぐさえん」と読む。

…最初読めなかった人ー!  はーい!!


行って来ました百草園。
京王線に乗って八王子からすぐ。

駅から出ても全然それらしきものが見えず、とりあえず看板に従って歩き始めたが、
幹線道路から左折して住宅街に入ってしばらく進むと、なんだこの坂 wwww。


笑えるくらい急斜面の山(多摩丘陵)の上にありました。

そして、園そのものも急斜面にへばりつくようにあって、
みんな時には手足を総動員で階段を登ったり下りたりするのだ。


百草園までの道のりがまたすんごい坂なのよ。
どのくらいすごいって、足腰への負荷が強くて、
坂の途中で立ち止まっていたくないほどの坂なのよ。


たぶん、軽トラとか2速じゃないと上がれないね。
…1速でなきゃってことはないとは思うがあのカーブで減速したら…うーん。

1回止まったら初心者は間違いなく坂道発進に失敗するだろうなぁ。
そしてトラウマになる百草園の坂道。


その道中に建ってる建て売りっぽい家がですよ、また傾斜がものすごいから、
谷側の壁が切り立ちすぎでコワい…!なんでしょうこの高さは!すごい!すごいよ!


…、坂道のことはまぁ、置いといて。


百草園は梅祭りでしたが、ロウバイもマンサクも梅も、終わりのシーズンだった。

でも、たくさん新しい芽を見て写真をとって満足だった。

土から生えてきているいろんな芽、枝から伸びるたくさんの芽。
新芽はいつだって瑞々しくてやわらかくて、明るい緑や鮮やかな赤で、
銀色の毛をまとっていて、とにかくかわいらしんだな。


帰りもまたあんまりすごい傾斜だから笑いながら下る。
坂道楽しかった。


2009年03月08日(日) 脳死と臓器と親とわたしと

父親の転職に伴って、保険証がまた変わった(よく変わるー)。

かく言う私は父の健康保険の、被扶養者なのでありますが、

こんどのは、保険証の裏に臓器提供の意志について
記せるようになっているではありませんか。


わー。
急にきたわー。

オロオロ。オロオロ。

だってそんなの、
その時になってみないと、わからないじゃないか。

でもその時になったらもう、
自分じゃ自分の気持ちを言えない(;_;)。

うーん…、だから今決めとくのか。


信仰上というか、教義上は、臓器提供はNGだと叔母が言ってたなぁ。

しかし、脳死の人から臓器を取り出し、
必要な人に提供し、役立てることは、生命尊厳の教義上、必ずしもNGではないだろう。


だーけーどー、
臓器を提供した当の本人は、もうそれを喜べないんだよなー。


自分のことだけど、なんだよ、全然自分で決められんぞ…!


親に電話をする。

父は、「お前の好きにせぇ」という。

でも、このカードの提供欄に○をして、その意思(遺志?)に従って
臓器を取り出されるときというのは、

わたしはもう心停止か、脳死で、いろんな判定基準をクリアして「死んだもの」
とみなされた時だ。


しかし、目の前で機械に繋がれて呼吸をする娘が、
もう二度と目を開けないのだと、死んだも同然だと、果たして親がそう思えるだろうか。

そしてしつこいけど、
そのときの私には親に自分の気持ちを説明し、
臓器移植に同意するよう説得することはできないんだよな…。

困ったね。
あなたたちに作ってもらって育ててもらったこの体をどうするか、
それを私の意思で決めちゃっていいのかと思うよ。というと、

母はとまどっていた。

わーん。わーん。


生きている自分の意志としては、臓器提供は有り。

でも遺された両親(いや、母親だな)の気持ちを思うと、無し。

うぅう。いきなり来たから、面食らっちゃった。
この答えは、そう簡単には出せないわー。


「死」って必ず来ることなのに、
なんでこんなにいやな気持ちがまとわりつくのか。
なにがこんなに怖いと思わせるんだろう。

自分が死ぬということは、
よく寝たままもう絶対起きないことだと思えばまぁいいけれど、

残った人がどう思うかってことまで考えさせるなんて
一体どういうカードなんだよー。わーん。


2009年03月03日(火) 猟奇的な気配?

大学構内、くそ寒いコンピュータールームから更新。

解放してるんなら暖房くらい入れて欲しいわ!


先日大学構内を歩いていたら、
小道の曲り角に、黒色した大きな鳥の頭がい骨が落っこちてた。

たぶん、日常見かける黒くて大きな鳥っていうと、
あれのことをさすんだけど、ちょっと生物名は控えるにゃ。

ええと、骨とかその他いろいろな状況を鑑みるに、
あくまで予想だけど、

だ れ か が 故 意 に 置 い た 可 能 性 が あ る 。

キャー!!!!


以前も、人通りのある駐輪場脇のフェンスに、
死んでだいぶたって、骨と羽だけになった鳥が差し込んであった。

高さ的には155センチの身長の人の首くらいの位置に。

うへぇ、なんて悪趣味。と思ったけど、
うちの学生そういうの全然見てないから話題にもなんなかった。

そのときは友達と「百舌鳥のはやにえじゃね?」ということで
片付けてしまったけど、あれもよく考えると妙っつーか、
誰かが故意に金網にねじ込んだ可能性を否定できない。

だって、鳥が間違って自分で突っ込んできて出られなくなったのなら、
鳥がフレッシュなうちに私気づくと思う。
2日に1回くらい、あそこ通るから。

おそうじのおじちゃん、おばちゃんに聞いたらなんかわかるかな。
いや、聞いてはいけないことまで聞いてしまいそうな気がするなぁ。

ブルブル。こえーよ。
べつに今後とも何事もなければいいのだけど。


2009年03月02日(月) 人間て

大丈夫だよ、と言って欲しい生き物なのかもしんない。

宗教ってなんぞや、と思って宗教社会学を学んできたけど、
宗教の教儀やカリスマ指導者の言葉というのは、まさに「大丈夫だよ」と他人に言ってあげるためのものだ。


ただしそこに「(こうすれば)大丈夫だよ」という「注文」がつくんだな。
いろんな禁忌とか義務とかがね。

その「大丈夫」だと言われたい心理に付け込むのが詐欺ってことかな。

どこまでが布施や寄附でどこからが詐欺なんかなー。
お金を出せば「大丈夫」になると言われて出したわけだもんね。

でも大丈夫にならなくて「あー騙されたー」って、 詐欺だと言うわけだ。


もすこしじっくり考えたいなーこのあたり。
先生とも話してみよー。


宗教ってなに?
救済?経済活動?
とにかく宗教がニーズに応える件については調べたり考えたりすることが
たくさんありそう。

学問レベルでは決着ついてるのかなぁ。
そこも調べないと。


引越し終わった。
生まれて初めて歩いて無印良品に行ける場所に住んでいる。

将来は無印良品の家を建てたいくらい好きだよ。

あーうれしいなーっと。


inu-chan