日々日記
いちらんふるいあたらしい


2008年10月31日(金) びっっっっしり

道路より高い位置にあるキャベツ畑と道路を区切る、
コンクリでできた壁に、

直径1センチ強のカタツムリが、びっしりとくっついている。

あれ、100個、200個どころじゃないと思う。
もっといると思う。


今日は日がさして空気も乾燥しているので、みんな殻のなかに入って
壁面にくっついてたけど、


雨が降ったらどうなっちゃうんでしょう、あの壁!!!
あと、夜ね!


みんなでうにょうにょ動くんだろーなー。
ご飯食べなきゃなんないから。

彼らはキャベツとか、ブロッコリーとかが本当に好き。
ナメクジもそう。


収穫を終えたブロッコリーの葉や茎を片づけて畑のすみに置いとくと、
わらわらと寄ってくんの。
ナメクジの大きさとか、尋常じゃない。


こんど天気の悪い日にあそこもう一回見てみよー。



…一点、気になるのが、

あんだけ大量のカタツムリがいて、すぐそばがキャベツ畑。
彼らが実際にキャベツを食べて暮していたとしたら、
その食害は結構なものになってるはず。どうなんだろう。

畑の人はあの壁に気づいているのかなぁ。
道までおりて、道路側から見ないとカタツムリの大群は見えない。


ああいう光景はいいねぇ。
昔ながらの石垣が少なくなって、カタツムリも居場所がなくて
たくさんいるのってあんまり見かけない。

いやー、眼福眼福。


2008年10月29日(水) 海老名家のお嬢さんのこと

泰葉さんにとって何が一番辛いのかなぁということを、
いらんこととは思うがちょっと考えてみる。本当にいらんことです。ごめんなさい。でも書く。


泰葉さんは、離婚をして苦しいのだと思う。

離婚は自分を解き放し、これまでの苦しみや不満、我慢から
自由にしてくれるものだと思っていたのかもしれない。

離婚したら幸せになれる。自由になれる。そして夫が分かってくれるとでも思ったのかな。


でも、離婚をしても元夫は
どじょうかウナギのように彼女の思惑からどーんどんすり抜けていく。


彼女が望んだほどがっかりもしないし、反省もしないし(小朝さんの心中はわかりませんが)、
彼女を失って酷く苦しんだりもしない(いや、心の中のことはわかんないけどさ)。

むしろ、独身をエンジョイし始めちゃった(ように拝見できる)。


あと、暮しが一変したとことも大きく影響していると思う。
結婚している時は自由もなかったけど、様々な意味で「後ろ盾としての夫」があった。

でも、もうそれもない。
他者の後ろ盾があって、その威力で物事を通して来た人が、
(世界ってこういうもんだ、と思ってた人が)その威光を失ったときの驚きは想像に難くない。

自分になんの力もないことを思い知って愕然とするのではないかな。
その時の落胆と怒りが他者(ダンナ)に向いてるのでは。

でも小朝さんにしてみれば「離婚したいって言ったのはアンタでしょ」って。
相手にされない。


それと、泰葉さんが悲しいことに世間知らずなことが騒動に拍車をかけている。

彼女、作戦がないんだもん。ノープラン。
行き当たりばったりで当事者以外の人にも迷惑をかけたりする。
あれでは社会的信用を失って将来の仕事にも影響を及ぼすし、何よりこの勝負に勝てない。


まだまだ全然落ち着いて物事を考えられない時期だと思う。
こういう苦しいときって、例えようのない怒りや憎しみが湧いてきて自分で自分を制御できなく
なったりするのもわかる。

でも、だからってそれを実行に移したら負けですよ。

せっかく今まで辛抱してきたんなら、ここでもうちょっとがんばれ。って思う。


彼女の言動には呆れてたんだけど、書いてるうちに気の毒になってきたよ…。


あとねぇ、マスコミも、彼女の言うことを相手にしないであげて欲しい。
彼女はマスコミをいい手段だと思って行使してるようだけど、結局消費されるだけ。

そして全国の、情報が届くところの人々に嘲笑されるだけのこと。
痴話げんかでしょ、これって。報道するほどのことかなぁ。

海老名加代子さんは物笑いになってることがわかるから寝込むわけで。
そこがわからないのはやっぱり彼女が世間知らずだからだと思う。
もうちょっと冷静になってみなよ、と思う。


自業自得だけど、彼女が痛々しくてならない。がんばってよー。頼むからー


ってかもう本当にこんなこと書いてる場合じゃなくて今日は卒論(16000字以上)の半分、
8000字分を書き上げてボスに提出する日なんだよぅよぅ! キャーアー!!


2008年10月28日(火) 吉本さん×原さんコラボ

吉本隆明さんの講演会に行ってきた。夏の昭和女子大に続いて2回目。

今回は、わかった!
前回のお話は全然わからなかったから、アンケートも書かずに
逃げるように会場を後にしたのだけど、

今回はわかったよ。
うれしいなぁ。


空に手を伸ばし「吉本さんには見えているもの」を見据えながら、
言葉を紡いでおられるように感じた。


吉本さんが言いたいこと、その意味が、
糸井さんが今日のダーリンで書いているとおり、
注意深く聞いてるとわかるの。

メモもいっぱいとって、講演を聞きながらも頭の中で整理して、
ふむふむ、なるほどなぁって思いながら、あっという間の2時間強。


それにしても月曜日の夕方はてんやわんやだった。

4コマの講義を終えて、大学前からバスに乗って八王子へ。
そこから京王線で新宿へ。

着いたら外は雨。がーん。

最近盗難や廃棄で傘がない生活なので、かねてからの予定通り
東急ハンズで傘を買う。

で、すぐさせるよう折りたたみの骨をほぐして外に出たら
雨は止んでいたという…

まぁいいや。気を取り直して紀伊国屋書店を目指す。


人生を費やして何かを考え、何かをしてきた人の持つ言葉、放つ言葉に
もともと非常に興味があったのですが、

(そういう意味では自分以外の他者の言葉はみんな興味深いのだけど、
そうはいっても突出してすごい人ってのもいらっしゃるので
なおのこと会いに行って話が聞きたいわけで)


それに吉本さんのことは昨年ほぼ日を知るまで全然知らないでいたので、
もうご高齢だし、姿や声を実際に聴けるチャンスがあるなら
ぜひ行きたいなぁと思ったのがきっかけ。


それにしても、せいぜい長くて100年くらいの一生の間に、
人はどれだけのことを考え、そしていったい
どれだけのことができるんだろうか。


人間てのはすごい生き物だなぁ、と思いながら講演を聴き、
思いながら自分の周囲に座っている「生きて存在する人たち」を見る。
うーん、楽しい。


最後に、「わぁ」って感じで両手をhands upさせていた吉本さん、
最高にお茶目で素敵でした。
寒くなってまいりました。どうかお体を大切になさってくださいね。
またぜひお話を聞かせてくださいませ。


そうそう、XVDの映像がものすごくきれいでびっくりした。

うちにはテレビがないので
ハイビジョンがどのような美しさなのかが実感としてわからないのだけど、
XVDに切り替わる直前の原さんの動画と比べると違いは歴然だったよ。


肌の色がきれい。自然。
髪の毛の一本一本まで見えた。
講演が進むにつれ、吉本さんのお顔(頬のあたり)に
うっすら赤みがさすのもきれいに見えた。

講演後の、つやつや輝くほっぺもね。



あの技術ー!
日本のね、子供の家族と離れて暮らすお年寄りの家にあったら
すごくうれしいだろうなぁと思う。家族も安心かもしれない。

孫と繋がれたら、うれしいだろうなー。

保健婦さんとか、デイサービスの職員とも繋がれると便利かも。


本当はすぐそばに誰かが行ってあげれれば一番いいけど、
できない事情も時もある。

でも臨場感溢れる画像で対面して、人と人が「繋がる」と、
きっと今よりもっと安心できると思うなぁ。

お年寄りが集まらずに、茶会も井戸端会議も親族会議だってできそう。
好きなお茶をいれて、好きなお茶菓子をつまみながら。

おもしろいなぁー。


わたしは、離れて暮らす10歳の息子(ヨーキーとダックスと
マルチーの雑種)の部屋にカメラを置いてわたしの部屋とつなげて、
毎日あの子の顔が見たい。



対談を読んで、そしてXVD画像を目の当たりにして思うのは、
やっぱ、原さんのお人柄が大きいと思う。うまく言えないんだけど…

どうも疎外感しか感じなかった先端技術というものが、
ひょこんとわたしの手の中にやって来たような感じ。
やぁやぁ、どうもどうも。とこっちも最初から馴染んでしまう。


それとねぇ、今まで不便でならなかった言葉の問題。

翻訳の機械さえできりゃこっちのもんですよ!!!
海外で、生きたい場所、やりたいこと、もー山のようにあるもん。
実用化を心待ちにしています。


あー、楽しかった。

今日から卒論進行へ移行。
書き上げないと卒業できない(>_<)


2008年10月26日(日) 醸した味・付けられた味

売っている食品の味が最近へんだなぁと思っている。

毒が入ってるとかそういんじゃなくて、味が自然じゃない感じなのだ。
なんだかわからないけどやたら旨味のある味がする。

この安さで、ここまでの味が本当に出るのか?と思ってたら案の定。


たんぱく加水分解物なるものが編み出され、暗躍?していた。


醤油は、本来は「大豆と小麦と塩」とで作られる。

それらを混ぜ合わせたのち、醸しておいしい醤油へ変えるのは酵母の仕事で、
それには一定の時間がかかる。

でもゆっくりと、酵母の働きで旨味が作られていく。


でも、やたら安い醤油は、もはや醸していない可能性すらあるということを
別冊宝島で読んでしまった…。塩水に大豆由来の旨味を混ぜて、色を付ければいいらしい。

ガガーン。そんなー。



今日、夕飯は天ぷら蕎麦だったんだけど、スーパーで買って来たエビの天ぷらを食べた時も
「…エビじゃない、なんだかやたら旨味のある味がするなぁ」と思った。

いやーん。

でもこういう味付けをしなければおいしくない素材ってことなのか?


もはや素材は何でもいいのか?
味付けこそが重要な時代なのか?



食べ物じゃないけど、このような違和感を覚えた出来事がもう一つあった。


レスリングの吉田沙保里選手が美の世界王者によって美しく変身!!っていう記事を
最近ネットで見たのだが、

変身後の人は、もうあれは吉田さんじゃないですよ。
彼女のいいところを最大限に生かしたのではなく、美の世界王者が作った「美の型」目指して、
マニュアル通りにあれこれ味をまぶされただけ、のような。


美の世界王者はそんなこと露程も思ってないだろうけど、
わたしは、もはや素材は何でもいいんです!!という身もふたもないメッセージを強く感じた。



あの変身を吉田選手自身が望み、そして完成した姿に心から喜んでいるのなら
外野のわたしが言うことは何もないのだけれど…。


うーん、やっぱ、ありゃないだろうっていう。うん。

ごめん吉田さん。あなたは悪くないです。


2008年10月25日(土) 傘ないじゃん

傘がない、ということに雨が降ると気付く。

雨が降るまで忘れてる。


いつも持ち歩く折りたたみ(アフタヌーンティーで4年くらい前に購入)は、
いつも骨が当たる部分に穴があいてしまったのと、
生乾きの匂いが取れなくなってしまったのでさよならした。

もう一本、今年妹に買ってもらった無印の「印の付けられる傘」は、
誰かに盗られてしまった。
あんな目立つ朱色の傘なのにー。


で、傘がないのにそのことを忘れてるってのが問題。
雨が降って「わー、やばい」と思ってもねぇ。後の祭りなんですのよ。

幸い、傘なくてもなんとなかなる状況が続いており、助かっていますが
この週末に傘買わないとなぁ、と思っている。

モンベルの折りたたみを狙っています。
軽くて、シンプルで、いいんだよ。


同じように、ないことを、使う段になって思い出す品物って他にもある。
・野菜の皮むき(ピーラー)
・おろし金

皮むきは、なくても包丁で代用できるけど、おろし金の替わりはない。
とろろ、大根おろし、にんじんピラフ、などなど、食べようと材料を買って来て
キッチンに立って初めて「あ」と思うことが幾度となくあった。


でも、これ、ってものがないとき焦って買うと、結局手に馴染まなかったり
使い勝手が良くなかったりして、使わないで捨てる羽目になるから、
結局皮むきは買ってない。

おろし金は、セラミックのを一つ買ったけど、いまいちなんだよなー。
また探すかも。



話は変わって、

わたし、もしくは誰かがわたしの卒論の話をするとき、
どの人も自然に笑みを浮かべ、その場は実に和やかな雰囲気になってしまう。

中にはそうならない先生もいるので、必ずそうなるというわけでもないのだろうけど、
真面目に論じるのが難しいのかなー。

そこんとこがサブカルチャーとされる所以なのかしら。
もしくは、大学アカデミズムに認められない要因かしら?


いや、そんなことないはず…?自信ないなぁ。


でもなんだか面白い現象。
本人は、いたって大真面目なんですよいつだって。


卒論提出後の口頭試問とか、一体どーなっちゃうんだろうか。

それを想像して、ボスが笑ってることがよくある。
「最後に写真資料をババーンとたくさんつけてだな、提出だ。笑」って。

笑い事じゃないですよー。


2008年10月24日(金) 文字と声と

その昔、井の頭公園で2週間の学芸員実習を行ったことがある。


その時モルモットの飼育係のおじさんに口説かれたことは
以前も日記に書いた。
inu-chanが今より若かったころの、愉快な思い出のひとつ。


さてその実習の最終日、園の皆さんが送別会を開いてくださった。
園内で焼き肉をしたような気がするなぁ。

その宴のときおじさんは、たまにわたしの隣にきて飲んでいたのだけど、
何かの拍子にわたしが書いた字を見て言った。


「ああ、貴女はこういう字を書くんだ。そうか。」と。

それも、実に嬉しそうに。


その時のおじさんの気持ちってこうじゃなかったのかなぁっていう、
そういうシチュエーションが最近わたしにも訪れた。


「ああ、貴方はこういう字を書くんだ。そっかー。」って。


自分で自分の顔は見えないから想像でしかないのだけれど、
まぁ十中八九、嬉しそうな、なんともいえないニヤニヤとセットになって
呟いていただろうなーと、確信してます。

想像に難くない、ってやつだ。


いっそ、この文字を(文字は無理か。だから、紙を)胸にかき抱きたい。
とすら思った。

彼の書いた文字があったという、偶然・まさかの発見。


この嬉しさ、こみあげる笑みに、ああもう中学生かよ!って思う。


するとそのあと、
この文字との遭遇だけでもお腹いっぱい幸せだったのに、
数日たったらWebで声まで聞けることに。


うろたえるinu-chan。そんなー、コ、ココロの準備が間に合わなーい!!


でもそこはわたしでした。笑。
静かな場所で、リラックスして聞きたいなぁと、
あんまし人がいっぱいいる場所じゃ聞きたくないなぁと思って、

わざわざ家まで帰るまで聞かないようにして、

そんで、次の日バイトだったから、ご飯もお風呂も翌日の準備も全部済ませてから、
パソコンの前に端座して、イヤホンで直に聞いた。


内容はもちろんふむふむと思ったけど、それより何より、
「ああ、貴方はこういう声なんだねぇ。そうかぁ〜」ってドキドキしながら思った。

なんだかとっても、うふふだったー。


2008年10月20日(月) 考える葦、折れても枯れはしません。

秋だ!

朝、自分が寝ている布団の中の温度が、暖房なしで全くちょうどよくて快適で、
「このままずぅっとこうしていたい…」って毎朝心から思う。

いっそこのまま、寝死んでもいい。

新しい言葉「寝死ぬ」誕生。


というのは冗談ですヨ☆


日曜日は市の非営利団体が主催するサイクリング大会に出場して、
往復40km、多摩川沿いをのんびり走った。

風が気持ちよかったし、スピードがほんとにゆっくりだったので疲れなくつるつる走れた。
長い距離を愛車とじっくり走れて、楽しかったにゃー。


堤防の草を刈って乾燥した香りとか、銀杏の香りとか、焼き鳥屋の香りとか、
動物園の動物の香りとか、いろんな匂いがしていた。

堤防では、散歩する人、マラソンする人、犬の散歩する人、小さい子を連れた夫婦、
訳ありげな組み合わせの2人、などなど、様々な人を見たよ。

あ、堤防沿いの雑木林で枇杷の葉っぱを、市のごみ袋の一番でっかいサイズいっぱいに、
盗…もとい、収穫しているおじさんもいた。


でさ、走りながら自分のことを考えたんだけど、

今私が日々自転車に乗っているのは、大学に通うための時間短縮と、
早朝バスが走ってない時間にバイトに行くためと、健康のためと、

維持費を捻出してまで車に乗りたくないということと、
学生の立場で車を運転して万が一、事故の加害者になったりしたくないということと、

化石燃料を使わない移動を実践したかった、といったような理由による。


でも、日曜日に自分が自転車で走ったのは、
移動手段としてではないし、時間短縮のためでもない。

自転車に乗ること、それを楽しむために乗った。

自分の余暇をですよ、生活のために働くこともせず、自転車に乗ることに費やせるんだよ。

お金のない人はそもそも余暇を楽しめないかもしれない。
日曜日をツブして多摩川沿いを自転車で走ろうと思わないかもしれない。
いや、自転車を持ってないかもしれない。
日曜日だろうがウイークデーだろうが、働かなくてはいけないかもしれない。


そうか、自分はそういうのには困らない立ち位置に今いるんだな、と思った。
でも、大半は自分の金じゃないからね。親のおかげ。

おい、いつ自分のことを自分で養えるようになるんだよと、暗澹としちゃったり。
生きていけんのかしら、あたい。とか弱気になったり。

コラしっかりして!33歳!!



今日の社会学の講義で、まさにこの話に通ずるところの内容をやった。

ピエール・ブルデュの『ディスタンクシオンー社会的判断力批判』。
「文化資本」と「社会関係資本」の話。

こーれーがー、なんだか泣きたくなるような内容で。

様々ショックだったわけよ。もちろん社会学を学びたいと志すくらいだから面白いとも思った。
だからブルデュの本をちゃんと読もうとも思ったけど、

まぁほとんどが衝撃とかショックとか驚きとか落胆とか脱力とかへし折れるというような、
そういうマイナス感情に支配され尽くした90分間だった。


そーだったのかー。
自分って、そーだったのかぁーーーー。って、思った。

どんなんか、まだここではうまく説明できないんだけど。
(てかそもそも日記書いてる場合じゃなくて、英文和訳やんないとなのに何やってんの自分)



社会学って、すごいなぁ。
15年前の自分なんて文系の学問に全く興味なかったから、社会学なんて存在すら知らなかった。

知ってたらなぁ、もっと別の生き方があったかもしれない。
と思っちゃうほどに衝撃的な内容だった。

こういうショックを味わえることをむしろ悦びにしながら生きてやるぅー。と
結局のところ、今日も叫んだのでしたー。



ほぼ日で、原丈人さんと糸井さんの対談がまた始まった。三部作の最終回。
わーい、この日を、待ってたんだよー。


2008年10月14日(火) 文才ないや。

つるべ落しの秋の陽が、とっぷりと暮れた空の色はたまらない。

行き止まりのない濃紺色。
どんだけ奥行きがあるのかわからない、宇宙の色。


月が明るい晩は、濃紺の空はグレーと金色がかった鈍い水色になる。
月の光が透けるくらい薄い雲だから、見上げて見えるもの全てがとてもきれいに見える。

雲達はふよふよと、羊雲になって群れて、風に乗ってゆっくり・ゆっくり進んでいく。


田んぼの刈り穂の香りはとっくに遠ざかって、今はキンモクセイの香りが庭にたちこめる。

虫の音も一時より随分少なくなったなぁ。




…、違う。なんか違う。

あーーー!!!!
すっごく美しい景色を見ても、それを感じたまんま文章にできないこのもどかしさ。

絵や造形もそう。
すっごい構想があっても、技術が追いつかない。
キィーーーー!!!


犬の散歩で椛の湖に行って来た。
椛の湖は小学校の秋の全校遠足で毎年行く場所なので、
フォークジャンボリーとは世代的に縁がない私だけど、椛の湖のことは大好きなのだ。

紅葉にはまだちょっと早かったけど、目に映る景色はもう全部秋だった。
フユノハナワラビ咲いてた。久しぶりに見たなぁ…。


2008年10月13日(月) 蜂刺され

午後3時頃、蜂にちょっかいを出して左手の手首下15センチのところを
お約束通り刺された。


あのときの蜂の動きはすごかったなぁ。。

空中でホバリングしながらわたしの存在を認め、さらに
敵と判断してから刺すまでの素早さったらもう。

いやー、お見事。
キンチョールジェットなんか持ってても、ああなっては何の役にも立たなかった。

すごいなぁ、蜂。

刺されておいてなんだが、舌を巻いた。天晴。



今夜中の12時近く。

毒を絞り出して、それからずっと氷水を当てて冷やしているが、
少しでも冷やすのが滞るとすぐ熱を持ち、チリチリとしたなんともいえない痛みが走る。

傷口は肉が真っ白になっていて、
まるで皮下に血管が通ってないような、または白い膿でも溜まったかのような色。


そろそろ毒が手首にまで到達したようで、赤みを帯び膨らんできた。

うーん、肉がチリチリいうなぁ。
オオスズメバチじゃなかったし、痛みも寝れないほどじゃないから全然大丈夫だけど。


あんな小さな体で巣や仲間や自分を守ろうとした場合、
自分の体の何倍も(何百倍とか?)大きな生き物にダメージを与えようとすると
相当な毒じゃないと守れないよねぇ。


すごいわー。蜂毒。


人間は、牙も毒も刺もなくて、一体どうやって仲間や家族や自分を守ろうか。
なんだか、中島みゆきの歌を思い出しちゃったー。


2008年10月02日(木) トトロになった

友達と、友達の彼氏と3人で近所の温泉に行った帰り、
友達の彼氏の車の中にどんぐりを2コ落としてきたらしい。

それに気付いた友達が、
解散して歩き始めてたわたしに向かって「トトロー!トトロー!」と叫びながら、
走って追いかけてきてくれた。

彼女は、わたしの好きなものや大事にしているものを、尊重し、大事にしてくれる。

嬉しかった。






卒論の中間発表というか、
学生自身が興味のあるテーマについて調べたり書いたりを多少してみて、その上で先生が、
ちゃんと書ききれそうなテーマかどうかを査定?するというのを夏休み明けからやっている。

学祭近いし、内定式があったりとかして、全然4年生集まらなくて笑えるんだけど。フフフ。

先生もそこらへんは承知の上で、まぁ来た人でやりましょうか。って感じで
昨日もゆるゆると進んだ。

そいつが終わったので、今は気分が非常に晴れ晴れとしています。


卒論についても、大学院に行ってからのテーマについても随分うだうだ悩んでたけど、
結局、ちんこ博士で行きます。もう、迷わない。

どうもねー、かなまら祭りのことやってると、民俗学っぽくなっていってしまうんだよね。
それが良くないと思ってたのだ。

(テーマは宗教社会学っぽいものでなくちゃいけないと思い込んでた)

でも全然杞憂だった。


もともと周囲の目は本当にどうでもよいので気にもしてなかったけど、
サブカルと言われて見下されようと、大学アカデミズムからバカにされようと、
私はこのテーマを掘り下げてみようと思う。

それが少なくとも、混迷の一途をたどる現代においては人類益になると思うから。
性は人間とどうしても切り離せないテーマだからなおさら面白いし、大事だ。


わたしはどうも、宗教が担うところの「救済」ってのに興味がある。
卒論もそこに絡めていきたいなぁと思ってる。

あと個別の宗教でいえば神道にすごく興味がある。


この世に神がいるのかどうかは結局わかんなけいど、
あらゆる宗教というものについて今私が言えるのは、
その人がその宗教を必要とするなら、それはありだろうということ。

神がいると思う(信じる)心や、それらを大事にして生きる人間の営みが大好きだ。

とにかく、人が生きて行くというのは本当に大変なことで、
そこに祈りというものが加わることで少しでも頑張れたり、救われたり、希望を持てるなら
そんないいことはないと思うから。


ちんこ博士。結構じゃないですかー。

本当にこれをテーマにドクターになっちゃったりして故郷に帰れなくなっても、
卒業後、今通ってる大学の正門から入れなくなっても(いろいろ厳格な学校だから…)、
やるのだー。


2008年10月01日(水) 生きる濃度とか

それは他者から見た自分ではなく、自分から見た自分の生き方の濃度。
それがしたくてやってる、そんで世の中にもいいことがあり、
自分も充実しているという生き方を、わたしは濃い生き方だと考える。


原丈人さんの言葉を遡って追いかけている。

驚くのは、彼の発言の中身が、時間がたっても昔と全然かわってないということ。


ひらめいたアイデアに対し、自分の頭で作戦を考えて、足で探して、
そして自分の判断で、自分の資金を投じて実現していく。


それぞれの事案で浮上する問題に対していろいろ工夫しながら、
(それが、ちまちまじゃないんだよね。工夫も大胆)


でもやりたいことに対してはまっすぐやってきたんだなぁという印象を受けた。


大学を卒業してからずっとアメリカ。
私は彼が大学卒業の年に生まれてるから、アメリカに暮らして33年くらいになるってことか。


私がこの年齢になるまでの時間を、あの調子で働いて来たんだ。
はぁ〜…。感嘆します。


いろんなことがあったんだろうなー。
でも彼の口から話されるとそれらも笑い話になってそう。


もっと「人間 原丈人」に迫りたい。
卒論の題材にしたいくらいだ。


惜しむらくは私の境遇。
哀しいかな、ああいう世界とは接点が全然ない。

シリコンバレーって何?新しい球技?それとも踊りの名前?ってなもんで。


だけどとりあえずわたしも、わたしにできる範囲で体験してみる。

原さんが育てた技術(容量の大きな映像を普通の光回線で送れる圧縮技術)
を使った講演を聞きに行ってくる。


講演者は聴衆がいるホールとは別の場所にいる。
バラバラの地点をこの技術で繋いで、その講演会が行われるというわけ。


とてもきれいな画像が送れるんだそうで、
会議で使うと目の前に相手がいるかのように一生懸命話しかけちゃうんだそうだ。


こういうものにひょいひょいっと参加ができるとこが東京の面白いとこだよなぁ。

私たちを取り巻く情報量はもはや莫大すぎて一生かけても関わりきれるものではない。
たいがいのことはネットで調べれば知ることが出来る。


でも個人が「実際に経験する、体験する」ことの面白さ、必要性、重要性は
ちっとも損なわれてない。

つまり今は多くの人々に顧みられていないだけなんだと思う。


inu-chan