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2006年07月30日(日) オープンキャンパス

昨日、今日とオープンキャンパス。

土日出勤はしんどいね。とはいえ、昨年は委員だったからバイトの手配だの準備だのと気をつかったけれども、今年は他の先生にやっていただいているので気持ちが楽。身体的にもたちっぱなしじゃないしね。

ミニ講義と進路相談をすこしだけ。
昨日はあいにくのお天気だったので、高校生の出足もにぶかったが、今日は晴天でどっと人がきた。僕は自分が高校生のときにオープンキャンパスなどいったことがなかったのでわからないが(もよりの大学の学食にはよくいってたが)、父兄同伴でくることも多いのだね。ミニ講義なんか、むしろ父兄の方のほうが反応がよかったりして、こっちもついついそういう人にあわせて話しちゃったりして。いかんね。

明日は朝から研究でお世話になっているフィールドへ。



2006年07月26日(水) 四者悟入

先日、ある先生からはじめて聞いた。ちょっと調べてみたらけっこう言われてるみたいですね。知りませんでした。

その先生いわく、教師は4つの顔をもたねばならぬ。

学者・・・自分の専門をおさめるのは当然。自分の専門でなくても、子どもからたちあがった疑問によりそい、学びへとたどりつく道をつけてあげなければならない。

医者・・・教えるだけではなく、生徒の様子を把握していなければならない。例えば朝、生徒の顔をみて「あ、この子は今日は調子悪そうだな、昨日なにかあったのかな」とすぐに気づけるように。

易者・・・生徒に予想をもって関わらねばならない。たとえば指導案を書く。この発問なら3割の子はのってくるだろう。7割のってこさせようと思えばどんな問いかけがよいだろう、というふうに。

役者・・・素で関わるのはよくない。生徒に自分の思いを伝えるために、ときには大げさに、ときには抑え気味に、その子やクラスの状況をふまえながら、意図をもってふるまわなければならない。

なるほどね。誰だったか忘れたけど、教師の実践的知識は、ときに格言としてもたれているといってますね。この先生にとっては、これが実践的知識としてあるものなんでしょうかね。

ここでは上記の格言が立派だとか(逆に、陳腐だとか)いうつもりはないです。教師をやっているわけでもなく、判断する資格もないというのもありますが、というよりも、そういう価値づけは僕にとってはどうでもいいことです。

たぶん人によって「ああ、そうだなあ」と思い、人によっては「なんだかしっくりこないなあ」と思うことでしょうね。でも、たしかなことは、多くの先生は、子どものことを語るためのイメージだとか格言だとか、ナラティブだとかをもっていらっしゃるということで、そこに先生らしさとか、そこにいたるまでの先生の個人史だとか、いまの先生のスタンスだとか、そういうものが全部凝縮されてあらわれている(・・・ものとして見ることができる)。

それがすばらしいなと思っている次第。



2006年07月19日(水) 道具の使われ方を知る

県内某所で謀議に参加。いわゆる実践研究って、実践がうまくいけばそれでいいような気になってくるが、それを相手に伝えるのって大変よね、という話(もっとも「うまくいっている」というのも、検証抜きには僕たちの気の迷いである可能性を捨てきれないわけですが)。

まず、自分たちでうまくいきそうなものをつくってみる。しかし、デザインされたとおりに人はそれを使うものではない。デザイナーの意図どおり使ってくれて成果を上げる人もいれば、デザイナーの想定外の使い方をして、デザイナーが頭をかかえる場合もある。

教育実習生の「指導案・授業計画」もひとつの道具だが、某S先生が翻訳のあとがきにかいているとおり、指導している現場教師はときに「授業では指導案は忘れなさい」といい、またときには授業中の発言が「授業計画」から逸脱したものだと指摘するといったように、「道具」の実践における位置づけは非常に恣意的に決定されるということがある。

こうした現象は、上述の発言をした指導教員がいいかげんという話では決してなく、指導案という道具が、どういう道具なのかということを如実にあらわしている。すなわち、指導案とは、実際に、実践を遂行して行く上での厳密なプログラムというよりも、むしろ、(もちろん大まかな方向性は示すのだが)なにかあるたびに、自分の実践をふりかえり、他人に自分がいまなにをしているのかを説明するための道具でもある。

いずれにしても、その人の道具の使い方には、その人らしさ、その組織らしさ、その文化らしさがあらわれているわけで、本来の使い方を押し付けることでそこが見えなくなるというのはもったいない。むしろ研究者は、デザイナーの意図通り使ってくれない人が、どのようなところでつまづいているのかを探ることで、使用者のことを深く知っていく(そのことがよりよい道具をうむ)きっかけをえるのが大事ではないだろうか。

実際、上述の指導案の話にもどれば、教育者のほうでも「恣意性」を承知のうえで、あえて真剣に指導案をかかせ、とことん考えさせることによって、現実場面での失敗の原因を本人にも特定できやすくしたり、反省しやすくしたりする(そのことによって学生のよりよい学習へとつなげる)というスタンスの人もいる。こういうアイデアは生産的だと思う。




2006年07月12日(水) 現場心理学(終)

今日で「現場心理学」終了。この授業では、「目撃証言」「児童虐待」「少年非行」という司法領域の心理学研究の紹介でまとめました。

やっぱり、体験がないところに口で説明してもなかなか難しいわけで、後半はビデオをたくさんみてもらうことになってしまいました。せめて、もうちょっとビデオの内容をふまえた教材にすればよかったなと反省。

さて、今日は、これまでの回をふりかえって、ろんりじっしょうしゅぎ、しゃかいこうせいしゅぎ、そして第3の視点という3つの視点などを登場させつつ、全体として現象をどのように理解すればよいのか整理しました。が、そんなにくっきりすっぱり分かれるもんでもないですね。学生の反応はどうだったかなー。

ま、言いたいことは、我々は現象に好むこのまざるとにかかわらず、コミットせざるをえないし、コミットしたところからしか何も見えてこない。現象につきあっていくなかで、よりマシな展開を考えていくしかないのではないか、ということですかね。・・・そういうようなことが伝わったら幸いだな。

ま、みなさん最後のレポート頑張ってください。


2006年07月04日(火) スケーリングQ

数日前になるが、咳が少し残っているので近所のお医者さんへかかる。

カゼに抗生物質を処方することで効果があるというエビデンスはないんだそうだ。なんでも肺炎その他に発展しないための予防なんだそうだ。でも、なんとなくそれらしい薬を処方されると治ったような気がしてくる。ビバ☆プラセボ。

「バ○ファリンの半分は優しさでできています」ではないが、薬も身体ー生理学的な効果だけではなく、専門家から自信をもって薬を処方されるというコンテクストがかなり効いているという意味では、社会ー文化ー歴史的なものですね。

で、そのお医者さん。先日、私は喉の痛みと鼻水を訴えて受診したわけだが、「松嶋さん、それで喉の痛みはどうですかー?。前回を10とすると?」ときた。知っている人は知っているが、これを「スケーリング・クエスチョン」という。お医者さんの世界では案外普通なのかともちょっと思ったが、どうやらそうではないらしい(さる筋からの情報による)。

具体的に症状を説明することが難しくても、このように数字でスケーリングすることによって症状を訴えやすくなるという効果がある。私もしばしば「では、この前きたときの困ったのを10とすると、いまは何点ですか?」とか聞くことがある。

自分が使うぶんにはなれていても、いざ自分が試されてみると、おどろいて「え、あー、えー」と口ごもる私。

使われる体験というのも勉強になりますなー。


2006年07月01日(土) 実習顛末

前期の1年生の実習の締めくくりとして、県内某所で合宿。
これまで半期のフィールド調査の成果をみせたあとは、以下のような展開となりました。





わが「銭湯」斑は、せっかくだからもうちょっと考察できる時間があればなおよかったのだろうけど、半期を通じてとても意欲的で、教員が楽させてもらう展開でした。レポートもとてもよかったと思います。

最終の実習レポートにむけて頑張りましょー。


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