I create you to control me
DiaryINDEXpastwill


2006年06月30日(金) そうそう、そういえば

土曜日の模様が新聞にのりました。朝日新聞です。まあ、ただ招かれただけなんですが、取材してのっけてもらったりするとうれしいもんですな。



2006年06月24日(土) 一銭焼はおいしかったよ。

土曜日は学園祭。これまでいったことがなかったのだが行ってみる。というより、over50%なんとかというサークル、若者がもっと選挙にいこうという運動をされているところで、トークライブ、何か話せといわれてしまったのでこなければならぬ。

心理学の立場からなどといわれても、政治と心理の結びつきなど私は知りませんよ。投票行動がご専門のO先生におまかせして僕はよこでコーヒーとお菓子をたべていることにする。とはいえ、黙ってるのもなんなので、ちょっとしゃべったが歯切れは悪かった(なかば意図的にだが)。

だってさ、おおよそ「青年」とか「若者」とか、そういうカテゴリーでくくって一般的に論じようとすることがまず生産的ではない。そして、「なぜ」投票にいかないのかというように、理由をつきつめてもおそらくそこには何にもない。「なんで」と聞かれるから一生懸命それらしいことをいうのであって、その理由がとりさられたら人は選挙にいくのかというと、僕はどうもそうとは思えない。

そもそも、投票にいくなんてことは、いってみれば「正しい」ことだ。正しいことをやれ、どうしてやれないのと言われると、だいたいの人はしゅんとなったり、感情的に反発したくなってくる。そんなに若者バッシングしてもどうしょうもなかろう。もっとさ、明るく、楽しく、気軽にとりくめるようなことがいいんじゃないの。

・・・とそういう意見をのべさせていただく。よんだ学生は困っていたようだったけど、僕を呼んだらそういう話になるんだからしょうがないわな。

でもまあ、その学生さんたちは、選挙のことを、というよりこの国の将来を一生懸命考えておられるわけで、ある意味、とてもしっかりした方たちだ。若者のあいだには政治なんていうと盛り下がるからやめようぜとか、一種の嫌悪感のようなものがあるらしいです。そういう雰囲気にもまけずに自分が大事だと思うことをやっておられるのはとても大事なこと。すこしでも生産的な活動になることをお祈りしてま〜す。


2006年06月18日(日) この3日間の軌跡

金曜日:朝から滋賀県総合教育センターで研究の打ちあわせ。午後からカウンセリング演習。家族療法をベースにしてジョイニングのワークと、杉浦さんの説得納得ゲーム。

この授業では概論を他の先生が担当され、僕は3−4回だけワークを担当している。の、だが、ワークとは言え、なにもかもはじめての学生に、はじめからロールプレイといってもちょっと難しい(そりゃ、できるかもしれないが、どれだけ入っていくかが読めないし)。発言形式と、発言内容の両方で即興性を求められるし、初心者とくればこれに気恥ずかしさからくる抵抗感もあるだろう。ということで、今日は彼らが体験をもっていることに焦点づけて擬似的に面接者の立場を体感してもらった。

土曜日:朝から東京へ。東京学芸大学で研究会。今日はその初顔合わせ。いまやっている実践や研究のことについて少しお話しする。

みなさんさすがの視点をおもちなので、たいした話をしたわけではないが生産的な議論ができた。ちょっと実践が忙しくて整理がおいついていないので、ここでこのような視点をもらえたのはうれしい。

懇親会は辞して、最終の新幹線にのって帰る。最終の在来線が人身事故とかでおくれている。まったくこういうときにかぎってついてない。

そして、今日。
朝から大津へ。環琵琶湖文化論実習で、1回生メンバーとある銭湯の経営者さんにお話をうかがう。普段から語りたいことがたくさんある方のようで、3時間弱の時間があっというまに。1年生にインタビューはまかせていたのだが、なかなか舵取りというのは難しいものですね。「語りたいこと」と「語らせたいこと」のせめぎあいといえば格好いいけれどもね。

とりあえずね、今週はいろんなところ行き過ぎ。


2006年06月15日(木) 「うち」という感覚

夜から、雨のなか、大津までいってとある研究会に参加してきた。ある大学の先生が、それこそ何十年もかかって非常勤先の社長さんらとつくりあげてきたもの。いますすめているプロジェクトの打ち合わせもかねて。

で、その後、飲み会。非常勤のことを話しているうちに僕が「うち(の社)は」という言葉を発した。僕は意識してなかったのだが、そしたらその先生が「まつしまんさんにとってはウチって呼べるようなとこなんやー」と笑っておられた。

そうか、そういわれれば「うち」という意識ができたのはいつごろからだろうか。みんなは何社かかけもちでやることが多いし、数年単位で変わっていくからそういう意識がないのかもしれないね。僕は滋賀にきてから掛け持ちしてないし、ずっとここにいるから思い入れもあるし。

最近、金井壽宏先生の『組織変革のビジョン』(光文社新書)を読んだのだが、新入社員が「うちの会社は」といいだしたら、一段階、会社との関係性がかわっているのだというようなことが書いてある。先生いわくそれはネガティブに「とりこまれた」と感じられるかもしれないが、組織変革への足がかりでもあるそうだ。

たしかに足がかりにはなるのだろう。「うち」という感覚はよくもわるくも
社員との関係が(とりわけ心理的に)近くなるということで、会社のなかの、いろんなものが見え始める反面、いろんなものがみえなくなっているということでもある。

あ、そういえば、数社を掛け持ちして忙しかった時も、(仕事の仕方を変えているわけではないが)自然と愛着がわくところとそうでないところはあったなあ。たぶん外来者にも(というより僕なのかな)それだけ愛着がわいてしまう会社のあり方というのも、ある意味、問題だと思うこともがある。


要は、そこでみえることとみえないことを自覚しておくとよいのかな。


2006年06月13日(火) 第2回ほけきょん♪

書き忘れていたわけではないのですが、6月11日は第2回の「ほけきょん♪」。キャンパスプラザ京都の龍谷大学サテライトにて。

しっかし、京都の大学はすごいですな。
あんな立派な施設があるなんていいなあ。

会の方は、短大部の中根先生の参加があって議論ももりあがりました。もちろん、(お客さんではなく、という意味で)会のメンバーなのだから当然といえば当然なのだけど、それでも養護教諭の先生方にはご多忙のなかお集まりいただいたのですから、発起人としては少しでもよいものを作り上げていきたいなと思っています。

会の内容はそろそろあんまりベラベラしゃべるわけにもいかないのですが、養護教諭の仕事って、良くも悪くも、おそらく、これこれの機能というように、言葉にしてしまった瞬間に魅力が消えていくような、そんなところがあるのではないかと思うという点は共有できているのかな。

僕にとっては(おそらく他のメンバーにしてもそうだけど)、この会で交わされる対話そのものが、養護教諭とは何かを知るうえでのとても魅力的な教材だと思うわけです。

保健室の固有の機能とは何なのか、養護教諭の専門性は何なのかと考えていって、最終的に、これまでとは違ったかたちで、一般の人にむけて発信していければ最高ですね。


2006年06月12日(月) 誰のためのコメントなのか

何年かぶりに参加した「家族研究・家族療法学会」だったが、いろいろと刺激をうけました。いま自分が行っている研究にも非常に示唆を受けたように思います。

ひとつは、「誰のためのコメントなのか?」をよく考えなければならないということ。こんなの当たり前で、いまさらこんなこと言ってるのは遅いですが、いまさらながらに自覚したということですね。

ある問題に直面する人がいたとして、この人自身が考えて、問題にとりくんでいくために何ができるか、ということ。たぶん、自分なりに考えた問題の解法を教えてあげるのは簡単なのです。もちろん、それさえ難しいことはあるでしょうけれど、けっこう人の苦労を考えなければいえてしまうこともある。

でも、おそらく解法を教えてしまうのは、いまの僕に求められているポジションではないですね。もちろん、ある程度の方向性というのはあるにしても。そこで当事者の人たちがその気になれるような、そんなコメントをだせるようにしないといけませんね。


2006年06月11日(日) 失敗する人は、うまくいってない

6/9,10と高崎でおこなわれた「第23回家族研究・家族療法学会」に参加してきた。
ずいぶんご無沙汰であったが、T先生もI先生も覚えていてくださってよかった。翻訳でお世話になっているK先生にもお会いできたし、帰りの新幹線ではいろいろなお話を聞かせていただき充実した時間をすごすことができた。

発表内容はここでは書けないが、スーザンマクダニエルのメディカルファミリーセラピーの講演は刺激的だったし、公開スーパービジョンも深く考えさせられるものがあった。

誰に教えてもらったのか忘れたのだけど、「どんな人であれ、失敗する人はうまくいってない人」なのだね。「失敗」という言葉には、そもそもうまくいってないという認識が不可分に結びついている、ということ。「失敗」が客観的にそれとしてあるのではなく、社会的関係のなかで作られていくのだ、ということ。

ホワイトがpersonal failureというように、「失敗」を個人化してしまった時点で、その人はうまくいかなかったことの原因を自らにひきうけるほかない。だが、その一歩手前でふみとどまってみると、「失敗」の認定や、認定された失敗の帰属をめぐって、どんな社会的関係がはたらいているのかが意識されてくるんじゃないだろうか。そこに「ユニークな結果」をみいだし、脱構築するスペ−スがひらけてくる。


2006年06月04日(日) 高木光太郎(著)『証言の心理学ー記憶を信じる、記憶を疑う』@中公新書

御恵送いただきました。ありがとうございました。

著者は、ここ10年以上にわたって心理学者として裁判にかかわり、自白の信用性鑑定をされている方。この鑑定にかかわるグループでだされた本には『心理学者裁判にあう:供述分析のフィールド』北大路書房がある。前書では社会構成主義、スキーマ分析などときおり難しい理論がでてくるのだが、本書では(内容的に値引きされているわけではないが)平易な文章で書かれていてわかりやすい。前書とあわせて読むといっそうの理解がえられるのではないだろうか。

本書は「記憶/証言」という現象を、三つの視点を補助線として描き出そうとする。ひとつは「記憶の脆さ」という視点、もうひとつは「ネットワーク化する記憶」という視点、そして最後は「正解のない世界」という視点である。

数多くの心理学実験が、人々の記憶がいかにあてにならないものかを明らかにしている。エリザベス・ロフタスらがおこなった、情動が記憶を歪曲させるということについての実験は有名だ。幼少時の虐待の記憶を、精神分析治療中に突如として思いだし、親を訴えてしまったという事件がアメリカでおきた。この事件を端緒として「偽りの記憶」といった言葉が実験心理学の世界でも真面目にとりあげられるようになった。

このような記憶の脆さは人々をそれほど驚かさない。記憶が脆いことのゆえに、人々は自らの記憶を、外部とのネットワークに求めようとする。

自らが思いだせないものを外部にあるモノや人との関係において把持しようとすることが私たちはしばしばある。著者は直接はふれていないが状況的学習論が教える、人の賢さとは、個体内に蓄えられた知識ということよりも、むしろ他者とのネットワークに開かれているということである。

ただし、この他者やモノとの相互作用によって保たれているという記憶の性質が、ときに記憶を歪ませる原因にもなる。例えば、日本でしばしば用いられる「写真面割り」といった手続きが、犯人を捕まえたいという捜査員の情熱をこえて、捜査員がそうだと思う犯人を、自己成就的に目撃者の記憶を歪ませ、結果として冤罪の構成に役立ってしまうということがあるという。

証言の場とは「正解のない世界」である。記憶実験において、過去の記憶が歪んでいることを知ることができるのは、実験者が正解をしっているからだ。ところが、わたしたちが生きる世界にそのような存在はない。実験によって一般的に、確率論的にこうなる傾向はあるとはいえても、それが実際に目の前のこの人の証言が信用できるのかいなかということには結びつかない。そのような外的基準による評価と、目の前のこの人の記憶に関する信用性とのあいだには断絶があるということだ。

このようにして著者がとるのは、証言の信頼性を、外的基準との関係によって評価することではなく、証言内在的に、被疑者の「内側から」みえる世界にとことんこだわっていこうという方法である。被疑者が何度となく検察官の前で証言する、その語りの通時的な一貫性と、つかの間あらわれる揺らぎとをみようとしたのである。

著者は証言という場を、濁流にながされた人が、溺れないようにもがく様としてとらえている。裁判という濁流にのまれ、取調官という水の圧力を感じながら、それでも奇麗なフォームで泳ぐ人もいれば、そのままジタバタと手足を動かして、そして力つきてしまう人もいる。このような固有な運動様式を「スキーマ」になぞらえることができる。

著者らは、このスキーマ分析を携えて、正解のない世界において、本来的に脆いものである記憶を相手にしつつ、証言の信用性を真摯に問うていこうとする。このような著者らのアプローチに、私は強く共感を覚えるところであるが、こうした鑑定が、まだまだ世間の了解を得にくいのも事実である。裁判員制度が導入されようとする現在の日本において、本書で展開されるような証言に頼った裁判制度のあやうさが、現実の悲劇となる可能性は大いにあるように私には思える。

その意味で、著者らの問題意識を知り、共有する人々が増えてくれることを切望する。


INDEXpastwill
hideaki

My追加