ある音楽馬鹿の徒然カキコ♪...みゅう太

 

 

ハートに直球! - 2003年06月30日(月)

このタイトル、思いっきりパクリです。
昨日、知り合いからもらったメールの文面に、「おおっ!これこれ!」と感じたもので。
Hさーん、ごめんなさーい。

昨日NHK教育で夜オンエアされた「思い出の名演奏」20世紀きっての天才ピアニスト、フリードリヒ・グルダのピアノを見た方いるだろうか?
いや、いっぱいいるだろうと私は信じていますよ。(ナゼ?)

ひさしぶりにグルダの演奏を見、聴き、私は興奮した。鳥肌が立った。
感動した。
あの深く高いところまで連れていかれる迫真力!
バリアフリー?な、聴きてとのコミュニケーション。


グルダ、のことを言う時、(もちろん知ってる人にとって)どんなことを思うだろうか?
「20世紀最大のモーツァルトやベートーヴェンの弾き手。」
「ヘンなイデタチでジャズなんかも弾いてしまう変人。」
「ステージで裸で踊ったこともあるらしい、あんなヤツはクラシックのアーティストといえない。」

多分十人十色だろうが、これは確かにグルダ全部だ。
それでいて誰がどんなことを言おうが、彼は世紀最大の天才ピアニストであることを止めない。


私にとってはグルダは学生時代からの憧れで、ヒーローだった。
まずはベートーヴェンのソナタの勉強をしていた私にとっては最高のお手本だったし、(あんな自由に弾いてるようで、あそこまで楽譜に正確に弾く人は他にいない。)、モーツァルトの協奏曲の素晴らしさ!
また彼の自作、ジャズのイディオムをクラシックのスタイルで書いた(フーガとか。)ものとかにメチャクチャ驚かされた。
いつか、ナマで聴きたい!というのが当時の夢だった。

昨日、オンエアされたのは93年の来日。
私は「夢がかなったぁ〜〜!!」と狂喜した。
リサイタル、コンチェルトの弾き振り、ジャズのセッションと三公演全部行った。

昨日のテレビを見ながらその時の空気がまざまざと甦ってきた。
三公演ともホールに満ちていたのは、まさにハートに直球の「生きていてよかった!」という幸福感、
そして「愛」と「哀」。 (書くとちょっち恥ずかしいけど。)


それともうひとつ思い出した、彼の言葉。
「音楽家には義務があるんだ。素晴らしい音楽をやればこの世に“善”がひとつ増えるんだ。そうしたら“悪”がひとつ減るんだよ。」

なんてシンプルな、まるで子供のようなグルダ。
これを聞いた時(雑誌で読んだのか、人から伝え聞いたのか忘れたが、記者会見で言ったらしい。)本当に感激した。


しかし考えてみると、今クロスオーバーを売りにしているアーティストって多いけど、グルダに比べたらみんな中途半端で能ナシヤローだよな。
(言いすぎ? 誰とは言わないけど。)



...

闘い - 2003年06月27日(金)

こないだ書いた、私が今読んでいる「不滅」という本の中にこんな箇所があった。


「もしあなたの努力を『闘い』という語で示すのをお好みであるなら、それはあなたの高貴な努力のなかに、誰かを地上に打ち倒したい欲望が隠されていることを含意するのである。『ために』の闘いは『たいして』の闘いと分離できないし、闘いのあいだ、闘う者はいつも『ために』という前置詞のほうを忘れて、『たいして』という前置詞を優位に置く。」


なるほど、と思った。

よく何かに向かって頑張る時、
「自分との闘いだ。」と言うし、よく周囲にも言われる。
私も小さい子供の頃から親や先生にそれを言われ続けてきた気がする。

そういえば何との闘い?
いやその通り「自分」との闘いなのだが、それは自分の「弱い」部分ということだと思う。

弱い部分を打ち倒す、ということか。
克服しろ、ということか。

でも近頃私は思う。
日々の生活の中で悩んだり葛藤することはもちろんだが、闘う必要はないんじゃないか?
自分の「弱いところ」。それを打ち倒さなくっても別にいいんじゃないか?

「弱い」。
結構じゃないか。
それも自分の中の大切な部分だ。
仕方がないさ。ちぇっ。可愛がって付き合ってやればいいじゃないか。

どこまで自分で本当にこう思っているのかはわからないが、
私はだんだん「弱っちい」自分を受け入れ始めている。
以前は自分を「これじゃいけない。」って責めてばかりいた。

弱いところは弱いところで置いといて、良い自分をより良く、そして生活の中で出会う自分にない引き出しを増やしていけばいいのかなぁ?


こういう風に少しでも考えられるようになった自分を嬉しく思う。 ちょっとだけ…。



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バスの中で - 2003年06月26日(木)

今朝バスで私の前の席に座っていた女。

セミショートの髪を時々左手で束ねて、肩の前にもっていく。

「おおっ!うなじ攻撃か!」
(↑簡単にひっかかるバカ)


今度はケータイを取り出しメールチェック。
ずいぶんと上にあげて見ているので、私にも見えてしまう。
文面は、
「○○子、俺が悪かった。でももう大丈夫だから・・・(中略)・・・これからも頑張っていこうな。」

女、見ていることほんの2秒。
指先に力をこめてグッとボタンを押す。


削除。
























怖ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!



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感謝です。 - 2003年06月25日(水)

ありがとうございます。














カウンターが、





















2000超えました!\(^o^)/




ホントにこんな気まぐれ&独善的な日記にこんなにたくさんの方々がつきあって下さり、
恐縮というか、嬉しいです!




どうぞ今後ともよろしくお願いします<(_ _)>








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楽器いろいろ - 2003年06月24日(火)

私は高校時代からオーケストラでファゴットを吹いている。
(もちろんアマチュアだ。)

最近は仕事だ芝居だなんだかんだで面倒で、そうだな、年に2度くらいしか吹かないけど。

以前、N響のオーボエ奏者茂木大輔さんが「オーケストラ楽器学入門」(だっけ?)という実におかしな笑える本を出されていたが、
先日楽器屋でそれが文庫になっているのを発見して、パラパラと読んでみた。

この方は本当に文章が面白い。実に素敵な文才をお持ちの方だ。
オーボエ吹いてるよりいいので …… あわわ、失言。

そしてファゴットのところを読んでみると、こんなことが書いてあった。(かいつまんで)


「ファゴット奏者は素朴な人が多く、自然を好みおっとりとして正義感が強いが、どこか抜けている。
マイペースで我慢強い。
好きな女性ができても誘うのに4年ほどかかる。つまり大学入学時に好きになった女性には卒業してから初めてデートに誘うわけだ…。」


ぶはははは。

























私はまさしくファゴット奏者。ヾ(@°▽°@)ノ

笑えないよ… (-_-)



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スターウォーズに至る道 - 2003年06月23日(月)

先日スターウォーズのことを書いたが、結局3日間見てしまったよ!

いやー、今更また言うのもなんだけど
なんて面白いんだ!!

ところで見ながら思い出したことがある。


昨年(暮れくらいかな?)創元推理文庫から「火星シリーズ」というSFの古典小説が久々に復刻された。
全12作品が3巻にまとめられたので、1冊が文庫にしちゃやけに分厚くて、しかも1500円くらいする。
でも私は狂喜して1冊目の「火星のプリンセス」を買った。

私が小学校に入学した頃、私の通ってた学校の図書館というのはなんだか不気味なところで「怖い」イメージがあるところだったのだが、友達が「行ってみようぜ、行ってみようぜ。」としつこいので一緒に探検に行ってみた。
その薄暗い部屋で「難しそうな本ばっかだなあ・・・。」と(まだ1年生っすからね。)色々見ていたのだが、
ホントに隅っこの方に緑色のビニールテープがグルグル巻きに巻かれたカビ臭そうな本が20冊ほど並んでいるコーナーがあった。

「汚ったねえ本だなあ。なんだろこれ?」と手にとって開いてみるとロケットが宇宙を飛んでいる挿絵があって、「宇宙人がなんたらかんたら…・」と書かれていた。

すごく目をひいた。

それでそこでしばらくむさぼるように読んでしまったのだが、これが少年SF傑作集、みたいなシリーズで、
ジュール・ベルヌ、ロバート・ハインライン、アイザック・アシモフ、E・H・スミス、アーサー・C・クラーク、「キャプテン・フューチャー」のエドモンド・ハミルトンなど錚々たる顔ぶれ(もちろん当時は知らないよ。)の本だったのだ。
私はそれ以来どんどんそれらを借り、全部読破、終わるとまたもう一巡、という感じで読みに読んだ。
考えてみると、多分私の夢見がちな性格というのはこの時に大部分形成されたように思われる。

その中にエドガー・ライス・バローズの「火星のジョン・カーター」というSF冒険小説があった。
バローズの名を聞いて「ああ。」と思った人もいると思うが、あの「ターザン」の作者だ。

西部開拓時代の熱血漢、ジョン・カーターがある洞窟で突然動けなくなり幽体分離(?)をして火星に飛んでいってしまい、そこで会った火星人たちとの友情アリ、戦いアリ、愛する姫を救うために獅子奮迅の活躍をし、最後には火星を統一して元帥となる、(注:かなり平たく書いてます。私。)というような話。

それを昨年、今度は普通の文庫で読んだワケだ。

懐かしい!というのと同時になんてシンプルで面白いんだ!とワクワクしながら読んだ。
これは本当に「古典」だ。
でも「古典」ってナンダ?

私は読んでて、ものすごくこの基本的(?)なストーリー、これはアメリカ冒険映画、SF映画ひいてはアメリカ人の物の考え方すべてに、結局はこれが根底に流れてるじゃん、と感じたのだ。

もちろん、人間そんな単純なものではないが、それでも私はそう思わないではいられなかった。

解説を読んでみると、この作品20世紀初頭に書かれたバローズのほとんど処女作で、アメリカじゃ今に至るまで知らない人はいないらしい。
(それは初めて聞いた。)

中国の「三国志」。日本で言えば何だ? 「ヤマトタケル」とか「牛若丸」みたいなものか?

そう言われてみれば、理屈とか影響とかって次元ではなく、アメリカのSFってみんなここに根があるって気づいたのだ。


ルーカスしかりスピルバーグしかりだ。





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お〜〜〜い! - 2003年06月20日(金)

私の友人の中でぇ〜〜〜〜〜〜〜、























「クレイジーキャッツのベスト盤借りっぱなしのヤツは誰だーーー!」ヽ(`Д´)ノ


昨日気がついた。

こんなところで訴えるなよ、私。


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ダークサイド - 2003年06月19日(木)

昨日からNHK−BSで三日連続「スターウォーズ・特別編3部作」のオンエアが始まった。

私は小学校の時、親父に連れられて見に行って以来の、筋金入り、熱血的「スターウォーズ」ファン。
いやー、何と言ってもスターウォーズは最高!!
何が最高って、そりゃもうアナタ。
ここで私に語らせようってか? (← 誰もそんなこと言ってない。)

この日記1ヶ月分はかかるな。( ̄∩ ̄#  


いや、昨日書いた同僚の発言(お題にした部分でなく、無気力なところに)にものすごく腹がたったわけだが、
オフィスにいると思わず「ムカッ」「カッ」となることがかなり、ある。

そういう怒りにかられた時私は
「いかんいかん、ダークサイドに堕ちてはいかん。」
とか思うのだ。 (← ある意味、バカだ。)

ダークサイドってのは、アナキン・スカイウォーカーがフォースの修行中に堕ちてしまった心の暗黒面(そのまんまだ)のことで、彼はそのままダースベーダーになってしまうわけだ。
ルークがヨーダのもとで修行を積んでいる時、「ダークサイドに気をつけろ。怒りや憎悪に身を任せたら道をあやまる。」みたいなことをさかんに言われるのが、当時子供ながらに印象的だった。

こういう葛藤って結構キツくて、ああ、さぞやダークサイドに堕ちて何もわからなくなったら楽なのかな?
アイツなんか完全にダークサイドに侵食されてるよな、
とか思ったりする。
でもな…。


ホント、「スターウォーズ」って人間の一番奥をシンプルに捉えてるよな、
って切実に思う、今日この頃。





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盛り上げる? - 2003年06月18日(水)

先日あるコンサートの後、社内会議でその担当をした同僚が報告をした。

「まあまあいい演奏家みたいで、淡々とはしてましたが時々盛り上げたりしてたしそこそこ聞けるんじゃないですか。」

このまるで愛情のない、覇気のない報告にもうんざり、というか怒りを覚えたが
(大体、ツアーが始まってそのアーティストを0から知るとは何事か!!)
この彼の発言の中に、ひとつどうしようもない違和感のある言い回しがあった。

「盛り上げる。」 という言葉である。

なんで??と思われるかも知れないし、この後の私の意見を読んで疑問を持つ方もいるかもしれないが、
私はこの事に関してはどうしても、自分の正しいと思うところを言ってみたいのです。


音楽でも芝居でもそうなのだが、喜怒哀楽ってものは楽譜や台本の中に全部書いてあるもので、演奏家や役者が勝手に表現するものではない。
だから表現者はまず楽譜なり台本をよく読んで、その世界の中に入るのだ。
表現者はその虚構の中で自然に「居て、語る。」
表現者はそこに感じるものにウソをついたら、それはお客にもウソだとわかる。
「リアル」でなくなるのだ。

音楽が盛り上がるから、演奏家は盛り上がる。
「盛り上げてる。」のではなく「盛り上がっている。」のだ。

曲と関係ないところで「盛り上げてる。」ような演奏家は三流以下だ、と思う。

ただ誤解のないようにひとつ突っ込んで補足しておきたいが、
自然に演じる、ということと、他人に自然に感じてもらう、というのは少し誤差が生じるので
そこを埋めるために演奏者にも役者にも「技術」が必要となる。


生意気なことを言うな、と言われるかもしれないが、これは真実です。
私も音楽を学校で勉強している時はうっすらとしか感じていなかったが、
一流、と言われるアーティストと一緒に仕事をしたり、
最近芝居を勉強するようになってから、はっきりと自覚するようになった。


一般の音楽好きの方ならともかくとして、プロの一線の仕事をしている人間、
ましてや評論家の人間ですらそういうことを平気で語ってるのを見ると
(それも多々。)
とっても悲しいのだ。



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静けさ - 2003年06月16日(月)

先日私の周囲が工事だらけでウルサイ、という話を書きました。

昨日は休日だから工事は休み。
仕事も休みだから電話もとらなくてすむ。
(ちなみに私の仕事では、一日に少なくとも100本は電話をとってると思う。)

昼からちょっと短いコンサートがあったのだが、すぐ帰ってきてベッドでゴロゴロしていた。




静かだ。


久しぶりに静けさの中でゆったりした気分。

雨が降ったり止んだりしてたまにパラパラッ、サラサラと雨音が聞こえ、
風で葉がすれる音がして、
時折小鳥が鳴く声がする。

そういうささやかな音が耳に、体にしみてくる。


私は改めて思った。


静けさから全ての音は始まる。(当たり前だが。)
音楽も静寂から生起してくるんだよな。

かつて武満徹さんが「音、沈黙と語りあえるほどに」という本を書いていた。
(ついでに言えば武満さんの音楽は休止の沈黙が、音があるところ以上に雄弁な音楽を書く。)

私は人と一緒にいて、人と喋ったりする時間が必要で、またそれが大好きだけど、
しかしまた、私にはこういう一人で静かな時間が必要なんだ、時々でも。




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ありがとう。デュトワ - 2003年06月13日(金)

昨日、シャルル・デュトワがNHK交響楽団音楽監督として最後の定期公演を指揮した。
厳密に言えば明日が本当のラスト・コンサートになるのだが、プログラムは同じなので。

デュトワがそのラストを飾る曲に選んだのは、R.シュトラウスのオペラ「エレクトラ」。
コンサート・スタイルでの演奏だ。

素晴らしかった。
「素晴らしかった」なんて言葉ではあまりにも足りない!
もっと他に良い言葉はないのか!!
と自分で自分が歯がゆくなるくらい良いコンサートだった。
まさに有終の美、と言うにふさわしかったと思う。
涙が出た。
あとで同業者に聞いたが、デュトワも泣いていたそうだ。

なにしろ、色々な意味で大変な曲だ。
まず楽譜がこれでもかこれでもか、とばかり複雑でそれを整理するだけでも至難の業だし、音楽の表情はアッという間にコロコロ変わる。
日本では(今の時点では)そうそうやれる代物ではない。
歌手だって巨大な声量プラス透明さを保ち、なおかつ言葉がはっきり聞き取れるくらいの力量がいる。
久しぶりに私も聴いたが、(私が前に聴いたのはドレスデン・シュターツカペレのコンサート以来だが、他にやった機会があるのか?)何しろ激烈かつ官能的で、ほとんど傍若無人といっていいくらいの天才的な音楽に、改めてショックを受けた。
心をワシヅカミにされて、引きずり回された感じだ。
今の耳で聞いてこれだけのショックがまだあるのだから、初演当時はどれだけ大センセーションだったか想像に難くない。

それをデュトワ&N響(それとエリザベス・コネル他の歌手)は全部聞かせてくれた。


デュトワが音楽監督になって(最初は常任指揮者と言ってたと思う。でも1〜2年で音楽監督になった。)7年。
N響は大きく変わった。
音色も技量も音楽も。
他の素敵な指揮者が来る時にも、その効能は彼らの個性をより引き立てているように思う。

私は大学に入学した年にN響の定期会員になったが、その翌年に初めてデュトワが客演した。
その時やったベルリオーズの「ファウストの劫罰」で、それまで立派な響きだけど重々しいN響の響きがすっきり透明に軽くなり、カラフルになったのだ。
その驚きが昨日のようだ。

それから10年ほどたって、それまで30年以上も空白だった音楽監督にデュトワがなる、というニュースを聴いた時はもうただただワクワクした。

私がデュトワってすごいな〜、と思うのは、
彼が就任当時、公約をしたのだが
.疋ぅ津な音だけなく、もっとフレキシブルに、インターナショナルなどんな音楽にでも対応できるサウンドカラーが出せるようトレーニングしていきたい。
∪こβ1級の実力があるのにそれがいまひとつ出せないのは、そういう一流の場(?)にあまり立ってこなかったからだ。だからこれから毎年海外ツアーを敢行する。それもベルリン、ウィーン、ミュンヘン、パリ、ニューヨークなどの音楽大都市へ行く。
それによって自信と厳しさが身につく。
世界への名刺作りのためにメジャーレーベルからCDを出す。それには自分のコネクションを最大限利用する。
に菁1曲以上、現代の代表的な作曲家に新曲を委嘱する。

こんな感じだったと思う。(← いい加減)

しかし考えてみると彼はこれを全部見事に実行したのだ。

どこぞの国の政治家はたくさん「公約」をするが、こんなに具体的なヴィジョンに沿ったものではなく、ましてや実行した例などほとんど見たことがない。
その点だけでもデュトワは立派だ。


もちろん音楽監督という具体的なトップにたつと、客演する時の「お客さま」気分とは違って大変なこともたくさんあったと思う。

でもこのように素晴らしい結果をだして、私たちはその音楽に感動する。
私はデュトワ時代のN響定期を聴きにいくのが、本当に楽しかった。


デュトワに最大級の感謝!
Thank you very much !!




...

シャッカー - 2003年06月12日(木)

私は朝眠いのを邪魔されるのが嫌いだということは前に書いた。

しかし今、私の団地では新しい駐車場工事&花壇の新設工事をしている。
朝7時から

ドコンドコンズドドドドドド

うるさいうるさい。

で、こないだ実家に泊まったところ
なんと隣が建て替えをしている。
やはり朝7時半くらいから

ドコドコドコドコカンカンカンカン


あーーうるせえよ。

だから最近はどこ行っても朝落ち着かない。
それどころかオフィスの下のフロアまで改修工事を始めた。
助けてくれーーーっ!


今朝の電車。
私のとなりにシャッカーが立った。
(↑ウォークマンをかけてシャカシャカ音がヘッドホンから漏れてるヤツね。
私は勝手にそう名づけている。)

シャカシャカシャカシャカ


もう我慢ならん。























「テメー!いい加減にせんかい!朝を邪魔するヤツは許さん!自分が騒音公害になってるのがわからんのか!ぶっ殺す!!」







…なんて言えたら苦労はない。
(気が弱くって。)



...

四季折々 - 2003年06月11日(水)

きのう鎌倉に行ってきました。

紫陽花が見たくて。

行って良かったです。気分がゆーーったりしました。
なにしろ紫陽花シーズン(?)なので平日とはいえ老夫婦、学生、はたまた修学旅行の生徒など人がいっぱいだったけど。

雨の中の紫陽花なんかいいな、と思っていたのですが、晴れでした。
そう、私は晴れ男。
良かったのか悪かったのか。

でもホント、ああいう古都、静かな木々の緑や花の中にたたずむ古い木のお寺・・・
なんとも好きなのです。
いつからこういう景色が好きになったのかな?(歳ってコトか?)

ああ、四季のある日本っていいっす。


今度また京都にでも行ってこようっと。




...

気づく - 2003年06月09日(月)

前回の日記のことである人からメールを頂いた。

その方も私と似たようなことを日々感じていたが、ある時それに気づき、きっとこれから少しずつ変わっていくだろう予感を書いてくれていた。

私はこういう思いをきけるのは単純に嬉しい。


そしてそれからしばらくして、私はあることを思い出した。

レオン・フライシャーというアメリカ人の大変「立派な」音楽をやるピアニストがいるのだが、この人は左手だけのピアニストだ。
昔は普通に両手で活動していたが、ある時右手を故障して左手だけでしか弾けなくなったのだ。
30年以上前の彼のベートーヴェンやなにかのCDを聴くと、それはそれは素晴らしい演奏なので、本人にとっても周囲にとっても痛恨の極みである。
しかし、左手だけのレパートリーというのもブラームス、ラヴェル、スクリャービンなど結構一杯あるもので、そういう曲で本当に感動的なコンサートを私は聴いたことがある。

でもなんにしたってフライシャー本人は苦悩と葛藤の日々だっただろうことは、想像に余りある。

そのフライシャーが、どういう文脈だったが忘れたが、新聞のインタビューでこう言っていた。
シンプルな一言だが、私はそれを今はっきりと思い出した。


『人生は、気づくことの積み重ねなんです。』



...

孤独・・・ - 2003年06月07日(土)

私はいつも本を読んでいる。
この4〜5年は本をよんでいない時期はほとんど、ない。
大抵昼休みや休日の夕方はコーヒーを飲みながら読書だ。

音楽の場合と比率が逆で、大部分が日本の作家のもの。

が、今読んでいるのはミラン・クンデラの「不滅」という本だ。


この本を読みながら、こんなことを考えた。
本編とはあまり関係はないのだが。


私にとっての生活。
家族、友人、音楽、仕事、芝居の勉強etc…。
これらはすべて、私から等距離のスタンスにある。
時と場合にもよるが、どれかがどれかに優先する、ということはあまり、ない。

私はこういった要素の円の中心に絶えずいる、ということになるわけだ。
いつも自分が中心にいて…。

それは私にとって突き放しているわけでもなし、近すぎるわけでもなし、
心地よい適度な距離にいるのだと思う。

しかしそれで良いのか?
つかず、離れず。
それはいつも孤独でいることを意味しているのではないか?

毎日楽しくやってるし、昔に比べて不満に思うことも少なくなった。
実際なにを置いても生きていることは良い、と思う。


でも、ふと考える時なんとなく寂しい気もするのだ。なぜか。



...

意味わかんねー - 2003年06月05日(木)

朝の通勤ラッシュ時の人の動きというのは何年たってもわからない。

不思議 ?(゜_。)?

今朝は、あの朝の込み方では随一と名を轟かせている(?)田園都市線に座れてしまった。
感激だよ〜〜〜。(←こんなことでか?)

だってこの時間帯で座れるなんて、あり得ないだもん。
何故かすごく空いていた。

なのに。
毎朝、一本待てば確実に座れる地下鉄銀座線には座れなかった。

なんで (・o・????


ほんと奥の深い謎である。
いつまでたっても「こんな時はこう。」という法則が発見できない。

誰か研究してみない?





...

アバドのワーグナー - 2003年06月04日(水)

クラウディオ・アバド。 
小澤征爾さんとほぼ同期の、イタリア出身の大指揮者で、
カラヤンの後を継ぎベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を12年務めあげ、昨年勇退した。
かつてはロンドン交響楽団、ミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場の音楽監督も歴任していて、名実ともに現代最高の指揮者の一人である。

アバドがそういう素晴らしい音楽家であるのに異論がある人はいない、と思うし私も大意において異存はないのだが、
でもどうも私にはピンとこないことろがあった。
音楽が心の底まで届いてこないというか。

何をとってもこの人の音楽は良い。爽やかな流れ、オーケストラから引き出す透明な音、他の人が考えないような果敢なプログラミング。
それに何よりもこの人の音楽に向かう姿勢が真摯だ。
人間的にも実に真面目な人物である。
…にも関わらず、私は感心はしてもあまり感動はしない、という人であった。
それが、自分にも謎だった。
ウィーン・フィルとの来日でブルックナーの「第7交響曲」、ベルリン・フィルとの来日でマーラーの「第3交響曲」、ヨーロッパ室内管弦楽団とベートーヴェンやストラヴィンスキー、アイヴズをそれぞれ聴いたが、
「さすがだなぁ〜。」と思う反面、「ふ〜〜ん。こんなもんかぁ。」
と感じてしまうのだ。
(ちなみにウィーン・フィルのコンサートマスター、キュッヒルさんと話した時、「ああ、あの時のブルックナーはねぇ、良くなかったデス。」と言っていたからあながち自分がおかしかったわけではなかったようだ。)

しかし、それは今までの話。

今のアバドはどうやら違うらしい。というか違う。
昨日、彼とベルリン・フィルの最新のワーグナー・アルバムのCDを聴いて
ものすごく驚いた、というか体中の毛が逆立つほど感動した!

実は少し前にもアバド/ベルリン・フィルのCDで、マーラーの「第7交響曲」とヴェルディの「レクイエム」を聴いた時にも驚いた。
それまで私の知っているアバドの音楽とは違って、いやその爽やかでしなやかなスタイルは全然変わらないのだけど、音楽の中身が全然違う。
なんだかオーケストラの音が、音楽がそれを超えて生き物のように鼓動し、私の心に「グワーーッ」と迫ってくる。
それにそれは例えようもなく高貴ですらあるのだ。

私は昨日ワーグナーのCDを聴きながら「信じられない…」と独り言を連発していた。
よもや、今のアバドからこんな演奏を聴く事になるとは思わなかった。
それにきっと死ぬまで自分は聴かないだろうな、と思っていたアバドのワーグナー、特に「トリスタンとイゾルデ」にこんな強烈な感動を覚えるなんて夢にも思わなかった。

私は「今のアバド」と書いた。
これを書くのはあまり良くないのではないか、という気がするし、不謹慎なような気もして大変気がひけるのだが、実はアバドは癌に犯されていて、少し治療のため休養した後2000年に復帰した。
私が書いてきたアバドの演奏はすべて闘病後のものなのだ。
アバドという人は「万年青年」の容姿をもっていたのだが、昨年テレビでみたあまりのやせ細った痛々しい姿、凄絶な指揮ぶりにものすごくショックを受けた。

闘病後の音楽家の変貌、などと美談を感じるつもりは全くない。
でも本当に彼が変わったのは事実だ。
その音楽は本当に凄くなったのだ。

私は素直に、人間は底知れない凄さをもっている、と思う。



...

自己顕示欲の成長? - 2003年06月03日(火)

昨日カミングアウト(?)をしてしまった話の続き。

で、こんなことをやっている私に変化はあったか?
それがないようで、どうやらあったようなのだ。

演技が上手くなったとかそんなことは問題ではない。(← 問題じゃないのか?)

私は音楽のことになるとかなり積極的で、時によって(それに“通”気取りの連中には)うざったがられるのだが、
普段は割りに引っ込み思案、というか押しが弱い。
そして大勢の前で何かをするのは(ホントは結構好きなクセに)ニガテ。
また極度の緊張屋で、ピアノなど舞台で弾くとなると、どうにもアガッてしまってガタガタになる。
このBBSによく来てくれるりーちゃんなど、いつぞや私の出演する発表会を聴きに来てくれた折、緊張している私を見ているうちに自分の方が汗タラタラ、スリリング体験だったそうだ。(>y<)

さて昨日の出来事。
私は有楽町でミーティングがあって、その帰り、ちょっと疲れたので少しブラブラ日比谷公園でも行ってボンヤリしてようか、と歩いていた。
日比谷シャンテから帝国ホテルに抜ける途中東京宝塚劇場があるのだが、まあ大勢のヅカファンが、5〜600人はいただろうか、道の両側でいわゆる「出待ち」を」していた。
真ん中に道は空いているのだが、なにせその人数だ。
それに言うまでもなくほとんどが女性。
そしてみんな青い服やら青いスカーフをしている。(意味はわからない。)
さすがにビジネスマン達はその中を通れず、脇によけている。
私もそうしようと思った。

でもよけかけた瞬間、なんだか腹がたってきた。(`Σ´)
「なんだって、このアホな女たち(すみません…)のために俺がよけねばいかんのだ??」

私は誰も歩いていない真ん中を堂々と歩いた。
別に注目などされないだろう、と考えていたがそうでもない。ものすごく見られている。
が、しかし私は気持ち良かった。
手でも振ってやろうかと思った。(← バカ)
いや〜〜、歩きながら随分自分も成長(なのか?)したもんだと思ったさ。

でも微妙に足がギクシャクしてたとこが情けなかったりして。



...

告白です - 2003年06月02日(月)

実は2年前から芝居の勉強をしている。 |)゜0゜(|
週一回、養成所に通っている。

なんで音楽馬鹿が芝居かっていえば
なんでだろう〜なんでだろー♪

…最初は健康のため、精神衛生のため、
今の仕事をもっと幅広いものに、例えば自分でコンサートの司会をするとか、そんなためにスキルを身に付けたいという理由だった。

4月から2年目の基礎科。
1月にあった進級審査には見事に落ちて、本科には進めなかった。
かなりショックだったけど。

でも今はとにかくこの勉強が面白くて仕方がない。
実際に舞台に上がってみたい、という気持ちになっている。
そして今まで会ったことのないような素敵な仲間たちにもめぐりあえた。


やっていて気づいたのは、芝居も音楽も底に流れているある大切なことは同じだということ。
そして人間として生きていくこともそれと全く同じだということ。
基本のキになるのは  『中身』 だ。

それだけだ。


ところでこういうところに来る人間は、当然若い世代だ。
みんなハタチ前後。
最初はみんなと仲良くできるのか?と心配だったがそれは全くの取り越し苦労。
それに私は私服だと実年齢よりも結構若くみられる。
「20代じゃないんですか?」と言ってくれる子もいるっすよー! (いえ〜〜〜い)

でもやはり自分の歳を告白するのはある程度の勇気がいる。
こないだも今のクラスの子たちに聞かれ(今まで黙ってた。)「3○歳っす。」と答えたところ、
一瞬の間を置いてから、
「そっかー。芝居という名目で公然と女の子の手、握り放題だもんねー。」


「・・・・・」
・・・あ〜あ、これだよ。(;_;



...




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