ある音楽馬鹿の徒然カキコ♪...みゅう太

 

 

ひぇ〜〜 - 2003年05月30日(金)

う〜〜〜ん
いらいら いらいら いらいら。

今朝から不機嫌である。

私は毎朝だいたい7時半に起きる。
今朝、熟睡からほんのちょっと目が覚めかかる、という微妙でそしてとても気持ちの良い瞬間をけたたましい電話のベルで破られた。
実家の母からである。

話はたいしたことなかった。

あー、むかつく むかつく むかつく。(-_-メ)
朝の眠りをこういうことで妨げられるのが、私は一番嫌いだ。
むかついたまま、あとちょっとだけ、と不貞寝した。

短編の夢をいくつか見た。
みんな相手を殴る夢。

…寝過ごした。






























遅刻した。(>y<)


...

追悼。ベリオ - 2003年05月29日(木)

イタリアの作曲家、ルチアーノ・ベリオが死んだ。77歳。

ベリオは作曲界の大御所で、現存の作曲家ではフランスのブーレーズ、ハンガリーのリゲティ、ドイツのシュトックハウゼン(この人は今、ちょんとした活動をしているのか?)
と並ぶ大家であった。

ベリオの作品、といっても「ああ、あの曲!」とピンとくる人が何人いるかわからないが、
まず音楽を勉強した人にはなんと言っても「シンフォニア」だろう。
私は音大時代、現代の音楽における“コラージュ”という技法の代表例として、はじめてこの曲のCDを聴いた。
“コラージュ”とは書いたとおり、大体想像できると思うけど、複数の違った要素を「重ねあわせる」というようなもので、絵画や映画では一般的な手法だ。
この「シンフォニア」という曲の場合、第3楽章にマーラーの「第2交響曲・復活」の第3楽章がとうとうと流れる中、他の色んな曲、例えばベートーヴェンの「月光」だとかが乱入してきたり、その上でなんだか意味のわからないセリフや笑い声が重なったりする。
いかにも現代的、(そういう心象風景を描いた映画とかあるでしょう?)という感じで面白い。

私はこの曲のライヴは1995年の「ブーレーズ・フェスティバル」でブーレーズ指揮シカゴ交響楽団とスウィングル・シンガーズ、というこれ以上考えられないような豪華版で聴いた。
CDで聴くよりはるかに面白かった。

しかしながら、私はその他のベリオの曲、ピアノや管楽器、弦楽器のソロのために書かれた「セクエンツィア」シリーズとか有名なものはあるが、私はあまり感心せず、彼の熱心な聞き手とは全く言えない。

ただ、昨年「ポリーニ・プロジェクト」で聴いた(聴かせてもらった?)「アルトラ・ヴォーチェ」という曲は素晴らしかった。
初めてここで彼の真骨頂、というか到達点を聴いた気がする。

昨日の朝日新聞の死去欄には「電子音楽のパイオニア」という見出しになっていたが、その代名詞はドイツのシュトックハウゼンの方なのじゃ?と思う。
もちろん、そういう方面に力を傾けていたのは確かだが。

「電子音楽」とか「コンピューター音楽」というクラシックにおけるよび方は、専門家はいざ知らず、かなりの人に − 音楽ファンのみならず、評論家・批評家ですら − 半数以上の人が誤解しているように私は思う。
つまりゲームセンターで鳴ってるピコピコピッコンみたいな感じに思ってて、全く敬遠しているらしい。

実は私もかつてそうだった。
それが全く間違いだと知ったのは、さっき書いた95年の「ブーレーズ・フェスティバル」でブーレーズの「レポン」という曲をディズニーランドの隣のベイNKホールで聴き、圧倒的な衝撃を受け、その仕組みについてそのスタッフの方々に聞いてからのことだ。

あまり難しい話は避けるが、作曲家たちが電子的なテクノロジーの力を借りるようになったのはうんと単純に言って「新しい音色」の開発のためだ。
(あと空間的なサラウンド効果とか、リズムの管理とか色々あるのだが。)
そのためにベリオやブーレーズ、シュトックハウゼンといった人たちは、その昔、電子音楽スタジオのようなものを作って、新しい音色の合成を研究していた。ただ初期はその作った音色はテープに収録するしかなく、それを生の舞台で「演奏」するにはただそれをかけるか、ピアノなり何かの楽器と一緒に演奏するしかなかった。
当然、それではただの「カラオケ」である。
生き生きとしたナマのコンサートにはならない。
それにその段階ではただの「電子音」で味も素っ気もない。
到底アコースティックな音の魅力にはかなわない。
でもそれが限界で、そういうパフォーマンスは随分続いたのだ。

それを解決したのが、高速演算を可能にしたコンピューターだった。
例えば、オーケストラが舞台で演奏している。
その音をマイクで拾い、ほとんどコンピューター内で音の要素を分解・再構築して別の新しい音に変換、リズムを変える操作さえほどこしてすぐに外部スピーカーから流す。
要するに自分の音楽とその場でセッションできる、という具合だ。
その変換までの時間差など0コンマ0000…何秒だから、それは人の認識できる遅れにはならない。
こういうシステムで書かれた音楽を
「ライブ・エレクトロニクス」
と呼ぶのです。

最初の頃こそ、それを可能にするコンピューターはバカデカかったらしいが、極端に言えば今ではノート・パソコンでもできるらしい。

その「ライブ・エレクトロニクス」で作曲されたベリオの「アルトラ・ヴォーチェ」は素晴らしかった。
舞台の上に机が置いてあり、その前にフルーティストとソプラノ歌手がインカムみたいなヘッドホンをつけて、まるでニュースキャスターのように座っている。
そして2人は吹き、歌うのだが、次第に舞台上部にあるスピーカーからその2人の音が少しずつトーンを変えながら霧のようにしみだしてくる。
その音楽たちがどんどん混ざり合い、神秘的なまでに美しい瞬間を作り出すのだ。
そのコンサートを聴きにいった人にはわかってもらえると思うけど、それはとても機械を介してスピーカーからでた音ではない!
どっちがナマでどっちが機械の音なのか全然わからなかった。
「ライブ・エレクトニクス」はここまできたのか!と感動したっすよ。

それがベリオの最晩年の作品。
彼らは新しい音楽の可能性、新しい感覚というのを真摯に追い求めていたのだということを、目の当たりに実感させてくれた。

合掌。



...

CDがいっぱい - 2003年05月27日(火)

昨日の地震は凄かった。
私のいる所は震度3くらいだったけど、それでもやたら長く揺れてて
いつもなら「まあ、これはすぐ止む。」とか思えるのに
今回は「これはやばいかも…」と感じてしまったくらいだ。

時々見る夢で地震がらみ、といえば私の場合CD。
CDがラックから崩れて下敷きになったり、ケガしたりする夢を見る。

私はものすごい数のCDを持ってる。
マニアはもっとすごいのだろうが、まあ2000枚は下るまい。
5%ほどのポップス、ジャズの他はほとんどクラシック。
学生時代からもう20年近く勉強し続けているわけだから、そのくらいにはなるわな。

CDって何で12センチなのか知ってます?
知らない人のために。
あの20世紀きっての大指揮者カラヤンが、「自分の指揮したベートーヴェンの「第9」がちょうどすっぽり収録できるサイズで。(大体70分)」とCDを開発したソニーの当時の社長盛田さんに言ったのだ。

そんで、私の買った初めてのはそのカラヤンの「第9」。
2枚目は現代最高のピアニスト、マウリツィオ・ポリーニの弾いたシューマン・アルバム。
学生時代は1ヶ月に1枚くらい買うのが精一杯だったから、ひとつひとつ何べんも聴いた。
就職してこの仕事についてからというもの、なにしろ色んなアーティストの研究もしなけりゃならんし、売り込みのデモCDはいっぱい送ってくるし、レコード会社は「ぜひこれを聴いてくれ。」とサンプルをたくさんくれるし(有難いことです。)、もちろん自分の欲しいものもいっぱいあるので、結果的に膨大な量になった。

問題は置き場所じゃー!
CDのための別部屋がひとつ切にほしい…
でもそれは無理なので今、わたしがほしいもの… それは、


























スモぉール・ライトぉ〜
(by ドラえもん)


壊れてます・・・ 



...

スキマ産業 - 2003年05月26日(月)

事務所にペラツと一枚のFaxがきた。

それはウチあてではなく、勘違いDMなのだが、
「SARSで打撃をうけている旅行会社の皆様へ…」というもの。

しかし読み進んでいくと
「お苦しみのそんなあなたへ… 
占い○○○○へぜひ!」
ってものだった。

すごいDMだ。(◎_◎)

それを私の前に座っている同僚の女性に「どうよ。これ。」とみせたところ
「いやねぇ。ほんとムカツクわ。こういうスキマ産業って。」

なるほどスキマ産業とはよく言ったものだ。
昔「笑うせえるすまん」っていうマンガがあったなぁ。
「心の隙間お埋めします。」とか言って。

「でもさあ、結構行く人いるかもね。」
「そうかなぁ? あっ! じゃウチもなんかこういうチラシつくろうか?
 この曲のこの部分の周波数がSARSに効果絶大なことが判明した、とか書いて。」

…… う〜〜〜ん。
商魂たくましい女。



...

わ〜い!! - 2003年05月25日(日)

いつのまにかカウンターが1000をこえました。





















感謝です!!!











どうだ〜、今までで一番短いぞ〜。
(誰に言ってるんだ?)

で、誰か色のつけ方教えて下さい(>y<)


...

はじめてのヨーロッパ 〜その20 最終回 - 2003年05月23日(金)

私のヨーロッパでの最後の晩である。
Uと夕食を食べにいった。

本当はさる有名なレストランに行こう、と言っていたのだが、日本を出発する矢先に同僚のイノシシ女(猪突猛進な性格の女なのだ。)から「絶対このレストランに行け!」というゴリ押しがあった。
Uと「行かないと後々責められるぜ。」と話し、その「グリーヒェンバイスル」という古いレストランへ行った。

ここが素晴らしかったのだ!
ものすごい古いところなのだが、その古さは伊達でなく(何年創立かはよくわからなかったのだが)スゴイそれこそ歴史上の偉人たちが来店していてそのサインが飾ってある。
音楽家でいえばまずR.シュトラウスのがあったし、指揮者のカラヤンやベーム、ムーティなどがあったのだが、一番驚いたのはあの「トム・ソーヤー」の文豪マーク・トゥエ−ンのがあったことだ。
薄暗く、ろうそくなんかがいっぱい立っている雰囲気のある中にそれらは飾ってあった。
料理はなんだか色んなものを頼んだので忘れてしまったが(Uがやたら注文するもので)
どれもすごく美味しくて「いや、大当たりじゃないか。」と言い合って楽しい時間だった。
私は酒があまり飲めないが、ここのピルゼン・ビールがとにかく美味しかったことは今でもはっきり覚えている。
それとデザートに頼んだザッハートルテが、なんというか品格ある美味しさというか、
「これは絶対普通の砂糖じゃねーぞ。」などとお互いに驚いた。
ザッハートルテの本家はホテル・ザッハーだが、これは青山にも店があって食べたことはあるが、こんなに美味しくなかった。
それとコーヒーもメランジェ(ウィンナ・コーヒーとカフェオレの中間みたいなやつ。ちなみにウィーンではウィンナコーヒーなどというものは存在しないことがわかった。)
がなんとも品が良い。
そんなこんなでUとお互いにそれまで見聞してきたことを話し合ったが、
楽しい夜だった。
満足、満足。

さてこれで本当に「はじめてのヨーロッパ」旅行は終わりである。
最初はどうなることか、とビビリまくりだった旅行で気苦労しっぱなしだった気分も今は全く楽しい気持ちにすりかわってしまっている。
人間とはこうしたもの。

ところでUはウィーンにかつて彼が担当した合唱団の友達と遊んでいく、ということで翌朝再び別れた。

帰り、ウィーン空港からまたア○ロ・フロートかぁ…とちょっと気が重くはなったが、ロビーで朝日新聞を見つけ、「おう、日本語の読み物だ〜」と嬉しくなった。
またモスクワで乗り換えで、そこまでの機体は行き以上に汚く狭く、機内食も最悪だったが、モスクワからはなんとエアバス・タイプの最新鋭機がきて、広いしキレイでテレビもついてるし快適そのものだった。
そうそう、モスクワ空港ではまたもJAのツアーと遭遇し、彼らは声をかけても「何だ、この人?」みたいにおびえた顔をして何十人で固まってしまうのだ。
日本民族の不思議な一面を見た気分。
それから機内では以前過去日記で書いたようにロシア文学者の亀山先生と出会い、楽しくお話をして過ごしたのだ。
その詳しいことはもう繰り返さないが。

成田に到着し、飛行機の車輪が滑走路に降り立った時の嬉しかったこと!
その振動がそのまま心の震えとなったその時の気分は未だに忘れない。
(大げさだが)よく帰ってこれたなー、と感激した。
ついでにJAの方々が大拍手をして「バンザーイ!」と叫んでいた異様な光景もよく覚えている。

成田空港にアーティストを迎えに来ることはそれまで数限りなくあったが、自分がそのゲートからでるのは初めてだ。
むこうのイミグレーションに比べて日本って厳しくないんだな〜、と思った。
そしてゲートをでてももちろん迎えはない。

久々の日本は暑かった。
そして湿度が高い。
成田エクスプレスのホームに行くまでのちょっとの時間でも外にいるのが嫌だったくらいだ。(35度くらいあった。8月あたまだったからね。)
不思議なことで、その後も外国から帰ってくると思うことだが、それまで自由でオ−プンになっていた自分の気持ちが成田で電車にのると同時に窮屈なものになるのだ。
周りの視線が気になったり。
自分の国なのに好きな国なのに、そういうのは嫌だ。


この自分的には波乱万丈だったはじめての外国旅行。
その旅行記は今日で終わりです。
私の人生にとってかけがえのない思い出であり、今の自分はこの時にかなりの部分方向づけられた気がするのです。


《おわり》

追記:
もちろん日記が終わりなのではないっすよ〜〜!
でも長々と(20回も!)読んでいただきまして、本当に有難うございました。
また次回からもよろしくお願いしますっ



...

はじめてのヨーロッパ 〜その19 ウィーン3 - 2003年05月22日(木)

友人Uもこのホテルが気にいったようで、そこに泊まることになった。
しかし部屋は別。結局となりになったけど。
フランクフルトで実証したように我々は生活時間がくい違う。
…私は夜結構遅くまで本を読んだり、CDを聴いたりして朝が遅い
…彼は夜はさっさと寝て、朝早起きして走りにでる
という具合なので。

翌朝9時にレストランで朝ごはんの待ち合わせをし、一緒に食べてからすぐでかけた。
まずは美術館めぐり。

今年のあたま、東京にも来ていた「ウィーン美術史美術館」
これは建物がまず、古く由緒ありそうな上にかなり大きい。
「これぞ美術館!」という様相だ。
ただミュンヘンの時とは違い、かなり人も多かったのでそんなにゆっくり、というわけにはいかなかったが、それでもブリューゲルだとかムンクだとかえ〜と(あ〜!画家の名前って出てこないんだよなー。)見ごたえあるものがたくさんあった。

そしてすぐ近くにある「分離派美術館」。
私が見たかったのはこちらだ。
金色のキャベツ?がのったモダンな建物。
ここにあるクリムトの描いた退廃的な「ベートーヴェン・フリース」。
19世紀末から20世紀の初頭、いわゆる世紀末に活躍した芸術家たち、音楽でいえばマーラーやR.シュトラウスら。
そういう爛熟した“滅びの美”みたいな音楽は(ミュンヘンでみた「ばらの騎士」なんかもそうだ。)私を魅きつける。
その時期の美術も見事にそれに呼応していて、私はそれが見たかった。

実験室のような美術館だったが、これは強烈だった。
腐りかけ寸前のようなエロティシズムと悪魔的な退廃美。
あんまり長くいると気持ち悪くなるけど。
ウィーンはモーツァルトやヨハン・シュトラウスのワルツみたいに優雅で綺麗なイメージが大勢だろうと思うのだが、こうした陰のドロドロした面も多々あるのだ。
それは今のウィーンの人たちと接していても感じる。
一筋縄ではいかない芸術の都なのだ。

さてそのどよ〜んとした空気を抜け出ると、外はさわやかだった。
少々暑かったが。
昼ごはんを食べにいこう、と通りを歩いていると驚いた。
(これは書き落としていたが)モスクワでトランジットした折、一緒だったウィーンの音楽大学の講習を受けに行く、と言っていた女性2人組に出くわしたのだ。
「うわ〜、奇遇〜。ごはんでも食べませんか?」などとナンパのような風でみんなでお昼を食べた。
軽い感じのレストランに入ったのだが、そこの主人は「カツレツデモイカガデスカ?」と言う。
ウィーンでいうカツレツとはヴィーナー・シュニッツェルのことである。
日本のカツより薄く広く揚げたヤツだ。
でも昼は軽く行きたかったので、それは遠慮してパンとコーヒーにする。

ところでこの女性2人のことだが、私とUはヘラヘラ話を合わせていたがモスクワの時からちょっとウンザリしていた。
まあ、ウィーンに音楽の勉強に行くと言えば聞こえはいいが、要はカッコつけで自分の経歴に箔をつけたくてそんで自己満足に浸っているだけだ。
誤解はないように言っておきたいが、もちろん真面目に勉強に来る人もいる。
でも大体はそんな風で、この2人も明らかにそうだった。
Uなどは思いっきり「あのバカ女どもは…」とか(もちろん彼らがいない時ね。)言っていた。
話を聞いていると、それをますます裏付けるような浅いことばっかり言う。具体的な話は不愉快なのですっかり忘れたが、いやー逆に私は実に真面目に音大時代を勉強してきたな、と自分で感心してしまったくらいだ。

にもかかわらず、Uは彼らの日本での電話番号を聞き(その後連絡などしたのだろうか?)
さっさと別れた。

いよいよシェーンブルン宮殿に行く。
車で行けばいいのに、またしても苦労して電車で行った。
まあ、それほど遠くはないけどね。

駅から歩くと、なんだか周囲からして雰囲気がある。
まずはイギリス式庭園のあの(ツゲ?)四角く刈り込んだ木の中の道を通っていく。
それを抜けると立派な宮殿があった。
そして敷地はものすごく広大。
元旦の「ウィーン・フィル・ニューイヤーコンサート」の生中継でいつも映る場所だが、テレビで見るよりはるかにのびのびとしていて、綺麗。
いやー、貴族さんや皇族さんはこういうところにいらっしゃったのですな。
いいな〜〜〜。

その時は宮殿の中には入れなかったのだが、そこにいるだけで十分満足。
私にとってはいよいよここが「はじめてのヨーロッパ」の最後の訪問地なのだ。

その宮殿から広い(広いなんてもんじゃない)庭を挟んで向こう側に(あれはなんだろう?)もうひとつ石の建物があるんだけど、そこに行こうとするとUは
「俺はここで寝る。お前一人で行って来い。」
「なぬ?なんで?」
「眠いんだ。それに俺はここ何度も来てるからな。」
贅沢なヤツ。
それにこやつ、さっきワイン飲んでたからな。酔っ払ったな。暑いし。

で一人でクネクネと庭の坂道を歩いていった。
広がる芝生、池、きれいなところだ。

てっぺんの建物のところ(城の残骸のようなところだった。)に着き、
ウィーンの街々を眺める。

なんだかここにきて急に旅の感慨がわいてきて、
そして帰りたくなくなってきた。


《つづく》



...

はじめてのヨーロッパ 〜その18 ウィーン2 - 2003年05月21日(水)

ロンドン交響楽団のコンサートの余韻覚めやらぬ心と体であったが、
翌朝は早く起きて出かけた。

ところでウィーンのホテルでは朝ごはんが素晴らしく美味しかった。
同じドイツ語圏でもこうも違うかと。
まずパンが柔らかくちょっとスイート感。
全体に優雅な感じがあるのだ。

まず、街中へ出かけた。
有名なシュテファン寺院へ行く。
既に観光客でごった返していたが、天に向かってまっすぐに伸びる外観ももちろん中はとても厳かであった。
丁度その何年か前にモーツァルト没後200年のミサがあり、彼のレクイエムをゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィルが演奏したところだ。
テレビで衛星生中継があり、背筋をのばして聴いていたものだ。
これは確かCDやLDにもなったはず。

そこから賑やかなケルントナー通りで色々な店をのぞきながらぶらぶら歩く。
伊勢丹デパートなんかもあってビックリした。
(あとでウィーン・フィルのコンサートマスター、ライナー・キュッヒルさんに聞いた話だが、ここはかなり色んなものが手に入りすごく便利とか。)
あとウィーンに限らずヨーロッパのこういう通りにはアイスを売ってる屋台が多いのだが、これが美味しいのだ。
(ちなみにドイツ圏ではIceがEisというスペリングなのが面白かった。)

それからワルツ王、ヨハン・シュトラウスの像(それまで白だったはずの像が金色になっていた。)なんかを見た。
ちなみにこの像と同じものが東京の葛飾区は青砥駅前に立っている。
あれは何度見ても場所的に違和感がある。
(「男はつらいよ」シリーズで「寅さん ウィーンに行く」というのがあったため(?)葛飾区はウィーンのどこかの区と兄弟提携を結んでいるのだ。)

さて私はいよいよ12時に友人Uと待ち合わせをしている。
それまでの午前中、共同墓地に行くことにした。
この共同墓地にはモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、シューベルト…
西洋音楽史を飾る作曲家たちが皆ここに眠っている。

本当はバスか何かでいけるはずだったのだが、地図と首っ引きで電車で行ってみた。
ホントにここなのか?というアメリカ西部の荒野みたいに何にもない駅でおりたのだが、やみくもに歩いてみると簡単にあった。
広いところだし。

いやまじ広い。
そもそも普通の共同墓地なわけだからお墓は膨大な数あるわけだし、どこにベートーヴェンがいる、なんて地図があるわけじゃない。
森林公園の中という感じ。
かなり苦労したが、かなり歩くとお花が一杯供えてある大きなお墓がいくつかある。
あれかな?と思うと果たしてそうだった。
ベートーヴェンとかシュトラウスなんかのお墓はちょっと大きめだったが、ブラームスは実に地味だった。
シューベルトはこじんまりしていた。
ははは、音楽と一緒だ。
まあ、後の人がそういう風に作ったのだろうけど。

でも私はなんと言ってよいかわからない気分だった。
私が生涯をかけて勉強している音楽。その中心ともいうべき偉大な先人だちのお墓の前にいるのだ。
とにかく目をつぶって祈った。
そして感謝した。
あなたたちが残してくれた音楽で、たくさんの人が勇気をもらったり幸せになったりしているのですよ…

とても良い天気で、私はしばらくぶらぶらしてからそこを後にした。

気がつくと11時30分くらい。
やべ! 待ち合わせに遅れる!

お墓の前の比較的広い道にでたら、タクシーが何台かとまっていたのでそれに乗った。
ヨーロッパで乗ったタクシーはこれで2度目、そしてこれが最後。
(なんか乗る気がしなくてねぇ)

ウィーン国立歌劇場の前に着くと、ピッタシ12時。
すごい暑かった。
お〜いU。いねーじゃねーか。
でも保険で3時と6時にも待ち合わせてるからな。いいか。

と思ったところ、向こうから手を振ってるデブが満面の笑みで近づいてくる。
「おーーーい! みゅう太ぁぁ〜〜!」
おー、ひさしぶり!!! 2週間ぶりに自分を知ってる人間に会えた!
やっぱ嬉しかった。

「みゅう太、おめー生きてたじゃねーか。いや〜よかったよかった!ホントどこかで死んで手来なかったらどうしようかと心配でさ。よくここまで来れたな。」
「てめーが見捨てたんじゃねーか。」
「ま、そう言うな。 実を言えばフランクフルトで分かれて、いやーまずかったかな?
もしおめーに何かあったらご両親に何て言えばいいんだ、とか思っちゃってさ。」

こういう奴なんです。ほんとに口が悪くて私をあれこれ批判ばかりするのだけど憎めない奴なんです。
だから今でもずっと友達でいられる。

「しかし、なんでお前コート着てんの?」
「いや、ロンドンに今までいたんだけど、超寒くってさ。」

でもこういう再会、本当に嬉しい。

Uはホテルをとってないので、じゃ私の泊まってるところがいいぞ、ということでアン・シューベルトリングに向かいました。


《つづく》







...

はじめてのヨーロッパ その17 〜ウィーン1 - 2003年05月20日(火)

ひとつ誤算があった。

オーストリア鉄道の乗り心地がどうもあんまりしっくりこず、(しかもえらいタバコの臭いが充満していて耐えがたかった。)早く着かんかな〜と思っていたら、
終点がウィーンの中央駅ではないことが判明した。(\_\;

ウィーン西駅が終点だとアナウンスで言っているのだ。
(こういうヨーロッパのメイン鉄道はドイツ語だけでなく英語も喋ってくれるので助かる。
ちなみに日本も最近英語アナウンスが増えてきた。いいことだ。)
まあいい。
でたとこ勝負だ。
自分でもここへきて相当気持ちが大きくなって大胆になってきてることを感じる。(この程度でか?)

さて西駅はそう、渋谷駅くらいな規模だったような気がする。(ホントかな?)
驚いたのは、降りて歩き出したら何人かオバサンが寄ってきて「今日の泊まりは決まってるの?ぜひウチのペンションで!」とかカタコトの英語で聞くのだ。
「決まってまっせ。」と真っ赤なウソを言いながら引き離し、“i”のマークを探しているとまたそこで待ち伏せしている。
すごい人たちだ。
いや、ウィーンというのは私なんぞには伝統ある「音楽の都」ってイメージだが、なるほど「観光都市」なのだな、と妙に納得した。

そんな雰囲気だったのでそこでホテルをとるのはやめ、とりあえず都市の中心部へと行くことにした。
地下鉄の駅のマップを見るとすぐ行けそうだ。

向こうの場合、地下鉄といっても地下を走ったり、地上にでたりで普通の通勤電車を考えてもらえばいいかな?
こちらはドイツ語のアナウンスだけなので(しかも「次はどこどこ。」と簡潔でなくて、ずっと文章を長々と喋っている。)「降りれるか??」と心配もしたが、まあ大丈夫だった。
私は知識として、シュターツオーパー(ウィーン国立歌劇場のこと)がウィーンのド真ん中にあることは知っていたので、それを待ち構えていたのである。
降りると案の上、ホテル・インフォメーションはあった。

ほんとに大分気持ちが大きくなっていて、まあ最後の場所ということもあり(そんなにお金も使わなかったしね。)「予算は1万円くらい。越してもいいよ。できるだけここから近くて便利なとこ。それでお風呂とシャワーはちゃんとついてる部屋でね。」と頼んだところ、
あっさりあった。
ホテル・アン・シューベルトリングというところ。
(後日談で、そこはあの世紀の女流ピアニスト、マルタ・アルゲリッチが一時定宿としていたホテルだった!)

こぢんまりとしてはいたが、リング通り(ウィーンの中心をなす環状通り。ここの中に有名なところはほとんどある。)に面していて賑やかだし、中はとても清潔で家庭的な感じ。
とてもよかった。

ところで友人Uと待ち合わせたのはいよいよ明日。
シュターツオーパーの前で12時に(もし会えなかったら3時と5時にも念のため約束をしていた。我々は意外に周到である。)。
なんだかワクワクした。
いや、生きてるぞー(あたりまえだ。)楽しかったぞー。英語ロクにしゃべれないのに2週間ヨーロッパをわたったぞー。
と早く話したかった。

ただ今日は何をするか?
まずコンサートに行きたかった。
でもシュターツオーパーに行くと、ま、これは当然なのだが夏休み。
しかも日本語でも(!)「8月はこの歌劇場はお休みです。」と書いてある。
そしてウィーン・フィルの本拠地であるムジークフェラインザールにも行ったが、なにも予定はなかった。
でも入れはしなかったものの、この昔から今に至るまで憧れていたこのような場所を訪れただけでも感激っす。 
どうか想像してみて下さい。
音楽バカにとってウィーン国立歌劇場やウィーン楽友協会なんてところがどんな夢の場所か!

で、次にコンツェルトハウスというホールに行ってみたところ、今晩ロンドン交響楽団の公演があるという。
それはいい!
ウィーンでロンドン交響楽団か、という気もしたが、このオケは超名門だし。
そこのプレイガイドらしき受付に行くとドイツ語しか離せないオジサンがいて
「ホイテ カルテン?」などと聞いてみると、「ナイン ヒーア。」
「ヴォ イスト?」と聞き返すと(すごい会話だ。)
今度はさすがに言ってることがわからず、オジサンは地図を見せてくれ、
どうやら「ここに行けば買える。」と言ってるらしい。
だとしたらナゼここで買えないのか?ほんとにそうなのか?とも思ったが
「ダンケ!!」と笑顔でいい、市役所?まで歩いていった。

歩いていると、う〜ん、ウィーンは想像通りのウィーン。
この日はとても暑かった。30度くらいあったかと思う。
でもなにしろヨーロッパはどこへ行っても空気が乾いているので、汗もかかないし、肌はサラサラだ。
街はの〜んびり、という感じもするし、下町情緒という感じもするし、伝統ある都って感じもするし、色々混じり合ってる感じ。
人もゲルマン人というよりハンガリーやスラブ系の顔が多く、これもこのあたりの人種が色々混ざってる感じ。
大きなホテルの1Fがザッハトルテとかアップル・シュプルーデルとかが売ってるケーキショップになってるところがいくつかあったりして、それがまた目をひいた。

少し時間がかかったが、なるほどプレイガイドがあった。
簡単に買えた。
しかも、2F席のハジの方だったということもあるが、1000円だ。安っ。
曲も前半は忘れたが、当時の首席指揮者マイケル・ティルソン・トーマスの得意なマーラーの第1交響曲。
ウィーンで聞くにはピッタリではないか。

ここのホール、いわゆるヨーロッパ的雰囲気はなく、赤が基調で中がバカでかい感じがする。(とはいっても2000席くらいだと思う。大ホールとしては標準的。)
集まるお客も、夏のオフ・シーズンだからだろうか? ヤンキーっぽい若者やいかにも観光客ばかりだ。

演奏は最高だった。
後にも先にもあんな素晴らしいマーラーの「第1交響曲」は初めてだった。
これは空気のせいもあった、と思う。
空気というのは聴衆のオープンな雰囲気、というのもあるが、物理的に空気が乾いているので音の鳴りがいいのだ。
およそ音のよさそうなホールには見えないのだが、音が素直に聞こえるし、プレイヤーも力を入れなくても楽に響いているように見える。
これはミュンヘンのオペラハウスでも体感できたことだが、日本でのコンサートとの大きく違う点。

ヤンキーたちが足を前の空き席に投げ出しヤンヤヤンヤと拍手を送ってる様子も、なんだか場の空気に似合ってる気がしたのも不思議だった。


《つづく》



...

はじめてのヨーロッパ 〜また余談です〜 - 2003年05月16日(金)

ひとつ書き忘れていたことがあった。

それは旅先で見たテレビのこと。
フランクフルトで「スーパーマン」ならぬ「ズッペルマン」を見た、という話は書いたと思うが、異国で見るテレビ番組というのは色々と文化に違いが驚くほど表れていて実に面白かった。

ザルツブルクだったと思うが、コンサートから帰って少し休んでからテレビをつけた。
夜11時くらいだったと思う。
ドラマをやっていた。
男女2人が部屋にいる。そしていかにもこれからエッチな場面になりますよ、という雰囲気。
家庭だったらお母さんが「子供はもう寝る時間よ。」と大慌てになるような感じだ。
果たしてそうだったのだが、ビックリしたのは
「え〜〜〜! ボカシなしの無修正かよ!!」(◎o◎;)
という女性のマッパだった。
野生動物のごときワイルドな胸とジャングルのような下半身がバッチリ。

そしてこれはミュンヘン。
10時くらいか、ニュースが終わってCM。
ところが出てくるのはどうもテレクラのような、淫靡な美女の群れがブラウン管から誘ってくる映像。
そして続々と続き、しかも内容はエスカレート。
どう考えてもこれは日本でも電話ボックスに貼ってあるピンクシール(って言い方するのかな?)をテレビでやってるようなものだ。
ひとつひとつ終わるごとに「お電話はぁ〜○○○のぉ〜△△△よぉ〜。待ってるわよぉん〜。」てな感じ。(もちろんドイツ語でね。)
そして10分ほどたったら今度は「ゲ〜〜〜イ オンリ〜ィ〜。」という案内。(O.O;)

おいおい、いいのか。こんなオープンで。
しかもこの時間、まだ子供起きてるだろ?
オープンな中で自分の生き方は自分で選べってこと?
でもローティーンにまだそれは無理だろ、と思うけどな。
しかしこれ、まじで電話したみたらどうなるんだろうね?
(決まってんじゃん。 おー怖。)

あと私はアメリカの「スタートレック」シリーズの大ファンなのだが、これがどこへ行ってもやってるのは嬉しかった。
日本で言う「新スタートレック」シリーズ、正式には「ネクストジェネレーション」シリーズというやつが88年から始まったのは知っていたが、まだ見たことがなかった。
(ピカード艦長やアンドロイドのデータがでてるやつね。)
それがやってたり、それどころか次の「ディープスペースナイン」シリーズや「ヴオイジャー」シリーズまでやってた。
ただみんなドイツ語吹き替えだからさっぱりわからなかったが。
ちなみに何年後かにフランスのエヴィアンに出張した時も、そこでやっていた。
「スタートレック」ファンは世界に何億、という話は聞いていたが、これで身をもって確信できた、というわけだ。

あとこれはザルツだったろうか、小津安二郎の特集をやっていて「東京物語」と「秋刀魚の味」がオンエアされていた。
私は日本にいても小津作品の空気に「日本はいいなぁ」などと思ったりするが、異国で見るといかに日本という国が特殊か、ということに否応なしに気づかされる。
そしてモノクロ画面の中から滲み出る、この静謐な情緒。
早く帰りたいな、と思ってしまったし、また私はこういう文化的土壌をもった自分にひそかな誇りを持ったりもした。
なぜか嬉しかった。
でも実際日本に帰ると、今こういう空気ってないよな、と寂しくなったりもする。

しかしその後である。
なぜかまた今の東京が映ったので「??」と思っていたら、
あの村西透カントクがでてきた。
「おいおい!なんでアンタが?」
日本のAV事情のレポートだった。
ドイツ人の冷静なナレーションの後ろでカントクのファンキーなコメントと、あの頃全盛だった(のか?)黒木香が撮影中のエロいカッコであのワケわかんないトークを展開している。
…いや、恥ずかしかったっす。

どうも話がお下劣方向にいくな…。

音楽の話にいけば、クラシックの番組はさすがに充実している。
いくつかオーケストラの実況中継も見たし、オペラもかなりやっていた。
またバイロイト音楽祭がもうすぐってことで、「今年のバイロイト」のような特集がニュース内で組まれていた。
その年に上演される、新演出(ハイナー・ミュラーという人だったと思う。)の「トリスタンとイゾルデ」(ダニエル・バレンボイムの指揮)の話に集中していたが、その時の衣装があの山本耀司だったのだ。
そのヨージ・ヤマモトのデザインした衣装というのが、SF的でかなり奇抜なものでそのことにインタビューが集中していた。

音楽に限らないとは思うが、このように文化的なことが「国で起こってる一大事!」のように報道されるというのは、私には羨ましい限りである。

《つづく》



...

はじめてのヨーロッパ その16 〜ザルツブルク4 - 2003年05月13日(火)

さて、ザルツブルクでは夕食をどうしてたか?

ところでザルツというところは旧市街と新市街からなり、駅は新市街で一般の住宅地はこちらにある。
そしてザルツァッハ河を渡ると旧市街。
こちらにメインストリートやモーツァルトの生家、音楽祭のメイン会場の祝祭大劇場があります。
当然、旧市街の方が賑わっており、食べるところもおみやげ屋さんもたくさん。
あのザルツブルク(とかウィーンで)といえば有名な、モーツァルトの肖像画に包まれた丸いチョコレートが至るところで売っている。

で、こっちにはマックも例によっていくつかあったのですが、流石にザルツブルクでマックは嫌だ。
(でもヨーロッパを歩いている間、マックは女神のように感じられましたよ。
困った時の何とやら。)
ミュンヘンの時のようなセルフレストランのようなものはないかとうろついていると、ありましたよ!
「ノルトゼー」という赤いお魚マークが目印のセルフレストラン。
ノルトゼーとは「北の海」という意味だから、ハンブルクやはたまたデンマークあたりの海でとれる魚の料理でもいっぱいあるのかしらん?と思い入ってみたら、果たしてそうだった。
あとパエリアがあって、そろそろご飯に飢えていた私にはとても嬉しい。

モーツァルトの生家というのは、まあ人でごった返していて感慨に浸っているどころじゃなかった。
実際ありふれた展示がされた家、という感じだったし、またいつの機会かに。

それよりザルルブルクの市内で驚いたのは、音楽祭シーズンということで世界中のクラシックのメジャー・レコード会社(ドイツ・グラモフォンとかデッカ、フィリップス、EMI、RCA とかほんとにたくさん。)が出向オフィスをあちこちに出し、またどこに行ってもアーティストの写真やCDジャケットで派手ハデに飾ったラッピング・カー(?っていうのでしたっけ?)が走っている。
それこそ小澤征爾とかクラウディオ・アバド、ドミンゴとかパヴァロッティとかアルゲリッチとか。
彼らにとってこの音楽祭が一大マーケットなのだ、というのが歴然とわかる。
実際、色んな仕事相手に出くわしてしまった。
みんな日本から出張やら取材に来ている。
まあ、予想はしていたものの会いたくはなかった。
かなり目をそらしたりシカトこいたけど。
もう「あの方も!」「この方も!」「あいつも!」「こいつも!」

でも楽しいザルルブルクでした。
さて最終目的地ウィーンへと向かう。

音楽の都ウィーン。
今度はオーストリア内の国内移動ということになるので、電車はドイツ・バーンではなくオーストリア鉄道。
随分車内が汚くて、ドイツとはまたこんなところが違う。

さて私は無事ウィーンから出発することはできるのか?
そして友人Uに会うことは出来たのか?

(無事だったから今日本にいるんだろ!というツッコミはしないように。)


《つづく》



...

はじめてのヨーロッパ その15 〜ザルツブルク3 - 2003年05月12日(月)

しかしザルツブルクという街はせまかった。
バスツアーで行ったザルツカンマーグートまででれば、のびのびとどこまでも〜、という感じになるのだが、街そのものは狭い。
そして盆地っぽく、ガケやトンネルが多かったりするので少し暗い感じがする。
私は3日間いたのだが、1週間もいたら気が滅入るかもしれない。
いくら音楽祭という期間中でも1か月いるには嫌だな、と思ってしまいました。

とはいえ、ここはモーツァルトの生まれたところ。
モーツァルトのみならずたくさんの作曲家がここで活躍した。
それに現在も演奏家の多くがここに居を構えている。
市内、というよりカンマーグート方面が多いようだが。

ところで私は天下の「ザルツブルク音楽祭」にひかれて(…といいつつまずはサウンド・オブ・ミュージックに心を奪われてしまった私だが…)ここへ来たのに、全然チケットがとれなかった。(― ―|||;)
巨匠ニコラウス・アーノンクールがモンテヴェルディのオペラ「オルフェオ」を指揮していたり、名匠ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィルのコンサート、それに現代最高のピアニスト、マウリツィオ・ポリーニのリサイタルがあったりしたのだが、ことごとくソールド・アウト。
さ〜すがザルツブルク音楽祭。
感心してる場合じゃないのだが、まあ急に決めたことだしここは仕方がない。

プラハでもそうだったが、こういう時期というのは観光者のために結構色々なところで小さなコンサートをやっている。
私はしばらくうろついていると「ドーム・コンサート」と呼ばれている教会でのコンサートにぶつかったので、プラッと入ってみた。
チケットもおばちゃんが入り口の前に机を置いて売っているような気軽さである。

結構、これがよかった。
オーケストラも「ザルツブルクなんたらオーケストラ」といかにもとってつけたような名だし、メンバーもこの辺在住の音楽家のよせ集めだろうと思う。
やった曲はモーツァルトの「ミサ・ソレムニス」だったが、やはりこういう中央ヨーロッパの音楽家というのは心身の髄までヨーロッパ音楽の奥深さ、自然を身につけているのだ、ということをほとほと感心した。
私たち日本人がイメージとして持っているヨーロッパの香りがにおい立ってくる。
そしてこのオーストリアの音楽家たちの音楽は、またドイツ人たちのものとは少し違って何と言うかより自然で柔らかい。
教会(ついでにいうと日本の教会は、九州の方に行けばヨーロッパ風の礼拝堂も多く見られるが、大部分はアメリカ風のものである。TV「大草原の小さな家」にでてきた小さな教会を思い浮かべてみると良いかも)
のおごそかな空気も相まって、深い祈りに満たされたコンサートだった。

その晩はお城でやっていた弦楽カルテットのコンサートに行った。
レオポルド・カルテットといったか、ミュンヘンのカルテットということだったが多分私がミュンヘンで聴いたバイエルン州立歌劇場のオーケストラのメンバーたちと思われた。
城のコンサートといっても大広間とかそんな場所ではなく、ちいさな部屋で、ろうそくの明かりとほんの少しの電灯の下で行われたささやかなコンサート。
曲はベートーヴェンと(何番の弦楽四重奏曲だったかちょっと覚えてない。)シューベルトの「死と乙女」だった。
この人だちはさっき聞いたザルツブルクの演奏家たちとは違って、少しばかりカッチリした音楽をやっていた。
カルテット、というのは結構あわせることがまず難しく、「本当に良いカルテット」にめぐりあうことはなかなか、です。
このカルテットもかなりギクシャクしてたり、ゴツゴツして音楽がきれいに流れないな〜などとは思っていたけど、「死と乙女」みたいな深く沈滞した世界や、おそろしい迫真性を持ったこういう大曲になると、やはり日本人では絶対こうはなるまい、という奥の深い演奏を聴かせてくれた。

ところで私の横に日本人の顔(?)をしたおばあさんが座っていたのだが、思い切って話しかけてみた。
「良かったですねー!」
「What?」
ありゃりゃ、日系の人だったか。
しかしそのおばあさんはゆっくりとした英語でその後色々話してくれたのだが、ニューヨークから来た、ということだった。
その更にとなりにはそのご主人がおり、話に加わってきた。
アランさん、という方でバケーションで3週間のヨーロッパの旅だそうだ。
「君は学生?」(外国にいると日本人て子供っぽく見えるんですよね。)とか「どこ行ってきたの?」とか聞かれ、「プラハとかミュンヘンとか…」と話していたら
「それはどこ?」と聞かれた。
「へ?」と思ったのだが、しばらくカタコトで話していると、成る程、英語では「プラハ」とか「ミュンヘン」って言わないんですよね。
それぞれ「プラーグ」「ミュニク」と言うんです。
そういえば、空港でそんなアナウンス聞いたなぁ〜。

それからアランさんに「せっかくだから一杯飲みにいきませんか?」と言われ、ご一緒させていただきました。
私は滅多にこういういきなりな誘いはお受けしないのですが(気が小さくてね。)
とても良さそうな、落ち着いた老夫婦だったので。

楽しかったですよ。
「え〜夏なのに2週間しか休みが取れないの?」と言われ
「2週間でも多すぎる、と言われてます。」と答えたら、
「日本は大変だねぇ。」とため息をつかれてしまいました。


《つづく》




...

天に召されたある大先輩 - 2003年05月09日(金)

びみょーに日記のタイトルを変えてみました。
あまりたいしたことではないのですが、私の書いてることってこりゃ日記じゃねーな、と思ったので。
さりとてコラムでもないし。
他の方のBBSに書き込んでるのと、なんら違いがないような気がしたのでこんな感じにしてみました。
でも気まぐれだからまた変わるかもね。

で、今日はザルツブルクの続きの筈だったのですが、すみません、また違う話にさせて下さい。
それも少々寂しい話です。

私たちクラシック音楽業界の大ベテラン・マネージャー、高柳増男さんがガンで5月6日にお亡くなりになりました。
高柳さんは70年代くらいから高柳音楽事務所をはじめられ、一時期それはもう一級の、それも個性的で素晴らしい海外アーティストを招へいなさっていて、小さいながら名の通ったマネージメント活動をなさっていました。
今でこそそのアーティストたちはもっと大手の事務所が招聘していますが、例えばピアニストの巨匠アルフレッド・ブレンデル、ショパン・コンクールを破格の演奏のため落選したのに関わらずその天才は今や押しも押されぬスターとなったイーヴォ・ポゴレリッチ。
今は指揮者としての方が有名ですが、当時は「リコーダーのパガニーニ」と言われ一世を風靡したフランス・ブリュッヘン。
そういう凄いアーティストたちをいち早く目をつけ、日本公演を実現して下さった方の一人。
私も学生時代、ブレンデルやポゴレリッチのコンサートのチケットを買いたくて、高柳音楽事務所によく電話しましたよ。

私がこの業界に就職したころ、音楽事務所同士で集まって「クラシックの日」の集い、とかそんな「クラシックをもっと聞いたことない人に聴いてもらおう!」みたいな催しがありました。
入りたての私は同期の奴らとそういう会議に参加させられ、そんな時に色んな事務所の社長やらベテラン、大御所とよばれる人、色んなスタッフと知り合ったものです。
そんな中に高柳社長は名物的な感じでいつもいらっしゃいましたね。
亡くなったのが62歳というから若かったのになあ、と思うとともに今思うと「え?じゃあの頃はまだ50くらいだったのか!」とビックリ。
元気な方、というイメージはあったけど結構おじいさんぽかった。
苦労したんでしょうね。
私は高柳さんとそんなたくさんお話した訳ではないし、その後もそんなに親しくなった訳でもないけど、いつも元気で「こんなことやろう、あんなことやろう!」と仰ってた姿と、
事務所の垣根関係なく、それまでみんなでこの音楽界支えてきたんだ、という連帯感を持ってベテランの方々が目をキラキラさせながら頑張っているのが何より印象的でした。
…というか羨ましかったです。

今は「クラシック音楽事業協会」って立派なものができて、各マネージメント・オフィスが所属して色々な委員会とかをやってるけど、あの頃みたいな夢とか「やるぞ!」って勢いはない。
もちろん今まで音楽活動をするのに立ちはだかっていた障害をとり除く、とかそういうことに努力してるわけだけど、何か違う。
特に丁度私から年下くらいのスタッフは違うんだよなー、何かが。
横のつながりも、まあ飲みにいったりする連中はいるんだろうけど、そこで音楽界への夢を語る、とかクリエイティヴな話が生まれる、なんてことはないみたい。
かくいう私なんかは人付き合いの悪い人間だから、よっぽど気のおけないスタッフとしかメシ食いに行ったりもしないけど。

どんな分野のことでもそうだと思うのですが、黎明期、というのはすごくいい時期だと思う。
もちろん色々大変だとは思うんですよ。
整備されてないシステムが多くて、こうやりたくてもできない、ってことが多いですしね。
でもその分、同じ志をもった人間が集まって何かを創る、って雰囲気が充満している。
(プロジェクトXなんかでよくそんなエピソードをやってるじゃないですか。)
私は20代前半、ベテラン・マネージャーたちの昔話や、大先輩が「どこどこ事務所の誰々やどことかオーケストラの誰々と昔はこんなことやってさ〜。」とかいうのを聞くと心底羨ましかったものです。
今の自分たちにはそんな雰囲気は全然ない。(少なくとも私の職場には。)

そんな空気から新しいものが生まれ、今私たちが仕事をしてる基礎を作ってくれたんですよね。
高柳さんはそんな時代を代表する一人でした。
もう数年前に高柳音楽事務所は倒産し、その後高柳さんの姿を何度か見ましたが「倒産」というのは私なんかには想像もできないほど大変なことだと思う。少し気が変になってるようで大声で意味のわからないことを叫んでいたりして、とても痛々しかった。

ただ高柳さんがいなくなった、っていうのは私にはとても寂しい。
それになんだか一つの時代が確実に終わっていく、って気が私の気を重くする。

私の同期たち、もう今はみんな違う事務所やホール、レコード会社だったり色々。
でも奴らとは結構今でも定期的に会うし、色んな話ができる。
私の周りで職場が変わってもそういうつながりを持ってる人間はあまりいないらしい。
だから大事にしたいと思う。
そしていつかみんなで、いい音楽がいっぱいで人々が笑顔でいられるような社会であるように、ほんのちょっとでも種まきができたらな、と思う。

高柳さん。
どうか天国で楽しくしていてくださいね。



...

はじめてのヨーロッパ その14 〜ザルツブルク - 2003年05月08日(木)

連休中、日記をサボッてしまいました。
休みっていっても、結局2日しか休めず、まあどっちにしても国民一般休みは飛び飛びで「どこがゴールデンなんだよ!」って感じだったから良いのだけど。
仕事してる時の方が文章って書けますね。
休んでるとなんだか面倒くさくなっちゃう。
なんでだろ?
仕事しながら逃げ道求めてる、って感じなのでしょうかね?

さてザルツブルク。
ホテルのフロントに「サウンド・オブ・ミュージック・ツアー」というパンフがあり、それに胸躍らせた私。
部屋に入って真っ先にそれに目を通しました。

なんでこんなにワクワクしたか、といいますと、
私は映画「サウンド・オブ・ミュージック」の大ファン。(キッパリ)
遡ると、父が文化の香りもないような僻地出身の田舎モノのくせにどういうわけだか少年時代から熱烈なミュージカル好きで、私は幼い頃から「マイ・フェア・レディ」だとか「サウンド・オブ・ミュージック」のサントラなんかを聴かされてきた。
もちろん映画も観に連れて行かれた。
まあ、私もそういう好みの素養があったのでしょう。見事に父に洗脳されまして、「サウンド・オブ・ミュージック」は私の好きな映画ベスト3に入る。
ザルツブルクはまさにこの映画の舞台です!

パンフにはやれマリアとトラップ大佐の結婚式の教会、とかここで大佐がエーデルワイスを歌った、とかもう行かないワケにはいかないじゃないかー!というものがいっぱい書いてあります。
「これは行かずば一生後悔モンだな!」

フロントに行って、ほとんど勢いですね。 
「I want to joy this!」とかすごい短絡な言葉を使ったことをよく覚えてます。
そしたら翌朝、ロビーに居れば迎えにきてくれるそうです。

それでその日は市内を散歩したのですが、すみません、その話は明日…。

まずは「サウンド・オブ・ミュージック・ツアー」の話を。

朝食を食べ(オーストリアに来るとドイツとは食事の味が全然違う。美味しい!パンも柔らかく甘いものが多い。 柔らかい、といえばドイツ語自体、オーストリア人のアクセントが柔らかい。「ブ」が「フ」に近くなる。)
ロビーで待っていると、マイクロバスがすぐ来ました。
インド人が乗っているのでちょっとギョっとしましたが、その人たちは別のツアーで、マイクロはミラベル広場の近くの大きな駐車場でとまりました。
大きなバスが何台も待っていて、「ここが○○ツアーだ。あっちは△△ツアーだ。」と係のおじさんが旗を振っている。
ハトバスみたいなものですな。

さて私の乗るバスツアーは乗ってみると見るからにアメリカ人ばっかり。
なんとなくそう思ったのですが、後でその見立ては正しかったことが証明されます。
どう見てもヨーロッパの人々はいない。
まあバスの中は賑やかでした。
そのうちバスは市内を出て、ザルツブルクカンマーグートとよばれる郊外の田園地帯、湖のたくさんある山岳地帯に入ります。
いや〜〜〜、まるで絵葉書でしたね。
日本とは違って山並みはゆるやかで、目に優しげな淡い緑が広がる。
かわいらしい素敵なロッジ風の家がポツリポツリと立っていて、私たちのような者にはなんだか浮世離れ、って感じ。

バスの中の賑やかさはますます度を越し、またガイドがアメリカ映画にでてくるDJのような奴でずーーーっと「イエ〜〜!エブリバディ〜〜!」みたいな感じだからちょっと疲れたけど、楽しかった。
「レッツ・シング・ソング・オブ・ドレミ!」とかいうことになって、アメリカンたちと歌いましたよ。大声で。
(あとで友人Uにこの話をしてどれだけ笑われたか…)

それで色々なところをまわりました。
あの「You are 16…・♪」と、何と言ったっけ、あの若い恋人たちが夜2人で歌うところ。
あの白いあずまやがあるんですよ。
そこでお年寄り夫婦が代わる代わる何組もそこに入って写真を撮ってる。
私も何度もシャッターを押すのを頼まれましたが、すごく微笑ましかったです。
あの古き良きハリウッドの傑作「サウンド・オブ・ミュージック」は未だにアメリカ人の夢やノスタルジーなんだなぁ、ってひしひしと感じちゃいました。
私だって感激です。

それからモントゼーという湖。
ここにはマリアとトラップ大佐が結婚式をあげた教会がある。
映画のシーンはよく覚えてましたからね、「おおっ、これじゃないか!」
中にも入りましたが、なんだか涙ものでした。
このモントゼーの広場で自由時間だったのですが、なにしろ日本人、というか東洋人は思いっきり私一人なので、ポツンとしてましたが、日本と同じでおみやげ屋さんとかいっぱいあったので退屈はしませんでした。
売ってたアイスも美味しかったし。
そのうち、若いアメリカ人の兄ちゃんが話しかけてきました。
ヨーロッパにいるとよく言われたのですが、そいつも「君は韓国人?」と聞いてきました。
「いいや、日本人」
「そっか、この映画好きなの?」「いやー、大好きでさー。」
何言ってるんだか半分もわかんなかったけど、やっぱりアメリカ人ってヨーロッパの人間とは少し違う。
人にもよるとは思うけど、アメリカ人ってなんか前向きなんですよね。
理想とか希望を信じてて、楽天的。未来に向かって歩くぜイエ〜イ!みたいな。
その点、ヨーロッパ人は「斜陽」っていうか彼らの文化はいくとこまでいっちゃってんのかな〜?って感じがする。
よく言えば落ち着いてるのだけど、なんだか終末を待っているような雰囲気もしてしまう。

約5時間のバスツアーでした。
楽しかった。

さて、本文である音楽祭やモーツァルトの生家とかを見にいかなくちゃ。

《つづく》



...

はじめてのヨーロッパ その13 〜ザルツブルクへ - 2003年05月02日(金)

「椿姫」が終わった後、オペラを聴きに来てた日本人グループの何人かにお誘いを受けて、有名なホフボロイハウスに行ってビールを飲みました。
私は見知らぬ人に誘われるのはあまり好きじゃないし、ましてや酒もあまり飲めないし、日頃はよっぽど気のおけない人間としか飲みに行かない。
でもホフブロイハウスに行く機会だし、一人で行くのは流石にどうかとも思うので仕方なく(その時の方々、ゴメンなさい!)行きました。
…………
つまんなかった。
まじ、オタッキーな人だちばっかで。
でもビールは美味かった〜。(ジョッキでかいし、アルコールきついしあっという間にフラフラしてきたけど。)

さてこれでミュンヘンの旅も終わり。
なにしろ住みやすそうなオープンな街なので名残惜しいが、正直私はそろそろ日本に帰りたくなっていました。(早っ!)
どうも脳裏には白いごはんと、何故か緑の稲穂が風にそよぐ農村のわらぶき屋根の家が見える。
こうやってヨーロッパにいて石の文化に憧れはあるけれど、それに音楽をやっている人間として、音楽が日常に自然にとけこんでいる生活が羨ましくはあるけれど、私はやっぱり日本が好きだ。

…といっても帰りのフライトの日時は決まってる。
ウィーンに行かなければならない。

ふとそこで考えました。
まてよ、ここからウィーンに行ったら4日間もウィーンにいなきゃならないな。
多分そんなに大きな街ではあるまい。
ではここにいてできなかった城めぐりでもするか?
否、否。
地図を見ていて心がひかれる所がありました。

ザルツブルク。
ミュンヘンとウィーンの中間地点には、あのモーツァルトの生まれたザルツブルクがあります。
しかも今は世界最大の音楽祭、ザルツブルク音楽祭の真っ只中。
音楽馬鹿の気持ちをくすぐり、奮い立たせるにはこれ以上のものはありません。

「いざ!ザルツブルクへ!」


行程は同じです。
ウィーンに行く途中で下車すれば良いのですから。

3時間ほどで着きました。
今まで8時間とか10時間列車で揺られてきた私にはそんな時間はあっという間。
途中、オーストリア国境でパスポート・チェックがありましたがかなり形式的なもの。
やっぱり兄弟国みたいなものなんだな、と思います。
私は例のようにまたシャツからパスポートをおもむろに出す。
もうこの頃は慣れてきて恥ずかしいくらい堂々とやってました。

駅は小さいです。
フランクフルトやミュンヘンの巨大サイズどころか、日本の地方都市の駅よりもはるかに小さい。
しかし同じドイツ語圏といってもここが近づくにつれ、列車に乗り合わせてくる人の人種が微妙にかわってくるのが私には面白かった。
ごつく色の白いドイツ人から、だんだん色がついてくる、っていうかアジアとまではいかないけど写真で見るスラヴ系とかハンガリー系の顔立ちが入ってくるんですよね。

音楽祭の真っ只中、ホテルがとれるかどうか心配っでしたが、“i”で割と簡単にOKでした。ただ音楽祭の中心になるザルツブルク祝祭劇場からは遠いところでしたけど。
駅からも遠くてスーツケースを引く手が痛かった。
(だからタクシー使え!って話なんすが)

ところでそのだいぶ色々慣れたせいか気持ちが大きくなってて、ホテルも最初の頃は
「予算は抑えてー、抑えてー。」
だったんですが、ここへきて
「使っちゃえー、使っちゃえー。」
と変わってきてました。 どんどん気が緩んでます。
結構いいホテルだったんですが、それでも1泊1万円くらいかな?

ホテルまでの道のりの途中に、有名なミラベル庭園がありちょっとゆっくりしていきました。
色とりどりの花壇で大きく色んな模様が描かれている、あのよく絵葉書とかにでてくる庭園。
いやー、綺麗でしたぁーー!
やっぱりちょっとドイツ人とは少し違って、感覚が優雅って感じです。

ホテルに着いて、チェックイン。
そのフロントで色々音楽祭情報とかパンフレットをもらったのですが、その中に
「サウンド・オブ・ミュージック・ツアー」
とド派手な英語のパンフがありました。
これが私の胸を激しく揺さぶったのですね〜!!

《つづく》



...

はじめてのヨーロッパ その12 〜ミュンヘン4 - 2003年05月01日(木)

ミュンヘンでの「ばらの騎士」に浸る、ということはヨーロッパ文化の髄に触れること。

ここで一気にヨーロッパが自分に引き寄せられてきた気分になりました。

さて翌日のオペラはヴェルディの「椿姫」。
あの有名な、パリの娼婦ヴィオレッタとアルフレードの悲恋ドラマです。
もっともミュンヘンでイタリア・オペラを観る、というのもどんな感じなのだろう?

さて今日は夜まで時間がかなりあるので、城めぐりでもしようかと考えていました。
特に、ミュンヘンにいるからにはあのノイシュヴァンシュタイン城が見たい!
で、どこにあってどうやって行くのか調べていたのですが、どうもよくわからない。
フュッセンというところまで電車で行って、そこからバスか何かだと思うのですが、これフュッセンまで行く電車がやけに本数少ないぞ。それに結構時間かかるぞ。
そこからバスなりタクシーでどのくらいかかるかわからないし。
トーマス・クックに首っ引きで考える。
(↑海外旅行者にはおなじみ、ヨーロッパ全域の列車時刻表。こういうのを眺めるのが私は大好きなのだ。)
…どうもダメっぽい。
えーーー!ここにいてノイシュヴァンシュタイン行けないのかよー。
あのルートヴィヒ鏡い肇錙璽哀福爾罎りの地が見たいよ〜。

でもそれでオペラに遅れたら元も子もない。
でもオペラを諦めて城をとる、という手もある。
どうしよう…? (優柔不断な私)

涙を飲んで(?)オペラをとることにしました。
そのかわり、ガイドを見てやはりルートヴィヒが建てたニンフェンブルクという城にいくことにしました。
ここならSバーン(近郊電車っす)で30分くらいで行ける。
早速出発。

いいところでした。
ニンフェンブルク(=妖精の谷)というだけあって綺麗なところ。
池には白鳥がたくさんいます。 優雅ですねえ、白鳥。
この情景からしてもうワーグナーの「ローエングリン」の世界。
広い庭をゆーっくり歩くと深い森、一面に広がる草原。
ベートーヴェンやマーラーなんかがこんな道を散歩して、あんな楽想を頭に浮かべたんだろうな〜と、目から肌からその空気がじわ〜としみこんでくる。

ただですね。
ここでなんと農協のツアーにでくわしてしまったんですよ。
もちろん日本の農協。
別に農協に罪はないし、恨みもないけど「ありゃ、なんだべ?」「おーすごいのぉ」「兄ちゃん、シャッター押してくれや。」
もう、それからはなんだか雰囲気にひたるどころではない。(.;ロ;;)

夕方までたっぷりいてホテルにすっ飛んで帰り、着替えてまた劇場へ行きました。

この日の「椿姫」は新演出のプレミエ公演。
昨日よりさらに豪華でお洒落な人だらけ。
さすがにロビーでうろちょろしてるのは気がひけて(どうも気おくれ)、さっさと席につきました。
「ばらの騎士」の時もいましたが、結構日本人の客が多くて私の席のまわりにもたくさんの方々がいました。
ただ何と言うかなぁ〜、私もその時は人のこと言えなかったけど、もう少し堂々と楽しそうにいてくれよ、って感じ。
もちろん私も話しかけられりゃ喋るけど、日本人だけで固まって、それもコソコソヘラヘラまるでオタッキーの群れって感じでカッコ悪いったらありゃしない。

しかし「椿姫」!よかったです。
歌手も当代最高の一人、ユリア・ヴァラディ。指揮も天下のクラウディオ・アバドの甥でその頃赤丸急上昇中だったロベルト・アバド。
ヴァラディのドラマティックで、色々な思いにふけって死んでいく最後なんかあまりにも切々と真に迫って泣けました。
アバドの指揮は音楽がビシーーッと引き締まって痛快だし。
それと、面白かったのがギュンター・クレーマーという才人演出家の演出。
「椿姫」の舞台はパリの社交界。最初はサロンでのパーティーから始まる。
あの有名な「乾杯の歌」が歌われるところです。
ところが幕開け、真っ黒な壁からいきなり4つの扉が開き、そこから強烈な黄色の光がさす、そこから紳士淑女がラインダンスをしながら一列で出たり入ったりする。
また2幕のアルフレードの部屋では、だだっ広い何もないパステル調の部屋の真ん中に巨大なブランコが下がり、またぬいぐるみとか子供のおもちゃが散乱してる。
こういう舞台でアルフレードの幼稚性を視覚化しよう、というわけです。

終始こういう前衛演劇のような感じで、私なんかは面白いなー、とおもったのですが、終演後、観客はものすごいブーイングとブラヴォーの両方飛び交い、騒然となりました。
ヨーロッパ、特にドイツのオペラやコンサートではこういう状況が日常茶飯事だということは知ってはいましたが、その場に出くわすとさすがにビックリ。
すごかったですよ。(<●>_<●>)
もう嵐のような騒ぎ。 暴動でもおこるんじゃないか?って感じでした。
私はとなりのドイツ人のおじさんにカタコトの英語で「君はどう思う?」って聞かれたので、「こういう伝統的でない演出をイヤだと思う人の気持ちもわからなくはないけど、私にはこのチャレンジングな舞台はとても面白かった。」と言いました。
おじさんは「私もとてもエキサイティングだったよ!」と言っていました。
見渡すと周りもそれぞれに議論をかわしてる。

「ブーー!」と何人かが叫ぶと、「ブラヴォー!!」と応戦する。
面白かったです。
日本のコンサート会場もこんなにアクティブになればどんなにいいだろう!
と思った夜でした。

《つづく》


...




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