非日記
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「読んでねー」と言われ「そのうちね」と言っていたので、さっそく「ヴィンチ村の爺さんの暗号を読んだよ!」と報告したら、「今頃?」と言われる。 はて、あれはいつの事であったろうか……? 映画化で話題になっていた頃だから、2006年頃だと思われるよ。2006年なんて、たったの四年前ではないか!
いえ、いいんです。生まれて十年の人だったら、四年なんて人生のほぼ半分よな。先日、職場の人に「何歳ですか?」と聞かれ、言おうか言うまいか一瞬迷ったところ、すかさず「すみません。こういうの聞いちゃ駄目ですよね!」と謝罪されたのですが、別に謝らんちゃよかたい。私には別に聞いてもいいんですよ。特にこういう、人には聞かれたくない事があるかもしれないと思慮を発揮する御方には喜んでなんでも正直に喋りたくなります。 単に、相手には何歳に見えてるんだろうと聞きたくなったのです。かといって「人に年齢を聞くなんて失礼かも!」という礼儀正しい相手に、「何歳に見える?」なんて意味も無くロシアンルーレットに誘うような無礼なまねはできかねる。しかしなんだってそんな事が知りたいのかを私は知りたくなった。相手が上に見られたいのか下に見られたいのかがわからずとも、ひとたび正解を知ってしまったら正直なところは余計に言いにくいだろう。一度しかないチャンスをどう使うかという迷いがあったわけです。 で、結局、クイズは諦めて正直に言ってしまう。
人「若いですね」 若いんか?お前の方が若いのではないか?知らんけど。 いよいよ何歳に見えていたのか気になります。絶対にもっと上だと思ってたな?でもこういう事を言うと、「違うの!落ち着いて見えるって意味で!」必死で弁解されるので大人げない真似はやめました。そうなの。私は見た目は落ち着いて見えるらしい。物凄く落ち着いて見えるらしい。赤子の時から落ち着き切っていたらしいので、昔から延々とそう見えるらしい。母の叔母が私の写真を見て一言「これは並みの男では駄目だな」と言いきったらしい。中身を懸案して問題だというのならまだしも、顔だけでどういう意味だと追求したいが、おそらく問題はこの辺だろうと推察してみる。
落ち着いて見えて良い事なんて大して無いと思うよ! 自分が道に迷っていても、知らない人から道を聞かれるよ!只今のところ人生で最高記録は、並んだビル二つ、前を通り過ぎる間に四人、総当たり戦。神のいやがらせか。私を前に進ませろ!
人々が新陳代謝しながら常に若々しく二十代も半ばを過ぎると御老体扱いの同人界に足を突っ込んで長く、ついでに地獄耳で無駄な記憶力がいいせいで(つまり聞いたり見たりして引っかかったり不快な気分になった言動や態度はけして忘れない)、同世代女子が年嵩の同性に対してどのように評していたかをよく覚えているために、「女で若いというのは、小学生とか中学生とか高校生の事らしいゼー?(目を眇める)」という認識が抜けきれないのです。ついでに、八十や九十の女性からは六十代も七十代も「若い!」と言い切られてしまうので、相対的評価として以外の「若い」の基準がイマイチわかりません。
今はそうでもないけど、おたく文化創世期は同人女子は学生卒業と同時に廃業する感じだった気がしますよ。「漫画やゲームやアニメは子供のもの。いつまでも(耽溺して)やってるものじゃない」という風潮が同好の士の中でも強く。「日本人ならイイ年しても漫画好きでオッケー。だって海外にも認められる文化の一つだもん」になってから多少緩んできた気がするよね。後、一度卒業していた人が生活が安定した上にインターネットで家に居ながらにして同好の士を見つけやすくなった環境の変化もあって戻ってきやすくなった、というのもあるのかもしれない。 私は嬉しいです。 年を重ねると良い事もあります。上手くなっていく。上手くなってるというか、初期の頃の同人作品って、いい意味でも悪い意味でももっと詩的だった気がする。感触的に、思春期の頃の作品って、全体的にシリアスで暗いものが多い気がしませんか。キャラクターのモノローグ的だったり、ワンシーン的だったり。「大人」がつくった既成の概念や価値観に対する反発みたいなものもあるし、リアルの悩みや迷いやうっ屈が投影されて赤裸々に反映される感じもある。それが年食って自分の精神や生活が安定してくるとストーリー性が高まって一気にエンターテイメント化してくる感じがするの。だから長い事同人活動やってる人間にとって、初期の頃(中高生頃)につくった作品は「黒歴史」になりがちなのではないのか。
関係ないけど、同人の業界自体が成熟して全体的にレベルが底あげされてきてる感じがするわ。昔の方が味はあったような気もするが。これは同人作家の中からプロが排出されるようになり、小説家や漫画化、アニメーターを目指している人間の中に同人誌や同人作品で修行?する人が大量に出てきた事も関係あるかもしれない。コ○ケが巨大化し始めた頃は、プロ作家を目指す事と、同人活動をすることは似て非なる物というか全く別だった気がするのよ。「同人屋にウケるのと一般的に売れるものは全く違う」って感じだった。同人誌なんか作ってる暇があったら、投稿したり持ち込みするというか。ところが、同人界が現在のように肥大化し、同人作品が商業作品として出版されるようになったり、同人作品を見た出版社の人から依頼が来るようになると、同人マーケットにおいて人気や固定ファンを得る事は「同好の士(身内)の中で遊ぶ」というだけではなくて、「一般的に売れるかどうか」という指標のひとつにもなってきたわけ。というか、同人活動に携わる人々が以前よりはるかに増殖したために、同人的趣味趣向を持っている人間相手だけに限っても、一つのマーケットとして成立するようになってきたという事かもしれない。 だからそれまでは出版社の方だけを向いていたプロ志向の人の中でも、自分の描いたものは面白いのかどうか、受け入れられるのかどうか手ごたえを感じるため?に同人作品としても発表するパターンも出てきたし、上手い人が出てくると「自分もああいうのが描きたい」と思うようになり、自分に対する要求レベルもあがってくる。別にプロを目指してなくてもさ、「プロじゃなくてもアレだけ描けるんだから」って感じになるわけよ。一枚絵をモノローグで繋げていくだけみたいなものから、プロットを立て、構成を考え、構図を練る…といった調子で凝りに凝ってきてるわけよ。
別の要素としては、印刷所が同人印刷を受け入れるようになったと言うのもあるかもしれない。初期の頃は同人誌の印刷というのを嫌がる業者も多かったし、元々は出版社など業者や企業相手の印刷業者が多かった所為で最小一千部から〜とかだった為に弱小の同人ではとても手が出せなかった。今はオンデマンド印刷もあるし、何より、少子化によって中高生が小金持ちになった。これから親の格差が広がって子供の格差が広がると同人誌は金持ちの子の優雅な趣味になるかもしれないなーとも思わんでも無いが。 数万円あれば数十部から百部程度のオフセット印刷作品を作れるようになったわけよ。ある程度最初の元手があれば、基本的に売り切ってしまえば原価を回収可能な価格設定になっている同人誌なので、利益は出なくても大赤字にはならない。回収した料金で次の同人誌が作れるわけよな。これが始まると、あっちでもこっちでも誰も彼もがオフセット印刷するようになった。そしてオフセット印刷というのは、「何十ページ幾らから」という代金表になり、ページ数が多くなれば多くなるほど一ページあたりの単価が安くなるので、一冊の同人誌がだんだん太くなってきた。大体自力でのコピー製本では三十ページ前後が精一杯だろう。
むしろ今となっては、自由に使えるコピー機や印刷機を自分で持ってない限り、業者に依頼してのオフセット印刷の方が安上がりかもしれないと思う。大体白黒コピーがコンビニで一枚10円なので、十五枚に両面印刷したらそれだけで三百円になる。表紙を硬めで綺麗な別の紙にしようとすれば、一枚が何十円かはするわけで、それにカラー印刷でもしようものなら、高々二三十ページの本が、原価を回収するためには五百円近くになるかもしれない。ちなみにここに原稿用紙代とトーン代金などは入ってないので、正確には原価とはいわないんだろうけれども、同人作家は利益が出ない限りは納税もせずにノーマルに大赤字である事を受け入れているので、そんなに細かくはやってないような気がする。描くところまでは趣味でやってるので自費で。他人に渡す為には印刷をせねばならず、印刷するためには印刷会社に料金を払わねばならないので、その料金を単純に冊数で割って切りのいい額を単価にしているのが殆どじゃないのだろうか。納税するようになったら細かくなるんだろうけど。
同人誌を指す「薄い本」という隠語があるわけですけれども、今となっては文庫本新書本サイズの同人誌だってぼろぼろあるわけです。400ページとかな。大体200ページを超える同人誌というものは千円を超えるわけですが、これを鑑みるといかに同人出版が一般出版物に比べて極少部数であるか、印刷会社が少部数で利益をどう出しているのかが、初期の頃に印刷会社が同人誌印刷を受けたがらなかったのはどういうわけかが、しみじみ察せられる気がしないでもない。しかし小規模の印刷会社であるならば、一回における依頼部数が一般的書籍や企業相手の印刷に比較して極端に少なく、大きな利益はあがらなくとも、各自が少部数でもトータルして大勢からの注文があり、しかも以前はほぼ年に二回しかなかった同人誌印刷ラッシュが、専門の企画会社が全国で即売会イベントを運営するようになって年に何回も小刻みで繁盛記が来るようになると、これで商売が成り立つようになってきたのだろうか……などと考える。
しかもオフ本を大量に目にするようになった同人作家達は、印刷や装丁に目が利くようになってきたために、同人作家向けの印刷におけるサービスや料金もさまざまになってきました。何しろ、同人市場というものは作り手と売り手と買い手が非常に近く、密にコミュニケーションをとっているので不穏な噂(例:あそこは遅い上に雑だ。応対の感じが悪い)や良い評判(例:安くて速くてきれいで親切)は、口コミであっという間に広まります。次のコ○ケ時には同人屋から総スカンを食らうなんて事も当たり前に生じるわけです。大手の超美麗な同人誌を出している作家さんが、あそこが贔屓、ここの印刷所はとっても親切、○○のカラー印刷は凄く綺麗、××は何分目の印刷から○パーセントオフで助かります、なんてあとがきやブログで口走ったら、「まあ素敵!」と即座にチェックされます。見ている人間と作っている人間がほぼ被っているか、非常に近しいので宣伝効果がとてつもなくダイレクトです。普通に真面目に仕事をしてるだけで広告費無料で勝手に宣伝しまくってくれる。なんと競争し甲斐のある緊張感あふるる市場であったろうか。
昔昔、某ベストセラーが日本で出版された頃、殆ど無名であった出版社が依頼した印刷会社はやはり小規模であったため、大量の注文をこなせずに本屋同士で限られたパイの奪い合いになったり、印刷製本ミスをずたぼろに出して大量の回収本を出したりしたわけですが、そんな事は一般人は知らずに店頭に積まれた書籍や売り切れ続出を見て「へー、今売れてるんだー」で生きていきます。しかしそんなような裏っぽい会話を印刷業にも出版販売業にも関わりのないパンピー(同人作家)が熱く交わしているというのは、傍目になかなか面白いものがありました。今は同人屋相手の印刷会社もある程度取捨選択され、一定レベル以上が残ったような感じがある。「あそこは二度と使わねえ!」みたいな話はめったに聞かなくなった気がする。
その分、昔みたいな素朴な、コアな同人誌は減った気がするよな。減ったというか、増えてないだけかもしれないが。これは同人界を担う年齢があがってきているという点とはまた別に、「こういうものがいい」という価値観やセンスにおいて一般的なものを持つ人、一昔前ならばパンピーが大量に流入してきた結果であるとも考えられる。
まあプロが上手いのは確かなのよな。今でもやっぱりレベルは違う。でも私、上手であればそれでいいとは思わないし。ぐだぐだ書いてきて、だんだん資本論とか思い出したわけですけれども。大規模工場において集められた労働者が集団で作業をする事によって社会的な動物である人間としてのサガにより個人間の競争によって技術力と生産力があがり、同時に集団として行動する訓練を受けるとかあのあたり。うん、即売会に参加するものや大ジャンルに属するものは集団として行動する為の訓練を受けるな。いや、ある意味で同人界は当初から共産主義社会と言えるきがする。皆で作って皆で消費。商売にして利益をあげると陰口をたたかれる(笑)。
しかし同人界は資本主義には屈しないべき。それでこそ同人。「がたがたうるせー!意味があろうが無かろうが需要があろうが無かろうが好きだから作るんじゃ!」の一線をかたくなに守るべきと思います。そう、だから「欲しい人はいないだろうから作らない」「見たい人はいないだろうから書かない」がものすごく切ない。商売してるんじゃないんだからと思ってしまって。コピー本にして、欲しいと言われたら印刷する、だっていいじゃないのさ!
ちなみに自分がやらない理由は、自分が作るより人が作ったものを見たい気分が強いのと、同人誌を作って売るには元手がいる事と、そしてウェブ上で公開するには成人向き指定におけるサーバー規約がうるさい事です。恣意的な解釈が可能な規約にはビビって自主規制するだろうが(大分真剣に探した事がある)。
……気がつくと またこういうどうでもいい事をだらだら打っていました。 大体私はこういう事は直感で考え、感覚で喋ったり書いているので、よくよく考えたり、ちゃんと統計とったり正確なデータを集めたり裏を取ったりなんかしません。だから頻繁に嘘八百をついていると思います。勘違いも大量にあります。 でもおしゃべりってそういうものでしょ!? そして忘れかけていた言われてから四年後に読んだヴィンチ村の爺さんの話に戻ります。
いつもたいがいそうなのよ。
例:「こういうものを探してるから、もし見つけたら買ってきてくれ」と言われたので、それから五年ぐらいして見つけたので買っていったら、「なんでこんなものをくれるの?」と言われた。
酷い! どうして途中で「あの話はもういいよ。もう探してないよ」と言ってくれなかったんだ!
私はコスモスドリーム的に生きているんで、十年は夢のようで百年は夢また夢で千年は一瞬の光の矢です。てゆうか小説なんていつ読んだっていいじゃんかよーといふ気持ちで胸がいっぱいなのですが、でも実はそうでもないかもしれんなと思わんでもない。流行に乗るか乗らないかという問題ではなく。ただ小説や映画やドラマの中には、その時点での世間の常識だとか、世間でよく知られている情報、殆ど知られていない情報をどのように扱うかという部分での試みもあるのだろうと思われるわけよ。ついでに自分の年齢だとか経験値とかによるものもあるんかもしれない。
例えば、ヴィンチ村の爺さんの暗号に関すれば、私の記憶が確かならば、あれが流行った頃は検証ものや解説ものやらをテレビで放送したり、誤りを指摘する本やらなんやらも山ほど出たように思う。こういう意味で、人々が想像しなかった方向に視線を持って行ったとか、曲解してみせたという意味で、その創作物が世に出た時期というものは重要であると思われる。かつて発禁処分になった猥褻な小説だって、今読んだら少女漫画の方がよほど露骨だったり非道徳的だと思われるが、その当時に読んだらめくるめいたと思われるわけよ。流行りきって飽きられたり、そこに描かれているものや、その表現方法が常識化してしまう前に接しなければ面白くないものもきっとあるわけよな。
で、そのめくるめく大騒動の時期を「鼻で笑っちゃうからぜひ読んで」と薦められながら「そのうち読むわ」と華麗にスルーした私の感想は、「……フツーに面白いんじゃないの?」だった。むしろ内容が嘘満載だろうがなんだろうが、関係ないのではないかと思わんでも無い。推理小説ではないというのはわかる。犯人わかってるし。でも謎は無いでもなく、登場人物は謎を解こうとしているのでミステリーではあるんだろうな。私がこういう登場人物が補足情報を語りまくる話に求めるのは、「それらしさ」なので、合格じゃないかと思う。この辺は漫画やラノベや二次創作に求めるものと同じです。「らしさ」が重要です。 事件もぽんぽん起こるし、普通に読みやすいんじゃないか? 現実にあるものをネタに持ってくる話は大好きです。だから推理小説が好きとも言える。いい加減でも間違っててもいいから延々とうんちくをかます話が大好きです。間違ってると気になる人もいるのかもしれないけど、私は何に関しても専門的な知識は皆無で、雑学的な本も小説と同じようなスタンスで読むので一向に気になりません。空想科学読本なんかもとても好きなタイプです。読んだ事がないが、電車で隣に座った中学生男子が読んでいました。空想科学読本の誤りを指摘した本もあったと思うが、同じ作品をネタに二度も三度も楽しめるなんてお得な感じがします。
そして私は幼少期から秘密基地とか秘密組織とか地下組織とかが大好きなのであった。それだけで実に楽しそうでたまりません。皆で内緒で集まって秘密の何かをごそごそやっている。それだけで障子に穴をあけてのぞき見したくなります。袋閉じのように隠されると余計見たくなるものです。
そういえば、次に天使と悪魔だかを読もうと思ったら貸し出し中だった為にナチの亡霊というやつを読んだんですけれど、これも秘密組織や秘密基地が幅を利かせていて楽しいです。キャラと展開が八十年代のアニメっぽくて読みやすい。うんちくをかます為なら死にかけていても途端に光り輝くマッドサイエンティストとか個人的に大好きですが、うんちく量が足りない気がする。もっと無駄なうんちくを縦横無尽に重厚に張り巡らせてもいい。というか、うんちく量が多いと単純に普段小説をあまり読まない私がたいそう読みやすいのです。
「ライトノベルが読みにくいなんて年なのかしら?」とぼやいて、「年は関係無いんじゃないの?」と言われつつ、逃避を続けています。我慢すれば読めるんだけど、流れるように読めない。矯正ギプスでもつけているかのようにギシギシ引っかかるのでシンドイというか。しかし流れるように読めればそれでいいわけでもないのよな。文章が上手くても流れるように読めすぎて、まるでチャリのチェーンが外れたかのように回転は簡単にするのだが漕いでる感じがまるでしない、カシュカシュカシューって時もあるのですよ。
延々とやさい○ようせいを見てたんだけど なんだこのレタス めっちゃめんこいわ。
とうがらしとはらぺーにょも好きだ。
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